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晩年の豊臣秀吉が一番の原因だと、僕は考えます。
私もそう思います
認知症になったんだろうな。
同感。
晩年の秀吉の暴走。もうそこから滅亡へのカウントダウンは始まってたんじゃないかな。
秀次事件が一番の原因と言っても過言ではないかと思います。あとは淀君こそA級戦犯の声もありますね。ていうより親の仇である秀吉と豊臣家を破滅させるためにわざと秀吉の懐に入ったという説も。
元凶は自分が後見しきれない孫みたいな子を後継ぎにした秀吉自身だろ。家康を自分の代で潰せず、仕方なく高い官位で懐柔したり広大な地を与えてしまったり。虎に翼を与えてしまった。
もう一つ秀吉には拭いきれない汚点がある。それは対外侵略戦争をやったこと
それは現在の価値観でははかれないよね、元にくっいて日本を侵略しに来た高麗はどうなる。
@@joeuncle6070 元の皇帝フビライハーンも高麗も普通にクソだと思ってますモンゴル野郎が調子こきゃーがってざまあっていうのが元寇の感想ですかね
@@よろずはんげつ 中国進出は対イスパニア。日本の独立を守るためでは?信長時代からイスパニア、イギリスの海外事情を侍は集めていたから。教科書には書かれない歴史がありますね。
@@joeuncle6070 そんなに朝鮮が好きなのか? この動画と何も関係ないよな
要因はいろいろあるだろうが、主犯となれば秀吉一択かなぁ元を辿れば何もかも、秀吉自身が蒔いた種だ
秀吉自身は種無いのにな
秀次を粛清したことが一番と思います。仮に秀頼が秀次に排除されても秀次は簡単に家康に負けなかったと思いますが、若く経験不足の秀頼だけになってしまっては豊臣自体が残れないでしょう。でも、これも後知恵ですね。
秀次が生きていたら家康は天下を取れなかったと思います。関白は人民の最高位征夷大将軍程度では歯向かうと謀叛になります。
それ、同感ですね。秀次を変に自害させた秀吉の行為は非常に罪深く、神罰として秀吉は62歳の若さで病没となった。
同感です。天下統一がなされて、豊臣家について行けば武家の世は間違いないと思っていた各大名の心が内紛で揺らいでしまったことに尽きますね。
あと、大和大納言家の存続を認めず断絶させたことも良くなかったかと。少なくとも藤堂高虎の気持ちは、これで豊臣から離れたと思う。
主犯:豊臣秀吉、実行犯:加藤清正・福島正紀などの「反三成派(艦上で動いた)」、無自覚犯:淀殿、棚ぼた犯(漁夫の利):徳川家康、ですかね?一番の原因は秀吉の「外付け良心回路:秀長」が先に死亡したのが大きすぎる・・・
秀吉自身だと思います。
秀次の前に秀吉が不妊だったのが😵💧あれだけ側室が居て、子供が二人だけっていうのがすべてかと。おねに子供がいたら一番だけれども優秀か分からなかったしね。せめて実娘が何人か生まれてたら状況がかなり変わってたと。
主犯は秀吉だと思いますよ。何より、身内を潰しちゃったのが大きい。子供が小さいんだから後見として身内をつけるのは当然で。それを重臣とは言え他人に任せた時点で滅亡は見えてましたね。淀殿にも問題多いですが、彼女に意見出来る人を作らなかったのも大きいかな。
やっぱり、 もっと 豊臣一門衆を 残しとかないと、 源氏の二の舞🤣あえて、主犯を言うなら 秀次 を、切腹させた秀吉が悪いと思います
やはり秀次事件が豊臣政権崩壊の致命的な原因と言えよう。
秀吉も候補だと思います。
秀次を切腹さえしなければ…
@@イヌと そう‼️それです‼️そこが大きな間違いの始まりですね。
秀吉は精子腐ってたからどの道自分の血を引いた跡継ぎ残せなかった
同じく
もっと早く跡取りを決めてなかったのが原因の一つ。長浜城主になった時か、大返し辺りに跡取りをしっかり決めてなかったのが後々響いた。秀頼は公家として、秀次か秀秋を跡取りとして決めておけば良かったのにとは思う。
豊臣秀吉【重臣】豊臣秀長→病死豊臣秀次→切腹豊臣秀勝→病死堀 秀政→病死黒田官兵衛→転封
秀次を殺した時点で、豊臣家の滅亡が決まったからな~。
同感です😊
主犯は秀吉自身じゃないですかね?
秀吉
秀次の処分さえなければ豊臣家は安泰だったし、秀吉が晩年に別人のようになってしまったのが原因。幼い秀頼に天下をまとめるのは無理だから、いっそ家康に天下を渡し豊臣家は一大名でいいから残るようにする方法もあった。淀殿はそれを理解できていなかったので、一番の原因が秀吉なら淀殿はその次くらいの責任がある。
前田利家が主犯に加えられるなら蒲生氏郷や豊臣秀長も加えるべき。氏郷は不安定な場所でかつ平定して間もない東北への睨みとして会津を与えられるほど有能で、弟の秀長は秀吉に意見が言いやすい立場にある数少ない有能な肉親。二人が生きていれば日本の歴史は変わっていたでしょう。
ちゃんと組織化しなかった秀吉が悪い。組織化出来た「徳川」には勝てない。たとえ家康殺せても。
ねねとの間に世継ぎがいなかったのも痛かっただろうな。いれば、それなりの英才教育はできたと思う。
秀長さんが長生きしていたら、秀次事件は起こらずに済んでいた、と思います。😅秀次事件によって、最上氏のみならず、諸大名にネガティブな印象を与えてしまったのが滅亡の原因だと思います。あと関ヶ原の戦いは無くても、滅亡は時間の問題だったと思います。😅
秀吉と晩年の秀長と関係は微妙という話もあるし、大和大納言家を結局断絶させたことを考えると、秀頼誕生後に秀長が存命であっても、秀長が秀次と同じ運命を辿った可能性もあるよね。
秀吉と淀君でしょうね。家康は秀忠を戦場に出して戦を経験させましたが、まだ幼かったからでしょうが、秀吉は秀頼にはそれはしていないし、ならば淀君がそれをしないといけない。但し、徳川家康に権力を譲りたくないのであればの話ですが。私は徳川家康に権力を譲るのも一つの手段だったと思いますが、それでも家康は豊臣家を弱体化させていたとは思いますけど。
