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経済学の「合成の誤謬」「自己実現的予言」もなんだか怪しいもんですよね多用していた自分を顧みると恥ずかしくなってきますねただ更に顧みる虚栄心の為にどんどんアウトプット(喋り)続けるしかありませんね積読がヤバいことになってきましたいつもありがとうございます
パスカルという哲学者はこれまでノーマークで、「パスカルの原理」と「人間は考える葦である」ぐらいしか知りませんでしたが、けっこう面白くかつ重要な人物なんじゃないかと期待がわいてきました。人間の理性には、関係ない観念と観念を勝手に結びつけるクセがあるという話ですが、私などはしょっちゅうそれをやってるなと思いました。現に今回の『パンセ』の話を聞いて、パスカルが「デカルト主義者」であることと「確率論」の創始者であることを勝手に結びつけて、すでに『パンセ』がどんな本かぼんやりわかったような気がしてきました。例によってその都合のいい思いつき、個人的思い込みを少し述べてみます。フランス出身でもあり時代的にもデカルトの影響を受けていたのはたしかでしょう。デカルトといえば「方法的懐疑」ですが、パスカルもそれをやろうとしたんじゃないでしょうか。そしてデカルトよりさらに一歩進んで「理性」自体を懐疑しようとした。デカルトは正しいものは何かと懐疑したが理性自体を懐疑することはなかった。だから、我思うゆえに我ありなんでしょうが、その理性自体が疑わしいんじゃないですかとツッコミは入れたくなります。それをやった代表的人物としてはイギリス経験論の流れをくむヒュームの名があがりますが、ヒューム以前に大陸合理論周辺ですでにそれをやっていた人物がいたということなんじゃなかろうか。「理性」を疑うということになれば、「理性」に関するあれやこれやを考察することになる、理性がどんなクセをもっているかというようなことも。そうした理性のさまざまな働きや独特なクセなどを観察した結果を断片的にメモに記したものが『パンセ』ということなんじゃないでしょうか。単なる推測、仮説ですが。結局、ヒュームやカントやフッサールがやろうとしたことを、いち早くやり始めていたといえるかもしれません。「人間は考える葦である」にしても、人生に役に立つ箴言(いい話)のような受け取られ方をしているきらいがありますが、本来は「非力であった人類は集団として生き残るために大脳(理性)を発達させた」といった認識論的文脈で解釈したほうがいいんじゃないかと思えてきました。先走って申し訳ないですが。また、「無関係な観念と観念をを結びつける傾向」に関するパスカルの見解は、ヒュームが語っていたような決定論か非決定論かという話に関係してきそうな感じはありますね。大陸合理論は決定論/因果律/必然性、イギリス経験論は非決定論/非因果律/偶然性といったザックリした印象はありますが、その中でパスカルは経験論に近い異質な考え方をしていたように見えます。パスカルは因果律のようなものは信じておらず、そこには「確率論」のような発想があったのではないかというのが私の推測です。そして、従来の近代的な理性のあり方としてはニュートン方程式のような因果律に基づくものが主に考えられてきましたが、昨今では、量子論や複雑系、そしてなんといっても人工知能の新たな知見などがでてくるに及んで理性というものが確率的な現象なのではないかという見方もされてきているようです。そういった意味で、パスカルは古くて新しい現代的な意味をもった哲学者といえるんじゃないかと勝手に思った次第です。近日中に本編がアップされるとのことなので答え合わせしたいと思います。
異なる性質が結合することが不合理と言うのは、自分の合理性と他者の合理性が異なるということに起因する。つまり、自分の合理性の押しつけです。
=(イコール)の違和感は朝井リョウが「スター」で述べていますね😊チャンネル登録者数の多さ=格の高低勉強したい(思想を知りたい)哲学者多すぎて、誰からやろうか迷います😂
そういうときは、まず哲学史から学ぶのがオススメです!
