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自分がやってたり観たりした分の感覚で話すと、キャンバスに描かれてる作品の絵画体験はめちゃくちゃ良いものやと思う
なるほど、分かりやすいですね。一部の画廊やオークションではなくブロックチェーン技術を使うなどしてエディションを保証したりしてデジタルアートのマーケットを確立してもらいたいですし、ディスプレイの長寿命化などでキャンバスを超えてもらいたいです。ところで最近は写真がキャンバスと絵具のアート世界とに迫って扱われ始めていると思われませんか?
写真はあまり詳しくないのですが、フェアで多く見る機会が多いですね。僕もなんでそんな人気なのか不思議に感じてました。チームラボの作品もけっこう売れているようですし、最近はプログラムを使ったインスタレーションも人気なようですね。保存のレギュレーションなどが整備されればよりデジタルのアートワークも流通するようになると思うので楽しみですね!
椹木先生の反アート入門という書籍に紙幣は芸術品だということが書かれていました。私としては逆説的に芸術品は通貨になりえる価値が必要なのではないかと思いました。現にカテランのバナナの作品のように、保存できない作品は数多く存在します。ただそれらには、おそらく証明書、展示指示書がついており、通貨的価値はそこにあると言って間違いないと思います。つまり、一番作品として通貨的価値を持たせやすいものがキャンバスなどに描かれた、作品=価値の作品であり、作品=価値でない作品は余程の話題性や知名度、見せ方がない限り作家と買い手、双方にとってリスクのあることなので、キャンバスに描かれる作品が多いだけだと思います。(伝われ!笑)
ほんとにおっしゃる通りです!バナナの作品も結果的に即販売されましたし、そもそもエディションが3つある時点でバナナ消滅する前提で通過的価値が設計されてますよね。キャンバスはおっしゃる通り、希少性、耐久性を兼ね備えた優れたマテリアルなんだと思います、そのあたりのことも今後配信できたらおもしろいですね、いつもありがとうございます!
ご説明されている理論を拡張するとすれば、ビットコインの市場性と、それを支えるブロックチェーン技術などの関係性について、作品概念に重ねて考えていくと更に議論が深まるように思いました。例に挙げられたデジタルアート作品は、もしかしたらビットコインの構造をアートに拡張したものなのでしょうか?あるいは、単に従来の美術商品をデジタル上に展開したものなのでしょうか?そこの部分が気になりました。
ここで紹介しているのは、従来的なものと考えてもらってよいと思います。ブロックチェーンはおそらく作品の唯一性を担保するために機能すると思うので、ひょっとしたらうまくいく可能性あるかもしれませんね。とは言えコピーできるものをあえてしないものと、そもそもコピーができないもので意味は変わってしまうかもしれません。あー、でも実際それでもビットコインは機能していますから、うまくやればできそうな気もしますね。。はっきりしなくてすみません。。
解説頂きありがとうございます。絵画はしばらく続けようと思いますが迷走は続きそうです。先生の指示にしたがって描いてます。すべてが未知の世界ですので。
なんだかんだ手書きで絵が描けるのは強みだと思います、頑張ってくださいね!
コンセプチュアル・アート作品を鑑賞者が理解する為には、アーティストが制作に至る経緯や歴史的背景を説明する必要があると思いますが、これは①言語によって変形してしまう。②本質が思考の中にあるため物質的な唯一の作品を必要としない。などの問題があるように思います。それでも、美術の作品として提示されるのは、思考や概念をできるだけ具象化して保存するための苦肉の策なのでしょうか?アートを拡張しようとする姿勢に対して表現方法は変わっていないような矛盾を感じます。ご意見を伺いたいです。
おっしゃる通りコンセプチュアルアートで作品を物質化する行為には矛盾があると感じています。物質化は価値保存性を担保したり、作品の意味をプレゼンテーションする役目があると思いますが、本質的な作品性は本来物質に依存しないでも表現できるのではないかと思います。
@@masatoyamaguchi お返事ありがとうございます。プレゼンテーションは盲点でした。作品のカタチの決定は死活問題ですもんね。昨今はデジタルでの表現に始まり、「この世のカタチに落とすための新しい道具(表現方法)を探す」流れにあるのかなと見ています。
わたしは油絵を描いていますが、私がキャンバスに描く理由は、キャンバスに描かれた作品と、それを印刷されたものは別物だからです。その違いは、美しさや表現力に直結するので、作品の価値の違いになります。有名画家の展覧会に行って、お土産に絵葉書やポスターを買おうと思ったら、全然原画と違うってありますよね。そうゆう作品でなかったら、デジタルで良いと思います。
耐久性についてはデジタルデータの方が劣化することが全くないので優れているように私は思っています。とはいえ、デジタルの歴史は浅く実績がないので根拠がなく、ただの予想でしかないですが。
確かにそうですね、昔の写真はなくなっちゃってますが、Googleに保存した10年前の写真はすぐ出てきますし。楽譜なんかも媒体はアナログでしたが、実はデジタルデータとも言えると思います。
僕は所有欲を満たしにくいからデジタル市場は伸び悩んでるのかと。。
それがいまデジタル市場が伸びまくってしまっているんですよね....