天下統一後の秀吉でしょ。やる事全部裏目、自滅。
秀吉しかいません
淀殿と秀吉そして大野兄弟この3人が戦犯秀吉の一番の失敗は生前に家康を謀殺せず放置したこと
小牧長久手で勝てなかったこと。
官兵衛がいれば勝てた
ほんと💯。さおりちゃんのナレーションは最高。プロとは違うのだろうがスンナリと、染み込む。🎉🎉🎉。
まず晩年の秀吉本人次いで武断派の離反を招いた上、西軍を壊滅させた石田三成まぁ武断派の離反は秀吉の尻拭いをさせられた感はあるが
豊臣を不安定、弱体化を狙う徳川家康より、それを防ごうと豊臣恩顧に報いようとした石田三成が豊臣滅亡の犯人にされるのはなんとも・・・どっちが犯人かと言えば、家康の方でしょ。
豊臣家の滅亡は挙げられた件以外にも多々あって、結論で言われているように、どこかで滅亡はしていたでしょうね。私は挙げられていなかった重要な人物として、秀吉正妻のおねも取り挙げてほしかった。彼女が出てくれば情勢は激変したはずなのに、という場面で、おねは全く表に出ていない。秀吉を天下に押し上げた才覚がありながら、なぜ彼女は豊臣家に無関心だったのでしょうか?前田の尻を叩くこともできた。あの家康でさえ、終生おねには手を出していないくらい気を使っている存在なのに。唯一東西両方に絶大な影響を利かせられるにも関わらず。ひょっとして、おねにとって秀吉のいない豊臣はどうでもよかったのかもしれませんね。
秀吉が織田家臣団を滅ぼし織田家を乗っ取ったように、家康が豊臣家臣団を分断し滅ぼされた。
秀吉は織田家を乗っ取ったけど、反発してきた信雄は追放、殊勝な態度だった秀信はそれなりの待遇にしてた。豊臣家も家康に頭下げてればそこそこ良い待遇になってたと思う。
@@ジョンスミス-d9z いかに健康に自信があったとはいえ、将軍になった時点で60歳を超えていた家康が大坂冬の陣を起こすまで10年以上もよく待てたよね。最初から豊臣家を滅ぼす気満々だったから、とても10年以上も待たなかったと思う。
もともと一門衆がいないので無理のあった政権だからてまはないでしょうかサムネが『主犯』なのが好感もてます『戦犯』は国際法に違反した戦争行為のことなので
秀頼が大阪城に座してないで関ヶ原に西軍として出陣していれば、加藤、福島等の豊臣恩顧の大名は東軍には付けなかったんじゃないかな。それを許さなかった淀殿が主犯だと思うな。
秀頼は中途半端ですよね。阿呆ならもっと阿呆だった方が良ければ織田信雄並、悪くても高家にはなれただろうにと思います。偉丈夫で中途半端に英雄感があるから・・・あとは淀殿ですよね。プライドの超高すぎるオバハン。考えようによっては自分の命と共に憎き秀吉の家を滅亡できたのだから本望だったのかもしれませんが
秀吉が潰した
私は秀吉が、豊臣家ではなく、自身の権威に固執し過ぎたことが原因だったのではと思っています。武士、武将は己れの命よりもお家が大事。しかし、武士、武将ではなく、自分自身が生きることに必死だった他の民達は、もちろん家族を大事にしたとしても、先祖代々お家を守るという意識は薄かったでしょう。一代で驚異的に出世した秀吉が武家の出身でないのならば、自分の親戚筋は大事にしたとしても、代々家を守るというよりも、自分が頑張って手にした権力は、誰にも譲りたくなかったのではないかと思うのです。一方で家康は武家の家柄や血筋がどれほど大事なものかよくわかっている人だった。なんせ新田源氏の得川姓を奪ってしまうくらいなのだから。そこが秀吉と家康の大きな違いで、武士として松平家が如何に苦しんできたかと想像してしまいます。なによりも秀吉が、豊臣姓、豊臣家を自分以上に大事にできる人であったならば、秀次を追い出すこともなく、自分なき世でも如何にして家を存続させようかぐらいは考えたはず。秀頼が生まれたとてまだ幼少。なのにさっさと秀次を追い出して世継ぎを変えた。そして晩年の秀吉は後世のことなどまるでなにも考えていないような振る舞いの数々。秀吉は関白にまでなった人ではあるが、心だけはずっと侍に成りきれていなかったのではないかと思ってます。
秀吉の晩年=独裁者とするならば独裁者の末期はこんなものかもしれません
大した能力も無いのに口出ししてきた淀が最大の戦犯かなまぁ秀次事件で遅かれ早かれ積んだのかも
主犯は淀殿だと思う。しかし、若い女の言うことをホイホイ聞いた秀吉本人が筆頭格の主犯だと思う。呉の孫権も若い側室の言うことに操られて国を乱した。老人が色香に迷うとロクなことがない。
もしかしたら、秀次自殺事件の真の黒幕は、淀殿かもしれんな…。秀頼を世継ぎとするのに、淀殿としては秀次が邪魔だろうし。
史実通りに大坂の陣が起こったとして、小大名でもよいから豊臣の血を残せなかったという理由だったら秀頼でしょうねそれは幕府に従わなかったとかではなくて、千姫との間に子供を成さなかったという理由です国松丸が処刑されてしまったのは、戦国の習いというだけでなくそれが側室との子で徳川とはなんの縁も無かったからです千姫との子供であれば将軍家との縁石ですので、関東のどこかの小大名として血筋は残されたと思います秀頼は側室と子作りしてないで千姫との子供をさっさと作っていればって感じでしょうか
元凶は秀吉やろな淀を側室にしたのも、秀頼を跡取りにしたのも、秀頼可愛さに秀次を筆頭に秀吉死後の豊臣を支えてく人達を大勢殺して恨み買ったのも全部秀吉家康だって豊臣体制が盤石なら動けなかった
豊臣家滅亡の主犯というよりは、大和大納言、豊臣秀長が、長生きしていたら!!
…親が貯め続けてきたツケを子が払わされる。武田と似たような末路だったのかもしれません。秀吉は野心や独善で暴走し、秀次たちを排除してしまったり、自分がいなくなるとすぐに崩れたり家康に簒奪チャンス与えてしまう体制作ってしまいましたからね。(汗)淀秀頼にも責任はあって、秀次事件の犠牲者へのケア怠ったのも破滅要因でしょう。まさに因果応報。ありがとうございました!
