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ありがとうございます!
多大なるご支援ありがとうございます!大変励みになります☺️良い動画をお届けできるように精進いたします。今後ともよろしくお願いします🙇♀️
素晴らしい配信有難うございます。
わかりやすかった
地獄行きかも、😢佑くんからは想像できない😭
道長と言えば 永井路子さんの「この世をば」を思い出します。
読んでみます✌
m
冗談と思われかねないのを承知です。江戸時代の先祖が分かったことで兼家、道長、頼通と男系先祖と分かりました。又先祖も道長達と同じ天皇の外祖父であります。ドラマの光る君への紫式部、藤原氏、天皇は殆ど先祖です。家系を知る前に十数年前に上野に興福寺の阿修羅像が来た際は、必ず観ると自分でも不思議でしたが家系を知り納得しました。道長についてのお話を有難う御座います。😊
おもしろいですね✨ そしていまの日本人ってほとんどそれに似たような先祖だとおもいます みんな知らないだけで🤗
@@13foulball 平凡に生きて来ましたが、家系図で先祖が明治天皇の外祖父と分かり歴代の偉人達の多くと縁が有り大変驚きました。会社の同僚に相良氏の子孫の人がいて同じ先祖の藤原為憲でした。藤原不比等は主人と縁が有り色々繋がってておもしろいです。☺️
@@たま-v2e 友達が尼子経久の子孫で織田家の本家の子孫とその家に遊びに行きました うちは武田系(甘利)と諏訪氏の子孫です 別の友人は戦艦大和の艦長の子孫です あと井伊家の子孫もいて名前も井伊直〇っていいます そういう感じでけっこう先祖遊びは好きでコメントしましただから仰っていることが冗談とはおもいません お話くださりありがとうございます✨先回のコメントを説明しますね武士は大体先祖は天皇 またはお嫁さんの先祖に少なくとも一人以上天皇がいると思います 今は誰も武士ではないけど江戸時代が終わる時の武士の人口は日本人の1% 以下といわれています江戸時代の終わりの日本列島の人口は3400万人といわれていて 戦国時代末期は1600万人といわれています 平安時代には500万人くらい今でも大自然に満ちたあの北海道の人口が日本列島にいただけでした人口が増えれば増えるほど昔は身分が高かった人が一般人になっていく様子がわかります と同時に天皇から引き継いだそれぞれの家の家長と従者の関係や秩序も広まりました今の日本人の先祖はほとんどが歴史上のどこかで皇室や皇族や高貴な家柄を離れ武士になりその後のどこかで武士をやめたわけです今の日本人まで昔から2000年近く(実際には大陸から渡ってきているので数千年以上になりますが)子孫がつながっているというにはすごいことですその先祖全員が子供を作れるまで健康に生きて出産し育て上げるかその道筋を作ってくれたということです昔の限られた医療,頻繁だった戦争,取り締まる人も装備も少ない奪略や強盗殺人,予知もできずレスキュー隊もない時代の自然災害なども考えると 今にまで子孫がつながった家系は安全や福祉の点有利だったはずでしょう家柄がよくお金があって 農業や武力のスキルがあり 学んだり鍛えていたので洪水や飢饉を乗り越えることもできたし 戦争でも前線や危険な緩衝地帯に派兵もされていない 安全な中心の方に配置されていた ということです平安時代には天皇の子孫もかなり多くは一般人になっています 天皇に近いほど身分が高く 最初から有利なスタートを切りやすいので そういう有利な背景がある今まで子孫がつながって生きている人たちも最初は天皇,または姻戚関係にあった人,そして記録はなくても天皇の血がちょっとは入ってる人が多いと考えられますその多くはある時点で貴族から武士になっていますが同時に農業も営んでいました 今とは違い