山口真人 - 現代アートチャンネル そうみたいですね
確かにデジタル作品の耐久性については悩みますね。デジタルデータはメモリーやHDDやDVDなどに記録するしかありませんが、これらも機械ですからいつかは壊れてしまうもの。(600年ももたない) なので定期的に新品の機器にデータを写す作業が本来は必要なのだと思います。(現実的には困難)私の見果てぬ夢は、デジタル作品で高名な作家になって、多くの作品を世界中のコレクターに高額で購入してもらい、自分が死んだら自作品のデータが保存されているサーバーを無料で公開することです。(笑) そうすればネット上に自分の作品が漂流し、半永久的に残るかも....
所有する満足感もありますよね。あといつでもそこにある感がいいです。デジタルはデバイスが必要となり電気がないところでは見れないところも魅力がちょっとないです。
これって議論するほどのことですかね?絵画に限らず彫刻、台座、ホワイトスペースなど形式に関するものを批判したり、テーマとする作家がいますが、これらをテーマにしたり議論する意味が全く理解出来ません。例えばフェリックスゴンザレストレスのキャンディーの作品を見て「彫刻やホワイトギャラリーの定義を揺るがしている」という見方も出来ますが、それは作品の表面的な要素を拾って解説してるだけで、言語化したり議論するほど重要なこととは思えません。絵画や彫刻の形式は耐久性、自立性など機能的に重宝がられているから受け継がれたというだけの話で嫌なら別の表現をすればいいだけの話だと思いますが。
そーすね、おっしゃる通りのような議論はあってよいと思います。この動画では、経済的価値が結果的に作品の価値(歴史的にも)に繋がってしまってるってことを言ってる感じですね。特に議論してるというか、結果的そーなんじなないか?という考察です。
新しい作曲について、考察しております。デュシャンは、網膜批判から、コンセプチュアルアート、レディメイド、無芸術を提示しました。これを音楽に当てはめて考えてみると、聴覚批判、反ハーモニーが考えられます。しかし、それに該当するような現代音楽の作品が思い当たりません。環境音楽でも、ミニマルミュージックでも、音は存在しますし、コンピュータ音楽でも同様に、音からは逃れられていません。強いてあげるのならばケージの4分33秒ぐらいです。デュシャンは、視覚を否定しました。それくらいインパクトのある革命を音楽は、成し遂げてられているのでしょうか。成し遂げられないとすれば、音楽の一体、何が制約になっていると考えられますか?
大変興味深いご質問ありがとうございます。結論から言うとおそらく不可能なのかと思います。サティやシュトックハウゼンのように既存の旋律から逸脱するようなことはありましたが、これは自動記述的手段で、デュシャンに言わせれば網膜的な範疇なのかもしれません。おっしゃるようにケージぐらいなのかもしれません。しかし、それは視覚表現についても同じようなことで、デュシャン出した命題を超えるような表現はなお存在していないようにも思います。無芸術を踏襲しながら、ジャスパーのフラッグや、クーンズのラビットなどのシミュレーションに発展していくのですが。それらはデュシャンの延長線上であってなにか根本的にデュシャンを超えるようなものでもないようにも思います。
自分がやってたり観たりした分の感覚で話すと、キャンバスに描かれてる作品の絵画体験はめちゃくちゃ良いものやと思う
なるほど、分かりやすいですね。一部の画廊やオークションではなくブロックチェーン技術を使うなどしてエディションを保証したりしてデジタルアートのマーケットを確立してもらいたいですし、ディスプレイの長寿命化などでキャンバスを超えてもらいたいです。
ところで最近は写真がキャンバスと絵具のアート世界とに迫って扱われ始めていると思われませんか?
