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太郎さん。ありがとう。
「本当の自分」探しをしてる方たちで、今の世の中溢れかえっていますよね。臆病な自尊心をどう克服されるかが、多くの方にとっての多分鍵なんだろうなあと、私個人は常々思っています。踏み出せ一歩!ですよね。
現代社会は確かに人間的じゃないしかし、本当に原始時代の人間が全人的な生き方をしていたのか?という問を持つことも必要です。だからこそ難しいし これからも社会は探っていく必要がある。
例えば今から縄文的な生き方を実践することの意味は何か?と考えると、まあ無理だし矛盾を感じるし、意味を見出せません。ただしかし、大正時代の生活をリアルにしている方がいて今も多分継続しています。それは自分が活き活きした人生、能動的に人の目を気にしないで生きる方法が縄文的な生き方を模倣する事ではない、一例なんでしょうか。
直接的でない生き方は当事者意識が薄れ評論家的になる、評論家は縄文時代にはいなかった。みたいなことを岡本太郎氏は言いたいんですかね?確かに現代日本は評論家だらけですね。当事者意識が薄れると、結局、地域の人の繋がりは薄れ、国の概念は弱まり、最終的には瓦解していくんでしょうね。一人ひとりが評論家だと結局コミュニティも崩壊するんだ、と岡本氏は言いたいのかな?
産業社会が分化された仕事を生み、全体の一部しか関われないから非人間的で、分化されてない全体に働きかける全人間的な労働が失われたという概念はマルクス主義的だと思う。マルクス主義がいい悪いでなしに、この時代は岡本太郎に限らず、共有された「進歩」の思想があって、羨ましい。人類の歴史は常に過去の文化芸術と激しく闘い、それを超越し、進歩していくという思想があった。特に岡本太郎はフランスのソルボンヌ大学でヘーゲルなどの哲学を勉強していて、A とB がぶつかって最終的にA とBを統合するC が出来るというヘーゲル哲学の弁証法をふまえながら、A とB を統合するのではなくA をBが叩きのめす課程でC'になるという岡本流の味付けをする哲学で、人類が過去こういうところから来て、過去を乗り越えようと創造的闘争を繰り返して来た結果現在こういう場所に至り、次の未来に向けて芸術はまた闘争し続けなくてはならないというような思想が明確にあった。前近代の貴族や大金持ちといったパトロンを持った特別な芸術家が文化を創造する時代は終わり、一般大衆が芸術する時代が来た、それは進歩だと岡本太郎は信じていた。この講演も含め、一般大衆に芸術を啓蒙しあなたたちこそ今人類の文化を創り出す主役だと伝えたかったのではないかと彼の著作「今日の芸術‐時代を創造するものは誰か」などを読んでみると思う。岡本太郎に限らず、日本が明治以降高度成長期まで理念として持っていた進歩を意味することぱ=「近代化」の意味する中身は、単に産業やテクノロジーといった社会資本の発達に限らず、その発達した社会資本が広く大衆に共用され、金持ちがさらに金持ちになるだけのような特権階級が独占する発達にならないように大衆によって社会資本が統治されるように教育や法制度や文化も発達させることも意味する理念だった。未来を信じていた時代、人間性の回復に単に回帰しようとするのでなく進歩を目指していた時代が羨ましい。
狩猟も農耕文化の成り立ちも言ってしまえば全て生存戦略なわけで、本当の人間らしさなんて種の保存に尽きるんじゃないか
観客は何故笑っていられるのか…岡本太郎レベルにやりたいようにやれてる人達が集まっているのでなければ笑っていられないだろうに…多分腹の底からは理解していないのだろう。そもそも理解出来る人達が大勢集まる場ではないだろうし。残酷な催しだな。
前後無音部分かっとせえや!邪魔や!
お元気ですか?気分はいかがですか?
太郎さん。
ありがとう。
「本当の自分」探しをしてる方たちで、今の世の中溢れかえっていますよね。臆病な自尊心をどう克服されるかが、多くの方にとっての多分鍵なんだろうなあと、私個人は常々思っています。踏み出せ一歩!ですよね。
現代社会は確かに人間的じゃないしかし、
本当に原始時代の人間が全人的な生き方をしていたのか?
という問を持つことも必要です。
だからこそ難しいし これからも社会は探っていく必要がある。
例えば今から縄文的な生き方を実践することの意味は何か?と考えると、まあ無理だし矛盾を感じるし、意味を見出せません。ただしかし、大正時代の生活をリアルにしている方がいて今も多分継続しています。それは自分が活き活きした人生、能動的に人の目を気にしないで生きる方法が縄文的な生き方を模倣する事ではない、一例なんでしょうか。
直接的でない生き方は当事者意識が薄れ評論家的になる、評論家は縄文時代にはいなかった。みたいなことを岡本太郎氏は言いたいんですかね?確かに現代日本は評論家だらけですね。当事者意識が薄れると、結局、地域の人の繋がりは薄れ、国の概念は弱まり、最終的には瓦解していくんでしょうね。一人ひとりが評論家だと結局コミュニティも崩壊するんだ、と岡本氏は言いたいのかな?
産業社会が分化された仕事を生み、全体の一部しか関われないから非人間的で、分化されてない全体に働きかける全人間的な労働が失われたという概念はマルクス主義的だと思う。
マルクス主義がいい悪いでなしに、この時代は岡本太郎に限らず、共有された「進歩」の思想があって、羨ましい。
人類の歴史は常に過去の文化芸術と激しく闘い、それを超越し、進歩していくという思想があった。特に岡本太郎はフランスのソルボンヌ大学でヘーゲルなどの哲学を勉強していて、A とB がぶつかって最終的にA とBを統合するC が出来るというヘーゲル哲学の弁証法をふまえながら、A とB を統合するのではなくA をBが叩きのめす課程でC'になるという岡本流の味付けをする哲学で、人類が過去こういうところから来て、過去を乗り越えようと創造的闘争を繰り返して来た結果現在こういう場所に至り、次の未来に向けて芸術はまた闘争し続けなくてはならないというような思想が明確にあった。
前近代の貴族や大金持ちといったパトロンを持った特別な芸術家が文化を創造する時代は終わり、一般大衆が芸術する時代が来た、それは進歩だと岡本太郎は信じていた。この講演も含め、一般大衆に芸術を啓蒙しあなたたちこそ今人類の文化を創り出す主役だと伝えたかったのではないかと彼の著作「今日の芸術‐時代を創造するものは誰か」などを読んでみると思う。
岡本太郎に限らず、日本が明治以降高度成長期まで理念として持っていた進歩を意味することぱ=「近代化」の意味する中身は、単に産業やテクノロジーといった社会資本の発達に限らず、その発達した社会資本が広く大衆に共用され、金持ちがさらに金持ちになるだけのような特権階級が独占する発達にならないように大衆によって社会資本が統治されるように教育や法制度や文化も発達させることも意味する理念だった。
未来を信じていた時代、人間性の回復に単に回帰しようとするのでなく進歩を目指していた時代が羨ましい。
狩猟も農耕文化の成り立ちも言ってしまえば全て生存戦略なわけで、本当の人間らしさなんて種の保存に尽きるんじゃないか
観客は何故笑っていられるのか…
岡本太郎レベルにやりたいようにやれてる人達が集まっているのでなければ笑っていられないだろうに…
多分腹の底からは理解していないのだろう。
そもそも理解出来る人達が大勢集まる場ではないだろうし。
残酷な催しだな。
前後無音部分かっとせえや!邪魔や!
お元気ですか?気分はいかがですか?