ขนาดวิดีโอ: 1280 X 720853 X 480640 X 360
แสดงแผงควบคุมโปรแกรมเล่น
เล่นอัตโนมัติ
เล่นใหม่
お話し有難うございました🙇
動画のご配信有難うございます
配信ありがとうございます🥰
保存版ですね
本日は良い話を伺うことができました。
進化の構図*輪廻転生の話題に戻りますが、僕たちが他の世を経験したことがあって、物理的生への誕生が始まりでないとするのなら、魂の始まりは、もしそれがあるとすれば、何なのでしょうか。 魂がいつ創造されるのかは分からない。実際のところ、「生命の火花」となる「魂の素」が創られるのだ。 原初「生命の火花」は、その後何百万年にもわたって、自己の進化レベルに見合う物質形態に結びつく経験を通して改善してゆくプロセスを体験する。*「自己の進化レベルに見合う物質形態に結びつく」というのが何を意味するのか分かりません。もう少し教えていただけますか。 転生のことを指しているのだ。「原始魂の素」が充分に進化して、それよりずっと高度なものになると、それを魂と呼んでいる。 魂は、体という物質形態に結びついて、その経験から学んでゆく。原初の段階では、「原始魂の素」は、より単純な物質形態に結びつく。 最初の形態は鉱物(第一段階)であり、次に植物(第二段階)、それから動物(第三段階)に、そしてさらに進むと人間の段階の魂(第四段階)となるのだが、それぞれの物理的な経験において学習するのだ。 学んだことは永久に魂に蓄えられるので、新しく転生する際には、おびただしい前世の経験を総合して得られた知識を携える。*前世では僕たちが動物だったこともあり、もっと遡れば石に生まれたこともあるのですか。 初期の段階では各存在の個別性というものが人間の段階ほどには明確でないので、そう言い切ってしまうのは正確ではないが、大体そういうことになる。個別性というのは、序々に獲得されるものなのだ。*どういう意味ですか。 つまり、その段階では、「生命の火花」が独立した魂だとも、石が鉱物界で独自性を持つとも考えられないので、君の魂が石に転生していたというのは正確ではない、ということだ。石を二つか三つのかけらに割ってしまったとしたら、「生命の火花」はどうなってしまうだろうか?分割されてしまうだろうか?そんなことはない。 しかし、犬の個別性の度合いは遥かに進んだものなので、「魂の原型」が犬に転生している、と言うことはできる。*なぜ、「魂の原型」と呼ぶのですか。 ここでは、人間の段階にいる魂と区別するためにそう呼んだのだ。これは人間の魂以前の段階で、独自性はかなり高いもののまだ自由意志を持たない、高度な哺乳類に宿る魂に相当する。*そのような連続的な転生プログラムのようなもので、何を成し遂げようとするのですか。 魂の存在が、知識においても感情においても進歩し、叡智と愛において成長することだ。
*悲しみが我欲の感情だと思われているのは、予想外でした。 ところがそうなのだ。人が時々悲しくなるのはとても普通のことだ。だが、諦めて投げ出してしまって、悲しみがその人の日常的な状態になってしまうと、それは停滞した状態なのだ。悲しみは、霊的成長の努力を怠る口実となるのだ。*悲しい時に、誰かに何か悪いことをするとでも言うのでしょうか。 悲しみは自分に有害であるし、間接的には他者をも害する。悲しみのせいで、自分の務めが果たせなくなる場合があるからだ。悲しみや落胆に沈んでいる人と一緒に暮らすのは、とても疲弊することなので、大変強い意志力を持たない限り、うつ状態の人と暮らす者たちにも容易にその状態がうつってしまう。 悲しみが蓄積されると、攻撃欲と同じように、多数の病気を引き起こす。悲しみで病気になり死んでしまい、今生で取り組んでいた試練や使命を途中で止めてしまう人は大勢いる。そうした人たちは、同時に、他の魂たちを助けるという約束も投げ出しているのだ。たとえば、悲しみに蝕まれて死んでしまう父親や母親は、子どもたちを見捨てているのだ。*悲しみはどう超えたらいいでしょう。 攻撃性と悲しみを生み出す要因は大変似通っているので、攻撃性を乗り越えるために処方したレシピを、ほぼその一点一点、悲しみを克服することにも適用できる。 それゆえ、悲しみを乗り越えるための基本となるのは、理解である。自分自身への理解、他者への理解、我々の人生の状況への理解。 我々が直面する逆境の多くは、愛の学習と我欲の克服という工程の一部を成しており、その多くは生まれる前に我々自身で選んだものだと理解するのだ。そしてその他のものは、他者への不寛容・頑固さ・無理解などで、我々自身が招いたものなのだ。 時には、自分が間違っているのを認めたくなかったり、自分自身の利己的な態度を認めたくないために、悲しくなる場合があるのだと理解すること。 誰かに傷つけられて悲しくなるのであれば、それは、その魂の成長が足りないためで、愛の知識をまだほとんど持たないためなのだと理解するのだ。 