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コメント失礼します。素晴らしい動画をありがとうございます。自分は天児屋根命を始祖とする中臣氏の末裔で古神道を修行する者です。細部に渡り取材されていて勉強になりました。石神大神(イソノカミオオカミ)にはもう何度も参拝させていただいております。奥の院や磐座の波動の高さは我が春日大社では恐らく比べ物にならないのではないでしょうか?これからも素晴らしい動画を楽しみにしています。
素晴らしい解説をありがとうございます。
奈良在住で春日大社にはつどつど訪れますがこの様に詳細かつ分かりやすい解説や親切な情報にはじめてご縁がありとても有り難く感謝です。こちらの動画を確認しながらあらためて春日大社を探訪したいと思いました、有難うございます。
県外のものですが春日大社も石上神宮もどちらも大好きで、大切で、奈良にいけば必ず、どちらも参ります。それでは、失礼にあたるのでしょうか?しかしこの二つのお話、詳しくしていただきありがとうございます。
清々しい気持ちになります ありがとうございます。
布都御魂剣は崇神天皇の御代に岡山県の石上布都御魂神社から奈良石上神宮へ戻されました。何故岡山に祀られたかは謎です。桃太郎の鬼退治伝説が関係している様です。
藤原氏のことだから 権力を掌握するために神社の格を欲しがったのも分かる。
天の児屋根尊は多いに藤原的ですが、鹿島香取との繋がりには疑問を感じますね。
いつもユニークな考察を楽しみにしています。僅かに方角ずれているのはせめてもの抵抗、にはちょっと笑いましたが、まあそういうアバウトさもいいですよね。これからも期待しています。
石上神宮は、本来の社家の系図を調べると、物部氏ではなく、和邇氏なんですよね。実はですね、和邇氏の親戚筋の小野氏ですが、正体は出雲の神門氏です。このお話は島根のヒオミザキ神社の関係の小野氏にも伝わるお話です。まず、和邇氏は孝昭天皇から分かれたという話自体がフェイクになっています。実際には天冬衣の系統、つまり松江の系統の出雲族(事代主)が大元ですが、この家が後に神門化したのだそうです。このお話は最近流行りの出雲口伝本には出ていません。島根の富神社ですが、この家は諸事情あって現在は神門系の人の管理下になっています。弟の花田家断絶→お姉さんの血筋の「春日家」の管理下。ミクガ神社の奥方になられています。この春日家は大山の神社の宮司家と親戚関係になっています。この神門臣が、春日家になり、その分家が「春日和邇臣」、「春日臣2系統」の3つに大別して分かれますが、この春日臣の片方が「石上神宮」の宮司家になります。(物部額田→布留日向→牛甘)と何と物部姓を名乗り始めています。のこりのもう片方の春日臣の分家が、春日小野臣となり、更にその分家に柿本臣家が発生します。石上は、神門系の神社で、後年に物部化したという事になりますね。そして本来の物部氏は、後年に「石上」と名を変えさせられています。つまり、出雲系が物部氏に。物部氏が和邇氏に変更させられている。これが物部氏系の神社に見られている石上神宮の本質になろうかと思います。和邇氏が物部氏に見えるのは当然のことと考えられます。(つまり小野家が物部氏に見えることもある)柿本家に養子入りした(綾部)人麿は、石上を通じて、出雲、物部の両方の歴史の情報に触れることが出来た立場にあったと考えられます。記紀の大元の伝承の語り部のお話は、ウズメの子孫を名乗る稗田流の伝承を元にされているとも考えられていますが、実はその正体が神門家の伝承の可能性があるわけです。神社の封土を神戸とも言いますが、石上神宮の封土が長野県にだけ突出して存在しますが、これは小野家とのつながりの可能性があります。