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5:16 長い国鉄貨物列車を牽く D50 通称デゴマル 迫力を感じられます
KEKYU600さん、ご視聴頂きありがとうございます。あれは北陸本線のデッドセクションですね。ほんの短い距離の運用でしたが、北陸本線ですから長いですね。
貴重な写真をたくさん見れて面白かったです。D50は私も好きです😃
ミークン、ご視聴いただきありがとうございます。D50好きです。でも先日梅小路行って、一カットも写真も動画も撮っていなかったのには少し驚きました。C11とD50そしてナメクジはいつも素通りです。
D50の貴重な写真アップありがとうございます。D50も性能良かったので昭和になってもそのまま生産でしたから、大恐慌さえなければ継続生産で1000両くらい作られたかもしれませんね。
Mr. Yattsunさん、いつもご視聴頂きありがとうございます。おっしゃる通りかもしれませんね。懸念点と言えば全長が長いのでターンテーブルに入れないところがあった程度ではないでしょうか。
D50 140号機、懐かしいです。筑豊本線で良く走ってました。私も走行中や直方機関区で写真撮っていると思います。もしかしたらナンバープレートの拓本も採っているかも知れません。が、覚えてないです😅近々、57年ぶりに倉庫から拓本を出して見てみます(変色してなかったら良いですが・・)拓本を採った和紙の裏には採取した場所と日付が書いてますので大事にしたいと思います。
green-lineさん、ご視聴頂きありがとうございます。関西方面って拓本とる人多かった記憶あるのですがどうなんでしょう。盛大にさよなら運転やって、現役に逆戻りって楽しいですね。185系も似てますね。
@@Yukkuri-Lab 昔、当時は拓本を採られてる方は余り見かけなかったと記憶がありますが・・時々、見かけるぐらいでした。
私は亀山で何人もやっているのを見て驚いたことがあります。始めた見たもので。
カッコイイなぁ〜、古さを全く感じないね
0721さん、いつもご視聴頂きありがとうございます。そうですよね!D50は古臭くないスタイルで良いですね。リベットがベリベリに打たれていてそれも良いです。
そこがカッコ良さをマシマシにしてるのかもしれないね〜
D50のカラー化した全国の写真を見る事が出来て良かったです。自分の知らない時代なので興味深かったです。D50現役を見たのは筑豊の90,140だけです。
ご視聴いただきありがとうございます。筑豊でD50でないとまずいは路線があったとも思えず、D60と同じ運用していたのは面白いです。色々な場所で使えてD60はよく出来た機関車だと思います。
当時、D51はD50をコンパクトにしたと言うイメージで見ていました。筑豊では急行貨物や、逆行運用に50や60を多用していた記憶が。
堺さん、ご視聴頂きありがとうございます。ターンテーブルの活用のため全長がD51は少々短くなっています。筑豊では数が多いD60の方が長く活躍していましたし、逆行運転の場合2軸従台車のおかげで安定していたようです。
お疲れ様です。D50形は独特な雰囲気があってカッコ良いですね。デフ有りも良いですが、デフ無し仕様もカッコ良いです。まさか種車のD50がたった2台しか保存されずに改造機関車のD60がより多く保存されているのは少し複雑です…☹️
荻野さん、D50もご視聴ありがとうございます。9900の搭乗時はデフは無く、連結器も旧型で大正だなぁと感じさせるものですが、デフが付いていきなりいかつい強力な機関車に見えます。
北海道で9999号機が新生配属された時は「死・苦」を割り当てるのかと文句があったが、形式改正でD50100とキリ番になり喜んだとか
Homare Jumo213さん、ご視聴頂きありがとうございます。それ面白い話ですね!
お疲れ様です。今回のデゴマル動画配信、楽しく視聴させて頂きました。ありがとうございます。ずんぐりむっくりのドッシリした形は、如何にも…貨物機の貫禄ですよね。先日、梅小路のデゴマルが転車台に乗る晴れ舞台だったので、140号機も喜んでいたと、思います。話が変わりますけど、九州の若松駅前に静態保存の19633号機が解体されてしまいました。残念です。次回の動画配信を楽しみにしています。
河野孝さん、いつもご支援ご視聴頂きありがとうございます。プロフの写真ですね!そうなんですよ、先日C11が外に出ていましたが、月替わりで外に出してくれると遠くからも見に来てくれると思います。19633は中間の駅でじっくり撮影したのでよく覚えてます。去った後石炭がホームに会って持ち帰って燃やして香りを楽しみました。そうですか解体。パイプ煙突であまり可愛くなかったですが、残念ですね。
D50は筑豊でセラ、セムをゾロゾロ...のイメージ。と、後輩のD51に比べて間延びしたキャブ、真空ブレーキから自動空気ブレーキに改造したので、配管がやや煩いところ、前端エプロンに配置された暖め器が旧海軍の救命胴衣を連想させるので、あまり好きではないカマなんです。ゴメンナサイヌ200暖房車だー! 碓氷専用の国鉄最後の2軸客車、超貴重な一枚。今回も良いものを拝見させて頂きありがとうございます。
いあさん、ご視聴頂きありがとうございます。私はメカメカした姿が好きなんですよね。車のエンジン、特にバイクとか好きなのは蒸気機関車からきているのかもしれません。ヌ200って2軸だったんですね。知りませんでした。
817系と8620形。さよならSL人吉号鳥栖駅のワンシーン。原田駅にもD60形やD51形が冷水峠超えに待避していた。
大坂さん、いつもご視聴ありがとうございました。確かD50-140が復活した際、雑誌で見れるチャンスが減るので、D50見たい時は直方と折尾の間で待っているべしとありました。
@@Yukkuri-Lab さん、梅小路定規機関車館(京都鉄道博物館)開館前に一度直方機関区に帰ってきて、石炭列車を牽引したが、梅小路機関区に帰ってきた時は、かなり汚れていました。
梅小路に行くまで時間なかったはずですが、だれが綺麗にしたのかな?
