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私は80才今も聴いています大好きです❤
数十年ぶりに聞いたけど何故か涙が出てきます
五木寛之の歌詞が素晴らしいですね。胸をわしづかみにされる。
改めて、沁みるねえ。ありがとう! 4
足がご不自由だった織江さんの「信介しゃん」と呼ぶ声が今にも蘇ってきそうな歌い彼方ですね。
素晴らしい曲ですね。厳しくも何処か暖かかった古き良き時代を生きた人々の人生が思い浮かびます。哀愁漂う😢
昭和27年 約2週間いたことが有ります。その頃の風景が思い出されます。
詩の内容の感情では無いのですが、風景を見ながら聞いています。貧しかった三軒長屋に住んでいた頃の父と兄を。このメロディーを聞くたび思い出し何時も涙が止まりません。今も夜明け前に涙を流しながら聞いてます。モノクロ風景で育った人間には有難い動画です。
織江の歌♫ 懐かしい😂映画も良かった🩷炭鉱が発掘されてた時代…映画の風景も今では変わり果ててます😭
シンスケシャン、のフレーズが40年間頭から離れません🎵
こんな悲しい詩初めて聞いた織江さんに逢いたいわ俺も田川のよしがたにの炭鉱社宅で暮らしてた貧乏で飯真面に食えんかった水飲んで天井の節穴見て寝てたこの歌聴いてあの頃思い出した織江さんも貧乏していたんやな涙がボロボロ出て止まらんわ織江さん今もどこかで達者に暮らしてるとしんじてるよ
懐かしいですね、涙が出ます🥲
さいたまのテルさん昭和54年に福岡に転勤しました❗自分の学生時代の友人に、チョッと見、高倉健!ラグビーの選手でした❗青春の門に心を打たれ、良く田川に行きました😄歌詞も山崎ハコさんも風景も、全てが好きでした❗当時を懐かしみながら、信介シャンを聞かせていただいてます❗79歳です。
ありがとうございます 👏👏👏👏涙が零れます聞きながら動けませんでした私達の幼いころは 皆そうでした 食べるものも食べられず 着るものも切られず寒い雪の中は藁草履で震えながら通学しました 学校の老化は冷たかった でも 友達と会うと元気が出て走り回りました・・・ありがとうございました
大竹しのぶさんの凄みのある演技が目に浮かびますが、この唄は唄自体がドラマになってますよね。涙が止まらない。昔の貧しかった日本の姿がここにあります。東北の農村もしかり。
響きます😿。今聴いてもカッコいい。福岡田川に伺ってみたいです。
山崎ハコさんは大分県日田市出身だったかな、いい歌です😊歌詞がなんとも印象深く
山崎ハコさん独特ですが、ものすごくファン多いです。個人的には懺悔の値打ちもないが好きです。
良い唄ですねー、私は小倉産まれの戸畑育ち、S48年高校を卒業するまで 住んでましたので、今でも友達は田川、直方、飯塚、折尾、遠賀、若松におります、唄を聞くたびに友達の顔が浮かびます、本当に自分にとって良い唄を有難う、ハコちゃんも身体に気をつけて今後も頑張ってください。
^_^織江の唄、、、遠賀川、この唄が流れて来ると、高校生まで住んでいた、中間市を、思い出します、涙が出ます🥲!
昭和48年卒業ですと29年生まれですかね⁉︎
なんか切ない曲ですね
ハコさん。素敵な曲を有り難う❤️ヤッパリハコさんと言えば、おりえの唄が、その時代が目に浮かぶ曲です。
素晴らしいです。映画も見ました。この画像が地元民としたは懐かしいというか・・香春岳は削れ続けて今はもう半分しかありません。このアップは極めて貴重な画像で感動します。
炭鉱、炭住、ボタ山、炭鉱の共同風呂~炭住での皆での盆踊り、さまざまな苦楽が甦ります…今となっては懐かしい想いでとなりました🍀
私も貴方と同じ想いです。田川の松原の炭住に祖母と暮らしていたことを想い出して貧乏で辛かったけど祖母の温かいご飯を思い出して涙が出て仕方ないです。
この映画を観て、筑豊の景色と、織江さんの初恋が、切なくて、この曲は、しんしゅけしゃんの詩と、覚えてました。何だかな〜、日本の歴史を、感じるなぁ😢
福岡とは何の縁もゆかりも無いのに福岡筑豊の昔の映像、画像を観ると郷愁を感じる…。
同じです 郷愁 望郷を思わざるにはおれません
日本中から故郷の風景が消えて行きます😑
いろいろな事象の解釈が変わりこの頃の情の解釈表現は令和のこの時代にあってはナントカハラスメントだとか言われてしまうかもしれませんね・・。 大竹しのぶさんの表現に私の感情は持っていかれてしまいました。 早坂暁さんの本、最高だと思いました。 山崎ハコさんは心の底から全身全霊で情を歌っている。 ここでも私のハートは持って行かれました。
昔の風景見ながら、聞き入っていました、胸が熱くなりますね~青春の門、懐かしいですね
切ないですね。ハコさんの歌心と映像が当時の世の中を、思わせます。青春の門は、見ましたが、記憶が、定かではないので、また、見てみようと思います。
映画では菅原文太さんと松坂慶子さんだったと記憶しています。本も読みましたが、また見たい読みたいですね。
茨城の出身だけど親戚が小倉の枝光にいます。唄には歴史を感じますね。
現在55歳お袋が田川でガキの頃、当時の田川に連れて行ってもらってました!祖父も炭鉱夫だったと聞いてます青春の門も17歳の頃読みました!懐かしいですね〜お袋は亡くなってしまい現在は東北に住んでますが叔母、いとこ達に会いに毎年田川に帰ってます!
