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水野さんて前向きで好奇心旺盛なんですね。先輩投手陣に可愛がられてたのもすごいわかる。
箕島、池田、横浜商業、公立校なのに春夏連覇、夏春連覇、春夏準優勝の強豪校が存在していた。凄い時代だった。
蔦さん凄いなア 当時から画期的な練習してたんだなあ 水分OK、飯食え 短時間練習 週一休みこの時代でこんなメリハリのある事どこもやってないわ 監督が殴らなくなって練習が楽しいって最高!
蔦さんが新しいもの好きとは知りませんでした。木内さんも新しいもの好きでした。
蔦さん先見性の明有りですね。
蔦監督は新しい物好きで、結構明るいお酒好きのおじさんだったらしいです。基本練習は筋トレとかバッティングでノックは基本しかやらないのはアメリカの野球の情報を聞いたからと言います。「アメリカの野球ってこうやるのか…うちもできるじゃろ」ってなったとか。体罰がある時は大体お酒飲んでいる時で(酒癖が悪いから)、お酒飲んでない日は結構おとなしかったとか…蔦監督時代の池田高校の選手の方によく聞くのが「あの当時の他の野球部だったらアウトだったよ。水飲め、肉食え、筋トレしろ、フライに近い打撃にしろ、週一休めは」と
やまびこ打線は伝説ですよね。今でも池田高校の動画見るとカンカン金属音が鳴りっぱなしですごい打線だと思う。それを産んだのは蔦監督の先進性だったんですね。スポーツ飲料を飲むっていうのはすごいな
箕島高校は練習が厳しくても、監督尾藤さんは練習中にも水分を取る必要があるのではないかと考え、水と蜂蜜とレモンを混ぜたものを練習中に選手に補給させていたそうです。偶々、尾藤さんの知り合いの大塚製薬の社員がそれを目の当たりにし、それをきっかけとして研究に入り、ポカリスエットが産まれる事になったそうです。箕島春夏連覇の最後に立ちはだかったのは池田でしたが、こんなとこにも蔦さんと尾藤さんの関わりがあるのは興味深いです。
ポカリスエットのあの濃い味は、当時のモニターが池田高校の野球部員だったからw
おおー凄いいい話。ありがとうございます😊
ポカリスエットは点滴用の溶剤が開発のベースになっているようです。経口補水液のOS-1も仲間のひとつ。
蔦さんに帝京の前田監督が弟子入りしてしばらく池田に滞在してたんですよね。蔦さんのハイカラぶりには目から鱗だったでしょうね。
あのときの池田高校はすさまじかったです。KKに負けた時は衝撃的でした。その時の水野さんと桑田二軍監督が巨人で一緒のチームメイトになるのはまたびっくりでした。
当時のやまびこ打線は異次元の攻撃野球だった。それにプラスして畠山さんや水野さんが好投手でした。まさに無敵で、PL学園に負けた時は高校野球ファンがみんなびっくりしたものでした。
水野さんが二年生畠山さんが三年生の時の夏の甲子園の決勝戦で「決勝で負けしらず(と当時のアナウンサーさんが紹介していた)」広島商業相手に、一回表にいきなり池田高校が6点取った時のスコアボードが、ずっと印象に残っています。その秘密がわかりました。40年経ってもまだ池田高校に追いついていないところがまだ残っている日本(のスポーツ界)を思うと、なんとも言えない感慨があります。画期的な一世を風靡する、また新しいタイプの指導者が、スポーツ界のみならずあらゆる分野に現れて欲しいものです。
PLに負けた時に蔦さんはこのまま勝ったら人生ダメになると
8番打者で一年生の桑田があんなホームラン打つんだからまさに怪物チームでしたw
のちに蔦さんはPLと当たったとき嫌な気がしたと言っていた。2年後の立浪らの世代をみて、本当に野球の才能があるのはこういうヤツらだとも言っていた。池田との方向性の違いが分かってたんだな
@@かがみ純 立浪の世代?立浪を始め野手は片岡と一学年下に宮本、四番に怪我さえなければプロ入りしてた深瀬、投手はプロで活躍した野村に橋本、もう一人の岩崎は大学社会人で全日本級エース、と考えたら確かに凄い才能のチームだ苦笑
水野さんと近い世代だけに伝わるし懐かしいなあ。当時、池田高校の筋トレで鍛えた体で金属バット振り回し打力で圧倒はその後の高校野球の潮流を変えましたね。(畠山投手、水野投手は高校生では対応できない投手だから守備練習減らして打撃練習増やすが出来たと伺ってはいますが。)
槇原さん水野雄仁さん対談しました池田高校は体力を付ける為にウェイトトレーニングをしたりしました大塚製薬が徳島にありますのでポカリスエットで水分補給をしました池田の街が池田高校を支えていた事はすごいと思います
香川出身です。池田高校、見に行きました。近くにダムがあって、けっこうのんびりした所にありました。ポカリの話は有名でしたねぇ。
大塚製薬が徳島県の企業だと知ったのは、Jリーグの『ヴォルティス徳島』を認識してからだったので、水野さんのお話に本当にびっくりしました。何よりも、そういうある種の「不文律」みたいなものに拘らなかった蔦文也さんという指導者が40年以上も前におられたことに、さらに驚きました(テレビカメラのおかげとはいえ、暴力もなくしたことも、今から考えたらもの凄いことなので、驚いてばかりです。)
畠山さんの時から池田高校応援していました。懐かしい話がいっぱいでうれしいです。
蔦監督の着眼点の凄さ。異種競技から来たコーチの才能。これだけ斬新なことを誰も考えられません。池田高校は、まさに40年先のトレーニングされていたことに、びっくりです。当時の池田高校甲子園の動画を見ると、レギュラーの胸板の暑さは、他校とくらべものにならないですね。9番バッターが、ホームラン2本打ってます。今になって凄さがわかりました。
PLに7-0で負けたとき、気になったのが上半身は池田の選手のほうがすごいが下半身はPLの選手のほうがどっしりしていた。特にほんの数ヶ月前は中坊だった桑田の下半身。走る姿からして、こりゃすごいのが出てきたな、と思った。
1983年8月20日 池田がPLに0-7で負けた時は甲子園の主役が交代した試合でしたね。当時高3でしたがよく覚えています。結構衝撃でした。
池田の水野投手は三回戦の広島商業戦で頭部に喰らったデッドボールの影響で、身体に力が入らずストレートが全く走らなかったそうです。その前の準々決勝は中京・野中との大会屈指の好投手対決で気合が入ってデッドボールの影響は無いかのように見えたのですが。。。人の身体は分からないものです。
3回戦の相手は興南と広島商の勝者が相手でもし興南なら好投手仲田でデッドボールなかったかもしれない、しかし当時の池田も水野投手も3連覇の重圧と水野自身も春優勝時の速球が1回戦からなかったのでいずれ破れてた、ただ相手が当時は前評判も低い1年生コンビのPL学園に敗れると思いませんでした。それから3年間はPLの時代、そのPLも今は廃部、池田高校はまた復活して甲子園を楽しませて欲しいです🎉
畠山投手の池田高校が登場してから明らかに高校野球が大きく変わりましたよね。まさに歴史が動いた瞬間でした。ルパン三世みたいなマキさん、カッコよかったですよ
水野がスカウト部長になってから、新人の的中率が飛躍的に上がった。ありがとう🎉
蔦監督ってやはりすごい人だったんですね。40年前に水分、ウエイト、週一の休みって当時は絶対考えられないですよね。自分が中高時代30年前でした(愛知県)がまだ水分補給NGの時代(赤星さんと同い年)でした。
北海道の当地ではポカリスエットは1980年から発売されましたが、畠山さんが池田高校に入学した年でもあり、自分は畠山さんと同学年世代です。自分の高校時代は練習中に水飲むのは禁止ではなかったですが、カプカプと飲める雰囲気ではなかったですね。自分が卒業してから強豪校になり練習も厳しくなりましたが、後輩達も練習中に水飲めてました。
蔦監督懐かしい😊たまにTH-camに上がっている在りし日の蔦さんを観ています。
また、あの池田の校歌が聞きたいなあ。おれらの世代はあの校歌を聞くとグッとくる
その時歴史が変わった。神回ですね。
ポカリのくだりは驚き!あの時代の世代なら皆んなびっくりだと思う。水分補給の重要性を証明していた。有酸素運動が少ないことも驚き。
水分補給ダメな学校多い中、水分補給を容認した監督は知る限り、蔦さん、木内さん、原貢さんと。
蔦さんは近代トレーニングの走りですね。
@@佐藤康彦-c6p箕島の尾藤監督も容認してましたね!
