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どの歴史小説でも無視されがちですが、数千人以上の兵の動員をかけるというのはどんなに早くても1ヶ月は掛かるものです。兵糧の用意と搬送準備、皮や木材などの戦略物資の用意、家臣も領地に居たらその家の子郎党も呼び寄せなかればなりません豊臣家奉行の連名で毛利に出兵依頼を7/12に発行し、7/17には毛利輝元が3万の兵と共に(最終的に6万)大坂城に入城します。これは当時の通信スピードを考慮すると異常で、毛利は既に兵の集結を終えて豊臣公式文章待ちだったと考えるのが穏当でしょう。もう少し想像を膨らませると既に広島を出発済みだった可能性すらありますもっと言えば、毛利と宇喜多は信長包囲網の時、宇喜多の織田方への裏切りで仲は険悪と言っていいレベルでした。朝鮮の役で仲が改善されたとは言え、どちらも顕在的な仮想敵国でした。それを宇喜多秀家は領国を空にする勢い(関ヶ原後、小早川秀秋が備前・岡山城に入る時も抵抗は一切なかった)で出兵して居ます。毛利との事前協議が入念に行われていた事が想像でき、毛利と宇喜多は共同首謀者として関ヶ原の戦いを起こしたと見ていいかと
詳しいですね。宇喜多が3万も動員出来た理由が分かりました。ありがとうございます。
秀家ははめられた
人がいい 苦労知らず
面白い。父ちゃんだったら壮大なストーリーになりそうなのになぁ。と思ってしまうのは切ない。
負けても家康毒殺してそう
無理だろうけど宇喜多と結城秀康の大河ドラマを個人的に期待している
実際に遠島後の話は見てみたい。大坂の陣の時に秀家がどうしていたとか、前田家からの大名復帰の打診の話とか。
宇喜多秀家が主犯ならば薩摩に匿われた後は、秀家は斬首、島津は取り潰しの処分となるのが当然。主犯者が八丈島への流罪は軽すぎる。
八丈島に流される前に家康が駿河に留め置いたのも結構な厚遇。関が原後、妹の嫁ぎ先の竹田城の城主が別の理由で切腹したほかは親族も家臣も処罰されていない。黒田家に保護されていた明石も許されていた。矢野五右衛門も処罰されていない。流刑後、大阪夏の陣のあと(あの)秀忠から刑が解かれ前田家からは10万石で大名復帰の勧めを受けている。
それだったら、どうして島流しで済んだのかと思ってしまう。また、「軽く考えて家康に喧嘩を売る」って、それはないだろwwww。前田が屈して、上杉も潰されようとしている状況で、深く考えなくてもわかりそうなもんじゃないか。秀家が深く考えなくても、家臣が深く考えるだろ、明石とかいるんだから。
秀家の豊国社での戦勝祈願は会津出陣の為の祈願であり、西軍旗揚げ時の戦勝祈願はまた後日別にやっていると聞いたが。
流石にこの時期は、どう動くかで家の未来が決まる、戦国の最終局面なので、「豪胆だから」とか「深く考えていない」とかは疑問ですね(;・∀・)しかし、軍事面で関ヶ原の主役だったのは間違いなく、まともに戦った激戦地では最大の軍勢でしたね。若き日の宮本武蔵も宇喜多隊の足軽として参戦していたとか。
秀家公は首謀格ではありますが、若きプリンス(秀吉の猶子)として評判や八丈島流配後の伝承からも人の良さが伺えますので「利用された」!?の方が最もシックリくるのですが…(・o・)豊國社での北政所(代理大谷吉継母)と秀家公の関ヶ原戦勝祈願をどう解釈するか?…デスね
