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昭和39年(1964年)卒駿河台校舎が無くなりほんとに残念です。やはり都心に全学部が戻ってほしいです。多摩に移転してから個人的には別の学校になったように感じます。
私は駿河台最後の入学生。1年しか駿河台にはいなかったけど、八王子より思い出がいっぱいです。あれから30数年、あっというまに。今は孫の世話におわれる毎日です。あのころは夢にも思いませんでした、自分に孫ができるなんて。
今は豆腐校舎だが昔はこんなにかっこよかったのか、、、駿河台時代の中央に行きたかった
豆腐校舎?。足の手術(外反母趾の手術(左足))の為に1カ月大学病院に入院したためにやむなく中央大学通教を中退せざるを得なかった私から見たら,今は茗荷谷に文学部が多摩から移転しきたこともあるし,況してや本部キャンパスがある憧れの多摩キャンパスにも1度行ってみたいと思ったど動画で見て余計憧れが強く感じたほど今の多摩キャンパスや理工学部がある後楽園キャンパスなどは途中でやめざるを得なかった私から見たら昔もよかったとは思いますが,伝統があって。でも?,今の各キャンパスは,動画で見たら私的には,明るく近代的で綺麗ないいキャンパスだとどこもそう思います。
多摩移転以後の中大OBです。先輩方、すごい熱気でしたね。コンパクトだけど、洒落たキャンパスのように思いました。
昭和52年入学、法学部19組です。色んな人が密集していて熱気がありましたね。前期試験が終わると南門を出て右手にあった居酒屋で慰労会をやったり、中央図書館に通ったりしました。そう、ドイツ語の相馬先生のゼミをとっていましたが、教室を神田のドジョウ屋に急遽変更してやったこともありました。懐かしいです。
国の要請素直に中央だけが聞いちゃったからなぁ、、今も駿河台にあったらもっと中央賑わってたんだろうなぁ、、
駿河台校舎閉校式に、参加した者です。懐かしい❗
懐かしい映像ですね。昭和49年入学、53年卒業です。どの映像も見覚えあるものです。一番印象に残っているのは、講義の休講の掲示版かな?
私の中の中大は「駿河台」でしかない。「白門(南門)「2号館・中庭」「3号館(講堂)」「大学院図書館」等の歴史的空間と「1号館(本部棟)」「4号館」「5号館」「中央図書館」並びに生協の店舗・食堂があった「学生会館」 等の戦後新たに建設された建物の調和が好きだった。当初、多摩は教養課程の利用との予定であった筈が、駿河台より全面撤退すると聞いたときは、非常にショックだったのを記憶している。
商学部も連れて行ってくれ〜〜!!
当時は本郷から歩いて聖橋を渡って法学部の有名教授の授業を潜りで聞きに行ってた。僕のように中央大学法学部の授業に聴講に行くT大の学生は結構多かった。懐かしく拝見しました。
@不不知火秋桜子・中央大学法学部の授業を潜りで聴講に行ってたってかなりスリル満点でドキドキな思い出ですね。貴重な体験をしましたね。
このキャンパスに通いたかった。慶應三田図書館や早稲田大隈講堂にも比肩できる。素晴らしい‼️
大講堂だった3号館と当時、大学院分室と呼ばれていた図書館が歴史的建造物で威風堂々としていてアカデミックでしたよ
駿河台のままだったら、今も激戦区だったろうな。でも、多摩キャンパスは広々していて大学らしくて中々いいよ👍
その中央大学自慢の法学部も多摩から都心の文京区茗荷谷にキャンパスを移転して来ました。
あの教会風のアカデミックな趣のある校舎がなくなり、都心から離れ、入学レベルも下がってしまった。友人たちは千葉県や神奈川県からも通学してきていたが今は無理になったため他の大学に流れて行っている。早く校舎を懐かしい都心に回帰させてほしい。懐かしい駿河台へ。
駿河台には回帰しませんでしたが?,文京区茗荷谷に中央大学の法学部が都心に移転してきました。
11月9日新聞で中大法のキャンパス都心回帰のニュースを読んだ。後楽園(理工学部校舎)よりも、駿河台にある中央大学記念館の場所に移転してもらいたいというのは、多くの中大文化系駿河台卒業生の願いなのではなかろうか。まずはそこを拠点に、少しずつ周りに敷地を確保して、拡げていけたなら・・・。一卒業生の希望です。2015.11.10
楽しかったですね!
