ขนาดวิดีโอ: 1280 X 720853 X 480640 X 360
แสดงแผงควบคุมโปรแกรมเล่น
เล่นอัตโนมัติ
เล่นใหม่
パンと味噌スープの朝食に衝撃を受けました・・この和洋折衷メニューの正しい食べ方とは
今は亡き祖父が75期で江田島にいました戦時中の話は兵学校のことも含め全くしてくれませんでしたが、祖父がテーブルマナーにやたら厳しかったのは兵学校の教育方針によるものだったみたいですね
私の義父も75期です。現在95歳になりました。ずっと元気でいてほしいです。
75期ということは最後の卒業生ですね。
短現で77期、大竹あたりで回天訓練。江田島までカッターで行かされた(笑)
おじさん、74期生だった。とっても、やさしかった。
下士官兵も「列は後列、ホースはエンド、パンはアーマー」と言ってパンの端の固い部分が多い物が人気だったそうです。兵学校や士官と違い、下士官兵の配膳は若い兵の仕事で分隊士には中ほどの良い部分を配膳するのが暗黙のルールで、分隊士も食べ応えのある端をよこせと言えなかったとか。シベリア抑留された方の話だと、班別に丸ごとの食パンを配られ自分達で切り分けて食べるので、アーマー部分は別に切り、均等に分けていたそうです。
細かいツッコミで野暮かも知れませんがエンドに着くのが良いとされるのはホースじゃなくてホーサー(hawser)ですね。日本語では係留索と言います。係留索をみんなで並んで綱引きみたいに引く時、後ろに人が居ると力を抜いた時にバレることから、1番後ろ(エンド)につく者が要領が良いとされたことに因みます。
海兵の入試問題、見たことあるけど確かに難しかった。数学、英語、物理に化学、私には歯が立たなかった。当然と言えば当然。
亡くなったおっちゃんが江田島出身やったが、敗戦の時に「お礼参り」って自分達を虐めた先輩や教官を襲おうとして探し回ったが、皆逃げてなかなか見つけられなかった、って言ってた
それでも最後は草の根分けて探し出して血祭りに挙げてやったのでした…めでたしめでたし♡
やられたら、やり返せ!やられたら、相手を殺せ!それこそ絶対の正義。
バディが傷ついたら銃弾の中を背負ってでも助けるのが戦友だが、こんな苛めが横行する組織では、助けを求め、すがり付く傷病者を助けるものか逆にとどめを刺すよ互いに信頼がなく憎しみだけしかない軍隊は脆い軍隊に大事なのは、絶対に見捨てない、見捨てられない信頼と団結力決して鉄拳では養われない
わしらの教育はなんだったのか!卒業名簿から消してくれ、もう兵学校とは一切関係なし! との話しを繰上卒業した75期お爺さんから聞いた。
最初の夜の自習時間に行う自己紹介。「兵学校の三勇士」と言う歌に「夢もつかの間夜嵐吹けば 姓名申告凄面揃い 腰の震えをなんとしょう お国訛りが恨めしや 我ら兵学校の三勇士」という歌詞があります。
24:05 魔理沙「まあ、勝っても負けても、こんな大量の軍人はいらなくなるわな」まあ、井上大将は。そしてその時(敗戦前提)社会に放り出されても(兵学校の生徒が)困らないようにあえて普通学重視にしていたそうですね
私も自衛隊に居ましたが人間の脳というのは不思議なものでもっとも辛かった時を良い時代だったかのように錯覚させてくれます。私もあれは青春だったと思える反面、冷静に考えたらもう一度同じことをしたいか?と言われたら拒否しますから事実、任期満了退官後に何年かして昔の上司から誘いがありましたが拒否しました。だからやっぱりろくでもない世界なんだと思いますよ。ただ教育として私の人生においても根幹をなしている部分でもあるので全否定はできないし前肯定もできません。若い人でやってみたい人はやるべきだと思う。ただ向いてない人は本当にやめて別な道を生きた方がいいです。個人的には入隊していないで自衛隊を賞賛する人間も否定する人間も嫌いです。賞賛するならおまえがまず入隊しろと思う。
海軍さんはスマートでと言う印象が、高校の時の同級生の友人が目にハートを浮かべて、太平洋戦争の時は陸軍が悪かったんでしょ?と聞いてきたとき苦笑いしか出なかったけど、その後の日本史の授業で事実を知ったときの落胆ぶりを思い出してしまった。関係なくてスンマセン。とても面白かったです。
以前の評価「陸軍はクソ、海軍は戦争を回避しようとしてたからいい。」 今の評価「陸軍・海軍どちらもクソ」っていうのを5chかなんかで見たことがあるw
75期爺さんの話では1号生徒(最上級生徒)がまちがって宮様を殴ったと。宮さまは宿舎と風呂は別、棒倒しはなさならい。食堂では生徒と並び順番を待っておれた。体重68kg以上の者には増加食がだされた。と聞いた。
すみません、宮様 とは?皇族の方が居られたんでしょうか?75期!!