そりゃー、秀吉本人でしょうな。子がなかなかできなかったのは仕方がないが、秀吉落命時に成人した跡取りがいれば、家康に付け込まれる事はなかった。実子にあとを継がせたかったのは分かるが、そこはググッと我慢して、秀頼が成人するまで秀次を残しておけば話はだいぶ違ったでしょうな。
酔って上機嫌な秀吉に家康が上手く「大阪城を落とす方法」を聞いてそのまま実行したという逸話もありますが‥
秀吉自身でしょ。小牧長久手で家康を討ち取れなかったから。ちなみに豊臣滅亡の要因は複数あると思われる。①一門の粛清秀秋を小早川に養子に出したり、秀頼誕生後、跡目争いを恐れて秀次を切腹させたりして一門の力が弱まった。特に秀次切腹は最上義光の恨みを買ったし。②淀殿の過保護関ケ原で秀頼を出陣させて去就を明らかにしていれば東軍の豊臣恩顧の大名は味方したはず。更に大坂夏の陣でも秀頼が出陣していれば、大坂方の士気は高まるし戦局次第で幕府方に属した元豊臣恩顧大名の寝返りを期待出来た。③三成の挙兵時期三成の挙兵は秀頼が幼少で自己決定出来ないタイミングであったので、時期尚早だった。しかも家康は老齢でほっとけば死ぬし、何もあのタイミングで挙兵する必要は無いかと。ちょうど謹慎を命じられてたし、それを利用して時節到来を待つべきだった。
③は微妙、秀頼が元服するまでに徳川政権が盤石になる。関ヶ原の後、将軍職を直ぐに秀忠に譲って、徳川支配を印象付けている。
@@joeuncle6070 関ケ原の合戦は三成の挙兵がトリガーで、それこそ家康が張った罠ですよ。少なくとも、家康の思惑は二つ有ったと思われます。①徳川に靡く豊臣恩顧の大名の見極め②内紛によって豊臣恩顧の大名の力を削ぐなので、三成が挙兵を我慢して朝廷工作をすべきだったと思われます。
晩年の秀吉はボケ老人になってしまった。往年の鋭い洞察力の何分の一でもあれば自分が死ねば家康が最も恐ろしい存在になるはずだから「天下はそちに譲るから秀頼には百万石くらいやってくれ。」くらいのことを言えば豊臣家の滅亡はなかったかもしれない。
小幡景憲……城にこもるというのは、その城にこもって持ちこたえているうちに、城を攻めている者より強大な部隊が救援に来る期待が持てるときのことで、今そこにいる部隊が自軍の全部の時に城にこもっても負けを先に延ばすだけでしかない。 むしろ、多くの大名が徳川方についているというのは、勝つ側につきたいと思うからであり、最初の時点では大坂限定では豊臣が圧倒的に支配していたのだから、その優位をもとに徳川方の伏見城を落とし、局地戦でも「豊臣が徳川に勝った」という話をアピールして全国に広め、徳川ではなく豊臣が勝つのではないか……と全国の大名に思わせることで、豊臣方につくのをためらっている者に豊臣につかせ、徳川につこうとしている者にためらわせることを画策すべきだったのに、大坂城にこもるよう主張して負けにもっていった。
秀吉かと…。後年大阪城落城の際の城主秀頼を生む淀君を側室とし…更に親族秀次を切腹させ…他にも連座して家臣を切腹させ…他の大名に豊臣家に不信を抱かせる要因にもなりました。
利家が1600年まで生きていれば関ヶ原はなかった❗弟の秀長の二人が長生きしていたら江戸幕府もなかったな!
1600年まで生きていれば関ヶ原の戦いが1601年になり1601年に亡くなったなら関ヶ原が1602年にズレただけ。
1616年まで生きていれば。
秀吉以外に何かありますか?
三成、淀君、大蔵局辺りかな? まぁ時勢を読み間違いで時の権力者の家康に刃向かった事かな。一大名として静かに暮らしていれば家名ぐらいは残せたはず。秀吉は病気で心細くなって家康に頼んだのもアウト
主犯は秀吉と家康。石田三成、加藤清正、福島正則、上杉景勝あたりの責任も大きいと思います。
淀殿
豊臣政権の脆弱性はなぁ…
家の滅亡ということでいえば淀と秀頼が残す道を選ばなかったと言えるでしょう。徳川政権下で織田のように生き残る道はあったはずです。
淀殿と家康でしょう。まず淀殿は武官が嫌いで文官を重宝した。そしてその差別から清正、正則など城作りに有名な武官が秀頼や淀殿から徳川側になった。文官は城の守りが分からず和睦の中身の堀を埋めたりした。家康は確かにその弱みに付け込み武官を引き抜いた。引き抜いた理由は豊臣家の安泰と淀殿含む文官の追放か処断をチラつかせば寝返る。確かに秀頼にそこまでの力が無かったのもあるがまだまだ若く、淀殿に逆らえないのがあるから仕方無い。三成はそもそも淀殿寄りの文官で関ヶ原は利家が居なかったから起きたはあるが豊臣存続の為、勝てば豊臣存続は確定するし、家康と息子を処断すれば安泰になる。家康がそそのかしたのが戦犯であるしそもそも豊臣を残すのは無い。島流し、追放しても反乱する可能性が高いから必ず処断するはず。更に一番の戦犯は淀殿でしょう。
晩年の本人と愛想つかしたおね様。
何らかの理由で家康と秀忠を大阪城に呼び出し道中二人を事故に見せかけ暗殺する。
秀吉の、秀次自殺事件を呼び起こした罪は重く、それが滅亡の遠因となったのは事実。が、淀殿の会長ぶったような独断な振舞こそが、最も罪深い。
緒大名から見ても秀次事件の首謀者にしか見えない淀殿含めた近江衆、特に大蔵卿と大野守役の片桐も、秀次の妻子を処断した現場責任者の三成も、関係ないけど木村も近江衆跡取りが秀頼となれば秀吉すら要らないやってることは三好や赤松と同じ主討ちで筋が乱世そのもので筋が通らない秀頼に従うことは、この近江衆に従うことと思えてしまう大名も多かった気がする100年以上続いた戦乱の世を一時は治めた時代にあって、天下を獲ろうと思うのは一握りの変わり者で、多くの大名も天下の安寧を望んだと思う
家康、変わり者。
秀頼義兄越前黄門秀康が大坂の陣まで存命し長生きしていたら?