私も駿河台最後の卒業生。当時、貧乏で金がなく毎日生協食堂で60円のかけうどんを食べていたら、友人が金出してくれて、一緒にコープランチを食べた・・・そのことだけは鮮明に覚えています。当時は貧しいということが恥でもなんでもなかったのに。
私は他校の学生でしたが90円のカレーに10円の味噌汁を目当に中大の学食に通っておりました。近くに味一番という中華丼の店にもよく行ってたなー。
喫茶ハイライト、たまり場になってました煙草の煙が充満してました
@@masa-vb4gd たしかに 南門を出てまっすぐ下って右側にあったね よく通った
@@yoshimizu生幸 生協食堂のカレーはメリケン粉たっぷりで妙に上手かったな
中央が多摩に移転してから始まった半世紀近い中大の氷河期でした。この移転について30年位前に明治の教授と話したら、中大さんは学内が移転でまとまったから移転できた。明治は矢張移転の話しがあったが学内の意見を纏める事が出来なかったので、移転しなかった、との事でした。何が幸いするか分かりません。茗荷谷に戻って、優秀な学生に来て貰い再び中大卒業生の活躍を見れそうで嬉しいです。もっとも卒業してから20年位は掛かるだろうから、生きているうちには見れないのが残念です。今シーズンの野球部も無敗の6連勝中、優勝の可能性はかなり高い。あと駅伝が私の生きている内にシード権を獲得して欲しいです。やたら、長々と失礼しました。
多摩はよかったですよむしろ法学部だけの移転による分断が悲しいです
駅伝はシード権を獲得しましたね。99書い大会は2位でした。100回大会で総合優勝狙っています。
八王子に移転しなければ、早慶中だったかもしれないのに実にもったいない。団塊の世代まで高卒で役所や企業に入り、中央の夜学で学び直し幹部になった人が一定数いたが、八王子に移転してからは絶滅してしまった。
surugadaicyuuou009先輩、伝わってきます。本当にお帰りと言ってると思いますよ。夜に泣き止まぬ子供をおんぶして、中大キャンパス内を歩いたこともある。なんて目に浮かびますね。数年前に、練馬の中大グランドを探しに行ったら、地元の皆さんが嬉しそうに当時の思い出を語ってくれ、恐縮した次第です。戸田修三学長は、片足が義足で頑張っておられたので、多摩キャンパスに移った時に「バリヤフリー」の大学になり、感動した思い出があります。
駿河台最後の卒業生(法13組)。当時はまだキャンパス内には立看板等があり学園紛争の雰囲気が残っていた。入学時キャンパス内での各サークルの勧誘風景が懐かしい。映像にも映っていたが当時戸田学長だった。卒業から約30年、当時助教授の永井先生(ゼミの先生)が今(2011)は学長か。民法の反官僚法学の沼先生も思い出される。今も仕事に疲れると駿河台下の古本屋街をうろつき、若者の中に混じってエネルギーをもらう。「さぼうる」や「ミロンガ」(タンゴ喫茶)「キッチン南海」(カツカレー)に立ち寄ったりする。親爺の単なる感傷とはわかっていても、駿河台の街が今も若者のエネルギーで活気があるのがうれしい。そこで今も若者たちが、将来への漠然とした不安を抱きながらも、恋をしたり、アルバイトをしたり、何か夢を求めて模索、苦しんでいるのかと思うと、つい「がんばれ!後輩たち」と応援したくなる。時間が過ぎるのがこんなに速いなんて。アポリネールの詩「時の二十日鼠よ」を思い出す。別の詩で「ミラボー橋の下をセーヌが流れ・私の恋も流れていく・日が暮れようと、鐘が鳴ろうと、月日は流れ、私は残る。」全ては夢のように
kansoku3さんへ 心優しい反応ありがとうございます。そう、戸田学長は素敵なステッキを持っておられましたね。多摩キャンパスを経験することなく駿河台で最後の1年を寂しく過ごしましたが、それでも駿河台での4年間はキャンパスを中心に大都市東京から目に見えない大きな刺激を全身で受けました。東京という街そのものが、いろいろな意味で学びの場所でした。1号館地下のスポーツサークルのたまり場と図書館での勉強?昼寝を中心に、そして時々「ピア」を片手に映画を楽しみました。「ポニー」と「人生劇場」にも通いました。当時見た映画で「追憶」と「アメリカン・グラフィティ」があり、バーバラの歌う「追憶のテーマ」のむせぶような出だしを聴くと、もうそれだけで当時を思い出し泣きそうになります。また「アメリカン・グラフィティ」は60年代のアメリカの青春映画でしたが、東部の大学に旅立つ主人公の、田舎町での一夜の出来事に、輝いた青春時代との別れを惜しむ姿が、自分にとっては、勝手に駿河台での学生時代との別れとをだぶらせていました。そうだ、今週末10/27から神田古本祭り、神保町駿河台界隈へタイムスリップしよう!