当時の面影を残す風景って、どこか哀しく切ないですよね
コメントありがとうございます。 ですねー。
懐かしい景色、、。
初めてフルで聴きましためちゃくちゃ悲しい歌なんだねなんか聴いてて泣けてきたよ😢😢
この曲はとてもパワフルです。 それは心と魂に届きます。
すばらしい!
小竹南小学校が懐かしい、昭和40年まで在籍してました、当時はテレビのスチャラカ社員のお笑いが流行っていました。
最近、この歌を知りました。この画像が当時の様子がわかって良いと思いコメントしました。山崎ハコさんって声が澄んでいて、しかも力強く、織江さんの気持ちが心の奥に響いてきます。他の曲も聞いてみました。「青春の門」も読んでみたいです。
「織江の唄」知ってくれて 嬉しいです「青春の門」お読みくださって ありがとうございます
安田さんのギターが聴きたくて訪問しました。
20代で映画館で青春の門を見て 炭鉱長屋が私の常磐炭鉱長屋と少し違ってた、記憶がある!織江の歌には、昭和の炭鉱のもの悲しさある!
炭鉱ではいつ命を落とすか分からなかったのでお酒を飲み紛らわせながら仕事をしていたそうですね、なので下戸は甘いもので紛らわせたとか。いつまでも聞き継がれてほしい歌ですね。命を感じる。
久しぶりに聴きましたが心に染みる。貴重な画像が沢山、今では香春岳はもっと削られて山の様相もないですね。香春岳のふもとに「ドライブインかわら」ここに行くと「青春の門」のロケの写真も飾ってあります。ハコさん今はどうされtるのですかね?
織江さんの歌に炭住生活を思い出し、ボタ山での石炭拾いが蘇ります。
昭和40年代までは石炭・木炭が当たり前でしたね。日本各地にボタ山があって、そばには炭鉱住宅があって、そんな時代でした。
@@アニマルライフなー ついつい、織江さんの歌を求めています。86歳の爺さんですが、切ない歌にしんみりとなってます。炭坑閉山がこれ程までに故郷が過疎化し帰省する事さえ出来ません。過疎化は田川だけじゃ無い事は理解しているんですがね。
筑豊ではありませんが山口県宇部市の小学校は石炭ストーブでした。石炭は暖かかった。
@@ペンギン-1gou 教室には暖房設備などは無かったですが、乾布摩擦で身体を暖めて居ました、1クラス約55人でしたから部屋は暖かった気がしました。
@@f4802 実は私は宇部の小学校から北九州市の小学校に転校したのですが、北九州の小学校は暖房が無くて冬は寒かったw。
まるで、みっちゃんや洋子姉さん達(仮名)が、語り掛けて来る気がする歌ですね。
田川生まれで第三松原の炭住の祖父母のとこに小6まで居ました。偶然にも光子叔母に洋子叔母もいました。仮名乍ら凄く偶然で悲しく哀愁が沸きます。
ホンに。良い思い出の「一切」無い町やった・・!!
