006 S 山原疎開・大宜味村謝名城:高良ツル子(宜保)
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- เผยแพร่เมื่อ 29 พ.ย. 2024
- 戦時中、11歳の高良ツル子さん
楽しみにしていた卒業式が空襲で中止になったことが
忘れられません。
家族と疎開した大宜味村謝名城。
厳しい山の疎開生活とは…
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「語り継ぐ受け継ぐ豊見城の戦争記憶」のアンケートを行っております。感想や活用方法のアイディア等をお教えてください。
・アンケートリンク<docs.google.co...
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ショートバージョン
沖縄県豊見城市教育委員会文化課 所蔵
H29・30年度 戦争体験等映像化事業
沖縄振興特別推進市町村交付金事業(一括交付金)
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全文書き起こし
出身字と家族
私、(出身字は)宜保です
(家族は)83歳になる曾祖母、おじいさん、おばあさん、私、父、母、6名です
宜保集落
当時は50世帯ぐらいで小さいけれど、今は、平和台とかも宜保になって様変わりしました
田舎から那覇に変わっているような感じ。大変な変わり様が今の宜保
豊見城第二国民学校
私の学校は、第二豊見城国民学校
団体登校
お兄さんたちが、みんな集めて、団体登校した
高等1年生と2年生が、しっかりしまして、1か所に集めて
小さい子を先に、並んでお兄さんたちが連れて歩いて、学校まで、大変楽しかった
空 襲
6年生の3月の23日
高等科1年、高等科2年そろって修了式、卒業式、もうワクワクですよ
朝起きて洗面をしている時、「あれ、何かおかしいよ、これは。飛行機の音よ」
2機、3機、5機と、ゴロゴロとやってきて、しばらくしたら役所の方からサイレンが鳴って
「空襲警報」が鳴ったわけです、夕方まで
あの時は、学校行けない、卒業式もない、警報始まってるから
山原疎開 出発
大宜味の謝名城に豊見城は避難しなさいという命令だった(と思います)
(役所で)どこの字は田嘉里、どこの字は喜如嘉、どこの字は謝名城、個々にわけられていた
宜保は謝名城だったわけです
家にあるおイモ、お米、味噌とか馬車に積んで
83歳の曾祖母と私は、早く謝名城に行かないといけないから
夕方(家を)出て、夕方(津波に)着いた。トラックで、日本軍の
車で津波小学校に(曾祖母と私は)行った。おじいさんは馬車で(謝名城へ)
山原疎開 謝名城
謝名城にやっと着いて、それから私たちを津波まで、夜迎えにきたわけです
馬車で、私たちは大雨の中、艦砲射撃の中を、行ったんです
着いた途端、謝名城も「山に避難しなさい」だった
山原疎開 謝名城
豊見城から来た人は、みんな奥山に避難している
自分たちの食べ物は
奥山に、おじいさんの兄妹の所に預けてあった
曾祖母が奥まで歩けないという一つの理由と、おじいさんが馬車馬を持ってますでしょ
馬車は謝名城の部落に馬車までは山登れませんから
山原疎開 炭窯
手前にある炭窯
木炭を作る窯がある、大きい窯、お墓みたいな窯があるんです
その炭窯で生活しました
6名炭窯にいまして
山原疎開 食べ物
炭窯での生活は、食べ物がないでしょ。
夜は、農具の代わりで(竹のヘラ)を持って、元気なおばあさんと
おばさんと私、芋を盗みに、夜は
謝名城に。炭窯は山だから下りていって
畑に芋を盗みに行った。ああいう生活
山原の人はこれ食べるのよと、ツワブキ、黄色い花が咲きますでしょ、あれを切って
教えられたから、これを取って食べたら、食べ方がわからない
美味しくなくて、中毒しそうで