@@オイル星人-q4j 75期には治憲王がいる。井上成美校長の方針で、特別扱いするなという命令が現場に下りてたので、皇族でないと勘違いされるのはありうる話と思う。
鬼の73期が入学した頃の校長は草鹿任一中将でしたが、彼は後任の井上校長とはある意味真逆の実戦本位で、戦に強い軍人を作るがモットーの人だったと言います。「軍人の本分とは何か?」と生徒に質問し、「忠節を尽くす事です!」と答えると「そんな陸軍みたいなことを言うな。軍人の本分とはな、戦に勝つことじゃよ」と諭したといわれています。面白いのは、草鹿校長も井上校長と同様に教え子達の評判はとても良かったということです。
嘘ばっかいうな、俺とカオリで
草加任一は、終戦時に第11航空艦隊でラバウルで自給自足の持久戦。
船という閉鎖環境だから理由も無いシゴキやイジメも相当苛烈だった様ですね「心はいつも太平洋」であるのはやっぱり難しいのかな
要領の良い生徒はそれこそ、何をしても頭も体力も優っていて、スマートにこなしていたのではないかな。
ワシが男塾塾長江田島平八である
この時代は軍隊じゃない高校の寮ですらバンカラ文化でストームだなんだで激しかったらしいからなぁ、それが軍隊ともなれば想像を絶するだろうな
陸士、海兵戦前では東京帝国大学より難関とされたが、卒業生のなしたことは昭和20年8月15日の破滅。
陸軍士官学校もお願いします‼️
上級生が総て下級生を制裁していた訳じゃ無いよ!最下級の四号には必ず対番と呼ばれる三号が上級生に制裁されないようにつききりで世話を焼くように決めていたし一号も士官として任官したら上官と下士官兵の間に挟まれ瞬時に対応出来るように鬼に徹して厳しく無茶な指導を行う一方冬の寒い時期には四号の寝具をかけ直しながら一人一人に「風邪ひくなよ。明日も元気でがんばれよ。しっかりとねるんだぞ。」等と自分たちが寒いのに励ましながら廻ったりしたそうです!
海軍兵学校78期父は進駐軍でアルバイトしてました、
兵学校で鉄拳制裁が日常茶飯事になったのは昭和十年代(特に最後の頃の70期~75期)のことで、それ以前には極めて少ない。現在語られている日常は岩田豊雄(獅子文六)著の「海軍」(昭和17年)で書かれている内容によるところが大きい。実際、諸和初年の卒業生は「あんなことは全くありませんでした」と語っていた。
江田島兵学校出身者のいきすぎたエリート教育の弊害で、現場の叩き上げや機関学校や、予科練出身者を露骨に見下したりしてましたね。キスカ島撤退で勇名な木村提督みたいな、どんな乗組員にも気さくに接したり、兵学校出身を周りに自慢しなかった人はかなり珍しい。でも江田島の兵学校を見学したときは入った瞬間に心が震えてきたことを覚えてる。これはエリート意識が染みつくのも仕方ないかと感じた。
海軍兵学校は戦争が始まった時までイギリス人の教師がいたようです。
市民哲学、一般教養がいかに大事か、士官学校兵学校の歴史は語る。ダグラスはパブリックスクールの風を持ち込んだともあり。
海軍も陸軍も下手打った司令官なりを更迭もせずに何回もチャンスをやって、ドツボにハマっていったんだよね。それから、両軍犬猿の仲で武器や装備も規格を揃えてなくて互いの互換性も無かった。今の自衛隊似たようなところがあるのかもね。互換性もたしてるのかな?