確かにそうですね。私も田川に住んでた頃ガキの時代ですが炭鉱が閉山になって貧乏で良い事は無かった。
歌詞はさすがに五木寛之だけあって素晴らしいですがこの歌詞にこれほどの曲をつけるなんて山崎ハコの才能は想像を絶するものがありますね。さらにはこの曲をこれほど完璧に歌うなんて、なんて才能でしょうか。
幼い頃から、トロッコが登って行くボタ山を眺めながら育ち、遠賀川が台風で決壊氾濫し大人の胸まで浸かり、中間市の町は、大変だった事を、思い出します、織江の歌で、遠賀川… 高校生まで、中間市で育った私は、涙が出ます🥲
若い頃、ライブで映画館で青春の門見て、田舎の常磐炭鉱の長屋を思いだし、涙した。その時この織江の歌が流れていた!
小説を読めば、もっと感銘を受ける!哀しく接ない、思い入れのある曲!
ハコさん いいうたですね 応援してますハコさん!
何故、映画ドラマのどれにも高倉健さんが出演してないのか高倉健さんは自分は筑豊の川筋気質だからと言っていたのに、織江はもう山崎ハコさんのイメージしかない、この歌出した頃の山崎ハコさんホントおぼこくて可愛いくて織江のイメージそのものやったな、この写真何で香春岳の前にぼた山?、ぼた山は飯塚の塙のとこへ居候した信介に会いに田川から飯塚へカラス峠を越えて来た織江が見た景色の事で田川の景色ではないはず遠賀川は飯塚を流れてる川だし、三番の歌詞は織江が田川から小倉へ行く時の景色かな、香春を真っ直ぐ行けば小倉やし、なんか女の子から女になる織江にとっても青春の門をくぐってるって歌なんかな。
タイトル:織江の唄歌手:山崎ハコ作詞:五木寛之作曲:山崎ハコ編曲:山崎ハコ遠賀川 土手の向こうにボタ山の三つ並んで見えとらす信ちゃん 信介しゃんうちはあんたに逢いとうてカラス峠ば 越えて来たそやけん逢うてくれんね 信介しゃんすぐに田川に 帰るけん織江も大人に なりました月見草 いいえそげんな花じゃなかあれはセイタカアワダチ草信ちゃん 信介しゃんうちは一人になりました明日は 小倉の夜の蝶そやけん抱いてくれんね 信介しゃんどうせ汚れて しまうけん織江も大人に なりました香春岳 バスの窓から中学の屋根も涙でぼやけとる信ちゃん 信介しゃんうちはあんたが好きやったばってんお金にゃ 勝てんもんそやけん手紙くれんね 信介しゃんいつかどこかで 逢えるけん織江も大人に なりました
1980年新卒で会社に入社し博多に配属になりました。そのとき知り合ったのが初恋の人です。田川出身の綺麗な女性でした。織江の唄「青春の門」一番から三番まで歌の歌詞をすべて知ってます!私の青春でした!
この歌の調べに、(1951)高校生当時を思い出しています。定時制に通うN・Nさんが当直の日、たった一人の事務所での会話から、行ってみる?、の誘い、カンテラを付け炭鉱坑口から歩いて入りました、採掘した跡に、カンテラ消してみて、真っ暗です、東西南北、上下、の感覚・記憶がなくなり恐怖感から座りました。坑口を上がって行くと、時折頭上を通過するトロッコの轟音、ビックリしました。後日、責任者の方から呼び出されこっ酷くお叱りがありました。今でも、この体験には恐怖心があります、過日の電話などでは真っ先に思い出しますね。
2024.2月大阪・高槻に住む友から90 になった旨、電話があり互いの健在に喜びを伝えました、彼は定時制、私は昼間の高校通学でした。豊前川崎・島廻炭鉱奥谷社宅住まいでしたね、石炭の煙がする暮らしは今では懐かしいです、高卒後互いに就職、転勤で勤め先も変わり、私は東京と神奈川の県境の所に住んでいます。大阪には何度か行き大阪・梅田で会いました、昨今、友と会えることは?と思っています。「織江の歌」を聞くたびに切なさが増す思いを巡らせています。
昭和の切ない歌
五木寛之の大河小説『青春の門』に登場する主人公伊吹信介と幼馴染の牧織江の哀しい恋の物語を題材に作られた歌です。幼くして父を炭鉱事故で失い、母の手で育てられた信介が中学卒業とともに福岡に就職し、母を亡くし一人ぼっちの身の上となった幼馴染の織江は、借金のカタに小倉の遊郭へ売り飛ばされるという物語。夜の蝶に身を落とす前の日、織江は信介を訪ねてきます。
背景に出て来る、香春岳は太郎の一族「麻生セメント」が半分に削りました・・・
この山削って政治資金作ったと思うと腹が立ちますね。ほんとにろくな事せんなー、太郎は。
おれは、小竹町で生まれ、炭坑住宅やボタヤマが懐かしい、子供の頃に戻りたい初恋の人に会えれば最高だよ、10分でいいから。
