部活中の事故で寝たきりに 奇跡の日々と辛い決断 娘が遺したメッセージを胸に迎える5回目の命日 (23/09/24

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  • เผยแพร่เมื่อ 20 ม.ค. 2025
  • 当時中学1年生だった娘は、部活中の事故で寝たきりに…家族の生活を一変させた事故からまもなく20年。そして「さよなら」から5年。不信感や悲しみ絶望の淵で娘が積み重ねた、小さな奇跡に両親は救われてきたという。
    <9月20日 愛娘の33回目の誕生日>
    亡き娘の仏壇に手を合わせる両親。母は「娘が亡くなってからの5年というのは、コロナ禍も入っていたので、あっという間に通り過ぎてしまった感じ」と振り返る。父は「つい娘の部屋にいくと”侑子元気か?”なんて、思わず声出しそうな感じ」と話した。
    <家族の生活を一変させた”あの日”>
    笑顔がよく似合う車谷侑子さん。2003年10月18日、事故が起きた。母はその日の朝の様子をこう話した。「お昼はお腹空いて帰ってくるなと思っていたので、何かそんな大きな事故が起きるとかそういうことは感じないような、すごく気持ちのいい朝で元気よく出ていって」
    <部活中の事故 娘は寝たきりに>
    当時、福島県須賀川市の中学1年生だった侑子さん。柔道の部活中に頭を強く打ち意識を失った。一命はとりとめたものの、寝たきりの状態に。当初、学校側から事故の詳細について知らされなかった。父は「ここで引き下がったのでは、今後何があっても全て隠ぺい・捏造されてしまう。本当に行政に関しては、不信の塊だった」
    と当時の心情を語る。
    <逸脱した暴行 学校の過失も認める>
    事故の真実を知りたいと起こした裁判。判決では、侑子さんを投げた元部長の行為を「指導の範疇を逸脱した暴行」と認定。安全配慮を怠っていた学校側の過失も認めた。当時、裁判後の会見で父は「娘は人の悪口っていうのは非常に嫌いな性格だったので、勝った・負けたという言葉で表現はしたくないと思ってます。ただ私たちの言い分が認められたのだと。だから、お互い喜ぼうという風な感じで報告しようと思っています」と話した。
    <生きるだけで精一杯 介護の日々>
    事故後、仕事を辞めた母・晴美さん。24時間付きっ切りの「介護の日々」が始まった。母は「娘とともに一緒に生きていくだけで精一杯。娘のそばで弱音を吐いたりすると、気持ちが伝わっちゃうので、気を付けるようにはしていました」と当時を語る。
    <車いすでの外出も増える>
    「ゆっくりでいい、少しずつ前に」そんな両親の思いが届いたのか、徐々に話しかけると顔を動かして反応したり、車いすに乗って出かけることも増えていった。母は「一番の思い出は、修学旅行。私も楽しかったけど、娘の表情を見ていても本当に楽しかったと思います」と振り返る。
    <事故から4年後 修学旅行へ>
    事故から4年後、中学校で経験出来なかった修学旅行へ。父は「行くまでには、いろんな人の協力があった」と話す。大阪で過ごした修学旅行の3日間は、母娘にとってかけがえのない時間となった。母は「本当によく笑った3日間だったので、とっても楽しかった」と話した。
    <久しぶりの高熱 病院へ>
    体の自由を奪われて15年を迎えようとしていた2018年9月12日。その日、侑子さんは久しぶりに高熱を出した。「かかりつけの病院に二人で運んだんですよ。それが最後のドライブになってしまったんですけどね。主人と3人のドライブ」と母は語る。
    <離れようとすると娘が涙>
    病院に着くと、入院の手続きに追われた。
    「娘に、お父さんに電話をしてくるからちょっとだけ待っててねって声をかけたら娘がぽろぽろって涙をこぼすんですよ。何泣いてるの大丈夫だよ、すぐ戻ってくるから大丈夫だからって言って、廊下に出て。連絡入れて戻ってきたら、呼吸していなかったので。ほんのちょっとなんですよね。ほんのちょっとの出来事なんですけど、離れるときに娘は察してたのかも知れないですね。行かないでって言いたかったのかもしれないですけど」
    <辛い決断 「侑子、ごめんな」>
    救命措置を受ける娘を前に、父・政恭さんは決断を迫られた。
    「これ以上娘を傷つけさせたくないという思いから、最後は娘の耳元で”侑子、ごめんな”って一言言って。出来ればもう娘の所に早く行って謝りたい。親である自分が引導を渡してしまった。15年間娘とは会話無かったので、積もり積もった話がしたい。だからこの世には未練はないと思ったんですけど、自分1人でここから逃げ出す訳にもいかないし」
    <侑子さんが起こした奇跡>
    2023年9月12日。5回目の命日に、手を合わせていたのは侑子さんの音楽療法に携わってきた近藤美智子先生。音楽療法を続けると「ずっと全く動かなかった脳波が、急にある音で動き出して。その時は感動した。やっぱりご両親が、ずっとそばに寄り添って、だから侑子ちゃんも頑張ろうっていう気持ちになったのではないか」と近藤さんはいう。
    <侑子さんが繋いだ縁>
    近藤さんはじめ、ヘルパーや全国から応援してくれた人たちは、侑子さんが繋いだ縁。近藤さんは「侑子ちゃんに出会って、いろんな力もらえた。生きる力もらえた。それを今度、多くの人に生きる力を伝えたい」と語る。
    <娘が遺したものを大切に>
    事故からまもなく20年。両親の胸にあるのは、生きる力・人との繋がり・重大な事故を二度と起こさない・・・娘が社会に遺した、たくさんのメッセージ。そして、家族の記憶。
    父「何気ない時に、ぱっと思い出したりしますけれども。いつでも色褪せてなくて、思い出は残っているっていう感じ」
    母「私たちができることって何だろうって、主人ともゆっくり考えながら、侑子のためにも健康に生活していけたらなと思っています。娘は、主人の膝とか心配していると思うんです。少し太ったんじゃないとかね」
    父「歳とったなとかね」
    両親の変わらぬ愛情の中で、侑子さんは33回目の誕生日を迎えた。

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