尾藤さんも水分補給は容認していたと。
ポカリの製造元である大塚製薬は徳島県鳴門市が創業の地。ポカリは販売当初全く売れず、どうしたら売れるかを必死に考えた営業マンが徳島県内の学校の運動部を地道に回り、パウダータイプの試供品を提供して練習中や練習後に飲んだら良いと説いて回ったらしいです。特に全国区になった池田高校野球部で飲まれているのが知れ渡ると、急速に売上が伸びたと言われています。
当時では画期的なトレーニング、食事、休養を取り入れた素晴らしい高校ですね
同じ世代なので、池田高校の蔦監督、大好きでした☺️県立高校で、甲子園を、旋風した事、まだ脳裏にあります👍
あのやまびこ打線💪💪💪まさかのレスリング🤼♀️副部長の最先端筋トレ🏋🏻💪がベースだったとは😂
蔦監督は高校野球の常識を変えた人だと思ってます。
ポカリは脱水症状も防いでくれたから夏の暑さにも池田は強かったわけだ👏
当時はポカリスエット珍しかった。あれから42年が経ち、ポカリスエットを含めたスポーツ飲料は当たり前になりましたね。
夏の暑さって言っても真夏の平均最高気温が30度から33度の時代やからな今と違って
うちの亡くなった親父が、蔦先生が同志社大学を出て社会人野球の全徳島のエースとして都市対抗野球に出場していた時期に徳島の球場で投げるところを直に見た事があったそうで水野さんが池田高校時代に甲子園で投げるのを一緒にテレビ観戦していた時に『水野の投げ方(投球フォーム)は、蔦はんによう(よく)似とる』って言っていたのを思い出しました。
同世代としては春に水野が投げてるのを見た時はびっくりしたし、プロになって畠山がバッターで水野がピッチャーというのもびっくりしたし、4番江上が早稲田からプロに行かなかったのもびっくりした。
江上は3番ですよ
こんばんは。なるほど結局はプロはピッチャーでしたけど野手でも成功されてたかも。高校の時のバッティング半端なかった。いくら金属でも。池田はホントね。蔦監督が名監督って言われる理由がわかりました。何でもまず取り入れてみる柔軟な思考力。見た目は田舎の人の良さそうなおじさんだったですけどスゴイ。
爽やかイレブン、やまびこ打線だっけ?観てて楽しい野球だったな。
当時は良くアナウンサーが「夏春夏」というキーワードを言ってましたよね。私は小学生の頃、昭和53年か54年の夏の甲子園で雨の中泥だらけになってた試合をたまたま見てて(確か試合には負けたはず)、そこからの池田を応援してました。なので、畠山選手の時の優勝はホントに嬉しかった。そして水野、江上世代になり春選抜で優勝!もちろんこのまま夏も優勝だと信じて疑わなかったので、PLに負けたことが当時信じられなかったんですよ。私は北海道出身なので、夏休みが本州よりも短く、準決勝の時にちょうど始業式でした。慌てて家に帰ってテレビつけたら0―7で負けてた時のショックは今でも覚えてますね😅
池田高校の裏側が聞けて面白かったです。水野さん、スカウト部長向いてますねw
週1回練習が休みだったこと、ポカリスエットを飲みながらやられてたこと、新情報でした(^^)
池田×PLをリアタイでテレビ観戦した世代です。自分は大阪出身大阪育ちですが、PLではなく池田を応援してました。それだけ当時の池田高校はセンセーショナルだった。ちなみに母校の校歌は覚えてないのに、池田の校歌は今でも覚えています。池高~ 池高~ おお~ われらが池高~
なるほど(笑)夏の府大会のPL戦を見たことがありますが地元の野球好きのおっちゃんに「PLはよ負けや!ぼけぇ!!」と激しく野次られてました😂地元以外からたくさん選手を集めてたからファンに反感があったんでしょうね
当時、県大会1、2回戦で負けるような普通の高校ですら、「水飲むな」「器具でウエイトするな!するなら自重のみ」「肉食いすぎるな」って指導がまかり通ってたのに、真逆かつ今の常識をこんな昔から取り入れてた(積極回復とかも)池田が強いはずだよね。あっぱれ。で、そこに勝ったPLもノースロ調整、無駄な走り込みしない、音楽オッケー、短時間練習とか画期的だったんだよねー
ポカリは病院周りの大塚の営業が医師が点滴冷やして飲んでるのをみて、聞くと点滴飲んでおくとその後の飲み会が楽という話しを聞いて開発。
水野さんの話,面白い。 あの池田高校強さの秘密は 蔦監督と部長先生の情熱そして地域の支えに依っていたとは・・・ 金属バットを温める?槇原さんの発想ぶっとび方には脱帽です。池田のユニフォーム最高でした。
水野さんがいた頃の池田高校のやまびこ打線マジで半端無かったと思います(^^)b我が地元石川県は星稜高校の山下監督も割と有名でしたが蔦監督も甲子園の名物監督でしたね✨
岡山県民ですが、箕島との死闘を友達の家で終わるまで見ていました。ファーストファウルフライで終わったと思ったが・・山下さんには一度優勝してもらいたかったなぁ。
@@Guraちゃん-l6r 最後まで甲子園優勝に手が届かなかったのが惜しまれますね
水野さんの話は面白いわ〜
水野が「早く色々な話をしたくてたまらない」という感じになってる。
水野は同じ中学の10歳年下の後輩で宝田町と言う隣町の出身だと記憶しています。阿波の金太郎と言われ巨人軍に入り活躍し退団後には縁あって同市内の後輩にあたる條辺氏のうどん屋の出店にも尽力されたと聞いています
皆、幸せそうで何よりです😊
そういえば高校時代の畠山さんも凄い体格してましたね。あれはお肉パワーだったのかwプロ入りしてからは若干スリムになったように感じてました😂
いい話ですね。選手と監督という枠を超えて各々が体罰と愛の違いを魂で分かっていた時代。人間とは本来そういう生き物のはず。人間関係でさえ機械を扱うかのようにルールやマニュアルを決めないとおかしくなる劣化した現代が哀しい。
短時間、筋トレ、休息、ステーキとポカリスエットは当時の番組や甲子園の記念対談(金村、水野、桑田)で出てましたね。金村ネタで、ポカリスエット飲んでと聞いて池田に殺意を憶えた、というのがあります。あの対談にあった荒木大輔池田高校訪問の後に、桑田真澄池田高校訪問はあったのでしょうか。
桑田さんは高校生の時に取手二高は訪問したけど池田訪問の話は聞いたことがないすね
