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二十八珊榴弾砲導入時の途方もない苦心惨憺を知っている現場の人間だからこそ、何を言っているんだって反応になったんでしょうね。そこから運搬手段の構築に加えベトン製砲台を木造化するなど多くの創意工夫が積み上げられて旅順への投入が可能になったわけで、TVドラマのように誰かの鶴の一声で投入されたなんてあり得ませんよね…。
28サンチは、日本沿岸に数百門あり砲弾も比較的、豊富に準備されていた。開戦後、朝鮮半島と遼東半島の基地に砲台をおくる専用船団を用意しており準備はかなりできていた。旅順のすぐ近くでウズウズしていたと言える。おそらくは、軍上層部の判断であろうが、明治天皇の憂慮も原動力だったはずだ。直ちに4門、すぐに18門まで送り込んだのだから
現代に当てはめると例えば主力戦車の砲を戦闘機付けるみたいな事を言っていたんだろうね
因みに、当時第三軍従軍軍曹で金鶏勲章6級受けた人が肉親に居るのだが、その受賞理由として280mm砲弾300発を各砲座に予定期日より速く集積に成功させた功績と言うものがある。どうやったか?馬匹輸送業者でなその人、曾祖父だが。中国の馬車を買い集め騎兵戦闘には要塞戦は向かないので、輸送任務の軍曹が現地調達の馬車に駄載用軍馬を当てがい、砲弾を載せて運び込んだと言う事だとさ。
今のような重機もなく、また舗装された道もなかった時代に、こんな恐ろしく重い物を運び出して設置すると言う今の我々の想像以上の困難があったと思う。具体的にどうやったかを知りたくなってきた。
戦争は土木工事ってやっぱり本質ですかね
@@明るい家族計画 なるほど。
203高地の作中では人海戦術でソーレ!でズルズル引っ張って丸太の上を転がしてました。
何時も拝聴・深謝。長らくの疑問、良く調べて下さった❣。有難う。途轍もない運搬作業だったろうに、発案も計画も実施も頭が下がります。総べての戦傷者と関係者に感謝と哀悼を捧げます。よくぞ調べて発信して下さいました。有り難い。
佐藤大佐は、この28cm榴弾砲の準備目途が立ったので、工場砲兵司令部要員として、前線に出たんですね。
先人たちへの敬意も感じられてとても面白かったです。
二十八珊榴弾砲の威力と木製砲床がよく話題になりますが輸送計画をたて実施した輜重兵輸送船の後方支援が如何に大切か良く解ります。忘るな一日遅れなば一日たゆとう我が兵を港を出でん輸送船暫し護れよ海の人明治の軍人は総合的に戦争を俯瞰していましたが昭和になり専門職が大風呂敷を拡げた為ガダルカナルで敗戦した。
なるほど、確かに威力が無かったり弾が無かったりすればどんな重砲もただのパイプですね。そして強力な兵器があるのと無いのとで死傷者が一桁違うのは流石に想像外でした。この動画は主権者の一人として視聴すべき動画かもしれませんし、主権者としての意識を高める為にも有益な動画だと感じました。
細かな事は、色々ある中で、過不足無く帰結を述べられている大変素晴らしいコンテンツだと思います。本当に素晴らしいと思います。
すばらしい。色々な資料を研究し考察された良い動画
当時の交通事情を考えると巨大な大砲を数多く準備した明治陸軍の賢さと努力に頭が下がる。貧弱なクレーンで積み下ろしして資材と一緒に泥道を引きずって持って行ったのだ
ほえー、最初から投入する予定だったのですね。映画二百三高地では、第一次総攻撃後にこの砲が投入されたので、てっきり総攻撃失敗の火力不足の戦訓かと思っていました。
諜報の重要性がわかる動画ですね💡 自衛隊も旧軍の良いところを継承されている事を祈ってます🔁
