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地元だとめちゃくちゃ馴染みのあるものばかりで嬉しいし 小学生のころ勉強した内容を思い出して懐かしくなった
木曽川の目と鼻の先に実家がある愛知出身の人間です。 ヨハネス・デ・レーケ(と自分は習ったのでこの表記で)は、今でも名前をしっかりと覚えている偉人の1人です。100年近く濃尾平野を守ってくれているこの工事には本当に感謝しています。
輪中内の出身です。小学校の校歌の中にも薩摩義士が入ってました。何度か水害の危機がありそのたびに裏手にある倉に避難していましたが、結局浸水等の被害は一度もありませんでした。当時の薩摩藩の方々のご尽力によるものでございます。心より感謝申し上げます。
岐阜県民ですが、小学校の頃習いました。デレーケさん薩摩藩の方々、関係者の方々のおかげで、洪水はほぼありません。(昨日近所の犀川が少し溢れてましたが)この動画を見て改めて先人の方々に感謝の気持ちでいっぱいです。
地元です。ヨハニス・デ・レーケと薩摩義士については小学校から中学校で何度も学びます。田舎で歴史という点からは薩摩義士の方が馴染み深く、平田靱負は町の名前にもなってますし、千本松原の治水神社は島津の家紋が掲げられてますし、盆踊りなどで着る浴衣にも島津の家紋が入ってるものも多い。 余談ですが、当時、その辺りは高須藩。高須藩は尾張国の支藩。小さな藩ですが、意外に重要な所ではありました。 島津には親しみを感じる人が多く、一方高須四兄弟の1人、会津藩主の松平容保(実際には幼少は江戸で過ごしていたが)の出の地でもあり会津にも親しみがあり。会津と島津の因縁は誰もが知る所ですが、この地はある意味、川が複雑に絡み合ってたくらい歴史も複雑に絡み合ってる土地でもあります。
初耳でした!会津とそんな関わりがあったなんて!素晴らしい事を知りました。ありがとうございます
平田靱負は資金繰りを解決するために自分の名前で借財して、工事が終了した晩に切腹して追加の借財を帳消しにするとともに、工事の責任を取ったと云う話を聞いた事があります。
愛知県一宮市でも、木曽三川の工事は小学校で習いました。人柱の件やヨハネス・デ・レーケによる三川分流工事の件は覚えていましたが詳細は忘れていたので動画作成に感謝したいです。地元の歴史は大切です。
鹿児島県民です。学生の時、岐阜県のおじいさん(おそらく明治生まれのかた)が治水を行った薩摩藩士の偉大さを伝えるべく講演に来てくださったことがあります。こちらが恐縮するほど熱く薩摩藩士への感謝の念を語ってくださいました。公演後、先生方が講演料を渡そうとすると薩摩の子孫からは受け取れないと固辞。翌日、なんとか受け取っていただこうと宿泊先を訪ねるも旅費すら受け取らずにチェックアウト済み。あまりの義理堅さに困りつつも感動した先生方は奥様への大島紬の反物と仕立券、薩摩切子などをご自宅に送り、ようやく受け取っていただけたそうです。
漢ですねぇ
鹿児島県でも宝暦治水については習ったものでしたが…今の子供達はどうなんでしょうね?
@@有林-v4r こっち(三重県で地元)はちゃんと覚えてますよ。ちなみにあの千本松原に植えられた松は日向松と言うそうでこちらにある松とは種類が違うと聞いた事があります。
習ったな。当時は千本松原の異様さは分からなかったけど今見ると凄いな。名古屋は戦後鹿児島から出稼ぎに来て定住した人が結構いて親近感がある。これは感謝だよ。
出稼ぎというか、集団就職で名古屋近辺に来た人多かったですね。
@@ちゃむピョロン さんへ、昭和40年代半ばくらいまでは、集団就職列車が3月末日まで、毎日数本出たらしい。(鹿児島人より)
@@ちゃむピョロン 東京は遠すぎる、大阪は独特すぎる、だから名古屋なんだと聞いた。
@@ちゃむピョロン さんへ周りも九州出身の人が多いです。舟木一夫さんの映画が大ヒットした時代の、毛織物産業の女子工員さんとかそのご子息様も多いですね。
@@AT-M--STSCOOPEDOG 返信ありがとう。尾張西部の毛織物工場に勤めるために来た人が多かったと聞いています。某市では、戦後の一時期男女の人口比が3:7だったそうです。舟木一夫もその某市出身ですね。
木曽三川の話は、岐阜県民なら小学生で多分習うかな〜。そん時はありがたみが分からなかったけど今は分かる。感謝🙏
三重県民もー
自分、地元羽島市だからめっちゃわかる
東北だけど習った。教科書にあったような気がするけと資料集だった気もする
今でも岐阜県と鹿児島県は教員の相互派遣を行っています。
凄いなーあんな、網目のような川を見せられたら、なんじゃこりゃとしか思えないだろう。コンピュータも無い時代に、机上計算で流量の計算をするだけでも大変だっただろう。本当に凄い。
最近は異常気象の豪雨による洪水被害が全国的に多いけど、このような巨大河川が集中して水害に苦しめられた歴史のある木曽三川エリアで水害が無いのがその治水技術の凄さを物語っているね
土木に限らず、こういう思い切った根本的解決は見ていて気持ちがいい
めちゃくちゃ地元だうれしい!!ここの細い堤防は信号もないから車移動で重宝してるまさかオランダ人も関わっていたとはちなみに佐屋川は無くなっているけど、今は佐屋川用水として木曽川から水を取り込み、農作に大きく貢献してるそして木曽三川の海側の先っぽにはナガシマスパーランドがあります
岐阜県生まれですが、小学生の時に習いました!車で走ると連続した大きな川を渡るのですが、その度にこのことを思い出します!これを機に皆さんに知ってもらいたいです!😊
愛知県民です。社会見学でここら辺は行きました。懐かしい、、、先人に感謝します
改めて治水の大事さを感じました。
宝暦治水は地元では有名な話で、今でも桑名の海蔵寺に抗議のため割腹した薩摩義士24名の墓碑が建立されてます。
そもそもが「薩摩藩の財政を削ってやろう」という悪しき意図をもった幕府の命令だからね…。しかしかけた犠牲は巨大だとしても、これで得た利益はそれを遥かに凌駕し、救った生命も数しれない。そして、こんなことが出来たのは薩摩藩以外になかったと思う。
薩摩の結束力の強さを感じる。幕府の権力を乱用した徳川は、衰えた時に痛烈なしっぺ返しを喰らうだろう。
薩摩様、、L IPみなもと太郎
現代でやったら効果的そうだけど当時だと無駄死にそう
地元だー!木曽三川の治水工事は小学校くらいに輪中の水害対策とセットで習いました実際に河口までを自転車で走ったことがあるけど、めちゃくちゃ広くて当時の改修の大変さが伝わってきます
鹿児島県民ですが、のびゆく鹿児島という副読本で必ず岐阜の工事のことは学びますねデレーケに理解のあった大久保や松方さんが後もう少し長く生きてたら日本の治水や森林はもう少し違ったかもな
木曽三川の分流について調べていた所、この動画を拝見しました。大変勉強になりました。ありがとうございました。
木曽三川公園の建物にもこの歴史が書かれていて、小学校の遠足で行ったときにすごいなと思いました。現在のような重機がない時代にこんな大規模な工事をするのはさぞかし大変だったでしょうね・・・。
大まかな流れは知っていましたが、薩摩藩に対する幕府の嫌がらせなど細かい事例は初めて知る所が多く、非常に勉強になりました!日本各地に先人の築いた努力の結晶があると思うと趣深いですね🇯🇵宝暦治水に対するうp主様のコメントも素敵です!