@@Yukkuri-Lab さん、多分直方機関区の検査員。
デゴマルというと、丹那トンネルの開通の遅れから御殿場線経由の優等列車の補機が必要となり、D50を入線させるために軌道強化を行ったというまた、関ヶ原越えではC53の速度に合わせて走ったという逸話もありましたな
電光刑事 さん、いつもご視聴頂きありがとうございます。ところで、私はデゴマルとかデコマルって言ったことないですね。デゴイチ、シロクニ、キュウロク、ハチロク、シゴハチ、シゴナナだけですね。それ以外はしーごじゅうご、しーろくじゅう、しーごじゅうきゅうにって言ってました。
御殿場線補機と言えばマレー機9750~9850が活躍の場だったけどD50の登場で全機、廃止…
交通博物館にあったやつですね。
2:34 80系湘南電車はおそらく唯一京都鉄道博物館に保存されていますね貴重な湘南顔の2枚窓が残っているのは少数ですね
梅小路にありますね。でも湘南型の電車ってあまりに普通の風景なので、あまり興味が湧きません。
えっ?D50 140号機が扇形庫の中から出てくることがあるんだ?と思ってしまいましたが、魔理沙の強力なプッシュで梅小路の方が押し切られてしまったんでしょうか(笑)まだまだ本州で多くのD50が生き残っていた頃のカラー化写真を多数、ありがとうございます。それにしても、D50は9600はもちろん、C51と比べてもデカかったんだなぁという印象です。D50をシェイプアップさせて地方線区へ入れる機関車D51を開発するのも苦労なら、D50をグレードアップさせて最重要幹線の輸送力を強化する機関車D52を開発するのも並々ならぬことだったのが伝わってきます。
成田さん、いつもご支援ご視聴頂きありがとうございます。140号機の煙室戸の取輪が十文字に替えているのは梅小路仕様です。さよなら運転までは一文字でした。筑豊に京都から呼び戻されてた後の姿です。私はとても嬉しかったです。
京都鉄道博物館に保存されているD50140号機は、廃車まで筑豊本線直方機関区を離れることが無い九州のカマー。筑豊炭田の石炭列車を若松や田川後藤寺などに運び、冷水峠超えの補機まで勤めた。筑豊本線無煙化後は、キハ66・67形やキハ200系などで篠栗線と連結運用されて、平成13年の電化で817系が運行開始した。現在福北ゆたか線として、黒崎・折尾ー直方・飯塚ー篠栗・博多間と折尾ー若松間の若松線、桂川ー原田間の原田線に筑豊本線は分類されている。折尾ー若松間はDENCHA819系蓄電池車が導入されて、蓄電池電化で運行されている。原田線はキハ40系がわずか6往復での運行。格差は激しくなった。
先日50年ぶりに九州で撮り鉄しましたが、大牟田の近辺は面影ありました。折尾や直方はどうでしょうね。
@@Yukkuri-Lab さん、篠栗線と筑豊本線は電化されて、交流近郊形電車🚉の溜まり場に変化しました。ドアが黒で銀塗装車が篠栗線と筑豊本線の車両です。
電化されていないところが良いですねぇ。
@@Yukkuri-Lab さん、田川後藤寺線。
D50は貨物機ながらデザインに曲線が多く用いられ優美なカマですねこのカマの事で一番に印象に有るのは、特急つばめの補機運用ですこのカマの生涯で一番の花形運用かと思います。
デカミツさん、いつもご視聴ありがとうございました。箱根では、結局燕はC53か補機になったんでしょうか?D50のまま?瀬野八にも行ってますが、C52と共通に使われていたのでしょうか?
偉大なる先代機関車ですね。ただ大きすぎて特に曲線での脱線が頻発。脱線居士と呼ばれさらに9900=脱線と同義扱いされ9900居士と呼ばれては入線する線路すべてを軌道強化するコストをかけなければD50の生産継続は難しかったと思います。D60も丙線でやらかし軌道強化で余計な出費がかかり改造中止ちなみに特急の補機についていく機関車はあったもの、大多数はついていけず逆に引っ張られて本務機からアテにされていなかったオチがあります
井今さん、ご視聴ありがとうございます。ターンテーブルの使用に難があり、D51は全長を詰めました。そういえば磐越東線はD51は入れずD60のまま。橋梁や曲線もあるのでしょうが、線路の容量って複雑ですね。
確か北海道の北見市に25号機が保存されてたな…今はわからんが以前動画を見た時はかなり状態は良好だったな
ご視聴いただきありがとうございます。400両近く作られたのに、D60含め保存機少ないのは、ブームに乗り遅れたためですかね。梅小路でも厄介者みたいで可哀想。なんかプロモーション考えてあげたい。
個人的にはD51よりD50の方が好きなんですがねぇ…やっぱD51が陽キャすぎてD50が影に隠れちゃってるんですかね
梅小路は最初は火が入っていました。最近はすねてすみっこ暮らしですね。
貨物イベントで最近ちょっと出てきたけど…それでもやっぱり日陰者ですしねぇ…
D52が出てきちゃうとそうですね。
昭和の始めの築港機関区の写真でD508と9200(恐らく)が一緒に写ってた。(当時の新旧車輌ですね、若番が配置されていたんだなぁ~😂)
小樽築港機関区さん、いつもご支援ご視聴頂きありがとうございます。そんな写真があったんですね。ところでC623がDLに押されて苗穂を走ったそうですね。シュカシュカ音立ててました。
@@Yukkuri-Labさん、そのC623ですが、短い期間ですが、現役時代(?)にデフに北海道マークを付けていた事が...😂
はい、どなたかのブログで見たことがあります。
D50形や1D2改造機D60と9600形が配属されていた直方機関区。煙は激しく、洗濯物が真っ黒になったほど煙害が酷かった。現在直方車両センターとなって、篠栗線と筑豊本線(福北ゆたか線・若松線・原田線)と田川後藤寺線のキハ40形とキハ47形、817系と813系とDENCHA819系蓄電池車が配属されている。いずれも、ワンマン運転。
大坂さん、直方にはターンテーブルが機関区のとは別に残ってますね。使えるのかな?
