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南無阿弥陀仏帰命尽十方無碍光如来
ロシアンブルーニャンス様ご視聴、コメントありがとうございます。南無阿弥陀仏合掌高科修
悩んでも解決しない事に永らく患ってました😞解決しない事に悩むこと(くたくたに成り)悩む事を止めました🙇阿弥陀如来さまに問えば良かったかも知れないです。
nous* avidya様ご視聴、コメントありがとうございます。阿弥陀様に問うたなら…悩め悩めと仰るはずです。そして、その悩みが…悩まねばならない悩みなのか?悩まなくても良い悩みなのか?そのことに気づいていけよ……と仰るでしょう。なぜなら、それが阿弥陀様の大悲だからです。南無阿弥陀仏合掌高科修
かわいそうは人の痛みが分かる。孟子さん、気づき、光‥内から過去から 南無阿弥陀仏😊
みすず 木村様ご視聴、コメントありがとうございます。満員電車で…他人の足を踏んでいても…踏んでいることに気がつかなければ、痛くはありません。踏んでいるのは自分ですし、踏まれているのは自分ではないのですから。でも……践んでいるのに気づけば、その痛みはわかります。『気づく』とは、ある意味そういうことです。浄土真宗の『気づき』は…自分自身の中にある『邪』を認めるところから始まります。南無阿彌陀仏合掌高科修
ありがとうございます。南無阿弥陀仏
k ryu様ご視聴、コメントありがとうございます。南無阿弥陀仏合掌高科修
何気ない人との会話は大事なんですね(与えて頂く。。。)気付かずに過ごした、過去から今に至る迄、全て阿弥陀様の導きだったんだと目から鱗が落ちた気分です。大変な学びになりました。ありがとうございます。無量寿とは、そういう意味だったんですね!過去から今に流れる、人、自然、物、全ての御縁と解釈しました。自分から求めて初めて縁起が生まれる。という事なのでしょうか❓️高科修師の動画に出合えた事に感謝です。
はるみちろはん様ご視聴、コメントありがとうございます。『縁』とは、世の中の、いえ、この私が生きている世界、その全ての繋がりのことです。故に…浄土真宗は、こう説きます。『縁……無くば……私は一瞬たりとも生きて存在などしていられない』と。縁(えん)と言う言葉を、『繋がり』と言葉を変えて思いをめぐらせてみてください。縁の本当の姿に、気づけます。南無阿弥陀仏合掌高科修
@@buddhism_japan 「繋がり」ですね。仏教素人の自分にも解りやすいです。ありがとうございますm(_ _)m
今日も ありがとうございました。最初の天気のくだりは ウンウンと頷き聞かせてもらいました。私は運動が苦手で 盲腸の手術後の回復が長引き運動会に出られない、と思った時の 神様、ありがとうございました。とお祈りしたこと思い出しましたなんて 身勝手な自分の都合でした 今 気づかせて頂きました。ごめんなさい。他のお話も まことに 自分の都合だけの お話し南無阿弥陀仏の意味そうーか、と気づかせて頂きありがとうございました。そう思うと 世のすべてが毎日毎時間 南無阿弥陀仏になるんですね深いお話しありがとうございます。🙏
恵 船本様ご視聴、コメントありがとうございます。私も身勝手です。みんな身勝手です。だからこそ…『身勝手な私』と、開き直るのではなく、『どこまでも身勝手な私』と、悲しみと痛みとを含んだ、その自分自身を見つめる姿勢が大切です。その姿勢が…自分自身に、ありがとうとごめんなさいを言わせます。その姿勢が自分自身に、世の中すべてが、南無阿彌陀仏だと気づかせてくれます。南無阿弥陀仏合掌高科修
ありがとうございます‼️
志水由紀子様ご視聴、コメントありがとうございます。南無阿彌陀仏合掌高科修
高科様、このつるつる頭のお坊さんと という言葉で 高科様の体調がどうだかわかりますね!今日は元気そうだとか、今日は顔色があまりよく無いから睡眠不足なのかなとか、感じています。お忙しいのは分かりますがどうぞご自愛くださいね😅老婆心でもうしております😂
マツタカエクコ様私の体調をご心配頂き、大変恐縮致しております。マツタカエクコ様も、時節がら、熱中症などにお気をつけて、体調管理をなさって下さいませ。お願い申し上げます。南無阿彌陀仏合掌高科修
ありがとうございます。大真唯唯南無阿弥陀仏。
井口好一様ご視聴、コメントありがとうございます。南無阿弥陀仏合掌高科修
南無 気付け、 阿弥陀仏 気付きました。腑に落ちたような気になりました。気付くことから、ありがとう ごめんなさい。の気持ちが、でて来るのですね!普通の日常、気がつかずやり過ごしている事随分ともったいない?生き方?をしているような気がします。正に、気付け! と聞こえてきたようです。ありがとうございます。
誠一郎 冨田様ご視聴、コメントありがとうございます。雨風しのげる家がある。足も痛いし耳も遠くなってきた。けれど…歩けるし、まだ聞こえる。泥棒をしなくても、なんとか食べてはいける。いろいろと文句はあるけれど…家族は仲良くやっている。そうやって…じっくり自分の足元を見たならば…さて…これ以上何を望むのか…さて…これになんの不満があるのか…現状に満足して、それ以上を求めるな!と言っているのではありません。いろいろと求めていくのも人間です。それはそれで求めていけば良いのです。しかし、一度、時々、まず、今!をしっかりと見つめて見ましょうという意味です。自分の今!をしっかりと認識して見ましょうという意味です。南無気づけ阿弥陀仏気づきましたの南無阿彌陀仏とは、生きている私の『生きる』そのものです。南無阿彌陀仏合掌高科修
話しの始めはよく笑い、途中で正座をし聞き入り、また最後に笑い楽しい気持ちになりました。以前何かの本で、世に棄物無しという言葉を聞いた覚えがありますが、あらゆる角度から観る、聞く、感じる人間であろうと考えさせられました。今日の法話、ありがとうございました。南無阿弥陀仏 合掌
善に生きる様ご視聴、コメントありがとうございます。あらゆる角度から観る、聞く、感じる、そのことを、『阿難(アナン)の眼を身に付けろ』と学生であったとき師より教わりました。『阿難の眼』のお話しも、いつかできれば…と思っております。合掌高科修
高科様のこぐまが可愛い😂
マツタカエクコ様『こぐま』………自分自身で、笑いのツボに入った結果で御座います。南無阿彌陀仏合掌高科修
ありがとうございます
Shirokenkotaro Taro様ご視聴、コメントありがとうございます。南無阿彌陀仏合掌高科修
有難く聞かせて頂いてもらってます
Tukiusagi 栗田万利子様ご視聴、コメントありがとうございます。よかったらコチラの動画もご覧ください。法話「マジヤバイ」と「南無阿弥陀仏」th-cam.com/video/rKqUR0J9z7g/w-d-xo.html南無阿彌陀仏合掌高科修
お一言一言法話のお話動画沢山の皆様にお届け感謝します高木修師様いつも大切なお話有り難う御座います
柳橋忠ご視聴、コメントありがとうございます。南無阿彌陀仏合掌高科修
南無阿弥陀仏!
