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凍えるような何もない6畳一間の間借りの部屋に母子3人が住み、寒さに耐えながらこの曲を聴いていました。
うちは6歳の時両親が離婚してから母子二人6畳間でした。母は仕事で18時過ぎに帰って来ましたが、暖房のない部屋で一人で震えながらテレビから流れるこの曲を聞いていました。何故か心が温かくなる曲でした。
@@kuruyocyan さん 返信ありがとうございます。あなた様もご苦労なさいましたね。私どもは食べるに事欠く家庭でした。ズルチンという人工甘味料をお湯で解いておなかの足しにしていました。テレビなどありませんからラジオで聞いていました。
@@akiomatsumoto7923 返信有り難う御座います。苦労をしたのは私の母です。母が一生懸命働いてくれたおかげで3食不自由無く食べられ、テレビを見ることも出来ました。母は昭和6年に生まれてから82才で亡くなるまで苦労の連続だったと思います。
@@kuruyocyan さん 3食不自由なく食べれたのは幸せでしたね。私はそうはいきませんでした。中学時代に生活保護を受けましたが、そのお金がどこに消えたのか?いつも飢えていました。中学時代は朝は牛乳配達夕方は夕刊配達で食費を稼ぎました。
@@akiomatsumoto7923 さん私の家も決して裕福ではありませんでしたし、中高時代は新聞配達もしていました。一般家庭と比べると少し貧しい方でした。しかし母は私に心まで貧しくならないよう、一生懸命に生きる背中を見せて頑張っていました。今とは時代が違って社会保障も無く男性優遇の時代でしたので本当に苦労したと思います。
みんなの歌で初めて聴いたのは、小学校低学年の時でした。こんな綺麗な曲があるなんてと思って感激したことを、今でもよく覚えています。
素敵ですね。ありがとうございます
ダーク・ダックス「雪の降る街を」大 賛 辞 「雪の降る街を」 は、子供の頃から、よく聴いていたのです。ダーク・ダックスの名もよく知っていました。4人の優れた歌手の働きは、当時、目を見張るものがあった事を覚えているのです。そして、このグループの名称に、賢いセンスのあることを知ったのです。歌の内容が実に分かり易く、身近な歌だなあと思ったのです。歌を聴く喜びをはっきりと、知ったのです。擱 筆
ゾウさんの低い声やマンガさんの優しい声、パクさんの素直な声が素敵なハーモニーですね!
ドラマの中で流れてるのを聴いて、何だかずっと聴いていたいと思い探して😊今ではお気に入りの曲です
コメントありがとうございます。昔むか~し村の有線電話から流れた「「雪の降る町を」…暗く重苦しいメロディーの後の転調後のほっとする感じが印象的でした。
2023年9月26日ゾウさんの訃報を聞きました。ダークはもう誰も居ない・・・学生時代ある女性にダークダックスのコンサートに誘われました。青春の思い出が甦ってきます。大好きな中田喜直さんのこの曲で偲びます。
中田喜直先生!53年前の素晴らしい母校の歌ありがとうございました。我ら大泉学園小~。
雪の降る街という言葉が別に感動を呼ぶわけではないのに、の曲を小学生のころ聞いたせいで、このメロディと一体の言葉となり、「雪の降る街」と聞くだけで一気に当時の気持ちに浸ります。今の子供たち、将来の日本の子供たちのためにも、こういう音楽、歌手は必要だと思います。
4人ともあちらへ旅立ちましたね‼️合掌‼️
さすがに素晴らしいハーモニーでした
綺麗な詩だと思います。
この曲は、1961年12月・1962年1月に「NHKみんなのうた」で放送されておりました。1966年12月~1967年1月にも放送されております。1961年版の歌い手は、立川澄登さんと東京少年少女合唱隊の皆さんで、映像は木馬座の皆さんによるシルエットでした。1966年版は、歌い手が東京少年少女合唱隊の皆さんで、映像は東君平さんによるアニメでした。残念ながら、両方とも、まだ映像は見つかっておりません。その当時(1961~1979)の「みんなのうた」の映像や音声を視聴者提供などで探す「NHKみんなのうた」の「発掘プロジェクト」が、2021年12月31日をもって、終了するらしいです。この曲以外にも、たくさん発掘対象曲が、まだ後356曲もあります。もったいない…。素晴らしい企画だったのに…。
知らなかったです!NHKは良い事もしてるのですね!