@@Yukkuri-Lab さん、使用不能になったかな?
残存機が多かったのは勾配区間が多い中部地方の機関区かと思いましたが、関東の機関区だったのですね。勾配区間は優先的に電化されていったからかな?
ご視聴いただきありがとうございます。関東は当時の管理局ベースなので広いと言うのがトリックです。中部は稲沢に20両ぐらいいました。
D51よりも乗務員から評判がよかったと云われているD50。北海道編も楽しみにしております...
いつもご視聴いただきありがとうございます。D51を最初に嫌がったのは敦賀で、結局重油と集煙装置のD51で認知されたのですねをそうなると今度は蒸気のアガりかD50は悪いに変わり置き換えが進みました。
満鉄になんとD50機が形式500の名で存在していた。ただしD50そっくりだが実際は製造中で正式採用前のD50をベースにして動輪が一回り小形と意外はそっくりなので満州のデゴマルと呼ばれたそうだ、因みに本物のD50は1両だけ192号機が標準軌化されて大陸に渡ったという。
芋谷宏さん、ご視聴頂きありがとうございます。新京から吉林通って朝鮮に行く支線で使っていたそうですね。あの頃は9600、C51も多く中支に渡りました。
大好きなデゴマル(D50)いいね👍
プラレールアリエリループラインさん、ご視聴ありがとうございます。D50って格好も性能も優れていて好きです。
敦賀機関区ではD50が柳ヶ瀬や杉津越えに活躍していたが、トップナンバーを含めたナメクジD51が完成直後に配備され、D50は他機関区に転出して行った。しかし、ナメクジD51は軸重の重量配分が悪く空転が多発して峠越えに支障をきたす体たらくだった為に敦賀機関区員で嫌われ、D50は踏ん張りが効き峠越えには欠かせないD51なんて役たたずは要らん!D50を戻せ!と抗議運動にまでなりD51をD50に置き換える処置が行われた。
ご視聴いただきありがとうございます。その話は伝説になりました。でもオチがあって結局改良されたD51が増えてきて、重油や集煙装置で大きく改善できたらD50は古臭くなった様です。
@@Yukkuri-Lab 敦賀式集煙装置は有名ですね。北陸トンネル開通直前には、先頭にDF50次にD51の重連、編成の真ん中と最後尾に各一両のD51を連結した1000t貨物列車が、敦賀~今庄間の杉津越えに挑んでいたそうです。見てみたかった~ その区間の旧線跡と柳ヶ瀬ルートの道路は車にて走った事があります。北陸道の下り杉津PAが旧杉津駅跡の場所なので、大正天皇も楽しんだとされる風景を今も楽しめますよ。特に敦賀半島越しに太陽が沈む夕暮れ時はお奨めです。
その話には続きがあって、戦後すぐの頃になるとD51に慣れて実はD50より優秀だったとわかり一転してD50を拒みD51の配備を要求するようになっていったちなみにナメクジも蒸気の騰がりがいい分、D50よりマシと判明したようです
最近まで敦賀式と人吉の集煙装置は同じものだと思っていましたが、微妙に違うんですね。
実車とは関係ない話ですが、D51やD52はNゲージで見かけますがD50は見ないですね。幾らD51が売れるから再販してるけど何処かメーカーさんD50出ないかな。
勇太さん、ご視聴いただきありがとうございます。あれそうだったんですね。Nゲージ無いとは。やはりC59のようにブームが来る前に無くなり、皆さんのイメージに残らないんでしょうね。
D50と9600が真の名機紀勢本線でも使われたD50
猫山林鉄さん、ご視聴ありがとうございます。先に紀勢本線の特集をやった時D60が登場します。でも全然視聴率伸びなくて。。。
2:20 綺麗な機関車でも今はみじめな姿
びゅーんさん、ご視聴頂きありがとうございました。先ほど気になってWeb見ましたが、最悪の状態の静態保存機と紹介されていました。
@@Yukkuri-Lab 内陸にあるぶん海辺のオンボロ保存機と比べると幾分マシに思えるのですが、それでも塗装剥離と部品の欠損はいただけませんね
引取り手が現れると良いですね。
個人的にD50は設計主任である小河原藤吉技師がいたからこその名機だと思ってます。
ご視聴いただきありがとうございます。その後車両メーカーに転職し活躍されたのですね。
@@Yukkuri-Labさん朝倉技師や島秀雄と衝突して辞めたんですよね。
はい、そううかがっています。
梅小路で最も注目を浴びない機関車だなんてー😭私はD50やC51が大好きなのにー😭笑大正期に設計された機関車ってリベットが多用されていたりと無骨ながらも流麗というか、気品があるというか、昭和の名機たちとは違った色気があると思うんですよね。保存機が25と140の2機しかないのが残念です。 D50-140の庫外展示があったら、有給取って日帰り弾丸ツアーになってでも見に行きたいぐらいです!!