写真はあまり詳しくないのですが、フェアで多く見る機会が多いですね。僕もなんでそんな人気なのか不思議に感じてました。チームラボの作品もけっこう売れているようですし、最近はプログラムを使ったインスタレーションも人気なようですね。保存のレギュレーションなどが整備されればよりデジタルのアートワークも流通するようになると思うので楽しみですね!
椹木先生の反アート入門という書籍に紙幣は芸術品だということが書かれていました。
私としては逆説的に芸術品は通貨になりえる価値が必要なのではないかと思いました。
現にカテランのバナナの作品のように、保存できない作品は数多く存在します。
ただそれらには、おそらく証明書、展示指示書がついており、通貨的価値はそこにあると言って間違いないと思います。
つまり、一番作品として通貨的価値を持たせやすいものがキャンバスなどに描かれた、作品=価値の作品であり、作品=価値でない作品は余程の話題性や知名度、見せ方がない限り作家と買い手、双方にとってリスクのあることなので、キャンバスに描かれる作品が多いだけだと思います。
(伝われ!笑)
ほんとにおっしゃる通りです!
バナナの作品も結果的に即販売されましたし、そもそもエディションが3つある時点でバナナ消滅する前提で通過的価値が設計されてますよね。キャンバスはおっしゃる通り、希少性、耐久性を兼ね備えた優れたマテリアルなんだと思います、そのあたりのことも今後配信できたらおもしろいですね、
いつもありがとうございます!
ご説明されている理論を拡張するとすれば、ビットコインの市場性と、それを支えるブロックチェーン技術などの関係性について、作品概念に重ねて考えていくと更に議論が深まるように思いました。例に挙げられたデジタルアート作品は、もしかしたらビットコインの構造をアートに拡張したものなのでしょうか?あるいは、単に従来の美術商品をデジタル上に展開したものなのでしょうか?そこの部分が気になりました。
ここで紹介しているのは、従来的なものと考えてもらってよいと思います。ブロックチェーンはおそらく作品の唯一性を担保するために機能すると思うので、ひょっとしたらうまくいく可能性あるかもしれませんね。とは言えコピーできるものをあえてしないものと、そもそもコピーができないもので意味は変わってしまうかもしれません。
あー、でも実際それでもビットコインは機能していますから、うまくやればできそうな気もしますね。。はっきりしなくてすみません。。
解説頂きありがとうございます。絵画はしばらく続けようと思いますが迷走は続きそうです。先生の指示にしたがって描いてます。すべてが未知の世界ですので。
なんだかんだ手書きで絵が描けるのは強みだと思います、頑張ってくださいね!
コンセプチュアル・アート作品を鑑賞者が理解する為には、アーティストが制作に至る経緯や歴史的背景を説明する必要があると思いますが、これは①言語によって変形してしまう。②本質が思考の中にあるため物質的な唯一の作品を必要としない。などの問題があるように思います。それでも、美術の作品として提示されるのは、思考や概念をできるだけ具象化して保存するための苦肉の策なのでしょうか?アートを拡張しようとする姿勢に対して表現方法は変わっていないような矛盾を感じます。ご意見を伺いたいです。
おっしゃる通りコンセプチュアルアートで作品を物質化する行為には矛盾があると感じています。
物質化は価値保存性を担保したり、作品の意味をプレゼンテーションする役目があると思いますが、本質的な作品性は本来物質に依存しないでも表現できるのではないかと思います。
@@masatoyamaguchi お返事ありがとうございます。プレゼンテーションは盲点でした。作品のカタチの決定は死活問題ですもんね。
昨今はデジタルでの表現に始まり、「この世のカタチに落とすための新しい道具(表現方法)を探す」流れにあるのかなと見ています。
わたしは油絵を描いていますが、私がキャンバスに描く理由は、キャンバスに描かれた作品と、それを印刷されたものは別物だからです。
その違いは、美しさや表現力に直結するので、作品の価値の違いになります。
有名画家の展覧会に行って、お土産に絵葉書やポスターを買おうと思ったら、全然原画と違うってありますよね。そうゆう作品でなかったら、デジタルで良いと思います。
耐久性についてはデジタルデータの方が劣化することが全くないので優れているように私は思っています。
とはいえ、デジタルの歴史は浅く実績がないので根拠がなく、ただの予想でしかないですが。
確かにそうですね、昔の写真はなくなっちゃってますが、Googleに保存した10年前の写真はすぐ出てきますし。
楽譜なんかも媒体はアナログでしたが、実はデジタルデータとも言えると思います。
僕は所有欲を満たしにくいからデジタル市場は伸び悩んでるのかと。。
それがいまデジタル市場が伸びまくってしまっているんですよね....
