農三世界史
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現代のヨーロッパ【世界史194】
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ความคิดเห็น

  • @おんだあきひこ
    @おんだあきひこ 5 ชั่วโมงที่ผ่านมา

    佐久間象山の考え方は、すごく勉強になりました。 清国の洋務運動と、日本の明治維新の違いにも通じている このあたりもすごく的確な指摘だと思いました。 それは昔から日本ではものづくりが得意だったからでしょうか?

  • @おんだあきひこ
    @おんだあきひこ 2 วันที่ผ่านมา

    南アフリカ戦争が、日英同盟に影響を与えていること 勉強になりました。 いろいろつながっているのですね。

  • @おんだあきひこ
    @おんだあきひこ 2 วันที่ผ่านมา

    ベルギーが、コンゴのような植民地を持つ というのは珍しい感じがしますが何がきっかけだったのでしょう? またビスマルクはあまり植民地政策には熱心ではなかったのでしょうか?

    • @農三世界史
      @農三世界史 วันที่ผ่านมา

      ベルギーは独立して50年くらいの新しい国で、イギリス、フランス、オランダのように植民地を持つ国ではありませんでした。 特に最も関係の深いオランダがインドネシア支配で収益をあげているのを見て、植民地獲得に積極的になったようです。 ビスマルク外交は、フランスの孤立化とヨーロッパの安定が第一ですので、植民地獲得が他の列強との関係悪化を招くことを恐れていました。 特にイギリス、そしてロシアとの関係です。 後の第一次世界大戦に至る国際関係を思い起こすと、ビスマルクの凄さがわかりますね。

    • @おんだあきひこ
      @おんだあきひこ วันที่ผ่านมา

      @@農三世界史 ありがとうございます。 ビスマルクがいないウィルヘルム2世になってから 植民地獲得に動いてイギリスやフランスと対立した という感じでしょうか?

    • @農三世界史
      @農三世界史 วันที่ผ่านมา

      概ねそうですが、フランスとの対立は普仏戦争以来ですのでビスマルク時代からです。 イギリスとロシアとの対立ですね。

    • @おんだあきひこ
      @おんだあきひこ 23 ชั่วโมงที่ผ่านมา

      @@農三世界史 なるほど、ドイツからすれば、フランスと対立しているのに イギリスとロシアまで敵に回した、ということが 第一次大戦や第二次世界大戦に結びつくのですね。 よくわかりました。

  • @ちゃんクー-l3r
    @ちゃんクー-l3r 3 วันที่ผ่านมา

    ヨーロッパ史面白いです。

    • @農三世界史
      @農三世界史 2 วันที่ผ่านมา

      @@ちゃんクー-l3r ありがとうございます。

  • @紅茶-q5f
    @紅茶-q5f 3 วันที่ผ่านมา

    何で昔の日本人は優秀な人が多いのですかね

    • @農三世界史
      @農三世界史 3 วันที่ผ่านมา

      「今と昔でどちらが優秀か?」ということは、私にもわかりません。 ただ、江戸時代の教育水準は藩校や寺子屋のおかげか世界的にもかなり高いようで、それが幕末や明治時代の人材輩出につながったと思われます。

  • @おんだあきひこ
    @おんだあきひこ 3 วันที่ผ่านมา

    マレーシアに、マレー系と中国系とインド系の人種が混在しているのは イギリスの植民地政策の影響だったということが よくわかりました。

  • @おんだあきひこ
    @おんだあきひこ 3 วันที่ผ่านมา

    フィリピンは、長年スペイン領だったわけですが、 南米のようにスペイン語が普及しなかったのは どうしてなのでしょうか?

    • @農三世界史
      @農三世界史 3 วันที่ผ่านมา

      宗教的にカトリックの布教が進んだのはラテン=アメリカと同じですが、確かにスペイン語は19世紀末まで300年以上支配したにもかかわらず、そこまで普及したようには思えません。 私もよくわからなかったので少し調べてみました。 ①スペイン支配が間接的で、スペイン語教育に積極的でなかったこと。 ②フィリピンが島国で、それぞれの現地言語が強く、スペイン語を統一して浸透させることが難しかったこと、などが背景にあるようです。 島々で言語が異なることから、むしろアメリカは植民地支配の統一言語として英語政策を強力に進めました。 これは現在もフィリピン人の多くが英語を話せる背景のひとつになっているようです。

    • @おんだあきひこ
      @おんだあきひこ 3 วันที่ผ่านมา

      @@農三世界史 よくわかりました。ありがとうございます。

  • @おんだあきひこ
    @おんだあきひこ 4 วันที่ผ่านมา

    オランダのインドネシア支配もけっこうひどいものだと思うのですが オランダは、インドネシアに対して 植民地政策の謝罪や賠償はしたのでしょうか?