後楽園の理工学部で学びました。大学紛争で入学式は中止となりました。理工学部、駿河台にも大学の入り口は机などが積まれた「バリケード」があり、ヘルメット姿の学生がいたのを覚えています。在学中には多摩移転の計画があがり、測量実習で移転先の多摩敷地に何度か訪れました。こんな「田舎」に移転するの。そんな思いが当時はありました。多摩移転「反対」運動もありましたが、多摩に移転したのを知ったのは卒業後でした。数年前になりますが、卒業証明書を受取りに後楽園の理工学部を訪ねたことがありますが、当時の面影を探すことができないくらい「近代化」した校舎に変わっていました。
大先輩ですな、私も数年前に理工学部を卒業しました最も新しい建物は新2号館で機械系の研究室などなどが入ってますねーただ、講義で一番お世話になった5号館(地下食堂がある建屋)が個人的には好きですw
写真の一つ一つに遠き日の母校中大がよみがえる。4年間で4回のストライキだった。昭和43年4年生の時授業料値上げ反対闘争に4年連絡会を作り学生証を集め一番戦い、授業料値上げ「白紙撤回」を勝ち取った。当時升本総長だった。卒業する4年生にとり授業料は関係なかったが後輩への贈り物になった。ベトナム戦争真っ盛りで多感な青春だった。今でもお茶ノ水駅に立つと思いは募るばかり。初恋に敗れお茶ノ水橋から飛び降りようとしたこともあった。時々、今同じ場所に立ち思い出すこと辛いものがある。22才の時だった。法学部故東大と中大の授業をかけ持ち聴講したことが懐かしい。
中央大学駿河台記念館で資格試験の講義をしたことが何度かあります。資格試験の受講生としても何度か利用しました。かつての栄光の蔭を感じ取ることが出来ました。私自身はS56年の多摩キャンパス入学生です。
kentosu88さんお久しぶりです。返信が遅れてすみませんでした。私は今もレポート提出になかなか苦労しててなかなか単位修得に苦労してますが?、今はなんとかして難関のレポート合格~単位認定試験合格~単位修得~進級~卒業~司法試験合格~念願の弁護士資格修得~弁護士登録~弁護士目指して、あくまで庶民の為に私心なく働く誰からも慕われ信頼される市政の法律家目指して、私なりに今は難関のレポート突破目指して頑張っていく決意です。先輩もどうかお体に気をつけてお仕事元気で頑張ってください!
この汚い中大駿河台キャンパスでも中央大学法学部の昼間部、夜間部、通信教育部で東大法学部よりも司法試験合格者数多かったのよね。多摩キャンパスは遠いけどきれいな広いキャンパスなのよね。明治、中央、日大、法政どの大学も学生運動すごかったね。
駿河台記念館の建て替えで2023年に新校舎を建てるらしい。そこにロースクールと戦略研究科を移転するらしい。by学員時報
アメリカの大学って中大の多摩キャンみたいな大学町なんだけど、広くて緑多くて、でも日本の学生って大都会で繁華街ないと人気ないんだろうなあ。寮とかアパートで車で校舎を移動するくらいでっかいキャンパスのほうがいいとおもうけどなあ。
ああ中央 4年間4回のストライキ、学費値上げ白紙撤回勝ち取る、スポーツも勉強も熱気も、すべて青春真っ盛り、いい学校だった。もう母校は変身した。忘却の彼方!
祖父もこのキャンパスから霞ヶ関に移ったのか
なるほどねー。もったいないことしたよね。でも時代の流れを客観的に読み取ってたら中央のような郊外移転は自然な流れだったんだろう。 しかし時代はさらに変化しちゃったしね。いまさら東京都市部に大規模大学のキャンパスを新設するするなんてどう考えても不可能で、そうなると今回の法学部のような定期借地などを利用し小さな土地にビルを建って部分的な移転をせざるを得ないんだろう。ただ正直中大の執行部は今冷静さを欠いていると思うよ。それによってアクセスの向上以外他のメリットを何も感じない 逆に大学としてデメリットが大きすぎる気がします。
このような伝統のある貴大学に通信課程とはいえ、学ぶことができて、今私は幸せと、中大のみならず他の大学の通信でも今卒業率が9%というかなり卒業が困難ないばらの道に入り、日々難関なレポート&それに備えたな孤独な独学を働きながら送るというまさに、喜と憂の複雑な気持ちですが、なんとか、苦労を咲かせて私も偉大な緒先輩方に続けられるように、日々頑張って参る所存でおります。
通信はちょっと…
そう言うんなら?、あなたもやってみたら?。どれだけ大変か心底わかるから。
ハイフエッツヤシナさんだっけ?、ったく‼、ただでさえ分かりにくい覚えにくいハンネを付けてどう他人を小バカにしてるのかもしれないけど?。かえって滑稽に見えますよ。自分ほど頭がよくて学歴がたかくて(*自称高学歴)なんでもできる人格がよく立派な人間は他にいないんだ⁉、みたいなよく若い人がかかる"我尊し⁉"病だと思うけど。典型的な友達が一人もいない自分大好き人間。救いようのない。
夜間部から勉強頑張って昼間部へ 鮮やかに一流企業へ就職した優しい先輩😂爽やかで素敵な人でした私は1980年に中退 でも青春の記憶でした(^o^)
赤ヘル軍団の中央は、カッコよかった。
青年像はがすごく良く出来ていますね!作者はおそらく有名な彫刻家かな?