実際に要塞を破壊したのは坑道掘削からのダイナマイトでの爆破だった点からみても、有効な攻城砲が無いなかでの3次にわたる総攻撃は本当に過酷だったと思う
無理、不可能とする理由を挙げることはたやすいけど、いくさってのは相手がやらないことをやった方が勝つんだろうね。陸軍の双発爆撃機を空母に積んで発艦させたドーリットル空襲もそうだけど、柔軟な発想って大事だな。
孫子の兵法謂う所の「正を以て之を迎え奇を以て之を討つ」ですね😅
唐突な鶴見中尉にたまげたw
この動画、目の付け所が斬新でとっても面白い。
よく調べられてますね。詳しく知りたい事だったので参考になりました。ありがとうございます。もっと疑問なのがなぜ大火力でしか穿てない重機で武装したコンクリート要塞に小火器しか持たない歩兵をあれだけの犠牲者が出るまで繰り返し突撃させたのか。大本営の始祖ここにありとはあまり思いたくありませんが
方法が、本当にそれしかなかった。そして、時間も無かった。工夫できる工夫は全部やった。
@@4423takuya 当時の方々の御苦労に寄り添う心はとても尊く、そこは共感します。が、そう決めつけることが出来ない多くの人が疑問を抱く作戦なのです。たとえば砲の配備が決まった時点で開戦後であり、現状の装備では如何ともし難い事を現場では認識していたはずですが、砲の到着がわかっていながら突撃を繰り返す。到着まで、膠着状態を堅持スルの作戦を取れば犠牲者の少なさは自明の理ですが、時間制限は現場にいない本国が決めた期日です。期日までに作戦完遂せよのプレッシャーに現場司令部が負けての強行なら…亡くなった方々は浮かばれません乃木さんが一人で悪者扱いされることが多いですがそう単純なことでもないだろうと思っています。インパール作戦では本国の牟田口に作戦遂行は不可能と、勇気ある上申をした現地師団長がいました。結果的に彼は解任され、後日戦史上まれに見る無謀な作戦と評されますが、現場指揮官は彼のようであってほしいと思います。
旅順の要塞のような近代的要塞に対する攻略方法が充分研究されていなかった、と言うのが本質だと思います。坑道を作り地下から爆破するというのがこの当時の正解でしょうけどかなり時間がかかる。取りあえず一か所でも占拠して旅順艦隊を攻撃するための観測が出来ればいい、というある意味中途半端な目標にしたのが無謀な突撃に繋がった可能性があります。要塞の攻防は実際のところ第一次大戦でも塹壕と要塞の攻防で日露戦争の10倍以上の死者を出しています。結局戦車による塹壕突破や毒ガス、そして第二次大戦では航空機戦力により「要塞を意味のない存在にした」というのが答えとなりました。
この動画を見てなぜか古代最強のローマ軍を思い浮かべた。当時のローマ軍は工兵みたいな面もあり、橋がない川でも自分たちで木材を切り出し、橋を作ってしまったという。優秀な軍隊にはなにか通じるものがある。
本当に明治の軍人は優秀な人が揃っている。自分達が何をすれば良いか明確にわかっている。後年の昭和時代の軍人とは別モノだ…。😂
そんな事は無い。5倍の戦力、30倍の国力差、一部例外あるものの基本的に日本軍より優秀な装備を持った米軍相手に2年間連戦連勝飾った昭和軍人非常に優秀。馬鹿で無能な米軍将校に同じ事が出来るとでも?確実に勝てる条件を国民から与えられながら、遥かに劣勢な日本軍に優勢を許した無能集団が?国民が選挙で選んだ首相が戦争を選択した以上、立憲君主制の民主国家たる大日本帝国、その民主国家の軍人たる昭和の軍人に戦う以外の選択肢はない。職務を全うすべく全力を尽くした。その程度も理解出来ずに批判する貴方はもっと勉強した方が良い。
