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今回も面白かったです。合戦って話題にはなるけど、実はリアルな第一次資料がいずれも少なく、本編動画でもあったような「生き残りをかけた言い訳のため後から作ったもの」や「家名を上げるための武勇伝」でフィクションだったりと真相を推論するのが大変なんですよね。だから関ヶ原合戦について様々な説が出てきても否定できず、一応は考慮に値するんですよね。
ほとんど爺ちゃんからもらった権力である三代目御曹司の輝元と、今川・織田・足利・武田・豊臣からパワハラ・Warハラ・政治ハラ考え得る限りすべてのハラスメントを網羅して受け続けてきた磨かれすぎた玉である家康では役者が違うよな…
このチャンネルが歴史系の中で一番面白いです🥰
ありがとうございます!そう言っていただけると大変励みになります😆😆
積極的に中央情勢に関与しようとする輝元とそれに疑問を持ち中立でいたい上級家臣。これは毛利だけじゃなく他の大名も同じでこういう動きを理解して調略した家康が上手過ぎた。
毛利宇喜多(お家騒動)上杉(周辺と利権問題)と西軍勢の方が大分領内が慌ただしくて治まらないのを見ていると、家康というか徳川家臣団の統治能力高すぎて震える。西軍勢って一致団結のために領国の敵を作りたくて家康に歯向かった面もある気がする。敵を作るのが楽
当時、家康に軍事・経済力でぼぼ互角だったのは毛利家しか居なかった。関ヶ原の戦いで徳川7〜8万に次いで毛利5〜6万を動員している。仮に輝元が家康に恭順していてもどの道上杉や前田と同様に難癖付けられていただろうな。
この状況見ると、もし毛利が徳川に従ったとしても難癖つけられて、味方のない状況での毛利討伐や、減封やら改易しか待ってなかったかもね。東軍、西軍で大混乱させて、首謀者は三成ということで、徳川方の敵意を散らせ、自分は逃げ腰のおかげで結果的には生き残ったんだから、案外悪くない策だったのかも。
そうかもしれませんね。家康は崇源院(お江)への訓戒状の中で秀吉の論功行賞や所領配分について「分に過ぎた」振舞いとしてどんぶり勘定だと批評してます。家康の構想する天下公儀とっては100万石を超える大名が複数いるのは天下騒乱の元であり、それゆえ天下静謐のために毛利・上杉の減封は必須だったと思います。
投稿お疲れ様です。毛利輝元様も難しい判断を迫られたんですね。前田利長や上杉景勝の様な対応は取れない状況で彼が選んだ選択が毛利氏の未来を決めるのですから面白いです。敗北したから輝元様は酷評されますが毛利家中の人々がわざと汚名を被せた部分も強いですからね。通説では吉川広家は自身に与えられる防長二か国を毛利氏に譲ったみたいな美談を語られますがこれも結果でしかなく江戸時代に岩国領は格下だと萩藩から見下されていた状況を変える為に嘘と本当を織り交ぜた陰徳太平記なる書物で吉川家の家臣が広家公の事績を盛りまくったとか毛利氏は西日本の諸侯に対して色々指令を出していたと思うので関ヶ原以外の状況がどうなっていたかが楽しみです。
関ヶ原減封の引換に最終的に自子のほぼ全面相続を呑ませた輝元は凄いと思ってて。吉川広家と毛利秀元全面独立したら領地結局半減で、領土拡大戦略は其辺もあるし、謀略(当時はだけの)の輝元の本領発揮な感じはします。何気に幕政期に脱皮(でも道可事件とかやってますが)してますが。気になったのは三成失脚時に輝元、景勝連合が出来ている事に触れてらっしゃる事、家康は長期的に見て景勝を潰さざるを得ないという戦略があったんだと伝わってきました。三成潰しでこの対毛利内乱をあっという間にまとめた(ついでに歴史を書き換えた)家康って凄いと年々思います。次回も楽しみにしてます!
