「日露戦役における師団管区の紹介」各師団管区の都道府県及び人口、第一師団から第12師団迄、
ฝัง
- เผยแพร่เมื่อ 6 ก.พ. 2025
- 訂正です。「徳島」県を、「徳山」と表記してしまいました、申し訳ございません。
日露戦争当時の師団管区について紹介します。時代により師団管区は変化していきますが、基本的な形はこの時に制定されました。因みに、その後師団が増加されましたが、人口割を見ていただければ、それがどの位負担になったことか推察できます。徴兵検査や訓練なら全く問題はないのですが・・・・。
関連動画
※日露戦争における各12師団と都道府県別の戦死者(戦没者)の動画です。
【ゆっくり解説】#34「日露戦争における師団別、都道府県別損害」
• 「日本各地域における日露戦争戦没者数」、靖国...
※日露戦争の主要会戦についての日露損害データです。
「改訂版」日露戦争主要戦闘データ一覧(兵力、死傷者数、捕虜)
• 日露戦争主要戦闘データ一覧(兵力、死傷者数、...
参考資料
日露戦争の軍事史的研究
陸軍衛生史
統計年鑑
靖国神社誌
他
過去動画参照
WIKI
使用BGM
青い空を見ていた 甘茶の音楽工房
「幸せの言葉」りゅーと氏
時を刻む滝 DOVA-SYNDROME
夏の思い出 DOVA-SYNDROME
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/ @silentridge2019
#ゆっくり解説#師団管区#日露戦争
第十一師団管区の県、徳山になってます
感謝、訂正します。
@@silentridge2019 徳山じゃなく、徳島ですから!😠
@@silentridge2019
主さんup有難うございます☀️
愛媛出身の曾祖父は第十一師団に所属して出征しました。
旅順攻略戦の頃は乃木将軍の従兵として勤務し、閲兵式での敬礼姿の美しさを褒められたと聞いています。
ありがとうございます、私の曽祖父は熊本第6師団でしたが生き残り、第一師団に編成され、志願兵として白襷決死隊で明治37年11月29日203高地にて戦死。
ポーツマス条約反対で日比谷などで暴れた元気がよい人がなぜ東京に多かったがよくわかりますね。地方は予備役はおろか後備役まで動員してますから元気な若者は少なくなってましたし。
うちのじいさんは北海道だったから第七師団に自ら軍人に志願した。
長男だったのに軍人になったのは北海道があまり好きでなかったから
どうしても北海道から出たかったようだ、そして念願かなって東京管区に移動になり
第35師団で警備部隊として中国戦線で勤務して太平洋戦争中ニューギニアに送られる
途中で輸送船が撃沈、駆逐艦に拾われてギリギリソロン着、助かったかと思えば
飢餓地獄、なんとか生き延びて戦後は戦前に結婚していた
関東の良家のばあさんの家(どうせ死ぬだろうと思われてた)で自立して孫の私も関東人なわけです。。
そんな私も元自衛官お空の補給処勤務でした。
(≧∇≦)b
師団と人口と割合が大体きれいにそろってるの
初めて知った!
勉強になった
私は日露戦争当時なら第3師団所属ですねー。まあ、実際は第10師団(陸自)に所属していましたが。
ゴールデンカムイのアニメ1話から見たばっかりだ、第7師団の激戦と損耗は史実だったのか…
その後、北海道は鉱工業、農林水産業の発展で爆発的に人口が増加し昭和10年には3百万人を越えています。戦後のピークが570万弱で現在が520万強というところでしょうか。
第二次世界大戦の時は
挙げられていた他の師団と違い
北の守りの要として、主力は地元の北海道に留められていた唯一の師団です。
但し、一部の部隊は派兵されて、
ガダルカナル島で支隊長以下殆ど戦死して壊滅状態になってしまった一木支隊のような部隊もありました。
旅順、ノモンハン、そしてガダルカナル、壊滅的損害の戦史、アメリカの歴史教科書にも掲載されているガダルカナル島海岸の光景。同郷のものとして心が痛みます。
とても興味深いです。
日華事変以降、第14師団に先祖がだいぶ取られているのでこの切り口の動画の続きを気長に待っております。
軍管区分かりやすい説明でした。
投稿お疲れ様です。やはり我が出雲地方には日露戦後に歩63連隊が移駐してますね。このころはまだ浜田の歩21連隊の管区かな?
