イスラーム史09(ティムール朝とサファヴィー朝)【世界史079】

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  • เผยแพร่เมื่อ 21 ม.ค. 2025

ความคิดเห็น • 11

  • @汐華初流乃-o4s
    @汐華初流乃-o4s 5 หลายเดือนก่อน +5

    もっと評価されるべき

    • @農三世界史
      @農三世界史  5 หลายเดือนก่อน

      ありがとうございます!

  • @jpmirzakhan295
    @jpmirzakhan295 2 หลายเดือนก่อน

    過去4年間テヘランに住んでペルシア語使いの身として、非常に楽しく拝見しました。「カーブル」と正しく発音される方を初めてお見かけしました😅
    اصفهان نصف جهان
    の解説も受験生には不要なトリビアですが、私のような者にはそこまでちゃんと言ってくれるかあ〜😍と感激でした。他のビデオも観せていただきます😊

    • @農三世界史
      @農三世界史  2 หลายเดือนก่อน +1

      @@jpmirzakhan295 ありがとうございます。
      私が学んだのはトルコ語とオスマン語なので、ペルシア語ができる方に見ていただくのは恥ずかしい感じがしますね。
      受験に必要ないトリビアが、生徒にとっては印象に残って覚えるきっかけになったりします。
      実は今年になり、念願のイラン訪問を果たしました。
      素晴らしい旅行で、情勢が安定したらまた行きたいと思っています。

  • @soda-i6i
    @soda-i6i หลายเดือนก่อน

    1402意思を継ぐティムール

    • @農三世界史
      @農三世界史  หลายเดือนก่อน

      覚えやすい語呂合わせですね!

  • @泉川孝之
    @泉川孝之 5 หลายเดือนก่อน

    ここは非常に面白いところですね。ティムールがもう少し長生きしていたら(大酒飲んで死んだのですか。上杉謙信やアッティラ大王のような、、)永楽帝とどうなっていたんでしょうね。武田信玄がもう少し長生きしていたら、というのをスケールを大きく想起させますね。ティムール朝からキプチャクハン国あたりは遊牧民達猛者の集まり。私はティムール朝滅亡のあたりの話は知らない事ばかりでしたが、バーブルも最初はこの地域で奮戦しつつ敗れてインドに行ったのですよね。アッバースⅠ世ってアッバース朝の創始者でしょ!って思ったら全然違うし。
    長篠・設楽原の戦いでは3000丁の鉄砲に対して武田も10%は鉄砲隊と言われるので1000丁程度は持っていた。ただし経済封鎖により鉛玉が決定的にない。結局のところ教科書的な騎馬対鉄砲の図式ではなく物量戦で負けたと思われる。チャルディラーンの戦いでも兵力差が多きかったようですがやはり騎馬対鉄砲だったのですかね。情報は互いにある程度持ってそうな気はしますが。バーブルがインドに入るときもある動画で12000の兵力に対してインド側は10万の兵力で戦象も擁していたが鉄砲隊で打ち破ったと見ました。インドは独立性が強いから情報もあまり持っていなかったのでしょうかね。

    • @農三世界史
      @農三世界史  5 หลายเดือนก่อน

      この動画撮影の時はまだサマルカンドやイスファハーンへ行ったことがなかったので、今ならもう少し話せることがあるんだけどなと思います。
      中央アジアを電車やバスで移動していると、遊牧をしている現地の人をたくさん見かけました。
      現地を見ておくと、本を読んでも頭に浮かぶ情景がよりリアルになってきますね。
      長篠の戦いは私も物量の差による勝利だと思います。
      武田側の戦死した重臣の数が尋常ではないので、三段撃ちが史実ではなかったとしても、両勢力のパワーバランスが大きく変化した重要な戦いだったと素人ながら考えています。

    • @泉川孝之
      @泉川孝之 4 หลายเดือนก่อน

      @@農三世界史 先生、いつも丁寧に返信いただきありがとうございます。サマルカンドやイスファハーン、魅力的なところですね。現在はモンゴルなどでも放牧をする人はかなり減っているそうですね。
      ところで、モンゴル帝国はオゴデイハンの死がなければ果たしてフランス、スペインまで行けたのでしょうか?地理について全然わからないのですがどこまでも草原ではないと思いますので。

    • @農三世界史
      @農三世界史  4 หลายเดือนก่อน

      バトゥのヨーロッパ遠征ですが、オゴデイ(オゴタイ)が死ななければどこまで行っていたのか、難しい問題です。
      ウィーンには迫っていたので、ウィーンは陥落したかもしれません。
      その後、南ドイツに入るのか、そこでどうなったかというのは予想がつかないところです。
      ポーランドなどを中心に徐々にモンゴルの騎兵戦術に対応できるようになっており、西ヨーロッパは人口も増加していてロシア地域のように簡単な征服はできなかったかもしれません。
      また、場所は違いますが、エジプトの征服はできずシリアでもイスラーム勢力に対して劣勢でした。
      これは根拠のない推測ですが、局地戦で勝つことはあっても永続的な支配は難しかったのではないでしょうか。

    • @泉川孝之
      @泉川孝之 4 หลายเดือนก่อน

      @@農三世界史
      なるほど。ポーランドもワールシュタットでやられたとはいえ徐々に対応できるようになっていたのですね。根拠のない推測とおっしゃっていますが説得力があります。