最後の海軍大将井上、実学推進の鑑!軍人崩れは潰しが効かない!それに気づいた最後の海軍大将井上!さすがです。
いつもよりゆっくりボイスがゆっくり?
作家の豊田穣氏(兵学校68期、あまりにも沢山の同期が戦死したクラスの一つ)がいくつかの作品に描いているね、兵学校生活。
自衛隊にあった自衛隊生徒とは中卒ではいる少年工科学校のことで戦前でいうなら陸海軍幼年学校みたいなものですよ。
自衛隊生徒制度とは海自ならこの制度は中卒で江田島の第一術科学校付生徒部の4年制の課程です。三等海士で入隊、終業後は高等学校卒業資格が得られ3等海曹に無試験で昇任します。マーク(マークつまり特技章は通信、水測等が多数)の要員になります。2011年の53期卒業まで存続しました。空自なら中卒の三等空士で入隊、埼玉県熊谷基地内の航空教育隊生徒部で4年制の課程を指します。卒業後は空自の技術空曹として53期の2011年までありました。陸自は自衛隊生徒制度の廃止には絶対反対で優秀中堅陸曹の養成や部隊練度が保持出来ないとかなり抵抗しました。他に少年兵にかかる国際条約を批准したため少年工科学校から高等工科学校に改編して存続を図りました。なお、高等工科学校は3年制の課程で卒業して陸士長となり1年後に部隊教育後に3曹に昇任します。また在学中に防大や部隊配置後に陸自幹部候補生学校に入校し幹部になる者も多数います。これまでは陸海空ともに男子のみの養成課程でした。高等工科学校では陸自職種別配置制限が一部を残し撤廃されたため、男女雇用機会均等の方針から女子採用が決定されています。元海自
井上成美校長の教育方針は後の防衛大学校の教育方針として現在でも採用され続けている。
この江田島に行けば今も兵学校時代の旧生徒館、教育参考館、直立に近い松林、カッターダビッド、そして表桟橋が変わらぬままで、現在の海自幹部候補生学校並びに第一術科学校として明日の海上防衛を担う防人達を見守り、学術、術科教育に日常使用されています。まだ、一度も見学されたことのない方、海兵生徒出身や海軍出身のお祖父様が居る方、百聞は一見にしかずでしょう。実物、本物だけが持つ荘厳かつ凜とした雰囲気の中で帝国海軍の伝統の気風にたくさんの方に触れていただきたいと思います。皆様が読んだ書籍、映像では感じることの出来ない校内見学ツアーは幹候ホームページに詳細記載があります。よく確認してマナーをもって見学ください。当校は開放公開していますが、一般観光地ではありません。あくまで防衛省海上自衛隊の教育機関敷地内であることを、お忘れなきように願います。そしてその対岸の東洋一の軍港とうたわれた呉市内も、海軍の遺構や史跡、総監部見学等などたくさんあります。ぜひ足を運んで体験見学していただくことをお薦めします。海自OB
江田島へは行きました。通り一遍の見学コースは得に感銘はありません。教育参考館でしたか二階の一番奥に特別攻撃隊として戦死された若者の遺書が展示されていた。粗末な紙の遺書はその達筆、文面に涙しかありませんでした。この若者が生きていればどんなことをしたんだろうと思います。こんな若者を志願と言う建前の命令で自殺飛行を行わせた江田島将校の多くは後から行くとの言葉を裏切り畳の上で往生しましたね。江田島の教育がこんな士官を作ったのでは、海自OBだそうですが、今の海自士官はこんな士官でないことを願います。
もう亡くなった伯父がここ出身だった…経理の方だけど。
PL学園野球部も海軍兵学校も結局は間違ったシステムだったと証明されている。
戦後民主主義下での、灘高、開成などから東大卒はエリート教育ではありません。僕の叔父は終戦のため海軍兵学校中退、已む無く東北大学卒となりましたが、立派かつ怖いお方です。灘高、開成などは解散、海軍兵学校、陸軍士官学校に等しいエリート教育を早期に復活させるべきと考えます。猫🐱若旦那です。
…苦笑
@@usejehwikuhehejidjcuruehje 僕のお伝えしたいのは、戦後民主主義下ではエリート教育が成されていないということです。猫🐱若旦那です。