我が第九師団は御先祖様は旅順で亡くなり祖父も台湾に行きそこで死ぬ覚悟をしていたようですがまさかのスルーをかまされ戦友共々生きて金沢に戻ったようです。
晩年は「死ななくて良かった本当は生きていたかったと」本音をこぼしていました。
何が悲しいって四国の人口は日露戦争時に300万人程度で、
令和の現在は400万人を切ろうかって事態になってること
松山には22連隊が置かれてました。坂の上の雲で知られるようになりました。
松山歩兵第22連隊は発足時は広島鎮台でその後広島第五師団に所属して日清戦争に従軍。第十一師団創設時に移籍して日露戦争を戦いました。戦後再び第五師団所属となりましたが、大正時代の軍縮により徳島歩兵第62連隊が廃止されたため第十一師団に戻りました。
郷土連隊制は現在の陸上自衛隊でも採用されていますね。
現在よりも方言のクセが強いから、兵隊同士の意思疎通に重要だったのでしょう。
お互いに言葉が通じないとか生死に直結しますし。
昭和の陸軍は共通語を覚えさせる事が最初の教育だったそうです。
できるだけ地元に近い駐屯地に配属したほうが災害などが発生した時、直ぐに帰隊できるからです。
まあ、枠が少ない職種に希望出すととんでもない場所に配属されたりもしますけど。
近くないと満期除隊で帰れなくなるというのもあるかも。地域によっては、鉄道がなくて、帰郷方法、徒歩というのがあるんで。
まぁ下手したら北海道民が沖縄に行くというとんでも切符を当てる事になるからな…
@@user-76Know5master 私の叔父さんは冷戦時代に入隊したんですけど、配属先は北海道の名寄でしたね。当時、対ソ連の最前線です。
俺、栃木出身で勤務地旭川だったけど
長野市は県庁ゲットしたせいで松本市に旧制高校、旧医学校、そして50連隊とごっそり譲る羽目になってますね
特に連隊の兵隊の落とすお金は絶大だったとか
だから長野市はパッとしないのかぁ
元々は地理的にも松本市(国府も松本市)が信濃国の中心だった。長野市は松本市の市役所火災があったため県庁所在地となった。
第九師団司令部跡地は第14普通科連隊の駐屯地で。近くの野田山墓地には日露戦争のロシア軍人の墓も(もちろん日本のも)あります。
第九師団司令部は金沢城内(現在の国立工芸館)にありました。
歩兵第七聯隊は金沢城内(現在の金沢城公園)、歩兵第三十五聯隊は富山市五福(現在の富山大学本部がある五福キャンパス)です。
陸自金沢駐屯地にあったのは山砲聯隊という野砲専門部隊(陸自でいう野戦特科)。
金沢大学附属学校や石川整肢学園がある場所には騎兵連隊もありました。
九州の兵は攻勢に滅法強いが守りは弱い、東北の兵は攻めに勢いがないが守りに入ると粘り強いとかいう話は日露戦争の頃の話ですよね。人の移動が少なく連隊も地域単位だったので地域性が強く出ていたんでしょうね。
平成になっても「九州の兵隊とヤクザに弱いもんはおらん」と言われたほど。
@ner sun
フィリピン防衛戦での第一師団と第八師団を比較しておられますが前提が全く違います
第八師団はフィリピンに行く前に3個大隊をエンダービー島に抽出されています
大陸からフィリピンへの輸送途中で潜水艦などの攻撃を受けて三十一連隊に死傷900名と重火器多数の損害を受けております
五連隊がレイテに送られた際も揚陸時に攻撃を受けて重火器のほとんどを失っております
まだまだありますが数に勝る敵と戦う前からこれだけの悪条件を持っていると
はっきり言ってどこの師団であっても第八師団と同じ運命を辿ったとしか思えません
wikiの記述を鵜呑みにしていると思われますが、軍事に疎い馬鹿が書いたとしか考えられない内容をそのまま信用してしまうのは危険ですよ
wikiは編集した人間に悪意があったり重大な勘違いをしている例が多いので、軍事関連は特に気をつけて閲覧したほうが良いかと・・・
現在は関東に住んでいるけど祖父の代までは佐賀に住んでいて祖父の叔父さんが小倉第12師団で従軍小隊が壊滅する中で一人で奮戦して保塁を死守して戦後勲章を授与された聞いています。
