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兄2人が希望が丘です。長男の時代に同級生の生徒会長が学園紛争を起こして制服や校則などの改革を行い、教師よりも生徒会主導の高校生活になったと教えてくれました。千葉大薬学部、修士のちに千葉大薬学部大学院教授、次兄は長男より5歳下で一橋商卒、当時はすでに湘南がトップ校で兄は湘南希望でしたが、学区外の壁厚く悪名高い神奈川方式の内申とアチーブメントテスト、診断テスト等で8割が決定してしまう方式の為湘南には届かなかったといっていました。自由な校風だけが残り徐々に進学実績が落ち込み、県内3,4番手校になりました。昭和40年生まれの代から人口増に伴う新設校の増加(100校計画)により地域による小学区制をスタートし小学区の中の西部学区の中のトップ校にする為かなりいびつな学区を作りました(自分は小学区制2年目で希望が丘は学区外でした。どの道内申足りなかったので市立桜丘でしたが希望が丘、松陽の方がはるかに近くでした)。しかし本当のトップ層は学区外の光陵や湘南に抜けていく人も多く、一応学区トップ校を維持するも定員が多くトップ層と下位層で大きな差がありました。その当時光陵の定員は希望が丘の半数で横浜国大附属になる予定だった高校を住民の反対で県立普通科高校にした経緯があり横国附属中からも進学者が多く、湘南と並ぶ進学校になりました。その時希望が丘もそれなりに維持していましたがやはり衰退は止められませんでした。その後光陵も不便な立地や横国附属生が入学しなくなり衰退して希望が丘と同レベルになっています。希望が丘は学区制廃止して今はかなり挽回した方だと思いますよ。学区制時代は下位層は結構悲惨でしたから。横浜地区でも学力の劣る地域なので、横浜駅に近い翠嵐や開発で大きく人口が増えた、川和、緑が丘、地域住民が進学校化した柏陽に押されて特色校中間に甘んじています。近所なので近隣中学からは目指す子供多いですよ。ただし国公立は横国、市大 あとはGMARCH以上というのが今の希望が丘の現状です。杏里、伊藤かずえさんは定時制ですから全日制の卒業生ではありません。同じ駅で希望が丘と隼人高校の生徒さんを見かけますが、希望が丘の生徒さんは制服もないので自由そのもの、ピンク、金髪ふつうにいます。隼人さんは高速厳しいのでまじめな感じですね。
ちょっと古いですが、時系列で。1)70年代、公立トップ校養成所の横浜国大中学にも国立中学なのに、相対評価の神奈川県方式を強要した結果、学業が優秀なのに成績が1がつき、県立トップに行かれない学生が続出した。(ここで湘南高校の東大合格者は激減)2)1981年頃に細かい学区制が敷かれ、県内のトップ(ナンバースクール)の高校に広い地域から優秀な学生を集められなくなった。(ナンバースクールの意味がなくなった)3)当時の神奈川県方式は、内申点が実技教科にも重点があり、体育や家庭科などができない人は学業が優秀でも、相応の公立校に入れず、私立高校に流出した。(私立高校が相次いで特進クラスを作って、大量に受け入れて大学合格実績を伸ばして、現在の進学校になり始めたのがこの時期)4)結果、(大学合格実績で)公立高校全体が90年代に凋落し、97年の悪名高いア・テスト廃止を皮切りに改革を余儀なくされた。5)現在はこれらは廃止されたが、神奈川県方式が長年君臨してた影響で、世代も入れ替わり、かつての威光、ブランドを知る人も無くなってしまった。6)肌感だけど、神奈川の公立はガチガチ東大行くより、高校生活をエンジョイして、そこそこの大学に行くみたいな雰囲気の人が多い気がする。そういう県立進学校に「楽しい高校生活を過ごしたい」と通いたがる人も少なからず居る。希望ヶ丘がその例ではないかな?参考文献『公立or私立神奈川の教育を考える』(読売新聞社)
様々な理由があると思いますが、一番は立地でしょう。1950年の移転から既に衰退が始まっているのです。学園紛争は衰退を加速させたにすぎないし、だいたい、今の子供がそんなこと知るわけ無い。中学生だって、立地で大学を選ぶ高校生と同じです。首都圏の旧制一中(日比谷、浦和、千葉)は全て中心部に近い。神奈川だけが違います。名門女子大の中でも凋落の激しいフェリスもそうですが、あそこらへんは客観的には十分都会ですが、横浜の子供にとってはド田舎です。立地も進学実績も上位の翠嵐や私立があるのに、成績優秀層がわざわざ行く理由がないです。
45年前の卒業生です。私が高校受験したころ、すでに、クラスのトップ層は、光陵高校に流れてました。私は、一見大学と見間違うような広大な敷地と佇まいに憧れて、あえて進学しました。入学すると、自由な校風にドップリつかりました。部活や行事などとにかく楽しかった!反面、勉強がおろそかになったことは事実。中間テストなし、文理分けなし(数Ⅲ、理科Ⅱ必修)など、受験指導も、ほとんど無かったと思います。結果、卒業時には、クラスの3/4が浪人してました。それでも、一年後には、そんなクラスから、結構な人数が、東大を初め、東工大、早慶等に合格し、進学してました。一般的に、浪人が少なくなった現在、このような自由な校風のもとで、難関大学への進学実績をあげるのは困難でしょう。しかし、高校生活をどのように充実させるかは、その人次第です。今でも、やる気のある生徒にはお薦めの高校だと信じてます。がんばれ希望ケ丘高校
現在64歳の爺です。希望ヶ丘はまさしく当時優秀な 高校でしたよ。学生運動が盛んな頃希望ヶ丘はブイブイリベラルの高校で、受験に関しては全く無関心という印象です!本当に大学受験を意識する保護者たちは私立の浅野、栄光学園、聖光学院を受験させていましたよ!希望が丘は当時私の学区でしたが、本当に勉強したい生徒は光陵や学区外の湘南、厚木を特別枠で受験しておりました。教育熱心な保護者から指示されなかったのが希望ヶ丘高校の凋落と私は思います。
自分の認識が正しければ、大学の学生運動が盛んなころ、その運動が希望ヶ丘にも飛び火してきて、生徒の自治などが盛んになりました。その結果、神奈川県立高校には珍しく制服の強制が撤廃され服装が自由になるなどの成果がありました。しかし、そのような過激な環境が敬遠され始めたころ、同じ学区に、横浜国大付属高崩れの光陵が移転してきたことにより同学区に組み入れられ、優秀層が一気に光陵に流れました。光陵は横浜国大付属高校として計画され、まずは神奈川県立高として立ち上がりましたが、東京教育大の同窓会の圧力などで国立化を諦め神奈川県がそのまま引き取ったという経緯のある高校なので、歴史が浅いにも関わらずいきなり優秀層が流れるという事態になりました。学区トップの座を光陵に明け渡したあたりから希望ヶ丘の凋落が始まり、光陵が移転してくる少し前に柏陽もでき、これの経緯はわかりませんが、学区二番手を争うことになります。やがて、学区細分化で、希望ヶ丘、光陵、柏陽は各々別の学区になり、それぞれの学区トップ高になりました。学区撤廃で、再び横並びになったとき、柏陽の躍進目覚ましく、光陵も凋落しており、蓋を開ければ、希望ヶ丘、光陵ともに柏陽の後塵を浴びることとなりました。希望ヶ丘凋落は、学生運動に嫌気がさした優秀層が、同学区に彗星のごとく現れた国立高崩れの光陵に流れ、学区トップを奪われたことから始まったと認識しております。山内先生にこのあたりの裏取りを期待したいところですね。
