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今回もアップありがとうございました。尾道行きたいなあ。今回のようなまったり観光動画もいいですね。高速道路の料金、安くなると運転がより楽しくなるのですけど😅
私の書き込みをよく読んでから出掛けてくださいね。大林監督の映画の世界は、過去の映画とつながっているのですよ。
映画「ふたり」で実加のピアノ発表会の場面に浄土寺の小林海暢住職がチョイ役出演した理由を理解してね。小林住職は、「東京物語」尾道ロケの生き証人でした。
4:17尾道海技学院前から千光寺コーポーへ行き、その先を右へ鋭角に曲がると徒歩でわずか5分です、映画「時をかける少女」で芳山和子と深町一夫の二人が通った「竹藪わきの通学路」のロケ地は。その先には、尾道市長江二丁目の小林邸前の階段があります。タイムリープ中の芳山和子が二人の少年と出会った階段ですね。二人の少年は、新藤兼人監督の映画「裸の島」に出演した佐木島の太郎・次郎(田中伸二さん、堀本正紀さん)を思い起こさせるための演出です。
深町家の温室は、半田安弘さんの居宅のとなりにありました。「転校生」で半田商事の酔っ払い社長を演じたのが半田さんです。
九州旅行のおみやげを持った実加が真子と会ったのは「料亭旅館魚信」の前ですが、その場面のロケ地は、新藤兼人監督の映画「裸の島」のロケ地でもあります。「転校生」のラストシーンで斉藤ー夫がカメラを取り出して助手席側の窓から斉藤一美の姿を撮影し始めた場面のロケ地もそこです。一美の背後に「仁井時計店の看板」が、一夫の背後に「浄土寺山」が映り込んでいるは偶然などではなかったのです。
1:13真正面に見える三角屋根のお宅は、「レースのカーディガンPV」の中で坂上香織さんが窓から上半身を出していた場面が撮影された建物です。同PVは、1988年7月、尾道市内で大林宣彦監督によって撮影されたものですが、当時は昭和天皇の健康状態が芳しくなかったため、歌詞の中の「旅の終わった場所が新しい始発駅」という部分が大いに問題視され、TV・ラジオ等で放送することができませんでした。その後ろに見える建物が「斉藤一美の家」であり、「前野万里子の家」です。「お前も買ってもらえよ、新しい海パンを。」と小林聡美さんが尾美としのりさんに告げた場面に映り込んでいた美しい松の木は、2022年5月ごろにすべて伐採されてしまいました。
映画「ふたり」には、神永青年が学校帰りの実加と真子と出会って、万里子の仕業について謝る場面があります。この場面の三人の背後に注目してください。なんと、三人の背後には、映画「東京物語」で「平山周吉の家」とされた戸田邸がバッチリ映り込んでいます。しかも、その2階バルコニーには、まったく偶然を装ってたくさんの洗濯物が干してあります。これも意図的なものです。また、神永青年が千津子の三回忌法要に参列する場面で、大林監督は、ご丁寧に「1987年10月の暦」まで映し込んでいます。これによれば、千津子が事故に遭って亡くなったのが「1987年10月27日(火曜日)」であったことがわかるのです。これは、正に小津安二郎監督の映画「東京物語」のラストシーンのオマージュです。
1991年劇場公開の映画「ふたり」の最後の場面には、石田ひかりさんが演じた北尾実加が「千津子の事故現場」の坂道を登って来るシーンがあります。大林宣彦監督とそのスタッフはその場面について何もコメントを残していませんが、実加が現れたその地点は、小津安二郎監督が1953年8月に尾道市立筒湯小学校の木造校舎を撮影するためカメラをセットした正にその場所なのです。「実加のピアノ発表会」の場面に「浄土寺の小林海暢住職」がチョイ役出演しているのは、小林住職は、当時15歳の大林少年とともに「東京物語の尾道ロケ」の現場に立ち会った生き証人であったからです。
おやっ、土堂小学校のそばに「斉藤一美の家」が映っているやないですか!「前野万里子の家」でもあるんですよ!