自国の技術に慢心せず、他国の技術を取り入れて学んでるところがこの時代の躍進の原動力だね
今のネトウヨに言いたい言葉
@@Hoffmann-j5y そうやってレッテル貼りしてる時点でダメ
@@日浦大輝-w5c 中立的か?…
@@CircleDog_02 実際やたら韓国下げしまくってる連中がウヨウヨしてるからなぁ…
鹿児島県民です、難工事、多大なる切腹した方々、財政難、奄美など島嶼への負担(黒糖地獄)、密貿易、軽く流される様習いましたが、当時明治維新前後の色々な本読んでる内に見えてきました。江戸幕府には、ちょい思う所もありますが、黒糖地獄、重税など島津も大概な所もあるし。自分関係者ではないですがコメ見ると現地では本当に感謝されているのですね。せめて良かったです。
他の地域ではなかなか知る機会の少ないお話を聴けてとてもよかったです!今後も楽しみにしています!
これほど巨大な河川が集中するこの地域で近年大規模な水害が無いのはすさまじいことだと思います
@@黒雷-t4q 普通に水不足有るよ
水不足なんてここ三十年近くねーって。
Chの趣旨とは違っちゃうだろうけど、建造物ではなく技術者に沿った解説なんてのも面白いかもしれないと思った
まさか、デ・レーケが出てくるとは…。地元佐賀県と福岡県の県境に流れる筑後川の大川市にデレーケ導流堤も紹介されてるし。
愛知県の小学生ならみんな習う、ヨハネスデレーケ
岐阜県民も小学校でみんな習う、ヨハネスデレーケ
そんなん習ったことないなぁ……
三河の人は習わないかもしれない西尾張の私は実際に現地も学習で見に行った
三重県民も習うよ
元庄内川流域民だけど、デレーケは習った記憶がない…
かつて岐阜県の小学生でした。岐阜県の小学生は社会の時間に明治治水とヨハネス・デレーケを必ず学びます。薩摩藩士の多大な犠牲も。さらに社会見学で現地にも行きました。母の実家が三重県南部で,帰省の際に父の運転で千本松原を走りました。あれこれ思い出しちゃうなぁ。
こういう動画大好き
ここ社会見学で来た。デレーケなんて小学校以来聞いた懐かしい。
いい体験ですね。
懐かしい笑笑
地元小学校で習いました。うろ覚えでしたがこうやって画像解説付きは大変勉強になりました。
小学校の頃習ったなあ(岐阜県民治水タワーで動画見て人柱や切腹が衝撃的だったのをあの辺りに行くといつも思い出す
関西民で全く知らなかった難工事なんだろうなとは思ってたけどめちゃくちゃ面白いな…!
薩摩藩士八十五名が殉職。 土木工事史上では黑四ダムに次ぐ犠牲者数です。 黙祷🙇
木曽長良背割堤は飛行機の滑走路、サバゲーやジョギング、サイクリングロードとして使われてるので、何度も行ったことがありますが、ただの船着場と思っていた堤防がケレップ水制という名称でちゃんとした役割を持っていることを知りとても勉強になりました!