おじいさんが岐阜県高山市の在住でしたが、明治24年の徴兵令状が有りますが、第六旅管徴兵署となっております。貴重なお話しありがとうございました。チャンネル登録させて頂きます。
国民を一人残らず把握する戸籍制度は徴兵制と切っても切れない縁なのですなぁ…
第9師団と第18師団は陸軍内部でその精鋭さでは双璧といわれ、旅順戦、その後の奉天会戦では、指揮官の大半が負傷したり戦死するなど猛戦しました。その後、シベリア出兵にも参加した。支那事変では、第二次上海事変の増援軍として上海戦線に出兵し、上海戦の後南京攻略戦に投入され、1938年(昭和13年)には中支那派遣軍戦闘序列に編入され徐州会戦を、8月22日には第11軍戦闘序列に編入され武漢作戦を戦ったという歴戦の部隊だけど、第二次世界大戦中…満州の治安維持部隊として活度していたため、1944年(昭和19年)7月に絶対国防圏の要石とされたサイパンが玉砕するなど戦局が緊迫化したことを受け、長勇参謀長の要望により、沖縄担当の第32軍戦闘序列に編入され、精鋭師団として防衛の中核を期待され沖縄戦では激しい戦いが予想されたが、台湾防衛のために台湾に転出命令が下され、12月末に台湾に移転し沖縄戦には参加しなかった…これにより歴戦の第9師団は第二次世界大戦中に1度も交戦しなかった珍しい部隊になった。まぁ金沢師団の輜重部隊だけは、分離されてマレー半島戦、シンガポール攻略戦、インパール作戦には参加したけどね
強力な最精鋭第9師団が沖縄から引き抜かれなければ、沖縄は8月まで持ち堪えたかも知れないと言われてますもんね。
第32軍の無念は計り知れなかったと思います。
とは言え、そうなれば米軍は更なる物量を投入したでしょうが・・・・
@@ルーはーわーるど 精鋭師団が引き抜かれたからゲリラ戦を展開した。と聞いたことがあるのですがどうなんでしょうか?
激戦が続き損害が続出する状況下での再動員からは、郷土師団制度が崩れて行ってしまい、結果として軍隊の理想に近い「どこを切っても均質な(金太郎飴型の)部隊編成」が実現する。
と言うようなことを佐藤大輔さんは書いておられるね。
さすがですね…
友達のお爺ちゃんは近衛師団の一等兵で戦時中は馬に人参を食べさせてたら終戦したそうです。
徳川四天王寺の酒井家の人です。
でも終戦直前には師団が戦争続行派と終戦派の2つに分かれて内戦になったそうです。
面白かった!各師団のエピソードなど聞きたいです!
出身地で部隊編成を決めた理由の一つに食事の傾向もあるそうで。食べなれないものくったら力でませんもんね。
日本陸軍の歴史に興味があり関東軍シリーズなど大変勉強になりました。
地元に陸軍第13師団長官舎があるのですがあれ日露戦争末期に建てられた物だったのですね。高曽祖父が日清、日露戦争に出て勲章を何個か貰っていましたが夜襲部隊だったんでしょうか。出兵中の話は家族に何も言わず平和な世の中になったら小さくてもいいから戦没者慰霊碑を建てて欲しいと遺言を残して亡くなったそうです。
我が十六師団が編成以前は
山城国は四師団
丹波丹後は十師団と
未だに旧国別なのは
驚きでした。
満州事変以前の常備師団の
紹介をしてください。
朝鮮軍管轄等宜しくお願いします。
11師団のある善通寺市は12連隊のある丸亀市に近いため、歩兵連隊が置かれなかった(宇垣軍縮で徳島県へ転営)ので人口が増えず、市制施行は戦後でした。お遍路さんの聖地、弘法大師の生誕地の善通寺と普通科15連隊が隣り合う面白い街です。
いつもいい動画をありがとうございます。
師団管区は、どういう基準で分けたのでしよう、その後の変更も時系列で、知りたく思いました。
昭和初期まで第七師団は北海道だけでは充足できず東北・関東から補充されてたそうですが、
旭川の極寒の地に関東から行かされた兵隊さん大変だったんでしょうね('ω')
本籍地は新潟県の新発田市なので、先祖は仙台第二師団麾下の歩兵第十六連隊所属、転属前の鶴見中尉と同じです
祖父は第2師団でした。
熊本6師団!エピソード聞きたいです!