神門氏は松江の出雲族との違いで猿田彦信仰が強く出ています。椿大社の宮司家は宇治床家。長野県には小野氏が進出し、三宮がふたつあり、その片方が辰野の小野地籍の、小野神社。その宮司は常駐がなく、塩尻市の三嶽神社の管轄になっていますが、恐らく女性宮司の世襲になってる可能性があり、サルタヒコとウズメが祀られる椿神社の社家、宇治床家に近い、宇治橋さんという名字だったと記憶しています。さて、春日大社ですが、元は現在では摂社となっている「榎本神社」が大元であったと言われていますが、猿田彦が祀られています。そして、元々は春日氏の神社であったようですね。纏めますと、和邇(神門臣家)の石上が物部氏化され、同じく和邇系の信仰の春日大社が後年に藤原化しているという事になります。元は一緒の一族の神社です。興味深いのは、春日呼称の方が先に来て、その分家が和邇になるのですが、祭祀としては石上の方が古そうに見えてしまう事です。
金井南龍氏によれば石上神宮は剣神界に属し、天理教もそのようです。
春日大社は八幡大菩薩神と仲間の位置に古事記では説明されていますよね⁉️カミライズ先生
【フツ】は、徐福の本名。漢字は『市』フツ○○の神。は、徐福の本名に神名を付加したもの。彦ホアカリ。や、ニギハヤヒ。は徐福が自称した偽名。彦ホアカリ。は一回目の渡来で出雲王国で自称した。秦の始皇帝の使節。という地位を背景に、出雲の王女(内親王)高光姫命と結婚して長男の五十猛(徐福(市)の父親の徐猛の名を貰い名付けた)やおらクーデターを起こして出雲王国を引っ掻き回し簒奪を謀りますが巻き返しに遭ってクーデターは失敗。この際、初手に出雲王、八千矛命(出雲大社の主祭神)と同副王、八重波津身命(所謂、八重事代主神。皇室の直系先祖の一人(宮中に祀る))をほぼ同時期に暗殺した。クーデターの失敗で出雲王国から即刻殺害命令が発布されると戦々恐々となり出雲王国の隙を衝いて母国、秦帝国に逃げ帰った。五十猛が長じると出雲王国の許可を得て↑のクーデターの失敗で散り散りとなっていた父親、徐福に連れられてきた2千人~の秦人達を呼び集めて丹波に集団移住。開発に当たった。リーダーの五十猛命は海(アマ)家を創設して海(アマ)香語山と改名した。海を渡り遥々、秦国からやって来た事(渡来)を込めたらしい。他方、逃げ帰った徐福(市)は出雲王国での大失敗をおくびに持たさずに舌先三寸でよく囀ずり、再び始皇帝を詐欺して国庫を傾けて大船をあまた建造させ、三千人の少年少女やあらゆる職業の達人をその大船団に乗せて山東半島から出帆して結局、九州の吉野ヶ里に定住帰化した。この際、徐福は出雲王国から彦ホアカリとして極悪非道のお尋ね者のため、新たにニギハヤヒを自称して、大胆にも北九州地方を支配する出雲王国の分家、 宗像王家(実質的には兎佐王家)に摺より2代目惣領のサヨリ姫命(宗像(兎佐)族は女尊、所謂かかあ天下のため、女性が当主)と結婚して、物部王家の祖と成る彦ホホデミ命と長女のホヤ姫命を生んだ。このホヤ姫が丹波国主となっていた異母兄の海(アマ)香語山命に嫁いで(異母兄妹の夫婦)大和王国海(アマ)王朝の初代大王と成る海(アマ)村雲命を生んだ。↑村雲大王が古事記の捏造した系図の神武天皇。海(アマ)村雲大王の子孫(王族)に武(建)甕槌命がいて、名前が強そうなため、藤原氏が勝手に先祖神にその名を頂いたらしい結局のところ、フツ○○神にしろ建(武)甕槌神にしろ、徐福(イザナギ、天照御魂神、スサノオ)(血筋)に帰結する志儀。皇室には五十猛改め、海香語山命と母親の高光姫命の姪、内親王の大屋姫命との長男、海(アマ)高倉下命を祖とする子孫、武内臣(宿禰)太田根さまの末裔。出雲神族(天照大神)月読尊(宇佐、宗像神族)スサノオ(徐福)の三大氏族の血筋をひいているのが皇室。
面白いです!そうだと思います!