映画「転校生」で斉藤一美の15歳の誕生日が「1981年7月12日(日曜日)」に設定された理由は、映画「東京物語」のラストシーンに映り込んでいる「1953年7月の暦」と深い関係があります。大林宣彦監督は、映画「転校生」の尾道ロケを1981年8月に行ったのですが、実は、それ自体が小津安二郎監督の「東京物語」の尾道ロケのオマージュだったのです。「1953年7月・8月の暦」は、「1981年7月・8月の暦」と曜日配列が同一だったのです。
本年2024年4月16日は、映画「時をかける少女」の芳山和子が福山大学薬学部の廊下でニセの深町一夫と再会した日からちょうど30年目に当たる日でした。2033年4月16日(土曜日)、65歳になった原田知世さんが下駄を履いて再び「西方寺普明閣の境内」を走ってくれることを私は強く望んでいます。
尾道市立土堂小学校の校庭は、1988年公開「レースのカーディガンPV」のロケ地です。小津安二郎監督の映画「東京物語」は、大林宣彦少年が15歳の夏(1953年8月)に尾道市東久保町を中心に撮影されたものですが、50歳になった大林監督は、その35周年記念として坂上香織さんのPVを同市内で撮影しました。(実は、昨年2023年は、その時から更に35年が経った記念の年でした。)同PVの冒頭映像には山陽本線を走る電気機関車が現れるのに、坂上香織さんによるナレーションは「汽車の汽笛で目を覚ます」です。その背景・事情を知らない人にとって、そのシーンは理解不能な不思議な映像です。蒸気機関車が牽引する列車に乗って原節子さんが演じた平山紀子は東京へ帰るのですが、大林監督は、まったく同じカメラアングルで「津田ゆかりさん」のことを撮影しています。それは、1983年劇場公開の「時をかける少女」のエンドロールのシーンです。津田ゆかりさんは、神谷真理子を演じた女優さんですが、そのシーンにも何らかの意味が込められていたはずです。その意味について、私はまだ理解するに至っていません。「時をかける少女」の映像に関する謎は、私にとってこれだけではありません。バレーボール部員が着用していた「赤いブルマ」と芳山和子が生理の翌々日なのに着用していた「白いブルマ」も謎です。
連投で申し訳ありません。映画「ふたり」には、石田ひかりさんの入浴シーンがあるのをご存知でしょうか。そのシーンは、糸崎8丁目交差点すぐそばにかつて存在したミカン倉庫の中に組まれた北尾家のセットで撮影されたものです。ミカン倉庫跡地には、現在、N村さんの私邸が建っています。私は、30年以上、どうしてミカン倉庫の中で撮影されたのか理由がわかりませんでした。ところが、昨年12月、たまたま新藤兼人監督の映画「裸の島」を見ていたら、舞台となった瀬戸内海の無人島「宿禰島」のちょうど対岸に当たる地が糸崎8丁目交差点とミカン倉庫の跡地であったことに気づきました。信じられないことですが、大林監督が1990年に撮影した「石田ひかりさんの入浴シーン」は、なんと新藤兼人監督が1960年に宿禰島で撮影した「乙羽信子さんのドラム缶風呂入浴シーン」のオマージュだったのです。理由はよくわかりませんが、映画「ふたり」のエンドロールに「尾道市農協・三原農協」の名は出てきません。そういえば、1982年劇場公開の映画「転校生」のラストシーンで、尾美としのりさんが演じた斉藤一夫がトラックの助手席側の窓からカメラを取り出して一美の姿を撮影し始めた地点は、海岸通りの「料亭旅館魚信」の正面辺りでした。乙羽信子さんと殿山泰司さんの二人が演じた夫婦が「鯛」を売りに来たのが「料亭旅館魚信」です。大林監督は、小津安二郎監督の「東京物語」のロケ地において小林聡美さんのことを走らせ、新藤監督の「裸の島」のロケ地で尾美としのりさんにカメラを持たせていたのです。乙羽信子さんが亡くなったのは1994年12月のことですから、今年12月でちょうど30年です。その御遺骨の半分は、遺族の手によって宿禰島に散骨されているとのことです。