何と言われようが戦に負けてしまった以上、何としてでもお家の存続を図らねばならなかったのだと思います。安国寺恵瓊を差し出して済むのであればそれも致し方なしだったのでしょう。
叔父の重しから解放されて、ヒャッハー状態だった可能性が有るのか😗
外交力では海千山千の狸おやじには到底かなわない。うまいことハメられたな
個人的にですけどbgmが変わったことに少し違和感
天下の事に関わるな…今の領土を守る事に専念せよ…この祖父.元就の遺言をしっかり守り、豊臣や徳川ともある程度距離を置いていれば、もう少し違う展開になったようにも思える。さらに関ヶ原時点で両川の叔父が亡くなっていたのも痛い。
秀吉の死は1598年の醍醐の花見から半年もたっておらず、有名な秀頼への忠誠を頼んだのは5月と7月そして8月に死去。このあと唐入りの後始末があって毛利輝元も石田三成も家康も大忙し。明けて翌年の1月には家康は婚姻問題で前田と戦になる寸前になり、利家が亡くなった3月には七将襲撃(最近だと襲撃はなく10人以上の連名による訴訟説がでてる)9月には家康自身の暗殺計画を理由に前田、浅野などの重臣を裁く、この年に家康は秀元の件や宇喜多家の大騒動を収めてる。暗殺犯の汚名を着せられた前田は1600年の正月に屈服、4月には上杉家に問責、交渉中の5月には会津征伐の準備、6月に家康は大阪を発って江戸に向かう。7月に毛利輝元が大阪城に入城。当時は伏見城や大阪城に諸大名本人や重臣が残っていたが2年の間の激動をどれだけ理解していたのか。
仮に吉川広家が本気で「輝元は恵瓊に騙されて挙兵した」と信じていたとしても(個人的には有り得ないと思いますが)、輝元を諌めて思い留めようとせずに家康に密告したのはかなりヤバい行為です。正直西軍が一枚岩ではないとわざわざ家康に教えているようなものですし、かなりの利敵行為と言わざるを得ないですね。もっとも西軍に(無理やり)なってしまった大名が家康に弁明の書状を送っていたので、広家だけがそうとは言いませんが。
これについて言えばそもそも西軍どころか毛利家が一枚岩では無いという事を示していて、輝元が野心満々で西国を手中に収める気だったのに対して、広家が西軍についても碌なことにならないから家康に取り入ろうとしていたし、秀元はどちらかというと輝元に思うところがあり戦う機会を窺っていたようで、みんなバラバラに動いていたので、そこを家康につけいられた訳です。
確かこの時の広家は毛利家からハブられてて殆ど重要な情報は来てなかったと思います。それで輝元の真意を見誤り仲の悪い恵慶が勝手にやってお家を誤った方向に導いていると考え家康側の動きをするようになったと考えます。岐阜城落城後の輝元自身もこれは負け戦と考え広家側の考えにシフト、今度は恵慶がハブられてトカゲの尻尾切り。輝元は主要な家臣に自分の考えを伝えておらずそれが関ケ原の毛利家のバラバラな動きに繋がったと思います。
@@yuu-c9d そうそう、安国寺恵瓊もいましたが、この人も毛利家が大減封となった一因になっています。吉川広家は、輝元に書状をなん度も送って状況を報告していたのですが、輝元からの反応が乏しく広家もどう動くか考えあぐねていたようです。確かに輝元はどう動くかの指令を配下に出さずに、西軍方の武将たちに書状を出していたのが家康側に押収されたものがあったのも、後で大減封の理由になっていたようで、やっぱり輝元に責任があるようですね。
当時、伝説のように語り尽くされていたであろう秀吉の中国大返しが230km10日間であったのに対して、輝元の上洛が350kmを2日で急行したというのは、同時代の人には神がかり的でキレッキレの行動力に映ったでしょうね。
かなり早いことは早いのですが秀吉が伝説になってるのは敵陣のど真ん中から走りきったところなので、気合はいってるなぁくらいだと思います
26:38 突然の官兵衛が怖すぎるこのあと東軍として九州で大暴れすんのに…
֊ ̫ ֊𓈒𓂂𓏸こいつマジで抜け目ないすねさすが秀吉の暗黒軍師
秀吉に睨まれた時といい野心がチラ見してるのがいいんですよね〜