そもそも、と言ったら織田信長だったりして🤣引き立てられなければ滅亡はしなかった。
1600年の関ヶ原の戦いの後、前田利長と浅野長政を筆頭に加藤清正、福島正則、黒田長政、池田輝政、加藤嘉明、細川忠興、浅野幸長、藤堂高虎、田中吉政、山内一豊、京極高次が一丸となって豊臣家に忠誠を尽くせば滅ばされなかった。
細川忠興と藤堂高虎は無理っぽい。加藤清正、福島正則、加藤嘉明、浅野幸長、田中吉政は結構豊臣家にたいする忠誠心が厚い。
@@sa-oq7ci 黒田長政と池田輝政と山内一豊と京極高次は?
トリガーは秀吉自身晩年は諸大名に恨みを買うことが多すぎた大大名を政治の中心に置いたこと
三成が関が原を起こさず辛抱強く水面下での工作を続けていたら・・・とかは思う。
摂関家だと思うな。6より5の方がお鉢が回って来やすいしな。
淀殿でしょ横山光輝のマンガ徳川家康レベルの知識ですけど
関ヶ原で徳川に付いた豊臣恩顧の大名たちでしょう。豊臣政権安泰よりも三成に対する私怨を優先して徳川家の台頭を許し豊臣家滅亡を招いた。
秀吉が一番悪いと思う
国松を人質に出し淀殿を人質に出す豊臣は安泰
淀の人質は断られました。国替えも浪人追放もなしです。いやあ、堀を埋めるだけで全て許してくれるなんて家康公はホント優しいなぁ
やっぱり淀殿だと思います。当時から秀頼は秀吉の子ではないという噂はあったようで、秀吉古参の家臣たちの態度に出ています。秀頼が生まれなければ秀次事件も起こらなかったでしょう。というより、淀殿は初めから実両親(浅井長政、市)と継父(柴田勝家)の命を奪った羽柴家を滅ぼすつもりだったのではないかと思えてきます。
経験不足の、秀頼を狙い打ちした、家康が悪い。
流れは分かってるつもりだけどやっぱり家康は好きになれない。。
大阪城から退去して、金銀を幕府に献上していれば滅亡は免れたと思うよ
豊臣「政権」を潰したのは秀吉だろうけど、豊臣「家」を潰したのは暴走した浪人共じゃなかろうか。
秀頼の父は誰でしょうか
福島正則の責任も考えられます。関ヶ原合戦直前まで石田三成は福島正則の勧誘を試みます。もしこの時点で福島正則が西軍に加担していれば、清洲城岐阜城ラインまで西軍となり東軍も容易くは攻められないと思います。家康は黒田長政を介して福島正則を東軍に加担させています。
秀吉自身であったと思います。天下人になってからは、誰も意見や諌言する人はいなくなり、自身の狭い了見と価値観で天下の決済を下してきた判断不足が将来の豊臣家を不幸にしたと思います。認知症だったと言われますが、いつでも狂っているわけでなく、たまに正常になるときに人に対する恨みや憎しみが出て来て、判断を誤らせたと考えます。成り上がり者には信頼できる譜代家臣が無いと言われますので、それも原因か…と。
色々な事情が絡み合ったの決定的な主犯は断定できないと思います。しかしあえて取り上げて頂きたかったのは、淀君の自作自演説です!10年位前の大河ドラマ《江》で宮沢りえさんが淀を演じられた時の脚本「秀吉に復讐してやる!」にハッとしたヒントを感じました。淀も妹の江も当然、浅井とお市の娘は有名ですね。お市が二度の主人を失い、秀吉を憎しみながら自害しました。淀は秀吉の一方的なお気に入りではあったが、本人は秀吉を受け入れる心の姿勢はなかった。むしろ父と母を殺された秀吉に復讐心さえ抱き、逆に織田、浅井の血を大切にしていたのではないでしょうか?関ケ原以降、織田家の織田信雄や織田有楽を召し抱え側近にしている辺りから、密かに織田家存続&豊臣潰しの計画はされていたのは極論でしょうか?秀頼を大坂から出さなかったのも淀の進言でしょう?あの状況下、本当に豊臣の血を残したいのなら、一大名でも徳川に下る道を選ぶ以外ないのは判っての判断です。自らの身をもって秀頼と豊臣の血を絶やした女性の意地ではないでしょうか?
家康を置いて他に無い。
徳川家康でしょ。秀次切腹に付き添ったのが、家康の家臣、福島正則って考えたら、もうタヌキ家康の策略としか思えませんw
当時の福島正則は家康の家臣ではないですよ
秀吉があと10年長生きするか秀頼が10年早く生まれていたら徳川の天下はなかった
さおりさんこんばんは
豊臣家滅亡の主犯は誰だろう?秀吉様自身でしょうか?
ん? 二人目?
戦犯😂秀吉のこのさる顔がだめだった
秀吉です。秀次家族を殺した事が家が続かな買った原因です。秀頼は秀吉の子供ではない。豊臣の血筋が絶えてますから。
前田利家と秀吉弟の毒殺加藤清正も毒殺説あります
有名なのが浅井家の菩提寺には茶々(淀)の位牌がない…現代の義務教育では浅井家長女と定義していますが、想像通りで、誰が父親なのかと。大人の事情で倫理により史実通りには後世に伝えられない、という事でしょうね。だから関ケ原後徳川に政権が移っても淀殿は"上からの要求"は拒み続けたこと合点がいきます。千姫は人質と。そんな後に豊臣滅亡のリスクを抱える"信〇の近親(自粛)娘"を秀吉が側室に迎えた…要するに秀吉の好々爺な面を含めた性格で自らお家滅亡を招いたと考えます。
秀吉の女好きがすべての元凶。
雌鳥鳴いて国滅ぶ
秀吉自身ですよ当然。
本人やろ・・・
もしかして、家康様!?