「タイル小路」と「福善寺」、「筒湯小学校の木造校舎」と「千津子の事故現場」、大林映画の醍醐味は、時間を超えて、世代を超えて街で暮らす人々がいつも繋がっていることを実感させてくれることです。「尾道海技学院」と「竹藪の通学路」、実は徒歩で5分未満の距離にあるんですよ。
石田ひかりさんが演じた北尾実加が「かやの女子学園演劇部」の部室で練習している場面において、「尾道市立土堂小学校の独特の窓枠」と「持光寺の本堂の屋根」が実加の背後に映り込みます。大林宣彦監督の映画の特徴は、出演者の背後に現れる映像です。小林聡美さんが演じた斉藤一美の背後に「仁井時計店の看板」が、尾美としのりさんが演じた斉藤一夫の背後に「浄土寺山」が映し込まれているのは決して偶然などではありません。映画「時をかける少女」のエンドロールの最後の最後を注意深く観察してみると、原田知世さんが演じた芳山和子の背後で「監督 大林宣彦」の白文字が「西方寺普明閣の石灯籠」と「未開花の桜」を指し示しています。その場面は、映画のストーリーに照らして整合性を欠いた映像です。したがって、「未開花の桜」には何か深い意味が絶対にあったはずです。私は、それは「2033年4月16日(土曜日)の物語」が存在することの大林流の暗示だったと思います。弓道部の練習に加わった芳山和子の背後で「赤いブルマ」を着用した大勢の女子バレー部員が現れた場面を見た人の多くは、その前々日(1983年4月16日土曜日)に芳山和子が生理中であったことを立花先生によって無意味に暴露されたことを思い出したはずです。
筒湯小学校の校舎までしっかり撮影しておきながら、小津安二郎監督の映画「東京物語」について一言も言及なしは酷いと思います。尾道市立筒湯小学校は、1953年11月3日劇場公開の映画「東京物語」で平山京子先生の勤務先とされた学校です。大林宣彦監督は、映画「ふたり」の冒頭シーンで藤田弓子さん演じるご婦人が幼少の頃の千津子と実加と会話する場面を設けています。二人が通っていた小学校、映画の中で説明はありませんが、それこそが筒湯小学校なのです。大林監督は、映画「ふたり」のラストシーンで石田ひかりさんが演じた実加が坂下から現れる場面を設けていますが、その地点は、小津安二郎監督が1953年8月に当時の木造校舎を撮影するためにカメラをセットしたポジションそのものなんですよ。尾道市東久保町へ行っておきながら、映画「東京物語」について何も語らないなんて本当に異常ですよ。
「背後」というキーワードで思い出しましたが、1991年劇場公開の映画「ふたり」の最後の最後で、中嶋朋子さんが演じた北尾千津子は、視聴者にお尻を向けた状態で尾道市東久保町の坂道を登っていきます。おやっ、と感じた人が大勢いたのではないでしょうか。珍しいですよね、そういう終わり方は。でも、実はその場面にも意味があったのですね。千津子の背後にあるのは「尾道市立筒湯小学校」でした。映画には映り込んでいませんが、千津子の背後には、映画「東京物語」で平山京子先生の勤務先であった筒湯小学校が画面の外に隠れていたのです。こうした演出があったことについて、大林監督やそのスタッフはわざわざ解説していないのです。
映画「時をかける少女」のエンドロールの最後、原田知世さんの背後には「西方寺普明閣の石灯籠」と「未開花の桜」が現れます。映画のストーリーに照らして変ですよね、その場面で「未開花の桜」がスクリーンに現れるなんて。私は、その「未開花の桜」がずっと気になっていました。私は、2020年4月10日に大林宣彦監督が亡くなった後、そのことが気になって竹原の西方寺へ何度も通いました。そして、4度目に訪問した時、ふと気づいたのです。大林監督は、映画「時をかける少女」の撮影から半世紀後、65歳になった原田知世さんのことを再び撮影する(又はその遺志を引き継いでくれる誰かに撮影させる)ことを企てていたのではないでしょうか。映画「猿の惑星」の続編はそのわずか2年後に公開されました。しかし、主役を演じたチャールトン・ヘストンさんは、その製作に消極的だったそうです。もし、「2033年4月16日(土曜日)の物語」が発表されるなら、「猿の惑星」の製作スタッフたちも腰を抜かして驚くことでしょう。