どうして輝元が関ヶ原の戦いで負けたアホって評価になったんだろうな。倒幕後の長州藩なら歴史を改竄して、いくらでも輝元を盛れただろうに
流石に徳川に楯突けなかったんじゃないですね
幕末の長州藩は名目的には輝元の嫡男、秀就の家系だけど、江戸中期頃に秀元家系の長府藩藩主・毛利匡敬(重就)が長州藩を継ぎ、幕末の毛利就親の代まで続いているから、秀元を立てる為に輝元を従来のままにしたのかもしれない
いままで動画では影の薄かった輝元くんがイキナリ大阪城入場して天下を押さえてるのに疑問が出ない不思議。前回も書いたけど同時代だと毛利の三代目は唐入りで家名を高め、小早川秀秋という豊臣の血縁を一族にしてる西国の重鎮だ。しかし家康は故人となったが秀吉の妹を娶っている義理の弟であり豊臣政権では公式に秀吉の代行として政務を任せられた当時の日本の最高権力者になる。毛利家といえど軽々しく糾弾するには家康の公的な立場は大きすぎる。あえて毛利が大々的に家康を敵にしたのは、関ヶ原前に日本中で反家康の大きな流れがあり、輝元はそれに乗ったのではないだろうか。
毛利は家康にまんまとやられたな。
個人的にはこの動画から導き出される結論としては、関ヶ原を含む慶長五年内戦の首謀者は安国寺恵瓊だったってことだろうね……。事の経過とかを考えても輝元や三成が筋書きを書いたとは思えないし……。でもそしたらなんで三成と小西行長は安国寺恵瓊ともども斬罪に処されたんかな?首謀者が安国寺恵瓊なら三成や小西行長は武断派と仲違いしていたとはいえ、とんだとばっちりを喰らったようなもんだろ……。
戦で負けて軍事的に壊滅的打撃うけてるのがでかくて、ついでにみんなの、都合がいいから案は?光成派嫌いの人は当然。家康も五奉行クラス脅威は薄くなってても念の為始末してしまえと。安国寺恵瓊だけだと毛利色強すぎなので、毛利も結果論として良し。家康からみると、首謀者ひとりだと、ちと処刑しきって、解決感演出しきれないというのもあるかも?
そもそも行長と三成殺されないと徳川に味方した豊臣部将への顔が立たないからね特に行長はおそらく未来永劫好かれる事は無いレベルなので家康と彼らの対立というより、武断派と彼らの対立を家康が利用した形だから
今回も面白かったです。合戦って話題にはなるけど、実はリアルな第一次資料がいずれも少なく、本編動画でもあったような「生き残りをかけた言い訳のため後から作ったもの」や「家名を上げるための武勇伝」でフィクションだったりと真相を推論するのが大変なんですよね。
だから関ヶ原合戦について様々な説が出てきても否定できず、一応は考慮に値するんですよね。
ほとんど爺ちゃんからもらった権力である三代目御曹司の輝元と、
今川・織田・足利・武田・豊臣からパワハラ・Warハラ・政治ハラ考え得る限りすべてのハラスメントを網羅して受け続けてきた
磨かれすぎた玉である家康では役者が違うよな…
このチャンネルが
歴史系の中で一番面白いです🥰
ありがとうございます!そう言っていただけると大変励みになります😆😆
積極的に中央情勢に関与しようとする輝元とそれに疑問を持ち中立でいたい上級家臣。これは毛利だけじゃなく他の大名も同じでこういう動きを理解して調略した家康が上手過ぎた。
毛利宇喜多(お家騒動)上杉(周辺と利権問題)と西軍勢の方が大分領内が慌ただしくて治まらないのを見ていると、家康というか徳川家臣団の統治能力高すぎて震える。
西軍勢って一致団結のために領国の敵を作りたくて家康に歯向かった面もある気がする。敵を作るのが楽
当時、家康に軍事・経済力でぼぼ互角だったのは毛利家しか居なかった。関ヶ原の戦いで徳川7〜8万に次いで毛利5〜6万を動員している。仮に輝元が家康に恭順していてもどの道上杉や前田と同様に難癖付けられていただろうな。
この状況見ると、もし毛利が徳川に従ったとしても難癖つけられて、味方のない状況での毛利討伐や、減封やら改易しか待ってなかったかもね。東軍、西軍で大混乱させて、首謀者は三成ということで、徳川方の敵意を散らせ、自分は逃げ腰のおかげで結果的には生き残ったんだから、案外悪くない策だったのかも。