wideviewODORIKO.002さん、こちらもご視聴コメント頂きありがとうございます。D51-1、D50-140、C55-1その他いつも同じ番号の格納庫に深くしまい込まれていて、変化が無いのも人気が無く、みんな素通りの要因の一つでしょう。私もそれらの静態機が外に出るタイミングで出かけたいです。
D50は1軸先台車の心向き棒の設計が悪くて、後年強固なコロ式復元台車に交換することになりました。初期の先台車図面を見ると、これでは蛇行を抑えられないようにおもいます。
Masafumi Nakanoさん、ご視聴頂きありがとうございました。とにもかくにも、速度が出せる機関車だからネガも増幅されるのですね。
こいつが居たからD51の成功・大量生産に繋がったんですね。しかし95km/hって D51の85km/hよりも速いじゃないですか。軽井沢は 外国人が開拓。中軽井沢は西武が開拓。元々は『沓掛』駅だったんですよね。
とりりサービスさん、いつもご視聴頂きありがとうございます。ピストンが速く運動できるところが速度が出る理由で、たしかその後材質を重いものに変えて95㎞/h出なくなったとか記憶あります。西武はかつて軽井沢まで電車通したかったんですよ。
@@Yukkuri-Lab さまそうでしたか。昔も今も パーツや車体の軽量化は『チューニング』の基本ですが 逆に重くすれば壊れにくく 耐久性と信頼性が増すメリットもあり 蒸機などは 本機に限らず 後者を選ぶケースも多かったのでしょうね。西武は『西武秩父』から先 どんどん土地を買収したが それを全部繋げると『軽井沢』に達するという話 私も聞いた事があります。動画と全然関係ありませんが🙇こういう動画がありましたよ。th-cam.com/video/gGH1yiDgygo/w-d-xo.htmlsi=0jFpwbNEbEo3iZhB
今度西武嘘ニュース第2弾で、西武の軽井沢への野望をやろうと思います。
@@Yukkuri-Lab さま嘘ニュースに どういう形で蒸機が絡んでくるか楽しみです。貼り付けた動画の『95式軽戦車』や『くろがね四起』は どことなく蒸機に通ずる物を感じますね。
9900(D50)は1923(大正12)年誕生で当時の連結機は螺旋式だったはず。箱根の山越えが越えた時点で補機は連結を外すがあの複雑な螺旋式連結機を走行しながらどうやって外したのだろうか??
ご視聴いただきありがとうございます。補機ですから、ブレーキは結合する必要なく押すだけなので、そもそも連結していなかったのでは?と無責任に言ったので後で調べておきます。
螺旋連結器は機関車側のリンクのみ掛けておき縄を助手が引っ張って外す、補機が押していないと外れない、沼津までぶら下がりとなる本務機は御殿場駅を全力で力行するので切り離しはコツがいる
つばめ登場する前から走行中補機解放行われておりマレー機でもやっていた本務は18900なので鈍足のマレーでは必死だったと思います
私の世代ではD50は140しか知りません(鉄道ファンでの知識です^^)D60は九州でまだ活躍してたかと。蒸気の話になると、もう少し早く生まれていたら随分世界が違っていたんだろうな?といつも思います。4Kで蒸気の活躍を撮影したかった!!(^^)
hassiemozartさん、ご視聴頂きありがとうございます。日本の蒸気機関車を現役で活躍しているのを記憶されている方が、ほぼほぼもう還暦以上のお年なんですねぇ。日本は感光材料が貧弱だったので、戦前の写真は極端に少ないし、戦後も貧しかったから写真を趣味にはできなかった。そして、そうこうしているうちにサンサントウになって、それからどんどん蒸機が無くなって行きました。デジタル処理をして過去の写真を今後も後悔していきますので是非ご期待ください。
d50は今やたったの二台で他はd60に改造されており4台合わせて6台しかいない…
ご視聴頂きありがとうございます。確かにD50/60は六輌残り、D51は物凄い数が残っていますね。
この動画での58654が牽引していた客車は福岡県の筑豊JR直方車両センターで解体されてるのでしょうか?気になるところです。
green-lineさん、ご視聴頂きありがとうございます。車輛センターに運ばれたとか視聴者様から伺いました。全般検査がいつまで残っているかでしょうね。切れていれば廃車解体なのかな?
なんで…2両しか保存されてないんだ…
オト 池井さん、ご視聴頂きありがとうございます。引退が昭和46年なので、ブームの前という事でしょう。でも北海道は少ないのにちゃんとありますから立派です。筑豊は冷たいなぁ。
静態が長い本機の状態は変化無いのでしょうか。展示までは現場で活動していて問題機では無かったと聞きます。事故で復活見込のないC612を諦めて、本機の復活を夢見る日々。
Hmshoodさん、何時もご視聴頂きありがとうございます。D50-140ですが、確かに直前まで筑豊本線にいて梅小路でもしばらく煙を上げていました。それから40年以上。なにもメンテナンスしていないとなると、動態化にはお金がかかり、大正の機関車ですから部品の供給も思うようにいかないとなれば、ずっと後回しになるでしょうね。でもD52と共に可能性はありますから、夢を持ちたいです。
実はD50とD51では設計思想が全く異なり、D50はラージエンジンポリシーなのに対しD51はスモールエンジンポリシー
古家武史さん、ご視聴頂きありがとうございます。時代時代で設計者の考えは違っても出来ることは、過去技術の踏襲になってますね。
私の恩人に昭和30年代前半に長野鉄道管理局、長野機関区、松本機関区でD50D51の重油併燃機の釜タキと機関士、木曽福島機関区でD51の機関士として、篠ノ井線の第二白坂、姨捨、中央東線の善知鳥、西線の鳥居の地獄の隧道を超えたお方がおります。あの明治期の狭小隧道を命懸けで仕業に執務していたこと自体とても理解出来ない事なのです‼️‼️
ジェネーレーターさん、ご視聴頂きありがとうございます。稀有な方が恩人ということで、素晴らしいお話ですね。