輪廻転生様ご視聴、コメントありがとうございます。南無阿弥陀仏合掌高科修
亡くなった方のパワーは、本当に凄まじい…😭
村上 祥様もう一度動画をご覧ください。パワーの話はしておりません。南無阿弥陀仏合掌高科修
御住職様、返信頂き有難く感謝申し上げます🙏浄土真宗の御教え・親鸞聖人様、蓮如上人様の有りがたいお言葉は他宗にはない教えで心を癒して下さり、ただただ感謝です🙏
三恵 小池様こちらこそ感謝いただき、ありがとうございます。南無阿弥陀仏合掌高科修
三恵 小池様親鸞聖人がお話をされた事柄。蓮如上人がお話をされた事柄。その事柄・お言葉を私たちはしっかりと受け取り、現実に生きている「今」を…自分の人生の生活の中で生かして行く。このことこそが、親鸞聖人および蓮如上人のお心を真に汲み取ることになります。『自身の人生を生き切る生活』を『生きていく』このことに尽きるのです。合掌高科修
おはようございます、南無阿弥陀仏 いろいろなことを気付かさせてくださるのですね、人生は私も波乱盤上ですが、お迎えを何度も身勝手に断り、この世に戻されて、たくさんのけがや病気と闘い、ながい りはびりをへて、いまもとのだいくにもどり、弱々しい体になり、なぜいかされたのか、、自問自答の毎日です、現世に何をやり残したのか、自問自答しながら、業務の忙殺されながら、ひたすら、流されてきましたことに 感謝しなければいけないのです、私たちも少しでも御仏様の意にに添うようにいかされているのでしょ、今度こそは、後生の一大事をこころにさだめて、南無阿弥陀仏を唱えながら、ご先祖様が迎えてくださるよう阿弥陀如来さまが、いるという、極楽浄土に参れるように、努力しなければいけないのでしょう 貴重な講話ありがとうございました、
MAMORU HIMENO様ご視聴、コメントありがとうございます。『後生の一大事』のお話しをされておられましたので、一つ御提案を致したいと思います。動画『余命1ヶ月の花嫁の言葉』と『蓮如上人の言葉』『今、生きていると後生の一大事』th-cam.com/video/0bSXJtSV91s/w-d-xo.htmlを是非ご視聴下さいませ。MAMORU HIMENO様の『生きる』がより深くなられると感じます。合掌高科修
特別コメント歴代の浄土宗の皆様高木修師様のコメントと上手くお書きに慣れなくてご免なさい尻労頑張って世界の皆様に法話動画をお届けしていますよ浄土宗の皆様感謝します
普段の何気ないことに仏教の教えは隠れてるのですね なかなか気づけないですが大切なことですね。
むみ様普段の会話の中にこそ、仏法などと身構えなくても、いろいろ気づかせてくれるものが隠れているのだと思います。仏法が普段の会話に隠されているのではなく、普段の会話の中に仏法があると言った方がよいのではないでしょうか。こんなお話しがあります。小二年生の息子さんが、朝、学校へ行くために玄関に出ます。「いってきまーす」そう元気な声が聞こえました。それからしばらくした時。また玄関から「いってきまーす」と息子さんの声がします。「いってきまーす」「いってきまーす」なんども元気な息子さんの声が聞こえます。母親はびっくりして玄関に向かいます。「○○!(息子さんの名前)。あんた何してるん。早く学校に行きまし!」そういって叱る母親に息子さんはこう言いました。「だってママ、いってらっしゃい!気をつけてね!って言ってくれないんだもん!」日常の毎朝の普通のやり取り(会話)です。でもこの息子さんにとって、ママの「いってらっしゃい」「気をつけてね」は、彼の元気の源(みなもと)、行動する活力のようなものなのでしょう。大袈裟な言い方かもしれませんが、ママの愛情を感じるものなのだと思うのです。母親の我が子を心配する言葉。子供が母親の愛情を感じる言葉。何気ない毎日のいち風景(会話)。ほんの少し意識すれば、そこにこそ大切で大事なことがある。そう思っています。合掌 高科 修
素晴らしいお話でした。私はたくさん反省しました。
中村友子様ご視聴、コメントありがとうございます。北陸の幼子が、意味もわからず口ずさむ「なぁまぁ~だぶぅ~、なぁまぁ~だぶぅ~」でもその「南無阿彌陀仏」の6文字には、道理に合った人が生きていく上での物事の捉え方・受けとめ方・生き方が説かれています。ほとんどの方は、この6文字をただの呪文やお題目のように思っておられるのが現実です。少しでも多くの方々に「南無阿彌陀仏」に説かれている真実を知って頂きたくこの動画をアップ致しました。中村友子様には、動画の内容を府におとして頂けたと感じております。嬉しくまた有り難く思っております。合掌 高科 修
浄土真宗が、聞法にはじまり聞法に終ると云われる所以かと思いました。世間話は、自分の日ごろの日常でもあると思います。日常の中で、ふと気づいたりできる身になっていけることに、有り難い(稀有な出来事)と手を合わせていける暮らしが、真宗門徒在家の姿かなと思いました。ありがとうございます。
トモ様ご視聴、コメントありがとうございます。トモ様の仰る通りでございます。本当に…気がつけば…世の中すべてが…南無阿彌陀仏です。南無きづけ阿弥陀仏きづきましたの…南無阿彌陀仏です。合掌高科修
本日も有り難うこざいます。気付けよ、と繰り返し繰り返し働きかけて下さる阿弥陀様のおはたらき。気付こう、しっかり全て分からなくても考えよう…せめて何事にも無関心にならぬように努めたいと切に感じます。息子達が幼い頃、「(お手次寺の)先生は、仏様の言葉が喋れて(読経のことだと思います)、いろんなこと教えてくれるんだ」と言っていましたっけ。ただ生きているだけでは、きっと見過ごしてしまう、生きている私達の根底を支える様々なもの、思い…。自分自身の思い上がり…。お手次寺の先生や高科先生の私達に伝えようとしてくださる情熱に、ただ謝することしか出来ません。
ちゃんぴー様ご視聴、コメントありがとうございます。火葬場で今まさに火葬する炉に棺(ひつぎ)が入るその時、亡くなられた方のお孫さん(赤ちゃんを抱えている二十歳過ぎお母さん)、そのお孫さんの赤ちゃんが急に泣き出しました。いそいで、お孫さんは赤ちゃんと共にその場を離れようとしました。その場に居た親戚親族はその行動を誰も止めません。このお孫さんの行動は常識的です。激しく泣く赤ん坊を抱え部屋を出て行こうとするそのお孫さんの行動は常識的で正しい配慮です。そしてそれを黙認して引き留めない大人たちも常識的で正しい配慮です。でも、私は「赤ん坊は泣いていていいんですよ。出て行かないで良いから最後をおくってください」と引き留めました。真っ赤に目腫らしているお孫さん。きっと亡くなったおじいちゃんには、たくさん可愛がられたのであろことは簡単に想像できます。赤ん坊が泣こうが叫ぼうが、最後までキチンとお孫さんは「おくらねば」ならないのです。私たちは経験を通してさまざまな事を学んでいきます。その経験値こそが、大人・年配者の強みであり、値であると思います。その経験を踏まえて、時と場所と状況を判断して言葉を発したり、行動したり出来なければ、生きてきたその経験自体が「無」になってしまいます。自分の人生そのものの否定にもつながっていくと思うのです。それは決して大袈裟なことではないと感じています。お孫さんの行動。そこに居る大人たちの行動。それが「常識的」で「正しい」配慮だからこそ、そこに経験から蓄積された智恵とものの考え方が必要となってきます。今この時は、まわりの大人たちは、このお孫さんを引き留める言葉を発ししなければならないのです。経験を積み重ねた年配者として。その積み重ねた経験が言わさずにはおれないはずなのです。自分(お孫さん)を愛してくれたおじいちゃんを最後までお孫さんがキチンとおくるこのことが、なににも勝る大切なことなのですから。常識的で正しいことが、ある状況、ある場面では、必ずしも最善で最良だとはかぎりません。非常識なことが、最善で最良なこともあるのです。そしてそれは、さまざまな出来事を、ちゃんぴー様がおっしゃる通り「無関心でいないでおこう…」というその姿勢からしか自分の中に積み重ねられないものです。南無と気づけと促され、阿弥陀仏と気づいていく。このことがなければ、経験は積み重なってはいきません。積み重なった経験とはその経験から得た智恵の積み重ねに他なりません。それは歳を積み重ねて行かなければ積み重なりません。南無阿彌陀仏の六字は…「歳をとっていくことは素晴らしいことなのですよ」と、私たちに教えてくれてもいるのです。合掌 高科 修