秀吉と茶々
秀吉が一番の主犯だった
石田三成、福島正則、加藤清正じゃん。こいつらが私見を捨て、協力していたら、家康も付け込めなかっただろう。関ヶ原合戦でさえ起きてないよ。
まー秀吉でしょ秀次が生きてりゃ家康は手も出ない
秀吉が天下取った時点で滅亡決まり
豊臣秀吉と高台院でFA。二人に子供がいなかったから。
豊臣家の数少ない身内である秀次一家を虐殺したのは、豊臣家の転落の始まり。よって、主犯は秀吉自身だと思う。私は豊臣秀吉を一切評価してない。
晩年の豊臣秀吉が一番の原因だと、僕は考えます。
私もそう思います
認知症になったんだろうな。
同感。
晩年の秀吉の暴走。もうそこから滅亡へのカウントダウンは始まってたんじゃないかな。
秀次事件が一番の原因と言っても過言ではないかと思います。
あとは淀君こそA級戦犯の声もありますね。ていうより親の仇である秀吉と豊臣家を破滅させるためにわざと秀吉の懐に入ったという説も。
元凶は自分が後見しきれない孫みたいな子を後継ぎにした秀吉自身だろ。
家康を自分の代で潰せず、仕方なく高い官位で懐柔したり広大な地を与えてしまったり。
虎に翼を与えてしまった。
もう一つ秀吉には拭いきれない汚点がある。それは対外侵略戦争をやったこと
それは現在の価値観でははかれないよね、元にくっいて日本を侵略しに来た高麗はどうなる。
@@joeuncle6070 元の皇帝フビライハーンも高麗も普通にクソだと思ってます
モンゴル野郎が調子こきゃーがってざまあっていうのが元寇の感想ですかね
@@よろずはんげつ 中国進出は対イスパニア。日本の独立を守るためでは?信長時代からイスパニア、イギリスの海外事情を侍は集めていたから。教科書には書かれない歴史がありますね。
@@joeuncle6070 そんなに朝鮮が好きなのか? この動画と何も関係ないよな
要因はいろいろあるだろうが、主犯となれば秀吉一択かなぁ
元を辿れば何もかも、秀吉自身が蒔いた種だ
秀吉自身は種無いのにな
秀次を粛清したことが一番と思います。仮に秀頼が秀次に排除されても秀次は簡単に家康に負けなかったと思いますが、若く経験不足の秀頼だけになってしまっては豊臣自体が残れないでしょう。でも、これも後知恵ですね。
秀次が生きていたら家康は天下を取れなかったと思います。関白は人民の最高位征夷大将軍程度では歯向かうと謀叛になります。
それ、同感ですね。
秀次を変に自害させた秀吉の行為は非常に罪深く、神罰として秀吉は62歳の若さで病没となった。
同感です。天下統一がなされて、豊臣家について行けば武家の世は間違いないと思っていた各大名の心が内紛で揺らいでしまったことに尽きますね。
あと、大和大納言家の存続を認めず断絶させたことも良くなかったかと。
少なくとも藤堂高虎の気持ちは、これで豊臣から離れたと思う。
主犯:豊臣秀吉、実行犯:加藤清正・福島正紀などの「反三成派(艦上で動いた)」、無自覚犯:淀殿、棚ぼた犯(漁夫の利):徳川家康、ですかね?
一番の原因は秀吉の「外付け良心回路:秀長」が先に死亡したのが大きすぎる・・・
秀吉自身だと思います。
秀次の前に秀吉が不妊だったのが😵💧
あれだけ側室が居て、子供が二人だけっていうのがすべてかと。
おねに子供がいたら一番だけれども優秀か分からなかったしね。
せめて実娘が何人か生まれてたら状況がかなり変わってたと。
主犯は秀吉だと思いますよ。
何より、身内を潰しちゃったのが大きい。
子供が小さいんだから後見として身内をつけるのは当然で。
それを重臣とは言え他人に任せた時点で滅亡は見えてましたね。
淀殿にも問題多いですが、彼女に意見出来る人を作らなかったのも大きいかな。
やっぱり、 もっと 豊臣一門衆を 残しとかないと、 源氏の二の舞🤣
あえて、主犯を言うなら 秀次 を、切腹させた秀吉が悪いと思います
やはり秀次事件が豊臣政権崩壊の致命的な原因と言えよう。
秀吉も候補だと思います。
秀次を切腹さえしなければ…
@@イヌと
そう‼️それです‼️そこが大きな
間違いの始まりですね。
秀吉は精子腐ってたからどの道自分の血を引いた跡継ぎ残せなかった
同じく
もっと早く跡取りを決めてなかったのが原因の一つ。
長浜城主になった時か、大返し辺りに跡取りをしっかり決めてなかったのが後々響いた。
秀頼は公家として、秀次か秀秋を跡取りとして決めておけば良かったのにとは思う。
豊臣秀吉
【重臣】
豊臣秀長→病死
豊臣秀次→切腹
豊臣秀勝→病死
堀 秀政→病死
黒田官兵衛→転封
秀次を殺した時点で、豊臣家の滅亡が決まったからな~。
同感です😊
主犯は秀吉自身じゃないですかね?
秀吉
秀次の処分さえなければ豊臣家は安泰だったし、秀吉が晩年に別人のようになってしまったのが原因。
幼い秀頼に天下をまとめるのは無理だから、いっそ家康に天下を渡し豊臣家は一大名でいいから残るようにする方法もあった。
淀殿はそれを理解できていなかったので、一番の原因が秀吉なら淀殿はその次くらいの責任がある。
前田利家が主犯に加えられるなら蒲生氏郷や豊臣秀長も加えるべき。
氏郷は不安定な場所でかつ平定して間もない東北への睨みとして会津を与えられるほど有能で、弟の秀長は秀吉に意見が言いやすい立場にある数少ない有能な肉親。
二人が生きていれば日本の歴史は変わっていたでしょう。
ちゃんと組織化しなかった秀吉が悪い。
組織化出来た「徳川」には勝てない。
たとえ家康殺せても。
ねねとの間に世継ぎがいなかったのも痛かっただろうな。
いれば、それなりの英才教育はできたと思う。
秀長さんが長生きしていたら、秀次事件は起こらずに済んでいた、と思います。😅
秀次事件によって、最上氏のみならず、諸大名にネガティブな印象を与えてしまったのが滅亡の原因だと思います。
あと関ヶ原の戦いは無くても、滅亡は時間の問題だったと思います。😅
秀吉と晩年の秀長と関係は微妙という話もあるし、
大和大納言家を結局断絶させたことを考えると、
秀頼誕生後に秀長が存命であっても、秀長が秀次と同じ運命を辿った可能性もあるよね。
秀吉と淀君でしょうね。
家康は秀忠を戦場に出して戦を経験させましたが、まだ幼かったからでしょうが、秀吉は秀頼にはそれはしていないし、ならば淀君がそれをしないといけない。