祖父は私と大違いでとても優秀な方だったようです。もちろん、陸軍なり海軍なりの兵学校に行きたいと考えていたようですが、ちょうどその頃に父親が身体を壊し、また自分も身体を壊してしまったため結局は進学せず働いていたそう。のちに同い年の方から聞いた話なのですが、確かに祖父は戦争や兵役の話をあまり好まなかった気がします。兵学校自体が悪いものではないと思いますが、その後の人生に大きく影響を与えるものだったんだな…
兵学校は、上級生がやたらと下級生をぶん殴る!と言われていますが、それは大間違いです。クラス(期)によっては、殆ど殴られた事がないクラスも有れば、やたらと殴られたクラスもあったそうです。68期の豊田さんは、下級生(四号生徒)時代、65期生の1号生徒にイヤというほど殴られたそうです。豊田さんの1期下の66期生は、余り殴られる事は無かったそうですね?豊田さんたちが最上級生になったときは、70期生を開校以来言われるほど殴ったそうです。従って豊田さんら68きせいは「土方クラス」と言われていたそうです。
味噌汁に食パンはどう考えても合わないだろう・・・
以外にあいますよ
陸士と並んで、海軍将校の養成機関。だから、エリート校ですね。
兵学校等は兵から進級した1等兵曹(上等兵曹)等に対して選考の上、学生として採用される「選科学生」制度が別にあった。1ないし2年でこの課程を修了すると特務少尉に任官してさむらい配置、すなわち○○士になることができた。しかし、指揮権は正規士官が優先した。この点では陸軍の方が平等であったと言える。
あれ、オープニングのホンワカBGMは止めたのですか?
ジェントルマンとかどうでもいいから戦争に負けないで欲しかった
一術校も厳しかったな
まぁエリ-トは食べるモノも違っている❗昨年亡くなった親父みたいな海軍特別年少兵は?何を食べていたのだろうか?終戦は神奈川県藤沢に有った海軍電測学校で迎えてますが~九月まで海軍電測学校に居たようです、厚生労働省からの軍歴証明書に記載されてました😅
それほどまで優秀な人材を輩出しながら愚策を弄する指揮官が少なからずいたのか不思議 現在の候補生学校での江田島台風など厳しいしつけも 卒業し任官したら士官寝室が艦内で一番汚いし人間性も意地汚い人間も多い 江田島教育などといっても所詮一過性のものなんだなと今にして思う
>>>カナヅチが基準にないたぶん海軍創立した段階で泳げる人がかなり限られていたからではないでしょうか?確か学校で水泳を教える事が一般的になったのは戦後、それもかなり最近だったハズです。
さらに古い大航海時代の海軍とかになると脱走防止の観点から意図的に水泳を教育せず、泳げる者を採用しなかったまであります。
太平洋戦争の頃はかなり無能な士官がいたような気がするw
ある海軍将校が「最近の若い士官は点取り虫が多くて困る」と嘆いてたみたいだしね。
ここでする話ではないと思うのだけど、米海軍兵学校という訳は好きじゃないんだよね。米海軍は兵機一系化は大昔から達成されてるし、アナポリスは戦闘士官だけでなく、エンジニアや経理士官も養成される学校。だから米海軍士官学校が正確。兵学校で括るのは海機、海経をないがしろにしてるように見えるんだよね。
エロ本あったのかな
陸軍最悪のとにかく弱いのくちだけ、海軍も戦闘機のパイロットは優秀であったが、指揮官はいくら教育しても南雲のように年功序列にあぐらをかいただけの愚将ばかりであった。
パンと味噌スープの朝食に衝撃を受けました・・この和洋折衷メニューの正しい食べ方とは
今は亡き祖父が75期で江田島にいました
戦時中の話は兵学校のことも含め全くしてくれませんでしたが、祖父がテーブルマナーにやたら厳しかったのは兵学校の教育方針によるものだったみたいですね
私の義父も75期です。現在95歳になりました。ずっと元気でいてほしいです。
75期ということは最後の卒業生ですね。
短現で77期、大竹あたりで回天訓練。江田島までカッターで行かされた(笑)
