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まほろばさん、はじめまして。貴重な映像をありがとうございます。学校跡だけでなく、教員住宅や公会堂跡まで辿っていただいたということは、かなり現地のことを研究されてのことだと思います。公会堂付近は昔は開けた場所で、畑がたくさんあり、母が毎日耕しておりました。もちろん、小学校のまわりも開けており、果無山脈が一望できました。あの桜は毎年たくさん花をつけ、ミツバチやクワガタ、スズメバチなど、たくさんの虫を引き寄せていました。私が小学校に入学した時には、すでに中学校の分校はなくなっていて、3つの複式教室と音楽教室がありました。教員は、担任の先生が3人と校長の、合計4人でした。事務員さんや調理員さんなどはおらず、児童は毎日お弁当を持って登校していました。冬は薪ストーブのまわりに弁当箱を並べて温めていました。昼休みに裏山へ行き、罠をしかけて、授業が終わったあと、ツグミなどの獲物を捕らえてストーブの熾火で炙って食べたこともありました。最高に美味しかったです。マムシもよく出ました。あるとき、マムシを捕まえた6年生のT君が、「これは皮をむいて干しておくのだ」と、マムシの首根っこに噛みついて皮をむいていました。ちなみに、マムシの卵も美味しかったです。今では想像もつかないアドベンチャーな小学生達でした。今回、北側の大井谷から登られたようですが、寺垣内への水平道と、南側へ下る道の3つのコースがありました。教員がメインに使っていたのは南側の道でした。学校の遠足で寺垣内から冷水山に登った時には、6年生達が天体望遠鏡を担いで揚げたように記憶しています。白浜の方の海が見えたときには皆感動しました。下山時には、1,2年生のグループが道を間違え、安堵山の方へ行ってしまいました。変な方向から声が聞こえたことから、大声で呼び戻し、大事には至りませんでした。思い起こせばきりがありません。校舎の崩壊とともに思い出を語る人もいなくなっていきます。まことに寂しいことです。
榊本さんこんばんは、はじめまして。まさかあの文章を記された方からコメントいただけるとは、大変光栄です!ありがとうございます🙇現地に関しては奈良教育大学の先生方の論文を参考に歩かせていただきました。校舎は想像以上に倒壊し、それ以外の痕跡はまさに杉林に埋もれつつありますが、こうして実際に通われていた方のお話を聞くと、見たこともないのにほんとにその光景が目に浮かぶようでとても嬉しくなります。冷水山からは綺麗に学校があるはずの場所が眺められたので、学校からもとても綺麗に冷水山を望んだことと思います。杉林の隙間からなんとか冷水山が見えないか探ってみましたが、全体像が見えずさすがにわからずじまいでした😅また動画では往路のみですが、帰りは「これがマラソンで走ったという道かぁ」なんて思いながら寺垣内への水平道を辿りました。あの深い深い山の中にそんな賑やかな学校生活があったとは今ではとても想像できませんが、当時の貴重で温かいエピソードを聞かせていただき、本当にありがとうございます。また、山頂に心惹かれるとても素敵な文章を記していただいたおかげで、榊本さんをはじめ元気な頃を知る方々にはとても寂しい姿かもしれませんが、こんな印象深い風景に出会うことができました。当時はこういった山の学校が各地にあったのかもしれませんが、榊本さんがあの看板を設置してくださらなければ、きっとなかなか出会うことのなかった風景かと思います。こちらこそ、改めて感謝申し上げます。訪れた桜の頃から季節は移りようやく少し秋の気配を感じるようになりましたが、今も奈良の町から遠く離れた県境の山を想うと、なんとも言えない気持ちになります✨