ドラマチックに考えると三成が義挙に出たと考えた方が盛り上がるし、その後に来た江戸時代には家康を人格化するには鮮やかに関ヶ原を勝利したシナリオにしたかっただろう。でも軍事行動を起こすにしてはそれだけでは段取り、時系列等辻褄合わない事が多すぎる。いくら毛利家と上杉家を取り込んだとしても当時の三成の人望、人物的に出来過ぎにも思う。やはり大老の誰かが言い出しっぺなんだろう。
宇喜多秀家て頭脳と武力両方持つ武将かと思った
しかしこれ程美男子に描かれる絵画も珍しいな
まぁ多くの研究者が家中に介入してきたり、家康は大老を一人一人排除していく中で、宇喜多秀家、毛利輝元は危機感を持っていったと言うのがよく主張されてますね。
さおりちゃんの唇は色っぽいです。声も聞きやすく可愛かった。
豪胆で派手だったから関が原が大規模になるとは考えずリベンジくらいに考えてたって、わけわからん説
親父は三悪と言われた位毒殺などの悪大名だったのに息子は真正直とはわからないものです。
普通に考えるとお願いする方が相手のほうに出向きますよねそれを考えると、三成が首謀したのであれば三成自身かその代理が大阪に出向いて工作をするはずです実際はその逆でした大谷が使者として三成のもとに西軍参加を要請しに行ったと考えるのが自然な気がします三成が首謀者だとしたら、大谷や安国寺恵瓊などの毛利がたを自分のところに呼びつけてお願いしたことになりますからね
確かに‼️本能寺の変みたいに関ヶ原の合戦も石田三成主謀説以外にもあるかもしれません⁉️自分の頭の中で想像しながら思いめぐるのも歴史の楽しみ方かもしれませんね。
東軍の徳川家康みたいな完全な総大将がいなかったのも西軍の敗因。プロデューサーは石田三成だが、三成と同調し実質毛利輝元を動かした安国寺恵瓊もかなり重要なプロデューサーであった。関ヶ原本戦の現場での最大兵力は宇喜多秀家であり、名目上西軍総大将は毛利輝元、最大動員兵力も毛利輝元であり、実現は不可能でしたが石田三成の考えていた理想の総代大将は豊臣秀頼であり、期待していた軍資金の資金源は淀の方が握っている豊臣の資金(いずれも実現不可能)。…‥……つまり、西軍は絶対的な権力者がいない。家康は、プロデューサーであり、最大兵力を動員し、最大の領地であり、最大の権力者、金、名声、責任、等々全て東軍の絶対的な権力者。しかも関ヶ原前に家康は佐渡島を直轄地にしている、佐渡島はそれまで銀山でしたが、莫大な金が埋蔵されていることも判明して、その量は豊臣の総資金を遥かにしのいでいた。この情報は有力大名なら皆知っていた。これはかなり大きい。三成も家康も勝負は、日本全国の大名をいかに自分の味方につけるかの工作。 そりゃ三成と家康の2人から誘われた場合、迷ってるなら家康に味方するはず。ある意味徳川家康が勝つのは当然。
宇喜多秀家首謀説 あり得るだけに面白いですね 秀家の流刑の地となった八丈島は 江戸時代に罪人の流刑地になりました その第一号が秀家だと言われているそうです
秀家を首謀者にするといよいよ、あの「お方」が実は加担していたことが明るみに出ますな・・・・
北政所?