たまにカラオケで歌います(T . T)悲しい歌🖤
もう50年位前になるかな、『青春の門』筑豊編から始まり全部読んだ。自由奔放な信介とそれに振り回される織江、織江はいつも可哀相だった。こんな唄があるなんて・・・・
素晴らしいね田川
もう何十年前になりますか?河島英五さんとのコンサートに行きました以前からハコ様の譜は大好きで良く聞いておりました何かしら悲しくて切なくて聴いていて泣く時もありました織江の詩なんとなくの詩なんか若い時を思い出したりしてます。
この歌を聴くと、土門拳の「筑豊のこどもたち」を思い出してしまう。確かるみえちゃん、さゆりちゃんはお父さんが亡くなって児童福祉施設に引き取られたという事だったけど、その後は幸せになれたのだろうか。
今、「筑豊のこどもたち」の感想サイトを見たら、姉妹とも結婚して幸せに暮しているとの事で、ちょっと安心した。
「筑豊の子どもたち」持っています。るみえちゃんだった。
S28年高卒後、田川市内に就職(臨時雇用)、勤め先の上席には女性、栄町遊郭に家があり経営(タバコ屋も)して居ましたね、汽車の時間待ちの時など時間つぶしでタバコ屋に、女性のお父さんに見つかると来ちゃいかん、と叱られましたよ。S32年?、そのお父さんは亡くなり葬儀には出席しました、【青春の門】の草稿基点の栄町にはいつも信介青年に重ね合わせ、この「織江の唄」を聴いています。草根魂?、大阪の友と90年の歳月を過ごして居ます。
何歳の時、作曲したか知らんが、いくらでも年寄りの作曲家居るのに、20才そこそこで、作られたら、やっとれんわな。😩あんた、作曲界の藤井聡太やわー。😆
感謝 精進 懺悔の心を、大切に生きていきたい。
泣いてしまう
けがれる前の綺麗なうちに信介に でも抱いて貰えず風俗に たまりませんね😢
山崎ハコさん…歌が上手でかなり驚きました!申し訳ありませんでしたm(__)m‼️
泣く子も黙るという言葉がありますが、泣く子も泣きじゃくる。山崎ハコの真骨頂がこの曲ですね。中島みゆきもかなわない。単にくらいだけでなく確かな歌のうまさ。こういう曲を歌えるのは北原ミレイと山崎ハコだけしょうね。
令和3年も聴いている人✋
✋
令和4年令和5年も聴いてます。🎉
最近よく聴いています
令和6年 聴いてます✨
唄うのは🎉聞く度々に胸に熱いものが込み上げります😢😢ありがとう❤️
五木寛之も、藤圭子でなく、本物はハコと知ったようだな。🧐
田川のこと全然知りませんが、長野から昭和30年頃に筑豊に来て、両親たちは、環境になれず苦労が目に見えるようです
今の若い女優で織江を演じて見事なのは誰だろう……。
映画を観たけれど、幼い男の子が女の子の陰部に小石を詰め込むシーンとか、芸者の女性が客達に放尿するところを見せるシーンとか いくつか衝撃的なシーンがあった。
超なつかしい昭和のフォークソングライター、山崎ハコさん 今ご健在なんでしょうか? 知ってる人いたら返信乞う。
そうか、この歌は山崎ハコが歌っていたのか。
今日の念はすごく強い
コメントありがとうございます。
鎮西小学校の正面に香春岳少し前には彦山川学校横には成道寺公園(字は分からないわ)あの頃のこと は今でも忘れない関西に出てもいつまでも九州出身を忘れないいつまでも九州人もう先は長くない患っているからな死ぬまで九州人伊田の駅から出てきた親父は無くなり母親は施設次は俺の番や
可愛いくて織江ちゃん🥹🥹
信ちゃん信太郎しゃん
それぞれの人生をせいぜい生きるしかない。
ハコさんの曲にはそうしたものが多いですね。だから胸が熱くなる。
あの時代をハコさんは鮮烈に刻印しましたね。ずっと残るでしょう。
信ちゃん貴方に私はかなはなかった唯羨ましい
アンタラの父母が、こころ震わした歌なので、ちゃかすようなコメントは差し控えて頂いてよろしいでしょうか。
今も立っとる人やパピー活動しとる人に聞いてもらいたかね。
何で削除されたのお
私にも分らないんです。
私は80才今も聴いています大好きです❤
数十年ぶりに聞いたけど何故か涙が出てきます
五木寛之の歌詞が素晴らしいですね。胸をわしづかみにされる。
改めて、沁みるねえ。
ありがとう! 4
足がご不自由だった織江さんの「信介しゃん」と呼ぶ声が今にも蘇ってきそうな歌い彼方ですね。
素晴らしい曲ですね。厳しくも何処か暖かかった古き良き時代を生きた人々の人生が思い浮かびます。哀愁漂う😢
昭和27年 約2週間いたことが有ります。
その頃の風景が思い出されます。