早速のお返事ありがとうございました。 貴チャンネルは山仲間から知らされました。仲間というのは、「新宮山彦ぐるーぷ」という団体で、ご存じかもしれませんが、主に大峯山脈南部を活動の拠点としております。大峯奥駈道が世界遺産に登録されたのも、太古の辻から本宮までの道を当グループが刈り拓いていたからこそと、私は考えております。 川上村の白鬚山に今西錦司氏を案内したのも当グループの先陣方ですし、現在山頂にある石碑も我々が建てました。あの石碑は上下2石を私を含め3人で交代しながら担ぎ揚げましたが、上段の石が45キロだったと記憶しています。釈迦ヶ岳の釈迦像も、2007年の大修理の時に我々が担ぎ揚げました。 さて、私ですが、父が教員をしていたことから、赴任先の十津川村内原で生まれました。3才の頃、父の転勤により上湯川へ引っ越しました。上湯川小学校の4人の教員のうち、校長というのが私の父でした。 当時は交通の便が悪く、教員は家族ごと住宅を転々とするのが普通でした。私たちが上湯川に移り住んだときには、まだ上湯川小学校には西川第六中学校の分校が併設されていて、住宅には中学校の先生も住んでいました。あの敷地に2階建ての教員住宅があり、3家族が暮らしていました。家の前の杉の木にはムササビの巣があり、ある夜、2階に住んでいた若い女性教員が窓から得体の知れないものを見た、幽霊だと、階段を転げるように駆け下りてきたこともありました。 母の実家が大井谷だったので、おじいさんの家へよく遊びに行きました。特に夏は、あの川でアユやアマゴ、ウナギをとるのが楽しみでした。小さな流れでしたので、幼い子供が遊ぶのにはもってこいでした。しかしながら、小学校3、4年生ともなると大井谷では物足りなくなり、学校から南側へ降りて、上湯川の本流で泳いだり、鮎の友釣りをしたりしていました。 私たちが住んでいた頃には、学校にも教員住宅にも谷水を引いた水道がありました。燃料は、カマドと風呂は薪を使い、台所にはプロパンのガスコンロがありました。ガスボンベを運ぶのは大仕事でした。 薪はだいたい村の人が用意してくれました。特に、学校のストーブ用には大量の薪が必要だったので、学校が休みの日に、村の青年さん達がグラウンドに集合して櫓を建て、山から架線を引いて雑木をどんどん積み上げていました。全員が林業を生業としている人達なので、その手際の良さは見事なものでした。しかし、あの時世話をしてくださった青年さんのうち、私の同級生のお兄さんは木材搬出トラックの事故で亡くなり、大井谷から来てくれていた人は、山仕事中に架線に巻かれて亡くなりました。子供心に山村で生きることの厳しさを感じた出来事でした。今でも薪を見ると上湯川小学校のグラウンドで喜々として働いていた青年さん達を想い出します。 そして、小学校5年生の年に、出谷小学校と名目統合となり、6年生からは新築された西川第二小学校へ通学することになりました。 上湯川小学校のグラウンドは狭かったので、運動会は大井谷の支流になる熊谷の休耕田で行っていました。現在、上湯川きのこ組合の建物があるところから少し入ったところです。 運動会前には、村人総出で草刈りをして整地作業をしました。最初は手伝っていた子どもたちも、そのうちジョウロウグモを闘わせたり、谷へ行ってサワガニやウナギを捕まえることに夢中になりました。 運動会は、毎年村を挙げての大行事でしたが、特に私が5年生の時の運動会は村の人達も名残を惜しみ、会場を片付けると大桧曽の公民会へ移動し、大宴会を行いました。大人達は大いに飲み、どんちゃん騒ぎの果てに子どもたちにも「まあ飲め!」と言う始末。おおらかで、寂しくて、いつ終わるともわからぬ夜でした。 上湯川小学校の閉校式は、3つの学級の仕切りを全部取り外した会場で行いました。村長さんが来て挨拶をしました。式のあと、宴会が催されました。統合を喜ぶ声は一切なく、みんなが閉校を惜しみました。会場を片付けましたが、教室の仕切りは戻されませんでした。 住宅も引き払いました。荷物は、来たときと同じように村の人達が総出で運んでくれました。グラウンドからは、変わりなく「いっとうてん」が見えていました。 長くなってすみません。
