【歴史解説】ゆっくり大江戸130 烈公夫人~最後の将軍の母徳川吉子の豪傑人生~【江戸時代】
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- เผยแพร่เมื่อ 2 ต.ค. 2024
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※この動画は東方Projectの二次創作であるゆっくりキャラを用いた解説動画です。またキャラ素材【ゆっくり魔理沙改】の改変素材を個人的に作成、使用していますのでご了承下さい
徳川吉子が息子の慶喜と共に暮らさなかったのは、「他家に養子に出された子供とは同居しない」という当時の武家社会の慣習によるものと言われている。
そのせいなのかは分からないが養子先の養祖母にあたる一橋慶壽の未亡人、徳信院直子(伏見宮家出身で慶喜の7歳上)と「ただならぬ関係」にあったらしい。
季節の挨拶みたいな導入好き。癒やされるわぁ。
はあ〜、こんな方がいらっしゃるとはね〜スゴイなぁ
烈公の妻、烈君かなぁ〜
大河ドラマは大晦日近くに終わる事から作り手がハッピーエンドを好むのだと思いますよ。
新年を目前(良いお年を〜)にする中で何処かにハッピーエンド感を出せたら取り上げられると思います。
あと大河ドラマは大衆向けの設定なので分かりやすい人が好まれるのだと思います。
春日局とか渋い人を扱いましたが、空振りしましたから、人物設定は慎重になるのだと思いますよ。
斉昭は女系ですが秀忠公の血筋も引いているので15代将軍に慶喜公が就任して7代ぶりに元々の宗家秀忠公の血筋が将軍家に戻りましたね。
また12代将軍と斉昭・慶喜公の昵懇な関係から、ペリー来航後の家慶公の日光社参は、将軍世子の変更(家定廃嫡出家⇒慶喜世子就任)を神君のご神意として老中ら幕閣の反対を押し切るためだったと想像してしまいますね。
孫(慶喜息子)がまた有栖川宮から妻をとり、そこからひ孫の喜久子様→秋篠宮と有栖川宮家そのものは(祭祀継承した高松宮家含めても)絶えても、書道だけは今も脈々と有栖川流は続いているんですよね・・・悠仁様が更に受け継ぐかは微妙な気もしますが
こんばんは。吉子さん、素晴らしい人でよかったです。
ふと疑問なんですが、やんごとないお姫様ですが、宮(登美宮吉子)さまなんですか? その当時の女王殿下もお名前は愛子さまみたいな感じなんでしょうか('';)? イマイチわかっていなくてスミマセン🙇
コメントありがとうございます。
お答えになっていないかも知れませんが斉昭公は彼女を吉子と名前で呼んでいたようです。
@@terasen
うp主さん、返信ありがとうございました。
今の皇族で例えれば、彬子さまは三笠宮彬子女王さま、承子さまは高円宮承子女王さまなので、吉子さんも有栖川宮吉子女王さまだと思ったんです。そしたら、敬宮愛子内親王さまみたいに登美宮という宮名(?)をお持ちだったので、当時と今の女性皇族のありかたが違っているのかなと疑問に思った次第です。
漠然としたわかりにくい質問をしてスミマセン🙇でした。にもかかわらず、可能な限り答えてくださった誠実さが嬉しかったです。
徳川吉子??吉子女王じゃなくて?って思ったけど、なるほど明治まで生きたから夫の苗字になってたのか。
130回配信おめでとう御座います
ありがとうございます
今後もよろしくお願いします
幕末で一番可哀想な女性は西郷頼母一家
竹中重固の妻女も。
皇室出身だったね
教えてください。伊勢山田奉行所の設立当時、旗本役の支配御組頭(御船手御組頭)が四人派遣されています。僕の調べられる範囲では山田奉行所記念館のサイトにだけ掲載されています。ウキペディアや個人のブログではそのような役職は存在しませんでした。もしかしたら江戸の船手組頭と兼職だったのでしょうか?それとも、途中でなくなった役職なのでしょうか? ご存じの方がおられたら教えてください。
山田奉行所記念館に電話でお聞きしたところ、途中経過は分からないが、幕末は上位同心の役職的な扱いだったと館長さんが言われていました。
ちなみに、サイトに掲載されていたのは以下の内容です。
山田奉行の職務は、「京兆府尹記」に、つぎのように見えており、いまの海上保安庁の役目ももっていました。
一 内宮外宮両太神宮之警衛にして二十一年目毎に御遷宮之節御造営奉行
例年九月十六日神事之節御神事奉行たり
是御役之第一也
一 伊勢志摩両国及山田御神領之分ハ当所奉行支配す尤公事裁判取行ふ
是御役之第二也
一 最寄之諸候変事有時ハ御教書を達し其急を防ぐ南海道之主将紀伊大納言殿江申而倶に防ぎ内宮外宮両宮を守護す
是第三也
一 志摩国鳥羽之港ハ西国船廻送之分風待する所也武具或ハ怪敷荷物あれば是を点見し兼而ハ南海漂流之異国船あれば其筋を尋問し江府江言上し長崎江送る旦ハ御防之一所也
是御役之第四也
また、その機構と人員は「寛文乙巳備忘録」に、つぎのようにありますが、江戸町奉行のそれに比べても、決して劣らぬ充実ぶりでした。
御奉行 二人 御旗本也
御用人 三人 御奉行之手人也
御給人 三人 御奉行之手人也
支配御組頭 四人 御旗本に而又御船手御組頭と称す
与力 六人 御譜代席に而又御船手与力と称す
右奥勤又御家中と称す也
同心 二十人 御譜代准席より御抱席迄に而御船手同心と称す
水主 四十人 御抱筋に而御船手水主と称す
右御組又組方と称す也
ありがとうございます!
いつもご支援ありがとうございます。今後も頑張ってアップして行きますのでよろしくお願いします
御三家の御簾中様は例えば将軍家から輿入れしてきた女性は“将軍家の姫君“として扱われるので当主である夫より立場が上になると聞いたのですが、この吉子女王のような皇室の姫君も同様だったのでしょうか?
江戸時代は皇族の地位は家臣である摂家の下で光格天皇の父親の閑院宮典仁親王は天皇の父親なのに摂家の下だった。だから皇族の姫でもそんなに高い地位では無い。
@@yh6146様 そうなのですね。でも将軍家の一門である御三家の当主と王家の姫君の立場だとどっちが上座なんでしょうか?🤔
@@アウトローという者皇女ならまだしも、親王家の姫なら御三家当主の方が上だと思います。
@@yh6146様 ありがとうございます😊
そんな御三家当主より格上の将軍家の姫君って一体…。😅
またまた素晴らしい動画、ありがとうございます
みっともない内輪もめを続ける水戸藩内に対し、慶喜公はとっとと政権を大君に返し奉る。人徳の有無がモロに出ましたね。これもご生母の影響でしょうか。
27歳で結婚なんて現代なら普通かちょっと早いくらいなのに、人間50年の時代ではもう大年増か。
まあ吉子様は12女の末娘だから仕方ない。
野村望東尼、オランダお稲、西郷頼母の妻リクエスト
30で御褥御遠慮の時代だから、なかなかの結婚生活の始まりですね
御褥御免って確か大奥の式たりじゃなかったでしたっけ?🤔
だから大名では正室が30代でも子どもを産んでいるし、秀忠の時代にはそんな制度が無かったから、家光は母親が30代の時の子ども。
斉昭は自ら刀を打ち、他藩に配る等もしていたようですね。