なんでもしたのでしょうたとえば今の山梨県も苗字の多くは武田家の家督を継がなかった次男や三男が新しく家と苗字を設けその子孫も長男以外はそうしていった結果集落や開拓地が広がりました一般的な苗字はほとんどが武田や信州の家臣の苗字やその分家です だから山梨県民を先祖に持つ人の多くは天皇の子孫の武田家の子孫です日本各地もそんな感じで 日本人という集団は最初の先祖の一家が戦争に勝って建国した国の天皇になりその家族を本家とする親族と従者がだんだん拡大していったものだということです流石にあなた様のような明治天皇の外祖父は特別にすごいとおもいますが… こう考えれば大体みんなちょっとは天皇の子孫や縁戚者のはずですよねここから先はあとで編集して消しますが 私の先祖はイタリアの元帥でWikiに載ってます 私は子供の頃 渡邊允様のうちに預けられていたことがあり その家には〇子さまから電話もかかってきていました 三つの巨大企業の創設者の子孫と親しいです この話だけでも周囲のみんなに面白がられている私からみても先祖が明治天皇の外祖父っていうケースはすごいとおもいます✨ そういえば 最初にいった友人/尼子経久の子孫の子の先祖は〇〇天皇の御者に一緒に乗って警備についていました 笑
@@13foulball様ご返信を有難う御座います。ご説明に同感で、誰でも天皇に繋がると改めて納得出来ました。私などは何の関わりなく平凡に今でも生きて来て、今になり家系が分かったというだけの者で@13foulball様の方が現実味が有り凄いと思います。✨
↑サヨケ
わかりやすいです、、、、
1:48 怖いもの知らず…公任も道長と同じ966年生まれ4:34 986年 寛和の変別の側近も出家8:36 道隆をぶち抜く9:51 兄弟が相次いで没12:23 選挙運動か!14:11 お前ら、何やってんだ!長徳の変15:02 道真の所へ行け!18:17 道長と同じ1028年同日没24:44 3人:チクショー!実資は、道長らの評論家
高い位に推挙されても、その先の災い事を憂いて辞退するところが藤原道長の帝王学なのだなと感じ入りました。もっと肉食系の猟官人かと思っていました。
形式的な名誉よりも実質的な権力を選んだのてはないかと。
改変好きな脚本家がよく使う めいけ 。 最近は言葉を作ることが多いですね。 公家でも めいか ですよ。
大河ドラマ光る君へでは、柄本佑さんがやっていますね。
とても良い解説でした 👏夕飯の支度も忘れ聴きいってしまう程 に 語り口 楽しみながら 少し賢くなった 様な気がしました、ありがとう🙇♀️🙏🍀
ありがとうございます!そう言っていただけてとても嬉しいです☺️今後ともよろしくお願いします🙇♂️
わかりやすい説明でしたので良く理解できました。
道長は背中の出来物に苦しみ、糖尿病にも罹っていたとか。墓の所在も不明とか。
カノ国の歴代指導者には例えるなら オヤジの兼家は金日成孫の頼道は金正恩オヤジと孫の間の道長は金正日それらに例えた方がわかりやすい。
ご先祖様なんだよな~
りんし❤
『名家』は「めいけ」ではなく「めいか」です。
歴史はファンタジーだと思ってます。
藤原北家といやあ。あの【菊池氏】の祖の【藤原政則】も藤原北家の出身ですよ。
我が家は父方の祖父、伯父2人が「菊池の会」に入っていました。それによると藤原隆家公の息子の政則公が家祖とかいてありました。因みに我が家は家紋は違い鷹の羽です。
間違えました。政則公の息子の則隆公が菊池家初代みたいですね。
24年度よんねんど→わろた
栄華は「えいが」
え〜、姉(詮子)の長男(一条天皇)に、定子(兄道隆の娘)を皇后って、いとこ同士の結婚ですよねー。次の彰子(道長の娘)も、姉さんの長男(一条天皇)と結婚なので、ここもいとこ同士の結婚ですよねー。血が、濃過ぎて、産まれて来る子供は大丈夫なのでしょうか?
