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【チャプター】00:00 オープニング02:43 電話交換手04:55 紙芝居屋06:47 貸本屋08:21 女衒09:49 活動弁士11:43 サンドウィッチマン13:32 汚穢屋15:01 氷売り17:16 エレベーターガール19:19 タイピスト20:36 エンディング
15:01 いまでも繁華街なら特殊飲食店など向けで氷屋が生き残ってますね、あと魚市場の近くとか
昭和39年生まれですが、まだ小3ぐらいまで紙芝居屋さんが公園や学校のそばに来てましたよ😊小遣いもらってるヤツらが集まってました。
サンドイッチマン…チンドン屋も入るかな…。楽しく観させて頂きました。チャンネル登録させて頂きます。🙇
夜の盛り場でギターを持って流行歌を歌いお金をもらう「流し」という職業もありました。
路上ライブのお店バージョンみたいなものですか?僕も近くのバーミヤンやココスでやってみようかな?🎤カラオケ代も浮くし 野球場とかで歌うのも楽しそうかも😆♪
北島三郎さんや五木ひろしさんは歌手でデビューするまでは流しをやっていました。
@@藤原豆腐店-r7z バーミヤンとかに断られて追い出させると思うよ。
昔の映画見ればいくらも出ているよ。小林旭とかが裏町酒場やキャバレーとかで歌ってるから。
昭和40年ごろまで、母(昭和5年生まれ)の幼馴染の男性が、ストリップ劇場のサンドイッチマンをしていました。背が低く、片足が短くて、一歩歩くたびに頭が左右に揺れる人でした。今なら軽い障害ですが、当時はそういう障害があってしかも学歴もない人にはサンドイッチマンみたいな仕事しかなかったようです。当時人口50万人の都市でしたが、サンドイッチマンはほかに見かけたことがありません。
私は50代前半の男性ですが子供のときに住んでた家は汲み取り式便所であってよくバキュームカーが来ていて汲み取り作業中に臭い匂いが漂って来たのを思い出します、現在は水洗式便所になってからバキュームカーを見なくなりましたね。
川口育ちです。紙芝居屋は昭和五十年以降でもありました。水飴や、焼きそばを売ってました。ラムネを買って、三角形のブリキの板でラムネを穿り倒して大きな穴を開けるとなにかもらえました。紙芝居屋で何も変えない子供は追払われました。型屋というのもありました。TVや漫画のキャラを模した、素焼きの型を買って粘土を型に詰めて色の着いた粉を振りかけて作品の完成度によって、型屋のおっちゃんに採点してもらう。点数を集めて大きな型を(確か非売品だった)もらうという射幸心を煽った商売だった記憶です。型屋の方が先に消えた記憶です。
そういえば粘土を型にはめて、というのありましたよね。すっかり忘れていました。ここで言われていなかったら絶対に記憶にあがってくることはなかったと思う。それでもはっきりどういうものかは思い出せないのですが。
エレベーターガール懐かしいなぁ、20歳だけど小さい時はまだ高島屋に居た
俺の知り合いに、昔ながらの紙芝居屋さんがいるよ⬅ガチ
20年前に海の家でバイトしてましたが、その時氷屋さんまだありましたね軽トラ運転してカキ氷用の巨大な氷の塊を早朝買い付けに行くのが日課でした
J隊では今でも電話交換手いますよ。市ヶ谷では女性が普通の駐屯地では男性か女性が回線を繋いでくれます。
こうなると電話交換手なのか単なる代表受付なのか区別つきませんね
活動弁士はしゃべりのプロだったため、無声映画が消えてからは漫談家などに転向した方が多かったようです。有名どころでは『漫談』という言葉を生み出した大辻司郎や、漫談に留まらない多彩な才能を発揮し、マルチタレントの元祖ともされている徳川夢声などがいます。なお、動画内で紹介されていた自殺された活動弁士は、黒澤明の実兄である須田貞明だと思われます。
タイピスト見て思い出しましたが、昔はキーパンチャーという女性花形職業がありました。昔のコンピュータへのデータ入力はHDDや磁気テープの前は紙テープに穴を開けたものであり、キーパンチャーはタイプライターみたいな機械に手で打ち込んでました。フーテンの寅さんの妹さくらさんの独身時代の職業はキーパンチャーでしたw
スーパーでバイトしてるんですけど、副店長が背中にラミネート加工した恵方巻きの広告を貼り付けながら仕事してました。サンドウィッチマンを思い出しました笑