水野さんが以前の対談(甲子園100年記念、水野、桑田、金村甲子園優勝投手対談)で水野さんは池田高校当時、現役で国立大学に入った程の頭の良いチームメイトがいて「金属は冷やした方が反発力が増す」と言って金属バットを氷を入れたタライにつけて冷やしたり、コールドスプレーを吹いたりしていたそうです。
昭和の終わり頃は荒木から水野、水野からKKってわかりやすいくらいのスターの移り代わりでしたねあの頃のい池田やPLは強すぎてむしろそこを倒した高校が輝いて見えました水野さんが二年生の時に荒木さんのいる早実がガンガン打たれて負けてまじかって思い、翌年に今度は水野さんのいる池田がPLにガンガン打たれて負けてまたまじかってなり二年続けて同じような感覚になりましたあの水野がホームラン三本打たれ打ったのが一年生でしかもあの池田が一年生に完封されたとでもきっちり相手の一年生四番の清原さんから4三振を奪ったのも覚えてます
😂二年生の時遠征で対戦して畠山さんにとてつも無い一発食らったので解ります😂夕食もステーキレストランでご一緒させて頂き毎日これ食べてからウエイトをガンガンやるからな‼️で圧倒されました‼️😂😂😂
確か帝京の前田監督が池田との対戦で力の差を感じウエイトトレーニングは取り入れたと思います。
木内監督も…取手ニ高の時から…栄養ドリンクが冷やしてあって…飲め飲め言ってたとか。木内監督…蔦監督は先を行ってたのか…
新しいもの好きの木内さんと蔦さんに共通点が。木内さんは蔦さんに憧れあるとコメント残してます。
うちの母親の母校が池田高校で水野さんのおかげでよく母が自慢してます
ポカリの力恐るべし
水野さん同じ歳でずっとみてました。
蔦監督が新しいもの好きだったとは驚き軍隊のような練習してるのかと思ってた
水野くんには悪いけど、池田高校の印象で強かったのは、昭和49年の11人で準優勝した時、これは本当に驚いた。何で勝ち上がってこれたんだろうと。理由がわからないから尚更だ。ただ、本当に強いなと感じたのは昭和54年の夏。このときは蔦監督の白髪が印象深く、中京を破った試合が特に鮮明に覚えてる。なんで徳島の高校があの中京に勝てるのかと。更にドカベン香川、牛島の浪商を封じて箕島に負けたというのは。蔦監督のポーカーフェイスがなんか憎らしかったなあ・・・。
イレブンの時のエース山本投手は素晴らしい本格派投手でしたね。背も高いしてっきり高卒でプロ入りするものと思ってました
池田と中京の世紀の一戦は昭和58年では?
@@山守裕之 池田対中京は昭和54年の三回戦で戦っているはずです。この年は、私も高3でしたので確かだと…。
@@wakuhonchan山本投手に恋してましたぁ。
@@yunkaeki5369 なるほど。イケメンでしたもんねw
水野さんはお兄さんもピッチヤーで、地元徳島県阿南市の富岡西高校のエースでした。池田や徳島商業あ、鳴門などに進学していたら甲子園に行ったかもしれないくらいの良い選手だったそうです。
「殴るのOK!」かと一瞬思った。
早実の荒木を畠山水野の池田が撃破池田の水野を清原桑田のPLが撃破思い出補正もあるんだろうけどこの頃はすごかった
そしてそのPLの元監督が大阪桐蔭を指導してやがて立場は逆転と😂
数年前祖谷渓に行く機会があり、池田高校を見に行った。なかなかな場所にあり、そりゃここから甲子園で大活躍する学校があったら町中大騒ぎだろうなと思った。
当時、高校野球の監督のインタビュー記事はどの地方の監督も共通語になってたけど、蔦監督のインタビュー記事は「◯◯じゃけんのう」と語尾を阿波弁みたいにされてました。中学生の頃、池田高校の試合を甲子園に見に行ったら、試合前練習で蔦監督が外野にノックしたら、高確率でエンタイトルツーベースになってたなあ。
@aatyan0519 語尾が必ず「だっぺ」(笑)
ポカリスエットって意外と歴史が浅いんですね🤔もっと昔からある物だと思ってました🥤😅蔦さんって厳しいイメージがありますが、時代の先駆者で素晴らしい監督さんですね。
70年代に粉末を溶かすタイプのスポーツドリンクがまずあった
桑田さんのホームランが衝撃的でした。まさに水野さん方と環境が真逆と言っても過言ではない当時一年生でスタンドインですから…しかも当時のバットで…野球は筋肉だけではないスポーツなんですね笑天性のものに勝るものはないですね笑
水分補給可は80年代では信じられない位先進的。他の強豪校では便所の水を飲んでいたり、怪物投手在学前後まで水分補給不可だった高校があった話を聞くと信じられない。
PL出身の小早川さんが、同級生みんな高1のときから身長変わらなかったって話してました。成長期に栄養と休息が不足するとそうなるんですね、、、
寝る時間ないという話
苦労するのは最初の一年だけじゃなかったんすかw
まあ宗教団体やから科学を知らんわけよ
打席に立つ時に胸のお守りを握るもんなあ
PL学園に行くと、身長止まると、当時言われていた。寝れないと。ヤバイ時代
当時の池田旋風を思い出しましたセカンドやってた久保さんの実家の床屋に通ってました。東京の飲み屋で一回水野さんを見かけましたので
窪さんかな。
甲子園話はこれからかなあ。PLとの話とか聞きたいなあ。
「責めダルマ」と言われてましたね、蔦監督。懐かしいです。水野さんはプロ入り時、野手でという話はなかったのでしょうか?⚾️
攻めダルマですね。
投手としても優れていたから、まずはピッチャーで勝負するのは仕方がないやろね。水野さんの背番号31は、本当かどうか知らないけど、当時のエース・江川さん(30番)と世界のホームラン王・王さん(1番)を合わせた番号なんて聞いたことがある。1984年のジュニアオールスターでは代打で登場(センターフライ)。1988年のオールスターでも代打で登場(サヨナラ犠牲フライで、優秀選手賞の100万円獲得)。ピッチャーなのに、代打で出場するってことは、バッターとしても期待されていたのは間違いない。やはり高校時代を知っている人なら「代打・水野」はテンション上がるよね。
畠山君と同じ学年で当時城北高校野球部でしたが、大塚製薬からポカリスエットの話はなかったと思います‼️
高校球児の頃から、結果的に科学的、先進的なモノを体験してきてるから、現在フロントでも活躍なさってるんだなぁと納得!