@@みよし三吉 ええ、まあ、あまりそのことについて、宣伝してくれていないのですがね…。でも、時間はかかっても、奇跡が起こるかもしれませんので、続けてほしいなあと思っております。せめて、別口の「NHK番組発掘プロジェクト」に吸収される形で、活動を継続するなど措置があればいいのですけれどね…。
@@みよし三吉 ある方が、教えて下さったのですが、今後は、公式サイトの番組のメッセージで、楽曲の情報提供の受付をしていくらしいです。
27年前に亡くなったオヤジがドライブするといつも口ずさんでいた歌でした。時期から言ってダークダックス版を聞いていたのかな。
慶応云々ではなく、この4人の奇蹟的な出会いと結成です。
1966年北海道生まれ。実体験と重なるというか。懐かしいような、そして暖かな気持ちになります。
今日、携帯の音楽のところを触っていたら この美しい曲を聴く事が出来ました 心に染みますね
美しい曲を聴くと心が洗われるような気持ちになります
うん、やっぱり本人の歌うのが1番素敵です。テレビで由紀さおりさん達が歌ってたけど我慢できなくて探しました。
ちなみにダークダックスが既にオリジナルではなくカバーです。シングルとしてのオリジナルは1952年の高英男版ですが、その前にNHKのラジオドラマの挿入歌として主演していた女優が初出だそうで。
レコードの良い味がかえって哀しい🎉
雪の降るまちをは、ダークダックスで知りました。
gメン75で夏木マリがカラオケで歌ってたね。東映チャンネルでしていたが。
😊😊😊😊😊👍👍👍👍👍
ジャケ写を鏡像にしてある意図を解説して頂けますと嬉しいです。
ボニー並びのダークさん。
この歌を初めて聴いたのは、NHKラジオ連続放送劇の「えり子とともに」でした。その哀しい美しさに、まだ幼稚園児だったのに感動したせいか、記憶に残りました。大人になってから、この歌の背景を知ったのですが、これは偶然がきっかけで、有名になった歌だったのですね。というのも、直前のリハーサルで、その日の台本が短いことが判り、(長いのは削ればいいのですが、短いのではどうしようもありません)挿入歌が必要になって、大慌てで作曲家の中田喜直に頼んで書いてもらったそうです。前奏とエンディングの作曲が間に合わず、殆どアカペラ同然で放送することになりましたが、それが却って、この歌独特の雰囲気を醸し出す効果になったようです。殆ど即興みたいなこの歌を、当時まだ無名だったシャンソン歌手の高英男が歌ったところ、その美声にたちまち人気が集まり、全国に知られることになったのです。台本作者がいい加減だったせいでしょうか、たびたび放送時間に隙間が出たので、隙間を埋めるめ、一番だけだった歌詞に、急遽二番、三番が書き加えられたそうです。作詞家の内田直也も、このムチャ振りにはさぞかし慌てたことでしょう。案外、名曲が生まれる切っ掛けは、こんなところにあるのかも知れませんね。
なぜ鶴岡市が絡んでるんですか?
この曲 転調するでしょ それからがいいです 失礼しました
凍えるような何もない6畳一間の間借りの部屋に母子3人が住み、寒さに耐えながらこの曲を聴いていました。
うちは6歳の時両親が離婚してから母子二人6畳間でした。母は仕事で18時過ぎに帰って来ましたが、暖房のない部屋で一人で震えながらテレビから流れるこの曲を聞いていました。何故か心が温かくなる曲でした。
@@kuruyocyan さん 返信ありがとうございます。あなた様もご苦労なさいましたね。私どもは食べるに事欠く家庭でした。ズルチンという人工甘味料をお湯で解いておなかの足しにしていました。テレビなどありませんからラジオで聞いていました。
@@akiomatsumoto7923
返信有り難う御座います。
苦労をしたのは私の母です。
母が一生懸命働いてくれたおかげで3食不自由無く食べられ、テレビを見ることも出来ました。母は昭和6年に生まれてから82才で亡くなるまで苦労の連続だったと思います。
@@kuruyocyan さん 3食不自由なく食べれたのは幸せでしたね。私はそうはいきませんでした。中学時代に生活保護を受けましたが、そのお金がどこに消えたのか?いつも飢えていました。中学時代は朝は牛乳配達夕方は夕刊配達で食費を稼ぎました。
@@akiomatsumoto7923 さん
私の家も決して裕福ではありませんでしたし、中高時代は新聞配達もしていました。一般家庭と比べると少し貧しい方でした。しかし母は私に心まで貧しくならないよう、一生懸命に生きる背中を見せて頑張っていました。今とは時代が違って社会保障も無く男性優遇の時代でしたので本当に苦労したと思います。
みんなの歌で初めて聴いたのは、小学校低学年の時でした。こんな綺麗な曲があるなんてと思って感激したことを、今でもよく覚えています。
素敵ですね。ありがとうございます
ダーク・ダックス「雪の降る街を」
大 賛 辞
「雪の降る街を」 は、子供の頃から、よく聴いていたのです。
ダーク・ダックスの名もよく知っていました。4人の優れた歌手の働きは、当時、目を見張るものがあった事を覚えているのです。そして、このグループの名称に、賢いセンスのあることを知ったのです。歌の内容が実に分かり易く、身近な歌だなあと思ったのです。
歌を聴く喜びをはっきりと、知ったのです。
擱 筆
ゾウさんの低い声やマンガさんの優しい声、パクさんの素直な声が素敵なハーモニーですね!