西土堂ポケットパークの真正面にあるんですよ、「タイル小路わきの民家」の1983年当時のオーナーさんのお墓は。島居完さんというのは、実は、大林宣彦監督の生家のお隣さんでした。初めて「タイル小路」へ行った時、そのすぐ隣が「福善寺」であることを知り、私はたいへん驚きました。「福善寺」は、映画「東京物語」では平山とみの葬儀が執り行われたことになっている寺院だからです。三男の平山敬三が母とみの突然の死を嘆いたのが1953年7月、その30年後の1983年4月に映画「時をかける少女」で原田知世さんが演じた芳山和子が高校へ通った道が「タイル小路」です。「福善寺の縁側」と「タイル小路」が映画の舞台となったのは30年の間隔、つまり1世代の時間的間隔があるのですが、地理的には直線でわずか10メートルしか離れてなかったのです。
「ふたり」の冒頭シーンに小学生の千津子と実加が現われる理由を知らなかったでしょ?筒湯小学校ですよ、「東京物語」の。繋がっているんですよ、小津安二郎監督の世界と。
筒湯小学校は、平山周吉の次女である京子の勤務先小学校です。
@@nobustation 「平山周吉」を演じたのは笠智衆さん、「筒湯小学校の京子先生」を演じたのは香川京子さんです。京子先生は、紀子が東京へ帰るために乗った汽車を同校の教室から見送るのですが、その場面の京子先生の背後には「1953年7月の暦」が掲げられています。その暦で、「12日」がいったい何曜日であるのか確認してみてください。小林聡美さんが映画「転校生」で演じた斉藤一美の15歳の誕生日がどうして「1981年7月12日(日曜日)」と設定されたのかその理由がわかります。
今回もアップありがとうございました。
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大林監督の映画の世界は、過去の映画とつながっているのですよ。
映画「ふたり」で実加のピアノ発表会の場面に浄土寺の小林海暢住職がチョイ役出演した理由を理解してね。
小林住職は、「東京物語」尾道ロケの生き証人でした。
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尾道海技学院前から千光寺コーポーへ行き、その先を右へ鋭角に曲がると徒歩でわずか5分です、映画「時をかける少女」で芳山和子と深町一夫の二人が通った「竹藪わきの通学路」のロケ地は。
その先には、尾道市長江二丁目の小林邸前の階段があります。
タイムリープ中の芳山和子が二人の少年と出会った階段ですね。
二人の少年は、新藤兼人監督の映画「裸の島」に出演した佐木島の太郎・次郎(田中伸二さん、堀本正紀さん)を思い起こさせるための演出です。
深町家の温室は、半田安弘さんの居宅のとなりにありました。
「転校生」で半田商事の酔っ払い社長を演じたのが半田さんです。
九州旅行のおみやげを持った実加が真子と会ったのは「料亭旅館魚信」の前ですが、その場面のロケ地は、新藤兼人監督の映画「裸の島」のロケ地でもあります。
「転校生」のラストシーンで斉藤ー夫がカメラを取り出して助手席側の窓から斉藤一美の姿を撮影し始めた場面のロケ地もそこです。
一美の背後に「仁井時計店の看板」が、一夫の背後に「浄土寺山」が映り込んでいるは偶然などではなかったのです。