初めて聞くお話ですが出典とか有るのでしょうか?有るのなら読んでみたいです。
些細な事ですが、藤原永手は房前の子で不比等の孫です。また石上神宮は書紀で見る限り祀っているのは皇室です。物部氏の氏神って話は何処から来たのか誰かおしえてもらえませんか。
十種の神宝の伝説からだとおもいますよ。饒速日が一足早く天孫降臨した際に高天原から持ってきたお宝を石上神宮におまつりしたという伝承があるそうです。饒速日は物部氏のご先祖さまだそうです。参考になるといいですがよかったたらどうぞth-cam.com/video/BL_QuoUfyj0/w-d-xo.html
どちらが格上とか比較することでしょうか?両方中央です。
解説をありがとうございますこれ、そもそも7世紀に台頭を始めた中臣氏(=藤原氏)が、神代の高天原にいた建御雷神の子孫だと言うのが虚飾の様で、氏族を権威付ける為に出自を創作しただけなんだと思いますだから茨城の鹿島神宮と奈良の中臣氏に繋がりはなかったのに、創作を事実化する為に奈良に春日大社を築いて、鹿島神宮から建御雷神を招聘した上で氏神として祀る粉飾を行ったのだろうと
藤原氏なんぞより白河天皇の庇護を受けた石上神宮のほうが格上。まあそもそも石上神宮のほうが格上
710年創建の春日大社の以前に祀っていたに若宮を考察するべきですね。石上神宮の創建当時は春日大社はありません。石上神宮創建当時は北方に奈良県の古い氏族「和邇氏」が勢力を奮っていた頃です。では若宮とは?春日大社のお祭りと思われている「御祭」は若宮の祭りです。春日大社は若宮を無視できない理由がありそうですね。今の教科書のような考察は間違っていませんか?石上神宮は和邇神社を背にしその後ろに若宮を背負っています。藤原氏は何を恐れて若宮を消滅させず、「春日御祭」という形で祀っているのでしょう!同時代の氏族たちの勢力、また、その氏族たちの氏神を考察せずにはなんともいえません!
春日氏は元々和邇氏の本家筋ですから、春日社の方が本来は先になるんでしょうね。元々石上も、春日社(現在の榎本社)も和邇氏系の神社と思われます。
コメント失礼します。
素晴らしい動画をありがとうございます。自分は天児屋根命を始祖とする中臣氏の末裔で古神道を修行する者です。
細部に渡り取材されていて勉強になりました。
石神大神(イソノカミオオカミ)にはもう何度も参拝させていただいております。奥の院や磐座の波動の高さは我が春日大社では恐らく比べ物にならないのではないでしょうか?
これからも素晴らしい動画を楽しみにしています。
素晴らしい解説をありがとうございます。
奈良在住で春日大社にはつどつど訪れますがこの様に詳細かつ分かりやすい解説や親切な情報にはじめてご縁がありとても有り難く感謝です。こちらの動画を確認しながらあらためて春日大社を探訪したいと思いました、有難うございます。
県外のものですが
春日大社も石上神宮も
どちらも大好きで、大切で、奈良にいけば
必ず、どちらも参ります。
それでは、失礼にあたるのでしょうか?
しかし
この二つのお話、詳しくしていただきありがとうございます。
清々しい気持ちになります ありがとうございます。
布都御魂剣は崇神天皇の御代に岡山県の石上布都御魂神社から奈良石上神宮へ戻されました。何故岡山に祀られたかは謎です。桃太郎の鬼退治伝説が関係している様です。
藤原氏のことだから 権力を掌握するために神社の格を欲しがったのも分かる。
天の児屋根尊は多いに藤原的ですが、鹿島香取との繋がりには疑問を感じますね。
いつもユニークな考察を楽しみにしています。
僅かに方角ずれているのはせめてもの抵抗、にはちょっと笑いましたが、まあそういうアバウトさもいいですよね。
これからも期待しています。
石上神宮は、本来の社家の系図を調べると、物部氏ではなく、和邇氏なんですよね。
実はですね、和邇氏の親戚筋の小野氏ですが、正体は出雲の神門氏です。このお話は島根のヒオミザキ神社の関係の小野氏にも伝わるお話です。