詩の内容の感情では無いのですが、風景を見ながら聞いています。貧しかった三軒長屋に住んでいた頃の父と兄を。このメロディーを聞くたび思い出し何時も涙が止まりません。今も夜明け前に涙を流しながら聞いてます。モノクロ風景で育った人間には有難い動画です。
織江の歌♫ 懐かしい😂映画も良かった🩷炭鉱が発掘されてた時代…映画の風景も今では変わり果ててます😭
シンスケシャン、のフレーズが40年間頭から離れません🎵
こんな悲しい詩初めて聞いた織江さんに逢いたいわ俺も田川のよしがたにの炭鉱社宅で暮らしてた貧乏で飯真面に食えんかった水飲んで天井の節穴見て寝てたこの歌聴いてあの頃思い出した織江さんも貧乏していたんやな涙がボロボロ出て止まらんわ織江さん今もどこかで達者に暮らしてるとしんじてるよ
懐かしいですね、涙が出ます🥲
さいたまのテルさん
昭和54年に福岡に転勤しました❗自分の学生時代の友人に、チョッと見、高倉健!ラグビーの選手でした❗青春の門に心を打たれ、良く田川に行きました😄歌詞も山崎ハコさんも風景も、全てが好きでした❗
当時を懐かしみながら、信介シャンを聞かせていただいてます❗79歳です。
ありがとうございます 👏👏👏👏
涙が零れます
聞きながら動けませんでした
私達の幼いころは 皆そうでした
食べるものも食べられず
着るものも切られず
寒い雪の中は藁草履で震えながら通学しました
学校の老化は冷たかった
でも 友達と会うと元気が出て走り回りました
・・・ありがとうございました
大竹しのぶさんの凄みのある演技が目に浮かびますが、この唄は唄自体がドラマになってますよね。涙が止まらない。昔の貧しかった日本の姿がここにあります。東北の農村もしかり。
響きます😿。今聴いてもカッコいい。福岡田川に伺ってみたいです。
山崎ハコさんは大分県日田市出身だったかな、いい歌です😊歌詞がなんとも印象深く
山崎ハコさん独特ですが、ものすごくファン多いです。個人的には懺悔の値打ちもないが好きです。
良い唄ですねー、私は小倉産まれの戸畑育ち、S48年高校を卒業するまで 住んでましたので、今でも友達は田川、直方、飯塚、折尾、遠賀、若松におります、唄を聞くたびに友達の顔が浮かびます、本当に自分にとって良い唄を有難う、ハコちゃんも身体に気をつけて今後も頑張ってください。
^_^織江の唄、、、遠賀川、この唄が流れて来ると、高校生まで住んでいた、中間市を、思い出します、涙が出ます🥲!
昭和48年卒業ですと29年生まれですかね⁉︎
なんか切ない曲ですね
ハコさん。素敵な曲を有り難う❤️ヤッパリハコさんと言えば、おりえの唄が、その時代が目に浮かぶ曲です。
素晴らしいです。映画も見ました。この画像が地元民としたは懐かしいというか・・
香春岳は削れ続けて今はもう半分しかありません。このアップは極めて貴重な画像で感動します。
炭鉱、炭住、ボタ山、炭鉱の共同風呂~炭住での皆での盆踊り、さまざまな苦楽が甦ります…今となっては懐かしい想いでとなりました🍀
私も貴方と同じ想いです。田川の松原の炭住に祖母と暮らしていたことを想い出して貧乏で辛かったけど祖母の温かいご飯を思い出して涙が出て仕方ないです。
この映画を観て、筑豊の景色と、織江さんの初恋が、切なくて、この曲は、しんしゅけしゃんの詩と、覚えてました。
何だかな〜、日本の歴史を、感じるなぁ😢
福岡とは何の縁もゆかりも無いのに福岡筑豊の昔の映像、画像を観ると郷愁を感じる…。
同じです 郷愁 望郷を思わざるにはおれません
日本中から故郷の風景が
消えて行きます😑
いろいろな事象の解釈が変わりこの頃の情の解釈表現は令和のこの時代にあってはナントカハラスメントだとか言われてしまうかもしれませんね・・。
大竹しのぶさんの表現に私の感情は持っていかれてしまいました。
早坂暁さんの本、最高だと思いました。
山崎ハコさんは心の底から全身全霊で情を歌っている。
ここでも私のハートは持って行かれました。
昔の風景見ながら、聞き入っていました、胸が熱くなりますね~青春の門、懐かしいですね
切ないですね。ハコさんの歌心と映像が当時の世の中を、思わせます。青春の門は、見ましたが、記憶が、定かではないので、また、見てみようと思います。
映画では菅原文太さんと松坂慶子さんだったと記憶しています。本も読みましたが、また見たい読みたいですね。
茨城の出身だけど親戚が小倉の枝光にいます。
唄には歴史を感じますね。
現在55歳お袋が田川でガキの頃、当時の田川に連れて行ってもらってました!