悪魔師団、残忍にも多くの中国民間人を殺害した。
地元はどの師団かな、と考えるとずいぶん身近に感じます。
小生の祖父は小倉第12師団にて、軍医として、立場は大尉として参加したと父から聞かされた。太平洋戦争時、癌で亡くなったらしい。小倉12師団は活躍したが、大分戦死者も多かったと聞いている。
不死身の杉本は確か金沢かな?
谷垣は弘前で尾形は仙台だったかな?
後リクエスト!!!日露戦前後の日本の国境管理について紹介してほしいです!!!!!
すごく勉強になります。熱海市の来宮神社に初詣に行った折、日露戦争の忠魂の碑を見かけました。熱海や伊東市も箱根の反対側ですが第3師団なんですかね?
賀茂郡は第三十四連隊ですから、名古屋師団です。
@@silentridge2019 ありがとうございます。
初代師団長に乃木将軍を擁する第十一師団隸下の歩兵第四十四聯隊(高知)は、旅順要塞陥落時の生存者が約600名であり、父方親戚の中からも参加して勲章を佩用した者が居たと聞きました。
丸亀12連隊の援軍を断って1個大隊壊滅、という悲劇があったみたいですね…。郷土連隊制の負の側面がもろに出てしまいました…。
岐阜は第9師団なのか!上等兵の曾祖父が旅順で戦死した理由が分かりました。
わたくしの父方曽祖父も岐阜市出身でしたが
日露戦争では乃木司令官の馬の世話係をされておられたと子供時代に聞きました
岐阜は当時68聯隊がまだなく最寄師団は名古屋第3師団なのに?とおもいましたが
色々調べた上で本動画でかなりの疑問が氷解しました
師団管区の戸籍人口を約300万で揃えられるように岐阜を金沢師団の管区に置いたのでしょう
これとは別件で思い立って古い除籍謄本を遡れるまで集めたところ
曽祖父と日露戦争前年に結婚した曾祖母が石川県出身と知ってビックリしました
第9師団がらみで何かしらの御縁があったのではと考えてしまいます
福井に師団が設置されていたなら、場所は県庁や県警本部のある福井城址のあたりだったのかなと思われます。
福井に師団司令部を設置する計画には、敦賀まで北陸本線が延びてきていたのもあると思われます。
福井県警本部は城内にあるとは。
曽祖父が出征していました。当時は、兵籍簿が作られていないので「出征名簿」を探していますが、まだ見つかりません。戦死者名簿はHPで公開されているのですが(汗
新潟や静岡に師団司令部が設置されなかったのは、一説には明治政府に反旗を翻すとしたらこれらの地方と想定されていたからだという。
今思うと高田交歓(のちの上越交歓)という戦後の行事も、佐幕方の地域同士の人脈をつなげておきたかったのかもしれないね。
silent ridge 様 第7師団、第8師団の担当する東北・北海道は人口希薄地でかなりの兵員が東京出身の兵士で補充されています。有名な八甲田山の行軍した兵士の中にも東京出身者がいたはずですし、第7師団はかなりの補充兵が東京出身です。第7師団は明治37年の現役兵の段階ですでに出身者では定数を満たせず、東京出身者が北海道まで配属しています。つまり第1師団管区の人口は多いですが楽をしているわけではなく、実際には相応の負担をしています。昔図書館で資料を見ましたが、どの本か思い出せない・・・申し訳ない・・・
情報提供感謝。現在資料捜索中です。