パンチ佐藤さんが、あれも1980年代でしょうけど、日体大は(当時から)短パンTシャツで水飲んでたって言ってましたね🤔
良い話が聞けたなあ。今では常識でもあの当時だと馬鹿にされたであろう手法を取り入れていたんですね!蔦さん恐るべし😮
蔦さんの柔軟な考えがよかったのかと思います。
母が特急列車の中で蔦監督にサインをしてもらったことが今でも自慢で、「鍛錬千日行 勝負一瞬行」のメモを今でも額に入れて飾ってます。
「超回復」をギャルみたいなアクセントで言うの好き。
金村義明さん呼んで欲しいです笑笑
夏・春・夏の3連覇を賭けた池田高校がPLとの決戦の前の試合で、打者・水野が側頭部にデッドボールを受けてから絶好調だった投・打の両面がおかしくなったというのは有名な話。
PL戦の前の試合は野中投手の中京で、死球はその前の広島商業戦ですね。つまりPL戦の前の前の試合という事になります。
PL全盛甲子園世代の私には面白い話ばかりσ(♡∞♡)💕去年たまたま徳島の鳴門に観光行った際、市内にドデカイポカリスエットの看板を見て大塚製薬って徳島なのかぁとってのを壮絶に思い出しました😊当時中学生球児だった私も練習中に水飲めず苦しんだので目鱗で羨ましいポカリス伝説でした(*^^*)
83年夏の甲子園はドカベン並みに強豪がひしめく面白い大会やったな *‘ω‘ *)
池田が夏春連覇の時、私は小学校1年!その時にバス遠足で池高に行き、優勝旗を横に置いて蔦監督と一緒に集合写真を撮った😄あと、うえのレストランで水野さんが3年の時、野球部の皆さんと焼肉食べた記憶がある!何であの時一緒に食べたのかは記憶が無いけど、皆さんの食欲にドン引きした時の印象は、今も残ってます!水野さんにはこれからも頑張ってほしいです😌あと小学校の時、水野さん&槙原さんの投げ方、真似してたなぁ〜⚾
私も水を飲んだらあかん時代に野球してました。トイレに行くふりして、トイレの水をがぶがぶのんでいました😅水野見に行こう。 水飲みに行こう。 ダジャレです。😅
71歳ですが、私の中学校、高校時代でも陸上部はいくらでも水は飲めました。野球部はまだそんなことをしてたんですね。また、長距離走の持久力など、野球にほとんど不用なのになぜ持久走をあんなにしてるのか不思議に思っていました。 蔦さんは、柔軟な考えだったんですね。
池田高校は県立の進学校でしたから、何もかも画期的でした。残念だったのは水野さんの頭に死球を受けてからの不調ですね。
あれがなければPLは7点も取れなかったと思います。でも選抜に比べたら水野投手の調子は落ちてましたね
頭部の死球があった試合も完投勝利してるし次の試合も完投勝利してるからね
進学校は言い過ぎですよ。徳島県人です。
水野さんには、この池田ネタがあるんだよなぁ😂いつ聞いても、興味しかないです 笑攻めダルマ(蔦監督)が育て上げた教え子の最高傑作は、やっぱり水野さんでしょうね😅高校時代のバッティングは、ホントにえげつなかった🎉個人的に、今でもプロで打者として観てみたかった人、No.1です!因みにNo.2は桑田さんかな😅
蔦監督は元プロ野球選手だったから、そういうモダンな考え方ができたのかもしれないですね。アマチュア一筋なら、こんな柔軟な発想にはなってないかも
圧倒的な打力で決勝まで勝ち進み、その決勝の相手が、犠打、スチール、小技を多用する「広商野球」の広島商業で、いくら池田高校でも名門広商には打撃通じないだろうという前評判を覆し、圧倒的な大差で打ち勝って優勝しました。広商の監督はその後辞任に追い込まれました。
水野投手は、徳島県阿南市(徳島県南部の、都市)の、製餡所の、息子さんです。
だから⁉️
40年も前の池田高校が近代的なトレーニングを行なっていたのは驚きました。
1982年時バレーボール部でしたがゲータレード🍊🍋回し飲みしてました☺️便所の水を飲むなんて酷い😭
槙サン、当時の池田高校は元祖ウェイトトレーニング導入、練習中の水分補給等、全てに於いて現在に通じる体制でしたよね!更に蔦文也先生は1年ですけどプロ野球経験者のはずです!東京ドームのウェストバッグのオヤジデェス!!
蔦さんは確か東映フライヤーズ【現在の日本ハム】に在籍してました。
実は正確には1950年に東急フライヤーズ在籍となっています!
昭和49年春甲子園準優勝、昭和54年夏甲子園準優勝…この時代はプロに行く選手もおらず、筋トレもまだしておらず、普通にバント野球でスクイズを多用して県立高校なのに勝ち上がっている…軍隊上がりで精神野球からよくもまあ新しい物を更に取り入れる発想が蔦監督になぜあったのか?当時インターネットもなく、あの田舎で?情報も少なかったはず…不思議だ…ある意味時代を先読む天才監督ではないか?昭和49年とか部員11人だけであそこまで行っている…😅
毎日更新してください!焦らしても意味ないです♪
先日 土讃線に乗り高知に行く途中阿波池田で降りてみましたが…駅前に高校があるんですね…大歩危峡や大田口良いとこでした
畠山さんを呼んで頂くようお願いします。水野さんとは違う池田高校や蔦さんの話を聞いてみたいですね。
テレビが来ると途中から殴られなくなるw
高校時代そんなにウェイトをやっていたのならプロ入ったとき、(当時は今ほどウェイトは推奨されてなかった)プロは遅れているなあと感じたでしょうね。
当時としては最先端の野球近年低反発バットに変わってまた高校野球の勝ち方も変わって来そうですね
蔦さんが出した本持ってます。一冊。
甲子園でガンガン打ってたので投手としてドラフトされたのはショックだったし、そのまま投手として選手生命全うしたのは意外だった。打者としてプロ野球選手水野を見たかったねぇ( 'ᢦ' )
PL戦は確か、清原は抑えたけど桑田に打たれたんだよね。甲子園の主役が交代した試合でした。
高校時代の清原さんは水野投手とか渡辺智投手とか超本格派には三振ばかりでしたね😂中山投手は打ったけど
@aatyan0519 大会の中盤以降ですね。最初はあまり調子良くなかったです。あの29-7の東海大山形戦はホームラン無しでしたw
@aatyan0519 そうでしたか。急成長したんすね🙌
@aatyan0519 あまりに遅かったということすか(笑)藤原投手可哀想w
@aatyan0519 そういう話は聞いたことがあります。が、反面怪我を否定して絶好調だったという意見もありましたね(笑)
ウエイトトレーニングしてたのは知ってたけど部長がレスリング出身だからなんだ!同年代だから見てました!池田高校が試合してた時は外見ると車は走って無かったと言えば大げさだけどホント少なかった
1983年5月に沖縄県高野連が夏春連覇を達成した池田を招いて那覇市の奥武山球場で招待試合を開催しました。迎え撃つ沖縄県勢は興南と沖縄水産で、池田と興南の試合は興南のエース仲田幸司(元阪神)が「やまびこ打線」の池田を被安打7、奪三振7に抑え、5ー0で完封しました。@沖縄県那覇市首里 沖縄県民
NHKの特集はビデオに録画して見た記憶があります。ポカリはさすがに出てなかったと思います。気づかなかっただけかな。
水野さんて前向きで好奇心旺盛なんですね。先輩投手陣に可愛がられてたのもすごいわかる。
箕島、池田、横浜商業、公立校なのに春夏連覇、夏春連覇、春夏準優勝の強豪校が存在していた。凄い時代だった。
蔦さん凄いなア 当時から画期的な練習してたんだなあ 水分OK、飯食え 短時間練習 週一休み
この時代でこんなメリハリのある事どこもやってないわ 監督が殴らなくなって練習が楽しいって最高!