戦後の闇の職業だろうけど昭和50年位かな、新宿みたいな大きな駅には体が不自由な人がアコーディオン弾いてる物乞いがまだいた。親にお金をあげようよと言ったら、詐欺だからあげちゃいけないと言われた。警察官が横に立ってて見張ってることもあった。それから少ししたらそういう人は全く見かけなくなった。
日本はサンドイッチマンとうより、チンドン屋と呼ばれていた。
サンドイッチマンとチンドン屋は別物です。サンドイッチマンは2枚の看板を体の前後につけて主に一人で歩く仕事ですが、チンドン屋はグループで派手な服装(和服が多い)をして鐘や太鼓、サキソフォンなどを演奏して人目を惹きながらビラ配りなどをする仕事です。鐘の音がチン、太鼓の音がドンと聞こえるのでチンドン屋と言うのです。
現役の活動弁士は「数十人」ではなく「十数人」です。坂元頼光氏、山崎バニラ氏などは声優としても活躍されているので知らずに耳にした方もいらっしゃると思います。
名古屋のテレビ塔はエレベーターが手動開閉式だから今もエレベーターガールがおったなあ
人気活動弁士だった徳川夢声は、東京帝大教授の辰野隆とともに昭和天皇に招かれ、皇居でお話をしたそうです。
解りやすい 聞きやすい 興味を持ちやすい ネーミングにしてる からつい動画見て見たいと思います。 (人によるかと思いますが)私は面白いし解りやすい写真付きで良いと思います。
紙芝居の演目にタイガーマスクは無いw マンガ雑誌「ぼくら」の連載が始まったのは1968年ですでにテレビや漫画雑誌も媒体として家庭に馴染んでいました。
ス○リップ劇場も風前の灯火、関東にはまだ複数館あるけど…我が九州には小倉の1館のみ。
そう言えばエスカレーターガールもいたよなぁ・・
サンドイッチマンは今でも居ますよ街角でモデルハウスとかマンションの案内看板持って一日中座ってるバイトの人あれはサンドイッチマンですよね
つげ義春先生の漫画は良いですな~✨
エレベーターガール は地域によってはまだいるのかも…デパート受付は健在ですね。昔パルコに「エレベーターボーイ」がいてびっくりした記憶が。ちなみに名古屋パルコでした。エレベーターガールよりも、バスガールの方がしられて無いよね。今は録音の行き先案内が流れるし、機械が整理券を出すけど昔は全部バスガールの仕事だったらしい。でも女の人を乗せると防犯の問題があって夜遅くバス🚌を走らせられないから今の形に。今ではバスガール=バスガイドで観光バスのイメージが強い気がする。
紙芝居屋、自分の子供時代でもまだギリありました(昭和50年代)紙芝居で釣られてお菓子買って食べてましたよちなみにお菓子買わない子は追い払われてました自分は型抜き菓子が好きで買ってやってました
サンドイッチマンで、川に飛び込んだ方。私、知ってます。
電話交換手は昭和の時代では番号案内、104番にかけると相手の電話番号を探し出してくれる人が出てくれました。今ではインターネットがあるので需要がありませんが。氷屋は店舗経営ではまだかなり残っています。かき氷機の氷は大きな氷でなくてはいけないので。タイピストはなくなりましたが、国会での議事録作成は速記者がおこなっています。独特の文字で発言を瞬時に書き取りをおこなうことができます。一時期速記者が女性の憧れの職業としてもてはやされたこともありました。そのため、雑誌の裏表紙に女性の副収入として速記者養成講座など通信教育の広告が印刷されていました。
ワタシはリアルタイムで紙芝居はしらないけど、やっぱり昭和ならではだよね。
タイガーマスクは昭和40年代初頭、漫画雑誌連載なので紙芝居で演じられてたのは不自然(家庭用の紙芝居は売られていた)。少年タイガーという作品があるみたい、なので混同かな?発声映画って書いてトーキー(またはトーキー映画)って云った方が…。
祖母の家は昔ぼっとんだったので、子供の時は毎日使っていました。
地元が水が流れにくいとこなんだけどまだ大体の家ボットンだし汚穢屋みたいな業者いるよ
ポン菓子屋、出来上がりの時「ドカ〜ン」となるやつ。今はできんな〜
知り合いにエレベーターガールだったお婆さんがいる。でも、下品な私には無理な職業だと思った。
私の地元のデパートには、いまだにエレベーターガールが存在しています。
14:17 さては女子高生じゃないな……!?
