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最後の方、生きられるとわかって嬉しかった当時の気持ちをそのまま覚えているような話し方ですねいい笑顔です、長生きして欲しい
玉音放送、あの音質の悪さとへんな発音で当時の人はよく聴き取れたなって小学生の頃思ってたけど、当時の人も全然聞き取れてなかったの、なんか変わらない人間なんだって感じがして感慨深い
もっと、このような貴重な話を映像として残して欲しい
過去封印
@@ひろやす池戸絶対に封印はしてはならぬ日本の恥である
最後の方の、俺生きられると思った。俺には一生分からない感覚なんだろうな。本当に涙が出てくる。
体験するかもしれない可能性が大きくなってきましたね。
うーん
単純に、「うれしい」というような表情をそのまま捉えていいものなのか、当時の人にしかわからない事。2度と起こらないことを祈ります。
戦争負けて良かった❗️最後のじいさんの話が全てです😇
玉音放送があった時私の母は11歳の少女だった。それまで天皇陛下は神様だと教えられてきたので、ラジオから普通の人間の声が聞こえてきてビックリしたと彼女から聞いたことがある。
死刑台の喩え、あまりにも壮絶な……想像を絶します。
ここに登場してくる爺ちゃん婆ちゃん達がお歳を召されてるのに上手く話が出来ることにびっくり。大体の年寄りは何言ってるかわからないからね。
あの日、父親にラジオの前に座れと言われ、雑音ばかりの玉音放送を正座して聞きました。放送後、父が戦争は終わった、日本が負けたよと教えてくれました。負けた事よりこれで空襲が無くなると思って嬉しかったのを覚えています。 五月にはB29の空襲を横浜の高台から見ていましたが、横浜の下町が家のすぐ下まで焼け野原になりました。B29一機は高射砲で被弾させましたがゆっくり港に向かって落ちていきました。不思議なもので恐怖感が全然わきませんでした。焼夷弾が落ちるときに途中はじけると下の火災の明かりできらきら光っておちるので花火みたいにきれいでした。 兄たちは学校から集団疎開で箱根の強羅言っていたので家には居ませんでした。 庭先の大きなヒマワリが一本咲いていたのを覚えています。国民学校一年生の夏でした。 それにしても何で馬鹿なことをして優秀な若者たちや国民を犠牲にしたのか戦争を知る小生としては何時も何で?どうして?あの戦争が無かったらと思ってます。
私は京都で小学校4年のとき終戦を迎えた。夏休みだったが学校に呼ばれて登校した。帰ると母親が「先生がなんとおっしゃった」ときくので、先生はそんなに話さなかったと答えた。母は「大きくなったらカタキを打て」と言わなかったかと訊くので、そんなことは言わなかっと言うと母は「そんな先生だから戦争に負けたんだ」と憤慨した。私は昭和42年にアメリカに留学した。母は肺炎をこじらせて私の留学1年目に亡くなったが、私は行ったばかりで帰国する余裕がなかった。そして50年以上ニューヨークに住み、カタキを打つどころかアメリカ国籍をとってアメリカ人になるような罰当たりなことをしてしまった。
罰当たりと思うかどうかは自分次第。僕はそう思いませんよ。
言っちゃ悪いがそんな母親だと自分の子供が特攻隊になっても喜ぶのかな。
日本がやるべき事は米国に対する仇討ちではなく、國を建て直したりより良くしたり、近隣諸国の脅威から国家(同胞)を守ったり、極力色々な国で“上下の無き健全で対等な”友好関係や協力関係を結ぶ事だと僕は考えます。
まさに祖父の感想と同じ。20で死ぬ。決まっていたと
今も続く争い戦争で得たものは何も無い
あるよ、現在の医学は生きたまま人体実験した成果が影響している。人類の科学の進歩も軍事利用の目的があったからだ。牛や豚のような生き物を殺して得るものはないといっているようなもの。善悪でいえば当然悪いさ、しかし何も掴まず起き上がらなかったことがせめてもの救い。他人(天皇)の為に命をささげる。こんなばかげた話はないのも事実。現代社会では会社の為に自分の一度しかない人生の時間をささげている。将来自分の意志に反した深残業や徹夜、個人的な用事を犠牲にした働き方も変わることを望む。
お一人は100歳を超えても芸術活動をされていた野見山暁治さんですね。
何言ってるか分からなかったが戦争が終わったとわかった時はみんな万歳だったと爺さんは言ってたな。悔しがってる人は皆無だったそうだ。岩手盛岡の話。
95歳の祖母に、戦争の時代は皆食料に困ってたから太ってる人なんていなかったでしょ?って聞いたら、いたよ!って言われた。
それは上級軍人か兵器を製造していた会社の幹部連中ですか?