明治が優秀、昭和が無能ってのは認知バイアス能力は変化ないむしろ日清日露戦争型の戦争を改善せずアップデートしないから損害が増えた日本軍は大戦中にそのやり方をアップデートさせた
誰かが突然、現場で思い付いたのではなく、戦争前から研究してて移動させる目処が立ったのが、第一次総攻撃の後だったというわけだな。
うちの隣にある神社にも日露戦争で出兵した石碑があります。旅順要塞が土木工事で作られたなら、我々も土木工事で大砲を運ぼうって事なんでしょうね、、。まるでエヴァのヤシマ作戦みたいですね
あの海保に設置された大砲を如何にして輸送したのか調べて欲しいです。当時の輸送船の能力をかなり超えた大砲だったと思えます。輸送作戦を企画実行できたからこそ旅順を攻略できたと思います。
確かにこの重い砲を動かすのは大変だが何万人も死ぬより数千人でもこれを運んだほうがよかろう。
旅順攻囲戦は『壊血病vs脚気』という栄養学的な視点からも見ておきたい。黄海海戦の折り、ついでに高地に砲撃していれば、死傷者の数はかなり減らせたんよね…現場にいて『その判断が出来るか?』と言われたら、かなり難しいでしょうが…
昔、大泉学園の東映撮影所で実物大模型を見たなぁ…
事前にある程度研究してないと現地への輸送と現場への搬入等付け焼刃では無理
確かに第一次総攻撃の後に運んだんじゃ間に合いませんな、デカい二十八糎榴弾砲。今さらそりゃそうだなと思いました。この二十八糎が活躍した第二次総攻撃の最中、12月の末に我が家の先祖が第七師団の少尉として戦死しています。8:12〜8:20「クリバノフ氏の写真館」って、写真館経営者に化けて潜入していた石光真清の写真館とは違うのかな。「ロシア軍御用達となったので、色々と施設の写真を撮った」「日本国内に送る分をごまかす為に、時々わざとオシャカをこしらえた」云々と石光氏の自伝に書いてあるのを見て、「仮想敵国の『民間人』に御用達なんて、そんなにうまくいくもんなんかなぁ」と多少疑わしく思っていましたが、本当だったのかと思いました。
石光さんの写真館は確かシベリアの方です。旅順の方は今のところ日本の資料では誰が諜報任務に就かれたのか確認できませんでした。
映画「203高地」が見たくなってきた
東京湾のお台場(砲台場)にあった要塞砲も外して運搬。
たしかいまのお台場あたりにあった海上砲台に据えてあったやつを解体船積みしてまた現地で組み立てる。という車輪のついた野戦砲やなくこんなでかいものを持ちこむのはかなり初期段回から決まっていたもんやろなぁ
本当に、重い物を運ぶのは古来より人力です。
20cm以上の口径の大砲だと重巡の主砲並。28cmともなると戦艦の主砲並。と考えると、アメリカ軍が多様した艦砲射撃の対地攻撃の威力って凄かったのかも。
砲台構築に手間取る巨砲🎉
もう少しBGM の音量を下げていただけると助かります。目が見えないので、音だけを頼りに聴いてます。
ありがとうございます。新しい動画は総て音量を下げるようにいたしました。
義和団戦争で有名になった柴五郎大佐はどうなんだ?
日本人だけが(あまり)知らない世界的偉人ですね。
明治の軍人は各方面の世界的な専門家になることを、国から義務付けられた人々だったから、有能な人が選ばれて留学とかしたって、坂の上の雲で司馬遼太郎が書いてたなあ😅
で、なんで第一次総攻撃に間に合わなかったんですか?
鶴見中尉は実在したのか…
「はかった」です。
幕臣なら慶喜と一緒に静岡県に県に来たのかな
BGMがうるさすぎる
いつの時代でもアイディアだけ出してあとは放置して成功した後に自慢する人はいるんだよねwニート会社なんてのがあったがあそこはまさにそういう人の集まりだった。
28センチ榴弾砲 d🤪
二十八珊榴彈砲? 二十八糎榴弾砲のことか?