蔦さんが新しいもの好きとは知りませんでした。木内さんも新しいもの好きでした。
蔦さん先見性の明有りですね。
蔦監督は新しい物好きで、結構明るいお酒好きのおじさんだったらしいです。
基本練習は筋トレとかバッティングでノックは基本しかやらないのはアメリカの野球の情報を聞いたからと言います。
「アメリカの野球ってこうやるのか…うちもできるじゃろ」ってなったとか。
体罰がある時は大体お酒飲んでいる時で(酒癖が悪いから)、お酒飲んでない日は結構おとなしかったとか…
蔦監督時代の池田高校の選手の方によく聞くのが
「あの当時の他の野球部だったらアウトだったよ。水飲め、肉食え、筋トレしろ、フライに近い打撃にしろ、週一休めは」
と
やまびこ打線は伝説ですよね。今でも池田高校の動画見るとカンカン金属音が鳴りっぱなしですごい打線だと思う。それを産んだのは蔦監督の先進性だったんですね。スポーツ飲料を飲むっていうのはすごいな
箕島高校は練習が厳しくても、監督尾藤さんは練習中にも水分を取る必要があるのではないかと考え、水と蜂蜜とレモンを混ぜたものを練習中に選手に補給させていたそうです。偶々、尾藤さんの知り合いの大塚製薬の社員がそれを目の当たりにし、それをきっかけとして研究に入り、ポカリスエットが産まれる事になったそうです。箕島春夏連覇の最後に立ちはだかったのは池田でしたが、こんなとこにも蔦さんと尾藤さんの関わりがあるのは興味深いです。
ポカリスエットのあの濃い味は、当時のモニターが池田高校の野球部員だったからw
おおー凄いいい話。
ありがとうございます😊
ポカリスエットは点滴用の溶剤が開発のベースになっているようです。経口補水液のOS-1も仲間のひとつ。
蔦さんに帝京の前田監督が弟子入りしてしばらく池田に滞在してたんですよね。蔦さんのハイカラぶりには目から鱗だったでしょうね。
あのときの池田高校はすさまじかったです。KKに負けた時は衝撃的でした。
その時の水野さんと桑田二軍監督が巨人で一緒のチームメイトになるのはまたびっくりでした。
当時のやまびこ打線は異次元の攻撃野球だった。それにプラスして畠山さんや水野さんが好投手でした。
まさに無敵で、PL学園に負けた時は高校野球ファンがみんなびっくりしたものでした。
水野さんが二年生畠山さんが三年生の時の夏の甲子園の決勝戦で「決勝で負けしらず(と当時のアナウンサーさんが紹介していた)」広島商業相手に、一回表にいきなり池田高校が6点取った時のスコアボードが、ずっと印象に残っています。
その秘密がわかりました。
40年経ってもまだ池田高校に追いついていないところがまだ残っている日本(のスポーツ界)を思うと、なんとも言えない感慨があります。
画期的な一世を風靡する、また新しいタイプの指導者が、スポーツ界のみならずあらゆる分野に現れて欲しいものです。
PLに負けた時に蔦さんはこのまま勝ったら人生ダメになると
8番打者で一年生の桑田があんなホームラン打つんだからまさに怪物チームでしたw
のちに蔦さんはPLと当たったとき嫌な気がしたと言っていた。2年後の立浪らの世代をみて、本当に野球の才能があるのはこういうヤツらだとも言っていた。池田との方向性の違いが分かってたんだな
@@かがみ純
立浪の世代?
立浪を始め野手は片岡と一学年下に宮本、四番に怪我さえなければプロ入りしてた深瀬、投手はプロで活躍した野村に橋本、もう一人の岩崎は大学社会人で全日本級エース、と考えたら確かに凄い才能のチームだ苦笑
水野さんと近い世代だけに伝わるし懐かしいなあ。当時、池田高校の筋トレで鍛えた体で金属バット振り回し打力で圧倒はその後の高校野球の潮流を変えましたね。(畠山投手、水野投手は高校生では対応できない投手だから守備練習減らして打撃練習増やすが出来たと伺ってはいますが。)
槇原さん水野雄仁さん対談しました池田高校は体力を付ける為にウェイトトレーニングをしたりしました大塚製薬が徳島にありますのでポカリスエットで水分補給をしました池田の街が池田高校を支えていた事はすごいと思います
香川出身です。池田高校、見に行きました。近くにダムがあって、けっこうのんびりした所にありました。ポカリの話は有名でしたねぇ。
大塚製薬が徳島県の企業だと知ったのは、Jリーグの『ヴォルティス徳島』を認識してからだったので、水野さんのお話に本当にびっくりしました。
何よりも、そういうある種の「不文律」みたいなものに拘らなかった蔦文也さんという指導者が40年以上も前におられたことに、さらに驚きました(テレビカメラのおかげとはいえ、暴力もなくしたことも、今から考えたらもの凄いことなので、驚いてばかりです。)
畠山さんの時から池田高校応援していました。
懐かしい話がいっぱいでうれしいです。
蔦監督の着眼点の凄さ。異種競技から来たコーチの才能。これだけ斬新なことを誰も考えられません。池田高校は、まさに40年先のトレーニングされていたことに、びっくりです。当時の池田高校甲子園の動画を見ると、レギュラーの胸板の暑さは、他校とくらべものにならないですね。9番バッターが、ホームラン2本打ってます。今になって凄さがわかりました。
PLに7-0で負けたとき、気になったのが上半身は池田の選手のほうがすごいが下半身はPLの選手のほうがどっしりしていた。特にほんの数ヶ月前は中坊だった桑田の下半身。走る姿からして、こりゃすごいのが出てきたな、と思った。
1983年8月20日 池田がPLに0-7で負けた時は甲子園の主役が交代した試合でしたね。当時高3でしたがよく覚えています。結構衝撃でした。
池田の水野投手は三回戦の広島商業戦で頭部に喰らったデッドボールの影響で、身体に力が入らずストレートが全く走らなかったそうです。
その前の準々決勝は中京・野中との大会屈指の好投手対決で気合が入ってデッドボールの影響は無いかのように見えたのですが。。。人の身体は分からないものです。
3回戦の相手は興南と広島商の勝者が相手でもし興南なら好投手仲田でデッドボールなかったかもしれない、しかし当時の池田も水野投手も3連覇の重圧と水野自身も春優勝時の速球が1回戦からなかったのでいずれ破れてた、ただ相手が当時は前評判も低い1年生コンビのPL学園に敗れると思いませんでした。それから3年間はPLの時代、そのPLも今は廃部、池田高校はまた復活して甲子園を楽しませて欲しいです🎉
畠山投手の池田高校が登場してから明らかに高校野球が大きく変わりましたよね。まさに歴史が動いた瞬間でした。
ルパン三世みたいなマキさん、カッコよかったですよ
水野がスカウト部長になってから、新人の的中率が飛躍的に上がった。ありがとう🎉
蔦監督ってやはりすごい人だったんですね。
40年前に水分、ウエイト、週一の休みって当時は絶対考えられないですよね。自分が中高時代30年前でした(愛知県)がまだ水分補給NGの時代(赤星さんと同い年)でした。
北海道の当地ではポカリスエットは1980年から発売されましたが、畠山さんが池田高校に入学した年でもあり、自分は畠山さんと同学年世代です。自分の高校時代は練習中に水飲むのは禁止ではなかったですが、カプカプと飲める雰囲気ではなかったですね。自分が卒業してから強豪校になり練習も厳しくなりましたが、後輩達も練習中に水飲めてました。
蔦監督懐かしい😊たまにTH-camに上がっている在りし日の蔦さんを観ています。
また、あの池田の校歌が聞きたいなあ。おれらの世代はあの校歌を聞くとグッとくる
その時歴史が変わった。
神回ですね。
ポカリのくだりは驚き!あの時代の世代なら皆んなびっくりだと思う。水分補給の重要性を証明していた。有酸素運動が少ないことも驚き。
水分補給ダメな学校多い中、水分補給を容認した監督は知る限り、蔦さん、木内さん、原貢さんと。
蔦さんは近代トレーニングの走りですね。
@@佐藤康彦-c6p
箕島の尾藤監督も容認してましたね!