@@MrEjidorie 多くは聞いてないけど、そういう特別な環境の人でもなかったみたいです。良いもの食べてるんじゃないかって妬まれるのでは?って、聞いたけどそうでもなかったみたい。当時は皆、自分の事で精一杯だったのかもしれませんね!
1:18📟
原爆落としたことは憎まずにいられない
ミッドウェー海戦で諦めていれば原爆は落とされなかったかもね。
こんな大事な内容をたった3分でわかったような気にならないでほしい。戦火を生きた人々を想像しながら玉音放送の全てを聞いてみてほしい。膝が上がらなくなるほど泣けてくるから。
わかったような気になってるのか?
何か気にさわったか?
少なくともその時代を経験していない私たちが、玉音放送について完全に知ることなんてできない。だから知ろうと、わかろうとする姿勢が大切なんだよ。だからたった3分なんて言わないでほしい。
十ヶ月以上前のコメントかつ、上の方の論調に乗るようで気が進みませんでしたが、削除か、無理ならせめて編集で、発言を訂正してもらいたいと思ったのでコメント致します。「たった三分」今までわからなかった人、興味が無かった人が少しでも興味を持つきっかけとなり得るかもしれない濃密な3分24秒の動画を、「たった三分」等と省略して形容した上に、あまつさえこの程度で分かったような気になるなという言葉迄文章中に含まれていると、多くの方は、自分の優位性を誇示したいだけにしか、読み取れないのではないかと、私は思います。愛国心が故、戦火の火を再び灯すべきではない、もっと深く知るべきだと、警鐘の意味であえてこういった論調を用いておられるのかもしれませんが、端的に言って大変不愉快です。真に人の心に訴えかけたいのであれば、論調を変え、「戦火を生きた人々」なんて曖昧なくくり方もやめて、例えばこの3分24秒の中に含まれている3名の日本人の方の言葉を拾って、そこにご自身の言葉を足して、何か伝える事も、出来ると思います。ご家族が経験されたのであれば、それを聞かせることも出来ると思います。そのように、少しやり方を変えればあなたが伝えたい思いは、もっと上手く伝わるように思います。それと、どうせならという所で、もう一つだけ伝えさせてください。あなたは泣く事が、その物事を理解した証と認識しているように文章中から私は感じ取ってしまいましたが、私の祖母は、戦時中に夫(祖父)と子の2人を亡くした後、玉音放送を聞いて、唇を噛みちぎってしまう程、怒りに震えて未動き一つ取れなかったと、言っていました。祖母が亡くなるまでの間、2、3度戦時中の話を聞かせてくれましたが、その目と言葉はいつも、涙や感傷ではなく時代や戦争への怒りに満ちていました。そのように、他にも泣けない方も大勢いらっしゃるかと思いますが、私はそれらの方が、理解が足りていないから泣けないんだとは思いません。泣ける=理解しているみたいな論調も、出来れば変えて頂きたく、思います。少し長くなってしまいましたが、以上の事を踏まえて、少しでも、発言を見直して頂けましたら幸いです。宜しくお願い致します。
またやんのかなぁ。皆兵だって言われても、もう役に立てないよ。
当時のいろいろ難しい言い回しは一般の国民も使ってたんですかね?私生活と規律正しい場面で違うんですかね?今でも高齢の方は語尾に○○でありますとか言いません?