    • @農三世界史
      @農三世界史 3 วันที่ผ่านมา

      第二次世界大戦後の独立戦争時の虐殺については、2度ほど謝罪しています。 植民地支配については、2023年に奴隷制度について謝罪していますね。 オランダ植民地支配そのものに対する、補償や賠償という具体的なところまでは話が進んでいないようです。

    • @おんだあきひこ
      @おんだあきひこ 3 วันที่ผ่านมา

      @@農三世界史 ありがとうございます。

  • @うにょーーーん
    @うにょーーーん 4 วันที่ผ่านมา

    先生の解説動画のおかげで、理解できなかったヨーロッパ史がだいぶわかるようになってきました、本当にありがとうございます😭😭😭 154回から160回ほどの動画はまだ未収録ということでしょうか?😢

    • @農三世界史
      @農三世界史 4 วันที่ผ่านมา

      ありがとうございます。 あるにはあるんですが、コロナ下で授業をそのまま収録して無編集のものしかありません。 画質や音質も悪いと思います。 再生リストからのみご覧いただけます。

  • @naiyung____u
    @naiyung____u 4 วันที่ผ่านมา

    毎回とてもわかりやすいです!!!ありがとうございます😭

    • @農三世界史
      @農三世界史 4 วันที่ผ่านมา

      ありがとうございます。 気軽にご活用ください。

  • @おんだあきひこ
    @おんだあきひこ 5 วันที่ผ่านมา

    勉強になります。 このあたりを知ると、いかに明治の日本人が苦労したのか 推測することができます。 ベトナムの維新会を助けたいという気持ちもあるが フランスやイギリスなど列強に逆らうことも難しい、というジレンマなど 深く知りたいです。 日本は、日露戦争に勝って増長した、などという主張がありますが 先生はどうお考えですか?

    • @農三世界史
      @農三世界史 5 วันที่ผ่านมา

      難しいですね。 戦争の善悪や植民地化の善悪を抜きにして考えて、当時の時代背景を考慮すると、朝鮮半島進出については自然の流れだったように思います。 ただ日露戦争は双方とも戦争以外の選択肢を模索しながらも、結局戦争状態になってしまったということで、個人的には危険な橋を渡ったと考えています。 緒戦の勝利とロシア国内の事情もあって結果的に勝利という形で終わり、それが植民地とされていたアジアやアフリカの人々を勇気づけたことは事実でしょう。 ただ、日露戦争後の世論が中国などアジアを下に見るようになってしまったのは、後に日本がたどった歴史を振り返ると、外交政策の選択肢を狭めたような気がしますね。

    • @おんだあきひこ
      @おんだあきひこ 5 วันที่ผ่านมา

      @@農三世界史 ありがとうございます。確かに一言で言えるような簡単なテーマではないですね。

  • @おんだあきひこ
    @おんだあきひこ 6 วันที่ผ่านมา

    勉強になります。 イギリスの分割統治はホントに巧妙なものですね。 ヒンドゥ教徒とイスラム教徒の対立、インドとパキスタンの対立など 現代にも尾をひいている問題が、このあたりから始まっているわけですね。  イギリスは、責任を感じているのでしょうか?

    • @農三世界史
      @農三世界史 5 วันที่ผ่านมา

      イギリスは全く感じてないと思いますよ。 パレスチナ問題の方になるのでインドとは離れますが、もし感じていたら、2017年にバルフォア宣言100周年の祝賀会を開催することはないでしょうね。

    • @おんだあきひこ
      @おんだあきひこ 5 วันที่ผ่านมา

      @@農三世界史 なるほど、そうですね。

  • @おんだあきひこ
    @おんだあきひこ 7 วันที่ผ่านมา

    ロスチャイルド家は、ヨーロッパ各地で暗躍していたようですが 特にイギリスの政治に大きな影響を与えているみたいですね。 陰謀論ではなくて、表の歴史だけではなく、背後にある金融資本家たちの思惑が 歴史を大きく動かしている、そういうことも勉強する必要を感じる今日この頃です。

  • @おんだあきひこ
    @おんだあきひこ 7 วันที่ผ่านมา

    スエズ運河の建設に、何万人も強制労働させた、という話ですが フランス国家が主導した、ということでしょうか?