いえそんな、大変貴重なお話の数々本当にありがとうございます🙇そして、まさか榊本さんが白鬚岳の記念碑や釈迦如来像にも携わっておられたとは…ほんと驚くとともに感激です!すごいっ✨教員住宅や公会堂の跡地は論文からここかな?と推測しましたが、決して広くはないあの平地に2階建ての住宅が建ちそこに3家族も住まわれていたこと、公会堂の付近に畑が広がっていたことなど、詳しいことは榊本さんのお話がなければ決してわからなかったことで、山の生活のたくさんの思い出が詰まったエピソードが聞けて本当に嬉しく思います。自分も冷水山山頂から白浜の海が見えた時は、見えることも知らなかったのですごく感動しましたが、みなさんも同じ思いだったんですね。当時は海まで今より遥かに遠い道のりだったでしょうから、なおのことかと思います。望遠鏡を担いで登ったというのもそれだけみなさんが楽しみにされてたという思いが伝わってきます😊今は何でもネットですぐに調べられる時代になり、今回参考にさせていただいた論文もすぐに検索できます。それでも色々わからないことも多く、図書館に足を運んで村史や古い文献を探したり古い地図を取り寄せたりというのがまたこういう遺構探索の楽しみのひとつでもありますが、やはり当時を知る方のお話が最も詳しくとても興味深いなぁと思いました。こうして繋げていただいた方にもほんと感謝ですね🙇「いっとうてん」、なんともいい響きですね。まだあの一度しか登ってないのに、榊本さんのおかげでぐっと親しみが湧いてきます😄
その論文は私も読んだことがありますが、長い歴史の中の一時期の記録でした。私が暮らしたのは上湯川小学校最後の7年間ほどになります。ちなみに、私の母は戦時中に小学生でしたが、当時は中学校は併設されておらず、中学生になってからは大井谷からトトロ辻へ登って尾根伝いに出谷の分校へ通ったと話していました。 冷水山へあの看板を建てたいきさつをお話しさせてください。 母が子供の頃、果無を越えて本宮の祭りへ行くのが楽しみだったようです。今でこそ小辺路の果無峠が有名ですが、昔は果無山脈のあちこちの峠を越えて、十津川と本宮方面との交流があったようです。当然、果無山脈の縦走路も今よりは遥かに賑やかな通行路だったことでしょう。冷水山以東の藪に覆われた縦走路を不憫に思っておりました。 40年ほど前に、中辺路の宇江敏勝という作家さんから、果無スーパー林道の話を聞き、冷水山から果無峠までの刈り拓きを思い立ちました。作業当時は下北山村に住んでおりましたので、土曜の夜に家を出て日曜日に作業すること、ほぼ一冬かかったと思いますが、一通り刈り通しました。要所要所に標識も立て、最終的に記念として、あの看板を設置しました。当初はB4版サイズの桧板にペンキで手書きしましたので、どうしても文字数に限界が有り、削りに削ってあの文章となりました。その後、風化が進んだのでアクリル板で作り直したのが現在のものです。山頂にはほとんど文字が見えなくなっていますが、「冷水山」と茶色地に白文字の山名板があります。あれが当初に立てたものです。 果無の刈り拓きについては、新宮山彦の当時の代表者・玉岡さんにも相談をしたのですが、会としては大峯で手一杯のこともあり、単独で作業を進めました。しかし、最後には応援いただいて、安堵山の林道接点から冷水山までの整備作業に大勢参加していただきました。 なお、宇江敏勝さんは、私が小学生当時、冷水山の山小屋に泊まり込んで植林作業をされていました。小学生だった私は山の上に明かりが灯っていることを不思議な思いで見上げ、宇江さんは下界の明かりを懐かしく見下ろしていたということを著書にも記されています。
そうでしたかぁ、あの看板にはそんなエピソードがあったのですね。それにしても、榊本さんおひとりで果無の縦走路を刈り払われたとは…新宮山彦ぐるーぷの方々といい、こういった方々のおかげで多くの登山者が気軽に歩けるわけで、本当に恐れ入ります、ありがとうございます🙇いつか末端の果無集落から冷水山へと縦走路を辿ってみたいなぁと思っておりましたが、そのことを知ってますます歩きに行きたくなりました✨確かに今も地形図を見ると、縦走路から上湯川側へはいくつもの尾根に破線道が描かれていて、かつては各集落から往来があったのかなと想像できます。宇江敏勝さんの本は、果無山脈の動画をまとめるにあたって自分も読ませていただきました。今までいくつも深い山の中で釜の跡を見てきたもののほとんど気に留めておりませんでしたが、実は釜ひとつにも炭焼き職人の方々の生活がそこにあったということを知って、とても興味深かったです。