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今回の動画も大変示唆に富むもので素晴らしかったので、感想を述べさせて頂きます。そもそも、人の認知は客観的事実から離れて真実を覆い隠す妄想をベースに成り立っているものだから、妄想を生み出すあらゆるバイアス(先入観・偏見・思い込み)を取り除いて、事実をあるがままに観察することこそが、仏教瞑想の要諦ではないかと思います。この点、こちらの経典では、そのように真実を知るために障害となるバイアスについて、(当時の宗教的な社会の実情に合わせて)特に問題となるものが取り上げられていて、興味深いものでした。ただ、このうち、演繹法と帰納法もバイアスの例として取り上げられており、特に、「帰納法」が真理を確認する根拠にはならない「バイアス」の一例とされていたのは、ちょっと意外でした。この点、経典の解説の中で、その帰納法として挙げられた例である「作られたものには作者がいるものなので、森羅万象という被造物にもその作者である神がいるはずだ」を見れば、作者である人間が造った人工的な物品と、人工的に作られたものではない「自然」を同一視することには論理の飛躍があると思われましたので、これは確かにバイアスの一例だと納得できました。しかし、私はこれまで、テーラワーダ仏教は、真理を知るための方法として「帰納法的な手法」を重視しているのではないかと考えていました。例えば、瞑想実践においては、自ら具体的な身・受・心・法を何度も観察して体験し、そこから自分で経験則的に事物の無常・苦・無我の真理を発見していくもので、これは、具体的な事実・データを自らの経験として積み上げていき、そのようにして集積されたデータから抽出される共通項として真理法則を見出す、という帰納法的発想によるものではないでしょうか。また、戒律については、例えば、「不飲酒戒」については、お釈迦様が何の前例もなく(演繹法的に)戒律として定めたのではなく、サンガの一員が町で飲酒して問題を起こしたという具体的な事件を契機とし、その経験を踏まえて(帰納法的に)戒律に定められたと聞いたことがあります。これは、欧米系の先例法の考え方と同様の発想だと思うのです。すなわち、先例法は、具体的な紛争が起こるたびに、その具体的な利害の状況を吟味・確認した上で、その紛争の実情に則した適切で妥当な解決を判断することが合理的であり、そのような具体的な先例を集積して、あらたに生じた紛争を類似の先例に当てはめて解決していく手法です。これは、初めから正しい法(大前提)をアプリオリに決めて、それに具体的事例(小前提)を当てはめて結論を出すという演繹法によるものではなく、先に帰納法的に個々の先例を集積して、そこからあるべき抽象的な規範(大前提)を導き出しておいて、その後に新たな事案が出てきたときに、先例によって蓄積された規範に当てはめて結論を出すというやり方です。私は、英米の先例法は、実はお釈迦様の戒律の定め方をパクったのではないか、と妄想しているくらいです(笑)。ただし、お釈迦様が比丘尼サンガを承認される際には、あらかじめ(演繹法的に)戒律を定められた、というように聞いた覚えがありますが。まあ、演繹法、帰納法というのは、お釈迦様の教えそのものではないのでしょうし、わざわざ「仏法という真理の法」について後世の完全とは言えない?論法で説明する必要はないですし、帰納法的な発想法も演繹法的なものも、お釈迦様の智慧があれば適切に使い分けられることでしょうし(今回の法話からすれば、これもバイアスでしたね。未だ凡夫の私にとっては仕方ないです(笑)ね)。また、五戒と貪瞋痴の煩悩の関係も新たな発見でした。これまでは、殺生は瞋恚によるもの、盗みは貪欲によるもの、邪淫も貪欲によるもの、というように理解していましたが、カーラーマ経の教えから、殺生も盗みも邪淫もその他も、貪瞋痴の三つのいずれにも起因していると理解するべきだったとわかりました。考えてみれば、殺し屋はお金を得る欲で殺生を犯すのでしょうし、盗みや邪淫も、怨み・怒りから誰かに嫌がらせをするために犯すこともあるのでしょう。しかもいずれも、そんなことをすると他人にも自分にも害が及ぶとの智慧が欠けていること(痴・無知)が前提になっているのでしょう。以上、長文にて失礼いたしました。 Sadu × 3!!!
