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すいません、質問ですが、第三次ソロモン海戦の動画は、もうすぐ公開予定ですか?
脚本が、、、、、今週中を目指しています。
第三次ソロモンの動画を楽しみにしています^^よろしくお願いします
●作者さん、ルンガ沖夜戦の動画作成に関しての補足ですが、沈没した駆逐艦「高波」の生存率です。艦長の小倉正身中佐は高波艦橋で指揮中、1番砲塔被弾時の弾片と爆風により重傷を負った。そして、艦橋から運びだされたのち戦死した。]。高波乗員のうち211名が戦死した。生存者は33名です(准士官以上4名、下士官兵29名)はガダルカナル島へ泳ぎ着いた]。
@@yugureyamanaka2730 ありがとうございます!参考にさせていただきます。
駆逐艦「高波」の生存者の話ですが、ルンガ沖夜戦で、袋叩きの末に航行不能となった駆逐艦「高波」から生還した航海長の江田高一(高波航海長)は『敵からの砲弾が高波に集中したとき、息ができないほどだった』と回想している。
●作者様、今後の動画制作で、昭和18年1月に発生したレンネル島沖海戦も検討してみてください。檜貝 嚢治(ひがい じょうじ)少佐が活躍した海戦です。檜貝 嚢治(ひがい じょうじ)少佐は、太平洋戦争時における爆撃機の名パイロットで霞空飛行隊長や701空飛行長を歴任。檜貝式爆撃法を生み出し、ガダルカナル島夜間爆撃等を指揮した。七〇五空飛行長の三原元一少佐とともに陸攻隊の双璧といわれた。 昭和18年1月のレンネル島沖海戦において被弾後に敵艦へ突撃したと言われる。戦死後の2階級特進で最終階級は海軍大佐です。
檜貝少佐は、1941年(昭和16年)11月、霞空飛行隊長、1942年(昭和17年)12月、701空飛行長としてラバウルに赴任した。 その飛行技術は全軍から称えられるまでになり、檜貝式爆撃法を生み出し、ガダルカナル島夜間爆撃を指揮した。 1943年(昭和18年)1月19日、九六式陸上攻撃機に搭乗してレンネル島沖海戦に参加、撃墜され戦死した。檜貝の戦死を聞いた軍令部のある参謀は「少佐を失ったことは、戦艦『陸奥』が沈んだよりも、もっと痛手だ」と嘆いたという。檜貝の死はしかし、ガダルカナル島の陸兵救出の突破口を切り開いた。檜貝の戦死は暫く秘されていたが、1944年(昭和19年)5月29日に全軍に告知され、二階級特進して海軍大佐に任ぜられた。生まれ故郷の千葉県佐倉町では1945年(昭和20年)3月に町葬が行われた。 エピソード、美男子として知られていた。大湊海軍航空隊時代、檜貝の外出がわかると、付近の婦人達が一目見ようと待ち構えていたという。 檜貝は晩婚で、妻は岡部通陸軍少将の娘である。同時に山本五十六夫人の礼子には姪にあたり、山本は「檜貝は自分の姪には過ぎた男」とその結婚を喜んだといわれる。 当時の著名女優高峰三枝子の片思いの相手としても知られた。
分かりました♪
これは、リクエストなのですが●作者様、実は第3次ソロモン海戦の第1夜戦で撃沈された駆逐艦の暁 (吹雪型駆逐艦)については、全員死亡だと思っていた日本の海軍司令部に、海戦から、しばらく後に驚きの生存者情報がもたらされていたので、実は、死んだ人が生きていたエピソードとして、取り上げれたら検討してみてください。基礎情報から見た駆逐艦暁の生存率ですが、 吹雪型の駆逐艦でいうと(暁は吹雪型駆逐艦の21番目の艦になります)は、竣工時定員 207名です。暁の沈没後の1943年4月1日付で吹雪型の定員は 219名でした。●駆逐艦暁の生存者は、水泳が得意で超人的な体力で16時間漂流後にガダルカナル島の日本陸軍に救助された中津留 達雄(なかつるたつお)さんが有名です。