この動画を見てアルキメデスの大戦という漫画で、戦艦大和の射程を42キロから50キロまで伸ばして真珠湾に設置してある要塞砲(射程距離45キロ)の射程外から真珠湾を攻撃しようという提案を主人公がするシーンを思い出しました。(史実では大和の射程距離は42キロなので要塞砲に戦艦は打ち負けてしまいますが)結局組織の論理、しがらみ、不正やらでダメになってしまうんですが。結局、そういったことを乗り越えて初めて絵になるんですよね。もし、二十八珊榴弾砲を使うことを組織の論理でつぶされていたら旅順要塞攻防戦はどうなっていたやら・・・
一般に海岸要塞は軍艦よりはるかに強いと言われていますが、それは別に大砲の大きさや射程から言っているわけではありません。要塞砲は艦載砲と比べて土台がしっかりしている上に観測所の横の距離が大きく取れるので三角法による測距精度も遥かに上、防御の面でも直撃以外はほぼノーダメージと圧倒的に有利だからです。射程外から撃ちまくったところで勝てるようなシロモノではありません。
まあ、たしかに要塞砲の破壊は不可能でしょうね。鉄筋コンクリートでガチガチですから。いくら射程距離が勝っていても戦艦で要塞砲と打ち合うのは無謀でしょう。作中のなかでは、あくまでも要塞砲の射程外から真珠湾内の海軍工廠、油槽地帯、滑走路、その他物資、司令部などを標的にするそうです。要塞砲はスルーですかね。
どうやって港湾内を確認するつもりなんだろう。適当に撃ちまくったら外ればっかりになるぞ。
@@fep2901さあ
こんにちは、さん
誰が二十八珊榴弾砲投入を思いついたのかというのは非常に意義がある事です。その発案は戦功であり、きちんと報いられるべきだからです。そしてそれを現地まで輸送させた者にはそれに次ぐ功がある。信賞必罰は明快に行われるべきで、発案者は賞し一笑に付したものは罰すべき。ただ反論を封殺する風土ができてはならないので処罰は重くなってはなりません。
西洋漆喰。。。。
旧式の青銅製、28センチ臼砲でも沿岸要塞主砲が野戦陣地にある?!この異常を実現できればかように活躍する。戦場に間に合う事、現実に存在する事、しない事の差は大きいな。戦略的奇襲、それが出来たら凄いが不可能だ。これを実現されると撃たれる側の準備は間に合わない。飛んでくる28センチ榴弾を見ながら伝統的に優秀なロシア将校は何を思ったのだろうか。
今年の7月旅順攻略開始120周年
th-cam.com/video/PwJqiY_E3FE/w-d-xo.htmlこの映画の中で二十八センチ砲を使うと言う内容が出てきますよ。
昭和になって、理屈でなく、精神論がはばを利かす様になったのは、何故でしょうか。
兵は鉄砲玉と同じ価値。明治は過酷なり。
日本の戦艦を撃退する砲ですね、でもこんなもん良く持ってましたねー
そして誰が現場の要望を無視して、榴散弾を発注して送りつけたのか?w対人や非装甲物に効果的な榴散弾では要塞を破壊出来ない。。。日本軍の官僚化は、意外に早く始まっていた。と見るべきかな。
日本軍は、口径の小さい、榴弾砲でカノン砲は凄く少なかった!対して、ロシア軍は、大口径榴弾砲や、中口径カノン砲を持っていた!また、機関銃が有名だ!7.62㍉ベルト給弾式!対する、日本軍は、6.5㍉歩兵銃、後方から、機関砲で撃ってた!日本軍の機関銃はあまり知られてない?
秋山大佐の騎兵旅団が機関銃(機関砲)もってました。これで強力なコサック騎兵を撃退していました。
良い動画ですね
機関銃を前にひたすら兵士を突撃させた師団長乃木は長州人。トップには向かなかった人物だが、幕末維新の中で人材を失い続けた長州にはもう人材がいなかった。
ロシア軍は、艦船から砲を取り外し203高地に据え付けた!
確か、ロシア軍も、28センチ砲を、持っていた!だから、日本軍の、不発弾を、撃ち返した!
電気鉄条網はあまりにも酷い!トンネル工法!穴掘り突撃!全て失敗!
すっごい消化不良!なんだか、もっとはっきり言えよ!