コメントありがとうございます。確かに、僕も仏教のアプローチは帰納法に近いなと思います。ただ帰納法は〝一般的にいって帰納は、あくまでも確率・確度といった蓋然性の導出に留まる。〟とのことなので、釈尊は蓋然性を真理と錯覚することの危険を仰ったのかなぁと推察しています。ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B0%E7%B4%8D
@@naagitaさま ご返事ありがとうございます。なるほど、いくら多くの具体的データを集めてそこから特定の規則性が抽出されて、それが他の多くの事例にも当てはまるとの実績が確認されることで、その高い蓋然性が認められたとしても、その規則性があらゆる事例に確実に100%該当するとまでは言えないですね。そして、100%でなければ「真理」ではないと!これが俗世間の事柄であれば、「高い蓋然性」だけで十分な通用性を認めても差し支えないでしょうが、事は出世間の「真理を覚る」世界の問題ですから、そう簡単にはいかないのでしょう。思うにこれは仏教瞑想で発現する「智慧」の問題であって、ある程度のデータ量がそろえば、あとはその集積データが示す規則性と真理との間に残されたギャップを(超越的な)直観智・聖道智が埋めることによって「真理を知悉する」ことができる、ということなのでしょうか?? 今生の瞑想修行でどの程度の量のデータを蓄積すれば覚りへの「臨界点」に達するか否かは、前世までに積み立ててきた功徳・ハラミツの大きさ次第である、ということでしょうか??~所詮は凡夫の浅知恵ですが、興味は尽きないところです。
波羅蜜という概念を用いると積立というか足し算の発想になりますけど、仏道修行はいかに素直になって固定観念を捨てられるかが肝要なので、ベクトルが正反対じゃないかな、という感じもします。あれこれ考えちゃうと混乱が深まるところですね。
@@naagitaさま 小生のコメントに再度丁寧な返信をしてくださり、誠にありがとうございます。 最近、スマナサーラ長老や佐藤様の動画がたくさん挙げられているのに気が付き、あれこれと「つまみ視」して大変刺激を受けたものですから、長々とコメントしてしまい、申し訳ございません。 確かに佐藤様のご指摘のとおりでして、仏道においては、俗世間でもてはやされている「引き寄せ」などの「足し算」で幸せを目指す(「足し算」は「欲を満たそう」とするニュアンスがある)のとは反対に、持っているものを「与える」「手放す」「捨てる」などの「引き算」により幸せになっていこうとすることに主眼を置いているのは素晴らしいと思います。世間と出世間ではまさにベクトルが正反対ですね。 例えば、サンガにお布施をして「与え」て「手放す」、戒を守って悪行を減らす・無くす、瞑想で(自我)妄想を無くす、五蓋をとり除く、四禅のレベルを上げるために禅支を減らしていく、煩悩を減らす・無くす、執着を手放す、十二因縁の順観(輪廻の道)と滅観(涅槃への道)はベクトルが逆で、無明・渇愛を滅尽して涅槃に至れば、五蘊(ナーマ・ルーパ)・輪廻も滅尽する、等々。 ただ、私は波羅蜜を功徳とほぼ同様の意味で理解していて、「善行による功徳・波羅蜜」は来世以降に善い(楽なる)果報をもたらすものとして、いわば来世に持って行けるものなので、このような功徳を積んで増やしていくべきものだと思っていました。この点、阿羅漢になった後であれば、たとえ善い行為をしても異熟果を受ける来世がないので果報は無いということで、その点では善行の積み立ては無意味だと思うのですが。 波羅蜜を積み立てて「足し算」で増やして行こうとすると、仏道修行にとって何か良くない「落とし穴」が待ち受けている、というような深い意味があるのでしょうか? あるいは、私がコメントで「興味が尽きない」などと長々と書いてしまったので、仏道は考え過ぎても妄想が増えるばかりなので慎むべきでは、と心配して下さったのでしょうか。Sadu × 3!!!