ドラマの中で流れてるのを聴いて、何だかずっと聴いていたいと思い探して😊今ではお気に入りの曲です
コメントありがとうございます。昔むか~し村の有線電話から流れた「「雪の降る町を」…暗く重苦しいメロディーの後の転調後のほっとする感じが印象的でした。
2023年9月26日
ゾウさんの訃報を聞きました。
ダークはもう誰も居ない・・・
学生時代ある女性にダークダックスのコンサートに誘われました。
青春の思い出が甦ってきます。
大好きな中田喜直さんのこの曲で偲びます。
中田喜直先生!53年前の素晴らしい母校の歌ありがとうございました。我ら大泉学園小~。
雪の降る街という言葉が別に感動を呼ぶわけではないのに、の曲を小学生のころ聞いたせいで、
このメロディと一体の言葉となり、「雪の降る街」と聞くだけで一気に当時の気持ちに浸ります。
今の子供たち、将来の日本の子供たちのためにも、こういう音楽、歌手は必要だと思います。
4人ともあちらへ旅立ちましたね‼️合掌‼️
さすがに素晴らしいハーモニーでした
綺麗な詩だと思います。
この曲は、1961年12月・1962年1月に「NHKみんなのうた」で放送されておりました。1966年12月~1967年1月にも放送されております。
1961年版の歌い手は、立川澄登さんと東京少年少女合唱隊の皆さんで、映像は木馬座の皆さんによるシルエットでした。
1966年版は、歌い手が東京少年少女合唱隊の皆さんで、映像は東君平さんによるアニメでした。残念ながら、両方とも、まだ映像は見つかっておりません。
その当時(1961~1979)の「みんなのうた」の映像や音声を視聴者提供などで探す「NHKみんなのうた」の「発掘プロジェクト」が、2021年12月31日をもって、終了するらしいです。
この曲以外にも、たくさん発掘対象曲が、まだ後356曲もあります。もったいない…。素晴らしい企画だったのに…。
知らなかったです!
NHKは良い事もしてるのですね!
@@みよし三吉 ええ、まあ、あまりそのことについて、宣伝してくれていないのですがね…。でも、時間はかかっても、奇跡が起こるかもしれませんので、続けてほしいなあと思っております。せめて、別口の「NHK番組発掘プロジェクト」に吸収される形で、活動を継続するなど措置があればいいのですけれどね…。
@@みよし三吉 ある方が、教えて下さったのですが、今後は、公式サイトの番組のメッセージで、楽曲の情報提供の受付をしていくらしいです。
27年前に亡くなったオヤジがドライブするといつも口ずさんでいた歌でした。時期から言ってダークダックス版を聞いていたのかな。
慶応云々ではなく、この4人の奇蹟的な出会いと結成です。
1966年北海道生まれ。実体験と重なるというか。懐かしいような、そして暖かな気持ちになります。
今日、携帯の音楽のところを触っていたら この美しい曲を聴く事が出来ました 心に染みますね
美しい曲を聴くと
心が洗われるような気持ちになります
うん、やっぱり本人の歌うのが1番素敵です。テレビで由紀さおりさん達が歌ってたけど我慢できなくて探しました。
ちなみにダークダックスが既にオリジナルではなくカバーです。
シングルとしてのオリジナルは1952年の高英男版ですが、その前にNHKのラジオドラマの挿入歌として主演していた女優が初出だそうで。
レコードの良い味がかえって哀しい🎉
雪の降るまちをは、ダークダックスで知りました。
gメン75で夏木マリがカラオケで歌ってたね。
東映チャンネルでしていたが。
😊😊😊😊😊👍👍👍👍👍
ジャケ写を鏡像にしてある意図を解説して頂けますと嬉しいです。
ボニー並びのダークさん。
この歌を初めて聴いたのは、NHKラジオ連続放送劇の「えり子とともに」でした。
その哀しい美しさに、まだ幼稚園児だったのに感動したせいか、記憶に残りました。
大人になってから、この歌の背景を知ったのですが、
これは偶然がきっかけで、有名になった歌だったのですね。
というのも、直前のリハーサルで、その日の台本が短いことが判り、
(長いのは削ればいいのですが、短いのではどうしようもありません)
挿入歌が必要になって、大慌てで作曲家の中田喜直に頼んで書いてもらったそうです。
前奏とエンディングの作曲が間に合わず、殆どアカペラ同然で放送することになりましたが、
それが却って、この歌独特の雰囲気を醸し出す効果になったようです。
殆ど即興みたいなこの歌を、当時まだ無名だったシャンソン歌手の高英男が歌ったところ、
その美声にたちまち人気が集まり、全国に知られることになったのです。
台本作者がいい加減だったせいでしょうか、たびたび放送時間に隙間が出たので、
隙間を埋めるめ、一番だけだった歌詞に、急遽二番、三番が書き加えられたそうです。
作詞家の内田直也も、このムチャ振りにはさぞかし慌てたことでしょう。
案外、名曲が生まれる切っ掛けは、こんなところにあるのかも知れませんね。
なぜ鶴岡市が絡んでるんですか?
この曲 転調するでしょ それからがいいです 失礼しました