他県出身者で東大合格者の公立御三家が浦高・県千葉・湘南の時代の最後の方に高校時代を過ごした者です。進学実績という意味で神奈川の公立トップ=湘南の印象が強く、横浜翠嵐の存在や希望ヶ丘が神奈川の旧制一中だというのは今世紀に入ってから知りました。山内さん同様、他県出身者から見て旧制一中の希望ヶ丘の進学実績が横浜翠嵐や湘南に及ばないようになったのはなぜなのか、ずっと思っていました。
戦後の神奈川県は他県と違って公立中学、高校の校名に「第一・第二」のような名称はつけなくなりました。理由はわかりませんが。
東京とかもそうですね。Wikipediaによると、「学校間格差の廃止を掲げたGHQの指示によってほとんど全てのナンバースクールが一旦ネームスクールへの名称変更を強いられた」そうです。ナンバー制に戻された学校もあるようなので、残っているのはその戻されたってパターンなんですかね。
@@スタッドイチキュウナナイチヨンロク 都立第一商業高校とか、ビートたけしさんの出身校、足立区立第四中学など都内の公立学校には結構ナンバースクールは残っています。神奈川特に横浜市内の公立校は港南区を除いてほとんどない。
立地と旧制一中のもと自由過ぎる校風と教員の弛みなどが複合的に相対的な立ち位置の凋落を生み、学区制撤廃が今の立ち位置を固定化した印象。70代以上の古い卒業生は嘆くだけが定番な印象笑湘南、厚木、小田原も昔よりは進学実績の方は落ちてしまったのを考えるとその時の栄華を誇った私立の勢力図の変遷とその立地も影響しているのかな
私は50年前の卒業生ですが、在学中に先生から聞かされた話ですが終戦直後GHQの何らかの圧力で首都圏にナンバースクールを作って特定のエリート校をつくるなという何らかの圧力があって横浜1(とか他の県立旧制中学も)するのはやめたそうです。だから湘南は別ですが、他の神奈川県の元旧制中学もナンバースクールになってません。それと、我々の時代は未だ東大は10名くらいは入ってました。東工大も15名くらいだったかな。早慶もぞろぞろ。それと当時もそうですが、自学自習といって学生の自力によって学習は任せられていましたし、理系志望であろうが、文系志望あろうが高校3年まですべての教科を学ばされて(今はわかりませんが)非常に学ぶのに負荷がかかってました。エリート進学校のように2年まで高校の教科を終わらせて3年は受験に特化して理系、文系に分けて勉強させるとかしていればぐーんと名門大学に入る素質のある学生が在学しているのでもっとそのような方策を学校が早い内に乗り出していれば今とは違っていたと思います。因みに私は千葉大に合格しましたがある勉強をしたかったので他の大学に行きました。
①戦時下における戦災移転と戦後のGHQ高校三原則による小学区制の区割りが移転先では不利だったこと②神奈川県が光陵高校(横浜国大附属を断念)など新興進学校を設立していた時期と学園紛争により希望ケ丘高校が荒れた時期が重なったこと (但し緑ヶ丘なども学園紛争が激しかったが希望ケ丘のように凋落しなかった)上記①が主要因横濱大空襲の戦火で西区藤棚町の校舎を失い金沢の軍用地跡へ移転するも不審火で校舎を再び焼失、当時は希望ヶ丘駅が設置されて間もない辺鄙な未開発地へ移転となった。 さらに20学区に細分化された小学区制により当時は進学熱が高くなかった地域の高校となってしまった。 小学区制導入前入学者の東大合格者数は17人で全国19位(湘南30人・翠嵐7人)、導入後は5人で全国72位(湘南31人・翠嵐6人)、この後は東大合格者数5人を超えることはなかった。藤棚町の旧校地跡に県教育会館が存在していることが縣一中の証しではないでしょうか神奈川県の公立高校で学園紛争により希望ケ丘以上に凋落したのが県立川崎(旧制県立川崎中)だと思いますNHK出版新書 「旧制第一中学」の面目日比谷・北野・旭丘などの旧制一中のトップ公立校、希望ケ丘のほか甲府第一・洛北・国泰寺など低迷してしまった旧制一中をまとめた書籍があります
立地要因の説明で初めて合点がいきました。「立地で生徒が選ぶ」という説明だと学区がある以上ありえないし、横浜平沼に抜かれていないことで生徒から立地で選ばれなかったという論拠は成り立たないと思っていました。しかしこちらの「立地が生徒を選ぶ」は納得の行く説明で、小学区制と横浜中部学区の初期に進学熱の低い地域に追いやられ、ベッドタウン化でやっと横浜中部学区の生活水準が上がったころに光陵にやられたといったところでしょうか。光陵は二桁東大合格者を出した横浜市内の三番目(もちろん希望ヶ丘、翠嵐に続いて)の高校になってるので、学区にポテンシャルは形成されていたのでしょう。因みに希望ヶ丘も1989、1990年に東大10名に一瞬復権しているようですよ。いずれにしても、神奈川県は私立に上澄みを奪われた、低迷公立高の中での話ですが。
@@dombarubby3817 さん>ベッドタウン化でやっと横浜中部学区の生活水準が上がったころに光陵にやられたといったところでしょうかそう思います。20学区の小学区制が1963年に9学区の中学区制に再編され横浜都心部の一部を含む「横浜中部学区」となってからの最初の大学受験が1966年ですが、あまり浮上しないまま学園闘争に突入していたのかもしれません。 「'69希望ケ丘高校闘争の記録 (1983年刊)」でも調べると判るかも?有利になった筈の中学区制導入で最初の入学者が大学受験をする年、同じ学区に県肝いりで光陵高校が設置されたことは希望ケ丘再浮上道程に逆風が吹くこととなりましたね。>希望ヶ丘も1989、1990年に東大10名に一瞬復権しているようですよこれは知りませんでした ご教示有難うございます
杏里は希望ヶ丘高校在校中の1978年に「オリビアを聴きながら」を発売。サリーちゃんみたいな魔法少女だったわけだ。
希高のOGです。そして現役中高生の親世代です。希望ヶ丘は学生紛争の時代に大学のような学校対学生の争いがあり、結果自由・自主を手に入れました。学校のことはすべて学生が決める。一時は定期テストもない時代もあったようです。私のいた30年ほど前も、校則なし。教師は行事にも生徒の進路や受験校にも一切口出しなし。それでも毎年1人は東大に合格していましたね。その後の学区撤廃で地域の最優秀層は他校へ行き、自由を謳歌したい学生がより集まるようになったのはご推測のとおりです。偏差値の高い大学に行くことがすべてとは思いませんし、マリオネットになりたくない学生には良い高校です。
でも結局はどこかの大学に行って、どこかの企業に入るわけだから、最終的には同じマリオネットの出来上がりじゃね?