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開戦後、朝鮮半島と遼東半島の基地に砲台をおくる専用船団を用意しており準備はかなりできていた。
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おそらくは、軍上層部の判断であろうが、明治天皇の憂慮も原動力だったはずだ。
直ちに4門、すぐに18門まで送り込んだのだから
現代に当てはめると例えば主力戦車の砲を戦闘機付けるみたいな事を言っていたんだろうね
因みに、当時第三軍従軍軍曹で金鶏勲章6級受けた人が肉親に居るのだが、その受賞理由として280mm砲弾300発を各砲座に予定期日より速く集積に成功させた功績と言うものがある。どうやったか?馬匹輸送業者でなその人、曾祖父だが。中国の馬車を買い集め騎兵戦闘には要塞戦は向かないので、輸送任務の軍曹が現地調達の馬車に駄載用軍馬を当てがい、砲弾を載せて運び込んだと言う事だとさ。
今のような重機もなく、また舗装された道もなかった時代に、こんな恐ろしく重い物を運び出して設置すると言う今の我々の想像以上の困難があったと思う。具体的にどうやったかを知りたくなってきた。
戦争は土木工事ってやっぱり本質ですかね
@@明るい家族計画 なるほど。
203高地の作中では人海戦術でソーレ!でズルズル引っ張って丸太の上を転がしてました。
何時も拝聴・深謝。長らくの疑問、良く調べて下さった❣。有難う。途轍もない運搬作業だったろうに、発案も計画も実施も頭が下がります。総べての戦傷者と関係者に感謝と哀悼を捧げます。よくぞ調べて発信して下さいました。有り難い。
佐藤大佐は、この28cm榴弾砲の準備目途が立ったので、工場砲兵司令部要員として、前線に出たんですね。
先人たちへの敬意も感じられてとても面白かったです。
二十八珊榴弾砲の威力と
木製砲床がよく話題に
なりますが輸送計画をたて
実施した輜重兵輸送船の
後方支援が如何に大切か
良く解ります。
忘るな一日遅れなば
一日たゆとう我が兵を
港を出でん輸送船
暫し護れよ海の人
明治の軍人は総合的に
戦争を俯瞰していましたが
昭和になり専門職が
大風呂敷を拡げた為
ガダルカナルで敗戦した。
なるほど、確かに威力が無かったり弾が無かったりすればどんな重砲もただのパイプですね。
そして強力な兵器があるのと無いのとで死傷者が一桁違うのは流石に想像外でした。この動画は主権者の一人として視聴すべき動画かもしれませんし、
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細かな事は、色々ある中で、過不足無く帰結を述べられている大変素晴らしいコンテンツだと思います。本当に素晴らしいと思います。
すばらしい。
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ほえー、最初から投入する予定だったのですね。映画二百三高地では、第一次総攻撃後にこの砲が投入されたので、てっきり総攻撃失敗の火力不足の戦訓かと思っていました。
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無理、不可能とする理由を挙げることはたやすいけど、いくさってのは相手がやらないことをやった方が勝つんだろうね。陸軍の双発爆撃機を空母に積んで発艦させたドーリットル空襲もそうだけど、柔軟な発想って大事だな。
孫子の兵法謂う所の「正を以て之を迎え奇を以て之を討つ」ですね😅
唐突な鶴見中尉にたまげたw
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よく調べられてますね。詳しく知りたい事だったので参考になりました。ありがとうございます。
もっと疑問なのがなぜ大火力でしか穿てない重機で武装したコンクリート要塞に
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大本営の始祖ここにありとはあまり思いたくありませんが
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乃木さんが一人で悪者扱いされることが多いですがそう単純なことでもないだろうと思っています。
インパール作戦では本国の牟田口に作戦遂行は不可能と、勇気ある上申をした現地師団長がいました。結果的に彼は解任され、後日戦史上まれに見る無謀な作戦と評されますが、現場指揮官は彼のようであってほしいと思います。
旅順の要塞のような近代的要塞に対する攻略方法が充分研究されていなかった、と言うのが本質だと思います。坑道を作り地下から爆破するというのがこの当時の正解でしょうけどかなり時間がかかる。取りあえず一か所でも占拠して旅順艦隊を攻撃するための観測が出来ればいい、というある意味中途半端な目標にしたのが無謀な突撃に繋がった可能性があります。
要塞の攻防は実際のところ第一次大戦でも塹壕と要塞の攻防で日露戦争の10倍以上の死者を出しています。