梅雨に入っても晴天の6月の第1土日、白門卒業から34年、スポーツサークルの同期14名(うち3名が美熟女、足を骨折しても参加した豪傑もいてびっくり!)で山梨に1泊2日の温泉旅行に行ってきた。昼は身延山の278?の階段をフーフー言いながら登り、ロープウェイで久遠寺奥の院まで行き、富士山を眺めた。夜はみんなで下部温泉の元湯につかり、豪華な料理をいただき、当時にかえって合宿の時のように浴衣をはだけ、少しおとなしくはなったが宴会をやった。当時にかえって夢のような異時空間を過ごした。2次会でも部屋に集まり、気兼ねすることなく、みんな大きな声で言いたいことを言って、馬鹿話をし夜が更けていった。当時20歳前後の男女が、こんな(どんな?)オジンやオバンになっても気持ちは当時のままだった。学生時代のそれぞれの姿を、お互い分かっているだけに、まるでそれぞれが自分の分身のようにいとおしかった。普段の日常生活の場から離れて、同期のみんなが集まると、何かが合体して、ある意味タイムマシンができ、それに乗って学生時代に帰れたように山の中の夜の温泉宿に異時空間が広がった。同期の仲間は金では買えない貴重な「宝物」だ。
駿河台のキャンパスの方がおしゃれで良さそうね。
元巨人投手でもあり元中央大学野球部監督の高橋善正さんも昔この駿河台キャンパスで勉強したかのかな?。野球部のグラウンドは、当時どこにあった之されますのかな?
一号館の上のほうに行くと ヘルメットをかぶった人だらけで 怖かった
中央、明治によく、行きました、学生のとき、京都から、
今からでも遅くないよ早く都心回帰しようぜ
こんな映像があるなんて・・・。嗚呼懐かしい。私も最後のお茶の水校舎での卒業生です。4年時には図書館も無く、試験もいい加減でとにかく卒業して出て行ってくれと云う感じでしたね。当時も就職難と言われましたが、今の日本の現状よりはマシでした。地下食堂周りの雑多な同好会の木の机・・・匂いまで思い出しました。
私は、お隣組の日大・理工学部に通っていました。ちょうど私が入学したときは、既に閉校していて門は閉ざされていましたが、まだ、校舎の解体前だったのか?解体中だったのか?で残っている建物が外から見えました。ですので、実際のキャンパスがどうだったのか?知りませんので、こんな感じだったのかと見させてもらいました。よく行っていた雀荘のおばちゃんが、「中央大学が無くなって、商売あがったりだ!」と言っていたのを思い出しました。当時は、開店する前から、学生さんが並んでいたと言っていましたww
ぼっとん出してくれ
神田カルチェ・ラタンのときは、とても忙しかった、1968年ごろです、
付属高校に入った時、法学部と理工はクラス上位しか推薦はないよと実際商学部にゆったり行ったけどお茶の水から移転し遠くて辞めました、
ヒマラヤ杉はどうなった?
SSLが、1968年分裂しましたね!