いきなり、私は神ではありませんでした。私は人間でした。御免ちゃいと言われてもねえ。
言ってないし
こういう低俗な歴史観をもつ日本人がいるのは本当に残念だ
決断をしたのは天皇陛下でなく軍部に決断させたのだ。
ポツダム受託は昭和20年8月13日です。通信網では傍受されていた、インチキデタラメ放送番組
勝ち目ない開戦70年以上すぎた過去わすれ未來へすすむ
戦争とかやっても何も生み出さない、こんなこと誰でもわかってんのに、なんで戦争やるかね。ロシアも戦争やめろや、プーチン、戦争やめろや。
最後の方、生きられるとわかって嬉しかった当時の気持ちをそのまま覚えているような話し方ですね
いい笑顔です、長生きして欲しい
玉音放送、あの音質の悪さとへんな発音で当時の人はよく聴き取れたなって小学生の頃思ってたけど、当時の人も全然聞き取れてなかったの、なんか変わらない人間なんだって感じがして感慨深い
もっと、このような貴重な話を映像として残して欲しい
過去封印
@@ひろやす池戸絶対に封印はしてはならぬ日本の恥である
最後の方の、俺生きられると思った。
俺には一生分からない感覚なんだろうな。
本当に涙が出てくる。
体験するかもしれない可能性が大きくなってきましたね。
うーん
単純に、「うれしい」というような表情をそのまま捉えていいものなのか、当時の人にしかわからない事。2度と起こらないことを祈ります。
戦争負けて良かった❗️最後のじいさんの話が全てです😇
玉音放送があった時私の母は11歳の少女だった。それまで天皇陛下は神様だと教えられてきたので、ラジオから普通の人間の声が聞こえてきてビックリしたと彼女から聞いたことがある。
死刑台の喩え、あまりにも壮絶な……想像を絶します。
ここに登場してくる爺ちゃん婆ちゃん達がお歳を召されてるのに上手く話が出来ることにびっくり。大体の年寄りは何言ってるかわからないからね。
あの日、父親にラジオの前に座れと言われ、雑音ばかりの玉音放送を正座して聞きました。
放送後、父が戦争は終わった、日本が負けたよと教えてくれました。負けた事よりこれで空襲が
無くなると思って嬉しかったのを覚えています。
五月にはB29の空襲を横浜の高台から見ていましたが、横浜の下町が家のすぐ下まで焼け野原になりました。B29一機は高射砲で被弾させましたがゆっくり港に向かって落ちていきました。不思議なもので恐怖感が全然わきませんでした。焼夷弾が落ちるときに途中はじけると下の火災の明かりできらきら光っておちるので花火みたいにきれいでした。
兄たちは学校から集団疎開で箱根の強羅言っていたので家には居ませんでした。
庭先の大きなヒマワリが一本咲いていたのを覚えています。国民学校一年生の夏でした。
それにしても何で馬鹿なことをして優秀な若者たちや国民を犠牲にしたのか戦争を知る小生としては何時も何で?どうして?あの戦争が無かったらと思ってます。
私は京都で小学校4年のとき終戦を迎えた。夏休みだったが学校に呼ばれて登校した。帰ると母親が「先生がなんとおっしゃった」ときくので、先生はそんなに話さなかったと答えた。母は「大きくなったらカタキを打て」と言わなかったかと訊くので、そんなことは言わなかっと言うと母は「そんな先生だから戦争に負けたんだ」と憤慨した。
私は昭和42年にアメリカに留学した。母は肺炎をこじらせて私の留学1年目に亡くなったが、私は行ったばかりで帰国する余裕がなかった。そして50年以上ニューヨークに住み、カタキを打つどころかアメリカ国籍をとってアメリカ人になるような罰当たりなことをしてしまった。
罰当たりと思うかどうかは自分次第。僕はそう思いませんよ。
言っちゃ悪いがそんな母親だと自分の子供が特攻隊になっても喜ぶのかな。
日本がやるべき事は米国に対する仇討ちではなく、國を建て直したりより良くしたり、近隣諸国の脅威から国家(同胞)を守ったり、極力色々な国で“上下の無き健全で対等な”友好関係や協力関係を結ぶ事だと僕は考えます。
まさに祖父の感想と同じ。20で死ぬ。決まっていたと
今も続く争い戦争で得たものは何も無い
あるよ、現在の医学は生きたまま人体実験した成果が影響している。
人類の科学の進歩も軍事利用の目的があったからだ。
牛や豚のような生き物を殺して得るものはないといっているようなもの。
善悪でいえば当然悪いさ、しかし何も掴まず起き上がらなかったことがせめてもの救い。
他人(天皇)の為に命をささげる。こんなばかげた話はないのも事実。
現代社会では会社の為に自分の一度しかない人生の時間をささげている。
将来自分の意志に反した深残業や徹夜、個人的な用事を犠牲にした働き方も変わることを望む。
お一人は100歳を超えても芸術活動をされていた野見山暁治さんですね。
何言ってるか分からなかったが戦争が終わったとわかった時はみんな万歳だったと爺さんは言ってたな。
悔しがってる人は皆無だったそうだ。岩手盛岡の話。
95歳の祖母に、戦争の時代は皆食料に困ってたから太ってる人なんていなかったでしょ?って聞いたら、いたよ!って言われた。
それは上級軍人か兵器を製造していた会社の幹部連中ですか?