@@silentridge2019 ネットだとこういうのもあります。hokuga.hgu.jp/dspace/bitstream/123456789/470/1/NENPOU-6-4.pdf これのp26 表5にある通り、第7師団は明治期は東京出身者の方が多いです。現役兵の段階ですでにこうであり、補充兵は推して知るべしです。人的構成の視点(戦略的な位置づけはともかく)で見た場合、日露戦争後半の第7師団は第2東京師団と言えるでしょう。そもそも当時の北海道の人口で第7師団全体を維持しようとしたら、他の産業の成長が止まってしまいます笑
北海道でも、本籍地が秋田県だから
秋田歩兵第17連隊でした😅
さっきのは間違えてました😅
つまり第八師団です😅
栃木県出身の元2師団(旭川)隊員が通りました
陸自の金沢14連隊の連隊歌に「盤龍山の強襲や」と出てきますからね。
歴史ある軍都と実感します。もし福井に師団司令部があったら、また変わっていたでしょうね。
本当に国の存亡を賭けたってレベルの戦争だからみんな死に物狂いで戦っただろうね。もちろんみんな死にたくないと思いつつも。
生まれて前期終えるまで第三師団管轄でお世話になり、戦車に乗りたいと言ったら後期から今に至るまで第七師団のお膝下で奉公しとる訳か。
曽祖父が日露戦争に輜重隊の一兵卒として加わっていることを、地域の神社に建てられている日露戦争記念碑の裏面に彫られた名前を見て知りました。
曽祖父が日露戦争に関わっていたことを語れる親族は既にいません。
一兵卒(この場合は曽祖父)がどの師団や部隊に所属していたのかを調べる方法はありますか?
ご存じの方がおられましたらお教えいただけますと幸いです。
当時発行されました、日露戦争の戦勝記念資料を当たるのが近道です。
おそらく戦死者名簿だけでなく、どの部隊に所属し、いつどのように戦死されたのかが記載されております。
静岡には不完全ながらそういう資料があります。
@@silentridge2019 ご返信ありがとうございます。
そのような資料は曽祖父が暮らした市町村(本籍地と同じ)の図書館を当たれば探せますか? あるいは県レベルの施設でないと難しいでしょうか。
曽祖父は日露戦役後も存命で、実際に大陸に渡ったのかも不明ですが、せめて所属部隊が前述の資料などから判明したら……と考えています。
@@pldac5564 昔の資料では戦死者はほぼ記載されておりますが、存命の場合は武勲があるか、地元有志で発行された書籍以外では記載はありません。
もし資料に記載がないとして他に発見できる可能性として、地元の自治体で保管されている古文書をを当たるしかないと考えます。
ただ、記念碑に名前が彫られているということは、その記念碑の建設記念誌等が記録として残されている可能性があります、そこからたどってみるのはいかがでしょうか。
@@silentridge2019 ご丁寧にありがとうございます。
日露戦争当時に徴兵された者の名簿というのはまとまっていない可能性があるんですね。
なかなか厳しそうですが、調べてみようと思います。
坂の上の雲で品川徹さんが
我が第七師団は精強でしたが・・・(過去形)
もう兵が残っていませんって言ってたな
もう壊滅状態だったようだ
脚気の話は森鴎外批判とか、陸軍VS海軍みたいな話になって荒れやすいから...
UP主ならきっとそういうのを超えた知見を披露してくれるんだろうけど
素晴らしい。参考になります。
他府県の事は知りませんが、1945年の国民総動員で、広島県から旭川の連隊に多数の兵隊を召集していました。
私の中学校の理科の教師、叔父さん達も広島県本籍ですが、旭川の兵営に入隊した。
広島県の連隊は、広島と福山にありますが、旭川です。
当時、北海道の壮長に人的欠乏が出ていたのか?