この辺りの近親婚の状況、世界史で有名なスペイン・ハプスブルク家以上にえげつないんですよね。この動画に出ている後一条天皇の後にも、その弟後朱雀天皇と道長末娘の嬉子を結婚させて兄弟揃っての叔母甥婚。この嬉子が後の後冷泉天皇出産直後に急死後、後朱雀天皇は父方又従妹&母方従妹にあたる禎子内親王(父の従兄三条天皇と母の長妹妍子の子)や姪の嫄子女王(異母兄兼又従兄(上記定子の子)敦康親王の子)、別の母方従妹(母の弟教通の子)藤原生子らと結婚。後一条天皇の子は威子所生の章子内親王と馨子内親王二人だけでしたが、その2人はどちらも従兄弟にあたる後朱雀天皇の子の後冷泉天皇&後三条天皇兄弟と結婚。後冷泉天皇と章子内親王は父方母方双方で従兄妹で、後冷泉天皇の他の妃・藤原寛子(頼通の娘)と歓子(教通の別の娘)は父の従妹でもあり自身の従妹でもあるという関係。後三条天皇(上記禎子内親王の子)から見ると馨子内親王は自身の従姉であると同時に両親の従妹でもあり…という、非常に家系図がややこしい事になっております。
大鏡は完全に藤原氏に忖度して書かれたものですから、藤原氏全盛の当時の平安貴族たちの中ではもっともウケる人物像がそこで描かれたとおりのエバリンボー藤原道長だったワケだよね、当時の日記とかみると平安朝の頂点にいた藤原氏はほとんどみんなヤカラだよね、気に入らない相手の烏帽子をむしり取って顔面を蹴りつけて、近づく牛車に石礫や弓矢を見舞いする、藤原氏に比べて不遇だったからという理由もあるかも知れないけど、むしろそんな藤原氏が理解不能で怖いから他の貴族はだんだんと平安京から離れていったのかも?そんで荒れに荒れた平安朝は、彼らに対抗できるようなメンタルの持ち主として平氏や源氏が誕生することで、あんなに横暴だった藤原氏はすっかり大人しくなり武士の時代へと移り変わっていくワケなんですねー
で 藤原氏は源氏に滅ぼされるんですか 平家はどこから湧いて出てくるんでしょうか
声質変えるの上手いな。声はAIでないでしょう。
受領は「ずりょう」
平安京エイリアン
倫子(りんし)と解説していますが、倫子はともこと呼ぶのではありませんか。
百科事典には源倫子(りんし)とおくりがながしてありました。
「この世をば」の歌は、余りにも誇張。道長の子供、彰子が一条天皇との間に種となる男の子をもうけたということは、必ず因があったはず。道長が一条天皇と同じ風呂に入って天皇の下の毛をみたとしよう。あそこが自分の子供の彰子と触れたところかと。望月にも欠けたる所があったかと気づかないとすれば、強がりの歌だ
何を言ってるのですか? 意味不明です。
すべてを手に入れた感じですが、一面不幸であったかとも、それは、62歳で、死んだ、おいしいものを食べすぎたのでは、、糖尿病と、すい臓がんであったようで、、
道長、非道を行いバチが当たり
と言うことは道長は相当な悪党ってことじゃん
ありがとうございます!
多大なるご支援ありがとうございます!
大変励みになります☺️
良い動画をお届けできるように精進いたします。
今後ともよろしくお願いします🙇♀️
素晴らしい配信有難うございます。
わかりやすかった
地獄行きかも、😢佑くんからは想像できない😭
道長と言えば 永井路子さんの「この世をば」を思い出します。
読んでみます✌
m
冗談と思われかねないのを承知です。江戸時代の先祖が分かったことで兼家、道長、頼通と男系先祖と分かりました。
又先祖も道長達と同じ天皇の外祖父であります。
ドラマの光る君への紫式部、藤原氏、天皇は殆ど先祖です。
家系を知る前に十数年前に上野に興福寺の阿修羅像が来た際は、必ず観ると自分でも不思議でしたが家系を知り納得しました。道長についてのお話を有難う御座います。😊
おもしろいですね✨ そしていまの日本人ってほとんどそれに似たような先祖だとおもいます みんな知らないだけで🤗
@@13foulball 平凡に生きて来ましたが、家系図で先祖が明治天皇の外祖父と分かり歴代の偉人達の多くと縁が有り大変驚きました。
会社の同僚に相良氏の子孫の人がいて同じ先祖の藤原為憲でした。
藤原不比等は主人と縁が有り色々繋がってておもしろいです。☺️