尾藤さんも水分補給は容認していたと。
ポカリの製造元である大塚製薬は徳島県鳴門市が創業の地。ポカリは販売当初全く売れず、どうしたら売れるかを必死に考えた営業マンが徳島県内の学校の運動部を地道に回り、パウダータイプの試供品を提供して練習中や練習後に飲んだら良いと説いて回ったらしいです。
特に全国区になった池田高校野球部で飲まれているのが知れ渡ると、急速に売上が伸びたと言われています。
当時では画期的なトレーニング、食事、休養を取り入れた素晴らしい高校ですね
同じ世代なので、池田高校の蔦監督、大好きでした☺️県立高校で、甲子園を、旋風した事、まだ脳裏にあります👍
あのやまびこ打線💪💪💪
まさかのレスリング🤼♀️副部長
の最先端筋トレ🏋🏻💪が
ベースだったとは😂
蔦監督は高校野球の常識を変えた人だと思ってます。
ポカリは脱水症状も防いでくれたから夏の暑さにも池田は強かったわけだ👏
当時はポカリスエット珍しかった。あれから42年が経ち、ポカリスエットを含めたスポーツ飲料は当たり前になりましたね。
夏の暑さって言っても真夏の平均最高気温が30度から33度の時代やからな今と違って
うちの亡くなった親父が、
蔦先生が同志社大学を出て社会人野球の全徳島のエースとして都市対抗野球に出場していた時期に徳島の球場で投げるところを直に見た事があったそうで水野さんが池田高校時代に甲子園で投げるのを一緒にテレビ観戦していた時に『水野の投げ方(投球フォーム)は、蔦はんによう(よく)似とる』って言っていたのを思い出しました。
同世代としては春に水野が投げてるのを見た時はびっくりしたし、プロになって畠山がバッターで水野がピッチャーというのもびっくりしたし、4番江上が早稲田からプロに行かなかったのもびっくりした。
江上は3番ですよ
こんばんは。なるほど結局はプロはピッチャーでしたけど野手でも成功されてたかも。高校の時のバッティング半端なかった。いくら金属でも。池田はホントね。
蔦監督が名監督って言われる理由がわかりました。何でもまず取り入れてみる柔軟な思考力。見た目は田舎の人の良さそうなおじさんだったですけどスゴイ。
爽やかイレブン、やまびこ打線だっけ?
観てて楽しい野球だったな。
当時は良くアナウンサーが「夏春夏」というキーワードを言ってましたよね。私は小学生の頃、昭和53年か54年の夏の甲子園で雨の中泥だらけになって
た試合をたまたま見てて(確か試合には負けたはず)、そこからの池田を応援してました。なので、畠山選手の時の優勝はホントに嬉しかった。そして水野、江上世代になり春選抜で優勝!もちろんこのまま夏も優勝だと信じて疑わなかったので、PLに負けたことが当時信じられなかったんですよ。
私は北海道出身なので、夏休みが本州よりも短く、準決勝の時にちょうど始業式でした。
慌てて家に帰ってテレビつけたら0―7で負けてた時のショックは今でも覚えてますね😅
池田高校の裏側が聞けて面白かったです。水野さん、スカウト部長向いてますねw
週1回練習が休みだったこと、ポカリスエットを飲みながらやられてたこと、新情報でした(^^)
池田×PLをリアタイでテレビ観戦した世代です。
自分は大阪出身大阪育ちですが、PLではなく池田を応援してました。
それだけ当時の池田高校はセンセーショナルだった。
ちなみに母校の校歌は覚えてないのに、池田の校歌は今でも覚えています。
池高~ 池高~ おお~ われらが池高~
なるほど(笑)夏の府大会のPL戦を見たことがありますが地元の野球好きのおっちゃんに「PLはよ負けや!ぼけぇ!!」と激しく野次られてました😂地元以外からたくさん選手を集めてたからファンに反感があったんでしょうね
当時、県大会1、2回戦で負けるような普通の高校ですら、「水飲むな」「器具でウエイトするな!するなら自重のみ」「肉食いすぎるな」って指導がまかり通ってたのに、真逆かつ今の常識をこんな昔から取り入れてた(積極回復とかも)池田が強いはずだよね。あっぱれ。
で、そこに勝ったPLもノースロ調整、無駄な走り込みしない、音楽オッケー、短時間練習とか画期的だったんだよねー
ポカリは病院周りの大塚の営業が医師が点滴冷やして飲んでるのをみて、聞くと点滴飲んでおくとその後の飲み会が楽という話しを聞いて開発。
水野さんの話,面白い。 あの池田高校強さの秘密は 蔦監督と部長先生の情熱そして地域の支えに依っていたとは・・・ 金属バットを温める?槇原さんの発想ぶっとび方には脱帽です。池田のユニフォーム最高でした。
水野さんがいた頃の池田高校のやまびこ打線マジで半端無かったと思います(^^)b
我が地元石川県は星稜高校の山下監督も割と有名でしたが蔦監督も甲子園の名物監督でしたね✨
岡山県民ですが、箕島との死闘を友達の家で終わるまで見ていました。ファーストファウルフライで終わったと思ったが・・
山下さんには一度優勝してもらいたかったなぁ。
@@Guraちゃん-l6r 最後まで甲子園優勝に手が届かなかったのが惜しまれますね
水野さんの話は面白いわ〜
水野が「早く色々な話をしたくてたまらない」という感じになってる。
水野は同じ中学の10歳年下の後輩で
宝田町と言う隣町の出身だと記憶しています。
阿波の金太郎と言われ巨人軍に入り活躍し
退団後には縁あって同市内の後輩にあたる條辺氏の
うどん屋の出店にも尽力されたと聞いています
皆、幸せそうで
何よりです😊
そういえば高校時代の畠山さんも凄い体格してましたね。あれはお肉パワーだったのかwプロ入りしてからは若干スリムになったように感じてました😂
いい話ですね。選手と監督という枠を超えて各々が体罰と愛の違いを魂で分かっていた時代。
人間とは本来そういう生き物のはず。人間関係でさえ機械を扱うかのようにルールやマニュアルを決めないとおかしくなる劣化した現代が哀しい。
短時間、筋トレ、休息、ステーキとポカリスエットは当時の番組や甲子園の記念対談(金村、水野、桑田)で出てましたね。
金村ネタで、ポカリスエット飲んでと聞いて池田に殺意を憶えた、というのがあります。
あの対談にあった荒木大輔池田高校訪問の後に、桑田真澄池田高校訪問はあったのでしょうか。
桑田さんは高校生の時に取手二高は訪問したけど池田訪問の話は聞いたことがないすね