キモチエーww
閉校祭があったなんて知らなかった。ここと多摩を2年間ずつ経験したが、図書館にも入ったことがなかった。南門や正門の記憶は薄れたが、学食隣のサークルたまり場は手に取るように覚えている。300円のステーキはなかなか噛み切れなかったが、あのころ口にできる唯一のステーキだった。
4号館の地下のたまり場ですね。タバコの吸い殻とコーヒーの紙コップ。
@@kuramiyaeko 1号館地下だろう 階段降りて右手に学食 左手に溜まり場下手なマンドリンの練習させられた 下手すぎて恥ずかしかった
八王子卒業生だが、移転は英断だったのだろうが、先見の明はなかったな。移転しなければ、明治に勝てたかもしれなかったのに,残念
駿河台大学
何故中央は駿河台を捨てたのか訳分からん中央には魅力あったが、多摩キャンパスには引いた逆に落ちてよかったわ明治OB
国の方針に従ったのです。
明治じゃ受からん。
昭和39年(1964年)卒
駿河台校舎が無くなりほんとに残念です。
やはり都心に全学部が戻ってほしいです。
多摩に移転してから個人的には別の学校になったように感じます。
私は駿河台最後の入学生。1年しか駿河台にはいなかったけど、八王子より思い出がいっぱいです。あれから30数年、あっというまに。今は孫の世話におわれる毎日です。あのころは夢にも思いませんでした、自分に孫ができるなんて。
今は豆腐校舎だが昔はこんなにかっこよかったのか、、、
駿河台時代の中央に行きたかった
豆腐校舎?。足の手術(外反母趾の手術(左足))の為に1カ月大学病院に入院したためにやむなく中央大学通教を中退せざるを得なかった私から見たら,今は茗荷谷に文学部が多摩から移転しきたこともあるし,況してや本部キャンパスがある憧れの多摩キャンパスにも1度行ってみたいと思ったど動画で見て余計憧れが強く感じたほど今の多摩キャンパスや理工学部がある後楽園キャンパスなどは途中でやめざるを得なかった私から見たら昔もよかったとは思いますが,伝統があって。でも?,今の各キャンパスは,動画で見たら私的には,明るく近代的で綺麗ないいキャンパスだとどこもそう思います。
多摩移転以後の中大OBです。先輩方、すごい熱気でしたね。コンパクトだけど、洒落たキャンパスのように思いました。
昭和52年入学、法学部19組です。色んな人が密集していて熱気がありましたね。前期試験が終わると南門を出て右手にあった居酒屋で慰労会をやったり、中央図書館に通ったりしました。そう、ドイツ語の相馬先生のゼミをとっていましたが、教室を神田のドジョウ屋に急遽変更してやったこともありました。懐かしいです。
国の要請素直に中央だけが聞いちゃったからなぁ、、今も駿河台にあったらもっと中央賑わってたんだろうなぁ、、
駿河台校舎閉校式に、参加した者です。懐かしい❗
懐かしい映像ですね。昭和49年入学、53年卒業です。どの映像も見覚えあるものです。一番印象に残っているのは、講義の休講の掲示版かな?
私の中の中大は「駿河台」でしかない。「白門(南門)「2号館・中庭」「3号館(講堂)」「大学院図書館」等の歴史的空間と「1号館(本部棟)」「4号館」「5号館」「中央図書館」並びに生協の店舗・食堂があった「学生会館」 等の戦後新たに建設された建物の調和が好きだった。当初、多摩は教養課程の利用との予定であった筈が、駿河台より全面撤退すると聞いたときは、非常にショックだったのを記憶している。
商学部も連れて行ってくれ〜〜!!
当時は本郷から歩いて聖橋を渡って法学部の有名教授の授業を潜りで聞きに行ってた。僕のように中央大学法学部の授業に聴講に行くT大の学生は結構多かった。懐かしく拝見しました。
@不不知火秋桜子・中央大学法学部の授業を潜りで聴講に行ってたってかなりスリル満点でドキドキな思い出ですね。貴重な体験をしましたね。
このキャンパスに通いたかった。慶應三田図書館や早稲田大隈講堂にも比肩できる。素晴らしい‼️
大講堂だった3号館と当時、大学院分室と呼ばれていた図書館が歴史的建造物で威風堂々としていてアカデミックでしたよ
駿河台のままだったら、今も激戦区だったろうな。でも、多摩キャンパスは広々していて大学らしくて中々いいよ👍
その中央大学自慢の法学部も多摩から都心の文京区茗荷谷にキャンパスを移転して来ました。
あの教会風のアカデミックな趣のある校舎がなくなり、都心から離れ、入学レベルも下がってしまった。友人たちは千葉県や神奈川県からも通学してきていたが今は無理になったため他の大学に流れて行っている。早く校舎を懐かしい都心に回帰させてほしい。懐かしい駿河台へ。
駿河台には回帰しませんでしたが?,文京区茗荷谷に中央大学の法学部が都心に移転してきました。
11月9日新聞で中大法のキャンパス都心回帰のニュースを読んだ。後楽園(理工学部校舎)よりも、駿河台にある中央大学記念館の場所に移転してもらいたいというのは、多くの中大文化系駿河台卒業生の願いなのではなかろうか。まずはそこを拠点に、少しずつ周りに敷地を確保して、拡げていけたなら・・・。一卒業生の希望です。2015.11.10
楽しかったですね!