山原疎開 アメリカ兵
おばあさんと二人で(奥山に)食べ物を取り行かなくっちゃと
行ったらアメリカ兵が鉄砲も担いで道沿いにいるわけです
目は変な青い目と子どもの時に教わった目
変な髪で、びっくりして、震えてしまって
日本の通訳の方が
「捕虜になって、シマ(謝名城)の人たちは、山を下りているから」
「あなた方も(山を)下りておいで」って言ったんです
私たちはアメリカ兵から逃げて、川の側から歩いて
山原疎開 炭窯
家は炭窯ですから
自分の家がわからなくなって、どうしようどうしようとしているうちに
自分の炭窯に着いたわけ。間違ないでやっと着いたとホッとした矢先
家族とご飯を炭窯で食べて、翌日夜が明けましたら、敵機来襲
山原疎開 爆撃
向こうの避難小屋に、朝ご飯を作っている煙が見えたとか、爆弾落として全滅しています
国民学校で保健の先生をしておられた方が
田嘉里集落に家族みんな避難しているんです
この先生も(亡くなって) だからとっても残念で
山原疎開 奥山
炭窯も危ないからということで、もっと少し奥山に行きました
どれぐらいあの山の中にいたか。2回食糧取りに行って
また暗くなって山道を迷って途中まで行って、帰る道も小さいから
山原疎開 迷い道
どこに行っていいかわからず、山道でまた迷って、おばあさんと二人で
下は川が流れてているから「足踏み外したら危ないから」
おばあさん、夜が明けるまでは動かんで」
思った矢先、川が流れている下から、たいまつ
竹を束ねて火をつけて、明かりの役目をするたいまつが向こうを通るから
私たちは「助けて下さい」と暗い中、声かけて、これが聞こえたみたいで
「ターヤミセーガ(誰ですか)」と下から聞こえたんです
「豊見城の宜保の人だけど、道に迷って今、どうしようもなくて」と言ったら
「早く、ここからヨーンナー(ゆっくり)下りておいで」
この人(豊見城村真玉橋の方)が私たちを助けて
「家はどこなの」と言ったので、川沿いに避難小屋があったから
そこまで連れて行ってくれて、やっと自分の家に着いたということもある
謝名城から豊見城へ
「帰えらないといけない。島尻は戦争も終わっているはず、キビも砂糖もやらないと」
「早く帰ろう」ということで
島尻に。大宜味からずっと山道を歩いて
馬はしかたなく売って
お金をおじいさんは持っていますので、早く自分の宜保に帰りたいと
道案内の人を頼んで山道を歩いて、道の中で寝たり
おかゆ、お米、川は、水は流れています
薪はありますので、炊いて食べて、寝たり起きたりしながら
曾祖母は歩けないから、おばさんが荷物を先に下ろしてきて、また曾祖母をおんぶして
また歩いて、山の中を逃げて、やっと東村辺りに着いたんですけど
豊見城へ 東村
一軒家を借りたんです。食べ物がないものですから
カズラの葉っぱ、そんなものを摘んだり、カタツムリ
これをいっぱい集めて、炊いて、食べたことがあるし
やっと一軒家を求めて来たら、また「避難しなさい」です
そこで避難小屋に避難をしたら
豊見城へ 火に追われる
アメリカ兵が来て、避難小屋の所に石油を撒いて、この山を焼いたわけです
「あらあら、危ない、危ない」と、そこから逃げて、山原の山の奥の
草が積んでいる所は、私の首ぐらいまであるもんですから。ボンナイ(すごく)燃えて
この火に追われて私たちは逃げたんです
曾祖母も逃げ切れませんでしょ。前に大きい木があって、曾祖母は
そこにずっといるわけです。私たちは足があるから、沈んでは起き起きして火とともに追われて
豊見城へ 汀間
汀間というところがありますけど、そこの山にたどり着いて
日が沈む頃までにたどり着くと、不思議なことに運よく、初めにおばあさんが浜辺のそばに着いて
川は海に流れますでしょ、こんな感じで
一人ひとり6名いたら、この川を頼ってみんな一か所に集まって「あらあら、良かった」
夕方になってもうアメリカ兵は帰っただろうと、自分の家に行ってみたわけです