北政所が加担していたなら、もっと西軍武将増えたやろ。
北政所は西軍よりだったと言うのが今の定説ですもんね
ねねさんは関ケ原から大坂の役の期間は家康との関係は上手くいっていなくて秀忠夫妻との関係は良好だったので晩年は安泰だったんだと思います
@@広島恭史-b5p 秀忠は結構豊臣家には思い入れがあった。実際に秀忠の秀は秀吉から与えられた。それなのに秀忠は豊臣家滅亡後も終生改名しなかった。だから、当時は何人か秀の字を与えられた大名が何人かいたけど改名していない。
宇喜多秀家は忠臣、忠義の武将、石田三成も、忠臣、忠義の武将、西軍は、石田三成、宇喜多秀家が、主力であり、宇喜多秀家は西軍の総帥であります。兵力は、1万8千で、西軍では、最大の兵力、全体では、徳川家康につぐ、二番目の兵力、石田三成も本当は1万の兵力でしたが、関が原にくるまでの戦いで減らしてしまいました。関ケ原では、西軍であるはずの、小早川秀秋の兵力1万5千の裏切りにあいましたが、小早川だけの裏切りなら、西軍は負けなかった。追従しての赤座など4武将の裏切りが大きかった!!小早川は裏切ることがわかっていたが、赤座など4武将はまさかのまさかのフイをつかれた裏切りだったので、西軍は総崩れになってしまって関ケ原の戦いでは敗れました。関ケ原では宇喜多秀家の戦いはめざましいものがあり、福島正則など、東軍を圧倒しましたが、赤座など4武将のまさかのまさかの裏切りは西軍にとっていたかった。宇喜多秀家、石田三成はよく戦いました。あっぱれでした。
むしろ総大将秀家がなれば良かったのに
首謀者は三成です秀家は秀吉の後継者の一人として担ぎ出されただけですよ
秀吉没後の豊臣家は「五大老間の豊臣政権下での派閥争い」であり、家康が他の大老を一人一人屈服させて、最終的に独裁権力を握り、豊臣から実権を奪ったというのが正しい見方だと思います。当然、関ケ原の主役は三成ではなく、大老の宇喜多秀家ですね。「三成対家康」というのは徳川家による「作り話」ですね。
三成首謀説よりも大谷首謀説の方が有力とか、関ヶ原の地理を考えて大群同士の合戦は有り得ないと言う見方もあるみたいですよ。有力候補として関ヶ原の下辺りで激突したのではないかとも考えられています
家康としては西軍をバラバラにするために三成が総大将だと言う必要があったそれなら福島や細川は三成に味方しないからね
お父さんがもっと長生きだったら、秀家も毒殺を繰り返していたのだろうか…?宇喜多騒動も、関ヶ原も違う結末だったりして…
さおりさん お久しぶりです 変わらずに美人( *´艸`) 宇喜多秀家の件は初めて知りました
個人的には黒幕として上方で裏で号令をかけらるのは官位を司る皇室或は、実質的最高権力者の淀の方の他にいないと思っているのだが
宇喜多秀家と豪姫ですかね。。。八丈島とか前田家に新しい資料が出てくると良いですね。(´・ω・`)
タイトル見ての雑感。戦後処刑されなかった秀家が首謀はちと無理がないかな。
関ケ原が天下分け目になった歴史ってないのかな? 家康は関ケ原の後も豊臣政権の五大老筆頭として行動している気がする。
首謀者はやっぱりプロデューサー的役割の三成だろう。ただ西軍の最大勢力の宇喜多や毛利にたいして、三成が上手く采配できなかっためにこのような説も出てくるだろう。
東軍の徳川家康みたいな完全な総大将がいなかったのも西軍の敗因。確かにプロデューサーは石田三成だが、三成と同調し実質毛利輝元を動かした安国寺恵瓊もかなり重要なプロデューサーであった。しかし関ヶ原本戦の現場での最大兵力は宇喜多秀家であり、そして名目上西軍総大将は毛利輝元、最大動員兵力も毛利輝元であり、実現は不可能でしたが石田三成の考えていた理想の総代大将は豊臣秀頼であり、期待していた軍資金の資金源は淀の方が握っている豊臣の資金(いずれも実現不可能)。…‥……つまり、西軍は絶対的な権力者がいない。