私も駿河台最後の卒業生。
当時、貧乏で金がなく毎日生協食堂で60円のかけうどんを食べていたら、友人が金出してくれて、一緒にコープランチを食べた・・・そのことだけは鮮明に覚えています。当時は貧しいということが恥でもなんでもなかったのに。
私は他校の学生でしたが90円のカレーに10円の味噌汁を目当に中大の学食に通っておりました。近くに味一番という中華丼の店にもよく行ってたなー。
喫茶ハイライト、たまり場になってました
煙草の煙が充満してました
@@masa-vb4gd たしかに 南門を出てまっすぐ下って右側にあったね よく通った
@@yoshimizu生幸 生協食堂のカレーはメリケン粉たっぷりで妙に上手かったな
中央が多摩に移転してから始まった半世紀近い中大の氷河期でした。この移転について30年位前に明治の教授と話したら、中大さんは学内が移転でまとまったから移転できた。明治は矢張移転の話しがあったが学内の意見を纏める事が出来なかったので、移転しなかった、との事でした。何が幸いするか分かりません。茗荷谷に戻って、優秀な学生に来て貰い再び中大卒業生の活躍を見れそうで嬉しいです。もっとも卒業してから20年位は掛かるだろうから、生きているうちには見れないのが残念です。今シーズンの野球部も無敗の6連勝中、優勝の可能性はかなり高い。あと駅伝が私の生きている内にシード権を獲得して欲しいです。やたら、長々と失礼しました。
多摩はよかったですよ
むしろ法学部だけの移転による分断が悲しいです
駅伝はシード権を獲得しましたね。99書い大会は2位でした。100回大会で総合優勝狙っています。
八王子に移転しなければ、早慶中だったかもしれないのに実にもったいない。団塊の世代まで高卒で役所や企業に入り、中央の夜学で学び直し幹部になった人が一定数いたが、八王子に移転してからは絶滅してしまった。
surugadaicyuuou009先輩、伝わってきます。
本当にお帰りと言ってると思いますよ。
夜に泣き止まぬ子供をおんぶして、中大キャンパス内を歩いたこともある。
なんて目に浮かびますね。
数年前に、練馬の中大グランドを探しに行ったら、地元の皆さんが嬉しそうに当時の思い出を語ってくれ、恐縮した次第です。
戸田修三学長は、片足が義足で頑張っておられたので、多摩キャンパスに移った時に「バリヤフリー」の大学になり、感動した思い出があります。
駿河台最後の卒業生(法13組)。当時はまだキャンパス内には立看板等があり学園紛争の雰囲気が残っていた。入学時キャンパス内での各サークルの勧誘風景が懐かしい。映像にも映っていたが当時戸田学長だった。卒業から約30年、当時助教授の永井先生(ゼミの先生)が今(2011)は学長か。民法の反官僚法学の沼先生も思い出される。今も仕事に疲れると駿河台下の古本屋街をうろつき、若者の中に混じってエネルギーをもらう。「さぼうる」や「ミロンガ」(タンゴ喫茶)「キッチン南海」(カツカレー)に立ち寄ったりする。親爺の単なる感傷とはわかっていても、駿河台の街が今も若者のエネルギーで活気があるのがうれしい。そこで今も若者たちが、将来への漠然とした不安を抱きながらも、恋をしたり、アルバイトをしたり、何か夢を求めて模索、苦しんでいるのかと思うと、つい「がんばれ!後輩たち」と応援したくなる。時間が過ぎるのがこんなに速いなんて。アポリネールの詩「時の二十日鼠よ」を思い出す。別の詩で「ミラボー橋の下をセーヌが流れ・私の恋も流れていく・日が暮れようと、鐘が鳴ろうと、月日は流れ、私は残る。」全ては夢のように
kansoku3さんへ 心優しい反応ありがとうございます。そう、戸田学長は素敵なステッキを持っておられましたね。多摩キャンパスを経験することなく駿河台で最後の1年を寂しく過ごしましたが、それでも駿河台での4年間はキャンパスを中心に大都市東京から目に見えない大きな刺激を全身で受けました。東京という街そのものが、いろいろな意味で学びの場所でした。1号館地下のスポーツサークルのたまり場と図書館での勉強?昼寝を中心に、そして時々「ピア」を片手に映画を楽しみました。「ポニー」と「人生劇場」にも通いました。当時見た映画で「追憶」と「アメリカン・グラフィティ」があり、バーバラの歌う「追憶のテーマ」のむせぶような出だしを聴くと、もうそれだけで当時を思い出し泣きそうになります。また「アメリカン・グラフィティ」は60年代のアメリカの青春映画でしたが、東部の大学に旅立つ主人公の、田舎町での一夜の出来事に、輝いた青春時代との別れを惜しむ姿が、自分にとっては、勝手に駿河台での学生時代との別れとをだぶらせていました。そうだ、今週末10/27から神田古本祭り、神保町駿河台界隈へタイムスリップしよう!