そして宇江さんが山の上から麓の集落の灯りを眺めた場面は自分もとても印象に残っていて、あんな深い山の中でも、山の上にも下にもあちこちに人々の生活があったんだなぁと感慨深く読ませていただきました。お母様はトトロ辻󠄀まで登って出谷の学校まで歩かれたとは…それも驚きですね!地図を見るとなんと遠い…😅上湯川小学校跡を訪ねてから、今度は出谷小学校の跡も訪ねてみたいなぁと思っていたところで、地形図に今も残る建屋のマークやいくつもの水平道や集落など、地形図を眺めていると山深い場所だけに夢が膨らみます✨自分は単なる一登山者に過ぎませんが、素敵なエピソードの数々本当にありがとうございます😊自分だけではなく、この動画に興味を持って見てくださった方々みなさんにとっても、自分の動画よりずっと大変貴重で興味深いお話だと思います。重ねてお礼申し上げます🙇
上湯川小学校の卒業生がこの映像を、どうか見つける事が出来ますように😌素晴らしい映像、ありがとうございます。
hot heartさん、こんばんは。こちらこそ、ありがとうございます🙇あの雄大な景色の中で卒業生の方が杉林に埋もれながらもまだ健在だった小学校を眺めた時は、さぞ感慨深い気持ちだっただろうなと思います。自分も、卒業生の方が素敵な文章を山頂に記していただいたことに感謝です✨
平地の確保が最も難しい地域の一つ。その中で一番よい場所を見つけ、石垣を築き、平らにして、割り当てられた上湯川小学校、中学校。校舎は杉林に埋没しつつありますが、地元の方の思いや熱意は消えることがないでしょう。まほろばさん、良いものを見せていただきありがとうございました😊
尚史 奥田さん、こんばんは。こちらこそ、コメントありがとうございます🙇今ではこんな場所に…!?というような山の上の小さな広場ですが、確かにかつては各集落から通いやすい一番いい場所だったんでしょうね😊そして、冷水山山頂に心惹かれる文章を綴ってくださった方はじめ、卒業生の方皆さんきっと素敵な思い出として今も心に刻まれているんでしょうね✨
まほろばさん 返信ありがとうございます。まほろばさんの冷水山のレポをもう一度見ました。上湯川小学校の全校❗登山で見た児童はどんな思いで和歌山や紀伊水道の海を眺めたでことでしょう。今も冷水山頂に残る卒業生のプレート…いやはやナイスな映像記録です。堪能させていただきました。
今は山頂から仏峠を眺めてもまさに杉山しか見えませんが、上湯川小学校が健在だった頃はどんな風に見えたのでしょうね。山また山の中にぽつんと建っていた小中学校、さぞ印象深い風景だっただろうなと思います✨
なるほど❢ 冷水山山頂から❤仏峠 上湯川の校舎🏤が❗
母の母校で、姉も小さい時に親戚一家と行ったことがあると聞いてずっと気になってました母は寺垣内なので歩いて通学してたのだろうか…もっと近いところにあると思っていたので、その位置にビックリしましたいずれにしても動画にしてアップしてくださった方は初じゃないでしょうか?貴重な映像ありがとうございます
moto noriさん、こんにちは。こちらこそ、小学校に縁のある方にコメントいただいて光栄です。ありがとうございます🙇寺垣内ですと、自分の登った道の反対側ですね。動画には収めてませんが、帰りは寺垣内方面へ伸びる水平道を辿りました。マラソン大会で走ったというだけあってとてもはっきりした道で、その道を毎日歩いて通われていたのかもしれませんね😊
まほろばさん、今日は。果無山脈にある最高峰冷水山の麓に学校があったんですか、今も痕跡があるので立派な学校だった面影が残っていますね、冷水山頂からみる幾重にも重なる山々、大峰山脈も微かに見えていますね。
山田花子さん、こんばんは。あの懐深い山並の中に学校があるだけでもすごいのに、よくあんな山の上の峠に…と思います。ほんと、とても立派な学校だったんでしょうね😊
日本の素晴らしいところは、どんな小さな村にでも学校があったこと。「子供に学びの場を」という周囲の人々の心に温かさを感じます。
かまるじゃばるさん、こんばんは。ほんとそうですね。伯母谷、立里、篠原…今では考えられないような山の奥の小さな集落にもやはり学校はあって、当時は住む人も多かったんでしょうが、それだけ子供が大切にされてきたんだなぁといつも思います😊