あくまでも私の憶測ですが
広島出身の祖父の召集先が旭川の理由
1.昭和20年 第7師団(旭川)師団長は広島出身の国崎中将であり同郷を求めた
2.第7師団は南京攻略やノモンハン事件で戦い抜いてきた陸軍の中でも随一の強さと戦時中は言われており
一木支隊が第7師団所属でガダルカナル奪還作戦に真っ先に選ばれた(NHKスペシャルより抜粋youtubeにあり)
3.一木支隊が壊滅しても実績ある第7師団を陸軍としては看板を失う事は戦意高揚維持の為に絶対必要であった
これらが理由だと思います
私が直接話を聞けたのは三人で、いずれも大正14年生まれ、身長160センチ位の体格で、第二乙種と見られる当時19歳の準現役兵ばかりでした。
一人は広島師範学校(現広島大学教育学部)在校生で勤労動員中。
他は、旧制中学卒業後国営企業(国鉄など)勤務者でした。
素質優等とは言えなくとも、当時の召集者の中では残されたマシな若者と見られました。参考までに。
ノモンハンで壊滅した歩兵第23師団の編成地は広島で、主に中四国の兵隊でしたが、再編成時連隊の兵営地を南九州に移され、九州の兵隊で再編成されました。
また、バターン第一次攻撃の歩兵第65旅団も編成地は福山で、中四国の兵隊で編成されました。
当時の60番代の旅団は65旅団を除き、それぞれ師団に再編成されました。
広島 福山の召集動員には、多少の不運さを感じます。
郷土連隊は戦争末期になればなるほど有名無実化しましたからね
特に北海道は人口が少ない(兵役年齢者が少ない)から、編成地が北海道であっても充員招集で日本中から集める必要が出ます(平時なら地理的に近い東北から引っ張るそうです)
常設の第7師団の他にも戦時増強された第71師団(87、88、140歩兵連隊)、第77師団(98、99、100歩兵連隊)、第88師団(306歩兵連隊)、第89師団(混成第4旅団(6個独立歩兵大隊))、第91師団(歩兵第73旅団、歩兵第74旅団、各6個独立歩兵大隊)第147師団(425、426、427、428歩兵連隊)
以上が調べれた範囲ですが、旭川で編成された歩兵連隊・旅団です。第7師団以外にも6個師団分の歩兵連隊を北海道の兵役従事できる人間だけで編成するのは不可能(各師団1万~2万の兵士が必要)なので、日本各地から17~45歳までの予備役、補充兵役、国民兵役を根こそぎ動員するしかなかった
祖父の実家の青森県北津軽郡は本来なら第8師団に配属だったんでしょうが、実際の配属先は野戦重砲連隊で本土決戦の為に九十九里に展開していたそうです
@@和泉一郎 身長160cmだと当時の平均身長です。師範学校在籍者はもちろん旧制中学卒業者は当時の旧制中学への進学率が8%ほどだったことを考えると貴重な高学歴者ですね。終戦間際でなければ幹部候補生に勧誘されて士官になっていた方々だと思います。
ノモンハンの第23師団は歩兵第64聯隊が熊本、72聯隊が大分で、広島編成は71聯隊だけです。
ヌシのお休み宣言の間は昔の見てない動画で
知らなかった、本籍地で分けられてたんですね。
しかし…補充もか…被害が大きかったら……( ̄▽ ̄;)
良く考えられてますね、と言うことは、割かし近場の同じ郷土の仲間たちと一緒に戦うんですね。
第九師団は運が良かった。沖縄を離れたのは幸い。
ちなみにこの異動が遠因となって沖縄では、220人余が死亡する日本鉄道史上最悪の鉄道事故が起きた。
沖縄の嘉数高地には、京都の塔があり、大半の構成員が京都府民だった第六十二師団独立混成旅団の尊い犠牲を奉ってます。
曽祖父が金沢第九師団で盤龍山戦死なので第九師団で♪
私はゴールデンカムイの杉元佐一と同じ第一師団です。日露戦争だったら二〇三高地の戦いに出征していますね。
この後小倉第12師団に加えて久留米にて国軍最強を自負した通称号に皇家の「菊」を戴いた第18師団も入るわけか。九州の師団は精強な部隊が多いな。
旭川、弘前、宇都宮、水戸、佐倉、金沢、高知、鹿児島
特に旭川は何度も全滅に近い損害を出してる。あの一木支隊も旭川連隊。大阪は一番弱くて毎度またも負けたと揶揄されてた。
旧陸軍の師管区、連隊区に昔から興味があります。九州は強かったといいますが、歩兵128連隊の書籍を見るに、ちょっとやりすぎではないかと😓
大阪出身なので、一番好きなのは第四師団、八連隊ですね!