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真正面に見える三角屋根のお宅は、「レースのカーディガンPV」の中で坂上香織さんが窓から上半身を出していた場面が撮影された建物です。
同PVは、1988年7月、尾道市内で大林宣彦監督によって撮影されたものですが、当時は昭和天皇の健康状態が芳しくなかったため、歌詞の中の「旅の終わった場所が新しい始発駅」という部分が大いに問題視され、TV・ラジオ等で放送することができませんでした。
その後ろに見える建物が「斉藤一美の家」であり、「前野万里子の家」です。
「お前も買ってもらえよ、新しい海パンを。」と小林聡美さんが尾美としのりさんに告げた場面に映り込んでいた美しい松の木は、2022年5月ごろにすべて伐採されてしまいました。
映画「ふたり」には、神永青年が学校帰りの実加と真子と出会って、万里子の仕業について謝る場面があります。
この場面の三人の背後に注目してください。
なんと、三人の背後には、映画「東京物語」で「平山周吉の家」とされた戸田邸がバッチリ映り込んでいます。
しかも、その2階バルコニーには、まったく偶然を装ってたくさんの洗濯物が干してあります。
これも意図的なものです。
また、神永青年が千津子の三回忌法要に参列する場面で、大林監督は、ご丁寧に「1987年10月の暦」まで映し込んでいます。
これによれば、千津子が事故に遭って亡くなったのが「1987年10月27日(火曜日)」であったことがわかるのです。
これは、正に小津安二郎監督の映画「東京物語」のラストシーンのオマージュです。
1991年劇場公開の映画「ふたり」の最後の場面には、石田ひかりさんが演じた北尾実加が「千津子の事故現場」の坂道を登って来るシーンがあります。
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おやっ、土堂小学校のそばに「斉藤一美の家」が映っているやないですか!
「前野万里子の家」でもあるんですよ!
映画「転校生」で斉藤一美の15歳の誕生日が「1981年7月12日(日曜日)」に設定された理由は、映画「東京物語」のラストシーンに映り込んでいる「1953年7月の暦」と深い関係があります。
大林宣彦監督は、映画「転校生」の尾道ロケを1981年8月に行ったのですが、実は、それ自体が小津安二郎監督の「東京物語」の尾道ロケのオマージュだったのです。
「1953年7月・8月の暦」は、「1981年7月・8月の暦」と曜日配列が同一だったのです。
本年2024年4月16日は、映画「時をかける少女」の芳山和子が福山大学薬学部の廊下でニセの深町一夫と再会した日からちょうど30年目に当たる日でした。
2033年4月16日(土曜日)、65歳になった原田知世さんが下駄を履いて再び「西方寺普明閣の境内」を走ってくれることを私は強く望んでいます。
尾道市立土堂小学校の校庭は、1988年公開「レースのカーディガンPV」のロケ地です。
小津安二郎監督の映画「東京物語」は、大林宣彦少年が15歳の夏(1953年8月)に尾道市東久保町を中心に撮影されたものですが、50歳になった大林監督は、その35周年記念として坂上香織さんのPVを同市内で撮影しました。
(実は、昨年2023年は、その時から更に35年が経った記念の年でした。)
同PVの冒頭映像には山陽本線を走る電気機関車が現れるのに、坂上香織さんによるナレーションは「汽車の汽笛で目を覚ます」です。
その背景・事情を知らない人にとって、そのシーンは理解不能な不思議な映像です。
蒸気機関車が牽引する列車に乗って原節子さんが演じた平山紀子は東京へ帰るのですが、大林監督は、まったく同じカメラアングルで「津田ゆかりさん」のことを撮影しています。