しょうもない指摘で申し訳ありませんが、正しくは、希望ケ丘高校(おおきい”ケ”)ですね。30年も前のことなのでお忘れでしょうが。ちなみに、駅の名前は希望ヶ丘駅、地名は旭区南希望が丘等、だそうです。
まあ場所ですよ全て。基本的には東海道線を軸に発展し、横浜・鎌倉・藤沢に名門校が出来上がっていってる。横浜市金沢区に残っていれば、横浜南部と横須賀勢を取り込めたかもね。相鉄沿線ではきつい。
一時期、日比谷をはじめ都立高校も学区制などで低迷していた。石原都知事の政策で復活したけど
元々は男子校で、神奈川県営藤棚団地や神奈川県高等学校教育会館、桜蔭会館(神中・神高・希望ケ丘高同窓会)が現在ある地(横浜市西区藤棚町。藤棚一番街を出て第七有隣堂の坂をあがったところ)にあったが、共学校となり神奈川県立希望ヶ丘高等学校に改称し、相模鉄道から寄付された現在の地(横浜市旭区南希望が丘)に移転したのが1951年。1951年には夏の甲子園にも出場した(現状これが神奈川県立高等学校が最後に出場した甲子園)。横浜の中心部から郊外に移転してしまったことが湘南・翠嵐に進学で及ばない要因ではないだろうか。しかしながらOBは結束が強く、様々な業界で活躍している。また元々は神中・神高なので湘南・翠嵐には及ばないかもしれないが今でも名門であることは変わりない。神奈川県営藤棚団地がとても古く取り壊されて元の地に戻ってくれば湘南・翠嵐に進学で及ぶ可能性が高い。希望ヶ丘(元男子校)と平沼(元女子高)は埼玉県でいうと浦和と浦和一女の関係と近い。希望ヶ丘と平沼は元々は同じエリアにある名門男子校と名門女子高だった。やはり立地は大切。日比谷も東京都千代田区永田町にあり好立地の一中。
現役希望ケ丘生です。現在の希望ケ丘生は、入って勉強頑張る!って人よりも入って高校楽しむ!って感じの人が多い印象です(自分も楽しみたいから入りました)。勉強ガチ勢もいるにはいるんですが、そういう人は大体光陵や厚木が多いです。更に最近の希望ケ丘は自称進感が出てきています。高校選択で大学進学を大きく視野に入れてる人は、ほかに行った方がいいと思います。ただ学校生活楽しみたいって人なら、お勧めできます。今でも他の高校より自由度は高いと思います。楽しみたいからって入った自分も楽しめてるので。
貴重な内部情報、ありがとうございます。
経緯により立地が悪くなってしまったのにもかかわらず、地元トップ校の自由闊達な校風だけが残り、(受験的には)優秀な生徒をただただ潰してしまっていると評価されています。いまは入学時点から差がついているかもしれません。ちなみに、横浜第二中学校であった翠嵐高校の学風は「大平凡主義」で、トップ人材の自由な才能の発露を期待するものではなく、凡人の努力を尊ぶものです。そういうことかなと思います。
神奈川県立高校「学区」制があった 我々の頃(一昔前の話)は 各学区に「TOP」高校(「旧制中学」のナンバー校等)があり、それぞれ進学実績(平均化も見られたかと)がありました 湘南 横浜翠嵐 横須賀 希望が丘 平塚江南 等々 (厚木 小田原 とか) その頃は、「県立高校」の TOP校は(現在に同じく 東大 他 旧帝大、早稲田、慶応 等への合格実績を中心に考えれば、私の記憶ですので、学区制、昭和40年代中頃) 湘南 との記憶(総合的に 第二位は 横浜翠嵐(旧制横浜二中)か)(但し、当時は「県下統一試験」があり、過去の実績から、「進学指導」がされ、「この成績」等を中心の指導でほぼ決まり、との記憶)(私は、「某」県立高校に入学も、父親の勤務の関係で「中国地方の「某」県立高校」に転入で、その後の経緯は詳らかではありませんが) 昭和40年代中頃に設立された県立高校に、 柏陽 川和 等(現在の進学実績から言えば)があるようですが、「通学圏」の関係等で 進学実績に差がでてきた、のでは「横須賀」等は、「学区制」廃止、「通学圏」の人口減少も影響か、等。また、東京都と同様に 「県立」高校 の進学実績低迷の時期(所謂、大学紛争の時期には、近隣の国立大学の影響を受けたところもある、と後に聞きましたが)があり、この頃は「私立高校」の台頭も、その後も進学実績維持は下記。その後の改革( ? )等で、 神奈川県も 再び 県立高校の進学実績から 優位性確立かと、(今や廃刊等された週刊誌「合格速報」の記事によれば、「ある年」の進学実績(東大合格)から、翌年の「県立高校入試」から「横浜翠嵐」に受験生が、との記事の記憶があり、また、「学区制」の影響もあったかもしれません。) 私立高校では、神奈川県では当時から 栄光 聖光 浅野 とか(「学区制」には、その存置に評価は分かれるかと、 例えば、「学区」の「TOP」校と他校に 進学実績に違いが出る、等) 記憶の限りですが、ご参考まで。
え~!希望ヶ丘は古き良き戦後の神奈川県公立高校そのままの生き残りだよ!川崎市にある県立多摩高校も希望ヶ丘と(進学実績においては)似てるんじゃないかな?自分が高校生だった頃は、川和高校も似た感じののんびりした学校だったけどね。他コメで高校学生運動が希望が丘の凋落を招いたみたいなのがあって、進学実績を高校の値打ちのすべてと見るなら一理あるかもですが、希望ヶ丘高校はそういういわゆる「自称進学校」とは対極にある学校だと思います。管理教育から大きく距離を置くのが神奈川県公立のドメスティックスタンダードだった時代があると思います。愛知県とはだいぶ違うかもしれません。(「3ない運動」も神奈川県が一番最初に止めました。)その当時のままの校風を継続して行って欲しいな、というのが個人的な希望です。
(最近、ネットで長崎県ほかの自称進学校というのを知って、自分が川和高校に通っていた時代よりもさらに前時代的な教育が地方で蔓延していることに非常に驚いています。)
もう一つ言うと、他の同窓生にはこれを言ったら怒られるかも知れませんが、私が入学した数年前学園紛争がありました。いわゆるゲバです。聞いた話ですが、大学ではわかりますが高校で学園紛争したのは我が校と全国でもう一校と聞いてました。その影響で勝ち取ったのが学生での自治、自由で、と言うことで制服なし、標準服とした、学則なし、と言うことでちょうど大学の学園紛争のころでしたので、その直後の学校の環境でした。自治、自由の旗を揚げるのはいいと思いますが、入学してくる者はまだ世間知らずの15歳です。大学に入っていろいろ学んでからであればいいのですが、進路に、また、青春にいろいろ悩む時期です。そこを学校がバックアップしてあげてもう少し方策を配慮してあげてればもっと我が校も県下の他の県立進学校に並んだいやそれ以上になったと思います。そうゆう素質を持った学生が入学してましたから。迷惑?を被ってるのは今ある後輩達だと思います。今からでも遅くはないと思います。卒業した者OBから頑張れとエールを送りたいです。と言いつつ有名大学に入るばかりがいいとも言えませんが。でもOBが名門大学にはいれば後輩を引上げる事も出来るしそうではないかと思いますが。世間に出ればそのような関係も大切になることだってあるわけですから。今ある日比谷みたいに復興がんばりましょう。陰ながら応援してます!