海沿いに行くと、自分の家だったところは、みんな焼けて何も無い。うちの曾祖母は83歳
焼け焦げて生きているかなと行ってみたら、元気だった。生きていました
おじいさんは、ここでは生きる見込みがない
歩く元気もなくなっているし、船の船頭さんに
豊見城へ 乗 船
お金を出して、この船に乗って、平安座までと頼んで
見つかったらスパイと間違えられますのでね
暗くなってから船に乗って見えなくなってから出たんですけど
(機雷があるという話で)本当に命がけでこの船に乗って
勝連半島の南風原という所があるんですけど、後ろ側、海辺に私たちを下ろしているんです
勝連南風原 捕 虜
本当に人も誰もいない、こっちは。だけど豊かである緑があって、食べ物があると
でもこっちの人はみんなどこ行ったんだろうと思ったら
みんな捕虜なっている
南風原の役所みたいな所、そこに避難小屋も作ってちゃんとあったもんですから
おにぎりか何か食べ物を配られて、やっと一息した覚えがあるんです
勝連南風原 父と再会
「金城ツル子っていませんか」と男の人が立って先生と話しているわけです
「あれ、なんで、私の名前だったよ」と行ったら、自分の父親がいるんです
父は野嵩(収容所)、母は古知屋(収容所)にいた。(父は)CP巡査になっていた
そこで父と会った。来て「あい」といって、探して歩いているということで
「家はどこなの」と聞くので、先生が「お父さん一緒に連れて行って」と言って
この小屋に行ったわけです、曾祖母はここで亡くなったよと言って
こんな話をした後、父は「2、3日して連れにくるから」と言って、(曾祖母の)初七日に
野嵩収容所
迎えに来ていたんです、ジープに乗って。それからはお父さんの住んでいる野嵩に家族みんな引越しして
だから七日七日は野嵩からこの南風原に向かって手を合わせて拝んだんですけど
帰 村
私たちは座安小学校のところにテントで
丸いテント半分は先生の家族、(残りは)私たちが半分という生活をしました
学校
このテントがあったので、学校に行かなくっちゃと思いまして
6年生卒業もしていないから、6年生の気分で
お勉強教えて下さいという感じでいたら
「君は合格しているから、今度糸満高校に行きなさい、明日からここに来ないで」って言われて
糸満高校入学
糸満高校に行きました
高校に行くけれども、高校(校舎)もないですから、糸満高校も
茅を3束刈って、「これ持っておいで、高校へ」
同級生と二人で山で茅を刈って、背負って
茅も担いで、宜保から伊良波のこの道を通って、糸満街道を通って
コッコンコッコンして糸満高校
白銀堂行ったら遠いですから、上に登って、高校で茅をまた下ろして
朝会しているから走って。こういう生活
那覇高校転校
那覇高校に糸満から転校しまして、分離、那覇高校設立、
那覇高校では、2期生。那覇高校に行っても学校(校舎)作り。
勉強しませんでした。道を歩いて通っては、こういう仕事ばかり
ろくにもうノートも本もないですから
次世代へ
謝名城から島尻を目当てに歩いて、川でおかゆを作って、食べる
そこで83歳の曾祖母がとてもすまないと思っているわけです
「自分はここに置いていていいよ。あなたたちは早くみんな、逃げていいから」と
曾祖母はそうおっしゃったわけです
曾祖母の言葉がいつまでも忘れられないのは
自分は年だから死ぬと思っているんでしょう「私がね、あなたがたはどんなフチバンタから」
フチバンタといったら、崖っぷち、から「歩いていても見守るから」と。これが今も頭にある
だから私はいつも守られて、とても元気かも知れないと。いつも実家のお仏壇行って
とっても元気で頑張っているよ、曾祖母、いつも見守ってねって
その言葉が非常に頭に残って、曾祖母たちに守られている、私は、という…
毎日感謝の心が今もあって、毎日元気で長生きしないといけないと思っているこの頃です
収録日:2017年(平成29年)11月16日