まほろばさん、はじめまして。貴重な映像をありがとうございます。学校跡だけでなく、教員住宅や公会堂跡まで辿っていただいたということは、かなり現地のことを研究されてのことだと思います。
公会堂付近は昔は開けた場所で、畑がたくさんあり、母が毎日耕しておりました。もちろん、小学校のまわりも開けており、果無山脈が一望できました。あの桜は毎年たくさん花をつけ、ミツバチやクワガタ、スズメバチなど、たくさんの虫を引き寄せていました。
私が小学校に入学した時には、すでに中学校の分校はなくなっていて、3つの複式教室と音楽教室がありました。教員は、担任の先生が3人と校長の、合計4人でした。事務員さんや調理員さんなどはおらず、児童は毎日お弁当を持って登校していました。冬は薪ストーブのまわりに弁当箱を並べて温めていました。
昼休みに裏山へ行き、罠をしかけて、授業が終わったあと、ツグミなどの獲物を捕らえてストーブの熾火で炙って食べたこともありました。最高に美味しかったです。マムシもよく出ました。あるとき、マムシを捕まえた6年生のT君が、「これは皮をむいて干しておくのだ」と、マムシの首根っこに噛みついて皮をむいていました。ちなみに、マムシの卵も美味しかったです。今では想像もつかないアドベンチャーな小学生達でした。
今回、北側の大井谷から登られたようですが、寺垣内への水平道と、南側へ下る道の3つのコースがありました。教員がメインに使っていたのは南側の道でした。
学校の遠足で寺垣内から冷水山に登った時には、6年生達が天体望遠鏡を担いで揚げたように記憶しています。白浜の方の海が見えたときには皆感動しました。下山時には、1,2年生のグループが道を間違え、安堵山の方へ行ってしまいました。変な方向から声が聞こえたことから、大声で呼び戻し、大事には至りませんでした。
思い起こせばきりがありません。校舎の崩壊とともに思い出を語る人もいなくなっていきます。まことに寂しいことです。
榊本さんこんばんは、はじめまして。まさかあの文章を記された方からコメントいただけるとは、大変光栄です!ありがとうございます🙇
現地に関しては奈良教育大学の先生方の論文を参考に歩かせていただきました。校舎は想像以上に倒壊し、それ以外の痕跡はまさに杉林に埋もれつつありますが、こうして実際に通われていた方のお話を聞くと、見たこともないのにほんとにその光景が目に浮かぶようでとても嬉しくなります。
冷水山からは綺麗に学校があるはずの場所が眺められたので、学校からもとても綺麗に冷水山を望んだことと思います。杉林の隙間からなんとか冷水山が見えないか探ってみましたが、全体像が見えずさすがにわからずじまいでした😅また動画では往路のみですが、帰りは「これがマラソンで走ったという道かぁ」なんて思いながら寺垣内への水平道を辿りました。
あの深い深い山の中にそんな賑やかな学校生活があったとは今ではとても想像できませんが、当時の貴重で温かいエピソードを聞かせていただき、本当にありがとうございます。また、山頂に心惹かれるとても素敵な文章を記していただいたおかげで、榊本さんをはじめ元気な頃を知る方々にはとても寂しい姿かもしれませんが、こんな印象深い風景に出会うことができました。当時はこういった山の学校が各地にあったのかもしれませんが、榊本さんがあの看板を設置してくださらなければ、きっとなかなか出会うことのなかった風景かと思います。こちらこそ、改めて感謝申し上げます。
訪れた桜の頃から季節は移りようやく少し秋の気配を感じるようになりましたが、今も奈良の町から遠く離れた県境の山を想うと、なんとも言えない気持ちになります✨
早速のお返事ありがとうございました。
貴チャンネルは山仲間から知らされました。仲間というのは、「新宮山彦ぐるーぷ」という団体で、ご存じかもしれませんが、主に大峯山脈南部を活動の拠点としております。大峯奥駈道が世界遺産に登録されたのも、太古の辻から本宮までの道を当グループが刈り拓いていたからこそと、私は考えております。
