地震から2カ月超…故郷・輪島市の自主避難所で暮らす12人「他には行きたくない」全員が仮設住宅待ち望む (2024年3月6日)

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  • เผยแพร่เมื่อ 12 ก.ย. 2024
  • 特集です。元日に発生した能登半島地震から2カ月以上経った今もふるさとに残り自主避難生活を続ける人たちがいます。一つ屋根の下に12人が集い共同生活を送る場所を訪ねました。
    元日に震度7の地震が襲った輪島市門前町にある谷内和田(やちわだ)地区。
    車1台も通れないほど道路は陥没。ほとんどの住宅が全壊しました。
    谷内和田地区にある自主避難所。
    大地震翌日の1月2日から開かれ2カ月経った今も23歳から91歳までの12人が共に暮らしています。
    記者:
    「皆さん仲がいいんですね」
    高崎覚区長:
    「そうそう、それが第一。1つの地区でお祭りも一緒にやっているしほとんどのみんな農家なので稲刈りとかも共同作業で全部やってるから」
    高崎きくえさん(91):
    「ずっとここにいます。気心は完全に知れているからみんなでここにおろうよねってみんな頑張ってます。(他の避難所に)行きたくないです。」
    自主避難所となっているのは1軒の空き家と車庫。2007年の大地震で住宅が全壊した後に新築したもので今回の大地震では倒壊を免れました。寝泊まりする場所は男女で分かれ、空き家が男性たち。車庫を女性たちが使っています。車庫の床は冷たいコンクリート。全壊した家から畳を運び出して並べました。
    「お水とかは給水車にもらいに行ってきます。男の人が空いたらもらってきます役割決まってますね。」
    1月末に電気が通ったもののいまだ断水が続いています。日中は片付けをするためにそれぞれの家に戻ります。
    避難所の隣に自宅がある町田久子さん。
    「こんな家でもほしいものがあればここから入って上がって取ってくる。住めんよね。住めんよ。これ」
    約2カ月の避難生活で自宅から必要なものはおおむね持ち出し、あとは行政による撤去作業を待っています。
    町田さんの自宅のすぐ目の前にあった小屋。地域にとって大切な場所でした。
    「本当はここはここら辺の母ちゃんたちの憩いの場だった。普通なら7,8人座ってわいわいコーヒー飲んだり餅焼いたり芋焼いたり。1日でよかった普通の日だったら何人か埋まる。それだけはよかったと思う。」
    午後3時、自主避難所にやってきたのは熊本の災害支援チームです。
    「ありがとう遠いとこからね」
    この日の夕食として皿うどんが届けられました。
    「どうもありがとうございます。元気出します。」
    避難所では男性たちが力仕事を担い女性たちが食事の用意を担当しています。
    「夜も食べていけば」
    「ごめんねお世話になります。」
    確認しているのは食事の予約票。
    「(女性分が)10人だから19人や」
    昼と夕方、避難所のメンバーに加えて予約があった人の食事も提供しています。
    自宅での片付けを終えた住民が避難所に戻ってきました。
    「はいどうぞー」
    昔なじみの仲間と囲む食卓。
    「地震あってからしょっちゅう変わったもの食べてる。」
    (支援が)日本全国からきてるありがたいね。もったいない。みんな気心しれたなかやから特に美味しい。」
    毎日のだんらんが避難生活の気晴らしになっているそうです。しかし、自主避難所の生活は日に日に苦しくなっている面もあります。
    先月、輪島市は自主避難所への物資の配送を打ち切ると発表。谷内和田地区の避難所への配送も先月19日に終了しました。その後は灯油も自分たちで工面しなくてはいけません。
    「灯油の支援がなくなったりとか食べ物も毎日中学校の避難所に取りに行ってたんですけどそれもなくなってなんで今頃そんなこと言うのか」
    自主避難所のメンバーは高齢者が多くこの先、物資を遠くまで取りに行き続けるのは限界があるといいます。
    高崎区長:
    「仮設住宅ができるまでもうちょっとの辛抱。」
    町田さん:
    「仮設住宅ができるまでもうしばらくと思って1日1日過ごしてそれ(仮設住宅)を待ってる春が来るのを待ってる」
    自主避難所のメンバー全員が希望している仮設住宅への入居。その時がくるまで助け合いの生活は続きます。

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