連隊史も大阪中央図書館で見つけて読んでいました。
戦争は好きではないけど、先人の地域性のある逸話になぜか引かれます。何故か泣けてきます。先人に敬意を持つきっかけになります。
第15師団は解体されたけど師団長官舎はまだ現存してるよ、地元なら第18連隊で日清戦争から出兵してる
熊本師団のエピソード調べてみよ
第七師團の呼び方は「だいしち」明治天皇がそう呼ばれたからだそうです。
近衛師団はやっていませんでしたが、是非ともお願いします‼🙇😄
近衛師団は各地から選抜なのかなー、でも東京管区の人口が突出してるから主に関東人だったのかな?
近衛兵は全國各聯隊からの選抜兵でした。見栄えの良いのが選ばれたそうです。實家に憲兵が調査に来たとか。
特に近衛騎兵連隊は各市町村から
推薦者のレベルが高すぎて
選抜に苦労した話が残っています。
@@麻田稔 銭湯で見知らぬお爺さんに「ほお、それだけ背が高けれりゃ近衛騎兵だのお」といきなり云われ??で帰ってきたあんちゃん、あとで褒め言葉と分っても??だったそうですw 昭和40年代の話。 騎兵は素早く乗馬下馬しなければならないので背が高いのが必要條件だったそうです。
将校に充てられる学徒動員の場合はいきなり近衛師団配属という場合もありましたが、
士官学校も出てない新米少尉がよりによってエリート兵を指揮するというのはしんどそうですね。
@@user-33333 騎兵20連隊での話
現役入営したものの小柄だったのに
背の高い活兵器(馬)を当てられて
苦労したと本人から聞きました。
仙台第2師団長というと、梅津や馬奈木が師団長をやってたな
10年前宮城県の秘湯に日帰りした時の話。
先に入ってたおじいさんと話しして、若いときは戦争に行ってたと。
「あぁ仙台第2師団ですか?」って尋ねたら、「いや特務だった。中国で和平工作していた。」と話していた。
のぼせてしまってそれ以上詳しく聴くことができなかった。
結局どこだったんだろう。
今もし徴兵されたら姫路第10師団だな、ないけど。
静岡は優遇されていたんですね?
弘前第八師団、太宰治の小説に出てきたなぁ
逸話が気になります
八甲田山や日露戦争の時に師団長をやってた立見尚文氏は、戊辰戦争では幕府(正確には列藩同盟)側で大活躍しています
山県有朋を敗走させたおかげで、奴にはだいぶ憎まれていたようです
@@岩田実-h2f わぁ、ありがとうございます!
幕府側だった人も師団長になれるんですね、びっくりです笑
@@王遮那-t5c 様
立見氏は桑名藩でしたが、会津藩でも山川浩(戊辰戦争の時の主席家老!)が西南戦争で、柴五郎は義和団事件で活躍しました
会津は長州からは徹底的に憎まれてましたが、薩摩からはだいぶ好意を持たれてたようです
大山巌の夫人も会津の出身ですし
@@岩田実-h2f 大山巌の夫人ってことは捨松さんですか?
会津のお方でしたか、初めて知りました
色々と詳しくありがとうございます!
@@王遮那-t5c 様
そうです
ちなみに旧姓、アメリカ留学した時の名前は山川捨松
先述した山川浩の娘です
追記
『バルトの楽園』で板東捕虜収容所の所長をやってた松江豊寿氏も元会津藩士ですね
第七(なな)師団と読むのではなく、第七(しち)師団です。
第4師団ってあるんですね。
第4艦隊もあるんだからそりゃあるだろうけど、ちょっと意外。
うちの爺様、宮城中部だけどガダルカナルに行かず、ずっと大陸だったそうです。行ってたら、多分私らはいなかったな…
戦車の写真をたくさん持ってましたが、詳しく聞く前に糖尿で逝ってしまった、お酒が好きだった。
今の住みで言えば第三師団やけど生は第七師団なんだよなぁ‼️
俺この時代に生まれてたら小倉第十二師団か海軍所属か〜
ペリリュー島で全滅した部隊は、水戸第2歩兵連隊だから……東京第1師団所属か……
小倉12師団で有名なのは、旅順攻略の総司令官乃木希典が、少佐時代の時西南戦争で、連隊旗を薩摩軍に奪われた話が有名!