中2のアテスト次第で受験できる高校がほぼ決まっていた神奈川方式とは一体何だったのか…
25年以上前でも、既に湘南、翠嵐でしたね。翠嵐がなぜ逆転したのかも判りませんが。原因を求めるのであれば、その前、バブル以前にあるのかもしれないですね、、、
山内さんいつも拝見させていただいています。横浜翠嵐、横浜緑ヶ丘、希望ヶ丘はナンバースクール、平沼の女子高ナンバースクール、柏陽、光陵は地域住民の力で進学校化、川和は比較的新しい柏陽、光陵と同じ、サイフロは横浜市立工業高校から探求を目的とした中高一貫校の新興勢力、横浜市立南附属中と同じで東大をはじめ医学部進学者も多くいます。平沼はかなりまずいラインまで衰退してましたが特色校になりここ数年でかなり復活してますが、上記の高校と比べると進学実績は落ちます。厚木、多摩、小田原の方が上になります。
もう一つコメント入れさせてください。神奈川県から令和6年度学力向上進学重点指定校(8校の内新規3校横浜緑ヶ丘、多摩、小田原)と新規が3校も指定されているわけですから、まずは希望ヶ丘この指定校に入りましょうよ。OBとして期待します。学校の体制、在校生の進学実績他いくつかの基準を通らないと指定校にはならないのではないかと思いますが、私も詳しい事はわかりませんが関係者のみなさん、まずはここを目標にしたらいいのではと外野から客観的に思うのです。希望ヶ丘がんばれ!私は卒業生としてエールを送ります!がんばれ!
移転したって名門校なら受験生が集まるの。旧制一中のステータスって、学校も現役生も卒業生も、みんなそれぞれ努力して維持するものなの。それを最も怠ったのです。それに尽きる。
希望ヶ丘は良い高校だが、さりげなく翠嵐をdisるように聞こえるから嫌だなあ翠嵐だって旧制2中で、湘南に次ぐ二番手で、やっと最近陽の目を見たわけで笑以上90年代翠嵐OB でした
50年前は東大合格者数は他の一校レベルだった。翠嵐の次で市内公立校の2番目が定位置だった。
1950年郊外移転で、横浜周辺で子弟を大学進学させられる経済力と意識をもったエスタブリッシュ層の住んでいる市中心部から遠くなり、彼らから見放された(新校地は当時都市郊外の旧農村のような地域)。学生運動激化で分別が大学生より相当幼い高校生に自由を与えたころ、旧横国大付属になりそこないだが、スパルタ教育を行い東大などの進学成績を上げた光陵に優秀層をとられた。学区制と、自由放任主義、年々歳々優秀層が進学してこなかったことから、かつても旧制一中の栄光を復活させる力も同窓会にないこと。ちなみに旧制横浜3中であり、学生運動が同じくさかんで自由放任であった横浜緑が丘はかろうじてまだ進学校として踏みとどまっているが、緑高は、山手から移転しなかったからだと思う。
我々の時代は柏陽は全く大した学校ではなかった。川和も毎年定員割れの惨状であった。本郷台駅が出来て柏陽が進学校になり、地下鉄が出来て川和も上がった気がします。神高(希望ヶ丘)は学校として進学校を目指しておらず受験だけに限れば不利だが、学校生活は充実しているのかも?
希望が丘は戦後には既にあった地名でそんな近年ぽっと出の土地開発で付けられたようなにわか地名ではない。ちなみに、従兄が希望ヶ丘高校から芸大行ったわ。
マーチの進学数の多い学校で有名だが、歴史的経緯なら行政に問い合わせたほうがいいのでは?なお生徒にとっては評価は高いみたいだが。
横浜市立大学卒業ですが、希望ヶ丘高校出身は多かったと思います。
@@massu68anex 概ね10人前後じゃないかな?
一中って意味か。一中が必ずしもトップ公立高校にはならないようだな。うちの県は三番手だな。人気は一番だけど。京都府みたいに「一中潰し」にあったのだろうか?
何を言いたいの? うちは、希望ヶ丘と平沼で結婚だよ。
仙台一高も謎だぬ
1977年、仙台地区の2学区制導入、北学区は二高、南学区は一高以降入試難易度が逆転。男女共学化、全県1学区制導入などを経ても二高の優位が続いている。
翠嵐の躍進が大ターミナル横浜駅の存在あっての事である様に神奈川の場合教育委員会よりも相鉄を中心とした地元鉄道各社の動向の方が重要で、新横浜線の開業後を考えると希望ヶ丘復活はあるのでは?