まず、和邇氏は孝昭天皇から分かれたという話自体がフェイクになっています。
実際には天冬衣の系統、つまり松江の系統の出雲族(事代主)が大元ですが、この家が後に神門化したのだそうです。このお話は最近流行りの出雲口伝本には出ていません。
島根の富神社ですが、この家は諸事情あって現在は神門系の人の管理下になっています。
弟の花田家断絶→お姉さんの血筋の「春日家」の管理下。ミクガ神社の奥方になられています。この春日家は大山の神社の宮司家と親戚関係になっています。
この神門臣が、春日家になり、その分家が「春日和邇臣」、「春日臣2系統」の3つに大別して分かれますが、この春日臣の片方が「石上神宮」の宮司家になります。(物部額田→布留日向→牛甘)と何と物部姓を名乗り始めています。のこりのもう片方の春日臣の分家が、春日小野臣となり、更にその分家に柿本臣家が発生します。
石上は、神門系の神社で、後年に物部化したという事になりますね。
そして本来の物部氏は、後年に「石上」と名を変えさせられています。つまり、出雲系が物部氏に。物部氏が和邇氏に変更させられている。これが物部氏系の神社に見られている石上神宮の本質になろうかと思います。
和邇氏が物部氏に見えるのは当然のことと考えられます。(つまり小野家が物部氏に見えることもある)
柿本家に養子入りした(綾部)人麿は、石上を通じて、出雲、物部の両方の歴史の情報に触れることが出来た立場にあったと考えられます。
記紀の大元の伝承の語り部のお話は、ウズメの子孫を名乗る稗田流の伝承を元にされているとも考えられていますが、実はその正体が神門家の伝承の可能性があるわけです。
神社の封土を神戸とも言いますが、石上神宮の封土が長野県にだけ突出して存在しますが、これは小野家とのつながりの可能性があります。
神門氏は松江の出雲族との違いで猿田彦信仰が強く出ています。椿大社の宮司家は宇治床家。長野県には小野氏が進出し、三宮がふたつあり、その片方が辰野の小野地籍の、小野神社。
その宮司は常駐がなく、塩尻市の三嶽神社の管轄になっていますが、恐らく女性宮司の世襲になってる可能性があり、サルタヒコとウズメが祀られる椿神社の社家、宇治床家に近い、宇治橋さんという名字だったと記憶しています。
さて、春日大社ですが、元は現在では摂社となっている「榎本神社」が大元であったと言われていますが、猿田彦が祀られています。そして、元々は春日氏の神社であったようですね。
纏めますと、和邇(神門臣家)の石上が物部氏化され、同じく和邇系の信仰の春日大社が後年に藤原化しているという事になります。元は一緒の一族の神社です。
興味深いのは、春日呼称の方が先に来て、その分家が和邇になるのですが、祭祀としては石上の方が古そうに見えてしまう事です。
金井南龍氏によれば石上神宮は剣神界に属し、天理教もそのようです。
春日大社は八幡大菩薩神と仲間の位置に古事記では説明されていますよね⁉️カミライズ先生
【フツ】
は、徐福の本名。
漢字は『市』
フツ○○の神。
は、徐福の本名に神名を付加したもの。
彦ホアカリ。
や、
ニギハヤヒ。
は
徐福が自称した偽名。
彦ホアカリ。は
一回目の渡来で
出雲王国で自称した。
秦の始皇帝の使節。
という地位を背景に、
出雲の王女(内親王)
高光姫命と結婚して
長男の
五十猛
(徐福(市)の父親の
徐猛の名を貰い名付けた)
やおらクーデターを起こして出雲王国を引っ掻き回し簒奪を謀りますが
巻き返しに遭って
クーデターは失敗。
この際、初手に
出雲王、八千矛命
(出雲大社の主祭神)と
同副王、八重波津身命(所謂、八重事代主神。
皇室の直系先祖の
一人(宮中に祀る))
をほぼ同時期に暗殺した。
クーデターの失敗で
出雲王国から即刻殺害命令が発布されると
戦々恐々となり
出雲王国の隙を衝いて母国、秦帝国に逃げ帰った。
五十猛が長じると
出雲王国の許可を得て
↑のクーデターの失敗で散り散りとなっていた父親、徐福に連れられてきた2千人~の