但し、徳川家康に権力を譲りたくないのであればの話ですが。
私は徳川家康に権力を譲るのも一つの手段だったと思いますが、それでも家康は豊臣家を弱体化させていたとは思いますけど。
天下統一後の秀吉でしょ。
やる事全部裏目、自滅。
秀吉しかいません
淀殿と秀吉そして大野兄弟
この3人が戦犯
秀吉の一番の失敗は生前に家康を謀殺せず放置したこと
小牧長久手で勝てなかったこと。
官兵衛がいれば勝てた
ほんと💯。
さおりちゃんのナレーションは最高。
プロとは違うのだろうが
スンナリと、染み込む。
🎉🎉🎉。
まず晩年の秀吉本人
次いで武断派の離反を招いた上、西軍を壊滅させた石田三成
まぁ武断派の離反は秀吉の尻拭いをさせられた感はあるが
豊臣を不安定、弱体化を狙う徳川家康より、それを防ごうと豊臣恩顧に報いようとした石田三成が豊臣滅亡の犯人にされるのはなんとも・・・どっちが犯人かと言えば、家康の方でしょ。
豊臣家の滅亡は挙げられた件以外にも多々あって、結論で言われているように、どこかで滅亡はしていたでしょうね。私は挙げられていなかった重要な人物として、秀吉正妻のおねも取り挙げてほしかった。彼女が出てくれば情勢は激変したはずなのに、という場面で、おねは全く表に出ていない。秀吉を天下に押し上げた才覚がありながら、なぜ彼女は豊臣家に無関心だったのでしょうか?前田の尻を叩くこともできた。あの家康でさえ、終生おねには手を出していないくらい気を使っている存在なのに。唯一東西両方に絶大な影響を利かせられるにも関わらず。ひょっとして、おねにとって秀吉のいない豊臣はどうでもよかったのかもしれませんね。
秀吉が織田家臣団を滅ぼし織田家を乗っ取ったように、家康が豊臣家臣団を分断し滅ぼされた。
秀吉は織田家を乗っ取ったけど、反発してきた信雄は追放、殊勝な態度だった秀信はそれなりの待遇にしてた。豊臣家も家康に頭下げてればそこそこ良い待遇になってたと思う。
@@ジョンスミス-d9z
いかに健康に自信があったとはいえ、将軍になった時点で60歳を超えていた家康が
大坂冬の陣を起こすまで10年以上もよく待てたよね。
最初から豊臣家を滅ぼす気満々だったから、とても10年以上も待たなかったと思う。
もともと一門衆がいないので無理のあった政権だからてまはないでしょうか
サムネが『主犯』なのが好感もてます
『戦犯』は国際法に違反した戦争行為のことなので
秀頼が大阪城に座してないで関ヶ原に西軍として出陣していれば、
加藤、福島等の豊臣恩顧の大名は東軍には付けなかったんじゃないかな。
それを許さなかった淀殿が主犯だと思うな。
秀頼は中途半端ですよね。阿呆ならもっと阿呆だった方が良ければ織田信雄並、悪くても高家にはなれただろうにと思います。偉丈夫で中途半端に英雄感があるから・・・
あとは淀殿ですよね。プライドの超高すぎるオバハン。考えようによっては自分の命と共に憎き秀吉の家を滅亡できたのだから本望だったのかもしれませんが
秀吉が潰した
私は秀吉が、豊臣家ではなく、自身の権威に固執し過ぎたことが原因だったのではと思っています。
武士、武将は己れの命よりもお家が大事。
しかし、武士、武将ではなく、自分自身が生きることに必死だった他の民達は、もちろん家族を大事にしたとしても、先祖代々お家を守るという意識は薄かったでしょう。
一代で驚異的に出世した秀吉が武家の出身でないのならば、自分の親戚筋は大事にしたとしても、代々家を守るというよりも、自分が頑張って手にした権力は、誰にも譲りたくなかったのではないかと思うのです。
一方で家康は武家の家柄や血筋がどれほど大事なものかよくわかっている人だった。
なんせ新田源氏の得川姓を奪ってしまうくらいなのだから。
そこが秀吉と家康の大きな違いで、武士として松平家が如何に苦しんできたかと想像してしまいます。
なによりも秀吉が、豊臣姓、豊臣家を自分以上に大事にできる人であったならば、秀次を追い出すこともなく、自分なき世でも如何にして家を存続させようかぐらいは考えたはず。
秀頼が生まれたとてまだ幼少。なのにさっさと秀次を追い出して世継ぎを変えた。
そして晩年の秀吉は後世のことなどまるでなにも考えていないような振る舞いの数々。
秀吉は関白にまでなった人ではあるが、心だけはずっと侍に成りきれていなかったのではないかと思ってます。
秀吉の晩年=独裁者とするならば独裁者の末期はこんなものかもしれません
大した能力も無いのに口出ししてきた淀が最大の戦犯かな
まぁ秀次事件で遅かれ早かれ積んだのかも
主犯は淀殿だと思う。
しかし、若い女の言うことをホイホイ聞いた秀吉本人が筆頭格の主犯だと思う。
呉の孫権も若い側室の言うことに操られて国を乱した。
老人が色香に迷うとロクなことがない。
もしかしたら、秀次自殺事件の真の黒幕は、淀殿かもしれんな…。
秀頼を世継ぎとするのに、淀殿としては秀次が邪魔だろうし。
史実通りに大坂の陣が起こったとして、小大名でもよいから豊臣の血を残せなかったという理由だったら秀頼でしょうね
それは幕府に従わなかったとかではなくて、千姫との間に子供を成さなかったという理由です
国松丸が処刑されてしまったのは、戦国の習いというだけでなくそれが側室との子で徳川とはなんの縁も無かったからです
千姫との子供であれば将軍家との縁石ですので、関東のどこかの小大名として血筋は残されたと思います
秀頼は側室と子作りしてないで千姫との子供をさっさと作っていればって感じでしょうか
元凶は秀吉やろな
淀を側室にしたのも、秀頼を跡取りにしたのも、秀頼可愛さに秀次を筆頭に秀吉死後の豊臣を支えてく人達を大勢殺して恨み買ったのも全部秀吉
家康だって豊臣体制が盤石なら動けなかった
豊臣家滅亡の主犯というよりは、大和大納言、豊臣秀長が、長生きしていたら!!
…親が貯め続けてきたツケを子が払わされる。武田と似たような末路だったのかもしれません。秀吉は野心や独善で暴走し、秀次たちを排除してしまったり、自分がいなくなるとすぐに崩れたり家康に簒奪チャンス与えてしまう体制作ってしまいましたからね。(汗)淀秀頼にも責任はあって、秀次事件の犠牲者へのケア怠ったのも破滅要因でしょう。まさに因果応報。ありがとうございました!