祖父も炭鉱夫だったと聞いてます
青春の門も17歳の頃読みました!
懐かしいですね〜
お袋は亡くなってしまい現在は東北に住んでますが叔母、いとこ達に会いに毎年田川に帰ってます!
当時の面影を残す風景って、どこか哀しく切ないですよね
コメントありがとうございます。 ですねー。
懐かしい景色、、。
初めてフルで聴きました
めちゃくちゃ
悲しい歌なんだね
なんか聴いてて
泣けてきたよ😢😢
この曲はとてもパワフルです。 それは心と魂に届きます。
すばらしい!
小竹南小学校が懐かしい、昭和40年まで在籍してました、当時はテレビのスチャラカ社員のお笑いが流行っていました。
最近、この歌を知りました。この画像が当時の様子がわかって良いと思いコメントしました。山崎ハコさんって声が澄んでいて、しかも力強く、織江さんの気持ちが心の奥に響いてきます。他の曲も聞いてみました。「青春の門」も読んでみたいです。
「織江の唄」知ってくれて 嬉しいです
「青春の門」お読みくださって ありがとうございます
安田さんのギターが聴きたくて訪問しました。
20代で映画館で青春の門を見て 炭鉱長屋が私の常磐炭鉱長屋と少し違ってた、記憶がある!織江の歌には、昭和の炭鉱のもの悲しさある!
炭鉱ではいつ命を落とすか分からなかったのでお酒を飲み紛らわせながら仕事をしていたそうですね、なので下戸は甘いもので紛らわせたとか。いつまでも聞き継がれてほしい歌ですね。命を感じる。
久しぶりに聴きましたが心に染みる。
貴重な画像が沢山、今では香春岳はもっと削られて山の様相もないですね。
香春岳のふもとに「ドライブインかわら」ここに行くと「青春の門」のロケの写真も飾ってあります。
ハコさん今はどうされtるのですかね?
織江さんの歌に炭住生活を思い出し、ボタ山での石炭拾いが蘇ります。
昭和40年代までは石炭・木炭が当たり前でしたね。
日本各地にボタ山があって、そばには炭鉱住宅があって、そんな時代でした。
@@アニマルライフなー ついつい、織江さんの歌を求めています。
86歳の爺さんですが、切ない歌にしんみりとなってます。
炭坑閉山がこれ程までに故郷が過疎化し帰省する事さえ出来ません。
過疎化は田川だけじゃ無い事は理解しているんですがね。
筑豊ではありませんが山口県宇部市の小学校は石炭ストーブでした。
石炭は暖かかった。
@@ペンギン-1gou 教室には暖房設備などは無かったですが、乾布摩擦で身体を暖めて居ました、1クラス約55人でしたから部屋は暖かった気がしました。
@@f4802 実は私は宇部の小学校から北九州市の小学校に転校したのですが、
北九州の小学校は暖房が無くて冬は寒かったw。
まるで、みっちゃんや洋子姉さん達(仮名)が、語り掛けて来る気がする歌ですね。
田川生まれで第三松原の炭住の祖父母のとこに小6まで居ました。偶然にも光子叔母に洋子叔母もいました。仮名乍ら凄く偶然で悲しく哀愁が沸きます。
ホンに。良い思い出の「一切」無い町やった・・!!