他に、連合軍の捕虜となってニュージーランドの捕虜収容所に入った人が18人ほどいたと言われています。しかし、ニュージーランドの捕虜収容所で日本兵を殺傷する事態になる事件があって、捕虜生活で日本に帰国できた人は9人に激減しています。捕虜になった日本兵の身分階級情報は、捕虜収容所に入った後に確認された場合も多いです。実は、中津留 達雄(なかつるたつお)さんは、暁の沈没後に味方に救助されてから、日本本土で航空兵を志願して、航空部隊を指導する大尉にまでなっています。そして、作者さんが前に言われていた、終戦直後の宇垣さんの個人的な私兵特攻の時に、付き合わされてしまったのが、今回出てきた中津留 達雄大尉でした。●補足です。駆逐艦暁は、ニュージーランドの捕虜収容所での死亡者もいるので、太平洋戦争を生き延びた生存率は4パーセントくらいということになると思います。かなり低いです。●インターネットで、フェザーストン事件で検索すると出てきます。
@@yugureyamanaka2730 ありがとうございます!生存者がいたんですね。
補足に成ります。フェザーストン捕虜収容所は、ニュージーランドの首都ウェリントンから北東に約60km、国道2号線(英語版)を車で約50分の距離にあるフェザーストン(英語版)(Featherston)郊外に存在した捕虜収容所である。1942年9月にアメリカ合衆国からの要請でガダルカナル戦の捕虜約800人を収容するために捕虜収容所が設置された。1942年(昭和17年)11月中旬の時点で、フェザーストン捕虜収容所には不時着した航空機搭乗員の生存者、フロリダ諸島の戦いや一木支隊の生存者など陸海両軍合わせて300名あまりの捕虜が収容されていたが、300名のうち戦闘員は30名ほどで他は非戦闘員の軍属である海軍設営隊員であった。 捕虜の中には偽名を使うものも多く、赤穂四十七士の名をかたる一団もいた。 中立国のスイス領事と国際赤十字の代表が。昭和17年の12月中句にフェザーストン収容所を視察しており、捕虜の待遇は良好と日本側に通告している。同報告書には「捕虜には自国への通信は認められているが、捕虜たちはそれを拒絶している」とあった。●昭和17年の11月下旬に、少し前の10月11日のサボ島沖海戦で沈没した重巡洋艦「古鷹」や駆逐艦「吹雪」の生存者180名(約100名とも)がフェザーストン捕虜収容所に入所した。このグループは、古鷹の三番砲塔砲台長の安達敏夫少尉に率いられていて、後に「古鷹グループ」と呼ばれるようになる。翌1943年(昭和18年)2月中旬には、前年の昭和17年の第三次ソロモン海戦やその後の鼠輸送での沈没艦(駆逐艦の暁や、照月など)の生存者やガダルカナル島の戦いで捕虜になった陸軍将兵が入所し、フェザーストン捕虜収容所に入所した捕虜は、戦闘員約280名と設営隊員約270名の合計約550名となった。●発生した死亡事件の契機フェザーストン捕虜収容所では、捕虜たちは収容所内での作業の他に1週間に1回程度、道路清掃や芝生刈りなどの作業に動員されたが、捕虜たちは戦地で患った栄養失調やマラリアから完全に回復しておらず、1日の作業に出せる人数は30名が限度であった。とはいえ、収容所における捕虜の取り扱いは決して悪いものではなく、傷病兵は手厚い看護を受け、収容所所長も捕虜たちから「親日的」という評判であった。●しかし、昭和18年の2月中旬に収容所所長が交代し、新たな所長として陸軍中佐が赴任してきた。この陸軍中佐の印象について、駆逐艦「暁」の生存者である水雷長「新屋徳治」中尉は、 「すらっとした、細身の、口数の少ない、冷たい感じの、いかにも英国紳士の一典型といった人物であった」と自身の回顧録で述べている。