川上村の白鬚山に今西錦司氏を案内したのも当グループの先陣方ですし、現在山頂にある石碑も我々が建てました。あの石碑は上下2石を私を含め3人で交代しながら担ぎ揚げましたが、上段の石が45キロだったと記憶しています。釈迦ヶ岳の釈迦像も、2007年の大修理の時に我々が担ぎ揚げました。
さて、私ですが、父が教員をしていたことから、赴任先の十津川村内原で生まれました。3才の頃、父の転勤により上湯川へ引っ越しました。上湯川小学校の4人の教員のうち、校長というのが私の父でした。
当時は交通の便が悪く、教員は家族ごと住宅を転々とするのが普通でした。私たちが上湯川に移り住んだときには、まだ上湯川小学校には西川第六中学校の分校が併設されていて、住宅には中学校の先生も住んでいました。あの敷地に2階建ての教員住宅があり、3家族が暮らしていました。家の前の杉の木にはムササビの巣があり、ある夜、2階に住んでいた若い女性教員が窓から得体の知れないものを見た、幽霊だと、階段を転げるように駆け下りてきたこともありました。
母の実家が大井谷だったので、おじいさんの家へよく遊びに行きました。特に夏は、あの川でアユやアマゴ、ウナギをとるのが楽しみでした。小さな流れでしたので、幼い子供が遊ぶのにはもってこいでした。しかしながら、小学校3、4年生ともなると大井谷では物足りなくなり、学校から南側へ降りて、上湯川の本流で泳いだり、鮎の友釣りをしたりしていました。
私たちが住んでいた頃には、学校にも教員住宅にも谷水を引いた水道がありました。燃料は、カマドと風呂は薪を使い、台所にはプロパンのガスコンロがありました。ガスボンベを運ぶのは大仕事でした。
薪はだいたい村の人が用意してくれました。特に、学校のストーブ用には大量の薪が必要だったので、学校が休みの日に、村の青年さん達がグラウンドに集合して櫓を建て、山から架線を引いて雑木をどんどん積み上げていました。全員が林業を生業としている人達なので、その手際の良さは見事なものでした。しかし、あの時世話をしてくださった青年さんのうち、私の同級生のお兄さんは木材搬出トラックの事故で亡くなり、大井谷から来てくれていた人は、山仕事中に架線に巻かれて亡くなりました。子供心に山村で生きることの厳しさを感じた出来事でした。今でも薪を見ると上湯川小学校のグラウンドで喜々として働いていた青年さん達を想い出します。
そして、小学校5年生の年に、出谷小学校と名目統合となり、6年生からは新築された西川第二小学校へ通学することになりました。
上湯川小学校のグラウンドは狭かったので、運動会は大井谷の支流になる熊谷の休耕田で行っていました。現在、上湯川きのこ組合の建物があるところから少し入ったところです。
運動会前には、村人総出で草刈りをして整地作業をしました。最初は手伝っていた子どもたちも、そのうちジョウロウグモを闘わせたり、谷へ行ってサワガニやウナギを捕まえることに夢中になりました。
運動会は、毎年村を挙げての大行事でしたが、特に私が5年生の時の運動会は村の人達も名残を惜しみ、会場を片付けると大桧曽の公民会へ移動し、大宴会を行いました。大人達は大いに飲み、どんちゃん騒ぎの果てに子どもたちにも「まあ飲め!」と言う始末。おおらかで、寂しくて、いつ終わるともわからぬ夜でした。
上湯川小学校の閉校式は、3つの学級の仕切りを全部取り外した会場で行いました。村長さんが来て挨拶をしました。式のあと、宴会が催されました。統合を喜ぶ声は一切なく、みんなが閉校を惜しみました。会場を片付けましたが、教室の仕切りは戻されませんでした。
住宅も引き払いました。荷物は、来たときと同じように村の人達が総出で運んでくれました。グラウンドからは、変わりなく「いっとうてん」が見えていました。
長くなってすみません。
いえそんな、大変貴重なお話の数々本当にありがとうございます🙇そして、まさか榊本さんが白鬚岳の記念碑や釈迦如来像にも携わっておられたとは…ほんと驚くとともに感激です!すごいっ✨