家康は、プロデューサーであり、最大兵力を動員し、最大の領地であり、最大の権力者、金、名声、責任、等々全て東軍の絶対的な権力者。しかも関ヶ原前に家康は佐渡島を直轄地にしている、佐渡島はそれまで銀山でしたが、莫大な金が埋蔵されていることも判明して、その量は豊臣の総資金を遥かにしのいでいた。この情報は有力大名なら皆知っていた。これはかなり大きい。三成も家康も勝負は、日本全国の大名をいかに自分の味方につけるかの工作。 そりゃ三成と家康の2人から誘われた場合、迷ってるなら家康に味方するはず。ある意味徳川家康が勝つのは当然。
首謀者は毛利輝元で石田三成、宇喜多秀家が輝元に利用されて負けそうになったら見捨てられたのオチだと思ったが
・・・宇喜多秀家説、面白いですね・・・個人的には、大谷吉継、と思ってます・・・太閤に百万の兵を指揮させたかったと言わしめした・・・そして関ヶ原で石田方が西方に陣移動は、小早川裏切りが明確になり関ヶ原で数日前から陣を張っていた大谷勢がかなり不利な状況に為った為とか・・・一部隊なら、陣移動させるが、大谷勢を移動させず、西軍本隊の移動が移動・・・この辺りも、ですかね・・・
八郎の養母は政所様ですよしつぐの母は東局です
秀家公は当時、首謀者としては若すぎる。裏の黒幕がいますよ。
宇喜多秀家さん美丈夫でイケメンなんだよなあ。信長が貧相に見えるもん。
目的こそ違い反家康という同じ橋を渡る三成に秀家は味方した。ゆえに利用されたという意味では「福島正則」と同じという事ですね。
なんだかね知ったか考察っぽい
結局のところ人材は良いのに西軍てバラバラなんだよねやり方次第では勝てた。家康以外の大老と北政所の支持とお墨付きを得るのは難しくなかったと思うし、北政所と前田、毛利が完全に味方であれば、淀殿は安心なので、頭から彼女の周辺を説得出来た。吉川、黒田をどう調略すればいいかはわからないけど。
家康の謀略で三成が総大将に仕立て上げられた時点で無理です
西軍は秀頼を担ぎ出せれば流石に勝てた。豊臣恩顧大名は西軍へ、他の大名も勝ち目の無い戦いはしない。家康の老獪さに勝てる軍師や大将が居ないのが痛い。
お父さんと性格まったく逆ですね!それ故、苦労したこともあると思いますが、叔父の忠家さんに性格が似てたんでしょうね。
利家の娘婿じゃなかったら秀家も処刑されてたかも
当時の情勢では無理かな…仮にも豊臣家御曹司の一人(万一秀頼が夭折した場合豊臣家を継げるのは小早川秀秋と宇喜多秀家の2人)さすがの家康でも豊臣の跡取りを殺す事はできないでしょそれをやったら淀に「家康こそ謀反人」の口実を与えることになる
まさかの関ヶ原のきっかけは本多政重さん?当時西軍の宇喜多陣営にいたし
関係ないけど、さおりさんは、お市様のようですね。
歴史にほとんど名前の出てこない岡山藩だけど、まさか関ヶ原で戦ってたのが岡山藩士だったなんて。知らなかったー。
首謀者になれるほどのキレは無いよあのボンクラには😁by 宇喜多の鼻垂れ
人がいい
戦略が甘かった???斬首されなかったのど良かったです。
宇喜多秀家って、小室圭さんにそっくり!
誠仁親王だと思います!
その根拠は?
この親王は10年以上前に亡くなっているけど。
誠仁親王は後陽成天皇が即位後に、亡くなっているにも関わらず太上天皇の尊号を追贈されています、かなり不自然です。誠仁親王は35歳で亡くなったことになっていますが、私は実は亡くなっておらず、伏見で院政を敷いていたと考えます、戦国の世直しは正親町天皇と誠仁親王の計画によるもので、桶狭間、信長の美濃制圧、長篠、本能寺、関ヶ原、全て八百長戦と考えてます…
@@イーストブルー-q9i はぁ?…‥……w
@@イーストブルー-q9i 即位後では無くて即位前。元々この親王は皇太子だったけど正親町天皇の譲位前に亡くなった。だから親王の息子が天皇に即位したから太上天皇の尊号が与えられた。
秀家ってアブナイ奴だったのか?