@@たま-v2e 友達が尼子経久の子孫で織田家の本家の子孫とその家に遊びに行きました うちは武田系(甘利)と諏訪氏の子孫です 別の友人は戦艦大和の艦長の子孫です あと井伊家の子孫もいて名前も井伊直〇っていいます そういう感じでけっこう先祖遊びは好きでコメントしました
だから仰っていることが冗談とはおもいません お話くださりありがとうございます✨
先回のコメントを説明しますね
武士は大体先祖は天皇 またはお嫁さんの先祖に少なくとも一人以上天皇がいると思います
今は誰も武士ではないけど江戸時代が終わる時の武士の人口は日本人の1% 以下といわれています
江戸時代の終わりの日本列島の人口は3400万人といわれていて 戦国時代末期は1600万人といわれています 平安時代には500万人くらい
今でも大自然に満ちたあの北海道の人口が日本列島にいただけでした
人口が増えれば増えるほど昔は身分が高かった人が一般人になっていく様子がわかります と同時に天皇から引き継いだそれぞれの家の家長と従者の関係や秩序も広まりました
今の日本人の先祖はほとんどが歴史上のどこかで皇室や皇族や高貴な家柄を離れ武士になりその後のどこかで武士をやめたわけです
今の日本人まで昔から2000年近く(実際には大陸から渡ってきているので数千年以上になりますが)子孫がつながっているというにはすごいことです
その先祖全員が子供を作れるまで健康に生きて出産し育て上げるかその道筋を作ってくれたということです
昔の限られた医療,頻繁だった戦争,取り締まる人も装備も少ない奪略や強盗殺人,予知もできずレスキュー隊もない時代の自然災害なども考えると 今にまで子孫がつながった家系は安全や福祉の点有利だったはずでしょう
家柄がよくお金があって 農業や武力のスキルがあり 学んだり鍛えていたので洪水や飢饉を乗り越えることもできたし 戦争でも前線や危険な緩衝地帯に派兵もされていない 安全な中心の方に配置されていた ということです
平安時代には天皇の子孫もかなり多くは一般人になっています 天皇に近いほど身分が高く 最初から有利なスタートを切りやすいので そういう有利な背景がある今まで子孫がつながって生きている人たちも最初は天皇,または姻戚関係にあった人,そして記録はなくても天皇の血がちょっとは入ってる人が多いと考えられます
その多くはある時点で貴族から武士になっていますが同時に農業も営んでいました 今とは違い なんでもしたのでしょう
たとえば今の山梨県も苗字の多くは武田家の家督を継がなかった次男や三男が新しく家と苗字を設けその子孫も長男以外はそうしていった結果集落や開拓地が広がりました
一般的な苗字はほとんどが武田や信州の家臣の苗字やその分家です だから山梨県民を先祖に持つ人の多くは天皇の子孫の武田家の子孫です
日本各地もそんな感じで 日本人という集団は最初の先祖の一家が戦争に勝って建国した国の天皇になりその家族を本家とする親族と従者がだんだん拡大していったものだということです
流石にあなた様のような明治天皇の外祖父は特別にすごいとおもいますが… こう考えれば大体みんなちょっとは天皇の子孫や縁戚者のはずですよね
ここから先はあとで編集して消しますが 私の先祖はイタリアの元帥でWikiに載ってます 私は子供の頃 渡邊允様のうちに預けられていたことがあり その家には〇子さまから電話もかかってきていました 三つの巨大企業の創設者の子孫と親しいです この話だけでも周囲のみんなに面白がられている私からみても先祖が明治天皇の外祖父っていうケースはすごいとおもいます✨
そういえば 最初にいった友人/尼子経久の子孫の子の先祖は〇〇天皇の御者に一緒に乗って警備についていました 笑
@@13foulball様
ご返信を有難う御座います。
ご説明に同感で、誰でも天皇に繋がると改めて納得出来ました。
私などは何の関わりなく平凡に今でも生きて来て、今になり家系が分かったというだけの者で
@13foulball様の方が現実味が有り凄いと思います。✨
↑サヨケ
わかりやすいです、、、、
1:48 怖いもの知らず…
公任も道長と同じ966年生まれ
4:34 986年 寛和の変
別の側近も出家
8:36 道隆をぶち抜く
9:51 兄弟が相次いで没
12:23 選挙運動か!
14:11 お前ら、何やってんだ!長徳の変
15:02 道真の所へ行け!
18:17 道長と同じ1028年同日没
24:44 3人:チクショー!