経済学の
「合成の誤謬」「自己実現的予言」
もなんだか怪しいもんですよね
多用していた自分を顧みると恥ずかしくなってきますね
ただ更に顧みる虚栄心の為にどんどんアウトプット(喋り)続けるしかありませんね
積読がヤバいことになってきました
いつもありがとうございます
パスカルという哲学者はこれまでノーマークで、「パスカルの原理」と「人間は考える葦である」ぐらいしか知りませんでしたが、けっこう面白くかつ重要な人物なんじゃないかと期待がわいてきました。
人間の理性には、関係ない観念と観念を勝手に結びつけるクセがあるという話ですが、私などはしょっちゅうそれをやってるなと思いました。現に今回の『パンセ』の話を聞いて、パスカルが「デカルト主義者」であることと「確率論」の創始者であることを勝手に結びつけて、すでに『パンセ』がどんな本かぼんやりわかったような気がしてきました。例によってその都合のいい思いつき、個人的思い込みを少し述べてみます。
フランス出身でもあり時代的にもデカルトの影響を受けていたのはたしかでしょう。デカルトといえば「方法的懐疑」ですが、パスカルもそれをやろうとしたんじゃないでしょうか。そしてデカルトよりさらに一歩進んで「理性」自体を懐疑しようとした。デカルトは正しいものは何かと懐疑したが理性自体を懐疑することはなかった。だから、我思うゆえに我ありなんでしょうが、その理性自体が疑わしいんじゃないですかとツッコミは入れたくなります。それをやった代表的人物としてはイギリス経験論の流れをくむヒュームの名があがりますが、ヒューム以前に大陸合理論周辺ですでにそれをやっていた人物がいたということなんじゃなかろうか。
「理性」を疑うということになれば、「理性」に関するあれやこれやを考察することになる、理性がどんなクセをもっているかというようなことも。そうした理性のさまざまな働きや独特なクセなどを観察した結果を断片的にメモに記したものが『パンセ』ということなんじゃないでしょうか。単なる推測、仮説ですが。結局、ヒュームやカントやフッサールがやろうとしたことを、いち早くやり始めていたといえるかもしれません。
「人間は考える葦である」にしても、人生に役に立つ箴言(いい話)のような受け取られ方をしているきらいがありますが、本来は「非力であった人類は集団として生き残るために大脳(理性)を発達させた」といった認識論的文脈で解釈したほうがいいんじゃないかと思えてきました。先走って申し訳ないですが。
また、「無関係な観念と観念をを結びつける傾向」に関するパスカルの見解は、ヒュームが語っていたような決定論か非決定論かという話に関係してきそうな感じはありますね。大陸合理論は決定論/因果律/必然性、イギリス経験論は非決定論/非因果律/偶然性といったザックリした印象はありますが、その中でパスカルは経験論に近い異質な考え方をしていたように見えます。パスカルは因果律のようなものは信じておらず、そこには「確率論」のような発想があったのではないかというのが私の推測です。
そして、従来の近代的な理性のあり方としてはニュートン方程式のような因果律に基づくものが主に考えられてきましたが、昨今では、量子論や複雑系、そしてなんといっても人工知能の新たな知見などがでてくるに及んで理性というものが確率的な現象なのではないかという見方もされてきているようです。そういった意味で、パスカルは古くて新しい現代的な意味をもった哲学者といえるんじゃないかと勝手に思った次第です。
近日中に本編がアップされるとのことなので答え合わせしたいと思います。
異なる性質が結合することが不合理と言うのは、自分の合理性と他者の合理性が異なるということに起因する。つまり、自分の合理性の押しつけです。
=(イコール)の違和感は朝井リョウが「スター」で述べていますね😊
チャンネル登録者数の多さ=格の高低
勉強したい(思想を知りたい)哲学者多すぎて、誰からやろうか迷います😂
そういうときは、まず哲学史から学ぶのがオススメです!