あまりにも若すぎて、岡山にはほとんど帰らず、秀吉の元ばかりにいたから家臣団を上手くまとめられず、宇喜多騒動が起こってる…ちなみに地元岡山でも知っている人は歴史好きの人ぐらいです。宮本武蔵や池田氏の方が有名です…
@@愛人歴史 某小説でも秀吉が晩年に秀家を手元に置きすぎたと後悔していたけど、今さらだったけど。
どの歴史小説でも無視されがちですが、数千人以上の兵の動員をかけるというのはどんなに早くても1ヶ月は掛かるものです。兵糧の用意と搬送準備、皮や木材などの戦略物資の用意、家臣も領地に居たらその家の子郎党も呼び寄せなかればなりません
豊臣家奉行の連名で毛利に出兵依頼を7/12に発行し、7/17には毛利輝元が3万の兵と共に(最終的に6万)大坂城に入城します。これは当時の通信スピードを考慮すると異常で、毛利は既に兵の集結を終えて豊臣公式文章待ちだったと考えるのが穏当でしょう。もう少し想像を膨らませると既に広島を出発済みだった可能性すらあります
もっと言えば、毛利と宇喜多は信長包囲網の時、宇喜多の織田方への裏切りで仲は険悪と言っていいレベルでした。朝鮮の役で仲が改善されたとは言え、どちらも顕在的な仮想敵国でした。それを宇喜多秀家は領国を空にする勢い(関ヶ原後、小早川秀秋が備前・岡山城に入る時も抵抗は一切なかった)で出兵して居ます。毛利との事前協議が入念に行われていた事が想像でき、毛利と宇喜多は共同首謀者として関ヶ原の戦いを起こしたと見ていいかと
詳しいですね。
宇喜多が3万も動員出来た理由が分かりました。ありがとうございます。
秀家ははめられた
人がいい 苦労知らず
面白い。
父ちゃんだったら壮大なストーリーになりそうなのになぁ。と思ってしまうのは切ない。
負けても家康毒殺してそう
無理だろうけど
宇喜多と結城秀康の大河ドラマを
個人的に期待している
実際に遠島後の話は見てみたい。大坂の陣の時に秀家がどうしていたとか、前田家からの大名復帰の打診の話とか。
宇喜多秀家が主犯ならば薩摩に匿われた後は、秀家は斬首、島津は取り潰しの処分となるのが当然。主犯者が八丈島への流罪は軽すぎる。
八丈島に流される前に家康が駿河に留め置いたのも結構な厚遇。関が原後、妹の嫁ぎ先の竹田城の城主が別の理由で切腹したほかは親族も家臣も処罰されていない。黒田家に保護されていた明石も許されていた。矢野五右衛門も処罰されていない。流刑後、大阪夏の陣のあと(あの)秀忠から刑が解かれ前田家からは10万石で大名復帰の勧めを受けている。
それだったら、どうして島流しで済んだのかと思ってしまう。また、「軽く考えて家康に喧嘩を売る」って、それはないだろwwww。前田が屈して、上杉も潰されようとしている状況で、深く考えなくてもわかりそうなもんじゃないか。秀家が深く考えなくても、家臣が深く考えるだろ、明石とかいるんだから。
秀家の豊国社での戦勝祈願は会津出陣の為の祈願であり、西軍旗揚げ時の戦勝祈願はまた後日別にやっていると聞いたが。
流石にこの時期は、どう動くかで家の未来が決まる、戦国の最終局面なので、「豪胆だから」とか「深く考えていない」とかは疑問ですね(;・∀・)
しかし、軍事面で関ヶ原の主役だったのは間違いなく、まともに戦った激戦地では最大の軍勢でしたね。若き日の宮本武蔵も宇喜多隊の足軽として参戦していたとか。
秀家公は首謀格ではありますが、若きプリンス(秀吉の猶子)として評判や八丈島流配後の伝承からも人の良さが伺えますので「利用された」!?の方が最もシックリくるのですが…(・o・)
豊國社での北政所(代理大谷吉継母)と秀家公の関ヶ原戦勝祈願をどう解釈するか?…デスね
ドラマチックに考えると三成が義挙に出たと考えた方が盛り上がるし、その後に来た江戸時代には家康を人格化するには鮮やかに関ヶ原を勝利したシナリオにしたかっただろう。
でも軍事行動を起こすにしてはそれだけでは段取り、時系列等辻褄合わない事が多すぎる。