後は
あの文豪の森鴎外が、軍医部長として赴任した事があります。
但し、これは中央からの左遷のようでした。
俺の曾祖父ちゃんが元第7師団
でも、第2次の時だけどね 中国と東南アジア行ったらしい
今となれば第7師団の基地は跡形も無くなって今は沿岸警備隊の敷地になってるわ
昔から下関は九州扱い多いな
昔、農民が多いから無理な行軍もついて行けたって聞いたことがあったなーw
仙台の師団ぐるみの夜襲っていう謎ワード好き。司馬遼太郎の造語かもしれないけど。
大兵力ほど夜襲は困難とされていたらしいから、師団規模でできるほど夜襲が得意だったということですかね。確か日清か日露の頃の師団長が夜襲得意だったんでしたっけ。
仙台第二師団は
「夜襲に強い」とレッテルを付けられてしまい、第二次世界大戦で派兵されたガダルカナル島でもアメリカ軍相手に夜襲を敢行、しかしアメリカ軍はジャングルの中にも集音機要するにマイクを仕掛けており、夜襲を探知されてしまい、大損害を出す羽目になりました。
日露戦争時に黒木師団長指揮で師団規模の夜襲を成功させたとのことです。ただし師団長独断の作戦で軍紀違反とか。
善通寺師団の編成県に、徳山…どこだ、そこ?
高田第13師団はどこの軍に入って居たんですか?
第13師団は日露戦争中に編成された師団なので、この動画の対象外ですね。新潟県、長野県北部で編成されました。
なるほど、そうなんですね
@@粟田口國綱 第13師団は日露戦争中に本土防衛の為に編成されましたが、戦争終盤に講和を有利にするために行われた樺太占領作戦に主力として参加しています。満州では戦ってないんですね。
@@magicuser8654 教えてもらいありがとうございます
すみませんwうちの御先祖は、平安時代から同じ場所ww
母方の曽祖父が仙台第二師団の歩兵29連隊所属で満洲で病死したと伝えられてます
あなたの外公公は多くの无罪中国人を杀害した可能性がある。
実は大分から東京に本籍を移していた諭吉先生は作家活動を続けたい為に本籍を北海道に移して屯田兵登録をして数年間北海道で屯田(土地開発)活動をしてましたと言うアメリカで言う州兵登録をして徴兵を逃れたと言うのが有名ですよね。
理由は徴兵逃れではなく『文を用いて戦う事こそ真の富国強兵の基礎である。』と言う考え方だった為です。
熊本第八師団の精悍主義は現在の済々黌高校に息吹が残っており、熊本の方が済々黌の黄色のラインが入った学帽を見ると精悍を感じると言われていたりします。
済々黌出身でプロ野球の元監督、古葉氏を思い出しました。
わい東京第一師団やかっこええ!(栃木
仙台(川内)は海でも陸でも夜戦強いなー
師団はわかりませんが、第二軍の所属だったと思います。
得利寺の戦いとか…。
祖父が、曾祖父から話を聞いたらしいです。
私は第一師団ですね。
他界した家の爺様が小倉から久留米に移転した久留米第12師団から満州・ラバウルと派兵して戦っているよ。
旭川は,第7師団(だいしちしだん)と呼びます。
明治天皇がそう呼んだので,それにならったそうです。
大阪第4師団だった
10:02
栃木を戦場にすな()
うちの大阪第四師団と歩兵第八連隊は弱兵ではない、イイネ?
ごもっともです。
第8師団海将がやられた
第7師団…
自分は福岡久留米だから熊本第6師団。