桜丘でもない
仙台一高と二高との関係と似ているな。
知人で希望が丘今小田急副社長
兄2人が希望が丘です。長男の時代に同級生の生徒会長が学園紛争を起こして制服や校則などの改革を行い、教師よりも生徒会主導の高校生活になったと教えてくれました。千葉大薬学部、修士のちに千葉大薬学部大学院教授、次兄は長男より5歳下で一橋商卒、当時はすでに湘南がトップ校で兄は湘南希望でしたが、学区外の壁厚く悪名高い神奈川方式の内申とアチーブメントテスト、診断テスト等で8割が決定してしまう方式の為湘南には届かなかったといっていました。自由な校風だけが残り徐々に進学実績が落ち込み、県内3,4番手校になりました。昭和40年生まれの代から人口増に伴う新設校の増加(100校計画)により地域による小学区制をスタートし小学区の中の西部学区の中のトップ校にする為かなりいびつな学区を作りました(自分は小学区制2年目で希望が丘は学区外でした。どの道内申足りなかったので市立桜丘でしたが希望が丘、松陽の方がはるかに近くでした)。しかし本当のトップ層は学区外の光陵や湘南に抜けていく人も多く、一応学区トップ校を維持するも定員が多くトップ層と下位層で大きな差がありました。その当時光陵の定員は希望が丘の半数で横浜国大附属になる予定だった高校を住民の反対で県立普通科高校にした経緯があり横国附属中からも進学者が多く、湘南と並ぶ進学校になりました。その時希望が丘もそれなりに維持していましたがやはり衰退は止められませんでした。その後光陵も不便な立地や横国附属生が入学しなくなり衰退して希望が丘と同レベルになっています。希望が丘は学区制廃止して今はかなり挽回した方だと思いますよ。学区制時代は下位層は結構悲惨でしたから。横浜地区でも学力の劣る地域なので、横浜駅に近い翠嵐や開発で大きく人口が増えた、川和、緑が丘、地域住民が進学校化した柏陽に押されて特色校中間に甘んじています。近所なので近隣中学からは目指す子供多いですよ。ただし国公立は横国、市大 あとはGMARCH以上というのが今の希望が丘の現状です。
杏里、伊藤かずえさんは定時制ですから全日制の卒業生ではありません。同じ駅で希望が丘と隼人高校の生徒さんを見かけますが、希望が丘の生徒さんは制服もないので自由そのもの、ピンク、金髪ふつうにいます。隼人さんは高速厳しいのでまじめな感じですね。
ちょっと古いですが、時系列で。
1)70年代、公立トップ校養成所の横浜国大中学にも国立中学なのに、相対評価の神奈川県方式を強要した結果、学業が優秀なのに成績が1がつき、県立トップに行かれない学生が続出した。
(ここで湘南高校の東大合格者は激減)
2)1981年頃に細かい学区制が敷かれ、県内のトップ(ナンバースクール)の高校に広い地域から優秀な学生を集められなくなった。
(ナンバースクールの意味がなくなった)
3)当時の神奈川県方式は、内申点が実技教科にも重点があり、体育や家庭科などができない人は学業が優秀でも、相応の公立校に入れず、私立高校に流出した。
(私立高校が相次いで特進クラスを作って、大量に受け入れて大学合格実績を伸ばして、現在の進学校になり始めたのがこの時期)
4)結果、(大学合格実績で)公立高校全体が90年代に凋落し、97年の悪名高いア・テスト廃止を皮切りに改革を余儀なくされた。
5)現在はこれらは廃止されたが、神奈川県方式が長年君臨してた影響で、世代も入れ替わり、かつての威光、ブランドを知る人も無くなってしまった。
6)肌感だけど、神奈川の公立はガチガチ東大行くより、高校生活をエンジョイして、そこそこの大学に行くみたいな雰囲気の人が多い気がする。そういう県立進学校に「楽しい高校生活を過ごしたい」と通いたがる人も少なからず居る。希望ヶ丘がその例ではないかな?
参考文献『公立or私立神奈川の教育を考える』(読売新聞社)
様々な理由があると思いますが、一番は立地でしょう。1950年の移転から既に衰退が始まっているのです。
学園紛争は衰退を加速させたにすぎないし、だいたい、今の子供がそんなこと知るわけ無い。
中学生だって、立地で大学を選ぶ高校生と同じです。
首都圏の旧制一中(日比谷、浦和、千葉)は全て中心部に近い。
神奈川だけが違います。
名門女子大の中でも凋落の激しいフェリスもそうですが、あそこらへんは客観的には十分都会ですが、横浜の子供にとってはド田舎です。
立地も進学実績も上位の翠嵐や私立があるのに、成績優秀層がわざわざ行く理由がないです。
45年前の卒業生です。
私が高校受験したころ、すでに、クラスのトップ層は、光陵高校に流れてました。
私は、一見大学と見間違うような広大な敷地と佇まいに憧れて、あえて進学しました。
入学すると、自由な校風にドップリつかりました。部活や行事などとにかく楽しかった!
反面、勉強がおろそかになったことは事実。
中間テストなし、文理分けなし(数Ⅲ、理科Ⅱ必修)など、受験指導も、ほとんど無かったと思います。
結果、卒業時には、クラスの3/4が浪人してました。
それでも、一年後には、そんなクラスから、結構な人数が、東大を初め、東工大、早慶等に合格し、進学してました。
一般的に、浪人が少なくなった現在、このような自由な校風のもとで、難関大学への進学実績をあげるのは困難でしょう。
しかし、高校生活をどのように充実させるかは、その人次第です。今でも、やる気のある生徒にはお薦めの高校だと信じてます。
がんばれ希望ケ丘高校
現在64歳の爺です。
希望ヶ丘はまさしく当時優秀な 高校でしたよ。
学生運動が盛んな頃
希望ヶ丘はブイブイ
リベラルの高校で、
受験に関しては全く
無関心という印象です!
本当に大学受験を意識する保護者たちは
私立の浅野、栄光学園、聖光学院を受験させていましたよ!