いくら毛利家と上杉家を取り込んだとしても当時の三成の人望、人物的に出来過ぎにも思う。
やはり大老の誰かが言い出しっぺなんだろう。
宇喜多秀家て頭脳と武力両方持つ武将かと思った
しかしこれ程美男子に描かれる絵画も珍しいな
まぁ多くの研究者が家中に介入してきたり、家康は大老を一人一人排除していく中で、宇喜多秀家、毛利輝元は危機感を持っていったと言うのがよく主張されてますね。
さおりちゃんの唇は色っぽいです。
声も聞きやすく可愛かった。
豪胆で派手だったから関が原が大規模になるとは考えずリベンジくらいに考えてたって、わけわからん説
親父は三悪と言われた位毒殺などの
悪大名だったのに息子は真正直とは
わからないものです。
普通に考えるとお願いする方が相手のほうに出向きますよね
それを考えると、三成が首謀したのであれば三成自身かその代理が大阪に出向いて工作をするはずです
実際はその逆でした
大谷が使者として三成のもとに西軍参加を要請しに行ったと考えるのが自然な気がします
三成が首謀者だとしたら、大谷や安国寺恵瓊などの毛利がたを自分のところに呼びつけてお願いしたことになりますからね
確かに‼️本能寺の変
みたいに関ヶ原の合戦も
石田三成主謀説以外にも
あるかもしれません⁉️
自分の頭の中で想像
しながら思いめぐるのも
歴史の楽しみ方かも
しれませんね。
東軍の徳川家康みたいな完全な総大将がいなかったのも西軍の敗因。
プロデューサーは石田三成だが、三成と同調し実質毛利輝元を動かした安国寺恵瓊もかなり重要なプロデューサーであった。
関ヶ原本戦の現場での最大兵力は宇喜多秀家であり、名目上西軍総大将は毛利輝元、最大動員兵力も毛利輝元であり、実現は不可能でしたが石田三成の考えていた理想の総代大将は豊臣秀頼であり、期待していた軍資金の資金源は淀の方が握っている豊臣の資金(いずれも実現不可能)。…‥……つまり、西軍は絶対的な権力者がいない。
家康は、プロデューサーであり、最大兵力を動員し、最大の領地であり、最大の権力者、金、名声、責任、等々全て東軍の絶対的な権力者。
しかも関ヶ原前に家康は佐渡島を直轄地にしている、佐渡島はそれまで銀山でしたが、莫大な金が埋蔵されていることも判明して、その量は豊臣の総資金を遥かにしのいでいた。
この情報は有力大名なら皆知っていた。
これはかなり大きい。
三成も家康も勝負は、日本全国の大名をいかに自分の味方につけるかの工作。 そりゃ三成と家康の2人から誘われた場合、迷ってるなら家康に味方するはず。
ある意味徳川家康が勝つのは当然。
宇喜多秀家首謀説 あり得るだけに面白いですね 秀家の流刑の地となった八丈島は 江戸時代に罪人の流刑地になりました その第一号が秀家だと言われているそうです
秀家を首謀者にするといよいよ、あの「お方」が実は加担していたことが
明るみに出ますな・・・・
北政所?
北政所が加担していたなら、もっと西軍武将増えたやろ。
北政所は西軍よりだったと言うのが今の定説ですもんね
ねねさんは関ケ原から大坂の役の期間は家康との関係は上手くいっていなくて秀忠夫妻との関係は良好だったので晩年は安泰だったんだと思います
@@広島恭史-b5p 秀忠は結構豊臣家には思い入れがあった。実際に秀忠の秀は秀吉から与えられた。それなのに秀忠は豊臣家滅亡後も終生改名しなかった。だから、当時は何人か秀の字を与えられた大名が何人かいたけど改名していない。
宇喜多秀家は忠臣、忠義の武将、石田三成も、忠臣、忠義の武将、西軍は、石田三成、宇喜多秀家が、主力であり、宇喜多秀家は西軍の総帥であります。兵力は、1万8千で、
西軍では、最大の兵力、全体では、徳川家康につぐ、二番目の兵力、石田三成も本当は1万の兵力でしたが、関が原にくるまでの戦いで減らしてしまいました。関ケ原では、西軍であるはずの、小早川秀秋の兵力1万5千の裏切りにあいましたが、小早川だけの裏切りなら、西軍は負けなかった。追従しての赤座など4武将の裏切りが大きかった!!