そうかもしれませんね。家康は崇源院(お江)への訓戒状の中で秀吉の論功行賞や所領配分について「分に過ぎた」振舞いとしてどんぶり勘定だと批評してます。
家康の構想する天下公儀とっては100万石を超える大名が複数いるのは天下騒乱の元であり、それゆえ天下静謐のために毛利・上杉の減封は必須だったと思います。
投稿お疲れ様です。毛利輝元様も難しい判断を迫られたんですね。前田利長や上杉景勝の様な対応は取れない状況で彼が選んだ選択が毛利氏の未来を決めるのですから面白いです。敗北したから輝元様は酷評されますが毛利家中の人々がわざと汚名を被せた部分も強いですからね。通説では吉川広家は自身に与えられる防長二か国を毛利氏に譲ったみたいな美談を語られますがこれも結果でしかなく江戸時代に岩国領は格下だと萩藩から見下されていた状況を変える為に嘘と本当を織り交ぜた陰徳太平記なる書物で吉川家の家臣が広家公の事績を盛りまくったとか毛利氏は西日本の諸侯に対して色々指令を出していたと思うので関ヶ原以外の状況がどうなっていたかが楽しみです。
関ヶ原減封の引換に最終的に自子のほぼ全面相続を呑ませた輝元は凄いと思ってて。吉川広家と毛利秀元全面独立したら領地結局半減で、領土拡大戦略は其辺もあるし、謀略(当時はだけの)の輝元の本領発揮な感じはします。何気に幕政期に脱皮(でも道可事件とかやってますが)してますが。気になったのは三成失脚時に輝元、景勝連合が出来ている事に触れてらっしゃる事、家康は長期的に見て景勝を潰さざるを得ないという戦略があったんだと伝わってきました。三成潰しでこの対毛利内乱をあっという間にまとめた(ついでに歴史を書き換えた)家康って凄いと年々思います。次回も楽しみにしてます!
何と言われようが戦に負けてしまった以上、何としてでもお家の存続を図らねばならなかったのだと思います。
安国寺恵瓊を差し出して済むのであればそれも致し方なしだったのでしょう。
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個人的にですけどbgmが変わったことに少し違和感
天下の事に関わるな…今の領土を守る事に専念せよ…この祖父.元就の遺言をしっかり守り、豊臣や徳川ともある程度距離を置いていれば、もう少し違う展開になったようにも思える。さらに関ヶ原時点で両川の叔父が亡くなっていたのも痛い。
秀吉の死は1598年の醍醐の花見から半年もたっておらず、有名な秀頼への忠誠を頼んだのは5月と7月そして8月に死去。このあと唐入りの後始末があって毛利輝元も石田三成も家康も大忙し。明けて翌年の1月には家康は婚姻問題で前田と戦になる寸前になり、利家が亡くなった3月には七将襲撃(最近だと襲撃はなく10人以上の連名による訴訟説がでてる)9月には家康自身の暗殺計画を理由に前田、浅野などの重臣を裁く、この年に家康は秀元の件や宇喜多家の大騒動を収めてる。
暗殺犯の汚名を着せられた前田は1600年の正月に屈服、4月には上杉家に問責、交渉中の5月には会津征伐の準備、6月に家康は大阪を発って江戸に向かう。7月に毛利輝元が大阪城に入城。当時は伏見城や大阪城に諸大名本人や重臣が残っていたが2年の間の激動をどれだけ理解していたのか。
仮に吉川広家が本気で「輝元は恵瓊に騙されて挙兵した」と信じていたとしても(個人的には有り得ないと思いますが)、輝元を諌めて思い留めようとせずに家康に密告したのはかなりヤバい行為です。正直西軍が一枚岩ではないとわざわざ家康に教えているようなものですし、かなりの利敵行為と言わざるを得ないですね。もっとも西軍に(無理やり)なってしまった大名が家康に弁明の書状を送っていたので、広家だけがそうとは言いませんが。
これについて言えばそもそも西軍どころか毛利家が一枚岩では無いという事を示していて、輝元が野心満々で西国を手中に収める気だったのに対して、広家が西軍についても碌なことにならないから家康に取り入ろうとしていたし、秀元はどちらかというと輝元に思うところがあり戦う機会を窺っていたようで、みんなバラバラに動いていたので、そこを家康につけいられた訳です。