    • @農三世界史
      @農三世界史 6 วันที่ผ่านมา

      フランス国家ではなく、フランスの民間人(レセップスなど)やエジプト総督(事実上のエジプトの支配者)が出資する、スエズ運河会社の主導です。 確かエジプト側で労働力を出すという契約だったような。

    • @おんだあきひこ
      @おんだあきひこ 6 วันที่ผ่านมา

      @@農三世界史 ありがとうございます。

  • @yukudai
    @yukudai 7 วันที่ผ่านมา

    現在早稲田大学に通ってます。去年先生の動画を見ていたおかげで現役で合格でき、実際にこの夏休みで3週間ほど中国にも行きました。 北京では万里の長城や紫禁城など様々な場所に行きましたが、やはり天安門や毛沢東の遺体がある毛主席紀念堂が特に強い印象でしたね。天安門前の最も厳重な警備や多くの人が国旗をもって国歌を歌う様子。騒がしい彼らが紀念堂内では驚くほど静かに礼儀正しかったこと。強く英雄視され崇拝されているんだなと肌で感じました。 受験生ではないですがまた学び直しのためお世話になります!いつもありがとうございます。

    • @農三世界史
      @農三世界史 6 วันที่ผ่านมา

      中国に3週間は凄いですね! かなり中国中を周られたのでしょうか。 本や動画で学ぶことと、自分の目で見て学ぶことは全く違います。 素晴らしい経験をされたことと思います。 私自身もここ10年ほど中国には行っておりませんし、西域に四川などまだ訪れていない地域もたくさんあります。 お話を聞いてまた行きたくなりましたね!

    • @yukudai
      @yukudai 5 วันที่ผ่านมา

      @@農三世界史 大連→北京→雲南省→四川省をそれぞれ数日間周りました。大連以外はツアーで。自分も中国へはほとんど10年ぶりに行きましたが、特に北京は現代的で綺麗な街並みに変わりましたね!中国内でも大まかに北と南で人や街の様相が変わりますし、四川ではチベット民族についても学べました。ぜひ機会があれば行ってみてください!

    • @農三世界史
      @農三世界史 5 วันที่ผ่านมา

      雲南に行く日本人はほとんどいないんじゃないでしょうか。 私もいつ行けるか予想もつきません。 若い頃からいろんな国に行きましたが、最近になって人生の短さに焦りを感じます。 若い時、行ける時にどんどん行った方がいいですよ!

  • @soviet_feeder
    @soviet_feeder 8 วันที่ผ่านมา

    隋唐あたりの中国史からずっと先生の授業を見てきて、ようやくここまで辿り着きました!!先生の授業はいつも本当にわかりやすく、また難関大の受験に必要な細かい知識もちゃんと押さえていて本当に本当に助かります!!!ありがとうございます!

    • @農三世界史
      @農三世界史 8 วันที่ผ่านมา

      ご活用いただきありがとうございます。 大昔に撮ったものも多く、本当は世界史探究に合わせて最新版にしたいのですが、校務と部活でなかなか難しいところです。 抜けたところを少しずつ埋めていきたいと思います。

    • @soviet_feeder
      @soviet_feeder 8 วันที่ผ่านมา

      @@農三世界史 更新楽しみにしてます!頑張ってください!

  • @おんだあきひこ
    @おんだあきひこ 8 วันที่ผ่านมา

    帝国主義といっても、いろいろな考え方があることがわかりました。 特に、白人の責務、というところが印象に残りました。  これらは、キリスト教も影響しているのではないでしょうか? 大航海時代あたりから正しい教えを広めるんだ、みたいな優越感を持った意識が 白人たちにあったように思えますが、、?

    • @農三世界史
      @農三世界史 8 วันที่ผ่านมา

      ヨーロッパ人からすると、「キリスト教が正しい教え」であるということは、なかなか疑いが持てないところなのかもしれませんね。 大航海時代あたりからというのも、感覚してよくわかります。 当時は中国やオスマン帝国の方が国力は上でしょうから、すぐに手出しはできなかったでしょうけど。

    • @おんだあきひこ
      @おんだあきひこ 8 วันที่ผ่านมา

      @@農三世界史 ありがとうございます。

  • @おんだあきひこ
    @おんだあきひこ 9 วันที่ผ่านมา

    1800年代の後半は、第二次産業革命の時代になっているのに 不況になるというのは、何か結びつかない感じです。 好景気になりそうなものなのに 何か理由があるのでしょうか?

    • @農三世界史
      @農三世界史 8 วันที่ผ่านมา

      動画でも言っていますが、「大不況Great Depression」というのは、歴史上の固有名詞として使われてはいますが、実際には低成長の時代と考えてよいと思います。 ご指摘の第2次産業革命との関係でいうと、むしろ生産力が上がりすぎて需要と供給のバランスが崩れたことが背景にあるかもしれません。 当時の主要国は金本位制ですから(なお日本はまだです)、不況になっても貨幣供給量を増やして金融緩和にすることも難しかったのではないでしょうか。 ちなみに「大不況」が始まった1873年は、日本では明治六年にあたります。 あの「明治六年の政変」の年です。 岩倉使節団のメンバー(岩倉具視、大久保利通など)と留守政府(西郷隆盛、板垣退助など)の征韓論をめぐる対立が有名ですが、生糸が売れないなど経済的な影響は日本にもあったはずで、それも政変に影響があるのではないかと個人的には感じています。