5:16 長い国鉄貨物列車を牽く D50 通称デゴマル 迫力を感じられます
KEKYU600さん、ご視聴頂きありがとうございます。
あれは北陸本線のデッドセクションですね。ほんの短い距離の運用でしたが、北陸本線ですから長いですね。
貴重な写真をたくさん見れて面白かったです。D50は私も好きです😃
ミークン、ご視聴いただきありがとうございます。D50好きです。でも先日梅小路行って、一カットも写真も動画も撮っていなかったのには少し驚きました。C11とD50そしてナメクジはいつも素通りです。
D50の貴重な写真アップありがとうございます。
D50も性能良かったので昭和になってもそのまま生産でしたから、大恐慌さえなければ継続生産で1000両くらい作られたかもしれませんね。
Mr. Yattsunさん、いつもご視聴頂きありがとうございます。
おっしゃる通りかもしれませんね。懸念点と言えば全長が長いのでターンテーブルに入れないところがあった程度ではないでしょうか。
D50 140号機、懐かしいです。筑豊本線で良く走ってました。私も走行中や直方機関区で写真撮っていると思います。もしかしたらナンバープレートの拓本も採っているかも知れません。が、覚えてないです😅近々、57年ぶりに倉庫から拓本を出して見てみます(変色してなかったら良いですが・・)
拓本を採った和紙の裏には採取した場所と日付が書いてますので大事にしたいと思います。
green-lineさん、ご視聴頂きありがとうございます。
関西方面って拓本とる人多かった記憶あるのですがどうなんでしょう。
盛大にさよなら運転やって、現役に逆戻りって楽しいですね。185系も似てますね。
@@Yukkuri-Lab 昔、当時は拓本を採られてる方は余り見かけなかったと記憶がありますが・・
時々、
見かけるぐらいでした。
私は亀山で何人もやっているのを見て驚いたことがあります。始めた見たもので。
カッコイイなぁ〜、古さを全く感じないね
0721さん、いつもご視聴頂きありがとうございます。
そうですよね!D50は古臭くないスタイルで良いですね。リベットがベリベリに打たれていてそれも良いです。
そこがカッコ良さをマシマシにしてるのかもしれないね〜
D50のカラー化した全国の写真を見る事が出来て良かったです。自分の知らない時代なので興味深かったです。D50現役を見たのは筑豊の90,140だけです。
ご視聴いただきありがとうございます。筑豊でD50でないとまずいは路線があったとも思えず、D60と同じ運用していたのは面白いです。色々な場所で使えてD60はよく出来た機関車だと思います。
当時、D51はD50をコンパクトにしたと言うイメージで見ていました。筑豊では急行貨物や、逆行運用に50や60を多用していた記憶が。
堺さん、ご視聴頂きありがとうございます。
ターンテーブルの活用のため全長がD51は少々短くなっています。
筑豊では数が多いD60の方が長く活躍していましたし、逆行運転の場合2軸従台車のおかげで安定していたようです。
お疲れ様です。
D50形は独特な雰囲気があってカッコ良いですね。
デフ有りも良いですが、デフ無し仕様もカッコ良いです。まさか種車のD50がたった2台しか保存されずに改造機関車のD60がより多く保存されているのは少し複雑です…☹️
荻野さん、D50もご視聴ありがとうございます。
9900の搭乗時はデフは無く、連結器も旧型で大正だなぁと感じさせるものですが、デフが付いていきなりいかつい強力な機関車に見えます。
北海道で9999号機が新生配属された時は「死・苦」を割り当てるのかと文句があったが、形式改正でD50100とキリ番になり喜んだとか
Homare Jumo213さん、ご視聴頂きありがとうございます。
それ面白い話ですね!
お疲れ様です。
今回のデゴマル動画配信、楽しく視聴させて頂きました。
ありがとうございます。
ずんぐりむっくりのドッシリした形は、如何にも…貨物機の貫禄ですよね。
先日、梅小路のデゴマルが転車台に乗る晴れ舞台だったので、140号機も喜んでいたと、思います。
話が変わりますけど、九州の若松駅前に静態保存の19633号機が解体されてしまいました。
残念です。
次回の動画配信を楽しみにしています。
河野孝さん、いつもご支援ご視聴頂きありがとうございます。
プロフの写真ですね!そうなんですよ、先日C11が外に出ていましたが、月替わりで外に出してくれると遠くからも見に来てくれると思います。
19633は中間の駅でじっくり撮影したのでよく覚えてます。去った後石炭がホームに会って持ち帰って燃やして香りを楽しみました。そうですか解体。パイプ煙突であまり可愛くなかったですが、残念ですね。
D50は筑豊でセラ、セムをゾロゾロ...
のイメージ。
と、後輩のD51に比べて間延びしたキャブ、真空ブレーキから自動空気ブレーキに改造したので、配管がやや煩いところ、前端エプロンに配置された暖め器が旧海軍の救命胴衣を連想させるので、あまり好きではないカマなんです。ゴメンナサイ
ヌ200暖房車だー! 碓氷専用の国鉄最後の2軸客車、超貴重な一枚。
今回も良いものを拝見させて頂きありがとうございます。
いあさん、ご視聴頂きありがとうございます。
私はメカメカした姿が好きなんですよね。車のエンジン、特にバイクとか好きなのは蒸気機関車からきているのかもしれません。ヌ200って2軸だったんですね。知りませんでした。
817系と8620形。
さよならSL人吉号鳥栖駅のワンシーン。
原田駅にもD60形やD51形が冷水峠超えに待避していた。
大坂さん、いつもご視聴ありがとうございました。確かD50-140が復活した際、雑誌で見れるチャンスが減るので、D50見たい時は直方と折尾の間で待っているべしとありました。
@@Yukkuri-Lab さん、梅小路定規機関車館(京都鉄道博物館)開館前に一度直方機関区に帰ってきて、石炭列車を牽引したが、梅小路機関区に帰ってきた時は、かなり汚れていました。
梅小路に行くまで時間なかったはずですが、だれが綺麗にしたのかな?