そりゃー、秀吉本人でしょうな。
子がなかなかできなかったのは仕方がないが、秀吉落命時に成人した跡取りがいれば、家康に付け込まれる事はなかった。
実子にあとを継がせたかったのは分かるが、そこはググッと我慢して、秀頼が成人するまで秀次を残しておけば話はだいぶ違ったでしょうな。
酔って上機嫌な秀吉に家康が上手く「大阪城を落とす方法」を聞いてそのまま実行したという逸話もありますが‥
秀吉自身でしょ。
小牧長久手で家康を討ち取れなかったから。
ちなみに豊臣滅亡の要因は複数あると思われる。
①一門の粛清
秀秋を小早川に養子に出したり、秀頼誕生後、跡目争いを恐れて秀次を切腹させたりして一門の力が弱まった。
特に秀次切腹は最上義光の恨みを買ったし。
②淀殿の過保護
関ケ原で秀頼を出陣させて去就を明らかにしていれば東軍の豊臣恩顧の大名は味方したはず。
更に大坂夏の陣でも秀頼が出陣していれば、大坂方の士気は高まるし戦局次第で幕府方に属した元豊臣恩顧大名の寝返りを期待出来た。
③三成の挙兵時期
三成の挙兵は秀頼が幼少で自己決定出来ないタイミングであったので、時期尚早だった。
しかも家康は老齢でほっとけば死ぬし、何もあのタイミングで挙兵する必要は無いかと。
ちょうど謹慎を命じられてたし、それを利用して時節到来を待つべきだった。
③は微妙、秀頼が元服するまでに徳川政権が盤石になる。関ヶ原の後、将軍職を直ぐに秀忠に譲って、徳川支配を印象付けている。
@@joeuncle6070
関ケ原の合戦は三成の挙兵がトリガーで、それこそ家康が張った罠ですよ。
少なくとも、家康の思惑は二つ有ったと思われます。
①徳川に靡く豊臣恩顧の大名の見極め
②内紛によって豊臣恩顧の大名の力を削ぐ
なので、三成が挙兵を我慢して朝廷工作をすべきだったと思われます。
晩年の秀吉はボケ老人になってしまった。往年の鋭い洞察力の何分の一でもあれば自分が死ねば家康が最も恐ろしい存在になるはずだから「天下はそちに譲るから秀頼には百万石くらいやってくれ。」くらいのことを言えば豊臣家の滅亡はなかったかもしれない。
小幡景憲
……城にこもるというのは、その城にこもって持ちこたえているうちに、城を攻めている者より強大な部隊が救援に来る期待が持てるときのことで、今そこにいる部隊が自軍の全部の時に城にこもっても負けを先に延ばすだけでしかない。
むしろ、多くの大名が徳川方についているというのは、勝つ側につきたいと思うからであり、最初の時点では大坂限定では豊臣が圧倒的に支配していたのだから、その優位をもとに徳川方の伏見城を落とし、局地戦でも「豊臣が徳川に勝った」という話をアピールして全国に広め、徳川ではなく豊臣が勝つのではないか……と全国の大名に思わせることで、豊臣方につくのをためらっている者に豊臣につかせ、徳川につこうとしている者にためらわせることを画策すべきだったのに、大坂城にこもるよう主張して負けにもっていった。
秀吉かと…。
後年大阪城落城の際の城主秀頼を生む淀君を側室とし…更に親族秀次を切腹させ…他にも連座して家臣を切腹させ…他の大名に豊臣家に不信を抱かせる要因にもなりました。
利家が1600年まで生きていれば関ヶ原はなかった❗弟の秀長の二人が長生きしていたら江戸幕府もなかったな!
1600年まで生きていれば関ヶ原の戦いが1601年になり
1601年に亡くなったなら関ヶ原が1602年にズレただけ。
1616年まで生きていれば。
秀吉以外に何かありますか?
三成、淀君、大蔵局辺りかな? まぁ時勢を読み間違いで
時の権力者の家康に刃向かった事かな。一大名として静かに
暮らしていれば家名ぐらいは残せたはず。秀吉は病気で
心細くなって家康に頼んだのもアウト
主犯は秀吉と家康。石田三成、加藤清正、福島正則、上杉景勝あたりの責任も大きいと思います。
淀殿
豊臣政権の脆弱性はなぁ…
家の滅亡ということでいえば
淀と秀頼が残す道を選ばなかったと言えるでしょう。
徳川政権下で織田のように生き残る道はあったはずです。
淀殿と家康でしょう。
まず淀殿は武官が嫌いで文官を重宝した。そしてその差別から清正、正則など城作りに有名な武官が秀頼や淀殿から徳川側になった。文官は城の守りが分からず和睦の中身の堀を埋めたりした。家康は確かにその弱みに付け込み武官を引き抜いた。引き抜いた理由は豊臣家の安泰と淀殿含む文官の追放か処断をチラつかせば寝返る。
確かに秀頼にそこまでの力が無かったのもあるがまだまだ若く、淀殿に逆らえないのがあるから仕方無い。
三成はそもそも淀殿寄りの文官で関ヶ原は利家が居なかったから起きたはあるが豊臣存続の為、勝てば豊臣存続は確定するし、家康と息子を処断すれば安泰になる。
家康がそそのかしたのが戦犯であるしそもそも豊臣を残すのは無い。島流し、追放しても反乱する可能性が高いから必ず処断するはず。
更に一番の戦犯は淀殿でしょう。
晩年の本人と愛想つかしたおね様。
何らかの理由で家康と秀忠を大阪城に呼び出し道中二人を事故に見せかけ暗殺する。
秀吉の、秀次自殺事件を呼び起こした罪は重く、それが滅亡の遠因となったのは事実。
が、淀殿の会長ぶったような独断な振舞こそが、最も罪深い。
緒大名から見ても秀次事件の首謀者にしか見えない淀殿含めた近江衆、特に大蔵卿と大野
守役の片桐も、秀次の妻子を処断した現場責任者の三成も、関係ないけど木村も近江衆
跡取りが秀頼となれば秀吉すら要らない
やってることは三好や赤松と同じ主討ちで筋が乱世そのもので筋が通らない
秀頼に従うことは、この近江衆に従うことと思えてしまう大名も多かった気がする
100年以上続いた戦乱の世を一時は治めた時代にあって、天下を獲ろうと思うのは一握りの変わり者で、多くの大名も天下の安寧を望んだと思う
家康、変わり者。
秀頼義兄越前黄門秀康が大坂の陣まで存命し長生きしていたら?