はじめて知りました。どっちも偉業‼️いい動画ですね。
素晴らしい解説ありがとう😉👍️🎶ございます。まさしく歴史や地理、国際交流が融合された話しです。文科省さんよろしく。
説明が丁寧でわかりやすい!BGMもいいですねー
とうとうブラタモリでも木曾三川やってくれました!宝暦治水がメインで明治治水やオランダ人技師ヨハニス・デ・レーケについてはあまり触れていませんでしたが、一年前にこの動画を観て、また今日も振り返りで拝見しました。
輪中に立地している「木曽三川公園」に治水センターっていう施設があって宝暦治水のアニメが見られるんですが、ナレーターが、永井一郎さんなので、なにげにファーストガンダムっぽいです。
愛知県民です。「のびゆく郷土」という地元向け教科書で習いました。ただ小学生には難しくて意味不明でした。50年以上たった今、ようやくわかりました。
大阪人ですが、濃尾平野の歴史で少し習いました。こういう治水の話大好きです。
取り上げていただいてありがとうございます。やはり木曽三川分流にはすごい予算が投じられており、その必要性の大きさが広く認識されていたという事実を改めて感じましたん。学校教育で学ばされたのも宜なるかな。
地元ですが 復習のような感じで勉強になりました
こちらな動画は本当に素晴らしい!観る度 ほうう なるほど と成るような土木の歴史を紹介してくれる私は治水が大好きなので利根川の東遷 江戸川 霞ヶ浦の炭水化新中川 東綾瀬川 など色々 取り上げて欲しいです1番楽しみにしてる 番組です
みなもと太郎先生の風雲児たちでも宝暦治水の話は漫画化されていたな。輪中の住人に対して薩摩藩士が「あんたら何でこんな不便な土地に住んでんの?」って言ったら、輪中の住人が薩摩藩士に対して「あんたらこそ年がら年中火山灰が降るような不便な土地に何で住んでんの?」って言い返されるギャグシーンが印象深かった。思えば日本という土地はどこもかしこも自然災害だらけだよなあ。
岐阜市生まれです。小学校で習いましたね。映像でも言われてる様に濃尾平野は東高西低なので、大雨が降ると皆揖斐川に流れ込んで大洪水になるんですよね。大垣が自噴水による水の都と言われるのはそのためです。平野と言っても真っ平では無いので、自由気ままに流れる水は低い所を目指しますからね。網の目の様だったのを真っ直ぐ3本に纏めて貰えたので、速やかに海に流れ込むので水害も減りました。大きな水害は有名な伊勢湾台風や、最近では昭和51年の台風の時だけですね。戦後は、鹿児島からの集団就職などにも貢献してきました。あの時のお礼と言う事ですね。
小学生の頃に説明されても意味わからんかったけど今になってようやく理解できた感じいまでは立派な公園になって憩いの場ですね
仕事でよく中堤道路走るんだが、揖斐川と長良川の水位の違いをいつも不思議に思ってた(笑)ちゃんと理由があったんだな〜。先人の碑にも行ってみようかな🙏
懐かしいなあデレーケと輪中はテストにも出たし社会見学で現地にも行ったね
岐阜市民です。河口からは遠いけど、長良川の水害と三川の治水事業は小学校でかなりの時間を割いて習った。千本松原の付け根にある治水タワーは遠足で行ったなぁ薩摩藩士とデ・レーケ技師は真に県の恩人でしょう。感謝。
地元ネタや!動画ありがとうございます。復習的に見させて貰いましたが解り易く纏められていて面白かったです。リクエストとして、奈良の五条から和歌山の新宮まで鉄道を通す予定で中止になった五新鉄道の動画作って貰えると嬉しいです。
素晴らしい内容ですね。愛知県出身なので興味深く拝見しました。
岐阜市民です。岐阜の小学校で習う地域の歴史TOP2は杉原千畝と千本松原です。長良川が増水すると川底より低い輪中内は堤防や地面から水が染み出して床上浸水します私の実家は輪中の中にあるのでこれらの治水工事がいかに大切かが身に染みて分かります先人の偉人の功績に感謝
前から疑問に思ってたけどそゆことだったのか!!勉強になりました!
私は木曽三川の上流から下流までで多くの工事に携わりましたがこんな歴史があったのですね。
いつも楽しませてもらっています。治水関連は特に生き甲斐です!
「木曽三川」はよく社会のテストに出たけど、こんな裏があったとは。洪水を克服するため努力した先人方に感謝します。
小4のころにこれを習って、先程突然頭に思い浮かんだので調べてみたら、あの頃に学んだことがなんとなく思い出せた気がしました。
素晴らしい話を聞けて良かったです。
近隣住民です。千本松原へは小学生の時、歩いて遠足に行きました。揖斐川を渡るのには、普段は人が通れない”水管橋”をその時だけ鍵を開けてもらい通りました。木曽三川の江戸時代と明治時代の治水工事については学校で習いますし、木曽三川タワーの中にも展示があって、そこで学べますね。デ・レーケの工事の後も、増水に備えて堤防の嵩上げ工事が行われ、ようやく平成の頃に完成しました。
恐らく天文学の発達と並行して発達してきた最新の測量機器も重要な役割を果たしたのでしょうね。河川なんて数センチの水位差で何キロ平方も浸水する面積が変わりますからね。
尾張国の出身です小学生の頃に千本松原へ見学をしに行きました 銅像が建ってきたのが思いでです
地域ごとに違う授業あったなあ、東京では玉川上水をやった覚えが他の地域は何をやってるのかめっちゃ気になる
23区東部ですが、小学生の頃に見沼代用水の工事について習いました。
香川県は、香川用水と、弘法大師空海の満濃池をしました!
用水とはちょっと違うけど、伊勢湾台風の話はよく先生達から聞いたな台風後、当時の愛知県知事の鶴の一声で愛知の海岸線を囲む高い堤防が出来た話とか
自分は(元)愛知県民、平田靱負のことは小学校の時に確か道徳の授業で、「地域の偉人」的な感じで習いました。で、その後、社会科見学で千本松原の脇の治水神社に見学に行ったことも覚えています。今は東京都民ですが、平田靱負とデレーケの両氏には感謝しかないです。今、住んでいる関東における、伊那忠次・忠治親子と同じくらい、感謝してます。
懐かしい。水害対策の為付近の昔からの家は田んぼにぽつんと建っていても小さな城のような石垣の上に作られ、軒先には小舟が括り付けられていて河が氾濫した時はこれで移動したと社会科見学で習った事を覚えている。川を見下ろすタワーから実際の景色も見たし、社会の授業の際は別に「郷土の歴史」という予備教科書も有り習ったな。少し離れた三河でも記憶に残る勉強をさせてもらえた事に感謝。
千本松原!!懐かしい、小学生の遠足とかで行ったけどもう少し大人になってから見に行ったほうがありがたみがわかったかな~。
地元 海津の歴史 木曽三川分流 紹介して頂き ありがとうございます 鹿児島県 オランダ アムステルダムは、我が郷土 海津と 姉妹都市です。
祖父の家が長島温泉の近くにあります。家は水面より低く、超ヤバい大雨が来たら沈みます。木曽三川は海のほうは橋が4本(伊勢大橋、東名阪道、名四国道、伊勢湾岸道)しかなく、特に伊勢大橋は対面通行なので渋滞がヒドイです。
オランダ人による治水工事と言うと、福島の安積疏水関連工事を取り上げて頂けると嬉しいです。オランダ人のファンドールンのお陰で今も郡山市民は水に困ることなく過ごせています。
9:16 江戸時代から洪水が激増していることに驚き。尾張と美濃の堤防合戦。農業事業の発展。輪中を形成させたことが遊水池の減少させて逆に洪水を増やしていることがわかった。
ヨハネスデレーケとうちの地元のファンドールンとどっちが強い?