@@Yukkuri-Lab さん、多分直方機関区の検査員。
デゴマルというと、丹那トンネルの開通の遅れから御殿場線経由の優等列車の補機が必要となり、D50を入線させるために軌道強化を行ったという
また、関ヶ原越えではC53の速度に合わせて走ったという逸話もありましたな
電光刑事 さん、いつもご視聴頂きありがとうございます。
ところで、私はデゴマルとかデコマルって言ったことないですね。
デゴイチ、シロクニ、キュウロク、ハチロク、シゴハチ、シゴナナだけですね。
それ以外はしーごじゅうご、しーろくじゅう、しーごじゅうきゅうにって言ってました。
御殿場線補機と言えばマレー機9750~9850が活躍の場だったけどD50の登場で全機、廃止…
交通博物館にあったやつですね。
2:34 80系湘南電車はおそらく唯一京都鉄道博物館に保存されていますね
貴重な湘南顔の2枚窓が残っているのは少数ですね
梅小路にありますね。でも湘南型の電車ってあまりに普通の風景なので、あまり興味が湧きません。
えっ?D50 140号機が扇形庫の中から出てくることがあるんだ?と思ってしまいましたが、魔理沙の強力なプッシュで梅小路の方が押し切られてしまったんでしょうか(笑)
まだまだ本州で多くのD50が生き残っていた頃のカラー化写真を多数、ありがとうございます。それにしても、D50は9600はもちろん、C51と比べてもデカかったんだなぁという印象です。D50をシェイプアップさせて地方線区へ入れる機関車D51を開発するのも苦労なら、D50をグレードアップさせて最重要幹線の輸送力を強化する機関車D52を開発するのも並々ならぬことだったのが伝わってきます。
成田さん、いつもご支援ご視聴頂きありがとうございます。140号機の煙室戸の取輪が十文字に替えているのは梅小路仕様です。さよなら運転までは一文字でした。筑豊に京都から呼び戻されてた後の姿です。私はとても嬉しかったです。
京都鉄道博物館に保存されているD50140号機は、廃車まで筑豊本線直方機関区を離れることが無い九州のカマー。
筑豊炭田の石炭列車を若松や田川後藤寺などに運び、冷水峠超えの補機まで勤めた。
筑豊本線無煙化後は、キハ66・67形やキハ200系などで篠栗線と連結運用されて、平成13年の電化で817系が運行開始した。
現在福北ゆたか線として、黒崎・折尾ー直方・飯塚ー篠栗・博多間と折尾ー若松間の若松線、桂川ー原田間の原田線に筑豊本線は分類されている。
折尾ー若松間はDENCHA819系蓄電池車が導入されて、蓄電池電化で運行されている。
原田線はキハ40系がわずか6往復での運行。格差は激しくなった。
先日50年ぶりに九州で撮り鉄しましたが、大牟田の近辺は面影ありました。
折尾や直方はどうでしょうね。
@@Yukkuri-Lab さん、篠栗線と筑豊本線は電化されて、交流近郊形電車🚉の溜まり場に変化しました。
ドアが黒で銀塗装車が篠栗線と筑豊本線の車両です。
電化されていないところが良いですねぇ。
@@Yukkuri-Lab さん、田川後藤寺線。
D50は貨物機ながらデザインに曲線が多く用いられ優美なカマですね
このカマの事で一番に印象に有るのは、特急つばめの補機運用です
このカマの生涯で一番の花形運用かと思います。
デカミツさん、いつもご視聴ありがとうございました。
箱根では、結局燕はC53か補機になったんでしょうか?D50のまま?
瀬野八にも行ってますが、C52と共通に使われていたのでしょうか?
偉大なる先代機関車ですね。ただ大きすぎて特に曲線での脱線が頻発。脱線居士と呼ばれさらに9900=脱線と同義扱いされ9900居士と呼ばれては
入線する線路すべてを軌道強化するコストをかけなければD50の生産継続は難しかったと思います。D60も丙線でやらかし軌道強化で余計な出費がかかり改造中止
ちなみに特急の補機についていく機関車はあったもの、大多数はついていけず逆に引っ張られて本務機からアテにされていなかったオチがあります
井今さん、ご視聴ありがとうございます。
ターンテーブルの使用に難があり、D51は全長を詰めました。
そういえば磐越東線はD51は入れずD60のまま。橋梁や曲線もあるのでしょうが、線路の容量って複雑ですね。
確か北海道の北見市に25号機が保存されてたな…今はわからんが以前動画を見た時はかなり状態は良好だったな
ご視聴いただきありがとうございます。
400両近く作られたのに、D60含め保存機少ないのは、ブームに乗り遅れたためですかね。
梅小路でも厄介者みたいで可哀想。なんかプロモーション考えてあげたい。
個人的にはD51よりD50の方が好きなんですがねぇ…やっぱD51が陽キャすぎてD50が影に隠れちゃってるんですかね
梅小路は最初は火が入っていました。最近はすねてすみっこ暮らしですね。
貨物イベントで最近ちょっと出てきたけど…それでもやっぱり日陰者ですしねぇ…
D52が出てきちゃうとそうですね。
昭和の始めの築港機関区の写真でD508と9200(恐らく)が一緒に写ってた。
(当時の新旧車輌ですね、若番が配置されていたんだなぁ~😂)
小樽築港機関区さん、いつもご支援ご視聴頂きありがとうございます。
そんな写真があったんですね。
ところでC623がDLに押されて苗穂を走ったそうですね。シュカシュカ音立ててました。
@@Yukkuri-Labさん、そのC623ですが、短い期間ですが、現役時代(?)にデフに北海道マークを付けていた事が...😂
はい、どなたかのブログで見たことがあります。
D50形や1D2改造機D60と9600形が配属されていた直方機関区。煙は激しく、洗濯物が真っ黒になったほど煙害が酷かった。
現在直方車両センターとなって、篠栗線と筑豊本線(福北ゆたか線・若松線・原田線)と田川後藤寺線のキハ40形とキハ47形、817系と813系とDENCHA819系蓄電池車が配属されている。
いずれも、ワンマン運転。
大坂さん、直方にはターンテーブルが機関区のとは別に残ってますね。使えるのかな?