希望が丘は当時私の学区でしたが、本当に勉強したい生徒は光陵や
学区外の湘南、厚木を特別枠で受験しておりました。
教育熱心な保護者から指示されなかったのが
希望ヶ丘高校の凋落と
私は思います。
自分の認識が正しければ、大学の学生運動が盛んなころ、その運動が希望ヶ丘にも飛び火してきて、生徒の自治などが盛んになりました。その結果、神奈川県立高校には珍しく制服の強制が撤廃され服装が自由になるなどの成果がありました。
しかし、そのような過激な環境が敬遠され始めたころ、同じ学区に、横浜国大付属高崩れの光陵が移転してきたことにより同学区に組み入れられ、優秀層が一気に光陵に流れました。光陵は横浜国大付属高校として計画され、まずは神奈川県立高として立ち上がりましたが、東京教育大の同窓会の圧力などで国立化を諦め神奈川県がそのまま引き取ったという経緯のある高校なので、歴史が浅いにも関わらずいきなり優秀層が流れるという事態になりました。
学区トップの座を光陵に明け渡したあたりから希望ヶ丘の凋落が始まり、光陵が移転してくる少し前に柏陽もでき、これの経緯はわかりませんが、学区二番手を争うことになります。
やがて、学区細分化で、希望ヶ丘、光陵、柏陽は各々別の学区になり、それぞれの学区トップ高になりました。
学区撤廃で、再び横並びになったとき、柏陽の躍進目覚ましく、光陵も凋落しており、蓋を開ければ、希望ヶ丘、光陵ともに柏陽の後塵を浴びることとなりました。
希望ヶ丘凋落は、学生運動に嫌気がさした優秀層が、同学区に彗星のごとく現れた国立高崩れの光陵に流れ、学区トップを奪われたことから始まったと認識しております。
山内先生にこのあたりの裏取りを期待したいところですね。
他県出身者で東大合格者の公立御三家が浦高・県千葉・湘南の時代の最後の方に高校時代を過ごした者です。進学実績という意味で神奈川の公立トップ=湘南の印象が強く、横浜翠嵐の存在や希望ヶ丘が神奈川の旧制一中だというのは今世紀に入ってから知りました。山内さん同様、他県出身者から見て旧制一中の希望ヶ丘の進学実績が横浜翠嵐や湘南に及ばないようになったのはなぜなのか、ずっと思っていました。
戦後の神奈川県は他県と違って公立中学、高校の校名に「第一・第二」のような名称はつけなくなりました。理由はわかりませんが。
東京とかもそうですね。
Wikipediaによると、「学校間格差の廃止を掲げたGHQの指示によってほとんど全てのナンバースクールが一旦ネームスクールへの名称変更を強いられた」そうです。ナンバー制に戻された学校もあるようなので、残っているのはその戻されたってパターンなんですかね。
@@スタッドイチキュウナナイチヨンロク 都立第一商業高校とか、ビートたけしさんの出身校、足立区立第四中学など都内の公立学校には結構ナンバースクールは残っています。神奈川特に横浜市内の公立校は港南区を除いてほとんどない。
立地と旧制一中のもと自由過ぎる校風と教員の弛みなどが複合的に相対的な立ち位置の凋落を生み、学区制撤廃が今の立ち位置を固定化した印象。70代以上の古い卒業生は嘆くだけが定番な印象笑
湘南、厚木、小田原も昔よりは進学実績の方は落ちてしまったのを考えるとその時の栄華を誇った私立の勢力図の変遷とその立地も影響しているのかな
私は50年前の卒業生ですが、在学中に先生から聞かされた話ですが終戦直後GHQの何らかの圧力で首都圏にナンバースクールを作って特定のエリート校をつくるなという何らかの圧力があって横浜1(とか他の県立旧制中学も)するのはやめたそうです。
だから湘南は別ですが、他の神奈川県の元旧制中学もナンバースクールになってません。それと、我々の時代は未だ東大は10名くらいは入ってました。東工大も15名くらいだったかな。早慶もぞろぞろ。それと当時もそうですが、自学自習といって学生の自力によって学習は任せられていましたし、理系志望であろうが、文系志望あろうが高校3年まですべての教科を学ばされて(今はわかりませんが)非常に学ぶのに負荷がかかってました。エリート進学校のように2年まで高校の教科を終わらせて3年は受験に特化して理系、文系に分けて勉強させるとかしていればぐーんと名門大学に入る素質のある学生が在学しているのでもっとそのような方策を学校が早い内に乗り出していれば今とは違っていたと思います。因みに私は千葉大に合格しましたがある勉強をしたかったので他の大学に行きました。
①戦時下における戦災移転と戦後のGHQ高校三原則による小学区制の区割りが移転先では不利だったこと
②神奈川県が光陵高校(横浜国大附属を断念)など新興進学校を設立していた時期と学園紛争により希望ケ丘高校が荒れた時期が重なったこと (但し緑ヶ丘なども学園紛争が激しかったが希望ケ丘のように凋落しなかった)
上記①が主要因
横濱大空襲の戦火で西区藤棚町の校舎を失い金沢の軍用地跡へ移転するも不審火で校舎を再び焼失、当時は希望ヶ丘駅が設置されて間もない辺鄙な未開発地へ移転となった。 さらに20学区に細分化された小学区制により当時は進学熱が高くなかった地域の高校となってしまった。 小学区制導入前入学者の東大合格者数は17人で全国19位(湘南30人・翠嵐7人)、導入後は5人で全国72位(湘南31人・翠嵐6人)、この後は東大合格者数5人を超えることはなかった。
藤棚町の旧校地跡に県教育会館が存在していることが縣一中の証しではないでしょうか
神奈川県の公立高校で学園紛争により希望ケ丘以上に凋落したのが県立川崎(旧制県立川崎中)だと思います
NHK出版新書 「旧制第一中学」の面目
日比谷・北野・旭丘などの旧制一中のトップ公立校、希望ケ丘のほか甲府第一・洛北・国泰寺など低迷してしまった旧制一中をまとめた書籍があります
立地要因の説明で初めて合点がいきました。
「立地で生徒が選ぶ」という説明だと学区がある以上ありえないし、横浜平沼に抜かれていないことで生徒から立地で選ばれなかったという論拠は成り立たないと思っていました。
しかしこちらの「立地が生徒を選ぶ」は納得の行く説明で、小学区制と横浜中部学区の初期に進学熱の低い地域に追いやられ、ベッドタウン化でやっと横浜中部学区の生活水準が上がったころに光陵にやられたといったところでしょうか。光陵は二桁東大合格者を出した横浜市内の三番目(もちろん希望ヶ丘、翠嵐に続いて)の高校になってるので、学区にポテンシャルは形成されていたのでしょう。
因みに希望ヶ丘も1989、1990年に東大10名に一瞬復権しているようですよ。
いずれにしても、神奈川県は私立に上澄みを奪われた、低迷公立高の中での話ですが。
@@dombarubby3817 さん
>ベッドタウン化でやっと横浜中部学区の生活水準が上がったころに光陵にやられたといったところでしょうか
そう思います。
20学区の小学区制が1963年に9学区の中学区制に再編され横浜都心部の一部を含む「横浜中部学区」となってからの最初の大学受験が1966年ですが、あまり浮上しないまま学園闘争に突入していたのかもしれません。 「'69希望ケ丘高校闘争の記録 (1983年刊)」でも調べると判るかも?