おじさん、74期生だった。とっても、やさしかった。
下士官兵も「列は後列、ホースはエンド、パンはアーマー」と言ってパンの端の固い部分が多い物が人気だったそうです。
兵学校や士官と違い、下士官兵の配膳は若い兵の仕事で分隊士には中ほどの良い部分を配膳するのが暗黙のルールで、分隊士も食べ応えのある端をよこせと言えなかったとか。
シベリア抑留された方の話だと、班別に丸ごとの食パンを配られ自分達で切り分けて食べるので、アーマー部分は別に切り、均等に分けていたそうです。
細かいツッコミで野暮かも知れませんがエンドに着くのが良いとされるのはホースじゃなくてホーサー(hawser)ですね。日本語では係留索と言います。
係留索をみんなで並んで綱引きみたいに引く時、後ろに人が居ると力を抜いた時にバレることから、1番後ろ(エンド)につく者が要領が良いとされたことに因みます。
海兵の入試問題、見たことあるけど確かに難しかった。数学、英語、物理に化学、私には歯が立たなかった。当然と言えば当然。
亡くなったおっちゃんが江田島出身やったが、敗戦の時に「お礼参り」って自分達を虐めた先輩や教官を襲おうとして探し回ったが、皆逃げてなかなか見つけられなかった、って言ってた
それでも最後は草の根分けて探し出して血祭りに挙げてやったのでした…めでたしめでたし♡
やられたら、やり返せ!やられたら、相手を殺せ!それこそ絶対の正義。
バディが傷ついたら銃弾の中を背負ってでも助けるのが戦友だが、こんな苛めが横行する組織では、助けを求め、すがり付く傷病者を助けるものか
逆にとどめを刺すよ
互いに信頼がなく憎しみだけしかない軍隊は脆い
軍隊に大事なのは、絶対に見捨てない、見捨てられない信頼と団結力
決して鉄拳では養われない
わしらの教育はなんだったのか!卒業名簿から消してくれ、もう兵学校とは一切関係なし! との話しを繰上卒業した75期お爺さんから聞いた。
最初の夜の自習時間に行う自己紹介。「兵学校の三勇士」と言う歌に「夢もつかの間夜嵐吹けば 姓名申告凄面揃い 腰の震えをなんとしょう お国訛りが恨めしや 我ら兵学校の三勇士」という歌詞があります。
24:05 魔理沙「まあ、勝っても負けても、こんな大量の軍人はいらなくなるわな」
まあ、井上大将は。そしてその時(敗戦前提)社会に放り出されても(兵学校の生徒が)困らないようにあえて普通学重視にしていたそうですね
私も自衛隊に居ましたが人間の脳というのは不思議なものでもっとも辛かった時を良い時代だったかのように錯覚させてくれます。私もあれは青春だったと思える反面、冷静に考えたらもう一度同じことをしたいか?と言われたら拒否しますから事実、任期満了退官後に何年かして昔の上司から誘いがありましたが拒否しました。だからやっぱりろくでもない世界なんだと思いますよ。ただ教育として私の人生においても根幹をなしている部分でもあるので全否定はできないし前肯定もできません。若い人でやってみたい人はやるべきだと思う。ただ向いてない人は本当にやめて別な道を生きた方がいいです。
個人的には入隊していないで自衛隊を賞賛する人間も否定する人間も嫌いです。賞賛するならおまえがまず入隊しろと思う。
海軍さんはスマートでと言う印象が、高校の時の同級生の友人が目にハートを浮かべて、太平洋戦争の時は陸軍が悪かったんでしょ?と聞いてきたとき苦笑いしか出なかったけど、その後の日本史の授業で事実を知ったときの落胆ぶりを思い出してしまった。
関係なくてスンマセン。
とても面白かったです。
以前の評価「陸軍はクソ、海軍は戦争を回避しようとしてたからいい。」 今の評価「陸軍・海軍どちらもクソ」っていうのを5chかなんかで見たことがあるw
75期爺さんの話では1号生徒(最上級生徒)がまちがって宮様を殴ったと。宮さまは宿舎と風呂は別、棒倒しはなさならい。食堂では生徒と並び順番を待っておれた。体重68kg以上の者には増加食がだされた。と聞いた。
すみません、宮様 とは?皇族の方が居られたんでしょうか?75期!!