そう言えば昭和50年代、年上の電話交換手と付き合ってたなあ。今となっては貴重な体験だったのだろうか?(笑)職場は神田辺りで、確かに24時間態勢だから勤務シフトがややこしかった。
電話交換手のところですが、電磁式の場合は100番をダイヤルするのではありません。やっぱりダイヤルはないのです。受話器を取り、電話機の右側に付いている回転式のハンドルをクルクル回して電話交換手を呼ぶのです。僕が小さかった頃、1970年代の中盤までは、愛知県豊田市の田舎でもそうした方式で電話がつながっていました。ちなみに、日本全国が電話の自動化、つまり、電話交換手を通じて電話をかけることがなくなったのは、1979年のことです。
おわいやさんは、ただ汲み取るわけではなく便槽の消毒もしてくれましたね。ただ臭いが広がるので、各家庭で臭い消しに苦労したようです。又、初期のおわいやさんはお得居さんにお土産の野菜をくれたそうです。タイプもアルファベットタイプなら文字数が少ないのですが、日本語タイプはひらがなカタカナ常用漢字等、文字数が多くて本当に今のパソコンで入力する所の騒ぎではなかったようです。企業や役所も、タイピストを抱えて、重要書類の清書をしたと先輩に聞きましたね。発売当初のワープロもこの日本語タイプを真似て作られて庶民の手を出せる値段ではありませんでした。その頃、キーボートで打ち込めるようになり、お値段も落ち着きました。
地方都市には、いまだにトラックでの“おわいやさん”、つまり汲み取り屋さんが活躍していますよ。ウチも2ヶ月にいっぺん汲み取り業者が来てくれます。
私の住んでいたところでは昭和30年代末まで、郊外の農家の人が馬車に桶と野菜を積んでやってきて、汲み取ったお礼に野菜を置いて行ってましたよ。その後バキュームカーになったら逆にお金を取られるようになったので、不満だった人も多かったようです。
このチャンネルおもしろいけど細かい間違いが多い。タイピストは和文タイプと英文タイプをごちゃまぜにしているような感じ。また昭和20年代に一般家庭で白黒テレビを持っていたところなど極めて稀。
タイプライターも、和文タイプと英文タイプがあって、構造が全く違います。特に、和文タイピストは、昭和の終わりぐらいまで、国会で働いていたはずです。この辺の紹介もお願いします。
うちは未だにボットン便所(´・ω・`)
何だか最後の方は無理矢理感があるなあ。特にタイピストなんて、昭和40年代ころまでずっと花形であり続けたでしょう。確かに、タイピストは「職業」としてはオワコンになったけど、動画で言っているように、「誰でもワープロやパソコンで文字を打つことが出来るようになり」って、そんなの90年代になってからで、「あっけなく消滅した」なんて衝撃的な言い方するようなことでもない。動画としては、「こんなに人気で収入も高かった職業でも時代の変化であっという間に失業者!」みたいなインパクトを狙ってるんだろうけど、そういうのは女衒とか活動弁士とか汚穢屋くらいで、その他は結構徐々に少なくなっていったり、「この商売は俺の代で終了!」って感じで、貸本屋や紙芝居屋、氷売りなんかは、割りと年金貰う歳になるまでほそぼそとでも続けてられたんじゃないか。事情を知らない人をいたずらに刺激するような姑息な表現は止めて、もっと真摯で誠実な態度で制作して欲しい。
セルフレジ大嫌いです。割引あるなら分かるけど自分で袋詰めと勘定させられて、得しているのは経営者だけ。オマケに今までは必要人員だったレジ店員さんの雇用無しで雇用の減少に一役。 話は変わりますが子供の頃スーパーで紙袋にピッタリと隙間無しに詰め込んであったの見て"スゲー神技だ"と思ってた。
セルフレジ嫌いは同意wタバコやお酒を買う際に結局店員さんを呼ばなくてはならないのでめんどくさい😂
電話交換手の仕事は完全にはなくなってませんよ。大企業や大きい病院や公共施設等には、電話交換手が居る所もあり代表電話に掛けると電話交換手(オペレーター)が出て、通話したい相手の部署や人に繋いでくれるんですよ。時給は、地方でも1000円以上あったはずです。雇用形態は、派遣会社からの派遣の場合もあれば、その組織のパート職員だったり正規職員だったりと様々ですが、大抵はパート職員ですね。定時運行のバスガイド(車掌)さんもなくなってますね。観光バスのバスガイドは残ってますが。
【チャプター】
00:00 オープニング
02:43 電話交換手
04:55 紙芝居屋
06:47 貸本屋
08:21 女衒
09:49 活動弁士
11:43 サンドウィッチマン
13:32 汚穢屋
15:01 氷売り
17:16 エレベーターガール
19:19 タイピスト
20:36 エンディング
15:01 いまでも繁華街なら特殊飲食店など向けで氷屋が生き残ってますね、あと魚市場の近くとか
昭和39年生まれですが、まだ小3ぐらいまで紙芝居屋さんが公園や学校のそばに来てましたよ😊小遣いもらってるヤツらが集まってました。
サンドイッチマン…チンドン屋も入るかな…。楽しく観させて頂きました。チャンネル登録させて頂きます。🙇
夜の盛り場でギターを持って流行歌を歌いお金をもらう「流し」という職業もありました。
路上ライブのお店バージョンみたいなものですか?