昭和18年の2月24日、収容所側はニュージーランド軍の警備兵の運動場造成工事のために50名の人員を出すように捕虜たちに要求した。この要求に対して、捕虜側は前述の事情で作業に出せるのは30名が限度であり、更に作業内容がニュージーランド軍の運動場造成工事ということで、敵の運動場を作るのは「利敵行為」であるとして憤慨した(軍の運動場造成の行為自体はジュネーブ条約の捕虜の労働規定には抵触せず)。前回の事件では穏健派であった安達少尉もこの要求には憤慨し、先頭に立ってニュージーランド軍と交渉したものの、収容所側は作業人員の減少について譲歩せず、交渉は決裂した。事件の経過●翌2月25日朝、安達少尉を先頭に280名の捕虜全員が広場に集まって座り込んだ。この座り込みの際に、安達少尉は「いかなる場合も軽挙妄動することなく、一糸乱れぬ行動をとれ」と厳命している。この状況を見たニュージーランド軍は、中尉を指揮官とした完全武装の50名を派遣した。指揮官はただちに50名の作業員を出すよう要求したが、安達少尉は断乎として拒否したため、ニュージーランド軍の指揮官は安達少尉の連行を命じた。しかし、「古鷹グループ」のメンバーが体を張って阻止したため、ニュージーランド兵は安達少尉の連行を諦めざるをえなかった。安達少尉の連行に失敗したニュージーランド兵たちは、捕虜たちの前方で横一列となり、銃を構えつつ捕虜たちに向かってきた。この時、ニュージーランド軍指揮官が威嚇のためにピストルを取り出し、それに対して安達少尉は自分の胸を叩きながら「撃つなら、おれを撃て」と叫んだ。その直後、捕虜たちは持っていた石をニュージーランド兵に向かって投げると同時に素手で突進を始め、ニュージーランド兵も捕虜たちに対して小銃や軽機関銃で応戦した。その結果48人の捕虜が死亡(31人が即死)、68人が負傷した。負傷者の中には安達少尉も含まれていて、頭、左腕、脇腹、腕の4ヶ所を撃たれ、一時意識不明の重体に陥った。ニュージーランド側ではウォルター・ペルビン二等兵が跳弾により死亡したほか、18人が負傷した。●●事件後に事件を重く見たニュージーランド軍は、ただちに所長を更迭し、、前任の前の所長を呼び戻した。死亡した捕虜に対しては現地で通夜が営まれ、生き残った捕虜の代表者が参列した。しかしその遺骨については、帰還兵と共に日本に返却されたとされるが、実際の遺骨の行方ははっきりしない。死亡者の名簿はスイス領事を通じて日本政府へ渡されたが、多くは戦死者として処理済みであり、既に葬儀もすませていた。そのため遺族に知らされることは無かった。氏名や所属部隊を偽る者が多かったので身元が確定できない者も多かった。その後もフェザーストン捕虜収容所には捕虜が移送され、終戦後まで運用されたが、生き残った捕虜は1945年(昭和20年)12月30日に米軍の戦車揚陸艦 (LST) で日本に復員した。戦後のフェザーストン事件慰霊碑戦後になり、生き残った元捕虜たちはフェザーストン市街地から国道2号線で北東に約2kmの公園に慰霊碑を建てた。この慰霊碑にはそれぞれ「鎮魂」、「夏草やつはものどもが夢の跡」と書かれた銅板プレートが埋め込まれている。また元捕虜たちは、事件の際に親身になって心配してくれたニュージーランド軍の通訳を日本に招待している。
上空から見た空母のイラスト設計図も興味深いですね。上空から見ると米空母と日本空母の違いが理解しやすいですね。でも、珊瑚海戦では、夜間攻撃の日本の航空機が、夜間の米空母に間違って着陸しそうになって、急激離脱してますね。
そうでしたね、