確かこの時の広家は毛利家からハブられてて殆ど重要な情報は来てなかったと思います。それで輝元の真意を見誤り仲の悪い恵慶が勝手にやってお家を誤った方向に導いていると考え家康側の動きをするようになったと考えます。岐阜城落城後の輝元自身もこれは負け戦と考え広家側の考えにシフト、今度は恵慶がハブられてトカゲの尻尾切り。輝元は主要な家臣に自分の考えを伝えておらずそれが関ケ原の毛利家のバラバラな動きに繋がったと思います。
@@yuu-c9d そうそう、安国寺恵瓊もいましたが、この人も毛利家が大減封となった一因になっています。吉川広家は、輝元に書状をなん度も送って状況を報告していたのですが、輝元からの反応が乏しく広家もどう動くか考えあぐねていたようです。確かに輝元はどう動くかの指令を配下に出さずに、西軍方の武将たちに書状を出していたのが家康側に押収されたものがあったのも、後で大減封の理由になっていたようで、やっぱり輝元に責任があるようですね。
当時、伝説のように語り尽くされていたであろう秀吉の中国大返しが230km10日間であったのに対して、
輝元の上洛が350kmを2日で急行したというのは、同時代の人には神がかり的でキレッキレの行動力に映ったでしょうね。
かなり早いことは早いのですが秀吉が伝説になってるのは敵陣のど真ん中から走りきったところなので、気合はいってるなぁくらいだと思います
26:38 突然の官兵衛が怖すぎる
このあと東軍として九州で大暴れすんのに…
֊ ̫ ֊𓈒𓂂𓏸こいつマジで抜け目ないすね
さすが秀吉の暗黒軍師
秀吉に睨まれた時といい野心がチラ見してるのがいいんですよね〜
どうして輝元が関ヶ原の戦いで負けたアホって評価になったんだろうな。
倒幕後の長州藩なら歴史を改竄して、いくらでも輝元を盛れただろうに
流石に徳川に楯突けなかったんじゃないですね
幕末の長州藩は名目的には輝元の嫡男、秀就の家系だけど、江戸中期頃に秀元家系の長府藩藩主・毛利匡敬(重就)が長州藩を継ぎ、幕末の毛利就親の代まで続いているから、秀元を立てる為に輝元を従来のままにしたのかもしれない
いままで動画では影の薄かった輝元くんがイキナリ大阪城入場して天下を押さえてるのに疑問が出ない不思議。前回も書いたけど同時代だと毛利の三代目は唐入りで家名を高め、小早川秀秋という豊臣の血縁を一族にしてる西国の重鎮だ。しかし家康は故人となったが秀吉の妹を娶っている義理の弟であり豊臣政権では公式に秀吉の代行として政務を任せられた当時の日本の最高権力者になる。毛利家といえど軽々しく糾弾するには家康の公的な立場は大きすぎる。あえて毛利が大々的に家康を敵にしたのは、関ヶ原前に日本中で反家康の大きな流れがあり、輝元はそれに乗ったのではないだろうか。
毛利は家康にまんまとやられたな。
個人的にはこの動画から導き出される結論としては、関ヶ原を含む慶長五年内戦の首謀者は安国寺恵瓊だったってことだろうね……。
事の経過とかを考えても輝元や三成が筋書きを書いたとは思えないし……。
でもそしたらなんで三成と小西行長は安国寺恵瓊ともども斬罪に処されたんかな?
首謀者が安国寺恵瓊なら三成や小西行長は武断派と仲違いしていたとはいえ、とんだとばっちりを喰らったようなもんだろ……。
戦で負けて軍事的に壊滅的打撃うけてるのがでかくて、ついでにみんなの、都合がいいから案は?光成派嫌いの人は当然。家康も五奉行クラス脅威は薄くなってても念の為始末してしまえと。安国寺恵瓊だけだと毛利色強すぎなので、毛利も結果論として良し。家康からみると、首謀者ひとりだと、ちと処刑しきって、解決感演出しきれないというのもあるかも?
そもそも行長と三成殺されないと徳川に味方した豊臣部将への顔が立たないからね
特に行長はおそらく未来永劫好かれる事は無いレベルなので
家康と彼らの対立というより、武断派と彼らの対立を家康が利用した形だから