後楽園の理工学部で学びました。大学紛争で入学式は中止となりました。
理工学部、駿河台にも大学の入り口は机などが積まれた「バリケード」があり、ヘルメット姿の学生がいたのを覚えています。
在学中には多摩移転の計画があがり、測量実習で移転先の多摩敷地に何度か訪れました。
こんな「田舎」に移転するの。そんな思いが当時はありました。
多摩移転「反対」運動もありましたが、多摩に移転したのを知ったのは卒業後でした。
数年前になりますが、卒業証明書を受取りに後楽園の理工学部を訪ねたことがありますが、
当時の面影を探すことができないくらい「近代化」した校舎に変わっていました。
大先輩ですな、私も数年前に理工学部を卒業しました
最も新しい建物は新2号館で機械系の研究室などなどが入ってますねー
ただ、講義で一番お世話になった5号館(地下食堂がある建屋)が個人的には好きですw
写真の一つ一つに遠き日の母校中大がよみがえる。4年間で4回のストライキだった。昭和43年4年生の時授業料値上げ反対闘争に4年連絡会を作り学生証を集め一番戦い、授業料値上げ「白紙撤回」を勝ち取った。当時升本総長だった。卒業する4年生にとり授業料は関係なかったが後輩への贈り物になった。ベトナム戦争真っ盛りで多感な青春だった。今でもお茶ノ水駅に立つと思いは募るばかり。初恋に敗れお茶ノ水橋から飛び降りようとしたこともあった。時々、今同じ場所に立ち思い出すこと辛いものがある。22才の時だった。法学部故東大と中大の授業をかけ持ち聴講したことが懐かしい。
中央大学駿河台記念館で資格試験の講義をしたことが何度かあります。資格試験の受講生としても何度か利用しました。かつての栄光の蔭を感じ取ることが出来ました。私自身はS56年の多摩キャンパス入学生です。
kentosu88さんお久しぶりです。返信が遅れてすみませんでした。私は今もレポート提出になかなか苦労しててなかなか単位修得に苦労してますが?、今はなんとかして難関のレポート合格~単位認定試験合格~単位修得~進級~卒業~司法試験合格~念願の弁護士資格修得~弁護士登録~弁護士目指して、あくまで庶民の為に私心なく働く誰からも慕われ信頼される市政の法律家目指して、私なりに今は難関のレポート突破目指して頑張っていく決意です。先輩もどうかお体に気をつけてお仕事元気で頑張ってください!
この汚い中大駿河台キャンパスでも中央大学法学部の昼間部、夜間部、通信教育部で東大法学部よりも司法試験合格者数多かったのよね。多摩キャンパスは遠いけどきれいな広いキャンパスなのよね。明治、中央、日大、法政どの大学も学生運動すごかったね。
駿河台記念館の建て替えで2023年に新校舎を建てるらしい。そこにロースクールと戦略研究科を移転するらしい。by学員時報
アメリカの大学って中大の多摩キャンみたいな大学町なんだけど、広くて緑多くて、でも日本の学生って大都会で繁華街ないと人気ないんだろうなあ。寮とかアパートで車で校舎を移動するくらいでっかいキャンパスのほうがいいとおもうけどなあ。
ああ中央 4年間4回のストライキ、学費値上げ白紙撤回勝ち取る、スポーツも勉強も熱気も、すべて青春真っ盛り、いい学校だった。もう母校は変身した。忘却の彼方!
祖父もこのキャンパスから霞ヶ関に移ったのか
なるほどねー。
もったいないことしたよね。でも時代の流れを客観的に読み取ってたら中央のような郊外移転は自然な流れだったんだろう。 しかし時代はさらに変化しちゃったしね。いまさら東京都市部に大規模大学のキャンパスを新設するするなんて
どう考えても不可能で、そうなると今回の法学部のような定期借地などを利用し小さな土地にビルを建って部分的な
移転をせざるを得ないんだろう。ただ正直中大の執行部は今冷静さを欠いていると思うよ。
それによってアクセスの向上以外他のメリットを何も感じない 逆に大学としてデメリットが大きすぎる気がします。
このような伝統のある貴大学に通信課程とはいえ、学ぶことができて、今私は幸せと、中大のみならず他の大学の通信でも今卒業率が9%というかなり卒業が困難ないばらの道に入り、日々難関なレポート&それに備えたな孤独な独学を働きながら送るというまさに、喜と憂の複雑な気持ちですが、なんとか、苦労を咲かせて私も偉大な緒先輩方に続けられるように、日々頑張って参る所存でおります。
通信はちょっと…
そう言うんなら?、あなたもやってみたら?。どれだけ大変か心底わかるから。
ハイフエッツヤシナさんだっけ?、ったく‼、ただでさえ分かりにくい覚えにくいハンネを付けてどう他人を小バカにしてるのかもしれないけど?。かえって滑稽に見えますよ。自分ほど頭がよくて学歴がたかくて(*自称高学歴)なんでもできる人格がよく立派な人間は他にいないんだ⁉、みたいなよく若い人がかかる"我尊し⁉"病だと思うけど。典型的な友達が一人もいない自分大好き人間。救いようのない。
ハイフエッツヤシナさんだっけ?、ったく‼、ただでさえ分かりにくい覚えにくいハンネを付けてどう他人を小バカにしてるのかもしれないけど?。かえって滑稽に見えますよ。自分ほど頭がよくて学歴がたかくて(*自称高学歴)なんでもできる人格がよく立派な人間は他にいないんだ⁉、みたいなよく若い人がかかる"我尊し⁉"病だと思うけど。典型的な友達が一人もいない自分大好き人間。救いようのない。
夜間部から勉強頑張って昼間部へ 鮮やかに一流企業
へ就職した優しい先輩😂
爽やかで素敵な人でした
私は1980年に中退 でも
青春の記憶でした(^o^)
赤ヘル軍団の中央は、カッコよかった。
青年像はがすごく良く出来ていますね!作者はおそらく有名な彫刻家かな?