@@オイル星人-q4j 75期には治憲王がいる。井上成美校長の方針で、特別扱いするなという命令が現場に下りてたので、皇族でないと勘違いされるのはありうる話と思う。
鬼の73期が入学した頃の校長は草鹿任一中将でしたが、彼は後任の井上校長とはある意味真逆の実戦本位で、戦に強い軍人を作るがモットーの人だったと言います。
「軍人の本分とは何か?」と生徒に質問し、「忠節を尽くす事です!」と答えると「そんな陸軍みたいなことを言うな。軍人の本分とはな、戦に勝つことじゃよ」と諭したといわれています。
面白いのは、草鹿校長も井上校長と同様に教え子達の評判はとても良かったということです。
嘘ばっかいうな、俺とカオリで
草加任一は、終戦時に第11航空艦隊でラバウルで自給自足の持久戦。
船という閉鎖環境だから理由も無いシゴキやイジメも相当苛烈だった様ですね
「心はいつも太平洋」であるのはやっぱり難しいのかな
要領の良い生徒はそれこそ、何をしても頭も体力も優っていて、スマートにこなしていたのではないかな。
ワシが男塾塾長江田島平八である
この時代は軍隊じゃない高校の寮ですらバンカラ文化でストームだなんだで激しかったらしいからなぁ、それが軍隊ともなれば想像を絶するだろうな
陸士、海兵戦前では東京帝国大学より難関とされたが、卒業生のなしたことは昭和20年8月15日の破滅。
陸軍士官学校もお願いします‼️
上級生が総て下級生を制裁していた訳じゃ無いよ!最下級の四号には必ず対番と呼ばれる三号が上級生に制裁されないようにつききりで世話を焼くように決めていたし一号も士官として任官したら上官と下士官兵の間に挟まれ瞬時に対応出来るように鬼に徹して厳しく無茶な指導を行う一方冬の寒い時期には四号の寝具をかけ直しながら一人一人に「風邪ひくなよ。明日も元気でがんばれよ。しっかりとねるんだぞ。」等と自分たちが寒いのに励ましながら廻ったりしたそうです!
海軍兵学校78期父は進駐軍でアルバイトしてました、
兵学校で鉄拳制裁が日常茶飯事になったのは昭和十年代(特に最後の頃の70期~75期)のことで、それ以前には極めて少ない。
現在語られている日常は岩田豊雄(獅子文六)著の「海軍」(昭和17年)で書かれている内容によるところが大きい。
実際、諸和初年の卒業生は「あんなことは全くありませんでした」と語っていた。
江田島兵学校出身者のいきすぎたエリート教育の弊害で、現場の叩き上げや機関学校や、予科練出身者を露骨に見下したりしてましたね。
キスカ島撤退で勇名な木村提督みたいな、どんな乗組員にも気さくに接したり、兵学校出身を周りに自慢しなかった人はかなり珍しい。
でも江田島の兵学校を見学したときは入った瞬間に心が震えてきたことを覚えてる。
これはエリート意識が染みつくのも仕方ないかと感じた。
海軍兵学校は戦争が始まった時までイギリス人の教師がいたようです。
市民哲学、一般教養がいかに大事か、士官学校兵学校の歴史は語る。ダグラスはパブリックスクールの風を持ち込んだともあり。
海軍も陸軍も下手打った司令官なりを更迭もせずに何回もチャンスをやって、ドツボにハマっていったんだよね。それから、両軍犬猿の仲で武器や装備も規格を揃えてなくて互いの互換性も無かった。今の自衛隊似たようなところがあるのかもね。互換性もたしてるのかな?