有利になった筈の中学区制導入で最初の入学者が大学受験をする年、同じ学区に県肝いりで光陵高校が設置されたことは希望ケ丘再浮上道程に逆風が吹くこととなりましたね。
>希望ヶ丘も1989、1990年に東大10名に一瞬復権しているようですよ
これは知りませんでした
ご教示有難うございます
杏里は希望ヶ丘高校在校中の1978年に「オリビアを聴きながら」を発売。サリーちゃんみたいな魔法少女だったわけだ。
希高のOGです。そして現役中高生の親世代です。
希望ヶ丘は学生紛争の時代に大学のような学校対学生の争いがあり、結果自由・自主を手に入れました。学校のことはすべて学生が決める。一時は定期テストもない時代もあったようです。
私のいた30年ほど前も、校則なし。教師は行事にも生徒の進路や受験校にも一切口出しなし。それでも毎年1人は東大に合格していましたね。
その後の学区撤廃で地域の最優秀層は他校へ行き、自由を謳歌したい学生がより集まるようになったのはご推測のとおりです。
偏差値の高い大学に行くことがすべてとは思いませんし、マリオネットになりたくない学生には良い高校です。
でも結局はどこかの大学に行って、どこかの企業に入るわけだから、最終的には同じマリオネットの出来上がりじゃね?
しょうもない指摘で申し訳ありませんが、正しくは、希望ケ丘高校(おおきい”ケ”)ですね。30年も前のことなのでお忘れでしょうが。
ちなみに、駅の名前は希望ヶ丘駅、地名は旭区南希望が丘等、だそうです。
まあ場所ですよ全て。基本的には東海道線を軸に発展し、横浜・鎌倉・藤沢に名門校が出来上がっていってる。横浜市金沢区に残っていれば、横浜南部と横須賀勢を取り込めたかもね。相鉄沿線ではきつい。
一時期、日比谷をはじめ都立高校も学区制などで低迷していた。石原都知事の政策で復活したけど
元々は男子校で、神奈川県営藤棚団地や神奈川県高等学校教育会館、桜蔭会館(神中・神高・希望ケ丘高同窓会)が現在ある地(横浜市西区藤棚町。藤棚一番街を出て第七有隣堂の坂をあがったところ)にあったが、共学校となり神奈川県立希望ヶ丘高等学校に改称し、相模鉄道から寄付された現在の地(横浜市旭区南希望が丘)に移転したのが1951年。1951年には夏の甲子園にも出場した(現状これが神奈川県立高等学校が最後に出場した甲子園)。横浜の中心部から郊外に移転してしまったことが湘南・翠嵐に進学で及ばない要因ではないだろうか。しかしながらOBは結束が強く、様々な業界で活躍している。また元々は神中・神高なので湘南・翠嵐には及ばないかもしれないが今でも名門であることは変わりない。神奈川県営藤棚団地がとても古く取り壊されて元の地に戻ってくれば湘南・翠嵐に進学で及ぶ可能性が高い。希望ヶ丘(元男子校)と平沼(元女子高)は埼玉県でいうと浦和と浦和一女の関係と近い。希望ヶ丘と平沼は元々は同じエリアにある名門男子校と名門女子高だった。やはり立地は大切。日比谷も東京都千代田区永田町にあり好立地の一中。
現役希望ケ丘生です。
現在の希望ケ丘生は、入って勉強頑張る!って人よりも入って高校楽しむ!って感じの人が多い印象です(自分も楽しみたいから入りました)。勉強ガチ勢もいるにはいるんですが、そういう人は大体光陵や厚木が多いです。更に最近の希望ケ丘は自称進感が出てきています。高校選択で大学進学を大きく視野に入れてる人は、ほかに行った方がいいと思います。ただ学校生活楽しみたいって人なら、お勧めできます。今でも他の高校より自由度は高いと思います。楽しみたいからって入った自分も楽しめてるので。
貴重な内部情報、ありがとうございます。
経緯により立地が悪くなってしまったのにもかかわらず、地元トップ校の自由闊達な校風だけが残り、(受験的には)優秀な生徒をただただ潰してしまっていると評価されています。いまは入学時点から差がついているかもしれません。ちなみに、横浜第二中学校であった翠嵐高校の学風は「大平凡主義」で、トップ人材の自由な才能の発露を期待するものではなく、凡人の努力を尊ぶものです。そういうことかなと思います。
神奈川県立高校
「学区」制があった 我々の頃(一昔前の話)は
各学区に「TOP」高校(「旧制中学」のナンバー校等)があり、それぞれ進学実績(平均化も見られたかと)がありました
湘南 横浜翠嵐 横須賀 希望が丘 平塚江南 等々
(厚木 小田原 とか)
その頃は、「県立高校」の TOP校は
(現在に同じく 東大 他 旧帝大、早稲田、慶応 等への合格実績を中心に考えれば、私の記憶ですので、学区制、昭和40年代中頃)
湘南 との記憶
(総合的に 第二位は 横浜翠嵐(旧制横浜二中)か)
(但し、当時は「県下統一試験」があり、過去の実績から、「進学指導」がされ、「この成績」等を中心の指導でほぼ決まり、との記憶)
(私は、「某」県立高校に入学も、父親の勤務の関係で「中国地方の「某」県立高校」に転入で、その後の経緯は詳らかではありませんが)
昭和40年代中頃に設立された県立高校に、
柏陽 川和 等
(現在の進学実績から言えば)
があるようですが、「通学圏」の関係等で 進学実績に差がでてきた、のでは
「横須賀」等は、「学区制」廃止、「通学圏」の人口減少も影響か、等。
また、東京都と同様に 「県立」高校 の進学実績低迷の時期(所謂、大学紛争の時期には、近隣の国立大学の影響を受けたところもある、と後に聞きましたが)があり、
この頃は「私立高校」の台頭も、その後も進学実績維持は下記。
その後の改革( ? )等で、
神奈川県も 再び 県立高校の進学実績から 優位性確立かと、
(今や廃刊等された週刊誌「合格速報」の記事によれば、「ある年」の進学実績(東大合格)から、翌年の「県立高校入試」から「横浜翠嵐」に受験生が、との記事の記憶があり、また、「学区制」の影響もあったかもしれません。)
私立高校では、神奈川県では当時から
栄光 聖光 浅野 とか
(「学区制」には、その存置に評価は分かれるかと、
例えば、「学区」の「TOP」校と他校に 進学実績に違いが出る、等)
記憶の限りですが、ご参考まで。
え~!希望ヶ丘は古き良き戦後の神奈川県公立高校そのままの生き残りだよ!
川崎市にある県立多摩高校も希望ヶ丘と(進学実績においては)似てるんじゃないかな?