@@MrEjidorie
多くは聞いてないけど、そういう特別な環境の人でもなかったみたいです。
良いもの食べてるんじゃないかって妬まれるのでは?って、聞いたけどそうでもなかったみたい。
当時は皆、自分の事で精一杯だったのかもしれませんね!
1:18📟
原爆落としたことは憎まずにいられない
ミッドウェー海戦で諦めていれば原爆は落とされなかったかもね。
こんな大事な内容をたった3分でわかったような気にならないでほしい。戦火を生きた人々を想像しながら玉音放送の全てを聞いてみてほしい。膝が上がらなくなるほど泣けてくるから。
わかったような気になってるのか?
何か気にさわったか?
少なくともその時代を経験していない私たちが、玉音放送について完全に知ることなんてできない。だから知ろうと、わかろうとする姿勢が大切なんだよ。だから
たった3分なんて言わないでほしい。
十ヶ月以上前のコメントかつ、上の方の論調に乗るようで気が進みませんでしたが、削除か、無理ならせめて編集で、発言を訂正してもらいたいと思ったのでコメント致します。
「たった三分」
今までわからなかった人、興味が無かった人が少しでも興味を持つきっかけとなり得るかもしれない濃密な3分24秒の動画を、「たった三分」等と省略して形容した上に、あまつさえこの程度で分かったような気になるなという言葉迄文章中に含まれていると、多くの方は、自分の優位性を誇示したいだけにしか、読み取れないのではないかと、私は思います。愛国心が故、戦火の火を再び灯すべきではない、もっと深く知るべきだと、警鐘の意味であえてこういった論調を用いておられるのかもしれませんが、端的に言って大変不愉快です。真に人の心に訴えかけたいのであれば、論調を変え、「戦火を生きた人々」なんて曖昧なくくり方もやめて、例えばこの3分24秒の中に含まれている3名の日本人の方の言葉を拾って、そこにご自身の言葉を足して、何か伝える事も、出来ると思います。ご家族が経験されたのであれば、それを聞かせることも出来ると思います。そのように、少しやり方を変えればあなたが伝えたい思いは、もっと上手く伝わるように思います。それと、どうせならという所で、もう一つだけ伝えさせてください。あなたは泣く事が、その物事を理解した証と認識しているように文章中から私は感じ取ってしまいましたが、私の祖母は、戦時中に夫(祖父)と子の2人を亡くした後、玉音放送を聞いて、唇を噛みちぎってしまう程、怒りに震えて未動き一つ取れなかったと、言っていました。祖母が亡くなるまでの間、2、3度戦時中の話を聞かせてくれましたが、その目と言葉はいつも、涙や感傷ではなく時代や戦争への怒りに満ちていました。そのように、他にも泣けない方も大勢いらっしゃるかと思いますが、私はそれらの方が、理解が足りていないから泣けないんだとは思いません。泣ける=理解しているみたいな論調も、出来れば変えて頂きたく、思います。
少し長くなってしまいましたが、以上の事を踏まえて、少しでも、発言を見直して頂けましたら幸いです。宜しくお願い致します。
またやんのかなぁ。皆兵だって言われても、もう役に立てないよ。
当時のいろいろ難しい言い回しは一般の国民も使ってたんですかね?私生活と規律正しい場面で違うんですかね?
今でも高齢の方は語尾に○○でありますとか言いません?
いきなり、私は神ではありませんでした。私は人間でした。御免ちゃいと言われてもねえ。
言ってないし
こういう低俗な歴史観をもつ日本人がいるのは本当に残念だ
決断をしたのは天皇陛下でなく軍部に決断させたのだ。
ポツダム受託は昭和20年8月13日です。通信網では傍受されていた、インチキデタラメ放送番組
勝ち目ない開戦70年以上すぎた過去わすれ未來へすすむ
戦争とかやっても何も生み出さない、こんなこと誰でもわかってんのに、なんで戦争やるかね。ロシアも戦争やめろや、プーチン、戦争やめろや。