最後の海軍大将井上、実学推進の鑑!軍人崩れは潰しが効かない!それに気づいた最後の海軍大将井上!さすがです。
いつもよりゆっくりボイスがゆっくり?
作家の豊田穣氏(兵学校68期、あまりにも沢山の同期が戦死したクラスの一つ)がいくつかの作品に描いているね、兵学校生活。
自衛隊にあった自衛隊生徒とは中卒ではいる少年工科学校のことで戦前でいうなら陸海軍幼年学校みたいなものですよ。
自衛隊生徒制度とは
海自ならこの制度は中卒で江田島の第一術科学校付生徒部の4年制の課程です。三等海士で入隊、終業後は高等学校卒業資格が得られ3等海曹に無試験で昇任します。マーク(マークつまり特技章は通信、水測等が多数)の要員になります。2011年の53期卒業まで存続しました。
空自なら中卒の三等空士で入隊、埼玉県熊谷基地内の航空教育隊生徒部で4年制の課程を指します。卒業後は空自の技術空曹として53期の2011年までありました。
陸自は自衛隊生徒制度の廃止には絶対反対で優秀中堅陸曹の養成や部隊練度が保持出来ないとかなり抵抗しました。
他に少年兵にかかる国際条約を批准したため少年工科学校から高等工科学校に改編して存続を図りました。
なお、高等工科学校は3年制の課程で卒業して陸士長となり1年後に部隊教育後に3曹に昇任します。また在学中に防大や部隊配置後に陸自幹部候補生学校に入校し幹部になる者も多数います。
これまでは陸海空ともに男子のみの養成課程でした。高等工科学校では陸自職種別配置制限が一部を残し撤廃されたため、男女雇用機会均等の方針から女子採用が決定されています。元海自
井上成美校長の教育方針は後の防衛大学校の教育方針として現在でも採用され続けている。
この江田島に行けば今も兵学校時代の旧生徒館、教育参考館、直立に近い松林、カッターダビッド、そして表桟橋が変わらぬままで、
現在の海自幹部候補生学校並びに第一術科学校として明日の海上防衛を担う防人達を見守り、学術、術科教育に日常使用されています。
まだ、一度も見学されたことのない方、海兵生徒出身や海軍出身のお祖父様が居る方、百聞は一見にしかずでしょう。
実物、本物だけが持つ荘厳かつ凜とした雰囲気の中で帝国海軍の伝統の気風にたくさんの方に触れていただきたいと思います。
皆様が読んだ書籍、映像では感じることの出来ない校内見学ツアーは幹候ホームページに詳細記載があります。よく確認してマナーをもって見学ください。
当校は開放公開していますが、一般観光地ではありません。
あくまで防衛省海上自衛隊の教育機関敷地内であることを、お忘れなきように願います。
そしてその対岸の東洋一の軍港とうたわれた呉市内も、海軍の遺構や史跡、総監部見学等などたくさんあります。ぜひ足を運んで体験見学していただくことをお薦めします。海自OB
江田島へは行きました。通り一遍の見学コースは得に感銘はありません。教育参考館でしたか二階の一番奥に特別攻撃隊として戦死された若者の遺書が展示されていた。粗末な紙の遺書はその達筆、文面に涙しかありませんでした。この若者が生きていればどんなことをしたんだろうと思います。こんな若者を志願と言う建前の命令で自殺飛行を行わせた江田島将校の多くは後から行くとの言葉を裏切り畳の上で往生しましたね。江田島の教育がこんな士官を作ったのでは、海自OBだそうですが、今の海自士官はこんな士官でないことを願います。
もう亡くなった伯父がここ出身だった…経理の方だけど。
PL学園野球部も海軍兵学校も
結局は間違ったシステムだったと証明されている。
戦後民主主義下での、灘高、開成などから東大卒はエリート教育ではありません。僕の叔父は終戦のため海軍兵学校中退、已む無く東北大学卒となりましたが、立派かつ怖いお方です。灘高、開成などは解散、海軍兵学校、陸軍士官学校に等しいエリート教育を早期に復活させるべきと考えます。猫🐱若旦那です。