今回の動画も大変示唆に富むもので素晴らしかったので、感想を述べさせて頂きます。
そもそも、人の認知は客観的事実から離れて真実を覆い隠す妄想をベースに成り立っているものだから、妄想を生み出すあらゆるバイアス(先入観・偏見・思い込み)を取り除いて、事実をあるがままに観察することこそが、仏教瞑想の要諦ではないかと思います。この点、こちらの経典では、そのように真実を知るために障害となるバイアスについて、(当時の宗教的な社会の実情に合わせて)特に問題となるものが取り上げられていて、興味深いものでした。
ただ、このうち、演繹法と帰納法もバイアスの例として取り上げられており、特に、「帰納法」が真理を確認する根拠にはならない「バイアス」の一例とされていたのは、ちょっと意外でした。
この点、経典の解説の中で、その帰納法として挙げられた例である「作られたものには作者がいるものなので、森羅万象という被造物にもその作者である神がいるはずだ」を見れば、作者である人間が造った人工的な物品と、人工的に作られたものではない「自然」を同一視することには論理の飛躍があると思われましたので、これは確かにバイアスの一例だと納得できました。
しかし、私はこれまで、テーラワーダ仏教は、真理を知るための方法として「帰納法的な手法」を重視しているのではないかと考えていました。
例えば、瞑想実践においては、自ら具体的な身・受・心・法を何度も観察して体験し、そこから自分で経験則的に事物の無常・苦・無我の真理を発見していくもので、これは、具体的な事実・データを自らの経験として積み上げていき、そのようにして集積されたデータから抽出される共通項として真理法則を見出す、という帰納法的発想によるものではないでしょうか。
また、戒律については、例えば、「不飲酒戒」については、お釈迦様が何の前例もなく(演繹法的に)戒律として定めたのではなく、サンガの一員が町で飲酒して問題を起こしたという具体的な事件を契機とし、その経験を踏まえて(帰納法的に)戒律に定められたと聞いたことがあります。
これは、欧米系の先例法の考え方と同様の発想だと思うのです。すなわち、先例法は、具体的な紛争が起こるたびに、その具体的な利害の状況を吟味・確認した上で、その紛争の実情に則した適切で妥当な解決を判断することが合理的であり、そのような具体的な先例を集積して、あらたに生じた紛争を類似の先例に当てはめて解決していく手法です。
これは、初めから正しい法(大前提)をアプリオリに決めて、それに具体的事例(小前提)を当てはめて結論を出すという演繹法によるものではなく、先に帰納法的に個々の先例を集積して、そこからあるべき抽象的な規範(大前提)を導き出しておいて、その後に新たな事案が出てきたときに、先例によって蓄積された規範に当てはめて結論を出すというやり方です。
私は、英米の先例法は、実はお釈迦様の戒律の定め方をパクったのではないか、と妄想しているくらいです(笑)。
ただし、お釈迦様が比丘尼サンガを承認される際には、あらかじめ(演繹法的に)戒律を定められた、というように聞いた覚えがありますが。
まあ、演繹法、帰納法というのは、お釈迦様の教えそのものではないのでしょうし、わざわざ「仏法という真理の法」について後世の完全とは言えない?論法で説明する必要はないですし、帰納法的な発想法も演繹法的なものも、お釈迦様の智慧があれば適切に使い分けられることでしょうし(今回の法話からすれば、これもバイアスでしたね。未だ凡夫の私にとっては仕方ないです(笑)ね)。
また、五戒と貪瞋痴の煩悩の関係も新たな発見でした。これまでは、殺生は瞋恚によるもの、盗みは貪欲によるもの、邪淫も貪欲によるもの、というように理解していましたが、カーラーマ経の教えから、殺生も盗みも邪淫もその他も、貪瞋痴の三つのいずれにも起因していると理解するべきだったとわかりました。考えてみれば、殺し屋はお金を得る欲で殺生を犯すのでしょうし、盗みや邪淫も、怨み・怒りから誰かに嫌がらせをするために犯すこともあるのでしょう。しかもいずれも、そんなことをすると他人にも自分にも害が及ぶとの智慧が欠けていること(痴・無知)が前提になっているのでしょう。
以上、長文にて失礼いたしました。 Sadu × 3!!!