    • @おんだあきひこ
      @おんだあきひこ 8 วันที่ผ่านมา

      @@農三世界史 なるほど、低成長という表現が誤解を生む感じです。 むしろ生産力が上がって、供給が増えて、需要不足でデフレ状況にあった ということでしょうか。 それでいて貨幣供給ができない、ということだったのですね。

    • @おんだあきひこ
      @おんだあきひこ 8 วันที่ผ่านมา

      @@農三世界史 明治6年の政変が、世界的な「大不況」と関連がある、という指摘は重要だと思います。 日本史では、ガラパゴス的な国内状況ばかりに話が終始していて 国際状況からの影響を軽視していると感じるからです。

  • @tawasikamenoko
    @tawasikamenoko 9 วันที่ผ่านมา

    大航海時代の元となった香辛料の必要性、羅針盤と帆船の大型化の説明を丁寧にして下さり、有難いです

    • @農三世界史
      @農三世界史 8 วันที่ผ่านมา

      ありがとうございます。 世界史の教科書を少しだけ詳しくした説明をしています。

  • @mesomeso3883
    @mesomeso3883 10 วันที่ผ่านมา

    通信制大学で東南アジア史を学んでいます。世界史大好きですが、やや弱い分野なので基礎のおさらいとして視聴します。

    • @農三世界史
      @農三世界史 10 วันที่ผ่านมา

      ありがとうございます。 どうぞご活用ください。

  • @アホ野郎
    @アホ野郎 10 วันที่ผ่านมา

    マカートニーのパリ条約は1783年だと思います。

    • @農三世界史
      @農三世界史 10 วันที่ผ่านมา

      そのとおりですね。1763年ではさすがに若すぎです。 訂正いたします。

  • @おんだあきひこ
    @おんだあきひこ 10 วันที่ผ่านมา

    康熙帝や乾隆帝が優秀なことはよくわかるのですが 満洲にいた一部族が 中国という大きな国を支配できるような素地が あったのでしょうか? すごく不思議な気がします。

    • @農三世界史
      @農三世界史 10 วันที่ผ่านมา

      大きな質問で難しいですね。 素地というところは私にも答えられないです。 騎馬戦術を持ちながら火器も積極的に取り入れるところや、呉三桂をはじめとする漢民族との協力のように、柔軟性はあったかもしれません。 清は支配構造として、「現地の支配体制をそのまま維持する」という特徴があります。 藩部もそうですし、中国本土では明の制度をほぼ継続させたのも、その一環のように感じます。 それも柔軟性の一例かもしれません。

    • @おんだあきひこ
      @おんだあきひこ 10 วันที่ผ่านมา

      @@農三世界史 わかりました。ありがとうございます。

  • @おんだあきひこ
    @おんだあきひこ 11 วันที่ผ่านมา

    飴と鞭のところは、よくわかりました。 文字の獄については、現代でもありそうな話ですね。

  • @おんだあきひこ
    @おんだあきひこ 11 วันที่ผ่านมา

    この当時の清の産業として どういうものがあったのでしょうか?

    • @農三世界史
      @農三世界史 11 วันที่ผ่านมา

      清代の初期は基本的に明代の継続ですね。 長江下流域を中心に綿織物や絹織物の生産、宋代から続く陶磁器の生産が特に盛んです。 つまりイギリスから綿織物を輸入する必要は全くありませんでした。 文化史のところでも言っていますが、清代はトウモロコシやサツマイモの栽培で人口が爆発的に増えるので、農工具の生産も盛んとなりました。

    • @おんだあきひこ
      @おんだあきひこ 11 วันที่ผ่านมา

      @@農三世界史 なるほど、ありがとうございます。 長江流域では綿織物が盛んだったということですが 長江流域では、綿花の栽培が行われていたわけですね。 アメリカ大陸では、黒人奴隷が使われていたのでしょうが 中国では、やはり下層階級が使われていたのでしょうか?

    • @農三世界史
      @農三世界史 10 วันที่ผ่านมา

      いろいろですね。 生活の苦しい農民が副業的に作ることも多かったようです。 女性が従事することが多かったのも特徴のひとつでしょうか。

    • @おんだあきひこ
      @おんだあきひこ 10 วันที่ผ่านมา

      @@農三世界史 ありがとうございます。

  • @flower3929
    @flower3929 14 วันที่ผ่านมา

    フランス革命でもそうですが優しめの王の時に反乱が起きますね。宗教改革も反乱の一つと見れば。

    • @農三世界史
      @農三世界史 13 วันที่ผ่านมา

      ロシア帝国なんかは、「ゆるくして問題が起きて結局反動的になる」みたいなことをしょっちゅうやっている気がします。

  • @flower3929
    @flower3929 15 วันที่ผ่านมา

    2:56 なるほどーとビルゲイツとかはなるんでしょうね

  • @flower3929
    @flower3929 15 วันที่ผ่านมา

    3:32 牛の兵隊

    • @flower3929
      @flower3929 15 วันที่ผ่านมา

      それは牛兵だろう。

  • @おんだあきひこ
    @おんだあきひこ 18 วันที่ผ่านมา

    普仏戦争の後に、日本の明治新政府の要人たちが ドイツとフランスを見て ドイツの方に親近感を抱いた、と聞きました。 揉めているパリコミューンよりも この時のドイツの方がよく見えたのでしょうね?