僕も近くのバーミヤンやココスでやってみようかな?🎤カラオケ代も浮くし 野球場とかで歌うのも楽しそうかも😆♪
北島三郎さんや五木ひろしさんは歌手でデビューするまでは流しをやっていました。
@@藤原豆腐店-r7z
バーミヤンとかに断られて追い出させると思うよ。
昔の映画見ればいくらも出ているよ。小林旭とかが裏町酒場やキャバレーとかで歌ってるから。
昭和40年ごろまで、母(昭和5年生まれ)の幼馴染の男性が、ストリップ劇場のサンドイッチマンをしていました。背が低く、片足が短くて、一歩歩くたびに頭が左右に揺れる人でした。今なら軽い障害ですが、当時はそういう障害があってしかも学歴もない人にはサンドイッチマンみたいな仕事しかなかったようです。当時人口50万人の都市でしたが、サンドイッチマンはほかに見かけたことがありません。
私は50代前半の男性ですが子供のときに住んでた家は汲み取り式便所であってよくバキュームカーが来ていて汲み取り作業中に臭い匂いが漂って来たのを思い出します、現在は水洗式便所になってからバキュームカーを見なくなりましたね。
川口育ちです。紙芝居屋は昭和五十年以降でもありました。水飴や、焼きそばを売ってました。ラムネを買って、三角形のブリキの板でラムネを穿り倒して大きな穴を開けるとなにかもらえました。紙芝居屋で何も変えない子供は追払われました。型屋というのもありました。TVや漫画のキャラを模した、素焼きの型を買って粘土を型に詰めて色の着いた粉を振りかけて作品の完成度によって、型屋のおっちゃんに採点してもらう。点数を集めて大きな型を(確か非売品だった)もらうという射幸心を煽った商売だった記憶です。型屋の方が先に消えた記憶です。
そういえば粘土を型にはめて、というのありましたよね。すっかり忘れていました。ここで言われていなかったら絶対に記憶にあがってくることはなかったと思う。それでもはっきりどういうものかは思い出せないのですが。
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俺の知り合いに、昔ながらの紙芝居屋さんがいるよ⬅ガチ
20年前に海の家でバイトしてましたが、その時氷屋さんまだありましたね
軽トラ運転してカキ氷用の巨大な氷の塊を早朝買い付けに行くのが日課でした
J隊では今でも電話交換手いますよ。市ヶ谷では女性が普通の駐屯地では男性か女性が回線を繋いでくれます。
こうなると電話交換手なのか単なる代表受付なのか区別つきませんね
活動弁士はしゃべりのプロだったため、無声映画が消えてからは漫談家などに転向した方が多かったようです。
有名どころでは『漫談』という言葉を生み出した大辻司郎や、漫談に留まらない多彩な才能を発揮し、マルチタレントの元祖ともされている徳川夢声などがいます。
なお、動画内で紹介されていた自殺された活動弁士は、黒澤明の実兄である須田貞明だと思われます。
タイピスト見て思い出しましたが、昔はキーパンチャーという女性花形職業がありました。昔のコンピュータへのデータ入力はHDDや磁気テープの前は紙テープに穴を開けたものであり、キーパンチャーはタイプライターみたいな機械に手で打ち込んでました。フーテンの寅さんの妹さくらさんの独身時代の職業はキーパンチャーでしたw
スーパーでバイトしてるんですけど、副店長が背中にラミネート加工した恵方巻きの広告を貼り付けながら仕事してました。
サンドウィッチマンを思い出しました笑
戦後の闇の職業だろうけど昭和50年位かな、新宿みたいな大きな駅には体が不自由な人がアコーディオン弾いてる物乞いがまだいた。
親にお金をあげようよと言ったら、詐欺だからあげちゃいけないと言われた。
警察官が横に立ってて見張ってることもあった。
それから少ししたらそういう人は全く見かけなくなった。
日本はサンドイッチマンとうより、チンドン屋と呼ばれていた。