結局戦車による塹壕突破や毒ガス、そして第二次大戦では航空機戦力により「要塞を意味のない存在にした」というのが答えとなりました。
この動画を見てなぜか古代最強のローマ軍を思い浮かべた。当時のローマ軍は工兵みたいな面もあり、橋がない川でも自分たちで木材を切り出し、橋を作ってしまったという。優秀な軍隊にはなにか通じるものがある。
本当に明治の軍人は優秀な人が揃っている。自分達が何をすれば良いか明確にわかっている。後年の昭和時代の軍人とは別モノだ…。😂
そんな事は無い。5倍の戦力、30倍の国力差、一部例外あるものの基本的に日本軍より優秀な装備を持った米軍相手に2年間連戦連勝飾った昭和軍人非常に優秀。馬鹿で無能な米軍将校に同じ事が出来るとでも?確実に勝てる条件を国民から与えられながら、遥かに劣勢な日本軍に優勢を許した無能集団が?国民が選挙で選んだ首相が戦争を選択した以上、立憲君主制の民主国家たる大日本帝国、その民主国家の軍人たる昭和の軍人に戦う以外の選択肢はない。職務を全うすべく全力を尽くした。その程度も理解出来ずに批判する貴方はもっと勉強した方が良い。
明治が優秀、昭和が無能ってのは認知バイアス
能力は変化ない
むしろ日清日露戦争型の戦争を改善せずアップデートしないから損害が増えた
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誰かが突然、現場で思い付いたのではなく、戦争前から研究してて移動させる目処が立ったのが、第一次総攻撃の後だったというわけだな。
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旅順要塞が土木工事で作られたなら、我々も土木工事で大砲を運ぼうって事なんでしょうね、、。
まるでエヴァのヤシマ作戦みたいですね
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確かにこの重い砲を動かすのは大変だが何万人も死ぬより数千人でもこれを運んだほうがよかろう。
旅順攻囲戦は『壊血病vs脚気』という栄養学的な視点からも見ておきたい。
黄海海戦の折り、ついでに高地に砲撃していれば、死傷者の数はかなり減らせたんよね…
現場にいて『その判断が出来るか?』と言われたら、かなり難しいでしょうが…
昔、大泉学園の東映撮影所で実物大模型を見たなぁ…
事前にある程度研究してないと現地への輸送と現場への搬入等付け焼刃では無理
確かに第一次総攻撃の後に運んだんじゃ間に合いませんな、デカい二十八糎榴弾砲。
今さらそりゃそうだなと思いました。
この二十八糎が活躍した第二次総攻撃の最中、12月の末に我が家の先祖が第七師団の少尉として戦死しています。
8:12〜8:20
「クリバノフ氏の写真館」って、写真館経営者に化けて潜入していた石光真清の写真館とは違うのかな。
「ロシア軍御用達となったので、色々と施設の写真を撮った」
「日本国内に送る分をごまかす為に、時々わざとオシャカをこしらえた」
云々と石光氏の自伝に書いてあるのを見て、
「仮想敵国の『民間人』に御用達なんて、そんなにうまくいくもんなんかなぁ」
と多少疑わしく思っていましたが、本当だったのかと思いました。
石光さんの写真館は確かシベリアの方です。旅順の方は今のところ日本の資料では誰が諜報任務に就かれたのか確認できませんでした。
映画「203高地」が見たくなってきた
東京湾のお台場(砲台場)にあった要塞砲も外して運搬。
たしかいまのお台場あたりにあった海上砲台に据えてあったやつを解体船積みしてまた現地で組み立てる。という車輪のついた野戦砲やなくこんなでかいものを持ちこむのはかなり初期段回から決まっていたもんやろなぁ
本当に、重い物を運ぶのは古来より人力です。
20cm以上の口径の大砲だと重巡の主砲並。28cmともなると戦艦の主砲並。と考えると、アメリカ軍が多様した艦砲射撃の対地攻撃の威力って凄かったのかも。
砲台構築に手間取る巨砲🎉
もう少しBGM の音量を下げていただけると助かります。目が見えないので、音だけを頼りに聴いてます。
ありがとうございます。新しい動画は総て音量を下げるようにいたしました。
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日本人だけが(あまり)知らない世界的偉人ですね。
明治の軍人は各方面の世界的な専門家になることを、国から義務付けられた人々だったから、有能な人が選ばれて留学とかしたって、坂の上の雲で司馬遼太郎が書いてたなあ😅
で、なんで第一次総攻撃に間に合わなかったんですか?
鶴見中尉は実在したのか…
「はかった」です。
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BGMがうるさすぎる
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ニート会社なんてのがあったがあそこはまさにそういう人の集まりだった。
28センチ榴弾砲 d🤪
二十八珊榴彈砲? 二十八糎榴弾砲のことか?