地元ですが確かに習うね。宝暦治水で岐阜と鹿児島に姉妹締結されたから岐阜に「薩摩カイコウズ街道」があるのね
薩摩藩士が生き別れた婚約者を思い、山頂にて故郷の方角を眺めていた所を恋姫山と名前が付いた。薩摩藩の方々の悲しさ、藩に忠誠を尽くす心に胸を打たれます。
僕、本当にこの治水工事が行われた付近に住んでるんですけど。今でも輪中の名残りとして周りに川が無いのに堤防や水門があったり、水屋があったり...現代技術でも軟弱地盤過ぎて新幹線の駅や線路をずらさざる負えなかったりと凄まじい負担があります。そんな土地でも洪水をなんとか止めようとしてくれた人に感謝...
地元!!!!嬉しい🎵😍🎵小学校で習ったので懐かしいです!!!
小学校でも宝暦治水は勉強しましたね。今でも薩摩カイコウズ街道という名称の道路があるくらいです。明治治水で作った木曽長良背割堤は車も来ない管理道路で、地元民はお花見や運動(ウォーキングやランニング・サイクリングなど)にと使ってます。
小4の時に岐阜の小学校に転校してすぐに行った社会科見学が木曽三川公園だった。転校して友達もいない時に女子ばかりの班に入って誰とも話したり遊んだりしてない時に行ったから色んな当時のことを結構覚えてる。自分の学校ではヨハネス・イ・デ・レーケっていう風に教えられたなぁ🤔
1号線手前の木曽川長良川の間の堤防では水面の高さが違う異様な光景が見れますね河口堰が出来てからは特に水面の高さが違う
鉄橋を潜るときに長良川の水面を横目に見ながらその下を走りますもんね。
この周辺はよく自転車でサイクリングしています。多度山山頂の展望台からだと木曽川の河川や濃尾平野が一望出来てとても綺麗ですまた木曽三川がどれだけ入り組んでいるかもよく分かるので機会があれば是非
解説有難う💌しっかり勉強させてもらいました🍀
愛知県側の住人だけど、初めて聞いた(小学校時代に聞いた記憶が無い)何であんな細長い堤防あるんだろう?とは思ってたけど、改めて先人の苦労の上に成り立っている今なんだと感謝🙇♂️
ものすごく身近な地域で嬉しい
めちゃめちゃ地元でなんか嬉しい
木曽三川の御囲堤みたいに首都の水害防衛という観点から利根川等の東京外縁部にあたる側の堤防は低くなってますね
水曜どうでしょうの試験に出るどうでしょうで木曽三川の覚え方を「くそしながらいびる」と語呂合わせしていたが、本当にそれで覚えてしまった。
食事中に木曽川って単語を聞くと思い出してしまう訳ですね
治水でいうと利根川東遷とか滅茶苦茶気になります...!
尾張地方の小学校は木曽三川治水事業を重点的に学習するみたいですね。
間違っている点①2:18 立田・福原輪中は尾張国。木曽川右岸には尾張藩の支藩高須藩があるため、「美濃の堤防は尾張の堤防より3尺低いこと」の用法が間違い。 実際はほぼ同じ高さに堤防を造るが、濃尾西傾運動のために同じ高さで作っても基礎標高が異なるため低くなる。②3:09 木曽川の氾濫原因は輪中が多いことではなく、木曽川上流部での木々の伐採ではげ山となり、土砂が河川に流入・堆積して河床が上昇する ことが主原因。ゆえにデ・レーケは上流部まで調べて対策を実施した。
岐阜県出身者です。私がいた小学校では、社会科見学で輪中へ必ず行っていました。その時に、薩摩藩の話を初めて聞きました。薩摩藩の方々に感謝です。
習った習った。ちなみに習った時はヨハニスじゃなくてヨハネスだったと思う。それ以外にも教科書や木曽三川公園なんかで資料調べる度に違う名前で出てきて混乱した。
読み方は様々ですからねぇ。Michaelという単語もマイケル、ミハエル、ミッチェル、ミカエルいろいろ呼び方ありますから・・・。
愛知県民だけど、ヨハネスデレーケの話は小学生の時習ったなあ。
名古屋市民ですが、自転車でこちらへ行った際は宝暦治水の殉難者を祀る治水神社へお参りします。濃尾平野を流れる川はすべて元木曽三川と言っていいくらいの暴れ川でしたので、江戸と明治の治水工事が無ければこの地方の発展は無かったでしょう。
宝暦治水では薩摩藩がピックアップされることが多いけど、薩摩藩士だけが尾張、美濃の国に出向いただけでなく、当時薩摩藩の属国であった琉球王国から沢山の労働者が送り込まれたっていう話もありますね!!今でも長島の輪中の里に行けば色々説明してもらえますよ!!