水野さんが以前の対談(甲子園100年記念、水野、桑田、金村甲子園優勝投手対談)で水野さんは池田高校当時、現役で国立大学に入った程の頭の良いチームメイトがいて「金属は冷やした方が反発力が増す」と言って金属バットを氷を入れたタライにつけて冷やしたり、コールドスプレーを吹いたりしていたそうです。
昭和の終わり頃は荒木から水野、水野からKKってわかりやすいくらいのスターの移り代わりでしたね
あの頃のい池田やPLは強すぎてむしろそこを倒した高校が輝いて見えました
水野さんが二年生の時に荒木さんのいる早実がガンガン打たれて負けてまじかって思い、翌年に今度は水野さんのいる池田がPLにガンガン打たれて負けてまたまじかってなり
二年続けて同じような感覚になりました
あの水野がホームラン三本打たれ打ったのが一年生でしかもあの池田が一年生に完封されたと
でもきっちり相手の一年生四番の清原さんから4三振を奪ったのも覚えてます
😂二年生の時遠征で対戦して畠山さんにとてつも無い一発食らったので解ります😂夕食もステーキレストランでご一緒させて頂き毎日これ食べてからウエイトをガンガンやるからな‼️で圧倒されました‼️😂😂😂
確か帝京の前田監督が池田との対戦で力の差を感じウエイトトレーニングは取り入れたと思います。
木内監督も…取手ニ高の時から…栄養ドリンクが冷やしてあって…飲め飲め言ってたとか。木内監督…蔦監督は先を行ってたのか…
新しいもの好きの木内さんと蔦さんに共通点が。木内さんは蔦さんに憧れあるとコメント残してます。
うちの母親の母校が池田高校で水野さんのおかげでよく母が自慢してます
ポカリの力恐るべし
水野さん同じ歳でずっとみてました。
蔦監督が新しいもの好きだったとは驚き
軍隊のような練習してるのかと思ってた
水野くんには悪いけど、池田高校の印象で強かったのは、昭和49年の11人で準優勝した時、これは本当に驚いた。
何で勝ち上がってこれたんだろうと。理由がわからないから尚更だ。
ただ、本当に強いなと感じたのは昭和54年の夏。このときは蔦監督の白髪が印象深く、中京を破った試合が特に鮮明に覚えてる。
なんで徳島の高校があの中京に勝てるのかと。更にドカベン香川、牛島の浪商を封じて箕島に負けたというのは。
蔦監督のポーカーフェイスがなんか憎らしかったなあ・・・。
イレブンの時のエース山本投手は素晴らしい本格派投手でしたね。背も高いしてっきり高卒でプロ入りするものと思ってました
池田と中京の世紀の一戦は昭和58年では?
@@山守裕之
池田対中京は昭和54年の三回戦で戦っているはずです。
この年は、私も高3でしたので確かだと…。
@@wakuhonchan山本投手に恋してましたぁ。
@@yunkaeki5369
なるほど。イケメンでしたもんねw
水野さんはお兄さんもピッチヤーで、地元徳島県阿南市の富岡西高校のエースでした。
池田や徳島商業あ、鳴門などに進学していたら甲子園に行ったかもしれないくらいの良い選手だったそうです。
「殴るのOK!」かと一瞬思った。
早実の荒木を畠山水野の池田が撃破
池田の水野を清原桑田のPLが撃破
思い出補正もあるんだろうけどこの頃はすごかった
そしてそのPLの元監督が大阪桐蔭を指導してやがて立場は逆転と😂
数年前祖谷渓に行く機会があり、池田高校を見に行った。なかなかな場所にあり、そりゃここから甲子園で大活躍する学校があったら町中大騒ぎだろうなと思った。
当時、高校野球の監督のインタビュー記事はどの地方の監督も共通語になってたけど、蔦監督のインタビュー記事は「◯◯じゃけんのう」と語尾を阿波弁みたいにされてました。
中学生の頃、池田高校の試合を甲子園に見に行ったら、試合前練習で蔦監督が外野にノックしたら、高確率でエンタイトルツーベースになってたなあ。
@aatyan0519
語尾が必ず「だっぺ」(笑)
ポカリスエットって意外と歴史が浅いんですね🤔もっと昔からある物だと思ってました🥤😅蔦さんって厳しいイメージがありますが、時代の先駆者で素晴らしい監督さんですね。
70年代に粉末を溶かすタイプのスポーツドリンクがまずあった
桑田さんのホームランが衝撃的でした。
まさに水野さん方と環境が真逆と言っても過言ではない当時一年生でスタンドインですから…しかも当時のバットで…
野球は筋肉だけではないスポーツなんですね笑天性のものに勝るものはないですね笑
水分補給可は80年代では信じられない位先進的。他の強豪校では便所の水を飲んでいたり、怪物投手在学前後まで水分補給不可だった高校があった話を聞くと信じられない。
PL出身の小早川さんが、同級生みんな高1のときから身長変わらなかったって話してました。成長期に栄養と休息が不足するとそうなるんですね、、、
寝る時間ないという話
苦労するのは最初の一年だけじゃなかったんすかw
まあ宗教団体やから
科学を知らんわけよ
打席に立つ時に胸のお守りを握るもんなあ
PL学園に行くと、身長止まる
と、当時言われていた。寝れないと。
ヤバイ時代
当時の池田旋風を思い出しましたセカンドやってた久保さんの実家の床屋に通ってました。東京の飲み屋で一回水野さんを見かけましたので
窪さんかな。
甲子園話はこれからかなあ。PLとの話とか聞きたいなあ。
「責めダルマ」と言われてましたね、蔦監督。懐かしいです。水野さんはプロ入り時、野手でという話はなかったのでしょうか?⚾️
攻めダルマですね。
投手としても優れていたから、まずはピッチャーで勝負するのは仕方がないやろね。水野さんの背番号31は、本当かどうか知らないけど、当時のエース・江川さん(30番)と世界のホームラン王・王さん(1番)を合わせた番号なんて聞いたことがある。
1984年のジュニアオールスターでは代打で登場(センターフライ)。1988年のオールスターでも代打で登場(サヨナラ犠牲フライで、優秀選手賞の100万円獲得)。ピッチャーなのに、代打で出場するってことは、バッターとしても期待されていたのは間違いない。やはり高校時代を知っている人なら「代打・水野」はテンション上がるよね。
畠山君と同じ学年で当時城北高校野球部でしたが、大塚製薬からポカリスエットの話はなかったと思います‼️
高校球児の頃から、結果的に科学的、先進的なモノを体験してきてるから、現在フロントでも活躍なさってるんだなぁと納得!