サンドイッチマンとチンドン屋は別物です。サンドイッチマンは2枚の看板を体の前後につけて主に一人で歩く仕事ですが、チンドン屋はグループで派手な服装(和服が多い)をして鐘や太鼓、サキソフォンなどを演奏して人目を惹きながらビラ配りなどをする仕事です。鐘の音がチン、太鼓の音がドンと聞こえるのでチンドン屋と言うのです。
現役の活動弁士は「数十人」ではなく「十数人」です。坂元頼光氏、山崎バニラ氏などは声優としても活躍されているので知らずに耳にした方もいらっしゃると思います。
名古屋のテレビ塔はエレベーターが手動開閉式だから今もエレベーターガールがおったなあ
人気活動弁士だった徳川夢声は、東京帝大教授の辰野隆とともに昭和天皇に招かれ、皇居でお話をしたそうです。
解りやすい 聞きやすい 興味を持ちやすい ネーミングにしてる からつい動画見て見たいと思います。 (人によるかと思いますが)
私は面白いし解りやすい写真付きで良いと思います。
紙芝居の演目にタイガーマスクは無いw マンガ雑誌「ぼくら」の連載が始まったのは1968年ですでにテレビや漫画雑誌も媒体として家庭に馴染んでいました。
ス○リップ劇場も風前の灯火、関東にはまだ複数館あるけど…我が九州には小倉の1館のみ。
そう言えばエスカレーターガールもいたよなぁ・・
サンドイッチマンは今でも居ますよ
街角でモデルハウスとかマンションの案内看板持って一日中座ってるバイトの人
あれはサンドイッチマンですよね
つげ義春先生の漫画は良いですな~✨
エレベーターガール は地域によってはまだいるのかも…デパート受付は健在ですね。昔パルコに「エレベーターボーイ」がいてびっくりした記憶が。ちなみに名古屋パルコでした。
エレベーターガールよりも、バスガールの方がしられて無いよね。今は録音の行き先案内が流れるし、機械が整理券を出すけど昔は全部バスガールの仕事だったらしい。でも女の人を乗せると防犯の問題があって夜遅くバス🚌を走らせられないから今の形に。今ではバスガール=バスガイドで観光バスのイメージが強い気がする。
紙芝居屋、自分の子供時代でもまだギリありました(昭和50年代)
紙芝居で釣られてお菓子買って食べてましたよ
ちなみにお菓子買わない子は追い払われてました
自分は型抜き菓子が好きで買ってやってました
サンドイッチマンで、川に飛び込んだ方。私、知ってます。
電話交換手は昭和の時代では番号案内、104番にかけると相手の電話番号を探し出してくれる人が出てくれました。今ではインターネットがあるので需要がありませんが。氷屋は店舗経営ではまだかなり残っています。かき氷機の氷は大きな氷でなくてはいけないので。タイピストはなくなりましたが、国会での議事録作成は速記者がおこなっています。独特の文字で発言を瞬時に書き取りをおこなうことができます。一時期速記者が女性の憧れの職業としてもてはやされたこともありました。そのため、雑誌の裏表紙に女性の副収入として速記者養成講座など通信教育の広告が印刷されていました。
ワタシはリアルタイムで紙芝居はしらないけど、やっぱり昭和ならではだよね。
タイガーマスクは昭和40年代初頭、漫画雑誌連載なので紙芝居で演じられてたのは不自然(家庭用の紙芝居は売られていた)。
少年タイガーという作品があるみたい、なので混同かな?
発声映画って書いてトーキー(またはトーキー映画)って云った方が…。
祖母の家は昔ぼっとんだったので、子供の時は毎日使っていました。
地元が水が流れにくいとこなんだけどまだ大体の家ボットンだし汚穢屋みたいな業者いるよ
ポン菓子屋、出来上がりの時「ドカ〜ン」となるやつ。今はできんな〜
知り合いにエレベーターガールだったお婆さんがいる。
でも、下品な私には無理な職業だと思った。
私の地元のデパートには、いまだにエレベーターガールが存在しています。
14:17 さては女子高生じゃないな……!?