山口真人 - 現代アートチャンネル そうみたいですね
確かにデジタル作品の耐久性については悩みますね。デジタルデータはメモリーやHDDやDVDなどに記録するしかありませんが、これらも機械ですからいつかは壊れてしまうもの。(600年ももたない) なので定期的に新品の機器にデータを写す作業が本来は必要なのだと思います。(現実的には困難)
私の見果てぬ夢は、デジタル作品で高名な作家になって、多くの作品を世界中のコレクターに高額で購入してもらい、自分が死んだら自作品のデータが保存されているサーバーを無料で公開することです。(笑) そうすればネット上に自分の作品が漂流し、半永久的に残るかも....
所有する満足感もありますよね。あといつでもそこにある感がいいです。デジタルはデバイスが必要となり電気がないところでは見れないところも魅力がちょっとないです。
これって議論するほどのことですかね?
絵画に限らず彫刻、台座、ホワイトスペースなど形式に関するものを批判したり、テーマとする作家がいますが、これらをテーマにしたり議論する意味が全く理解出来ません。
例えばフェリックスゴンザレストレスのキャンディーの作品を見て「彫刻やホワイトギャラリーの定義を揺るがしている」という見方も出来ますが、それは作品の表面的な要素を拾って解説してるだけで、言語化したり議論するほど重要なこととは思えません。
絵画や彫刻の形式は耐久性、自立性など機能的に重宝がられているから受け継がれたというだけの話で嫌なら別の表現をすればいいだけの話だと思いますが。
そーすね、おっしゃる通りのような議論はあってよいと思います。
この動画では、経済的価値が結果的に作品の価値(歴史的にも)に繋がってしまってるってことを言ってる感じですね。
特に議論してるというか、結果的そーなんじなないか?という考察です。
新しい作曲について、考察しております。デュシャンは、網膜批判から、コンセプチュアルアート、レディメイド、無芸術を提示しました。これを音楽に当てはめて考えてみると、聴覚批判、反ハーモニーが考えられます。しかし、それに該当するような現代音楽の作品が思い当たりません。環境音楽でも、ミニマルミュージックでも、音は存在しますし、コンピュータ音楽でも同様に、音からは逃れられていません。強いてあげるのならばケージの4分33秒ぐらいです。デュシャンは、視覚を否定しました。それくらいインパクトのある革命を音楽は、成し遂げてられているのでしょうか。成し遂げられないとすれば、音楽の一体、何が制約になっていると考えられますか?
大変興味深いご質問ありがとうございます。
結論から言うとおそらく不可能なのかと思います。サティやシュトックハウゼンのように既存の旋律から逸脱するようなことはありましたが、これは自動記述的手段で、デュシャンに言わせれば網膜的な範疇なのかもしれません。おっしゃるようにケージぐらいなのかもしれません。
しかし、それは視覚表現についても同じようなことで、デュシャン出した命題を超えるような表現はなお存在していないようにも思います。無芸術を踏襲しながら、ジャスパーのフラッグや、クーンズのラビットなどのシミュレーションに発展していくのですが。それらはデュシャンの延長線上であってなにか根本的にデュシャンを超えるようなものでもないようにも思います。