自分が高校生だった頃は、川和高校も似た感じののんびりした学校だったけどね。
他コメで高校学生運動が希望が丘の凋落を招いたみたいなのがあって、進学実績を高校の値打ちのすべてと見るなら一理あるかもですが、希望ヶ丘高校はそういういわゆる「自称進学校」とは対極にある学校だと思います。
管理教育から大きく距離を置くのが神奈川県公立のドメスティックスタンダードだった時代があると思います。愛知県とはだいぶ違うかもしれません。(「3ない運動」も神奈川県が一番最初に止めました。)その当時のままの校風を継続して行って欲しいな、というのが個人的な希望です。
(最近、ネットで長崎県ほかの自称進学校というのを知って、自分が川和高校に通っていた時代よりもさらに前時代的な教育が地方で蔓延していることに非常に驚いています。)
もう一つ言うと、他の同窓生にはこれを言ったら怒られるかも知れませんが、私が入学した数年前学園紛争がありました。いわゆるゲバです。聞いた話ですが、大学ではわかりますが高校で学園紛争したのは我が校と全国でもう一校と聞いてました。その影響で勝ち取ったのが学生での自治、自由で、と言うことで制服なし、標準服とした、学則なし、と言うことでちょうど大学の学園紛争のころでしたので、その直後の学校の環境でした。自治、自由の旗を揚げるのはいいと思いますが、入学してくる者はまだ世間知らずの15歳です。大学に入っていろいろ学んでからであればいいのですが、進路に、また、青春にいろいろ悩む時期です。そこを学校がバックアップしてあげてもう少し方策を配慮してあげてればもっと我が校も県下の他の県立進学校に並んだいやそれ以上になったと思います。そうゆう素質を持った学生が入学してましたから。迷惑?を被ってるのは今ある後輩達だと思います。今からでも遅くはないと思います。卒業した者OBから頑張れとエールを送りたいです。と言いつつ有名大学に入るばかりがいいとも言えませんが。でもOBが名門大学にはいれば後輩を引上げる事も出来るしそうではないかと思いますが。世間に出ればそのような関係も大切になることだってあるわけですから。今ある日比谷みたいに復興がんばりましょう。陰ながら応援してます!
中2のアテスト次第で受験できる高校がほぼ決まっていた神奈川方式とは一体何だったのか…
25年以上前でも、既に湘南、翠嵐でしたね。翠嵐がなぜ逆転したのかも判りませんが。原因を求めるのであれば、その前、バブル以前にあるのかもしれないですね、、、
山内さんいつも拝見させていただいています。横浜翠嵐、横浜緑ヶ丘、希望ヶ丘はナンバースクール、平沼の女子高ナンバースクール、
柏陽、光陵は地域住民の力で進学校化、川和は比較的新しい柏陽、光陵と同じ、サイフロは横浜市立工業高校から探求を目的とした中高一貫校の新興勢力、横浜市立南附属中と同じで東大をはじめ医学部進学者も多くいます。平沼はかなりまずいラインまで衰退してましたが特色校になりここ数年でかなり復活してますが、上記の高校と比べると進学実績は落ちます。厚木、多摩、小田原の方が上になります。
もう一つコメント入れさせてください。神奈川県から令和6年度学力向上進学重点指定校(8校の内新規3校横浜緑ヶ丘、多摩、小田原)と新規が3校も指定されているわけですから、まずは希望ヶ丘この指定校に入りましょうよ。OBとして期待します。学校の体制、在校生の進学実績他いくつかの基準を通らないと指定校にはならないのではないかと思いますが、私も詳しい事はわかりませんが関係者のみなさん、まずはここを目標にしたらいいのではと外野から客観的に思うのです。希望ヶ丘がんばれ!私は卒業生としてエールを送ります!がんばれ!
移転したって名門校なら受験生が集まるの。旧制一中のステータスって、学校も現役生も卒業生も、みんなそれぞれ努力して維持するものなの。それを最も怠ったのです。それに尽きる。
希望ヶ丘は良い高校だが、さりげなく翠嵐をdisるように聞こえるから嫌だなあ
翠嵐だって旧制2中で、湘南に次ぐ二番手で、やっと最近陽の目を見たわけで笑
以上90年代翠嵐OB でした
50年前は東大合格者数は他の一校レベルだった。翠嵐の次で市内公立校の2番目が定位置だった。
1950年郊外移転で、横浜周辺で子弟を大学進学させられる経済力と意識をもったエスタブリッシュ層の住んでいる市中心部から遠くなり、彼らから見放された(新校地は当時都市郊外の旧農村のような地域)。学生運動激化で分別が大学生より相当幼い高校生に自由を与えたころ、旧横国大付属になりそこないだが、スパルタ教育を行い東大などの進学成績を上げた光陵に優秀層をとられた。学区制と、自由放任主義、年々歳々優秀層が進学してこなかったことから、かつても旧制一中の栄光を復活させる力も同窓会にないこと。
ちなみに旧制横浜3中であり、学生運動が同じくさかんで自由放任であった横浜緑が丘はかろうじてまだ進学校として踏みとどまっているが、緑高は、山手から移転しなかったからだと思う。
我々の時代は柏陽は全く大した学校ではなかった。川和も毎年定員割れの惨状であった。本郷台駅が出来て柏陽が進学校になり、地下鉄が出来て川和も上がった気がします。神高(希望ヶ丘)は学校として進学校を目指しておらず受験だけに限れば不利だが、学校生活は充実しているのかも?
希望が丘は戦後には既にあった地名でそんな近年ぽっと出の土地開発で付けられたようなにわか地名ではない。
ちなみに、従兄が希望ヶ丘高校から芸大行ったわ。
マーチの進学数の多い学校で有名だが、歴史的経緯なら行政に問い合わせたほうがいいのでは?
なお生徒にとっては評価は高いみたいだが。
横浜市立大学卒業ですが、希望ヶ丘高校出身は多かったと思います。
@@massu68anex
概ね10人前後じゃないかな?
一中って意味か。一中が必ずしもトップ公立高校にはならないようだな。うちの県は三番手だな。人気は一番だけど。京都府みたいに「一中潰し」にあったのだろうか?
何を言いたいの? うちは、希望ヶ丘と平沼で結婚だよ。
仙台一高も謎だぬ
1977年、仙台地区の2学区制導入、北学区は二高、南学区は一高以降入試難易度が逆転。男女共学化、全県1学区制導入などを経ても二高の優位が続いている。
翠嵐の躍進が大ターミナル横浜駅の存在あっての事である様に神奈川の場合教育委員会よりも相鉄を中心とした地元鉄道各社の動向の方が重要で、新横浜線の開業後を考えると希望ヶ丘復活はあるのでは?
桜丘でもない
仙台一高と二高との関係と似ているな。
知人で希望が丘
今小田急副社長