自分らしさを抑圧したり、意志を黙殺して悲しくなるのであれば、自分を在るがままに表現するよう努めて、悲しみを超えるのだ。*あなたのレシピは、諦めを勧めているようですが。 とんでもない。理解と諦めは全く異なるものだ。諦める者は、匙を投げ、理解を放棄し、自分の意志を否定する人だ。もうどうでもいい、と生きる希望を失い、落ち込むのだ。 もう言ったことだが、諦めも、悲しみに関連する我欲の一形態なのだ。それは苦しみを避けるために頑張らない、というやり方なのだ。しかし、この方法では、別の理由でだが、もっと苦しむことになる。 理解は、生きる希望と悦びを失わずに、努力し続けて前進する鍵となるのだ。以前は分からなかったことにも、意味を見出すことを可能とするからだ。*諦めと理解の違いがはっきりする例を挙げていただけますか。 例を挙げれば、死に対する姿勢だ。 君たちの世界の大半の人は、死に対して諦めの態度をとるが、それは死の意味を理解しようとしないからだ。君たちは生きている間は、死と向き合うことを避け、懸念を直視しようとしない。 この話題について真面目に話をしたがる人に出くわすと、冗舌家か頭のおかしい人に思えるのだ。本当は君たちは怖いので、この話題を避けて、日々の雑事に没頭しているのだ。理解しようとはせず、ただ避けているのだ。 そうするうちに、愛する者が突然死んで、驚愕するのだ。この状況は、悲しみ・苦々しさ・憤怒・無力感をもたらす。そして、このどうしようもない事実を変えることが不可能なので、最後に諦めてしまうのだ。諦める者は、仕方がないので受容せざるを得ないものの、理解できていないので、不機嫌に暮らし無益に苦しむのだ。 死は単なる移行期で、実際に死ぬのは体だけで愛する者は生き続け、遅かれ早かれまた一緒になれる、と理解できる者は、もう生きる希望を失うことがない。そればかりか、再会の時が来たら大いに楽しめるように、物質界で何もやり残さないようにと、もっと頑張って生きようとする。 進化した世界では、人が死んでもそれが肉体からの離脱のプロセスだと皆が理解しているので、誰も、悲しんだり、絶望的になったり、苦々しく思ったりしない。その反対に、仲間が魂の真の故郷である霊界に戻るので、喜んであげるのだ。
古代には科学が発達して無かったですが、もしもお釈迦さんが現代に生まれていたら、宇宙物理学者などの凄い科学者になっていたかもしれませんね。それぐらい、仏教の世界観と現代科学の世界観は符合し似ています。
お話し有難うございました🙇
動画のご配信有難うございます
配信ありがとうございます🥰
保存版ですね
本日は良い話を伺うことができました。
進化の構図
*輪廻転生の話題に戻りますが、僕たちが他の世を経験したことがあって、物理的生への誕生が始まりでないとするのなら、魂の始まりは、もしそれがあるとすれば、何なのでしょうか。
魂がいつ創造されるのかは分からない。実際のところ、「生命の火花」となる「魂の素」が創られるのだ。
原初「生命の火花」は、その後何百万年にもわたって、自己の進化レベルに見合う物質形態に結びつく経験を通して改善してゆくプロセスを体験する。
*「自己の進化レベルに見合う物質形態に結びつく」というのが何を意味するのか分かりません。もう少し教えていただけますか。
転生のことを指しているのだ。「原始魂の素」が充分に進化して、それよりずっと高度なものになると、それを魂と呼んでいる。
魂は、体という物質形態に結びついて、その経験から学んでゆく。原初の段階では、「原始魂の素」は、より単純な物質形態に結びつく。
最初の形態は鉱物(第一段階)であり、次に植物(第二段階)、それから動物(第三段階)に、そしてさらに進むと人間の段階の魂(第四段階)となるのだが、それぞれの物理的な経験において学習するのだ。
学んだことは永久に魂に蓄えられるので、新しく転生する際には、おびただしい前世の経験を総合して得られた知識を携える。
*前世では僕たちが動物だったこともあり、もっと遡れば石に生まれたこともあるのですか。
初期の段階では各存在の個別性というものが人間の段階ほどには明確でないので、そう言い切ってしまうのは正確ではないが、大体そういうことになる。個別性というのは、序々に獲得されるものなのだ。
*どういう意味ですか。
つまり、その段階では、「生命の火花」が独立した魂だとも、石が鉱物界で独自性を持つとも考えられないので、君の魂が石に転生していたというのは正確ではない、ということだ。石を二つか三つのかけらに割ってしまったとしたら、「生命の火花」はどうなってしまうだろうか?分割されてしまうだろうか?そんなことはない。
しかし、犬の個別性の度合いは遥かに進んだものなので、「魂の原型」が犬に転生している、と言うことはできる。
*なぜ、「魂の原型」と呼ぶのですか。