…苦笑
@@usejehwikuhehejidjcuruehje 僕のお伝えしたいのは、戦後民主主義下ではエリート教育が成されていないということです。猫🐱若旦那です。
祖父は私と大違いでとても優秀な方だったようです。もちろん、陸軍なり海軍なりの兵学校に行きたいと考えていたようですが、ちょうどその頃に父親が身体を壊し、また自分も身体を壊してしまったため結局は進学せず働いていたそう。
のちに同い年の方から聞いた話なのですが、確かに祖父は戦争や兵役の話をあまり好まなかった気がします。
兵学校自体が悪いものではないと思いますが、その後の人生に大きく影響を与えるものだったんだな…
兵学校は、上級生がやたらと下級生をぶん殴る!と言われていますが、それは大間違いです。クラス(期)によっては、殆ど殴られた事がないクラスも有れば、やたらと殴られたクラスもあったそうです。
68期の豊田さんは、下級生(四号生徒)時代、65期生の1号生徒にイヤというほど殴られたそうです。豊田さんの1期下の66期生は、余り殴られる事は無かったそうですね?豊田さんたちが最上級生になったときは、70期生を開校以来言われるほど殴ったそうです。従って豊田さんら68きせいは「土方クラス」と言われていたそうです。
味噌汁に食パンはどう考えても合わないだろう・・・
以外にあいますよ
陸士と並んで、海軍将校の養成機関。だから、エリート校ですね。
兵学校等は兵から進級した1等兵曹(上等兵曹)等に対して選考の上、学生として採用される「選科学生」制度が別にあった。1ないし2年で
この課程を修了すると特務少尉に任官してさむらい配置、すなわち○○士になることができた。しかし、指揮権は正規士官が優先した。
この点では陸軍の方が平等であったと言える。
あれ、オープニングのホンワカBGMは止めたのですか?
ジェントルマンとかどうでもいいから戦争に負けないで欲しかった
一術校も厳しかったな
まぁエリ-トは食べるモノも違っている❗昨年亡くなった親父みたいな海軍特別年少兵は?何を食べていたのだろうか?終戦は神奈川県藤沢に有った海軍電測学校で迎えてますが~九月まで海軍電測学校に居たようです、厚生労働省からの軍歴証明書に記載されてました😅
それほどまで優秀な人材を輩出しながら愚策を弄する指揮官が少なからずいたのか不思議 現在の候補生学校での江田島台風など厳しいしつけも 卒業し任官したら士官寝室が艦内で一番汚いし人間性も意地汚い人間も多い 江田島教育などといっても所詮一過性のものなんだなと今にして思う
>>>カナヅチが基準にない
たぶん海軍創立した段階で泳げる人がかなり限られていたからではないでしょうか?
確か学校で水泳を教える事が一般的になったのは戦後、それもかなり最近だったハズです。
さらに古い大航海時代の海軍とかになると脱走防止の観点から意図的に水泳を教育せず、泳げる者を採用しなかったまであります。
太平洋戦争の頃はかなり無能な士官がいたような気がするw
ある海軍将校が「最近の若い士官は点取り虫が多くて困る」と嘆いてたみたいだしね。
ここでする話ではないと思うのだけど、米海軍兵学校という訳は好きじゃないんだよね。
米海軍は兵機一系化は大昔から達成されてるし、アナポリスは戦闘士官だけでなく、エンジニアや経理士官も養成される学校。だから米海軍士官学校が正確。
兵学校で括るのは海機、海経をないがしろにしてるように見えるんだよね。
エロ本あったのかな
陸軍最悪のとにかく弱いのくちだけ、海軍も戦闘機のパイロットは優秀であったが、指揮官はいくら教育しても南雲のように年功序列にあぐらをかいただけの愚将ばかりであった。