それは、1983年劇場公開の「時をかける少女」のエンドロールのシーンです。
津田ゆかりさんは、神谷真理子を演じた女優さんですが、そのシーンにも何らかの意味が込められていたはずです。
その意味について、私はまだ理解するに至っていません。
「時をかける少女」の映像に関する謎は、私にとってこれだけではありません。
バレーボール部員が着用していた「赤いブルマ」と芳山和子が生理の翌々日なのに着用していた「白いブルマ」も謎です。
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映画「ふたり」には、石田ひかりさんの入浴シーンがあるのをご存知でしょうか。
そのシーンは、糸崎8丁目交差点すぐそばにかつて存在したミカン倉庫の中に組まれた北尾家のセットで撮影されたものです。
ミカン倉庫跡地には、現在、N村さんの私邸が建っています。
私は、30年以上、どうしてミカン倉庫の中で撮影されたのか理由がわかりませんでした。
ところが、昨年12月、たまたま新藤兼人監督の映画「裸の島」を見ていたら、舞台となった瀬戸内海の無人島「宿禰島」のちょうど対岸に当たる地が糸崎8丁目交差点とミカン倉庫の跡地であったことに気づきました。
信じられないことですが、大林監督が1990年に撮影した「石田ひかりさんの入浴シーン」は、なんと新藤兼人監督が1960年に宿禰島で撮影した「乙羽信子さんのドラム缶風呂入浴シーン」のオマージュだったのです。
理由はよくわかりませんが、映画「ふたり」のエンドロールに「尾道市農協・三原農協」の名は出てきません。
そういえば、1982年劇場公開の映画「転校生」のラストシーンで、尾美としのりさんが演じた斉藤一夫がトラックの助手席側の窓からカメラを取り出して一美の姿を撮影し始めた地点は、海岸通りの「料亭旅館魚信」の正面辺りでした。
乙羽信子さんと殿山泰司さんの二人が演じた夫婦が「鯛」を売りに来たのが「料亭旅館魚信」です。
大林監督は、小津安二郎監督の「東京物語」のロケ地において小林聡美さんのことを走らせ、新藤監督の「裸の島」のロケ地で尾美としのりさんにカメラを持たせていたのです。
乙羽信子さんが亡くなったのは1994年12月のことですから、今年12月でちょうど30年です。
その御遺骨の半分は、遺族の手によって宿禰島に散骨されているとのことです。
「タイル小路」と「福善寺」、「筒湯小学校の木造校舎」と「千津子の事故現場」、
大林映画の醍醐味は、時間を超えて、世代を超えて街で暮らす人々がいつも繋がっていることを実感させてくれることです。
「尾道海技学院」と「竹藪の通学路」、実は徒歩で5分未満の距離にあるんですよ。
石田ひかりさんが演じた北尾実加が「かやの女子学園演劇部」の部室で練習している場面において、「尾道市立土堂小学校の独特の窓枠」と「持光寺の本堂の屋根」が実加の背後に映り込みます。
大林宣彦監督の映画の特徴は、出演者の背後に現れる映像です。
小林聡美さんが演じた斉藤一美の背後に「仁井時計店の看板」が、尾美としのりさんが演じた斉藤一夫の背後に「浄土寺山」が映し込まれているのは決して偶然などではありません。
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筒湯小学校の校舎までしっかり撮影しておきながら、小津安二郎監督の映画「東京物語」について一言も言及なしは酷いと思います。
尾道市立筒湯小学校は、1953年11月3日劇場公開の映画「東京物語」で平山京子先生の勤務先とされた学校です。
大林宣彦監督は、映画「ふたり」の冒頭シーンで藤田弓子さん演じるご婦人が幼少の頃の千津子と実加と会話する場面を設けています。
二人が通っていた小学校、映画の中で説明はありませんが、それこそが筒湯小学校なのです。