確かにそうですね。私も田川に住んでた頃ガキの時代ですが炭鉱が閉山になって貧乏で良い事は無かった。
歌詞はさすがに五木寛之だけあって素晴らしいですがこの歌詞にこれほどの曲をつけるなんて山崎ハコの才能は想像を絶するものがありますね。さらにはこの曲をこれほど完璧に歌うなんて、なんて才能でしょうか。
幼い頃から、トロッコが登って行くボタ山を眺めながら育ち、遠賀川が台風で決壊氾濫し大人の胸まで浸かり、中間市の町は、大変だった事を、思い出します、織江の歌で、遠賀川… 高校生まで、中間市で育った私は、涙が出ます🥲
若い頃、ライブで映画館で青春の門見て、田舎の常磐炭鉱の長屋を思いだし、涙した。その時この織江の歌が流れていた!
小説を読めば、もっと感銘を受ける!哀しく接ない、思い入れのある曲!
ハコさん いいうたですね 応援してますハコさん!
何故、映画ドラマのどれにも高倉健さんが出演してないのか高倉健さんは自分は筑豊の川筋気質だからと言っていたのに、織江はもう
山崎ハコさんのイメージしかない、この歌出した頃の山崎ハコさんホントおぼこくて可愛いくて織江のイメージそのものやったな、この写真何で香春岳の前にぼた山?、ぼた山は飯塚の塙のとこへ居候した信介に会いに田川から飯塚へカラス峠を越えて来た織江が見た景色の事で田川の景色ではないはず遠賀川は飯塚を流れてる川だし、三番の歌詞は織江が田川から小倉へ行く時の景色かな、香春を真っ直ぐ行けば小倉やし、なんか女の子から女になる織江にとっても青春の門をくぐってるって歌なんかな。
タイトル:織江の唄
歌手:山崎ハコ
作詞:五木寛之
作曲:山崎ハコ
編曲:山崎ハコ
遠賀川 土手の向こうにボタ山の
三つ並んで見えとらす
信ちゃん 信介しゃん
うちはあんたに逢いとうて
カラス峠ば 越えて来た
そやけん
逢うてくれんね 信介しゃん
すぐに田川に 帰るけん
織江も大人に なりました
月見草 いいえそげんな花じゃなか
あれはセイタカアワダチ草
信ちゃん 信介しゃん
うちは一人になりました
明日は 小倉の夜の蝶
そやけん
抱いてくれんね 信介しゃん
どうせ汚れて しまうけん
織江も大人に なりました
香春岳 バスの窓から中学の
屋根も涙でぼやけとる
信ちゃん 信介しゃん
うちはあんたが好きやった
ばってんお金にゃ 勝てんもん
そやけん
手紙くれんね 信介しゃん
いつかどこかで 逢えるけん
織江も大人に なりました
1980年新卒で会社に入社し博多に配属になりました。
そのとき知り合ったのが初恋の人です。
田川出身の綺麗な女性でした。
織江の唄「青春の門」一番から三番まで歌の歌詞をすべて知ってます!
私の青春でした!
この歌の調べに、(1951)高校生当時を思い出しています。
定時制に通うN・Nさんが当直の日、たった一人の事務所での会話から、行ってみる?、の誘い、カンテラを付け炭鉱坑口から歩いて入りました、採掘した跡に、カンテラ消してみて、真っ暗です、東西南北、上下、の感覚・記憶がなくなり恐怖感から座りました。
坑口を上がって行くと、時折頭上を通過するトロッコの轟音、ビックリしました。
後日、責任者の方から呼び出されこっ酷くお叱りがありました。
今でも、この体験には恐怖心があります、過日の電話などでは真っ先に思い出しますね。
2024.2月大阪・高槻に住む友から90 になった旨、電話があり互いの健在に喜びを伝えました、彼は定時制、私は昼間の高校通学でした。
豊前川崎・島廻炭鉱奥谷社宅住まいでしたね、石炭の煙がする暮らしは今では懐かしいです、高卒後互いに就職、転勤で勤め先も変わり、私は東京と神奈川の県境の所に住んでいます。大阪には何度か行き大阪・梅田で会いました、
昨今、友と会えることは?と思っています。「織江の歌」を聞くたびに切なさが増す思いを巡らせています。
昭和の切ない歌
五木寛之の大河小説『青春の門』に登場する主人公伊吹信介と幼馴染の牧織江の哀しい恋の物語を題材に作られた歌です。
幼くして父を炭鉱事故で失い、母の手で育てられた信介が中学卒業とともに福岡に就職し、
母を亡くし一人ぼっちの身の上となった幼馴染の織江は、借金のカタに小倉の遊郭へ売り飛ばされるという物語。
夜の蝶に身を落とす前の日、織江は信介を訪ねてきます。