こんばんわ^_^色んな事、全ての事は私に気づけ❗️と教えてくれている。二つの世間話の中から、人の身勝手さを気づかさせて頂きました。法話を聴かせて頂いていても、ただ、聞くだけではなく、聴く側も気づくという姿勢が大切。仏法における南無阿弥陀仏とは気づけ!という事なのですね〜。そして、壁にぶち当たった時やギリギリ追い詰められた時、悩んでこそつぎに何をすべきか見えてくる。悩んでこそ気づくという事なのですね〜今まで、色々と経験して、おそらく住職さんの言われる気づきという事があったとは思いますが、このように、説明・解説して頂いたことで、しっかりと腑に落ちました。有り難うございました🥲南無阿弥陀仏🙏
M Kwaguchi様ご視聴、コメントありがとうございます。人生の経験を積めば積むほど、人は無意識のうちに、その人生で出合った出来事(楽しい事・辛い事等々)から学び気づいているはずなのです。だからこそ、昔から困った事の解決に尽力した年配者は「さすが!伊達に歳とっとらんね!」と言われたのです。やはり「気づき」は「智恵」なのだと思うのです。生きていく私たちが、生きていく上で必要な「こころ」を教えてくれる。無意識で経験(気づき)を積んで生きていくのと、そのことを意識して生きていくのでは、同じように人生を生きていくにしても充実感が違うのではないでしょうか。まさにM Kwaguchi様のお言葉通り「府に落ちて」生きていけるのですから。合掌 高科 修
私は坐禅を続けたことによって、マトモになれました。坐禅をする前の私は頭のネジが外れていました。唯識(ゆいしき)とは、自分の心が自分の世界を作り出しているという思想です。
トム様『曹洞宗以外の宗派はすべて頭のネジが外れている。座禅をする事でマトモきなりました。座禅をする前は頭のネジが外れていました』と言うトム様の宗教的御経験をお知らせ頂きありがとうごさいます。その宗教的御経験はトム様御自身の事として深く受けとめさせて頂きました。トム様に申し上げます。大変、ご苦悩なされたのですね。それならば、マトモな状態も、ネジが外れた状態も、自分自身の思いの世界という事になりますね。唯識思想は、内観を進める一つの手がかりだと習っております。座禅前と、座禅後で、何が違うのか?その先に、いま私は如何にして、この世界を生きていくのかが、問われたことと思います。どうぞ、励み、勤め、精進されますことを応援しております。ただ、不思議で、残念なのは、唯識思想を語られ、座禅後のトム様が…如何にこの世界を生きていくのかを自ら自らに問われたトム様が…その結果が、浄土真宗大谷派の宗教的解釈のお話をしておりますサイトへの、一連のコメントであることです。私自身は、浄土真宗を信仰しております。と同時にご存知かと思われますが、浄土真宗大谷派のまぎれもない僧侶で御座います。釋完修という仏弟子で御座います。トム様が仰る他の宗派で、トム様が指摘する頭のネジがはずれている人間でごさいます。私の事をご心配頂いてご忠告、またご自分の御経験をお知らせ頂くことは、誠にありがたいのですが、私といたしましては、頭のネジが外れている今のままの状態で、日常生活を送りますことに、なんの支障もございません。それどころか、友達、家族、共に歩む僧侶の方々と、ケンカや言い争いもたまには致しますが、仲良く楽しく、協力し助け合いながら生きております。トム様。どうぞご心配なく。そのご心配には感謝申し上げますが、ご心配のコメントを毎回頂くにはおよびません。お手をわずらわせて大変申し訳ありません。どうぞ、もうご心配していただくのは、たいへん気兼ねでございますのでご心配頂かなくて結構でございます。ありがとうごさいます。トム様と私ども浄土真宗は、「道」が違いますので、どうぞご理解くださいますよう、よろしくお願い致します。合掌高科修
良いお話でした。1人でも多くの人に聴いて貰いたいです。
加藤真理様ご視聴、コメントありがとうございます。見るもの。聞くもの。話すもの。自分が出会うあらゆる出来事。それらすべての「他」が自分の心に様々な思いをわきだたせます。それは…ありがとうであったり、ごめんなさいであったり時には憎しみや、恨みであったりもします。けれど、そのわき出る思いが「自分自身の今の姿である」と「気づかせてもらった」なら!そして「自分の姿に気づいたなら」なら!どうすれば、「自分が笑顔でいられるか」どうすれば「自分自身を自分で好きでいられるか」を考えていけるのではないでしょうか。そしてそう考えて人生を生きている姿は、自分で生きているけれど、自分で自分を誉めてあげたくなりませんか?「一生懸命生きてるね」と。たぶんそれが「笑顔」で生活出来る一つの考え方だと思うのです。「南無阿彌陀仏」はそのために「ある」と私は思っています。「1人でも多くの人に聴いて貰いたいです」との加藤真理様のお言葉は、本当に嬉しくありがたく感じております。ありがとうございます。合掌 高科 修
釈尊もそれを正しく受け継がれた日蓮大聖人も念仏は禁じられています。念仏の親鸞も最後は弟子や一人の弟子にも見放され苦しみながら亡くなりました。知人の念仏を唱えている人が最後は自殺しました。念仏は無間地獄地獄です。
白蘭様ご視聴、コメントありがとうございます。白蘭様が、何を信じ、何を信仰なされるかは、白蘭様のご自由であります。当方は…浄土真宗大谷派という宗教宗派であります。そして私は、その浄土真宗大谷派の僧侶であります。ご承知と存じますが、開祖は親鸞聖人であります。故に…私は紛れもなく親鸞聖人の弟子であります。さらに、お釈迦様の弟子であり、仏の弟子、仏弟子であります。有難いことに、今年は立教開宗800年の法要を京都東本願寺において勤めさせて頂きました。脈々と続く弟子から弟子への法の相続の重たさと深さを感じさせて頂いた次第であります。ご存知でないようなので、一応お知らせ致します。尚……自殺なさった方のその理由を、念仏の責にするのは、自殺なさった方に対して、誠に無礼であり失礼極まりない言動であります。亡くなられた『仏様』に対して、あまりに無礼千万な言動は慎まれますよう、ここに叱責申し上げます。南無阿彌陀仏合掌高科修
私はいつもばちがあたっている
梅本陵仙様ご視聴、コメントありがとうごさいます。大丈夫です。バチなど当たっていません。誰もバチなど当てません。「バチが当たっている」と感じれる、物事に謙虚な気持ちを持っておられる梅本陵仙様が素晴らしいのです。合掌 高科 修
お経の意味を分かる方は少ないと思います。だからその意味を理解したいので法話をお願いしたのでは無いですか?いきなり天気の話は法話の段階があると思われます。
古川博久様ご視聴、コメントありがとうございます。もう一度動画をご視聴下さいませ。まさしく、古川博久様のコメントに対するお答えの動画で御座います。南無阿弥陀仏合掌高科修
SNSや法要新聞で気付かされないと、日常生活で悟れない。
小松晃様ご視聴、コメントありがとうございます。人間はさとれません。「さとり」とは?心穏やかに生きるためには?th-cam.com/video/jC8q28bdXqI/w-d-xo.htmlコチラの動画をご覧ください。合掌高科修
南無阿彌陀佛🙏
伊藤弘幸様ご視聴、コメントありがとうございます。南無阿彌陀仏 🙏合掌 高科 修
ツルツルあたまぼうさん。統一教会に勝てウキ〜