ショート動画は、アクセス数が艦艇ごとに、10倍くらい差がつく場合もあるので、そういう部分も興味深いですね。飛龍は、やはり、人気がありますね。
@@yugureyamanaka2730 竜驤がすごいですよね。どうやると人気がでると考えるのは、会社経営みたいで楽しいですO(≧∇≦)o
@@yugureyamanaka2730 質問ですが、学校の教科書の嘘を暴くみたいなのって、みたいですか?例えば、今日学校でGHQは日本を民主化したって言われましたけれど、あれは、嘘ですからね。農地解放だとか財産権の侵害だと思うんですけれどもね。まぁ、意見を聞かせてください。
作者さん、私の意見では、徳川幕府も大日本帝国も、優秀な人材を戦死や左遷させたりしたのが衰退の理由だった気がします。GHQについては、実は統治の前期は侵略統治目的でしたが、GHQの統治の後期は、マッカーサーが日本に好意的な人間に豹変したおかげで、良い部分もあった気がします。なので、GHQは、気まぐれな侵略者と定義づけれるのではないでしょうか?作者さんは、マッカーサーの日本人に対する意識が、どう変化したのを、おっかけると、動画にしやすいと思います。例えば、マッカーサーの人生から見る日本の歴史1、2,3、4、とかにしたらどうでしょうか?●日本人というのは歴史的に、権力者が、中間層を没落させるようなミスを連発しています。作者さんも時代劇で出てくるような両替商とかが、明治時代に消えたのは不思議に思われていると思います。理由は、両替商から近代の銀行に模様替えに失敗した商人が多かったのもありますが、明治政府が戊辰戦争の戦費を両替商から強制徴収したのも理由です。●本当に、マッカーサーは調べると若い時や中年時代は悪人です、しかし、日本統治の最中に、自分の行ってきた罪悪について考え始めた部分があります。農地解放については、明治新政府の松方デフレで、没落した中規模地主がいたので、明治新政府にも責任がありますね。満州開拓は、小作人が自分の土地を手に入れるチャンスでした。しかし、満州の人々からは恨まれました。考えると、明治新政府には、お金に汚いメンバーもいたので、それも、日本にとって不幸だったような気がします。大日本帝国の政策ミスの1つが電力統制令です。これは、関東にも関西にも電力会社は1個にする命令です。これは、ヒトラーでもしなかった馬鹿な政策でした、これによって、鉄道会社は発電設備を奪われてしまいます。地方自治体の電力会社も資材を没収されました。東京電力は、大日本帝国の電力設備没収にとって誕生した人工的な巨大企業です。
いつも観てるぞ!頑張れ!
ありがとう
すいません、質問ですが、第三次ソロモン海戦の動画は、もうすぐ公開予定ですか?
脚本が、、、、、
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●作者さん、ルンガ沖夜戦の動画作成に関しての補足ですが、沈没した駆逐艦「高波」の生存率です。艦長の小倉正身中佐は高波艦橋で指揮中、1番砲塔被弾時の弾片と爆風により重傷を負った。そして、艦橋から運びだされたのち戦死した。]。高波乗員のうち211名が戦死した。生存者は33名です(准士官以上4名、下士官兵29名)はガダルカナル島へ泳ぎ着いた]。
@@yugureyamanaka2730 ありがとうございます!
参考にさせていただきます。
駆逐艦「高波」の生存者の話ですが、ルンガ沖夜戦で、袋叩きの末に航行不能となった駆逐艦「高波」から生還した航海長の江田高一(高波航海長)は『敵からの砲弾が高波に集中したとき、息ができないほどだった』と回想している。