@@Yukkuri-Lab さん、使用不能になったかな?
残存機が多かったのは勾配区間が多い中部地方の機関区かと思いましたが、関東の機関区だったのですね。勾配区間は優先的に電化されていったからかな?
ご視聴いただきありがとうございます。
関東は当時の管理局ベースなので広いと言うのがトリックです。中部は稲沢に20両ぐらいいました。
D51よりも乗務員から評判がよかったと云われているD50。北海道編も楽しみにしております...
いつもご視聴いただきありがとうございます。
D51を最初に嫌がったのは敦賀で、結局重油と集煙装置のD51で認知されたのですねを
そうなると今度は蒸気のアガりかD50は悪いに変わり置き換えが進みました。
満鉄になんとD50機が形式500の名で存在していた。ただしD50そっくりだが実際は製造中で正式採用前のD50をベースにして動輪が一回り小形と意外はそっくりなので満州のデゴマルと呼ばれたそうだ、因みに本物のD50は1両だけ192号機が標準軌化されて大陸に渡ったという。
芋谷宏さん、ご視聴頂きありがとうございます。新京から吉林通って朝鮮に行く支線で使っていたそうですね。あの頃は9600、C51も多く中支に渡りました。
大好きなデゴマル(D50)いいね👍
プラレールアリエリループラインさん、ご視聴ありがとうございます。
D50って格好も性能も優れていて好きです。
敦賀機関区ではD50が柳ヶ瀬や杉津越えに活躍していたが、トップナンバーを含めたナメクジD51が完成直後に配備され、D50は他機関区に転出して行った。
しかし、ナメクジD51は軸重の重量配分が悪く空転が多発して峠越えに支障をきたす体たらくだった為に敦賀機関区員で嫌われ、D50は踏ん張りが効き峠越えには欠かせないD51なんて役たたずは要らん!D50を戻せ!と抗議運動にまでなりD51をD50に置き換える処置が行われた。
ご視聴いただきありがとうございます。
その話は伝説になりました。でもオチがあって結局改良されたD51が増えてきて、重油や集煙装置で大きく改善できたらD50は古臭くなった様です。
@@Yukkuri-Lab 敦賀式集煙装置は有名ですね。北陸トンネル開通直前には、先頭にDF50次にD51の重連、編成の真ん中と最後尾に各一両のD51を連結した1000t貨物列車が、敦賀~今庄間の杉津越えに挑んでいたそうです。
見てみたかった~
その区間の旧線跡と柳ヶ瀬ルートの道路は車にて走った事があります。
北陸道の下り杉津PAが旧杉津駅跡の場所なので、大正天皇も楽しんだとされる風景を今も楽しめますよ。
特に敦賀半島越しに太陽が沈む夕暮れ時はお奨めです。
その話には続きがあって、戦後すぐの頃になるとD51に慣れて実はD50より優秀だったとわかり
一転してD50を拒みD51の配備を要求するようになっていった
ちなみにナメクジも蒸気の騰がりがいい分、D50よりマシと判明したようです
最近まで敦賀式と人吉の集煙装置は同じものだと思っていましたが、微妙に違うんですね。
実車とは関係ない話ですが、D51やD52はNゲージで見かけますがD50は見ないですね。
幾らD51が売れるから再販してるけど何処かメーカーさんD50出ないかな。
勇太さん、ご視聴いただきありがとうございます。あれそうだったんですね。Nゲージ無いとは。やはりC59のようにブームが来る前に無くなり、皆さんのイメージに残らないんでしょうね。
D50と9600が真の名機
紀勢本線でも使われたD50
猫山林鉄さん、ご視聴ありがとうございます。
先に紀勢本線の特集をやった時D60が登場します。
でも全然視聴率伸びなくて。。。
2:20 綺麗な機関車
でも今はみじめな姿
びゅーんさん、ご視聴頂きありがとうございました。先ほど気になってWeb見ましたが、最悪の状態の静態保存機と紹介されていました。
@@Yukkuri-Lab 内陸にあるぶん海辺のオンボロ保存機と比べると幾分マシに思えるのですが、それでも塗装剥離と部品の欠損はいただけませんね
引取り手が現れると良いですね。
個人的にD50は設計主任である小河原藤吉技師がいたからこその名機だと思ってます。
ご視聴いただきありがとうございます。その後車両メーカーに転職し活躍されたのですね。
@@Yukkuri-Labさん
朝倉技師や島秀雄と衝突して辞めたんですよね。
はい、そううかがっています。
梅小路で最も注目を浴びない機関車だなんてー😭
私はD50やC51が大好きなのにー😭笑
大正期に設計された機関車ってリベットが多用されていたりと無骨ながらも流麗というか、気品があるというか、昭和の名機たちとは違った色気があると思うんですよね。
保存機が25と140の2機しかないのが残念です。
D50-140の庫外展示があったら、有給取って日帰り弾丸ツアーになってでも見に行きたいぐらいです!!