大原紀生様ご視聴、コメントありがとうございます。このお坊さんの小話は、浄土真宗の一僧侶が了解した浄土真宗の解釈のお話しをさせていただいております。各動画のお話しを聞いた皆様が、大原紀生様がそれぞれにご自身で考え悩み問うていただくための法話でございます。他宗教との勝ち負けというお話しでは、ございません。ご理解いただけるとありがたいです。合掌高科修
気づく心を、改めて教えていただけました。ありがとうございます。教えていただきたい事があります。南無阿弥陀仏を、ナムアミダブツ、ナモアミダブツ、と2つの唱え方があるみたいです。同じようで同じではないのでしょうか?つまらない事をお聞きして申し訳ありません。よろしくお願いいたします。
とし爺 様大丈夫です(笑)つまらなくはないです(笑)言うなれば、方言のようなものです。どちらも正解です。同じ「南無阿弥陀」を発音しても、日本全国イントネーションは違います。一人一人でも、早口の人、滑舌の悪い人、ある特定の〇行(あかさたな)が不得意な地域と様々です。ですから、そこはお気になさらずにお願いいたします。大切なのは「南無」と気づかされ!「阿弥陀仏」とはい気づきました!という「南無阿弥陀」の心なのですから。合掌 高科 修
法話「因縁果業」のコメント欄からのご案内で飛んで参りました、実は2回目の拝聴で御座います1回目「南無阿弥陀仏」って唱えてれば極楽にいけると言うこと子供のと聞いたが今学べばどういう感じかなと思って拝聴しました天気の小話で二人のばあさん自分の身勝手で高科坊さんに結構勝手な我が儘言ってるなとは感じたもの、2回目アー此一度聞いたっけと思いながら聞き直してみたさきの「因縁果業」で勝手な自分の意見を残させて頂いたが、自分の心の軌跡でいろんな気づきがあった事柄を羅列した、幼少期の自分の過去や両親のことも「無量寿」の中でいろんな気づきに出会えて反省してる今の自分が居る、今の私は1ヶ月ほど前とは少し違う、何とも落ち着いて穏やかというか平穏で所謂喜びの感じがする、1カ所にとどまって渦を巻いてた流れがお坊さんの小話を聞くこと数回で大きな石ころ一個が崩れて綺麗な流れが出来たようなすっきり感です、そういうことにも気づきました、限られた自分だけの世界ですが当に南無阿弥陀仏でしょうか、気づいて不安が解消方向に流れて有り難い気持ちは南無阿弥陀仏かな、知ったか振りを語って済みません未熟ですが親鸞様の浄土真宗の教えを少しでも深入りしたく高科先生の小話で学んで参りたく思います、有り難うございます、帰命無量寿如来、南無不可思議光、南無阿弥陀仏、ンーーーーー未だ未だ・・・・・・
SA ・IKO様ご視聴、コメントありがとうごさいます。もう…すでに…南無阿彌陀仏の世界に居られます。同じ動画でも見る人の、その時の状況、体調、気分、その他諸々で、全く違ったお話に聞こえると思うのです。青年時代に見て感動した映画が、熟年者となって見てみたらそうでもなかった…また逆に、少しも心を動かされなかった映画に、今は号泣する程の感銘を受ける…普通にあるお話です。この小話の動画も同様です。どうか、暇に任せて、同じ動画でも見直してみてください。新しい気づきが、あるかもしれません。合掌 高科 修
@@buddhism_japan 生きる真の目標を探し始めた私のコメントに「もう既に南無阿弥陀仏の世界に居られます」とのビックリコメント頂きキョトンです。ふわふわした人生途上階段一歩上れた気がして嬉しい限りです、有り難うございます、人生5回目の邂逅と感じております小話一回聞いても理解や納得できない点多々ありますので、納得できて今後の人生に幸せ感じるよう精進して参ります
SA ・IKO様 「生きる真の目標を探し始める」これが始まりで終わりです。この答えの出ない答えを、求め続け考え続けて行く姿勢が、ある意味「人生を生きる」ということなのではないでしょうか。合掌 高科 修
@@buddhism_japan 「毎度ご丁寧なご回答頂き有り難うございます「真の生きる目標」=「答えが出ない」=「答えを求め続ける」=「人生を生きる」お釈迦様や親鸞聖人は「阿弥陀如来」に出会って「最高の歓喜になった」らしい(?)その「阿弥陀如来」の姿・状態・が絶体で死後の不安解除に至る重要なポイントならば何故坊さん方はそれをはっきり具体的に教えてはくれないんでしょうか?前置き的言葉が多すぎてその重大事を語らず終了、の繰り返し、の感じがしますいまFX・株式を自動で売買する事が出来ますが絶体此のソフトを使えば勝つ、と言う答えが未だ数万件の方法が提案され売買されるが絶体が知らされない、実はあるが高額で全員使うとオール損失だ!!それに似て、肝心な「阿弥陀如来」を提示したら仏教の布教が成立しない、答えがわかったらなーーんだで終わり、、そんな風に感じます、お釈迦様が発見された「阿弥陀如来」が七千余巻もの言葉で説明しきれないのは何故なんでしょうか?、そういう「答えの無い」仏教をの本質的「阿弥陀如来」とやらを求め続けて参りたい判らないで済まない、納得して判ったとしたい、葬式仏教ではもったいない」と言うのが本音で御座います「南無」「阿弥陀仏」と成りたい・・・・
SA IKO様SA IKO様の疑問の答えはただ1つ。人の数だけそれぞれの人生があるからです。そして人の数だけそれぞれの感じかた思い方、受け取り方があるからです。そして、自分の人生は、誰でもない、自分しか生きれないからです。これ以外にありません。同じ人でも、健康な時…病気な時…病気でも軽い時…重篤な時…幼年…青年…熟年…独身…結婚…離婚…別居…会社で現役…定年…たったこれだけの事柄をあげただけでも、その時期によって同じ出来事にであっても、考え方、捉え方、受け取り方はたぶんすべて違います。お釈迦様でも親鸞聖人でも、それこそ阿弥陀如来でも「人生を生きる道」を説いているのです。感じて、思慮し、実践し、それでも出来ない自分がいる。で、また感じて、思慮し、実践し、それでも出来ない自分がいる。たのに、知らない人が知らないところで生きていて死んでいく。その人たちのお陰で自分は今現在生きている。出来ないじぶんが…この事実に心底気づいた時。初めて人は「生きる」「生かされている」と自覚できるのだ!というのが浄土真宗です。さぁSA IKO様。ポイントはお話しました。ポイントはお知らせいたしました。どうですか…納得など出来ないでしょう。そんなこと言われたって…と思われませんか?SA IKO様の疑問の答えはSA IKO様自身の中にあります。SA IKO様が自分の人生をどう生きるかは、誰でもないSA IKO様自身が決めて行かねばならないことなのですから。それこそ、当たり前すぎるほど当たり前のことです。だから、ポイントなどないのです。ある意味、全部がポイントです。これが、SA IKO様の抱いている疑問のお答えになります。思慮いただければ幸いです。それと、南無阿彌陀仏の「気づき」のお話。「気づき、生きる、そこに敬いと尊敬を持って」「悩みながら生きる」「生老病死。どうすることも出来ない道理のなかで生きる」このお話をFX・株式に例えるのはダメです。これをすれば大丈夫です。でもわざと言わない…の例えは、余りにも浄土真宗の教えを愚弄し、仏教をバカにした例えになります。 この一点は、優しい言葉では叱れません。ハッキリときっぱりとご注意致します。ダメです!合掌 高科 修
南無阿弥陀仏
帰命尽十方無碍光如来
ロシアンブルーニャンス様
ご視聴、コメントありがとうございます。
南無阿弥陀仏
合掌
高科修
悩んでも解決しない事に永らく患ってました😞解決しない事に悩むこと(くたくたに成り)悩む事を止めました🙇阿弥陀如来さまに問えば良かったかも知れないです。
nous* avidya様
ご視聴、コメントありがとうございます。
阿弥陀様に問うたなら…
悩め悩めと仰るはずです。
そして、その悩みが…
悩まねばならない悩みなのか?
悩まなくても良い悩みなのか?