教員住宅や公会堂の跡地は論文からここかな?と推測しましたが、決して広くはないあの平地に2階建ての住宅が建ちそこに3家族も住まわれていたこと、公会堂の付近に畑が広がっていたことなど、詳しいことは榊本さんのお話がなければ決してわからなかったことで、山の生活のたくさんの思い出が詰まったエピソードが聞けて本当に嬉しく思います。自分も冷水山山頂から白浜の海が見えた時は、見えることも知らなかったのですごく感動しましたが、みなさんも同じ思いだったんですね。当時は海まで今より遥かに遠い道のりだったでしょうから、なおのことかと思います。望遠鏡を担いで登ったというのもそれだけみなさんが楽しみにされてたという思いが伝わってきます😊
今は何でもネットですぐに調べられる時代になり、今回参考にさせていただいた論文もすぐに検索できます。それでも色々わからないことも多く、図書館に足を運んで村史や古い文献を探したり古い地図を取り寄せたりというのがまたこういう遺構探索の楽しみのひとつでもありますが、やはり当時を知る方のお話が最も詳しくとても興味深いなぁと思いました。こうして繋げていただいた方にもほんと感謝ですね🙇
「いっとうてん」、なんともいい響きですね。まだあの一度しか登ってないのに、榊本さんのおかげでぐっと親しみが湧いてきます😄
その論文は私も読んだことがありますが、長い歴史の中の一時期の記録でした。私が暮らしたのは上湯川小学校最後の7年間ほどになります。ちなみに、私の母は戦時中に小学生でしたが、当時は中学校は併設されておらず、中学生になってからは大井谷からトトロ辻へ登って尾根伝いに出谷の分校へ通ったと話していました。
冷水山へあの看板を建てたいきさつをお話しさせてください。
母が子供の頃、果無を越えて本宮の祭りへ行くのが楽しみだったようです。今でこそ小辺路の果無峠が有名ですが、昔は果無山脈のあちこちの峠を越えて、十津川と本宮方面との交流があったようです。当然、果無山脈の縦走路も今よりは遥かに賑やかな通行路だったことでしょう。冷水山以東の藪に覆われた縦走路を不憫に思っておりました。
40年ほど前に、中辺路の宇江敏勝という作家さんから、果無スーパー林道の話を聞き、冷水山から果無峠までの刈り拓きを思い立ちました。作業当時は下北山村に住んでおりましたので、土曜の夜に家を出て日曜日に作業すること、ほぼ一冬かかったと思いますが、一通り刈り通しました。要所要所に標識も立て、最終的に記念として、あの看板を設置しました。当初はB4版サイズの桧板にペンキで手書きしましたので、どうしても文字数に限界が有り、削りに削ってあの文章となりました。その後、風化が進んだのでアクリル板で作り直したのが現在のものです。山頂にはほとんど文字が見えなくなっていますが、「冷水山」と茶色地に白文字の山名板があります。あれが当初に立てたものです。
果無の刈り拓きについては、新宮山彦の当時の代表者・玉岡さんにも相談をしたのですが、会としては大峯で手一杯のこともあり、単独で作業を進めました。しかし、最後には応援いただいて、安堵山の林道接点から冷水山までの整備作業に大勢参加していただきました。
なお、宇江敏勝さんは、私が小学生当時、冷水山の山小屋に泊まり込んで植林作業をされていました。小学生だった私は山の上に明かりが灯っていることを不思議な思いで見上げ、宇江さんは下界の明かりを懐かしく見下ろしていたということを著書にも記されています。
そうでしたかぁ、あの看板にはそんなエピソードがあったのですね。それにしても、榊本さんおひとりで果無の縦走路を刈り払われたとは…新宮山彦ぐるーぷの方々といい、こういった方々のおかげで多くの登山者が気軽に歩けるわけで、本当に恐れ入ります、ありがとうございます🙇
いつか末端の果無集落から冷水山へと縦走路を辿ってみたいなぁと思っておりましたが、そのことを知ってますます歩きに行きたくなりました✨確かに今も地形図を見ると、縦走路から上湯川側へはいくつもの尾根に破線道が描かれていて、かつては各集落から往来があったのかなと想像できます。
宇江敏勝さんの本は、果無山脈の動画をまとめるにあたって自分も読ませていただきました。今までいくつも深い山の中で釜の跡を見てきたもののほとんど気に留めておりませんでしたが、実は釜ひとつにも炭焼き職人の方々の生活がそこにあったということを知って、とても興味深かったです。そして宇江さんが山の上から麓の集落の灯りを眺めた場面は自分もとても印象に残っていて、あんな深い山の中でも、山の上にも下にもあちこちに人々の生活があったんだなぁと感慨深く読ませていただきました。