ここでは、人間の段階にいる魂と区別するためにそう呼んだのだ。これは人間の魂以前の段階で、独自性はかなり高いもののまだ自由意志を持たない、高度な哺乳類に宿る魂に相当する。
*そのような連続的な転生プログラムのようなもので、何を成し遂げようとするのですか。
魂の存在が、知識においても感情においても進歩し、叡智と愛において成長することだ。
*悲しみが我欲の感情だと思われているのは、予想外でした。
ところがそうなのだ。人が時々悲しくなるのはとても普通のことだ。だが、諦めて投げ出してしまって、悲しみがその人の日常的な状態になってしまうと、それは停滞した状態なのだ。悲しみは、霊的成長の努力を怠る口実となるのだ。
*悲しい時に、誰かに何か悪いことをするとでも言うのでしょうか。
悲しみは自分に有害であるし、間接的には他者をも害する。悲しみのせいで、自分の務めが果たせなくなる場合があるからだ。悲しみや落胆に沈んでいる人と一緒に暮らすのは、とても疲弊することなので、大変強い意志力を持たない限り、うつ状態の人と暮らす者たちにも容易にその状態がうつってしまう。
悲しみが蓄積されると、攻撃欲と同じように、多数の病気を引き起こす。悲しみで病気になり死んでしまい、今生で取り組んでいた試練や使命を途中で止めてしまう人は大勢いる。そうした人たちは、同時に、他の魂たちを助けるという約束も投げ出しているのだ。たとえば、悲しみに蝕まれて死んでしまう父親や母親は、子どもたちを見捨てているのだ。
*悲しみはどう超えたらいいでしょう。
攻撃性と悲しみを生み出す要因は大変似通っているので、攻撃性を乗り越えるために処方したレシピを、ほぼその一点一点、悲しみを克服することにも適用できる。
それゆえ、悲しみを乗り越えるための基本となるのは、理解である。自分自身への理解、他者への理解、我々の人生の状況への理解。
我々が直面する逆境の多くは、愛の学習と我欲の克服という工程の一部を成しており、その多くは生まれる前に我々自身で選んだものだと理解するのだ。そしてその他のものは、他者への不寛容・頑固さ・無理解などで、我々自身が招いたものなのだ。
時には、自分が間違っているのを認めたくなかったり、自分自身の利己的な態度を認めたくないために、悲しくなる場合があるのだと理解すること。
誰かに傷つけられて悲しくなるのであれば、それは、その魂の成長が足りないためで、愛の知識をまだほとんど持たないためなのだと理解するのだ。
自分らしさを抑圧したり、意志を黙殺して悲しくなるのであれば、自分を在るがままに表現するよう努めて、悲しみを超えるのだ。
*あなたのレシピは、諦めを勧めているようですが。
とんでもない。理解と諦めは全く異なるものだ。諦める者は、匙を投げ、理解を放棄し、自分の意志を否定する人だ。もうどうでもいい、と生きる希望を失い、落ち込むのだ。
もう言ったことだが、諦めも、悲しみに関連する我欲の一形態なのだ。それは苦しみを避けるために頑張らない、というやり方なのだ。しかし、この方法では、別の理由でだが、もっと苦しむことになる。
理解は、生きる希望と悦びを失わずに、努力し続けて前進する鍵となるのだ。以前は分からなかったことにも、意味を見出すことを可能とするからだ。
*諦めと理解の違いがはっきりする例を挙げていただけますか。
例を挙げれば、死に対する姿勢だ。
君たちの世界の大半の人は、死に対して諦めの態度をとるが、それは死の意味を理解しようとしないからだ。君たちは生きている間は、死と向き合うことを避け、懸念を直視しようとしない。
この話題について真面目に話をしたがる人に出くわすと、冗舌家か頭のおかしい人に思えるのだ。本当は君たちは怖いので、この話題を避けて、日々の雑事に没頭しているのだ。理解しようとはせず、ただ避けているのだ。
そうするうちに、愛する者が突然死んで、驚愕するのだ。この状況は、悲しみ・苦々しさ・憤怒・無力感をもたらす。そして、このどうしようもない事実を変えることが不可能なので、最後に諦めてしまうのだ。諦める者は、仕方がないので受容せざるを得ないものの、理解できていないので、不機嫌に暮らし無益に苦しむのだ。
死は単なる移行期で、実際に死ぬのは体だけで愛する者は生き続け、遅かれ早かれまた一緒になれる、と理解できる者は、もう生きる希望を失うことがない。そればかりか、再会の時が来たら大いに楽しめるように、物質界で何もやり残さないようにと、もっと頑張って生きようとする。
進化した世界では、人が死んでもそれが肉体からの離脱のプロセスだと皆が理解しているので、誰も、悲しんだり、絶望的になったり、苦々しく思ったりしない。その反対に、仲間が魂の真の故郷である霊界に戻るので、喜んであげるのだ。
古代には科学が発達して無かったですが、もしもお釈迦さんが現代に生まれていたら、宇宙物理学者などの凄い科学者になっていたかもしれませんね。それぐらい、仏教の世界観と現代科学の世界観は符合し似ています。