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詳細な街並みが見える様な写真[2:18]に想いも一入です、S13年?、当時4歳の記憶ですが微かなものが過ります。父は海軍所属、旅順宿舎に、港が近かったですね。また、永住の記憶でなく佐世保と交差する感じでしたね。S15年は【紀元2600年】、祖母との提灯行列に参加した記憶も蘇りますね。
良いですね!日本が本当の日本だった頃の様に思ってしまいます!加藤登紀子さんも鶴田浩二さんも渡瀬さんも歌っていたのを知りました!御仁の詩も沁み入ります!
コメントありがとうございます。旧制一高(現東大教養学部)では流行歌として歌われなかったんですが、新制東大となって、民青(共産党)の学生が歌声運動のなかでこの歌をとりあげ、駒場寮や歌声喫茶で歌われるようになったようです。バンカラ(弊衣破帽)の旧制一高では、恋の歌詞が出てくるこの歌はほとんど歌われなかったようです。ありがとうございました。
かって横浜寮歌祭で、新制東北大学先輩がリードして「北帰行」を歌ったときに、ある著名な旧制高校生から「この歌は寮歌ではない。流行歌であるから寮歌祭では歌わないで欲しい。」と猛反発をくったことがある。東北大生の友人である私は、すぐさま登壇し、旅順高校なきあと「北帰行」は新制の寮に引き継がれ広く歌われてきた。狭義の寮歌ではないが、広義の寮歌であると反論したことがあった。先輩に対し赤面の至りの態度であったが、今は懐しい思い出である。
旧制旅順高校は日本の敗戦で廃校となった。旧制高校も昭和25年になくなった。この「北帰行」の歌を引継ぎ寮歌集に載せ連綿と歌ってきたのは駒場寮であり、世に広めたのは民青による歌声運動である。女や恋の歌詞のある「北帰行」は断じて旧制一高の寮歌ではないが、作者の宇田博が旅順高校を放校になり、三年間を過ごした旧制一高、一高の寄宿寮を引継いだ新制東大駒場寮との関係は否定できない。一高同窓会も「向陵駒場寮歌集」では、「北帰行」を頌歌として掲載しており、ここではそれに倣った。(kagonaka氏の指摘に対し)
(旅順高校在籍時に作られたというkagonaka氏の指摘に対し2)通説によれば、この「北帰行」が旅順高校生に公表されたのは、宇田博が旅順高を放校になった後の、一部友人らとの送別の席という。旅順高校在籍の時、記念祭などの寮の行事で発表された寮歌ではない。ちなみに宇田が在籍時に作った寮歌は、旅順高校第1回寮歌「薫風通ふ春五月」である。
製作当時の状況では、旧制第一高等学校に直接関係している歌ではないと思います。旅順高等学校在籍時に作られたものです。作者は、その後一高、東大に進学したという事実はあるようです。
説明文に「この歌は一高寮歌ではないが、歌声喫茶や小林旭の歌で流行る前から東大駒場寮で愛唱歌として連綿と歌い継がれていた。」とはっきり書いております。説明文をよく読んでください。
私の説明文をよく読んでください。若干補足する。宇田の二番歌詞に「建大、一高、旅高」とある。「北帰行」と旧制一高とは制作当時から関係があった。奉天一中(府立四中から転入)の秀才であった宇田は終始一高志望であったと思われる。一高受験に失敗、その夢がかなわず、確か父上が学長を務めていた建大に入学したものの退学処分となった。旧制高への思いが断ち切れず、とりあえず満州の地に新設の旅順高を受験し入学したが、女性問題を起こし旅順高を放校となった。実際の順番は一高、建大、旅順高であるが、これを建大、一高、旅高として、受験の失敗や退学処分を「追われ闇を旅行く」と表現した。宇田の志望校は旧制一高であり、受験に失敗し、やむなく建大や旅順高に入ったものの、満足できず、旧制一高を再度受験し合格した。その過程で作った曲が「北帰行」である。
父が歌っておりましたシベリアで抑留されてたようです。昨年95歳で逝きました。寮歌祭のグッズ 柩に入れました。
お聴きいただき、また御父上の思い出を語っていただきありがとうございます。私は旧制一高の先輩に連れられ、北海道から九州まで全国の寮歌祭の常連でしたので、どこかの寮歌祭で御父上とお会いしていたかもしれませんね。
昭和50年代に幾許かの縁で一高、東大の歌を斉唱する機会がありましたが、北帰行は他の高等学校の歌であると認識しておりました。弊方の認識不足により、不快な思いをさせてしまいましたことをお詫び申し上げます。
こちらこそ失礼いたしました。私が接した一高寮歌オンチの方で、この「北帰行」を一高寮歌と思っているひとは誰もいませんでした。女の語句の出てくる歌詞を忌み嫌っていました。同窓会最後の平成16年寮歌集の編集委員は全員一致でこの歌を寮歌集から削除しました。ただし、私自身は、旧制一高・東大駒場寮との関係は無視しえないと思っています。
詳細な街並みが見える様な写真[2:18]に想いも一入です、S13年?、当時4歳の記憶ですが微かなものが過ります。父は海軍所属、旅順宿舎に、港が近かったですね。
また、永住の記憶でなく佐世保と交差する感じでしたね。
S15年は【紀元2600年】、祖母との提灯行列に参加した記憶も蘇りますね。
良いですね!日本が本当の日本だった頃の様に思ってしまいます!加藤登紀子さんも鶴田浩二さんも渡瀬さんも歌っていたのを知りました!御仁の詩も沁み入ります!