    • @農三世界史
      @農三世界史 17 วันที่ผ่านมา

      岩倉使節団のことですね。 フランスは普仏戦争の敗北直後ということ、また共和政(第三共和政)ということもあり、参考にはなりづらいと感じたようです。 文化的にはずいぶん感銘を受けたそうですが。 ドイツは新興国で、君主権が強い立憲君主政ということもあり、明治日本の骨格を作るうえで大きな影響を与えました。 特に大久保利通がビスマルクから受けた影響は大きかったようですね。

    • @おんだあきひこ
      @おんだあきひこ 17 วันที่ผ่านมา

      @@農三世界史 丁寧な説明ありがとうございます。

  • @おんだあきひこ
    @おんだあきひこ 18 วันที่ผ่านมา

    ビスマルクがいなければ、 ドイツの統一はたぶんもっと 遅れたのでしょうね?

    • @農三世界史
      @農三世界史 17 วันที่ผ่านมา

      違った形(プロイセン主導ではない)での統一もあったでしょうか。

  • @おんだあきひこ
    @おんだあきひこ 18 วันที่ผ่านมา

    普仏戦争の後、ベルサイユを使うということは フランス国民の憎悪を煽ることになるのに どうしてビスマルクは わざわざそんなことをしたのでしょう?

    • @農三世界史
      @農三世界史 18 วันที่ผ่านมา

      ビスマルクはあんまり乗り気ではなかったようですよ。 やはりフランスの恨みを残しますからね。 他のドイツ諸侯の方がこだわったというような話を読んだことがあります(出典を忘れました)。 ドイツ帝国が成立した後のドイツの結束を考慮して、内外に強くアピールするために最終的にはヴェルサイユ宮殿になったようです。

    • @おんだあきひこ
      @おんだあきひこ 18 วันที่ผ่านมา

      @@農三世界史 なるほど、わかりました。

  • @君ストーム
    @君ストーム 18 วันที่ผ่านมา

    世界史は中国史や朝鮮史やヨーロッパ史は漫画で予習しやすいですが、東南アジア史はTH-camで予習できますね。

    • @農三世界史
      @農三世界史 18 วันที่ผ่านมา

      ありがとうございます!

  • @おんだあきひこ
    @おんだあきひこ 19 วันที่ผ่านมา

    統一されたイタリア王国は 立憲君主制と考えていいのでしょうか?

    • @農三世界史
      @農三世界史 19 วันที่ผ่านมา

      立憲君主政です。 イタリア王国では、サルデーニャ王国の憲法(アルベルト憲章)がそのまま使用されています。 議会は上院と下院の二院制ですが、カヴールが普通選挙を嫌っていたので、厳しめの制限選挙ですね(有権者は人口の2%程度)。 なお「行政権は国王に属す」とか「立法権は国王と両院が共同し」など、憲法上は国王の権限がかなり強いのに、意外に議会政治が展開されるのが不思議なところです。 なお、イタリア王国では1910年代に選挙法の改正がなされて民衆の政治参加が進むのですが、そのことがムッソリーニのファシズム政権の成立(1922年)につながっているように思えるんですよね。 これも興味深いところです。

    • @おんだあきひこ
      @おんだあきひこ 18 วันที่ผ่านมา

      @@農三世界史 ありがとうございます。 僕たちはこの時代からの展開をある程度知っていますが、なぜあんな悲惨な大戦争になるのか どうもよくわかっていない気がしています。 これからの講義を興味深く見ていきたいです。

    • @おんだあきひこ
      @おんだあきひこ 18 วันที่ผ่านมา

      ナチスも民主主義が生んだ、と言われるように、イタリアのファシズムも、民主主義が生んだ という感じでしょうか?

    • @農三世界史
      @農三世界史 18 วันที่ผ่านมา

      影響はあると思うんですが、個人的な印象にとどまっております。 イタリアでファシズムが起こる背景には、第一次世界大戦後のイタリアの状況も大きく関わっていますので。

  • @おんだあきひこ
    @おんだあきひこ 19 วันที่ผ่านมา

    サルディーニャなど各地にいるイタリア人たちは 自分たちがイタリア人であるという認識は ずっと昔からあったのでしょうか? またローマ教皇も、自分はイタリア人だというのを 認識していたのでしょうか? ローマ人ではないですよね?