実資は、道長らの評論家
高い位に推挙されても、その先の災い事を憂いて辞退するところが藤原道長の帝王学なのだなと感じ入りました。
もっと肉食系の猟官人かと思っていました。
形式的な名誉よりも実質的な権力を選んだのてはないかと。
改変好きな脚本家がよく使う めいけ 。 最近は言葉を作ることが多いですね。 公家でも めいか ですよ。
大河ドラマ光る君へでは、柄本佑さんがやっていますね。
とても良い解説でした 👏夕飯の支度も忘れ聴きいってしまう程 に 語り口 楽しみながら 少し賢くなった 様な気がしました、ありがとう🙇♀️🙏🍀
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今後ともよろしくお願いします🙇♂️
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道長は背中の出来物に苦しみ、糖尿病にも罹っていたとか。墓の所在も不明とか。
カノ国の歴代指導者には例えるなら
オヤジの兼家は金日成
孫の頼道は金正恩
オヤジと孫の間の道長は金正日
それらに例えた方がわかりやすい。
ご先祖様なんだよな~
りんし❤
『名家』は「めいけ」ではなく「めいか」です。
歴史はファンタジーだと思ってます。
藤原北家といやあ。あの【菊池氏】の祖の【藤原政則】も藤原北家の出身ですよ。
我が家は父方の祖父、伯父2人が「菊池の会」に入っていました。それによると藤原隆家公の息子の政則公が家祖とかいてありました。因みに我が家は家紋は違い鷹の羽です。
間違えました。政則公の息子の則隆公が菊池家初代みたいですね。
24年度
よんねんど→わろた
栄華は「えいが」
え〜、姉(詮子)の長男(一条天皇)に、定子(兄道隆の娘)を皇后って、いとこ同士の結婚ですよねー。次の彰子(道長の娘)も、姉さんの長男(一条天皇)と結婚なので、ここもいとこ同士の結婚ですよねー。
血が、濃過ぎて、産まれて来る子供は大丈夫なのでしょうか?
この辺りの近親婚の状況、世界史で有名なスペイン・ハプスブルク家以上にえげつないんですよね。
この動画に出ている後一条天皇の後にも、その弟後朱雀天皇と道長末娘の嬉子を結婚させて兄弟揃っての叔母甥婚。
この嬉子が後の後冷泉天皇出産直後に急死後、後朱雀天皇は父方又従妹&母方従妹にあたる禎子内親王(父の従兄三条天皇と母の長妹妍子の子)や姪の嫄子女王(異母兄兼又従兄(上記定子の子)敦康親王の子)、別の母方従妹(母の弟教通の子)藤原生子らと結婚。
後一条天皇の子は威子所生の章子内親王と馨子内親王二人だけでしたが、その2人はどちらも従兄弟にあたる後朱雀天皇の子の後冷泉天皇&後三条天皇兄弟と結婚。
後冷泉天皇と章子内親王は父方母方双方で従兄妹で、後冷泉天皇の他の妃・藤原寛子(頼通の娘)と歓子(教通の別の娘)は父の従妹でもあり自身の従妹でもあるという関係。
後三条天皇(上記禎子内親王の子)から見ると馨子内親王は自身の従姉であると同時に両親の従妹でもあり…という、非常に家系図がややこしい事になっております。
大鏡は完全に藤原氏に忖度して書かれたものですから、藤原氏全盛の当時の平安貴族たちの中ではもっともウケる人物像がそこで描かれたとおりのエバリンボー藤原道長だったワケだよね、
当時の日記とかみると平安朝の頂点にいた藤原氏はほとんどみんなヤカラだよね、気に入らない相手の烏帽子をむしり取って顔面を蹴りつけて、近づく牛車に石礫や弓矢を見舞いする、
藤原氏に比べて不遇だったからという理由もあるかも知れないけど、むしろそんな藤原氏が理解不能で怖いから他の貴族はだんだんと平安京から離れていったのかも?
そんで荒れに荒れた平安朝は、彼らに対抗できるようなメンタルの持ち主として平氏や源氏が誕生することで、あんなに横暴だった藤原氏はすっかり大人しくなり武士の時代へと移り変わっていくワケなんですねー
で 藤原氏は源氏に滅ぼされるんですか 平家はどこから湧いて出てくるんでしょうか
声質変えるの上手いな。声はAIでないでしょう。
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平安京エイリアン
倫子(りんし)と解説していますが、倫子はともこと呼ぶのではありませんか。
百科事典には源倫子(りんし)とおくりがながしてありました。
「この世をば」の歌は、余りにも誇張。道長の子供、彰子が一条天皇との間に種となる男の子をもうけたということは、必ず因があったはず。道長が一条天皇と同じ風呂に入って天皇の下の毛をみたとしよう。あそこが自分の子供の彰子と触れたところかと。望月にも欠けたる所があったかと気づかないとすれば、強がりの歌だ
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たのでは、、糖尿病と、すい臓がんであったようで、、
道長、非道を行いバチが当たり
と言うことは道長は相当な悪党ってことじゃん