背景に出て来る、香春岳は太郎の一族「麻生セメント」が半分に削りました・・・
この山削って政治資金作ったと思うと腹が立ちますね。
ほんとにろくな事せんなー、太郎は。
おれは、小竹町で生まれ、炭坑住宅やボタヤマが懐かしい、子供の頃に戻りたい初恋の人に会えれば最高だよ、10分でいいから。
たまにカラオケで歌います(T . T)悲しい歌🖤
もう50年位前になるかな、『青春の門』筑豊編から始まり全部読んだ。自由奔放な信介とそれに振り回される織江、
織江はいつも可哀相だった。
こんな唄があるなんて・・・・
素晴らしいね田川
もう何十年前になりますか?河島英五さんとのコンサートに行きました以前からハコ様の譜は大好きで良く聞いておりました何かしら悲しくて切なくて聴いていて泣く時もありました織江の詩なんとなくの詩なんか若い時を思い出したりしてます。
この歌を聴くと、土門拳の「筑豊のこどもたち」を思い出してしまう。確かるみえちゃん、さゆりちゃんはお父さんが亡くなって児童福祉施設に引き取られたという事だったけど、その後は幸せになれたのだろうか。
今、「筑豊のこどもたち」の感想サイトを見たら、姉妹とも結婚して幸せに暮しているとの事で、ちょっと安心した。
「筑豊の子どもたち」持っています。
るみえちゃんだった。
S28年高卒後、田川市内に就職(臨時雇用)、勤め先の上席には女性、栄町遊郭に家があり経営(タバコ屋も)して居ましたね、汽車の時間待ちの時など時間つぶしでタバコ屋に、女性のお父さんに見つかると来ちゃいかん、と叱られましたよ。
S32年?、そのお父さんは亡くなり葬儀には出席しました、【青春の門】の草稿基点の栄町にはいつも信介青年に重ね合わせ、この「織江の唄」を聴いています。
草根魂?、大阪の友と90年の歳月を過ごして居ます。
何歳の時、作曲したか知らんが、いくらでも年寄りの作曲家居るのに、20才そこそこで、作られたら、やっとれんわな。😩あんた、作曲界の藤井聡太やわー。😆
感謝 精進 懺悔の心を、
大切に生きていきたい。
泣いてしまう
けがれる前の綺麗なうちに信介に でも抱いて貰えず風俗に たまりませんね😢
山崎ハコさん…歌が上手でかなり驚きました!申し訳ありませんでしたm(__)m‼️
泣く子も黙るという言葉がありますが、泣く子も泣きじゃくる。山崎ハコの真骨頂が
この曲ですね。中島みゆきもかなわない。単にくらいだけでなく確かな歌のうまさ。
こういう曲を歌えるのは北原ミレイと山崎ハコだけしょうね。
令和3年も聴いている人✋
✋
令和4年令和5年も聴いてます。🎉
最近よく聴いています
令和6年 聴いてます✨
唄うのは🎉聞く度々に
胸に熱いものが
込み上げります😢😢
ありがとう❤️
五木寛之も、藤圭子でなく、本物はハコと知ったようだな。🧐
田川のこと全然知りませんが、長野から昭和30年頃に筑豊に来て、両親たちは、環境になれず苦労が目に見えるようです
今の若い女優で織江を演じて見事なのは誰だろう……。
映画を観たけれど、幼い男の子が女の子の陰部に小石を詰め込むシーンとか、芸者の女性が客達に放尿するところを見せるシーンとか いくつか衝撃的なシーンがあった。
超なつかしい昭和のフォークソングライター、山崎ハコさん 今ご健在なんでしょうか? 知ってる人いたら返信乞う。
そうか、この歌は山崎ハコが歌っていたのか。
今日の念はすごく強い
コメントありがとうございます。
鎮西小学校の正面に香春岳少し前には彦山川学校横には成道寺公園(字は分からないわ)あの頃のこと は今でも忘れない関西に出てもいつまでも九州出身を忘れないいつまでも九州人もう先は長くない患っているからな死ぬまで九州人伊田の駅から出てきた親父は無くなり母親は施設次は俺の番や
可愛いくて織江ちゃん🥹🥹
信ちゃん信太郎しゃん
それぞれの人生をせいぜい生きるしかない。
ハコさんの曲にはそうしたものが多いですね。だから胸が熱くなる。
あの時代をハコさんは鮮烈に刻印しましたね。ずっと残るでしょう。
信ちゃん貴方に私はかなはなかった唯羨ましい
アンタラの父母が、こころ震わした歌なので、ちゃかすようなコメントは差し控えて頂いてよろしいでしょうか。
今も立っとる人やパピー活動しとる人に聞いてもらいたかね。
何で削除されたのお
私にも分らないんです。
何で削除されたのお