小学校の遠足で木曽三川公演行ってその後B紙で各班の発表授業までがワンセットだね
私の実家付近にもデ・レイケの堤防やデレイケ公園ありましたね。なんか懐かしい名前。日本に30年も住んでいたなんてびっくり。
地元民で、昔木曽三川行かされてその時は何が面白いのって感じだったけどこの動画みたら結構とんでもない事しててもう一回行きたくなった
名古屋に住んでた小学生の頃、小4の社会科はコレを半年位やったし、社会科見学も弥富とかの輪中やら中心にやった。にしても、やったのが地元尾張藩じゃなく薩摩藩、しかも責任者が工事トラブルの責任とって自害とかはかなりの衝撃だった。
岐阜県と鹿児島県の繋がりは、千本松原と関ヶ原の戦いが(島津の退き口)カイコウズ街道で繋がっています。
地元だとめちゃくちゃ馴染みのあるものばかりで嬉しいし 小学生のころ勉強した内容を思い出して懐かしくなった
木曽川の目と鼻の先に実家がある愛知出身の人間です。
ヨハネス・デ・レーケ(と自分は習ったのでこの表記で)は、今でも名前をしっかりと覚えている偉人の1人です。100年近く濃尾平野を守ってくれているこの工事には本当に感謝しています。
輪中内の出身です。小学校の校歌の中にも薩摩義士が入ってました。
何度か水害の危機がありそのたびに裏手にある倉に避難していましたが、結局浸水等の被害は一度もありませんでした。当時の薩摩藩の方々のご尽力によるものでございます。心より感謝申し上げます。
岐阜県民ですが、小学校の頃習いました。デレーケさん薩摩藩の方々、関係者の方々のおかげで、洪水はほぼありません。(昨日近所の犀川が少し溢れてましたが)
この動画を見て改めて先人の方々に感謝の気持ちでいっぱいです。
地元です。ヨハニス・デ・レーケと薩摩義士については小学校から中学校で何度も学びます。田舎で歴史という点からは薩摩義士の方が馴染み深く、平田靱負は町の名前にもなってますし、千本松原の治水神社は島津の家紋が掲げられてますし、盆踊りなどで着る浴衣にも島津の家紋が入ってるものも多い。
余談ですが、当時、その辺りは高須藩。高須藩は尾張国の支藩。小さな藩ですが、意外に重要な所ではありました。
島津には親しみを感じる人が多く、一方高須四兄弟の1人、会津藩主の松平容保(実際には幼少は江戸で過ごしていたが)の出の地でもあり会津にも親しみがあり。
会津と島津の因縁は誰もが知る所ですが、この地はある意味、川が複雑に絡み合ってたくらい歴史も複雑に絡み合ってる土地でもあります。
初耳でした!会津とそんな関わりがあったなんて!素晴らしい事を知りました。ありがとうございます
平田靱負は資金繰りを解決するために自分の名前で借財して、工事が終了した晩に切腹して追加の借財を帳消しにするとともに、工事の責任を取ったと云う話を聞いた事があります。
愛知県一宮市でも、木曽三川の工事は小学校で習いました。人柱の件やヨハネス・デ・レーケによる三川分流工事の件は覚えていましたが詳細は忘れていたので動画作成に感謝したいです。地元の歴史は大切です。
鹿児島県民です。
学生の時、岐阜県のおじいさん(おそらく明治生まれのかた)が治水を行った薩摩藩士の偉大さを伝えるべく講演に来てくださったことがあります。
こちらが恐縮するほど熱く薩摩藩士への感謝の念を語ってくださいました。
公演後、先生方が講演料を渡そうとすると薩摩の子孫からは受け取れないと固辞。
翌日、なんとか受け取っていただこうと宿泊先を訪ねるも旅費すら受け取らずにチェックアウト済み。
あまりの義理堅さに困りつつも感動した先生方は奥様への大島紬の反物と仕立券、薩摩切子などをご自宅に送り、ようやく受け取っていただけたそうです。
漢ですねぇ
鹿児島県でも宝暦治水については習ったものでしたが…今の子供達はどうなんでしょうね?
@@有林-v4r
こっち(三重県で地元)はちゃんと覚えてますよ。ちなみにあの千本松原に植えられた松は日向松と言うそうでこちらにある松とは種類が違うと聞いた事があります。
習ったな。当時は千本松原の異様さは分からなかったけど今見ると凄いな。名古屋は戦後鹿児島から出稼ぎに来て定住した人が結構いて親近感がある。これは感謝だよ。
出稼ぎというか、集団就職で名古屋近辺に来た人多かったですね。
@@ちゃむピョロン さんへ、
昭和40年代半ばくらいまでは、集団就職列車が3月末日まで、毎日数本出たらしい。(鹿児島人より)
@@ちゃむピョロン
東京は遠すぎる、大阪は独特すぎる、だから名古屋なんだと聞いた。
@@ちゃむピョロン さんへ
周りも九州出身の人が多いです。
舟木一夫さんの映画が大ヒットした時代の、毛織物産業の女子工員さんとかそのご子息様も多いですね。
@@AT-M--STSCOOPEDOG 返信ありがとう。尾張西部の毛織物工場に勤めるために来た人が多かったと聞いています。某市では、戦後の一時期男女の人口比が3:7だったそうです。舟木一夫もその某市出身ですね。
木曽三川の話は、岐阜県民なら小学生で多分習うかな〜。
そん時はありがたみが分からなかったけど今は分かる。感謝🙏
三重県民もー
自分、地元羽島市だからめっちゃわかる
東北だけど習った。教科書にあったような気がするけと資料集だった気もする
今でも岐阜県と鹿児島県は教員の相互派遣を行っています。
凄いなー
あんな、網目のような川を見せられたら、なんじゃこりゃとしか思えないだろう。
コンピュータも無い時代に、机上計算で流量の計算をするだけでも大変だっただろう。
本当に凄い。
最近は異常気象の豪雨による洪水被害が全国的に多いけど、
このような巨大河川が集中して水害に苦しめられた歴史のある木曽三川エリアで水害が無いのがその治水技術の凄さを物語っているね
土木に限らず、こういう思い切った根本的解決は見ていて気持ちがいい
めちゃくちゃ地元だ
うれしい!!
ここの細い堤防は信号もないから車移動で重宝してる
まさかオランダ人も関わっていたとは
ちなみに佐屋川は無くなっているけど、今は佐屋川用水として木曽川から水を取り込み、農作に大きく貢献してる
そして木曽三川の海側の先っぽにはナガシマスパーランドがあります
岐阜県生まれですが、小学生の時に習いました!
車で走ると連続した大きな川を渡るのですが、その度にこのことを思い出します!