そのことに気づいていけよ……と仰るでしょう。
なぜなら、それが
阿弥陀様の大悲だからです。
南無阿弥陀仏
合掌
高科修
かわいそうは人の痛みが分かる。孟子さん、気づき、光‥内から過去から 南無阿弥陀仏😊
みすず 木村様
ご視聴、コメントありがとうございます。
満員電車で…
他人の足を踏んでいても…
踏んでいることに気がつかなければ、痛くはありません。
踏んでいるのは自分ですし、踏まれているのは自分ではないのですから。
でも……
践んでいるのに気づけば、その痛みはわかります。
『気づく』とは、ある意味そういうことです。
浄土真宗の『気づき』は…
自分自身の中にある『邪』を認めるところから始まります。
南無阿彌陀仏
合掌
高科修
ありがとうございます。南無阿弥陀仏
k ryu様
ご視聴、コメントありがとうございます。
南無阿弥陀仏
合掌
高科修
何気ない人との会話は大事なんですね(与えて頂く。。。)
気付かずに過ごした、過去から今に至る迄、全て阿弥陀様の導きだったんだと目から鱗が落ちた気分です。大変な学びになりました。ありがとうございます。
無量寿とは、そういう意味だったんですね!過去から今に流れる、人、自然、物、全ての御縁と解釈しました。
自分から求めて初めて縁起が生まれる。という事なのでしょうか❓️
高科修師の動画に出合えた事に感謝です。
はるみちろはん様
ご視聴、コメントありがとうございます。
『縁』とは、
世の中の、いえ、この私が生きている世界、その全ての繋がりのことです。
故に…浄土真宗は、こう説きます。
『縁……無くば……
私は一瞬たりとも生きて存在などしていられない』と。
縁(えん)と言う言葉を、『繋がり』と言葉を変えて思いをめぐらせてみてください。
縁の本当の姿に、気づけます。
南無阿弥陀仏
合掌
高科修
@@buddhism_japan 「繋がり」ですね。仏教素人の自分にも解りやすいです。ありがとうございますm(_ _)m
今日も ありがとうございました。
最初の天気のくだりは ウンウンと頷き聞かせてもらいました。
私は運動が苦手で 盲腸の手術後の回復が長引き運動会に出られない、と思った時の
神様、ありがとうございました。とお祈りしたこと思い出しました
なんて 身勝手な自分の都合でした 今 気づかせて頂きました。
ごめんなさい。
他のお話も まことに 自分の都合だけの お話し
南無阿弥陀仏の意味
そうーか、と気づかせて頂き
ありがとうございました。
そう思うと 世のすべてが毎日毎時間 南無阿弥陀仏になるんですね
深いお話しありがとうございます。🙏
恵 船本様
ご視聴、コメントありがとうございます。
私も身勝手です。
みんな身勝手です。
だからこそ…
『身勝手な私』と、開き直るのではなく、
『どこまでも身勝手な私』と、悲しみと痛みとを含んだ、その自分自身を見つめる姿勢が大切です。
その姿勢が…
自分自身に、
ありがとう
と
ごめんなさい
を言わせます。
その姿勢が
自分自身に、
世の中すべてが、南無阿彌陀仏だと気づかせてくれます。
南無阿弥陀仏
合掌
高科修
ありがとうございます‼️
志水由紀子様
ご視聴、コメントありがとうございます。
南無阿彌陀仏
合掌
高科修
高科様、このつるつる頭のお坊さんと という言葉で 高科様の体調がどうだかわかりますね!
今日は元気そうだとか、今日は顔色があまりよく無いから睡眠不足なのかなとか、感じています。
お忙しいのは分かりますがどうぞご自愛くださいね😅
老婆心でもうしております😂
マツタカエクコ様
私の体調をご心配頂き、大変恐縮致しております。
マツタカエクコ様も、時節がら、熱中症などにお気をつけて、体調管理をなさって下さいませ。
お願い申し上げます。
南無阿彌陀仏
合掌
高科修
ありがとうございます。大真唯唯南無阿弥陀仏。
井口好一様
ご視聴、コメントありがとうございます。
南無阿弥陀仏
合掌
高科修
南無 気付け、 阿弥陀仏 気付きました。
腑に落ちたような気になりました。
気付くことから、ありがとう ごめんなさい。
の気持ちが、でて来るのですね!
普通の日常、気がつかずやり過ごしている事
随分ともったいない?生き方?をしているような気がします。
正に、気付け! と聞こえてきたようです。
ありがとうございます。
誠一郎 冨田様
ご視聴、コメントありがとうございます。
雨風しのげる家がある。
足も痛いし耳も遠くなってきた。
けれど…歩けるし、まだ聞こえる。
泥棒をしなくても、なんとか食べてはいける。
いろいろと文句はあるけれど…家族は仲良くやっている。
そうやって…
じっくり自分の足元を見たならば…
さて…
これ以上何を望むのか…さて…
これになんの不満があるのか…
現状に満足して、それ以上を求めるな!と言っているのではありません。
いろいろと求めていくのも人間です。
それはそれで求めていけば良いのです。
しかし、一度、時々、
まず、今!をしっかりと見つめて見ましょうという意味です。
自分の今!をしっかりと認識して見ましょうという意味です。
南無気づけ
阿弥陀仏気づきましたの南無阿彌陀仏とは、生きている私の『生きる』そのものです。
南無阿彌陀仏
合掌
高科修
話しの始めはよく笑い、途中で正座をし聞き入り、また最後に笑い楽しい気持ちになりました。以前何かの本で、世に棄物無しという言葉を聞いた覚えがありますが、あらゆる角度から観る、聞く、感じる人間であろうと考えさせられました。今日の法話、ありがとうございました。南無阿弥陀仏 合掌
善に生きる様
ご視聴、コメントありがとうございます。
あらゆる角度から観る、聞く、感じる、そのことを、『阿難(アナン)の眼を身に付けろ』と学生であったとき師より教わりました。
『阿難の眼』のお話しも、いつかできれば…と思っております。
合掌
高科修
高科様のこぐまが可愛い😂
マツタカエクコ様
『こぐま』
………
自分自身で、笑いのツボに入った結果で御座います。
南無阿彌陀仏
合掌
高科修
ありがとうございます
Shirokenkotaro Taro様
ご視聴、コメントありがとうございます。
南無阿彌陀仏
合掌
高科修
有難く聞かせて頂いてもらってます
Tukiusagi 栗田万利子様
ご視聴、コメントありがとうございます。
よかったらコチラの動画もご覧ください。
法話「マジヤバイ」と「南無阿弥陀仏」
th-cam.com/video/rKqUR0J9z7g/w-d-xo.html
南無阿彌陀仏
合掌
高科修
お一言一言法話のお話動画沢山の皆様にお届け感謝します高木修師様いつも大切なお話有り難う御座います
柳橋忠
ご視聴、コメントありがとうございます。
南無阿彌陀仏
合掌
高科修
南無阿弥陀仏!