この動画を見てアルキメデスの大戦という漫画で、戦艦大和の射程を42キロから50キロまで伸ばして真珠湾に設置してある
要塞砲(射程距離45キロ)の射程外から真珠湾を攻撃しようという提案を主人公がするシーンを思い出しました。
(史実では大和の射程距離は42キロなので要塞砲に戦艦は打ち負けてしまいますが)
結局組織の論理、しがらみ、不正やらでダメになってしまうんですが。
結局、そういったことを乗り越えて初めて絵になるんですよね。もし、二十八珊榴弾砲を使うことを組織の論理でつぶされて
いたら旅順要塞攻防戦はどうなっていたやら・・・
一般に海岸要塞は軍艦よりはるかに強いと言われていますが、それは別に大砲の大きさや射程から言っているわけではありません。
要塞砲は艦載砲と比べて土台がしっかりしている上に観測所の横の距離が大きく取れるので三角法による測距精度も遥かに上、防御の面でも直撃以外はほぼノーダメージと圧倒的に有利だからです。
射程外から撃ちまくったところで勝てるようなシロモノではありません。
まあ、たしかに要塞砲の破壊は不可能でしょうね。鉄筋コンクリートでガチガチですから。いくら射程距離が勝っていても戦艦で要塞砲と打ち合うのは無謀でしょう。
作中のなかでは、あくまでも要塞砲の射程外から真珠湾内の海軍工廠、油槽地帯、滑走路、その他物資、司令部などを標的にするそうです。
要塞砲はスルーですかね。
どうやって港湾内を確認するつもりなんだろう。適当に撃ちまくったら外ればっかりになるぞ。
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こんにちは、さん
誰が二十八珊榴弾砲投入を思いついたのかというのは非常に意義がある事です。
その発案は戦功であり、きちんと報いられるべきだからです。
そしてそれを現地まで輸送させた者にはそれに次ぐ功がある。
信賞必罰は明快に行われるべきで、発案者は賞し一笑に付したものは罰すべき。
ただ反論を封殺する風土ができてはならないので処罰は重くなってはなりません。
西洋漆喰。。。。
旧式の青銅製、28センチ臼砲でも沿岸要塞主砲が野戦陣地にある?!この異常を実現できればかように活躍する。戦場に間に合う事、現実に存在する事、しない事の差は大きいな。戦略的奇襲、それが出来たら凄いが不可能だ。これを実現されると撃たれる側の準備は間に合わない。飛んでくる28センチ榴弾を見ながら伝統的に優秀なロシア将校は何を思ったのだろうか。
今年の7月旅順攻略開始120周年
th-cam.com/video/PwJqiY_E3FE/w-d-xo.html
この映画の中で二十八センチ砲を使うと言う内容が出てきますよ。
昭和になって、理屈でなく、精神論がはばを利かす様になったのは、何故でしょうか。
兵は鉄砲玉と同じ価値。明治は過酷なり。
日本の戦艦を撃退する砲ですね、でもこんなもん良く持ってましたねー
そして誰が現場の要望を無視して、榴散弾を発注して送りつけたのか?w
対人や非装甲物に効果的な榴散弾では要塞を破壊出来ない。。。
日本軍の官僚化は、意外に早く始まっていた。と見るべきかな。
日本軍は、口径の小さい、榴弾砲でカノン砲は凄く少なかった!
対して、ロシア軍は、大口径榴弾砲や、中口径カノン砲を持っていた!
また、機関銃が有名だ!7.62㍉ベルト給弾式!
対する、日本軍は、6.5㍉歩兵銃、後方から、機関砲で撃ってた!
日本軍の機関銃はあまり知られてない?
秋山大佐の騎兵旅団が機関銃(機関砲)もってました。これで強力なコサック騎兵を撃退していました。
良い動画ですね
機関銃を前にひたすら兵士を突撃させた師団長乃木は長州人。
トップには向かなかった人物だが、幕末維新の中で人材を失い続けた長州にはもう人材がいなかった。
ロシア軍は、艦船から砲を取り外し203高地に据え付けた!
確か、ロシア軍も、28センチ砲を、持っていた!
だから、日本軍の、不発弾を、撃ち返した!
電気鉄条網はあまりにも酷い!
トンネル工法!穴掘り突撃!全て失敗!
すっごい消化不良!なんだか、もっとはっきり言えよ!