●作者様、今後の動画制作で、昭和18年1月に発生したレンネル島沖海戦も検討してみてください。檜貝 嚢治(ひがい じょうじ)少佐が活躍した海戦です。檜貝 嚢治(ひがい じょうじ)少佐は、太平洋戦争時における爆撃機の名パイロットで霞空飛行隊長や701空飛行長を歴任。檜貝式爆撃法を生み出し、ガダルカナル島夜間爆撃等を指揮した。七〇五空飛行長の三原元一少佐とともに陸攻隊の双璧といわれた。 昭和18年1月のレンネル島沖海戦において被弾後に敵艦へ突撃したと言われる。戦死後の2階級特進で最終階級は海軍大佐です。
檜貝少佐は、1941年(昭和16年)11月、霞空飛行隊長、1942年(昭和17年)12月、701空飛行長としてラバウルに赴任した。 その飛行技術は全軍から称えられるまでになり、檜貝式爆撃法を生み出し、ガダルカナル島夜間爆撃を指揮した。 1943年(昭和18年)1月19日、九六式陸上攻撃機に搭乗してレンネル島沖海戦に参加、撃墜され戦死した。檜貝の戦死を聞いた軍令部のある参謀は「少佐を失ったことは、戦艦『陸奥』が沈んだよりも、もっと痛手だ」と嘆いたという。檜貝の死はしかし、ガダルカナル島の陸兵救出の突破口を切り開いた。檜貝の戦死は暫く秘されていたが、1944年(昭和19年)5月29日に全軍に告知され、二階級特進して海軍大佐に任ぜられた。生まれ故郷の千葉県佐倉町では1945年(昭和20年)3月に町葬が行われた。
エピソード、美男子として知られていた。大湊海軍航空隊時代、檜貝の外出がわかると、付近の婦人達が一目見ようと待ち構えていたという。 檜貝は晩婚で、妻は岡部通陸軍少将の娘である。同時に山本五十六夫人の礼子には姪にあたり、山本は「檜貝は自分の姪には過ぎた男」とその結婚を喜んだといわれる。 当時の著名女優高峰三枝子の片思いの相手としても知られた。
分かりました♪
これは、リクエストなのですが●作者様、実は第3次ソロモン海戦の第1夜戦で撃沈された駆逐艦の暁 (吹雪型駆逐艦)については、全員死亡だと思っていた日本の海軍司令部に、海戦から、しばらく後に驚きの生存者情報がもたらされていたので、実は、死んだ人が生きていたエピソードとして、取り上げれたら検討してみてください。基礎情報から見た駆逐艦暁の生存率ですが、 吹雪型の駆逐艦でいうと(暁は吹雪型駆逐艦の21番目の艦になります)は、竣工時定員 207名です。暁の沈没後の1943年4月1日付で吹雪型の定員は 219名でした。●駆逐艦暁の生存者は、水泳が得意で超人的な体力で16時間漂流後にガダルカナル島の日本陸軍に救助された中津留 達雄(なかつるたつお)さんが有名です。他に、連合軍の捕虜となってニュージーランドの捕虜収容所に入った人が18人ほどいたと言われています。しかし、ニュージーランドの捕虜収容所で日本兵を殺傷する事態になる事件があって、捕虜生活で日本に帰国できた人は9人に激減しています。捕虜になった日本兵の身分階級情報は、捕虜収容所に入った後に確認された場合も多いです。実は、中津留 達雄(なかつるたつお)さんは、暁の沈没後に味方に救助されてから、日本本土で航空兵を志願して、航空部隊を指導する大尉にまでなっています。そして、作者さんが前に言われていた、終戦直後の宇垣さんの個人的な私兵特攻の時に、付き合わされてしまったのが、今回出てきた中津留 達雄大尉でした。
●補足です。駆逐艦暁は、ニュージーランドの捕虜収容所での死亡者もいるので、太平洋戦争を生き延びた生存率は4パーセントくらいということになると思います。かなり低いです。●インターネットで、フェザーストン事件で検索すると出てきます。
@@yugureyamanaka2730 ありがとうございます!