小早川は裏切ることがわかっていたが、赤座など4武将はまさかのまさかのフイをつかれた裏切りだったので、西軍は総崩れになってしまって関ケ原の戦いでは敗れました。
関ケ原では宇喜多秀家の戦いはめざましいものがあり、福島正則など、東軍を圧倒しましたが、赤座など4武将のまさかのまさかの裏切りは西軍にとっていたかった。
宇喜多秀家、石田三成はよく戦いました。あっぱれでした。
むしろ総大将秀家がなれば良かったのに
首謀者は三成です
秀家は秀吉の後継者の一人として担ぎ出されただけですよ
秀吉没後の豊臣家は「五大老間の豊臣政権下での派閥争い」であり、家康が他の大老を一人一人屈服させて、最終的に独裁権力を握り、豊臣から実権を奪ったというのが正しい見方だと思います。当然、関ケ原の主役は三成ではなく、大老の宇喜多秀家ですね。「三成対家康」というのは徳川家による「作り話」ですね。
三成首謀説よりも大谷首謀説の方が有力とか、関ヶ原の地理を考えて大群同士の合戦は有り得ないと言う見方もあるみたいですよ。
有力候補として関ヶ原の下辺りで激突したのではないかとも考えられています
家康としては西軍をバラバラにするために
三成が総大将だと言う必要があった
それなら福島や細川は三成に味方しないからね
お父さんがもっと長生きだったら、秀家も毒殺を繰り返していたのだろうか…?
宇喜多騒動も、関ヶ原も違う結末だったりして…
さおりさん お久しぶりです 変わらずに美人( *´艸`) 宇喜多秀家の件は初めて知りました
個人的には黒幕として上方で裏で号令をかけらるのは官位を司る皇室或は、実質的最高権力者の淀の方の他にいないと思っているのだが
宇喜多秀家と豪姫ですかね。。。八丈島とか前田家に新しい資料が出てくると良いですね。(´・ω・`)
タイトル見ての雑感。
戦後処刑されなかった秀家が首謀はちと無理がないかな。
関ケ原が天下分け目になった歴史ってないのかな? 家康は関ケ原の後も豊臣政権の五大老筆頭として行動している気がする。
首謀者はやっぱりプロデューサー的役割の三成だろう。ただ西軍の最大勢力の宇喜多や毛利にたいして、三成が上手く采配できなかっためにこのような説も出てくるだろう。
東軍の徳川家康みたいな完全な総大将がいなかったのも西軍の敗因。
確かにプロデューサーは石田三成だが、三成と同調し実質毛利輝元を動かした安国寺恵瓊もかなり重要なプロデューサーであった。
しかし関ヶ原本戦の現場での最大兵力は宇喜多秀家であり、そして名目上西軍総大将は毛利輝元、最大動員兵力も毛利輝元であり、実現は不可能でしたが石田三成の考えていた理想の総代大将は豊臣秀頼であり、期待していた軍資金の資金源は淀の方が握っている豊臣の資金(いずれも実現不可能)。…‥……つまり、西軍は絶対的な権力者がいない。
家康は、プロデューサーであり、最大兵力を動員し、最大の領地であり、最大の権力者、金、名声、責任、等々全て東軍の絶対的な権力者。
しかも関ヶ原前に家康は佐渡島を直轄地にしている、佐渡島はそれまで銀山でしたが、莫大な金が埋蔵されていることも判明して、その量は豊臣の総資金を遥かにしのいでいた。
この情報は有力大名なら皆知っていた。
これはかなり大きい。
三成も家康も勝負は、日本全国の大名をいかに自分の味方につけるかの工作。 そりゃ三成と家康の2人から誘われた場合、迷ってるなら家康に味方するはず。
ある意味徳川家康が勝つのは当然。
首謀者は毛利輝元で石田三成、宇喜多秀家が輝元に利用されて負けそうになったら見捨てられたのオチだと思ったが