これを機に皆さんに知ってもらいたいです!😊
愛知県民です。社会見学でここら辺は行きました。懐かしい、、、
先人に感謝します
改めて治水の大事さを感じました。
宝暦治水は地元では有名な話で、今でも桑名の海蔵寺に抗議のため割腹した薩摩義士24名の墓碑が建立されてます。
そもそもが「薩摩藩の財政を削ってやろう」という悪しき意図をもった幕府の命令だからね…。しかしかけた犠牲は巨大だとしても、これで得た利益はそれを遥かに凌駕し、救った生命も数しれない。そして、こんなことが出来たのは薩摩藩以外になかったと思う。
薩摩の結束力の強さを感じる。
幕府の権力を乱用した徳川は、衰えた時に痛烈なしっぺ返しを喰らうだろう。
薩摩様、、
L IPみなもと太郎
現代でやったら効果的そうだけど当時だと無駄死にそう
地元だー!
木曽三川の治水工事は小学校くらいに輪中の水害対策とセットで習いました
実際に河口までを自転車で走ったことがあるけど、めちゃくちゃ広くて当時の改修の大変さが伝わってきます
鹿児島県民ですが、のびゆく鹿児島という副読本で必ず岐阜の工事のことは学びますね
デレーケに理解のあった大久保や松方さんが後もう少し長く生きてたら日本の治水や森林はもう少し違ったかもな
木曽三川の分流について調べていた所、この動画を拝見しました。大変勉強になりました。ありがとうございました。
木曽三川公園の建物にもこの歴史が書かれていて、小学校の遠足で行ったときにすごいなと思いました。
現在のような重機がない時代にこんな大規模な工事をするのはさぞかし大変だったでしょうね・・・。
大まかな流れは知っていましたが、薩摩藩に対する幕府の嫌がらせなど細かい事例は初めて知る所が多く、非常に勉強になりました!
日本各地に先人の築いた努力の結晶があると思うと趣深いですね🇯🇵
宝暦治水に対するうp主様のコメントも素敵です!
自国の技術に慢心せず、他国の技術を取り入れて学んでるところが
この時代の躍進の原動力だね
今のネトウヨに言いたい言葉
@@Hoffmann-j5y そうやってレッテル貼りしてる時点でダメ
@@日浦大輝-w5c 中立的か?…
@@CircleDog_02 実際やたら韓国下げしまくってる連中がウヨウヨしてるからなぁ…
鹿児島県民です、難工事、多大なる切腹した方々、財政難、奄美など島嶼への負担(黒糖地獄)、密貿易、軽く流される様習いましたが、当時明治維新前後の色々な本
読んでる内に見えてきました。江戸幕府には、ちょい思う所もありますが、黒糖地獄、重税など島津も大概な所もあるし。自分関係者ではないですがコメ見ると
現地では本当に感謝されているのですね。せめて良かったです。
他の地域ではなかなか知る機会の少ないお話を聴けてとてもよかったです!
今後も楽しみにしています!
これほど巨大な河川が集中するこの地域で近年大規模な水害が無いのはすさまじいことだと思います
@@黒雷-t4q
普通に水不足有るよ
水不足なんてここ三十年近くねーって。
Chの趣旨とは違っちゃうだろうけど、建造物ではなく技術者に沿った解説なんてのも面白いかもしれないと思った
まさか、デ・レーケが出てくるとは…。
地元佐賀県と福岡県の県境に流れる筑後川の大川市にデレーケ導流堤も紹介されてるし。
愛知県の小学生ならみんな習う、ヨハネスデレーケ
岐阜県民も小学校でみんな習う、ヨハネスデレーケ
そんなん習ったことないなぁ……
三河の人は習わないかもしれない
西尾張の私は実際に現地も学習で見に行った
三重県民も習うよ
元庄内川流域民だけど、デレーケは習った記憶がない…
かつて岐阜県の小学生でした。岐阜県の小学生は社会の時間に明治治水とヨハネス・デレーケを必ず学びます。薩摩藩士の多大な犠牲も。さらに社会見学で現地にも行きました。母の実家が三重県南部で,帰省の際に父の運転で千本松原を走りました。あれこれ思い出しちゃうなぁ。
こういう動画大好き
ここ社会見学で来た。デレーケなんて小学校以来聞いた懐かしい。
いい体験ですね。
懐かしい笑笑
地元小学校で習いました。うろ覚えでしたがこうやって画像解説付きは大変勉強になりました。
小学校の頃習ったなあ(岐阜県民
治水タワーで動画見て人柱や切腹が衝撃的だったのをあの辺りに行くといつも思い出す
関西民で全く知らなかった
難工事なんだろうなとは思ってたけど
めちゃくちゃ面白いな…!
薩摩藩士八十五名が殉職。 土木工事史上では黑四ダムに次ぐ犠牲者数です。 黙祷🙇
木曽長良背割堤は飛行機の滑走路、サバゲーやジョギング、サイクリングロードとして使われてるので、何度も行ったことがありますが、ただの船着場と思っていた堤防がケレップ水制という名称でちゃんとした役割を持っていることを知りとても勉強になりました!
はじめて知りました。どっちも偉業‼️
いい動画ですね。
素晴らしい解説ありがとう😉👍️🎶ございます。まさしく歴史や地理、国際交流が融合された話しです。文科省さんよろしく。
説明が丁寧でわかりやすい!
BGMもいいですねー
とうとうブラタモリでも木曾三川やってくれました!
宝暦治水がメインで明治治水やオランダ人技師ヨハニス・デ・レーケについてはあまり触れていませんでしたが、
一年前にこの動画を観て、また今日も振り返りで拝見しました。
輪中に立地している「木曽三川公園」に治水センターっていう施設があって宝暦治水のアニメが見られるんですが、ナレーターが、永井一郎さんなので、なにげにファーストガンダムっぽいです。
愛知県民です。
「のびゆく郷土」という地元向け教科書で習いました。
ただ小学生には難しくて意味不明でした。
50年以上たった今、ようやくわかりました。
大阪人ですが、濃尾平野の歴史で少し習いました。こういう治水の話大好きです。
取り上げていただいてありがとうございます。
やはり木曽三川分流にはすごい予算が投じられており、その必要性の大きさが広く認識されていたという事実を改めて感じましたん。
学校教育で学ばされたのも宜なるかな。
地元ですが 復習のような感じで勉強になりました
こちらな動画は本当に素晴らしい!