そもそも、と言ったら織田信長だったりして🤣
引き立てられなければ滅亡はしなかった。
1600年の関ヶ原の戦いの後、
前田利長と浅野長政を筆頭に
加藤清正、福島正則、黒田長政、池田輝政、加藤嘉明、細川忠興、浅野幸長、藤堂高虎、田中吉政、山内一豊、京極高次が一丸となって豊臣家に忠誠を尽くせば滅ばされなかった。
細川忠興と藤堂高虎は無理っぽい。加藤清正、福島正則、加藤嘉明、浅野幸長、田中吉政は結構豊臣家にたいする忠誠心が厚い。
@@sa-oq7ci 黒田長政と池田輝政と山内一豊と京極高次は?
トリガーは秀吉自身
晩年は諸大名に恨みを買うことが多すぎた
大大名を政治の中心に置いたこと
三成が関が原を起こさず辛抱強く水面下での工作を続けていたら・・・とかは思う。
摂関家だと思うな。6より5の方がお鉢が回って来やすいしな。
淀殿でしょ
横山光輝のマンガ徳川家康レベルの知識ですけど
関ヶ原で徳川に付いた豊臣恩顧の大名たちでしょう。豊臣政権安泰よりも三成に対する私怨を優先して徳川家の台頭を許し豊臣家滅亡を招いた。
秀吉が一番悪いと思う
国松を人質に出し淀殿を人質に出す
豊臣は安泰
淀の人質は断られました。国替えも浪人追放もなしです。
いやあ、堀を埋めるだけで全て許してくれるなんて家康公はホント優しいなぁ
やっぱり淀殿だと思います。当時から秀頼は秀吉の子ではないという噂はあったようで、秀吉古参の家臣たちの態度に出ています。秀頼が生まれなければ秀次事件も起こらなかったでしょう。
というより、淀殿は初めから実両親(浅井長政、市)と継父(柴田勝家)の命を奪った羽柴家を滅ぼすつもりだったのではないかと思えてきます。
経験不足の、秀頼を狙い打ちした、家康が悪い。
流れは分かってるつもりだけど
やっぱり家康は好きになれない。。
大阪城から退去して、金銀を幕府に献上していれば滅亡は免れたと思うよ
豊臣「政権」を潰したのは秀吉だろうけど、豊臣「家」を潰したのは暴走した浪人共じゃなかろうか。
秀頼の父は誰でしょうか
福島正則の責任も考えられます。関ヶ原合戦直前まで石田三成は福島正則の勧誘を試みます。もしこの時点で福島正則が西軍に加担していれば、清洲城岐阜城ラインまで西軍となり東軍も容易くは攻められないと思います。家康は黒田長政を介して福島正則を東軍に加担させています。
秀吉自身であったと思います。天下人になってからは、誰も意見や諌言する人はいなくなり、自身の狭い了見と価値観で天下の決済を下してきた判断不足が将来の豊臣家を不幸にしたと思います。認知症だったと言われますが、いつでも狂っているわけでなく、たまに正常になるときに人に対する恨みや憎しみが出て来て、判断を誤らせたと考えます。成り上がり者には信頼できる譜代家臣が無いと言われますので、それも原因か…と。
色々な事情が絡み合ったの決定的な主犯は断定できないと思います。
しかしあえて取り上げて頂きたかったのは、淀君の自作自演説です!
10年位前の大河ドラマ《江》で宮沢りえさんが淀を演じられた時の脚本「秀吉に復讐してやる!」にハッとしたヒントを感じました。
淀も妹の江も当然、浅井とお市の娘は有名ですね。
お市が二度の主人を失い、秀吉を憎しみながら自害しました。
淀は秀吉の一方的なお気に入りではあったが、本人は秀吉を受け入れる心の姿勢はなかった。
むしろ父と母を殺された秀吉に復讐心さえ抱き、逆に織田、浅井の血を大切にしていたのではないでしょうか?
関ケ原以降、織田家の織田信雄や織田有楽を召し抱え側近にしている辺りから、密かに織田家存続&豊臣潰しの計画はされていたのは極論でしょうか?
秀頼を大坂から出さなかったのも淀の進言でしょう?
あの状況下、本当に豊臣の血を残したいのなら、一大名でも徳川に下る道を選ぶ以外ないのは判っての判断です。
自らの身をもって秀頼と豊臣の血を絶やした女性の意地ではないでしょうか?
家康を置いて他に無い。
徳川家康でしょ。秀次切腹に付き添ったのが、家康の家臣、福島正則って考えたら、もうタヌキ家康の策略としか思えませんw
当時の福島正則は家康の家臣ではないですよ
秀吉があと10年長生きするか秀頼が10年早く生まれていたら徳川の天下はなかった
さおりさんこんばんは
豊臣家滅亡の主犯は誰だろう?秀吉様自身でしょうか?
ん? 二人目?
戦犯😂秀吉のこのさる顔がだめだった
秀吉です。秀次家族を殺した事が家が続かな買った原因です。秀頼は秀吉の子供ではない。豊臣の血筋が絶えてますから。
前田利家と秀吉弟の毒殺
加藤清正も毒殺説あります
有名なのが浅井家の菩提寺には茶々(淀)の位牌がない…現代の義務教育では浅井家長女と定義していますが、想像通りで、誰が父親なのかと。大人の事情で倫理により史実通りには後世に伝えられない、という事でしょうね。
だから関ケ原後徳川に政権が移っても淀殿は"上からの要求"は拒み続けたこと合点がいきます。千姫は人質と。そんな後に豊臣滅亡のリスクを抱える"信〇の近親(自粛)娘"を秀吉が側室に迎えた…要するに秀吉の好々爺な面を含めた性格で自らお家滅亡を招いたと考えます。
秀吉の女好きがすべての元凶。
雌鳥鳴いて国滅ぶ
秀吉自身ですよ当然。
本人やろ・・・
もしかして、家康様!?
秀吉と茶々
秀吉が一番の主犯だった
石田三成、福島正則、加藤清正じゃん。
こいつらが私見を捨て、協力していたら、家康も付け込めなかっただろう。
関ヶ原合戦でさえ起きてないよ。
まー秀吉でしょ秀次が生きてりゃ家康は手も出ない
秀吉が天下取った時点で滅亡決まり
豊臣秀吉と高台院でFA。
二人に子供がいなかったから。
豊臣家の数少ない身内である秀次一家を虐殺したのは、豊臣家の転落の始まり。よって、主犯は秀吉自身だと思う。私は豊臣秀吉を一切評価してない。