秦人達を呼び集めて
丹波に集団移住。
開発に当たった。
リーダーの
五十猛命は
海(アマ)家を創設して
海(アマ)香語山と改名した。
海を渡り遥々、秦国からやって来た事(渡来)を込めたらしい。
他方、
逃げ帰った徐福(市)は
出雲王国での大失敗をおくびに持たさずに
舌先三寸でよく囀ずり、
再び始皇帝を詐欺して
国庫を傾けて
大船をあまた建造させ、
三千人の少年少女や
あらゆる職業の達人をその
大船団に乗せて
山東半島から出帆して
結局、九州の吉野ヶ里に定住帰化した。
この際、徐福は出雲王国から彦ホアカリとして
極悪非道のお尋ね者のため、
新たにニギハヤヒを自称して、
大胆にも
北九州地方を支配する
出雲王国の分家、 宗像王家(実質的には兎佐王家)に摺より
2代目惣領の
サヨリ姫命(宗像(兎佐)族は女尊、所謂かかあ天下のため、女性が当主)
と結婚して、
物部王家の祖と成る
彦ホホデミ命と
長女のホヤ姫命を生んだ。
このホヤ姫が
丹波国主となっていた
異母兄の
海(アマ)香語山命に嫁いで
(異母兄妹の夫婦)
大和王国海(アマ)王朝の
初代大王と成る
海(アマ)村雲命を生んだ。
↑村雲大王が
古事記の捏造した系図の
神武天皇。
海(アマ)村雲大王の子孫(王族)に
武(建)甕槌命がいて、
名前が強そうなため、
藤原氏が勝手に先祖神にその名を頂いたらしい
結局のところ、
フツ○○神にしろ
建(武)甕槌神にしろ、
徐福(イザナギ、天照御魂神、スサノオ)(血筋)に帰結する志儀。
皇室には
五十猛改め、
海香語山命と
母親の高光姫命の姪、内親王の大屋姫命との長男、
海(アマ)高倉下命を祖とする子孫、
武内臣(宿禰)太田根さまの末裔。
出雲神族(天照大神)
月読尊(宇佐、宗像神族)
スサノオ(徐福)
の三大氏族の血筋をひいているのが皇室。
面白いです!そうだと思います!
初めて聞くお話ですが出典とか有るのでしょうか?有るのなら読んでみたいです。
些細な事ですが、藤原永手は房前の子で不比等の孫です。また石上神宮は書紀で見る限り祀っているのは皇室です。物部氏の氏神って話は何処から来たのか誰かおしえてもらえませんか。
十種の神宝の伝説からだとおもいますよ。饒速日が一足早く天孫降臨した際に高天原から持ってきたお宝を石上神宮におまつりしたという伝承があるそうです。饒速日は物部氏のご先祖さまだそうです。
参考になるといいですがよかったたらどうぞth-cam.com/video/BL_QuoUfyj0/w-d-xo.html
どちらが格上とか比較することでしょうか?両方中央です。
解説をありがとうございます
これ、そもそも7世紀に台頭を始めた中臣氏(=藤原氏)が、神代の高天原にいた建御雷神の子孫だと言うのが虚飾の様で、氏族を権威付ける為に出自を創作しただけなんだと思います
だから茨城の鹿島神宮と奈良の中臣氏に繋がりはなかったのに、創作を事実化する為に奈良に春日大社を築いて、鹿島神宮から建御雷神を招聘した上で氏神として祀る粉飾を行ったのだろうと
藤原氏なんぞより白河天皇の庇護を受けた石上神宮のほうが格上。まあそもそも石上神宮のほうが格上
710年創建の春日大社の以前に祀っていたに若宮を考察するべきですね。石上神宮の創建当時は春日大社はありません。石上神宮創建当時は北方に奈良県の古い氏族「和邇氏」が勢力を奮っていた頃です。
では若宮とは?春日大社のお祭りと思われている「御祭」は若宮の祭りです。春日大社は若宮を無視できない理由がありそうですね。今の教科書のような考察は間違っていませんか?石上神宮は和邇神社を背にしその後ろに若宮を背負っています。藤原氏は何を恐れて若宮を消滅させず、「春日御祭」という形で祀っているのでしょう!
同時代の氏族たちの勢力、また、その氏族たちの氏神を考察せずにはなんともいえません!
春日氏は元々和邇氏の本家筋ですから、春日社の方が本来は先になるんでしょうね。
元々石上も、春日社(現在の榎本社)も和邇氏系の神社と思われます。