観る度 ほうう なるほど と
成るような土木の歴史を紹介してくれる
私は治水が大好きなので
利根川の東遷 江戸川 霞ヶ浦の炭水化
新中川 東綾瀬川 など
色々 取り上げて欲しいです
1番楽しみにしてる 番組です
みなもと太郎先生の風雲児たちでも宝暦治水の話は漫画化されていたな。
輪中の住人に対して薩摩藩士が「あんたら何でこんな不便な土地に住んでんの?」って言ったら、
輪中の住人が薩摩藩士に対して「あんたらこそ年がら年中火山灰が降るような不便な土地に何で住んでんの?」って言い返されるギャグシーンが印象深かった。
思えば日本という土地はどこもかしこも自然災害だらけだよなあ。
岐阜市生まれです。小学校で習いましたね。映像でも言われてる様に濃尾平野は東高西低なので、大雨が降ると皆揖斐川に流れ込んで大洪水になるんですよね。大垣が自噴水による水の都と言われるのはそのためです。平野と言っても真っ平では無いので、自由気ままに流れる水は低い所を目指しますからね。網の目の様だったのを真っ直ぐ3本に纏めて貰えたので、速やかに海に流れ込むので水害も減りました。大きな水害は有名な伊勢湾台風や、最近では昭和51年の台風の時だけですね。
戦後は、鹿児島からの集団就職などにも貢献してきました。あの時のお礼と言う事ですね。
小学生の頃に説明されても意味わからんかったけど今になってようやく理解できた感じ
いまでは立派な公園になって憩いの場ですね
仕事でよく中堤道路走るんだが、揖斐川と長良川の水位の違いをいつも不思議に思ってた(笑)
ちゃんと理由があったんだな〜。先人の碑にも行ってみようかな🙏
懐かしいなあ
デレーケと輪中はテストにも出たし社会見学で現地にも行ったね
岐阜市民です。河口からは遠いけど、長良川の水害と三川の治水事業は小学校でかなりの時間を割いて習った。千本松原の付け根にある治水タワーは遠足で行ったなぁ
薩摩藩士とデ・レーケ技師は真に県の恩人でしょう。感謝。
地元ネタや!動画ありがとうございます。復習的に見させて貰いましたが解り易く纏められていて面白かったです。リクエストとして、奈良の五条から和歌山の新宮まで鉄道を通す予定で中止になった五新鉄道の動画作って貰えると嬉しいです。
素晴らしい内容ですね。愛知県出身なので興味深く拝見しました。
岐阜市民です。岐阜の小学校で習う地域の歴史TOP2は杉原千畝と千本松原です。
長良川が増水すると川底より低い輪中内は堤防や地面から水が染み出して床上浸水します
私の実家は輪中の中にあるのでこれらの治水工事がいかに大切かが身に染みて分かります
先人の偉人の功績に感謝
前から疑問に思ってたけどそゆことだったのか!!勉強になりました!
私は木曽三川の上流から下流までで多くの工事に携わりましたがこんな歴史があったのですね。
いつも楽しませてもらっています。治水関連は特に生き甲斐です!
「木曽三川」はよく社会のテストに出たけど、こんな裏があったとは。洪水を克服するため努力した先人方に感謝します。
小4のころにこれを習って、先程突然頭に思い浮かんだので調べてみたら、あの頃に学んだことがなんとなく思い出せた気がしました。
素晴らしい話を聞けて良かったです。
近隣住民です。
千本松原へは小学生の時、歩いて遠足に行きました。揖斐川を渡るのには、普段は人が通れない”水管橋”をその時だけ
鍵を開けてもらい通りました。
木曽三川の江戸時代と明治時代の治水工事については学校で習いますし、木曽三川タワーの中にも展示があって、
そこで学べますね。
デ・レーケの工事の後も、増水に備えて堤防の嵩上げ工事が行われ、ようやく平成の頃に完成しました。
恐らく天文学の発達と並行して発達してきた最新の測量機器も重要な役割を果たしたのでしょうね。河川なんて数センチの水位差で何キロ平方も浸水する面積が変わりますからね。
尾張国の出身です
小学生の頃に千本松原へ見学をしに行きました 銅像が建ってきたのが思いでです
地域ごとに違う授業あったなあ、東京では玉川上水をやった覚えが
他の地域は何をやってるのかめっちゃ気になる
23区東部ですが、小学生の頃に見沼代用水の工事について習いました。
香川県は、香川用水と、弘法大師空海の満濃池をしました!
用水とはちょっと違うけど、伊勢湾台風の話はよく先生達から聞いたな
台風後、当時の愛知県知事の鶴の一声で愛知の海岸線を囲む高い堤防が出来た話とか
自分は(元)愛知県民、平田靱負のことは小学校の時に確か道徳の授業で、「地域の偉人」的な感じで習いました。で、その後、社会科見学で千本松原の脇の治水神社に見学に行ったことも覚えています。
今は東京都民ですが、平田靱負とデレーケの両氏には感謝しかないです。
今、住んでいる関東における、伊那忠次・忠治親子と同じくらい、感謝してます。
懐かしい。
水害対策の為付近の昔からの家は田んぼにぽつんと建っていても小さな城のような石垣の上に作られ、軒先には小舟が括り付けられていて河が氾濫した時はこれで移動したと社会科見学で習った事を覚えている。
川を見下ろすタワーから実際の景色も見たし、社会の授業の際は別に「郷土の歴史」という予備教科書も有り習ったな。
少し離れた三河でも記憶に残る勉強をさせてもらえた事に感謝。
千本松原!!懐かしい、小学生の遠足とかで行ったけどもう少し大人になってから見に行ったほうがありがたみがわかったかな~。
地元 海津の歴史 木曽三川分流 紹介して頂き ありがとうございます 鹿児島県 オランダ アムステルダムは、我が郷土 海津と 姉妹都市です。
祖父の家が長島温泉の近くにあります。家は水面より低く、超ヤバい大雨が来たら沈みます。木曽三川は海のほうは橋が4本(伊勢大橋、東名阪道、名四国道、伊勢湾岸道)しかなく、特に伊勢大橋は対面通行なので渋滞がヒドイです。
オランダ人による治水工事と言うと、福島の安積疏水関連工事を取り上げて頂けると嬉しいです。オランダ人のファンドールンのお陰で今も郡山市民は水に困ることなく過ごせています。
9:16 江戸時代から洪水が激増していることに驚き。尾張と美濃の堤防合戦。農業事業の発展。輪中を形成させたことが遊水池の減少させて逆に洪水を増やしていることがわかった。
ヨハネスデレーケとうちの地元のファンドールンとどっちが強い?
