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小錦さんをNHKかアベマで相撲解説によんでほしい 今 話聞いててすごいわかりやすくておもしろかった。
1:03 猛稽古してる内に自然と合気道的呼吸みたいなもんを身に付けたんだと思う。他のどんな競技でも成功してたろう人は千代の富士だけ。
小錦が千代の富士に勝つ時は、立ち合いの1発目が「ここ!」っていうところに当たった場合だった印象でした。(外れたら、前ミツを取られて速攻か、大きな投げを喰らってましたね。)高砂部屋の床山だった床寿さんが著書やインタビューの中でも仰っていたこと。*気分転換が上手だったねぇ。オンオフの切り替えが上手。稽古する時は稽古する、遊ぶ時は遊ぶ、飲む時は飲むって感じ。あそこまで切り替え上手な力士は見たことない。*横綱になってから私のトコに「大銀杏を結っていただけますか?」って来たから、担当するようになったんだけど、小うるさい男だったよ(笑)。 「今日は(大銀杏の)形が悪かった」とか「今日は結び目が少し緩かった」とか、1日1つは必ず文句を言ってきた(笑) だから私も「今日こそは文句を言わせない大銀杏を結ってやろう」とムキになって努力できたんだけどね。*千代の富士の髪質は、まるで針金だった。だから少量の鬢付け油で形を整えることが出来たし、相撲を取っても崩れなかったよね。“映える大銀杏”が結えた。 その点、小錦なんかは天パの縮れっ毛だったから、とても結いづらかった。家内が美容師だったから、本場所中はストレートパーマをかけてもらったこともあったし、ちょっと力を入れて結うと、プチプチっと毛が切れてしまうこともあったからね。
戦前の双葉山の時代は両手付いて立っていました。でも、双葉山関が優勝を重ねていた頃は平均177㎝108㎏で、179㎝130㎏前後の双葉山関も、その時代で言えば大型力士の部類でした。つまり、幕内で100㎏無い力士はゴロゴロいました。でも、栃若以後手を付かないで立つのが、普通になりました。力士にとって、特に大型力士にとっては、立ち合いの見直しは大変だったと思います。当時の理事長の春日野の栃錦を始め、現役時代手を付いて無い人の集まりですから。千代の富士関は両手付いて立っているけど、チョン、チョン立ちが許されたことが幸いしたと思います。
史上最強の横綱千代の富士と、史上最強の大関小錦。凄い迫力でしたね。横綱になれなかったのは今でもおかしいと思ったし、花田勝治をはじめとした老害の差別はあったと思う。でも、結果として長く頑張って感動させてくれましたね。
小錦の翌年の貴ノ花なんて、優勝→優勝同点でも諮問しなかったから、差別というより時代に翻弄された感じだな。
小錦さんはケガが本当に残念でした。全盛期の圧力は曙、武蔵丸よりも上。千代の富士も吹っ飛んでたからね。
晩年、小錦のことを「幕内に上がってきたころの、200kgくらいの体重を維持できていたら、横綱になっていただろうね。ブクブク太った200kgじゃなく、スポーツで鍛えた200kgだったからね」と語っていましたね
二子山理事長も現役時代は手ついてなかったのになぁ。
インタビュアーの方と同じく千代の富士関の大ファンですが、このインタビュアーの方は以前から"千代の富士の承認欲求"が前面に出過ぎている感があります。すべて「千代の富士は凄かった」という結論に持っていき過ぎです。あと、背筋を真っ直ぐ伸ばして座り、少しは小錦さんの方に体を向けたほうが良いかと思います。小錦さんのお話はとても興味深く拝聴できました。
当時の仕切りルール改正は完全なる二子山理事長の小錦潰し!外国人力士に制覇される危機感があったからだと思う。でもそれが身体の柔らかいモンゴル人力士にとって有効になってるのは皮肉な話しですね。
小錦さんをNHKかアベマで相撲解説によんでほしい 今 話聞いててすごいわかりやすくておもしろかった。
1:03 猛稽古してる内に自然と合気道的呼吸みたいなもんを身に付けたんだと思う。
他のどんな競技でも成功してたろう人は千代の富士だけ。
小錦が千代の富士に勝つ時は、立ち合いの1発目が「ここ!」っていうところに当たった場合だった印象でした。(外れたら、前ミツを取られて速攻か、大きな投げを喰らってましたね。)
高砂部屋の床山だった床寿さんが著書やインタビューの中でも仰っていたこと。
*気分転換が上手だったねぇ。オンオフの切り替えが上手。稽古する時は稽古する、遊ぶ時は遊ぶ、飲む時は飲むって感じ。あそこまで切り替え上手な力士は見たことない。
*横綱になってから私のトコに「大銀杏を結っていただけますか?」って来たから、担当するようになったんだけど、小うるさい男だったよ(笑)。
「今日は(大銀杏の)形が悪かった」とか「今日は結び目が少し緩かった」とか、1日1つは必ず文句を言ってきた(笑)
だから私も「今日こそは文句を言わせない大銀杏を結ってやろう」とムキになって努力できたんだけどね。
*千代の富士の髪質は、まるで針金だった。だから少量の鬢付け油で形を整えることが出来たし、相撲を取っても崩れなかったよね。“映える大銀杏”が結えた。
その点、小錦なんかは天パの縮れっ毛だったから、とても結いづらかった。家内が美容師だったから、本場所中はストレートパーマをかけてもらったこともあったし、ちょっと力を入れて結うと、プチプチっと毛が切れてしまうこともあったからね。
戦前の双葉山の時代は両手付いて立っていました。でも、双葉山関が優勝を重ねていた頃は平均177㎝108㎏で、179㎝130㎏前後の双葉山関も、その時代で言えば大型力士の部類でした。つまり、幕内で100㎏無い力士はゴロゴロいました。でも、栃若以後手を付かないで立つのが、普通になりました。力士にとって、特に大型力士にとっては、立ち合いの見直しは大変だったと思います。当時の理事長の春日野の栃錦を始め、現役時代手を付いて無い人の集まりですから。千代の富士関は両手付いて立っているけど、チョン、チョン立ちが許されたことが幸いしたと思います。
史上最強の横綱千代の富士と、史上最強の大関小錦。凄い迫力でしたね。横綱になれなかったのは今でもおかしいと思ったし、花田勝治をはじめとした老害の差別はあったと思う。でも、結果として長く頑張って感動させてくれましたね。
小錦の翌年の貴ノ花なんて、優勝→優勝同点でも諮問しなかったから、差別というより時代に翻弄された感じだな。
小錦さんはケガが本当に残念でした。全盛期の圧力は曙、武蔵丸よりも上。千代の富士も吹っ飛んでたからね。
晩年、小錦のことを「幕内に上がってきたころの、200kgくらいの体重を維持できていたら、横綱になっていただろうね。ブクブク太った200kgじゃなく、スポーツで鍛えた200kgだったからね」と語っていましたね
二子山理事長も現役時代は手ついてなかったのになぁ。
インタビュアーの方と同じく千代の富士関の大ファンですが、このインタビュアーの方は以前から"千代の富士の承認欲求"が前面に出過ぎている感があります。すべて「千代の富士は凄かった」という結論に持っていき過ぎです。あと、背筋を真っ直ぐ伸ばして座り、少しは小錦さんの方に体を向けたほうが良いかと思います。
小錦さんのお話はとても興味深く拝聴できました。
当時の仕切りルール改正は完全なる二子山理事長の小錦潰し!外国人力士に制覇される危機感があったからだと思う。でもそれが身体の柔らかいモンゴル人力士にとって有効になってるのは皮肉な話しですね。