wideviewODORIKO.002さん、こちらもご視聴コメント頂きありがとうございます。
D51-1、D50-140、C55-1その他いつも同じ番号の格納庫に深くしまい込まれていて、変化が無いのも人気が無く、みんな素通りの要因の一つでしょう。
私もそれらの静態機が外に出るタイミングで出かけたいです。
D50は1軸先台車の心向き棒の設計が悪くて、後年強固なコロ式復元台車に交換することになりました。初期の先台車図面を見ると、これでは蛇行を抑えられないようにおもいます。
Masafumi Nakanoさん、ご視聴頂きありがとうございました。
とにもかくにも、速度が出せる機関車だからネガも増幅されるのですね。
こいつが居たからD51の成功・大量生産に繋がったんですね。しかし95km/hって D51の85km/hよりも速いじゃないですか。
軽井沢は 外国人が開拓。中軽井沢は西武が開拓。元々は『沓掛』駅だったんですよね。
とりりサービスさん、いつもご視聴頂きありがとうございます。
ピストンが速く運動できるところが速度が出る理由で、たしかその後材質を重いものに変えて95㎞/h出なくなったとか記憶あります。
西武はかつて軽井沢まで電車通したかったんですよ。
@@Yukkuri-Lab さま
そうでしたか。昔も今も パーツや車体の軽量化は『チューニング』の基本ですが 逆に重くすれば壊れにくく 耐久性と信頼性が増すメリットもあり 蒸機などは 本機に限らず 後者を選ぶケースも多かったのでしょうね。
西武は『西武秩父』から先 どんどん土地を買収したが それを全部繋げると『軽井沢』に達するという話 私も聞いた事があります。
動画と全然関係ありませんが🙇
こういう動画がありましたよ。
th-cam.com/video/gGH1yiDgygo/w-d-xo.htmlsi=0jFpwbNEbEo3iZhB
今度西武嘘ニュース第2弾で、西武の軽井沢への野望をやろうと思います。
@@Yukkuri-Lab さま
嘘ニュースに どういう形で蒸機が絡んでくるか楽しみです。
貼り付けた動画の『95式軽戦車』や『くろがね四起』は どことなく蒸機に通ずる物を感じますね。
9900(D50)は1923(大正12)年誕生で当時の連結機は螺旋式だったはず。箱根の山越えが越えた時点で補機は連結を外すがあの複雑な螺旋式連結機を走行しながらどうやって外したのだろうか??
ご視聴いただきありがとうございます。
補機ですから、ブレーキは結合する必要なく押すだけなので、そもそも連結していなかったのでは?
と無責任に言ったので後で調べておきます。
螺旋連結器は機関車側のリンクのみ掛けておき縄を助手が引っ張って外す、補機が押していないと外れない、沼津までぶら下がりとなる本務機は御殿場駅を全力で力行するので切り離しはコツがいる
つばめ登場する前から走行中補機解放行われておりマレー機でもやっていた本務は18900なので鈍足のマレーでは必死だったと思います
私の世代ではD50は140しか知りません(鉄道ファンでの知識です^^)D60は九州でまだ活躍してたかと。蒸気の話になると、もう少し早く生まれていたら随分世界が違っていたんだろうな?といつも思います。4Kで蒸気の活躍を撮影したかった!!(^^)
hassiemozartさん、ご視聴頂きありがとうございます。
日本の蒸気機関車を現役で活躍しているのを記憶されている方が、ほぼほぼもう還暦以上のお年なんですねぇ。日本は感光材料が貧弱だったので、戦前の写真は極端に少ないし、戦後も貧しかったから写真を趣味にはできなかった。そして、そうこうしているうちにサンサントウになって、それからどんどん蒸機が無くなって行きました。
デジタル処理をして過去の写真を今後も後悔していきますので是非ご期待ください。
d50は今やたったの二台で他はd60に改造されており4台合わせて6台しかいない…
ご視聴頂きありがとうございます。
確かにD50/60は六輌残り、D51は物凄い数が残っていますね。
この動画での58654が牽引していた客車は福岡県の筑豊JR直方車両センターで解体されてるのでしょうか?気になるところです。
green-lineさん、ご視聴頂きありがとうございます。
車輛センターに運ばれたとか視聴者様から伺いました。全般検査がいつまで残っているかでしょうね。切れていれば廃車解体なのかな?
なんで…2両しか保存されてないんだ…
オト 池井さん、ご視聴頂きありがとうございます。
引退が昭和46年なので、ブームの前という事でしょう。でも北海道は少ないのにちゃんとありますから立派です。筑豊は冷たいなぁ。
静態が長い本機の状態は変化無いのでしょうか。展示までは現場で活動していて問題機では無かったと聞きます。事故で復活見込のないC612を諦めて、本機の復活を夢見る日々。
Hmshoodさん、何時もご視聴頂きありがとうございます。
D50-140ですが、確かに直前まで筑豊本線にいて梅小路でもしばらく煙を上げていました。それから40年以上。なにもメンテナンスしていないとなると、動態化にはお金がかかり、大正の機関車ですから部品の供給も思うようにいかないとなれば、ずっと後回しになるでしょうね。でもD52と共に可能性はありますから、夢を持ちたいです。
実はD50とD51では設計思想が全く異なり、
D50はラージエンジンポリシーなのに対し
D51はスモールエンジンポリシー
古家武史さん、ご視聴頂きありがとうございます。
時代時代で設計者の考えは違っても出来ることは、過去技術の踏襲になってますね。
私の恩人に昭和30年代前半に長野鉄道管理局、長野機関区、松本機関区でD50D51の重油併燃機の釜タキと機関士、木曽福島機関区でD51の機関士として、篠ノ井線の第二白坂、姨捨、中央東線の善知鳥、西線の鳥居の地獄の隧道を超えたお方がおります。
あの明治期の狭小隧道を命懸けで仕業に執務していたこと自体とても理解出来ない事なのです‼️‼️
ジェネーレーターさん、ご視聴頂きありがとうございます。
稀有な方が恩人ということで、素晴らしいお話ですね。