輪廻転生様
ご視聴、コメントありがとうございます。
南無阿弥陀仏
合掌
高科修
亡くなった方のパワーは、本当に凄まじい…😭
村上 祥様
もう一度動画をご覧ください。
パワーの話はしておりません。
南無阿弥陀仏
合掌
高科修
御住職様、返信頂き有難く感謝申し上げます🙏
浄土真宗の御教え・親鸞聖人様、蓮如上人様の有りがたいお言葉は他宗にはない教えで心を癒して下さり、ただただ感謝です🙏
三恵 小池様
こちらこそ感謝いただき、ありがとうございます。
南無阿弥陀仏
合掌
高科修
三恵 小池様
親鸞聖人がお話をされた事柄。
蓮如上人がお話をされた事柄。
その事柄・お言葉を私たちはしっかりと受け取り、現実に生きている「今」を…
自分の人生の生活の中で生かして行く。
このことこそが、親鸞聖人および蓮如上人のお心を真に汲み取ることになります。
『自身の人生を生き切る生活』を『生きていく』
このことに尽きるのです。
合掌
高科修
おはようございます、南無阿弥陀仏 いろいろなことを気付かさせてくださるのですね、人生は私も波乱盤上ですが、お迎えを何度も身勝手に断り、この世に戻されて、たくさんのけがや病気と闘い、ながい りはびりをへて、いまもとのだいくにもどり、弱々しい体になり、なぜいかされたのか、、自問自答の毎日です、現世に何をやり残したのか、自問自答しながら、業務の忙殺されながら、ひたすら、流されてきましたことに 感謝しなければいけないのです、私たちも少しでも御仏様の意にに添うようにいかされているのでしょ、今度こそは、後生の一大事をこころにさだめて、南無阿弥陀仏を唱えながら、ご先祖様が迎えてくださるよう阿弥陀如来さまが、いるという、極楽浄土に参れるように、努力しなければいけないのでしょう 貴重な講話ありがとうございました、
MAMORU HIMENO様
ご視聴、コメントありがとうございます。
『後生の一大事』
のお話しをされておられましたので、一つ御提案を致したいと思います。
動画
『余命1ヶ月の花嫁の言葉』と『蓮如上人の言葉』
『今、生きていると後生の一大事』
th-cam.com/video/0bSXJtSV91s/w-d-xo.html
を是非ご視聴下さいませ。
MAMORU HIMENO様の『生きる』がより深くなられると感じます。
合掌
高科修
特別コメント歴代の浄土宗の皆様高木修師様のコメントと上手くお書きに慣れなくてご免なさい尻労頑張って世界の皆様に法話動画をお届けしていますよ浄土宗の皆様感謝します
柳橋忠
ご視聴、コメントありがとうございます。
南無阿彌陀仏
合掌
高科修
普段の何気ないことに仏教の教えは隠れてるのですね なかなか気づけないですが大切なことですね。
むみ様
普段の会話の中にこそ、仏法などと身構えなくても、いろいろ気づかせてくれるものが隠れているのだと思います。
仏法が普段の会話に隠されているのではなく、
普段の会話の中に仏法があると言った方がよいのではないでしょうか。
こんなお話しがあります。
小二年生の息子さんが、朝、学校へ行くために玄関に出ます。
「いってきまーす」
そう元気な声が聞こえました。
それからしばらくした時。また玄関から
「いってきまーす」と息子さんの声がします。
「いってきまーす」
「いってきまーす」
なんども元気な息子さんの声が聞こえます。
母親はびっくりして玄関に向かいます。
「○○!(息子さんの名前)。あんた何してるん。早く学校に行きまし!」
そういって叱る母親に息子さんはこう言いました。
「だってママ、いってらっしゃい!気をつけてね!って言ってくれないんだもん!」
日常の毎朝の普通のやり取り(会話)です。
でもこの息子さんにとって、ママの「いってらっしゃい」「気をつけてね」は、彼の元気の源(みなもと)、行動する活力のようなものなのでしょう。
大袈裟な言い方かもしれませんが、ママの愛情を感じるものなのだと思うのです。
母親の我が子を心配する言葉。
子供が母親の愛情を感じる言葉。
何気ない毎日のいち風景(会話)。
ほんの少し意識すれば、そこにこそ大切で大事なことがある。
そう思っています。
合掌
高科 修
素晴らしいお話でした。私はたくさん反省しました。
中村友子様
ご視聴、コメントありがとうございます。
北陸の幼子が、意味もわからず口ずさむ「なぁまぁ~だぶぅ~、なぁまぁ~だぶぅ~」
でもその「南無阿彌陀仏」の6文字には、道理に合った人が生きていく上での物事の捉え方・受けとめ方・生き方が説かれています。
ほとんどの方は、この6文字をただの呪文やお題目のように思っておられるのが現実です。
少しでも多くの方々に「南無阿彌陀仏」に説かれている真実を知って頂きたくこの動画をアップ致しました。
中村友子様には、動画の内容を府におとして頂けたと感じております。
嬉しくまた有り難く思っております。
合掌
高科 修
浄土真宗が、聞法にはじまり聞法に終ると云われる所以かと思いました。
世間話は、自分の日ごろの日常でもあると思います。
日常の中で、ふと気づいたりできる身になっていけることに、有り難い(稀有な出来事)と手を合わせていける暮らしが、真宗門徒在家の姿かなと思いました。
ありがとうございます。
トモ様
ご視聴、コメントありがとうございます。
トモ様の仰る通りでございます。
本当に…
気がつけば…
世の中すべてが…
南無阿彌陀仏です。
南無きづけ
阿弥陀仏きづきました
の…南無阿彌陀仏です。
合掌
高科修
本日も有り難うこざいます。
気付けよ、と繰り返し繰り返し働きかけて下さる阿弥陀様のおはたらき。気付こう、しっかり全て分からなくても考えよう…せめて何事にも無関心にならぬように努めたいと切に感じます。
息子達が幼い頃、「(お手次寺の)先生は、仏様の言葉が喋れて(読経のことだと思います)、いろんなこと教えてくれるんだ」と言っていましたっけ。ただ生きているだけでは、きっと見過ごしてしまう、生きている私達の根底を支える様々なもの、思い…。自分自身の思い上がり…。
お手次寺の先生や高科先生の私達に伝えようとしてくださる情熱に、ただ謝することしか出来ません。
ちゃんぴー様
ご視聴、コメントありがとうございます。
火葬場で今まさに火葬する炉に棺(ひつぎ)が入るその時、亡くなられた方のお孫さん(赤ちゃんを抱えている二十歳過ぎお母さん)、そのお孫さんの赤ちゃんが急に泣き出しました。
いそいで、お孫さんは赤ちゃんと共にその場を離れようとしました。
その場に居た親戚親族はその行動を誰も止めません。
このお孫さんの行動は常識的です。激しく泣く赤ん坊を抱え部屋を出て行こうとするそのお孫さんの行動は常識的で正しい配慮です。
そしてそれを黙認して引き留めない大人たちも常識的で正しい配慮です。
でも、私は「赤ん坊は泣いていていいんですよ。出て行かないで良いから最後をおくってください」と引き留めました。
真っ赤に目腫らしているお孫さん。きっと亡くなったおじいちゃんには、たくさん可愛がられたのであろことは簡単に想像できます。赤ん坊が泣こうが叫ぼうが、最後までキチンとお孫さんは「おくらねば」ならないのです。
私たちは経験を通してさまざまな事を学んでいきます。その経験値こそが、大人・年配者の強みであり、値であると思います。
その経験を踏まえて、時と場所と状況を判断して言葉を発したり、行動したり出来なければ、生きてきたその経験自体が「無」になってしまいます。自分の人生そのものの否定にもつながっていくと思うのです。それは決して大袈裟なことではないと感じています。
お孫さんの行動。そこに居る大人たちの行動。
それが「常識的」で「正しい」配慮だからこそ、そこに経験から蓄積された智恵とものの考え方が必要となってきます。
今この時は、まわりの大人たちは、このお孫さんを引き留める言葉を発ししなければならないのです。経験を積み重ねた年配者として。
その積み重ねた経験が言わさずにはおれないはずなのです。
自分(お孫さん)を愛してくれたおじいちゃんを最後までお孫さんがキチンとおくる
このことが、なににも勝る大切なことなのですから。
常識的で正しいことが、ある状況、ある場面では、必ずしも最善で最良だとはかぎりません。
非常識なことが、最善で最良なこともあるのです。
そしてそれは、さまざまな出来事を、ちゃんぴー様がおっしゃる通り「無関心でいないでおこう…」というその姿勢からしか自分の中に積み重ねられないものです。
南無と気づけと促され、阿弥陀仏と気づいていく。このことがなければ、経験は積み重なってはいきません。