    • @農三世界史
      @農三世界史 19 วันที่ผ่านมา

      難しい質問ですが、たぶんなかったと思います。 統一言語があったわけでもないですし。 江戸時代の各藩の意識と似たようなものかもしれません。 一般的にはナポレオンのイタリア遠征以降にナショナリズムが入ってきて、イタリア人意識が一気に高まる印象です。 同様にローマ教皇にもイタリア人意識はなかったと思います。 ただ、ヴァチカンの立地、教皇庁がイタリア各地のコムーネと密接な関係があったこと(イタリアの枢機卿が力を持っていた)、長い間カトリック文化の中心であったことなどから、イタリアの司教が選ばれる傾向が強かったのではないでしょうか。

    • @おんだあきひこ
      @おんだあきひこ 19 วันที่ผ่านมา

      @@農三世界史 すみません、統一言語は、イタリア語ではないのでしょうか?

    • @農三世界史
      @農三世界史 18 วันที่ผ่านมา

      中世や近世の時代は、「イタリア語」は存在せず、各地域の地方言語しかありませんでした。 フィレンツェ中心のトスカナ語をもとにした、「イタリア語」が標準語になるのは統一以降です。 また、イタリアで標準語の存在が人々に意識され始めるのは、1950年代以降と言われていますので、かなり遅いですね。 現在も地域ごとにかなりの方言が存在するようです。

    • @おんだあきひこ
      @おんだあきひこ 18 วันที่ผ่านมา

      @@農三世界史 わかりました。ありがとうございます。

  • @おんだあきひこ
    @おんだあきひこ 20 วันที่ผ่านมา

    この時代の絵画といえば 印象派だと思うのですが クールベが取り上げられるとは 意外でした。

    • @農三世界史
      @農三世界史 19 วันที่ผ่านมา

      完全に個人的な趣味です笑 印象派も素晴らしいと思います。 オルセー美術館、また行きたいですね。

    • @おんだあきひこ
      @おんだあきひこ 19 วันที่ผ่านมา

      @@農三世界史 クールベの「世界の起源」というのを 検索して見ました。 印象派が当時の既成概念を崩した、と思っていましたが クールベも相当チャレンジャーだったのですね。

  • @おんだあきひこ
    @おんだあきひこ 20 วันที่ผ่านมา

    人々がナポレオン3世に期待したのは 安定した生活ではなくて 対外侵略つまり戦争だった、という点に この時代の雰囲気が現れていると思いました。 やはり帝国主義の時代の雰囲気なのでしょうか?

    • @農三世界史
      @農三世界史 19 วันที่ผ่านมา

      「帝国主義」というと、フランスではむしろ第三共和政期(1870年代以降)がそれにあたるので、用語的には合わないかもしれません。 ナポレオン3世の説明として、高校世界史ではボナパルティズムという言葉がよく使われます。 ブルジョワ、労働者、農民など諸階級の均衡のもとで、叔父の威光を背景にした権威主義的な政治体制を実現したという理解です。 その権威を維持するために、軍事的な成功が求められたという説明ですね。

    • @おんだあきひこ
      @おんだあきひこ 19 วันที่ผ่านมา

      @@農三世界史 なるほど、わかりました。

  • @おんだあきひこ
    @おんだあきひこ 20 วันที่ผ่านมา

    国立作業場の話は 面白かったです。 理念は悪くないのでしょうが やはり社会主義的な政策は なかなか上手くいきませんね。

  • @おんだあきひこ
    @おんだあきひこ 21 วันที่ผ่านมา

    復古王政の時に、革命が起こったのに 7月王政って、どうして再び王政になるのか そのあたり不思議ですね。

    • @農三世界史
      @農三世界史 20 วันที่ผ่านมา

      七月革命にはラ=ファイエットが関わっています。 彼はフランス革命期には立憲君主派でしたし、共和政にすることで革命が再び暴走するのを嫌ったのかもしれません。 そうして成立した七月王政はブルジョワが力を持った政権ですので、革命の一翼を担った一般民衆が考えていたものとはかなり異なったと思います。 そのあたりはドーミエの風刺画「七月の英雄」が象徴していると思いますね。

    • @おんだあきひこ
      @おんだあきひこ 20 วันที่ผ่านมา

      @@農三世界史 ありがとうございます。勉強します。

  • @flower3929
    @flower3929 21 วันที่ผ่านมา

    25:19 ガリレオが望遠鏡で太陽を見て最初に失明した人間だったんですね。

    • @農三世界史
      @農三世界史 21 วันที่ผ่านมา

      失明したのは70代なので、ちょっと伝説的なところもありますけどね。

  • @おんだあきひこ
    @おんだあきひこ 22 วันที่ผ่านมา

    ウィーン会議後の復古王政の時代には 王政というぐらいだから 王の独裁と考えていいのでしょうか? それで再び革命が起こった、ということでしょうか?