コメントありがとうございます。確かに、僕も仏教のアプローチは帰納法に近いなと思います。ただ帰納法は〝一般的にいって帰納は、あくまでも確率・確度といった蓋然性の導出に留まる。〟とのことなので、釈尊は蓋然性を真理と錯覚することの危険を仰ったのかなぁと推察しています。
ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B0%E7%B4%8D
@@naagitaさま ご返事ありがとうございます。
なるほど、いくら多くの具体的データを集めてそこから特定の規則性が抽出されて、それが他の多くの事例にも当てはまるとの実績が確認されることで、その高い蓋然性が認められたとしても、その規則性があらゆる事例に確実に100%該当するとまでは言えないですね。そして、100%でなければ「真理」ではないと!
これが俗世間の事柄であれば、「高い蓋然性」だけで十分な通用性を認めても差し支えないでしょうが、事は出世間の「真理を覚る」世界の問題ですから、そう簡単にはいかないのでしょう。
思うにこれは仏教瞑想で発現する「智慧」の問題であって、ある程度のデータ量がそろえば、あとはその集積データが示す規則性と真理との間に残されたギャップを(超越的な)直観智・聖道智が埋めることによって「真理を知悉する」ことができる、ということなのでしょうか?? 今生の瞑想修行でどの程度の量のデータを蓄積すれば覚りへの「臨界点」に達するか否かは、前世までに積み立ててきた功徳・ハラミツの大きさ次第である、ということでしょうか??~所詮は凡夫の浅知恵ですが、興味は尽きないところです。
波羅蜜という概念を用いると積立というか足し算の発想になりますけど、仏道修行はいかに素直になって固定観念を捨てられるかが肝要なので、ベクトルが正反対じゃないかな、という感じもします。あれこれ考えちゃうと混乱が深まるところですね。
@@naagitaさま 小生のコメントに再度丁寧な返信をしてくださり、誠にありがとうございます。
最近、スマナサーラ長老や佐藤様の動画がたくさん挙げられているのに気が付き、あれこれと「つまみ視」して大変刺激を受けたものですから、長々とコメントしてしまい、申し訳ございません。
確かに佐藤様のご指摘のとおりでして、仏道においては、俗世間でもてはやされている「引き寄せ」などの「足し算」で幸せを目指す(「足し算」は「欲を満たそう」とするニュアンスがある)のとは反対に、持っているものを「与える」「手放す」「捨てる」などの「引き算」により幸せになっていこうとすることに主眼を置いているのは素晴らしいと思います。世間と出世間ではまさにベクトルが正反対ですね。
例えば、サンガにお布施をして「与え」て「手放す」、戒を守って悪行を減らす・無くす、瞑想で(自我)妄想を無くす、五蓋をとり除く、四禅のレベルを上げるために禅支を減らしていく、煩悩を減らす・無くす、執着を手放す、十二因縁の順観(輪廻の道)と滅観(涅槃への道)はベクトルが逆で、無明・渇愛を滅尽して涅槃に至れば、五蘊(ナーマ・ルーパ)・輪廻も滅尽する、等々。
ただ、私は波羅蜜を功徳とほぼ同様の意味で理解していて、「善行による功徳・波羅蜜」は来世以降に善い(楽なる)果報をもたらすものとして、いわば来世に持って行けるものなので、このような功徳を積んで増やしていくべきものだと思っていました。
この点、阿羅漢になった後であれば、たとえ善い行為をしても異熟果を受ける来世がないので果報は無いということで、その点では善行の積み立ては無意味だと思うのですが。
波羅蜜を積み立てて「足し算」で増やして行こうとすると、仏道修行にとって何か良くない「落とし穴」が待ち受けている、というような深い意味があるのでしょうか? あるいは、私がコメントで「興味が尽きない」などと長々と書いてしまったので、仏道は考え過ぎても妄想が増えるばかりなので慎むべきでは、と心配して下さったのでしょうか。Sadu × 3!!!