積み重なった経験とはその経験から得た智恵の積み重ねに他なりません。
それは歳を積み重ねて行かなければ積み重なりません。
南無阿彌陀仏の六字は…
「歳をとっていくことは素晴らしいことなのですよ」と、私たちに教えてくれてもいるのです。
合掌
高科 修
こんばんわ^_^
色んな事、全ての事は私に気づけ❗️と教えてくれている。二つの世間話の中から、人の身勝手さを気づかさせて頂きました。法話を聴かせて頂いていても、ただ、聞くだけではなく、聴く側も気づくという姿勢が大切。仏法における南無阿弥陀仏とは気づけ!という事なのですね〜。そして、壁にぶち当たった時やギリギリ追い詰められた時、悩んでこそつぎに何をすべきか見えてくる。悩んでこそ気づくという事なのですね〜
今まで、色々と経験して、おそらく住職さんの言われる気づきという事があったとは思いますが、このように、説明・解説して頂いたことで、しっかりと腑に落ちました。有り難うございました🥲
南無阿弥陀仏🙏
M Kwaguchi様
ご視聴、コメントありがとうございます。
人生の経験を積めば積むほど、人は無意識のうちに、その人生で出合った出来事(楽しい事・辛い事等々)から学び気づいているはずなのです。
だからこそ、昔から困った事の解決に尽力した年配者は「さすが!伊達に歳とっとらんね!」と言われたのです。
やはり「気づき」は「智恵」なのだと思うのです。生きていく私たちが、生きていく上で必要な「こころ」を教えてくれる。
無意識で経験(気づき)を積んで生きていくのと、そのことを意識して生きていくのでは、同じように人生を生きていくにしても充実感が違うのではないでしょうか。
まさにM Kwaguchi様のお言葉通り「府に落ちて」生きていけるのですから。
合掌
高科 修
私は坐禅を続けたことによって、マトモになれました。坐禅をする前の私は頭のネジが外れていました。
唯識(ゆいしき)とは、自分の心が自分の世界を作り出しているという思想です。
トム様
『曹洞宗以外の宗派はすべて頭のネジが外れている。座禅をする事でマトモきなりました。座禅をする前は頭のネジが外れていました』と言うトム様の宗教的御経験をお知らせ頂きありがとうごさいます。
その宗教的御経験はトム様御自身の事として深く受けとめさせて頂きました。
トム様に申し上げます。
大変、ご苦悩なされたのですね。
それならば、マトモな状態も、ネジが外れた状態も、自分自身の思いの世界という事になりますね。
唯識思想は、内観を進める一つの手がかりだと習っております。
座禅前と、座禅後で、何が違うのか?
その先に、いま私は如何にして、この世界を生きていくのかが、問われたことと思います。
どうぞ、励み、勤め、精進されますことを応援しております。
ただ、不思議で、残念なのは、唯識思想を語られ、座禅後のトム様が…
如何にこの世界を生きていくのかを自ら自らに問われたトム様が…
その結果が、浄土真宗大谷派の宗教的解釈のお話をしておりますサイトへの、一連のコメントであることです。
私自身は、浄土真宗を信仰しております。と同時にご存知かと思われますが、浄土真宗大谷派のまぎれもない僧侶で御座います。釋完修という仏弟子で御座います。
トム様が仰る他の宗派で、トム様が指摘する頭のネジがはずれている人間でごさいます。
私の事をご心配頂いてご忠告、またご自分の御経験をお知らせ頂くことは、誠にありがたいのですが、私といたしましては、頭のネジが外れている今のままの状態で、日常生活を送りますことに、なんの支障もございません。それどころか、友達、家族、共に歩む僧侶の方々と、ケンカや言い争いもたまには致しますが、仲良く楽しく、協力し助け合いながら生きております。
トム様。
どうぞご心配なく。
そのご心配には感謝申し上げますが、ご心配のコメントを毎回頂くにはおよびません。
お手をわずらわせて大変申し訳ありません。
どうぞ、もうご心配していただくのは、たいへん気兼ねでございますのでご心配頂かなくて結構でございます。
ありがとうごさいます。
トム様と私ども浄土真宗は、「道」が違いますので、どうぞご理解くださいますよう、よろしくお願い致します。
合掌
高科修
良いお話でした。
1人でも多くの人に聴いて貰いたいです。
加藤真理様
ご視聴、コメントありがとうございます。
見るもの。
聞くもの。
話すもの。
自分が出会うあらゆる出来事。
それらすべての「他」が自分の心に様々な思いをわきだたせます。
それは…
ありがとうであったり、ごめんなさいであったり時には憎しみや、恨みであったりもします。
けれど、そのわき出る思いが「自分自身の今の姿である」と「気づかせてもらった」なら!
そして「自分の姿に気づいたなら」なら!
どうすれば、「自分が笑顔でいられるか」
どうすれば「自分自身を自分で好きでいられるか」を考えていけるのではないでしょうか。
そしてそう考えて人生を生きている姿は、自分で生きているけれど、自分で自分を誉めてあげたくなりませんか?
「一生懸命生きてるね」と。
たぶんそれが「笑顔」で生活出来る一つの考え方だと思うのです。
「南無阿彌陀仏」はそのために「ある」と私は思っています。
「1人でも多くの人に聴いて貰いたいです」との加藤真理様のお言葉は、本当に嬉しくありがたく感じております。
ありがとうございます。
合掌
高科 修
釈尊もそれを正しく受け継がれた日蓮大聖人も念仏は禁じられています。念仏の親鸞も最後は弟子や一人の弟子にも見放され苦しみながら亡くなりました。知人の念仏を唱えている人が最後は自殺しました。念仏は無間地獄地獄です。
白蘭様
ご視聴、コメントありがとうございます。
白蘭様が、何を信じ、何を信仰なされるかは、白蘭様のご自由であります。
当方は…
浄土真宗大谷派という宗教宗派であります。
そして私は、その浄土真宗大谷派の僧侶であります。
ご承知と存じますが、
開祖は親鸞聖人であります。
故に…
私は紛れもなく親鸞聖人の弟子であります。
さらに、お釈迦様の弟子であり、仏の弟子、仏弟子であります。
有難いことに、今年は
立教開宗800年の法要を京都東本願寺において勤めさせて頂きました。
脈々と続く弟子から弟子への法の相続の重たさと深さを感じさせて頂いた次第であります。
ご存知でないようなので、一応お知らせ致します。
尚……
自殺なさった方のその理由を、念仏の責にするのは、自殺なさった方に対して、誠に無礼であり失礼極まりない言動であります。
亡くなられた『仏様』に対して、あまりに無礼千万な言動は慎まれますよう、ここに叱責申し上げます。
南無阿彌陀仏
合掌
高科修
私はいつもばちがあたっている
梅本陵仙様
ご視聴、コメントありがとうごさいます。
大丈夫です。
バチなど当たっていません。
誰もバチなど当てません。
「バチが当たっている」と感じれる、物事に謙虚な気持ちを持っておられる梅本陵仙様が素晴らしいのです。
合掌
高科 修
お経の意味を分かる方は少ないと思います。だからその意味を理解したいので法話をお願いしたのでは無いですか?いきなり天気の話は法話の段階があると思われます。
古川博久様
ご視聴、コメントありがとうございます。
もう一度動画をご視聴下さいませ。
まさしく、古川博久様のコメントに対するお答えの動画で御座います。
南無阿弥陀仏
合掌
高科修
SNSや法要
新聞で気付かされないと、日常生活で悟れない。
小松晃様
ご視聴、コメントありがとうございます。
人間はさとれません。
「さとり」とは?心穏やかに生きるためには?
th-cam.com/video/jC8q28bdXqI/w-d-xo.html
コチラの動画をご覧ください。
合掌
高科修
南無阿彌陀佛🙏
伊藤弘幸様
ご視聴、コメントありがとうございます。
南無阿彌陀仏 🙏
合掌
高科 修
ツルツルあたまぼうさん。統一教会に勝てウキ〜
大原紀生様
ご視聴、コメントありがとうございます。
このお坊さんの小話は、浄土真宗の一僧侶が了解した
浄土真宗の解釈のお話しをさせていただいております。
各動画のお話しを聞いた皆様が、大原紀生様がそれぞれに
ご自身で考え悩み問うていただくための法話でございます。
他宗教との勝ち負けというお話しでは、ございません。
ご理解いただけるとありがたいです。
合掌
高科修
気づく心を、改めて教えていただけました。
ありがとうございます。
教えていただきたい事があります。
南無阿弥陀仏を、ナムアミダブツ、ナモアミダブツ、と2つの唱え方があるみたいです。
同じようで同じではないのでしょうか?