パンチ佐藤さんが、あれも1980年代でしょうけど、日体大は(当時から)短パンTシャツで水飲んでたって言ってましたね🤔
良い話が聞けたなあ。今では常識でもあの当時だと馬鹿にされたであろう手法を取り入れていたんですね!蔦さん恐るべし😮
蔦さんの柔軟な考えがよかったのかと思います。
母が特急列車の中で蔦監督にサインをしてもらったことが今でも自慢で、
「鍛錬千日行 勝負一瞬行」
のメモを今でも額に入れて飾ってます。
「超回復」をギャルみたいなアクセントで言うの好き。
金村義明さん呼んで欲しいです笑笑
夏・春・夏の3連覇を賭けた池田高校がPLとの決戦の前の試合で、打者・水野が側頭部にデッドボールを受けてから絶好調だった投・打の両面がおかしくなったというのは有名な話。
PL戦の前の試合は野中投手の中京で、死球はその前の広島商業戦ですね。つまりPL戦の前の前の試合という事になります。
PL全盛甲子園世代の私には面白い話ばかりσ(♡∞♡)💕
去年たまたま徳島の鳴門に観光行った際、市内にドデカイポカリスエットの看板を見て大塚製薬って徳島なのかぁとってのを壮絶に思い出しました😊
当時中学生球児だった私も練習中に水飲めず苦しんだので目鱗で羨ましいポカリス伝説でした(*^^*)
83年夏の甲子園は
ドカベン並みに強豪がひしめく面白い大会やったな *‘ω‘ *)
池田が夏春連覇の時、私は小学校1年!その時にバス遠足で池高に行き、優勝旗を横に置いて蔦監督と一緒に集合写真を撮った😄
あと、うえのレストランで水野さんが3年の時、野球部の皆さんと焼肉食べた記憶がある!何であの時一緒に食べたのかは記憶が無いけど、皆さんの食欲にドン引きした時の印象は、今も残ってます!
水野さんにはこれからも頑張ってほしいです😌
あと小学校の時、水野さん&槙原さんの投げ方、真似してたなぁ〜⚾
私も水を飲んだらあかん時代に野球してました。
トイレに行くふりして、トイレの水をがぶがぶのんでいました😅
水野見に行こう。 水飲みに行こう。 ダジャレです。😅
71歳ですが、私の中学校、高校時代でも陸上部はいくらでも水は飲めました。野球部はまだそんなことをしてたんですね。また、長距離走の持久力など、野球にほとんど不用なのになぜ持久走をあんなにしてるのか不思議に思っていました。
蔦さんは、柔軟な考えだったんですね。
池田高校は県立の進学校でしたから、何もかも画期的でした。残念だったのは水野さんの頭に死球を受けてからの不調ですね。
あれがなければPLは7点も取れなかったと思います。でも選抜に比べたら水野投手の調子は落ちてましたね
頭部の死球があった試合も完投勝利してるし
次の試合も完投勝利してるからね
進学校は言い過ぎですよ。徳島県人です。
水野さんには、この池田ネタがあるんだよなぁ😂
いつ聞いても、興味しかないです 笑
攻めダルマ(蔦監督)が育て上げた教え子の最高傑作は、やっぱり水野さんでしょうね😅
高校時代のバッティングは、ホントにえげつなかった🎉
個人的に、今でもプロで打者として観てみたかった人、No.1です!
因みにNo.2は桑田さんかな😅
蔦監督は元プロ野球選手だったから、そういうモダンな考え方ができたのかもしれないですね。
アマチュア一筋なら、こんな柔軟な発想にはなってないかも
圧倒的な打力で決勝まで勝ち進み、その決勝の相手が、犠打、スチール、小技を多用する「広商野球」の広島商業で、いくら池田高校でも名門広商には打撃通じないだろうという前評判を覆し、圧倒的な大差で打ち勝って優勝しました。広商の監督はその後辞任に追い込まれました。
水野投手は、徳島県阿南市(徳島県南部の、都市)の、製餡所の、息子さんです。
だから⁉️
40年も前の池田高校が近代的なトレーニングを行なっていたのは驚きました。
1982年時
バレーボール部でしたが
ゲータレード🍊🍋
回し飲みしてました☺️
便所の水を飲むなんて
酷い😭
槙サン、当時の池田高校は元祖ウェイトトレーニング導入、練習中の水分補給等、全てに於いて現在に通じる体制でしたよね!更に蔦文也先生は1年ですけどプロ野球経験者のはずです!東京ドームのウェストバッグのオヤジデェス!!
蔦さんは確か東映フライヤーズ【現在の日本ハム】に在籍してました。
実は正確には1950年に東急フライヤーズ在籍となっています!
昭和49年春甲子園準優勝、昭和54年夏甲子園準優勝…この時代はプロに行く選手もおらず、筋トレもまだしておらず、普通にバント野球でスクイズを多用して県立高校なのに勝ち上がっている…軍隊上がりで精神野球からよくもまあ新しい物を更に取り入れる発想が蔦監督になぜあったのか?当時インターネットもなく、あの田舎で?情報も少なかったはず…不思議だ…ある意味時代を先読む天才監督ではないか?昭和49年とか部員11人だけであそこまで行っている…😅
毎日更新してください!焦らしても意味ないです♪
先日 土讃線に乗り高知に行く途中
阿波池田で降りてみましたが…駅前に
高校があるんですね…大歩危峡や大田口
良いとこでした
畠山さんを呼んで頂くようお願いします。水野さんとは違う池田高校や蔦さんの話を聞いてみたいですね。
テレビが来ると途中から殴られなくなるw
高校時代そんなにウェイトをやっていたのならプロ入ったとき、
(当時は今ほどウェイトは推奨されてなかった)プロは遅れているなあと感じたでしょうね。
当時としては最先端の野球
近年低反発バットに変わってまた高校野球の勝ち方も変わって来そうですね
蔦さんが出した本持ってます。一冊。
甲子園でガンガン打ってたので投手としてドラフトされたのはショックだったし、そのまま投手として選手生命全うしたのは意外だった。
打者としてプロ野球選手水野を見たかったねぇ( 'ᢦ' )
PL戦は確か、清原は抑えたけど桑田に打たれたんだよね。
甲子園の主役が交代した試合でした。
高校時代の清原さんは水野投手とか渡辺智投手とか超本格派には三振ばかりでしたね😂中山投手は打ったけど
@aatyan0519
大会の中盤以降ですね。最初はあまり調子良くなかったです。あの29-7の東海大山形戦はホームラン無しでしたw
@aatyan0519
そうでしたか。急成長したんすね🙌
@aatyan0519
あまりに遅かったということすか(笑)藤原投手可哀想w
@aatyan0519
そういう話は聞いたことがあります。が、反面怪我を否定して絶好調だったという意見もありましたね(笑)
ウエイトトレーニングしてたのは知ってたけど部長がレスリング出身だからなんだ!同年代だから見てました!池田高校が試合してた時は外見ると車は走って無かったと言えば大げさだけどホント少なかった
1983年5月に沖縄県高野連が夏春連覇を達成した池田を招いて那覇市の奥武山球場で招待試合を開催しました。
迎え撃つ沖縄県勢は興南と沖縄水産で、池
田と興南の試合は興南のエース仲田幸司(元
阪神)が「やまびこ打線」の池田を被安打7、奪三振7に抑え、5ー0で完封しました。
@沖縄県那覇市首里 沖縄県民
NHKの特集はビデオに録画して見た記憶があります。
ポカリはさすがに出てなかったと思います。気づかなかっただけかな。