    • @農三世界史
      @農三世界史 22 วันที่ผ่านมา

      復古王政はどちらかといえば立憲君主政です。 また、所有権などフランス革命やナポレオン時代の成果も維持されています。 ではなぜ「どちらかといえば」と言ったかというと、復古王政期の憲法は欽定憲法であり、選挙も極端な制限選挙だったからです。 議会の権限もかなり制限されています。 つまり立憲君主政と言いながら、政治体制はかなり保守的だったんですね。 特にルイ18世よりも弟のシャルル10世の方がもっと反動的で、それが1830年の七月革命へとつながりました。 授業では『レ=ミゼラブル』の銀の燭台のシーンを見せていますが、復古王政期を理解するのに使いやすい教材です。

    • @おんだあきひこ
      @おんだあきひこ 22 วันที่ผ่านมา

      @@農三世界史 フランス革命期の憲法は、民定憲法だったが、議会が暴走したので あの悲惨な状況になった、その反省から 欽定憲法にして、議会の権限を制約した と考えていいのでしょうか?

    • @おんだあきひこ
      @おんだあきひこ 22 วันที่ผ่านมา

      @@農三世界史 レミゼラブルの銀の燭台のシーンは、見ましたが 復古王政の理解にどうつながっているのでしょうか? ちょっと難しいです。 しつこい質問ですみません。

    • @農三世界史
      @農三世界史 21 วันที่ผ่านมา

      復古王政は王党派が中心となって成立した政権なので、反省というよりはそもそもの主張どおりなのかなと思います。 あとはウィーン体制下で自由主義やナショナリズムを抑えようとするヨーロッパ全体の風潮もあったのではないでしょうか。

    • @農三世界史
      @農三世界史 21 วันที่ผ่านมา

      燭台のシーンそのものというより、授業内でそれに触れた時の解説ですね。 ジャン=ヴァルジャンが銀のスプーンを盗んだのを司祭がかばったわけですが、通常の窃盗と教会からの窃盗では罪が異なるというところです。 復古王政期は聖職者が優遇されていたという説明で、よく使っています。

  • @anmitu9613
    @anmitu9613 23 วันที่ผ่านมา

    わかり易すぎます🥹

    • @農三世界史
      @農三世界史 23 วันที่ผ่านมา

      @@anmitu9613 ありがとうございます!

  • @ばっは-n8r
    @ばっは-n8r 23 วันที่ผ่านมา

    佐野先生のこの動画を見てから、ヒストリエを一気読みしてしまいました…。 めちゃくちゃ面白い…!なんで読んでこなかったのかと思いました。ありがとうございます😂

    • @農三世界史
      @農三世界史 23 วันที่ผ่านมา

      歴史マンガはおもしろいものがたくさんありますが、『ヒストリエ』が個人的にNo.1ですね。 ただその最終回を我々が読むことはおそらく難しいであろうことが、まことに残念です。

  • @おんだあきひこ
    @おんだあきひこ 23 วันที่ผ่านมา

    ラテンアメリカの独立ですが やはりスペインとポルトガルの力が衰え アメリカ合衆国とイギリスの力が増強していく という歴史の流れがある感じですね。 大国の思惑についても勉強になります。

  • @おんだあきひこ
    @おんだあきひこ 23 วันที่ผ่านมา

    カトリックにおいては、 金儲けは悪だ、という考えが強かったと思うのですが どうしてメディチ家のような存在が フィレンツェで強大になれたのでしょうか?

    • @農三世界史
      @農三世界史 23 วันที่ผ่านมา

      人間誰しも欲がありますから、聖書に書いてあるから金儲けをしない、という単純なことにはなかなかならなかったのかもしれません。 十字軍後で教会の権威が低下している時期ということもあるでしょうが、単純には説明できないところです。 ただ、メディチ家のような存在が北イタリアで誕生した背景は、世界史の教科書でもある程度説明ができます。 北イタリアは十字軍後にイスラーム世界などとの東方貿易で大いに栄えますので、まず経済的に潤っています。 「商業の復活」と教科書には書かれていますが、再び貨幣経済が浸透していきます。 ところがご存じのとおり中世イタリアには統一国家がなく、各地のコムーネ(ヴェネツィア、ジェノヴァ、ミラノ、フィレンツェなどを拠点とする領域的な都市国家)が独自の貨幣を発行していくんです。 そうすると、交易を行うためにどうしても両替商が必要となりますよね。 その両替商が、為替業務以外にも税の徴収業務や貸付を行うようになり成長していきます。 フィレンツェのメディチ家はその代表例ということです。

    • @おんだあきひこ
      @おんだあきひこ 23 วันที่ผ่านมา

      @@農三世界史 なるほど、よくわかりました。非常に興味深いですね。

  • @おんだあきひこ
    @おんだあきひこ 24 วันที่ผ่านมา

    オーストリアとドイツの関係も複雑ですね。 これが第一次大戦や第二次世界大戦にも 関係していくのでしょうね。

  • @おんだあきひこ
    @おんだあきひこ 24 วันที่ผ่านมา

    いまさらなのですが オーストリアは、ドイツ人の国なのに どうしてオーストリアと言うのでしょう?