地元ですが確かに習うね。宝暦治水で岐阜と鹿児島に姉妹締結されたから岐阜に「薩摩カイコウズ街道」があるのね
薩摩藩士が生き別れた婚約者を思い、山頂にて故郷の方角を眺めていた所を恋姫山と名前が付いた。
薩摩藩の方々の悲しさ、藩に忠誠を尽くす心に胸を打たれます。
僕、本当にこの治水工事が行われた付近に住んでるんですけど。今でも輪中の名残りとして周りに川が無いのに堤防や水門があったり、水屋があったり...
現代技術でも軟弱地盤過ぎて新幹線の駅や線路をずらさざる負えなかったりと凄まじい負担があります。
そんな土地でも洪水をなんとか止めようとしてくれた人に感謝...
地元!!!!嬉しい🎵😍🎵
小学校で習ったので懐かしいです!!!
小学校でも宝暦治水は勉強しましたね。
今でも薩摩カイコウズ街道という名称の道路があるくらいです。
明治治水で作った木曽長良背割堤は車も来ない管理道路で、地元民はお花見や運動(ウォーキングやランニング・サイクリングなど)にと使ってます。
小4の時に岐阜の小学校に転校してすぐに行った社会科見学が木曽三川公園だった。転校して友達もいない時に女子ばかりの班に入って誰とも話したり遊んだりしてない時に行ったから色んな当時のことを結構覚えてる。自分の学校ではヨハネス・イ・デ・レーケっていう風に教えられたなぁ🤔
1号線手前の木曽川長良川の間の堤防では水面の高さが違う異様な光景が見れますね
河口堰が出来てからは特に水面の高さが違う
鉄橋を潜るときに長良川の水面を横目に見ながらその下を走りますもんね。
この周辺はよく自転車でサイクリングしています。
多度山山頂の展望台からだと木曽川の河川や濃尾平野が一望出来てとても綺麗です
また木曽三川がどれだけ入り組んでいるかもよく分かるので機会があれば是非
解説有難う💌しっかり勉強させてもらいました🍀
愛知県側の住人だけど、初めて聞いた(小学校時代に聞いた記憶が無い)
何であんな細長い堤防あるんだろう?とは思ってたけど、改めて先人の苦労の上に成り立っている今なんだと感謝🙇♂️
ものすごく身近な地域で嬉しい
めちゃめちゃ地元でなんか嬉しい
木曽三川の御囲堤みたいに首都の水害防衛という観点から利根川等の東京外縁部にあたる側の堤防は低くなってますね
水曜どうでしょうの試験に出るどうでしょうで木曽三川の覚え方を「くそしながらいびる」と語呂合わせしていたが、本当にそれで覚えてしまった。
食事中に木曽川って単語を聞くと思い出してしまう訳ですね
治水でいうと利根川東遷とか滅茶苦茶気になります...!
尾張地方の小学校は木曽三川治水事業を重点的に学習するみたいですね。
間違っている点
①2:18
立田・福原輪中は尾張国。木曽川右岸には尾張藩の支藩高須藩があるため、「美濃の堤防は尾張の堤防より3尺低いこと」の用法が間違い。
実際はほぼ同じ高さに堤防を造るが、濃尾西傾運動のために同じ高さで作っても基礎標高が異なるため低くなる。
②3:09
木曽川の氾濫原因は輪中が多いことではなく、木曽川上流部での木々の伐採ではげ山となり、土砂が河川に流入・堆積して河床が上昇する ことが主原因。ゆえにデ・レーケは上流部まで調べて対策を実施した。
岐阜県出身者です。
私がいた小学校では、社会科見学で輪中へ必ず行っていました。
その時に、薩摩藩の話を初めて聞きました。
薩摩藩の方々に感謝です。
習った習った。ちなみに習った時はヨハニスじゃなくてヨハネスだったと思う。それ以外にも教科書や木曽三川公園なんかで資料調べる度に違う名前で出てきて混乱した。
読み方は様々ですからねぇ。Michaelという単語もマイケル、ミハエル、ミッチェル、ミカエルいろいろ呼び方ありますから・・・。
愛知県民だけど、ヨハネスデレーケの話は小学生の時習ったなあ。
名古屋市民ですが、自転車でこちらへ行った際は宝暦治水の殉難者を祀る治水神社へお参りします。濃尾平野を流れる川はすべて元木曽三川と言っていいくらいの暴れ川でしたので、江戸と明治の治水工事が無ければこの地方の発展は無かったでしょう。
宝暦治水では薩摩藩がピックアップされることが多いけど、薩摩藩士だけが尾張、美濃の国に出向いただけでなく、当時薩摩藩の属国であった琉球王国から沢山の労働者が送り込まれたっていう話もありますね!!
今でも長島の輪中の里に行けば色々説明してもらえますよ!!
小学校の遠足で木曽三川公演行ってその後B紙で各班の発表授業までがワンセットだね
私の実家付近にもデ・レイケの堤防やデレイケ公園ありましたね。なんか懐かしい名前。
日本に30年も住んでいたなんてびっくり。
地元民で、昔木曽三川行かされてその時は何が面白いのって感じだったけどこの動画みたら結構とんでもない事しててもう一回行きたくなった
名古屋に住んでた小学生の頃、小4の社会科はコレを半年位やったし、社会科見学も弥富とかの輪中やら中心にやった。
にしても、やったのが地元尾張藩じゃなく薩摩藩、しかも責任者が工事トラブルの責任とって自害とかはかなりの衝撃だった。
岐阜県と鹿児島県の繋がりは、千本松原と関ヶ原の戦いが(島津の退き口)カイコウズ街道で繋がっています。