お母様はトトロ辻󠄀まで登って出谷の学校まで歩かれたとは…それも驚きですね!地図を見るとなんと遠い…😅上湯川小学校跡を訪ねてから、今度は出谷小学校の跡も訪ねてみたいなぁと思っていたところで、地形図に今も残る建屋のマークやいくつもの水平道や集落など、地形図を眺めていると山深い場所だけに夢が膨らみます✨
自分は単なる一登山者に過ぎませんが、素敵なエピソードの数々本当にありがとうございます😊自分だけではなく、この動画に興味を持って見てくださった方々みなさんにとっても、自分の動画よりずっと大変貴重で興味深いお話だと思います。重ねてお礼申し上げます🙇
上湯川小学校の卒業生がこの映像を、どうか見つける事が出来ますように😌
素晴らしい映像、ありがとうございます。
hot heartさん、こんばんは。こちらこそ、ありがとうございます🙇あの雄大な景色の中で卒業生の方が杉林に埋もれながらもまだ健在だった小学校を眺めた時は、さぞ感慨深い気持ちだっただろうなと思います。
自分も、卒業生の方が素敵な文章を山頂に記していただいたことに感謝です✨
平地の確保が最も難しい地域の一つ。その中で一番よい場所を見つけ、石垣を築き、平らにして、割り当てられた上湯川小学校、中学校。校舎は杉林に埋没しつつありますが、地元の方の思いや熱意は消えることがないでしょう。まほろばさん、良いものを見せていただきありがとうございました😊
尚史 奥田さん、こんばんは。こちらこそ、コメントありがとうございます🙇
今ではこんな場所に…!?というような山の上の小さな広場ですが、確かにかつては各集落から通いやすい一番いい場所だったんでしょうね😊
そして、冷水山山頂に心惹かれる文章を綴ってくださった方はじめ、卒業生の方皆さんきっと素敵な思い出として今も心に刻まれているんでしょうね✨
まほろばさん 返信ありがとうございます。まほろばさんの冷水山のレポをもう一度見ました。上湯川小学校の全校❗登山で見た児童はどんな思いで和歌山や紀伊水道の海を眺めたでことでしょう。今も冷水山頂に残る卒業生のプレート…いやはやナイスな映像記録です。堪能させていただきました。
今は山頂から仏峠を眺めてもまさに杉山しか見えませんが、上湯川小学校が健在だった頃はどんな風に見えたのでしょうね。山また山の中にぽつんと建っていた小中学校、さぞ印象深い風景だっただろうなと思います✨
なるほど❢ 冷水山山頂から❤
仏峠 上湯川の校舎🏤が❗
母の母校で、姉も小さい時に親戚一家と行ったことがあると聞いてずっと気になってました
母は寺垣内なので歩いて通学してたのだろうか…もっと近いところにあると思っていたので、その位置にビックリしました
いずれにしても動画にしてアップしてくださった方は初じゃないでしょうか?貴重な映像ありがとうございます
moto noriさん、こんにちは。こちらこそ、小学校に縁のある方にコメントいただいて光栄です。ありがとうございます🙇
寺垣内ですと、自分の登った道の反対側ですね。動画には収めてませんが、帰りは寺垣内方面へ伸びる水平道を辿りました。マラソン大会で走ったというだけあってとてもはっきりした道で、その道を毎日歩いて通われていたのかもしれませんね😊
まほろばさん、今日は。果無山脈にある最高峰冷水山の麓に学校があったんですか、今も痕跡があるので立派な学校だった面影が残っていますね、冷水山頂からみる幾重にも重なる山々、大峰山脈も微かに見えていますね。
山田花子さん、こんばんは。
あの懐深い山並の中に学校があるだけでもすごいのに、よくあんな山の上の峠に…と思います。ほんと、とても立派な学校だったんでしょうね😊
日本の素晴らしいところは、どんな小さな村にでも学校があったこと。
「子供に学びの場を」という周囲の人々の心に温かさを感じます。
かまるじゃばるさん、こんばんは。
ほんとそうですね。伯母谷、立里、篠原…今では考えられないような山の奥の小さな集落にもやはり学校はあって、当時は住む人も多かったんでしょうが、それだけ子供が大切にされてきたんだなぁといつも思います😊