コメントありがとうございます。旧制一高(現東大教養学部)では流行歌として歌われなかったんですが、新制東大となって、民青(共産党)の学生が歌声運動のなかでこの歌をとりあげ、駒場寮や歌声喫茶で歌われるようになったようです。バンカラ(弊衣破帽)の旧制一高では、恋の歌詞が出てくるこの歌はほとんど歌われなかったようです。ありがとうございました。
かって横浜寮歌祭で、新制東北大学先輩がリードして「北帰行」を歌ったときに、ある著名な旧制高校生から「この歌は寮歌ではない。流行歌であるから寮歌祭では歌わないで欲しい。」と猛反発をくったことがある。東北大生の友人である私は、すぐさま登壇し、旅順高校なきあと「北帰行」は新制の寮に引き継がれ広く歌われてきた。狭義の寮歌ではないが、広義の寮歌であると反論したことがあった。先輩に対し赤面の至りの態度であったが、今は懐しい思い出である。
旧制旅順高校は日本の敗戦で廃校となった。旧制高校も昭和25年になくなった。この「北帰行」の歌を引継ぎ寮歌集に載せ連綿と歌ってきたのは駒場寮であり、世に広めたのは民青による歌声運動である。女や恋の歌詞のある「北帰行」は断じて旧制一高の寮歌ではないが、作者の宇田博が旅順高校を放校になり、三年間を過ごした旧制一高、一高の寄宿寮を引継いだ新制東大駒場寮との関係は否定できない。一高同窓会も「向陵駒場寮歌集」では、「北帰行」を頌歌として掲載しており、ここではそれに倣った。(kagonaka氏の指摘に対し)
(旅順高校在籍時に作られたというkagonaka氏の指摘に対し2)通説によれば、この「北帰行」が旅順高校生に公表されたのは、宇田博が旅順高を放校になった後の、一部友人らとの送別の席という。旅順高校在籍の時、記念祭などの寮の行事で発表された寮歌ではない。ちなみに宇田が在籍時に作った寮歌は、旅順高校第1回寮歌「薫風通ふ春五月」である。
製作当時の状況では、旧制第一高等学校に直接関係している歌ではないと思います。旅順高等学校在籍時に作られたものです。
作者は、その後一高、東大に進学したという事実はあるようです。
説明文に「この歌は一高寮歌ではないが、歌声喫茶や小林旭の歌で流行る前から東大駒場寮で愛唱歌として連綿と歌い継がれていた。」とはっきり書いております。説明文をよく読んでください。
私の説明文をよく読んでください。若干補足する。宇田の二番歌詞に「建大、一高、旅高」とある。「北帰行」と旧制一高とは制作当時から関係があった。奉天一中(府立四中から転入)の秀才であった宇田は終始一高志望であったと思われる。一高受験に失敗、その夢がかなわず、確か父上が学長を務めていた建大に入学したものの退学処分となった。旧制高への思いが断ち切れず、とりあえず満州の地に新設の旅順高を受験し入学したが、女性問題を起こし旅順高を放校となった。実際の順番は一高、建大、旅順高であるが、これを建大、一高、旅高として、受験の失敗や退学処分を「追われ闇を旅行く」と表現した。宇田の志望校は旧制一高であり、受験に失敗し、やむなく建大や旅順高に入ったものの、満足できず、旧制一高を再度受験し合格した。その過程で作った曲が「北帰行」である。
父が歌っておりました
シベリアで抑留されてたようです。昨年95歳で逝きました。寮歌祭のグッズ 柩に入れました。
お聴きいただき、また御父上の思い出を語っていただきありがとうございます。私は旧制一高の先輩に連れられ、北海道から九州まで全国の寮歌祭の常連でしたので、どこかの寮歌祭で御父上とお会いしていたかもしれませんね。
昭和50年代に幾許かの縁で一高、東大の歌を斉唱する機会がありましたが、北帰行は他の高等学校の歌であると認識しておりました。弊方の認識不足により、不快な思いをさせてしまいましたことをお詫び申し上げます。
こちらこそ失礼いたしました。私が接した一高寮歌オンチの方で、この「北帰行」を一高寮歌と思っているひとは誰もいませんでした。女の語句の出てくる歌詞を忌み嫌っていました。同窓会最後の平成16年寮歌集の編集委員は全員一致でこの歌を寮歌集から削除しました。ただし、私自身は、旧制一高・東大駒場寮との関係は無視しえないと思っています。