    • @農三世界史
      @農三世界史 23 วันที่ผ่านมา

      現在のドイツ地域にあった神聖ローマ帝国は、多数のドイツ人の領邦(王、公、伯、司教などが支配する領土)や自由市(リューベックやブレーメンが有名)などによって形成されていました。 元々オーストリアはその領邦のひとつで、他にはブランデンブルク、ザクセン、バイエルンなどもそうです。 分裂したドイツ地域の国家は、ナショナリズムの時代に統一ドイツ(ドイツ帝国1871~1918)を建設するわけですが、域内に多数の異民族(マジャール人、チェック人、ポーランド人、クロアティア人など)を抱えた多民族国家となっていたオーストリアは、いろいろあってドイツ統一には加われませんでした。 ですので、「オーストリアは統一ドイツに含まれなかったため、旧来の名称を維持し続けた」というお答えでしょうか。

    • @おんだあきひこ
      @おんだあきひこ 23 วันที่ผ่านมา

      @@農三世界史 よくわかりました。丁寧な説明ありがとうございます。

  • @稲葉-q9m
    @稲葉-q9m 24 วันที่ผ่านมา

    高校時代、受験科目の都合で世界史を選択しなかったので、大人になってから趣味で学習しているものです。 大変わかりやすく、いつも楽しく見させていただいています。 現役で教師をされている方の授業を、気軽に見られるのでとても嬉しいです。これからも頑張ってください。

    • @農三世界史
      @農三世界史 24 วันที่ผ่านมา

      いつも見ていただきありがとうございます。 普段、生徒の前でやっている受験向けの授業をそのまま動画にしています。 忙しくてなかなか定期的なアップは難しいのですが、今後ともよろしくお願いします。

  • @jk4016
    @jk4016 25 วันที่ผ่านมา

    7月にクアラルンプールへ行ってきました。まさに動画の辺り、現地ガイドの方より先生のご解説の方が分かりやすいです😃錫のことは熱心に説明していました、後でお土産店で買わせるためにでしょうかね🤔

    • @農三世界史
      @農三世界史 24 วันที่ผ่านมา

      ありがとうございます。 錫はマレーシアという国の形成にも関係がある重要な産物ですからね。 私も何だかんだでお土産に買ってしまいました笑

  • @バロン-h8h
    @バロン-h8h 25 วันที่ผ่านมา

    中国が、英米と結んで日本に反抗せず、 日中でアジアの発展を目指せば、 アジアはもっと良くなっていたと思います。 蒋介石の浅はかさが、残念だと思いました。

  • @jk4016
    @jk4016 25 วันที่ผ่านมา

    「ドイツの移民で一番多いのがトルコ人」との説明で、無くしかけていたドイツ旅行への興味が盛りかえしてきました。カールとスレイマン一世との戦いもありますが、オスマン帝国外伝のヒュッレム役俳優がトルコ人とドイツ人のハーフだからです❗歴史とは全く関係のないことですが…。ご自身のご旅行エピソードがどこの国でもホント楽しいです‼️

    • @農三世界史
      @農三世界史 24 วันที่ผ่านมา

      行きたいと思ったら、思いきって行かれてみてください。 ドイツをしっかり旅行したのは20年前に一度だけですが、公共交通機関が整っていて旅行しやすかった印象です。 私も南部や旧東ドイツの方には行けなかったので、また行きたいと考えています。 生徒は教科書の内容よりも何気ない旅行の話ばかり覚えているんですよね…

  • @おんだあきひこ
    @おんだあきひこ 25 วันที่ผ่านมา

    スイス語はないのに どうしてスイスという統一国家が成立できるのか すごく不思議な感じです。

    • @農三世界史
      @農三世界史 25 วันที่ผ่านมา

      これはおもしろいテーマですよね。 私も詳しくはありませんが、山岳地帯であること、フランス、ドイツ、イタリアの緩衝地帯となったことなどが背景にあるかもしれません(言語もフランス語、ドイツ語、イタリア語ですね)。 彼らの民族意識がどうなっているのか、気になるところです。

    • @おんだあきひこ
      @おんだあきひこ 25 วันที่ผ่านมา

      @@農三世界史 ありがとうございます。 また時間があれば、扱っていただきたいテーマです。