つまらない事をお聞きして申し訳ありません。
よろしくお願いいたします。
とし爺 様
大丈夫です(笑)
つまらなくはないです(笑)
言うなれば、方言のようなものです。
どちらも正解です。
同じ「南無阿弥陀」を発音しても、
日本全国イントネーションは違います。
一人一人でも、早口の人、滑舌の悪い人、ある特定の〇行(あかさたな)が不得意な地域と様々です。
ですから、そこはお気になさらずにお願いいたします。
大切なのは
「南無」と
気づかされ!
「阿弥陀仏」と
はい気づきました!
という「南無阿弥陀」の心なのですから。
合掌
高科 修
法話「因縁果業」のコメント欄からのご案内で飛んで参りました、実は2回目の拝聴で御座います
1回目「南無阿弥陀仏」って唱えてれば極楽にいけると言うこと子供のと聞いたが今学べばどういう感じかなと思って拝聴しました
天気の小話で二人のばあさん自分の身勝手で高科坊さんに結構勝手な我が儘言ってるなとは感じたもの、2回目アー此一度聞いたっけと思いながら聞き直してみた
さきの「因縁果業」で勝手な自分の意見を残させて頂いたが、自分の心の軌跡でいろんな気づきがあった事柄を羅列した、幼少期の自分の過去や両親のことも
「無量寿」の中でいろんな気づきに出会えて反省してる今の自分が居る、今の私は1ヶ月ほど前とは少し違う、何とも落ち着いて穏やかというか平穏で所謂喜びの感じがする、1カ所にとどまって渦を巻いてた流れがお坊さんの小話を聞くこと数回で大きな石ころ一個が崩れて綺麗な流れが出来たようなすっきり感です、そういうことにも気づきました、限られた自分だけの世界ですが当に南無阿弥陀仏でしょうか、気づいて不安が解消方向に流れて有り難い気持ちは南無阿弥陀仏かな、知ったか振りを語って済みません未熟ですが親鸞様の浄土真宗の教えを少しでも深入りしたく高科先生の小話で学んで参りたく思います、有り難うございます、帰命無量寿如来、南無不可思議光、南無阿弥陀仏、ンーーーーー未だ未だ・・・・・・
SA ・IKO様
ご視聴、コメントありがとうごさいます。
もう…
すでに…
南無阿彌陀仏の世界に居られます。
同じ動画でも
見る人の、その時の状況、体調、気分、その他諸々で、全く違ったお話に聞こえると思うのです。
青年時代に見て感動した映画が、熟年者となって見てみたらそうでもなかった…
また逆に、少しも心を動かされなかった映画に、今は号泣する程の感銘を受ける…
普通にあるお話です。
この小話の動画も同様です。
どうか、暇に任せて、同じ動画でも見直してみてください。
新しい気づきが、あるかもしれません。
合掌
高科 修
@@buddhism_japan 生きる真の目標を探し始めた私のコメントに「もう既に南無阿弥陀仏の世界に居られます」とのビックリコメント頂きキョトンです。
ふわふわした人生途上階段一歩上れた気がして嬉しい限りです、有り難うございます、人生5回目の邂逅と感じております
小話一回聞いても理解や納得できない点多々ありますので、納得できて今後の人生に幸せ感じるよう精進して参ります
SA ・IKO様
「生きる真の目標を探し始める」
これが始まりで終わりです。
この答えの出ない答えを、求め続け考え続けて行く姿勢が、ある意味「人生を生きる」ということなのではないでしょうか。
合掌
高科 修
@@buddhism_japan
「毎度ご丁寧なご回答頂き有り難うございます
「真の生きる目標」=「答えが出ない」=「答えを求め続ける」=「人生を生きる」
お釈迦様や親鸞聖人は「阿弥陀如来」に出会って「最高の歓喜になった」らしい(?)
その「阿弥陀如来」の姿・状態・が絶体で死後の不安解除に至る重要なポイントならば
何故坊さん方はそれをはっきり具体的に教えてはくれないんでしょうか?
前置き的言葉が多すぎてその重大事を語らず終了、の繰り返し、の感じがします
いまFX・株式を自動で売買する事が出来ますが絶体此のソフトを使えば勝つ、と言う答えが
未だ数万件の方法が提案され売買されるが絶体が知らされない、実はあるが高額で全員使うとオール損失だ!!
それに似て、肝心な「阿弥陀如来」を提示したら仏教の布教が成立しない、答えがわかったらなーーんだで終わり、、
そんな風に感じます、
お釈迦様が発見された「阿弥陀如来」が七千余巻もの言葉で説明しきれないのは
何故なんでしょうか?、そういう「答えの無い」仏教をの本質的「阿弥陀如来」とやらを求め続けて参りたい
判らないで済まない、納得して判ったとしたい、葬式仏教ではもったいない」と言うのが本音で御座います
「南無」「阿弥陀仏」と成りたい・・・・
SA IKO様
SA IKO様の疑問の答えはただ1つ。
人の数だけそれぞれの人生があるからです。
そして人の数だけそれぞれの感じかた思い方、受け取り方があるからです。
そして、自分の人生は、誰でもない、自分しか生きれないからです。
これ以外にありません。
同じ人でも、
健康な時…
病気な時…
病気でも軽い時…重篤な時…
幼年…青年…熟年…
独身…結婚…離婚…別居…
会社で現役…定年…
たったこれだけの事柄をあげただけでも、その時期によって同じ出来事にであっても、考え方、捉え方、受け取り方はたぶんすべて違います。
お釈迦様でも親鸞聖人でも、それこそ阿弥陀如来でも「人生を生きる道」を説いているのです。
感じて、思慮し、実践し、それでも出来ない自分がいる。で、また感じて、思慮し、実践し、それでも出来ない自分がいる。たのに、知らない人が知らないところで生きていて死んでいく。その人たちのお陰で自分は今現在生きている。出来ないじぶんが…
この事実に心底気づいた時。初めて人は「生きる」「生かされている」と自覚できるのだ!
というのが浄土真宗です。
さぁSA IKO様。
ポイントはお話しました。
ポイントはお知らせいたしました。
どうですか…
納得など出来ないでしょう。
そんなこと言われたって…と思われませんか?
SA IKO様の疑問の答えはSA IKO様自身の中にあります。
SA IKO様が自分の人生をどう生きるかは、誰でもないSA IKO様自身が決めて行かねばならないことなのですから。
それこそ、当たり前すぎるほど当たり前のことです。
だから、ポイントなどないのです。
ある意味、全部がポイントです。
これが、SA IKO様の抱いている疑問のお答えになります。
思慮いただければ幸いです。
それと、
南無阿彌陀仏の「気づき」のお話。
「気づき、生きる、そこに敬いと尊敬を持って」
「悩みながら生きる」
「生老病死。どうすることも出来ない道理のなかで生きる」
このお話をFX・株式に例えるのはダメです。
これをすれば大丈夫です。でもわざと言わない…の例えは、余りにも浄土真宗の教えを愚弄し、仏教をバカにした例えになります。
この一点は、優しい言葉では叱れません。
ハッキリときっぱりとご注意致します。
ダメです!
合掌
高科 修