梅雨に入っても晴天の6月の第1土日、白門卒業から34年、スポーツサークルの同期14名(うち3名が美熟女、足を骨折しても参加した豪傑もいてびっくり!)で山梨に1泊2日の温泉旅行に行ってきた。昼は身延山の278?の階段をフーフー言いながら登り、ロープウェイで久遠寺奥の院まで行き、富士山を眺めた。夜はみんなで下部温泉の元湯につかり、豪華な料理をいただき、当時にかえって合宿の時のように浴衣をはだけ、少しおとなしくはなったが宴会をやった。当時にかえって夢のような異時空間を過ごした。2次会でも部屋に集まり、気兼ねすることなく、みんな大きな声で言いたいことを言って、馬鹿話をし夜が更けていった。当時20歳前後の男女が、こんな(どんな?)オジンやオバンになっても気持ちは当時のままだった。学生時代のそれぞれの姿を、お互い分かっているだけに、まるでそれぞれが自分の分身のようにいとおしかった。普段の日常生活の場から離れて、同期のみんなが集まると、何かが合体して、ある意味タイムマシンができ、それに乗って学生時代に帰れたように山の中の夜の温泉宿に異時空間が広がった。同期の仲間は金では買えない貴重な「宝物」だ。
駿河台のキャンパスの方がおしゃれで良さそうね。
元巨人投手でもあり元中央大学野球部監督の高橋善正さんも昔この駿河台キャンパスで勉強したかのかな?。野球部のグラウンドは、当時どこにあった之されますのかな?
一号館の上のほうに行くと ヘルメットをかぶった人だらけで 怖かった
中央、明治によく、行きました、学生のとき、京都から、
今からでも遅くないよ
早く都心回帰しようぜ
こんな映像があるなんて・・・。嗚呼懐かしい。
私も最後のお茶の水校舎での卒業生です。4年時には図書館も無く、試験もいい加減でとにかく卒業して出て行ってくれと云う感じでしたね。
当時も就職難と言われましたが、今の日本の現状よりはマシでした。
地下食堂周りの雑多な同好会の木の机・・・匂いまで思い出しました。
私は、お隣組の日大・理工学部に通っていました。
ちょうど私が入学したときは、既に閉校していて門は閉ざされていましたが、まだ、校舎の解体前だったのか?解体中だったのか?で残っている建物が外から見えました。ですので、実際のキャンパスがどうだったのか?知りませんので、こんな感じだったのかと見させてもらいました。
よく行っていた雀荘のおばちゃんが、「中央大学が無くなって、商売あがったりだ!」と言っていたのを思い出しました。当時は、開店する前から、学生さんが並んでいたと言っていましたww
ぼっとん出してくれ
神田カルチェ・ラタンのときは、とても忙しかった、1968年ごろです、
付属高校に入った時、法学部と理工はクラス上位しか推薦はないよと実際商学部にゆったり行ったけどお茶の水から移転し遠くて辞めました、
ヒマラヤ杉はどうなった?
SSLが、1968年分裂しましたね!
キモチエーww
閉校祭があったなんて知らなかった。ここと多摩を2年間ずつ経験したが、図書館にも入ったことがなかった。南門や正門の記憶は薄れたが、学食隣のサークルたまり場は手に取るように覚えている。300円のステーキはなかなか噛み切れなかったが、あのころ口にできる唯一のステーキだった。
4号館の地下のたまり場ですね。タバコの吸い殻とコーヒーの紙コップ。
@@kuramiyaeko 1号館地下だろう 階段降りて右手に学食 左手に溜まり場
下手なマンドリンの練習させられた 下手すぎて恥ずかしかった
八王子卒業生だが、移転は英断だったのだろうが、先見の明はなかったな。移転しなければ、明治に勝てたかもしれなかったのに,残念
駿河台大学
何故中央は駿河台を捨てたのか訳分からん
中央には魅力あったが、多摩キャンパスには引いた
逆に落ちてよかったわ
明治OB
国の方針に従ったのです。
明治じゃ受からん。