生存者がいたんですね。
補足に成ります。フェザーストン捕虜収容所は、ニュージーランドの首都ウェリントンから北東に約60km、国道2号線(英語版)を車で約50分の距離にあるフェザーストン(英語版)(Featherston)郊外に存在した捕虜収容所である。1942年9月にアメリカ合衆国からの要請でガダルカナル戦の捕虜約800人を収容するために捕虜収容所が設置された。
1942年(昭和17年)11月中旬の時点で、フェザーストン捕虜収容所には不時着した航空機搭乗員の生存者、フロリダ諸島の戦いや一木支隊の生存者など陸海両軍合わせて300名あまりの捕虜が収容されていたが、300名のうち戦闘員は30名ほどで他は非戦闘員の軍属である海軍設営隊員であった。 捕虜の中には偽名を使うものも多く、赤穂四十七士の名をかたる一団もいた。 中立国のスイス領事と国際赤十字の代表が。昭和17年の12月中句にフェザーストン収容所を視察しており、捕虜の待遇は良好と日本側に通告している。同報告書には「捕虜には自国への通信は認められているが、捕虜たちはそれを拒絶している」とあった。
●昭和17年の11月下旬に、少し前の10月11日のサボ島沖海戦で沈没した重巡洋艦「古鷹」や駆逐艦「吹雪」の生存者180名(約100名とも)がフェザーストン捕虜収容所に入所した。このグループは、古鷹の三番砲塔砲台長の安達敏夫少尉に率いられていて、後に「古鷹グループ」と呼ばれるようになる。翌1943年(昭和18年)2月中旬には、前年の昭和17年の第三次ソロモン海戦やその後の鼠輸送での沈没艦(駆逐艦の暁や、照月など)の生存者やガダルカナル島の戦いで捕虜になった陸軍将兵が入所し、フェザーストン捕虜収容所に入所した捕虜は、戦闘員約280名と設営隊員約270名の合計約550名となった。
●発生した死亡事件の契機
フェザーストン捕虜収容所では、捕虜たちは収容所内での作業の他に1週間に1回程度、道路清掃や芝生刈りなどの作業に動員されたが、捕虜たちは戦地で患った栄養失調やマラリアから完全に回復しておらず、1日の作業に出せる人数は30名が限度であった。とはいえ、収容所における捕虜の取り扱いは決して悪いものではなく、傷病兵は手厚い看護を受け、収容所所長も捕虜たちから「親日的」という評判であった。
●しかし、昭和18年の2月中旬に収容所所長が交代し、新たな所長として陸軍中佐が赴任してきた。この陸軍中佐の印象について、駆逐艦「暁」の生存者である水雷長「新屋徳治」中尉は、 「すらっとした、細身の、口数の少ない、冷たい感じの、いかにも英国紳士の一典型といった人物であった」と自身の回顧録で述べている。
昭和18年の2月24日、収容所側はニュージーランド軍の警備兵の運動場造成工事のために50名の人員を出すように捕虜たちに要求した。この要求に対して、捕虜側は前述の事情で作業に出せるのは30名が限度であり、更に作業内容がニュージーランド軍の運動場造成工事ということで、敵の運動場を作るのは「利敵行為」であるとして憤慨した(軍の運動場造成の行為自体はジュネーブ条約の捕虜の労働規定には抵触せず)。前回の事件では穏健派であった安達少尉もこの要求には憤慨し、先頭に立ってニュージーランド軍と交渉したものの、収容所側は作業人員の減少について譲歩せず、交渉は決裂した。
事件の経過●翌2月25日朝、安達少尉を先頭に280名の捕虜全員が広場に集まって座り込んだ。この座り込みの際に、安達少尉は「いかなる場合も軽挙妄動することなく、一糸乱れぬ行動をとれ」と厳命している。
この状況を見たニュージーランド軍は、中尉を指揮官とした完全武装の50名を派遣した。指揮官はただちに50名の作業員を出すよう要求したが、安達少尉は断乎として拒否したため、ニュージーランド軍の指揮官は安達少尉の連行を命じた。しかし、「古鷹グループ」のメンバーが体を張って阻止したため、ニュージーランド兵は安達少尉の連行を諦めざるをえなかった。安達少尉の連行に失敗したニュージーランド兵たちは、捕虜たちの前方で横一列となり、銃を構えつつ捕虜たちに向かってきた。この時、ニュージーランド軍指揮官が威嚇のためにピストルを取り出し、それに対して安達少尉は自分の胸を叩きながら「撃つなら、おれを撃て」と叫んだ。その直後、捕虜たちは持っていた石をニュージーランド兵に向かって投げると同時に素手で突進を始め、ニュージーランド兵も捕虜たちに対して小銃や軽機関銃で応戦した。