そう言えば昭和50年代、年上の電話交換手と付き合ってたなあ。
今となっては貴重な体験だったのだろうか?(笑)
職場は神田辺りで、確かに24時間態勢だから勤務シフトがややこしかった。
電話交換手のところですが、電磁式の場合は100番をダイヤルするのではありません。やっぱりダイヤルはないのです。受話器を取り、電話機の右側に付いている回転式のハンドルをクルクル回して電話交換手を呼ぶのです。
僕が小さかった頃、1970年代の中盤までは、愛知県豊田市の田舎でもそうした方式で電話がつながっていました。
ちなみに、日本全国が電話の自動化、つまり、電話交換手を通じて電話をかけることがなくなったのは、1979年のことです。
おわいやさんは、ただ汲み取るわけではなく便槽の消毒もしてくれましたね。
ただ臭いが広がるので、各家庭で臭い消しに苦労したようです。又、初期のおわいやさんはお得居さんにお土産の野菜をくれたそうです。
タイプもアルファベットタイプなら文字数が少ないのですが、日本語タイプはひらがなカタカナ常用漢字等、文字数が多くて本当に今のパソコンで入力する所の騒ぎではなかったようです。企業や役所も、タイピストを抱えて、重要書類の清書をしたと先輩に聞きましたね。発売当初のワープロもこの日本語タイプを真似て作られて庶民の手を出せる値段ではありませんでした。その頃、キーボートで打ち込めるようになり、お値段も落ち着きました。
地方都市には、いまだにトラックでの“おわいやさん”、つまり汲み取り屋さんが活躍していますよ。ウチも2ヶ月にいっぺん汲み取り業者が来てくれます。
私の住んでいたところでは昭和30年代末まで、郊外の農家の人が馬車に桶と野菜を積んでやってきて、汲み取ったお礼に野菜を置いて行ってましたよ。その後バキュームカーになったら逆にお金を取られるようになったので、不満だった人も多かったようです。
このチャンネルおもしろいけど細かい間違いが多い。タイピストは和文タイプと英文タイプをごちゃまぜにしているような感じ。また昭和20年代に一般家庭で白黒テレビを持っていたところなど極めて稀。
タイプライターも、和文タイプと英文タイプがあって、構造が全く違います。特に、和文タイピストは、昭和の終わりぐらいまで、国会で働いていたはずです。この辺の紹介もお願いします。
うちは未だにボットン便所(´・ω・`)
何だか最後の方は無理矢理感があるなあ。
特にタイピストなんて、昭和40年代ころまでずっと花形であり続けたでしょう。
確かに、タイピストは「職業」としてはオワコンになったけど、動画で言っているように、「誰でもワープロやパソコンで文字を打つことが出来る
ようになり」って、そんなの90年代になってからで、「あっけなく消滅した」なんて衝撃的な言い方するようなことでもない。
動画としては、「こんなに人気で収入も高かった職業でも時代の変化であっという間に失業者!」みたいなインパクトを狙ってるんだろうけど、
そういうのは女衒とか活動弁士とか汚穢屋くらいで、その他は結構徐々に少なくなっていったり、「この商売は俺の代で終了!」って感じで、
貸本屋や紙芝居屋、氷売りなんかは、割りと年金貰う歳になるまでほそぼそとでも続けてられたんじゃないか。
事情を知らない人をいたずらに刺激するような姑息な表現は止めて、もっと真摯で誠実な態度で制作して欲しい。
セルフレジ大嫌いです。割引あるなら分かるけど自分で袋詰めと勘定させられて、得しているのは経営者だけ。オマケに今までは必要人員だったレジ店員さんの雇用無しで雇用の減少に一役。 話は変わりますが子供の頃スーパーで紙袋にピッタリと隙間無しに詰め込んであったの見て"スゲー神技だ"と思ってた。
セルフレジ嫌いは同意w
タバコやお酒を買う際に結局店員さんを呼ばなくてはならないのでめんどくさい😂
電話交換手の仕事は完全にはなくなってませんよ。
大企業や大きい病院や公共施設等には、電話交換手が居る所もあり
代表電話に掛けると電話交換手(オペレーター)が出て、通話したい相手の部署や人に繋いでくれるんですよ。
時給は、地方でも1000円以上あったはずです。
雇用形態は、派遣会社からの派遣の場合もあれば、その組織のパート職員だったり正規職員だったりと様々ですが、大抵はパート職員ですね。
定時運行のバスガイド(車掌)さんもなくなってますね。
観光バスのバスガイドは残ってますが。