大林監督は、映画「ふたり」のラストシーンで石田ひかりさんが演じた実加が坂下から現れる場面を設けていますが、その地点は、小津安二郎監督が1953年8月に当時の木造校舎を撮影するためにカメラをセットしたポジションそのものなんですよ。
尾道市東久保町へ行っておきながら、映画「東京物語」について何も語らないなんて本当に異常ですよ。
「背後」というキーワードで思い出しましたが、1991年劇場公開の映画「ふたり」の最後の最後で、中嶋朋子さんが演じた北尾千津子は、視聴者にお尻を向けた状態で尾道市東久保町の坂道を登っていきます。
おやっ、と感じた人が大勢いたのではないでしょうか。
珍しいですよね、そういう終わり方は。
でも、実はその場面にも意味があったのですね。
千津子の背後にあるのは「尾道市立筒湯小学校」でした。
映画には映り込んでいませんが、千津子の背後には、映画「東京物語」で平山京子先生の勤務先であった筒湯小学校が画面の外に隠れていたのです。
こうした演出があったことについて、大林監督やそのスタッフはわざわざ解説していないのです。
映画「時をかける少女」のエンドロールの最後、原田知世さんの背後には「西方寺普明閣の石灯籠」と「未開花の桜」が現れます。
映画のストーリーに照らして変ですよね、その場面で「未開花の桜」がスクリーンに現れるなんて。
私は、その「未開花の桜」がずっと気になっていました。
私は、2020年4月10日に大林宣彦監督が亡くなった後、そのことが気になって竹原の西方寺へ何度も通いました。
そして、4度目に訪問した時、ふと気づいたのです。
大林監督は、映画「時をかける少女」の撮影から半世紀後、65歳になった原田知世さんのことを再び撮影する(又はその遺志を引き継いでくれる誰かに撮影させる)ことを企てていたのではないでしょうか。
映画「猿の惑星」の続編はそのわずか2年後に公開されました。
しかし、主役を演じたチャールトン・ヘストンさんは、その製作に消極的だったそうです。
もし、「2033年4月16日(土曜日)の物語」が発表されるなら、「猿の惑星」の製作スタッフたちも腰を抜かして驚くことでしょう。
西土堂ポケットパークの真正面にあるんですよ、「タイル小路わきの民家」の1983年当時のオーナーさんのお墓は。
島居完さんというのは、実は、大林宣彦監督の生家のお隣さんでした。
初めて「タイル小路」へ行った時、そのすぐ隣が「福善寺」であることを知り、私はたいへん驚きました。
「福善寺」は、映画「東京物語」では平山とみの葬儀が執り行われたことになっている寺院だからです。
三男の平山敬三が母とみの突然の死を嘆いたのが1953年7月、その30年後の1983年4月に映画「時をかける少女」で原田知世さんが演じた芳山和子が高校へ通った道が「タイル小路」です。
「福善寺の縁側」と「タイル小路」が映画の舞台となったのは30年の間隔、つまり1世代の時間的間隔があるのですが、地理的には直線でわずか10メートルしか離れてなかったのです。
「ふたり」の冒頭シーンに小学生の千津子と実加が現われる理由を知らなかったでしょ?
筒湯小学校ですよ、「東京物語」の。
繋がっているんですよ、小津安二郎監督の世界と。
筒湯小学校は、平山周吉の次女である京子の勤務先小学校です。
@@nobustation
「平山周吉」を演じたのは笠智衆さん、「筒湯小学校の京子先生」を演じたのは香川京子さんです。
京子先生は、紀子が東京へ帰るために乗った汽車を同校の教室から見送るのですが、その場面の京子先生の背後には「1953年7月の暦」が掲げられています。
その暦で、「12日」がいったい何曜日であるのか確認してみてください。
小林聡美さんが映画「転校生」で演じた斉藤一美の15歳の誕生日がどうして「1981年7月12日(日曜日)」と設定されたのかその理由がわかります。