その結果48人の捕虜が死亡(31人が即死)、68人が負傷した。負傷者の中には安達少尉も含まれていて、頭、左腕、脇腹、腕の4ヶ所を撃たれ、一時意識不明の重体に陥った。ニュージーランド側ではウォルター・ペルビン二等兵が跳弾により死亡したほか、18人が負傷した。●●事件後に事件を重く見たニュージーランド軍は、ただちに所長を更迭し、、前任の前の所長を呼び戻した。
死亡した捕虜に対しては現地で通夜が営まれ、生き残った捕虜の代表者が参列した。しかしその遺骨については、帰還兵と共に日本に返却されたとされるが、実際の遺骨の行方ははっきりしない。死亡者の名簿はスイス領事を通じて日本政府へ渡されたが、多くは戦死者として処理済みであり、既に葬儀もすませていた。そのため遺族に知らされることは無かった。氏名や所属部隊を偽る者が多かったので身元が確定できない者も多かった。その後もフェザーストン捕虜収容所には捕虜が移送され、終戦後まで運用されたが、生き残った捕虜は1945年(昭和20年)12月30日に米軍の戦車揚陸艦 (LST) で日本に復員した。戦後のフェザーストン事件慰霊碑
戦後になり、生き残った元捕虜たちはフェザーストン市街地から国道2号線で北東に約2kmの公園に慰霊碑を建てた。この慰霊碑にはそれぞれ「鎮魂」、「夏草やつはものどもが夢の跡」と書かれた銅板プレートが埋め込まれている。また元捕虜たちは、事件の際に親身になって心配してくれたニュージーランド軍の通訳を日本に招待している。
上空から見た空母のイラスト設計図も興味深いですね。上空から見ると米空母と日本空母の違いが理解しやすいですね。でも、珊瑚海戦では、夜間攻撃の日本の航空機が、夜間の米空母に間違って着陸しそうになって、急激離脱してますね。
そうでしたね、
ショート動画は、アクセス数が艦艇ごとに、10倍くらい差がつく場合もあるので、そういう部分も興味深いですね。
飛龍は、やはり、人気がありますね。
@@yugureyamanaka2730 竜驤がすごいですよね。
どうやると人気がでると考えるのは、
会社経営みたいで楽しいですO(≧∇≦)o
@@yugureyamanaka2730 質問ですが、学校の教科書の嘘を暴くみたいなのって、
みたいですか?例えば、今日学校でGHQは日本を民主化したって言われましたけれど、
あれは、嘘ですからね。農地解放だとか財産権の侵害だと思うんですけれどもね。
まぁ、意見を聞かせてください。
作者さん、私の意見では、徳川幕府も大日本帝国も、優秀な人材を戦死や左遷させたりしたのが衰退の理由だった気がします。GHQについては、実は統治の前期は侵略統治目的でしたが、GHQの統治の後期は、マッカーサーが日本に好意的な人間に豹変したおかげで、良い部分もあった気がします。なので、GHQは、気まぐれな侵略者と定義づけれるのではないでしょうか?作者さんは、マッカーサーの日本人に対する意識が、どう変化したのを、おっかけると、動画にしやすいと思います。例えば、マッカーサーの人生から見る日本の歴史1、2,3、4、とかにしたらどうでしょうか?
●日本人というのは歴史的に、権力者が、中間層を没落させるようなミスを連発しています。作者さんも時代劇で出てくるような両替商とかが、明治時代に消えたのは不思議に思われていると思います。理由は、両替商から近代の銀行に模様替えに失敗した商人が多かったのもありますが、明治政府が戊辰戦争の戦費を両替商から強制徴収したのも理由です。
●本当に、マッカーサーは調べると若い時や中年時代は悪人です、しかし、日本統治の最中に、自分の行ってきた罪悪について考え始めた部分があります。農地解放については、明治新政府の松方デフレで、没落した中規模地主がいたので、明治新政府にも責任がありますね。満州開拓は、小作人が自分の土地を手に入れるチャンスでした。しかし、満州の人々からは恨まれました。考えると、明治新政府には、お金に汚いメンバーもいたので、それも、日本にとって不幸だったような気がします。大日本帝国の政策ミスの1つが電力統制令です。これは、関東にも関西にも電力会社は1個にする命令です。これは、ヒトラーでもしなかった馬鹿な政策でした、これによって、鉄道会社は発電設備を奪われてしまいます。地方自治体の電力会社も資材を没収されました。東京電力は、大日本帝国の電力設備没収にとって誕生した人工的な巨大企業です。