・・・宇喜多秀家説、面白いですね・・・個人的には、大谷吉継、と思ってます・・・太閤に百万の兵を指揮させたかったと言わしめした・・・そして関ヶ原で石田方が西方に陣移動は、小早川裏切りが明確になり関ヶ原で数日前から陣を張っていた大谷勢がかなり不利な状況に為った為とか・・・一部隊なら、陣移動させるが、大谷勢を移動させず、西軍本隊の移動が移動・・・この辺りも、ですかね・・・
八郎の養母は政所様です
よしつぐの母は東局です
秀家公は当時、首謀者としては若すぎる。裏の黒幕がいますよ。
宇喜多秀家さん美丈夫でイケメンなんだよなあ。
信長が貧相に見えるもん。
目的こそ違い反家康という同じ橋を渡る三成に秀家は味方した。ゆえに
利用されたという意味では「福島正則」と同じという事ですね。
なんだかね
知ったか考察っぽい
結局のところ人材は良いのに西軍てバラバラなんだよね
やり方次第では勝てた。家康以外の大老と北政所の支持とお墨付きを得るのは
難しくなかったと思うし、北政所と前田、毛利が完全に味方であれば、
淀殿は安心なので、頭から彼女の周辺を説得出来た。吉川、黒田をどう調略すれば
いいかはわからないけど。
家康の謀略で三成が総大将に仕立て上げられた時点で無理です
西軍は秀頼を担ぎ出せれば流石に勝てた。
豊臣恩顧大名は西軍へ、他の大名も勝ち目の無い戦いはしない。
家康の老獪さに勝てる軍師や大将が居ないのが痛い。
お父さんと性格まったく逆ですね!
それ故、苦労したこともあると思いますが、叔父の忠家さんに性格が似てたんでしょうね。
利家の娘婿じゃなかったら
秀家も処刑されてたかも
当時の情勢では無理かな…
仮にも豊臣家御曹司の一人
(万一秀頼が夭折した場合豊臣家を継げるのは小早川秀秋と宇喜多秀家の2人)
さすがの家康でも豊臣の跡取りを殺す事はできないでしょ
それをやったら淀に「家康こそ謀反人」の口実を与えることになる
まさかの関ヶ原のきっかけは本多政重さん?
当時西軍の宇喜多陣営にいたし
関係ないけど、さおりさんは、お市様のようですね。
歴史にほとんど名前の出てこない岡山藩だけど、まさか関ヶ原で戦ってたのが岡山藩士だったなんて。知らなかったー。
首謀者になれるほどのキレは無いよあのボンクラには😁
by 宇喜多の鼻垂れ
人がいい
戦略が甘かった???斬首されなかったのど良かったです。
宇喜多秀家って、小室圭さんにそっくり!
誠仁親王だと思います!
その根拠は?
この親王は10年以上前に亡くなっているけど。
誠仁親王は後陽成天皇が即位後に、亡くなっているにも関わらず太上天皇の尊号を追贈されています、かなり不自然です。誠仁親王は35歳で亡くなったことになっていますが、私は実は亡くなっておらず、伏見で院政を敷いていたと考えます、戦国の世直しは正親町天皇と誠仁親王の計画によるもので、桶狭間、信長の美濃制圧、長篠、本能寺、関ヶ原、全て八百長戦と考えてます…
@@イーストブルー-q9i はぁ?…‥……w
@@イーストブルー-q9i 即位後では無くて即位前。元々この親王は皇太子だったけど正親町天皇の譲位前に亡くなった。だから親王の息子が天皇に即位したから太上天皇の尊号が与えられた。
秀家ってアブナイ奴だったのか?
あまりにも若すぎて、岡山にはほとんど帰らず、秀吉の元ばかりにいたから家臣団を上手くまとめられず、宇喜多騒動が起こってる…
ちなみに地元岡山でも知っている人は歴史好きの人ぐらいです。
宮本武蔵や池田氏の方が有名です…
@@愛人歴史 某小説でも秀吉が晩年に秀家を手元に置きすぎたと後悔していたけど、今さらだったけど。