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尊い御説法有難うございました 本筋を曲げない 力の御説法 感謝します
渡部先生いつも大切なお話と尊い有り難い説法に心より深く感謝申し上げます。今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。ありがとうございます。大聖釈迦牟尼世尊の出世本懐の中の本懐〜大無量寿経〜阿弥陀仏の御本願〜一向専念無量寿仏〜信心正因称名報恩〜南無阿弥陀仏〜三戸拝🙏🙏🙏
南無阿弥陀仏m(__)m
南無阿弥陀仏
『一念の信』が抜けたら浄土真宗では無いです。御文書に「たとえ八万の法蔵を知るというも、後生を知らざる者は愚者とす、たとえ一文不知の尼入道といえど後生を知る者は智者とすといえり。諸々の聖教を読み、ものを知りたりと言えども、『一念の信心』のいはれを知らざる人は、いたずらごとなり」と…。「信心は何時とはなしに、ハッキリするもの」と腑抜けたことを言う僧侶がいますが「ハッキリしない人」がいる以上「ハッキリと晴れた人」が有ることを知らなければなりません。真宗の大部分の布教使は、第二十願の入り口にいるのに『十八願の真似』ばかりして、危険な布教をしていませんか?これでは真宗が衰退するのは当然です。親鸞聖人も「たちどころに 他力摂生の旨趣を受得せり」と仰せられ、連如聖人は「三世の業障一じに罪きえて」と教えています。そして死んだ後の極楽往生を夢見るのではなく『平生業成』『現生不退』を力説されています。この「浄土真宗」の『真』の一字は、千鈞の重みがあり、世界無比の教えです。どうか本願寺の僧侶の方々も、名利に走らず、お念仏を唱えて「誤魔化すような説教」は止めて、一刻も早く『一念の関所』を通り、『魂のこもった説教』をして頂きたいと思います。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
なるほど。仰る通りですね。問題は、「ハッキリしない」時が「ハッキリと晴れた」一念に確立するのか、その明解な構造でしょう。すなわち、「一念の関所を越えたる」方から「越える」道を聞くしかないのでしょう。その一因に~つつしんで往相の回向を案ずるに、大行あり、大信あり。大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。この行はすなはちこれもろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。極速円満す、真如一実の功徳宝海なり。ゆゑに大行と名づく。しかるにこの行は大悲の願より出でたり。すなはちこれ諸仏称揚の願と名づく、また諸仏称名の願と名づく、また諸仏咨嗟の願と名づく、また往相回向の願と名づくべし、また選択称名の願と名づくべきなり。~もあると感じます。南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
説く人、説かれる人と分けるのではなく、まずは自分自身がどうであるのかということが大切かと思います。聞不具足、信不具足という涅槃経のことばが教行信証の中にありますね。武田鉄矢さんの『母に捧げるバラード』でも他者を指さすことの愚かさを歌っていますね。今、まさに、今、南無阿弥陀仏と称名し、それがそのまま聞名として届き、18願成就文を再び味わい、また懐かしきひとたちのお念仏をおもいだし、17願成就もなつかしむ。そんな阿弥陀仏のご本願の成就を憶念するとき自然即時入必定、まさによろこび、せめてお念仏にて御恩に報いたいと思う次第です。ずっと地獄が一定であった私が往生一定へと乗せて渡してくださる阿弥陀仏の大船によりお浄土へ。まずはその喜びとかたじけなさを味わいましょうよ。そうしたらお寺のお坊さんのことばや態度の良し悪しなんかよりもずっと大切な真の宗がそこにあるかと思います。御同行の懸命な聞法生活に敬意をいたします。南無阿弥陀仏。 南無阿弥陀仏。
尊い御説法有難うございました 本筋を曲げない 力の御説法 感謝します
渡部先生いつも大切なお話と尊い有り難い説法に心より深く感謝申し上げます。今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。ありがとうございます。大聖釈迦牟尼世尊の出世本懐の中の本懐〜大無量寿経〜阿弥陀仏の御本願〜一向専念無量寿仏〜信心正因称名報恩〜南無阿弥陀仏〜三戸拝🙏🙏🙏
南無阿弥陀仏m(__)m
南無阿弥陀仏
『一念の信』が抜けたら浄土真宗では無いです。御文書に「たとえ八万の法蔵を知るというも、後生を知らざる者は愚者とす、たとえ一文不知の尼入道といえど後生を知る者は智者とすといえり。諸々の聖教を読み、ものを知りたりと言えども、『一念の信心』のいはれを知らざる人は、いたずらごとなり」と…。「信心は何時とはなしに、ハッキリするもの」と腑抜けたことを言う僧侶がいますが「ハッキリしない人」がいる以上「ハッキリと晴れた人」が有ることを知らなければなりません。
真宗の大部分の布教使は、第二十願の入り口にいるのに『十八願の真似』ばかりして、危険な布教をしていませんか?これでは真宗が衰退するのは当然です。親鸞聖人も「たちどころに 他力摂生の旨趣を受得せり」と仰せられ、連如聖人は「三世の業障一じに罪きえて」と教えています。そして死んだ後の極楽往生を夢見るのではなく『平生業成』『現生不退』を力説されています。
この「浄土真宗」の『真』の一字は、千鈞の重みがあり、世界無比の教えです。どうか本願寺の僧侶の方々も、名利に走らず、お念仏を唱えて「誤魔化すような説教」は止めて、一刻も早く『一念の関所』を通り、『魂のこもった説教』をして頂きたいと思います。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
なるほど。仰る通りですね。
問題は、「ハッキリしない」時が「ハッキリと晴れた」一念に確立するのか、その明解な構造でしょう。
すなわち、「一念の関所を越えたる」方から「越える」道を聞くしかないのでしょう。
その一因に
~つつしんで往相の回向を案ずるに、大行あり、大信あり。
大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。この行はすなはちこれもろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。極速円満す、真如一実の功徳宝海なり。ゆゑに大行と名づく。しかるにこの行は大悲の願より出でたり。すなはちこれ諸仏称揚の願と名づく、また諸仏称名の願と名づく、また諸仏咨嗟の願と名づく、また往相回向の願と名づくべし、また選択称名の願と名づくべきなり。~
もあると感じます。南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
説く人、説かれる人と分けるのではなく、
まずは自分自身がどうであるのかということが大切かと思います。
聞不具足、信不具足という涅槃経のことばが教行信証の中にありますね。
武田鉄矢さんの『母に捧げるバラード』でも他者を指さすことの愚かさを歌っていますね。
今、まさに、今、南無阿弥陀仏と称名し、それがそのまま聞名として届き、18願成就文を再び味わい、また懐かしきひとたちのお念仏をおもいだし、17願成就もなつかしむ。そんな阿弥陀仏のご本願の成就を憶念するとき自然即時入必定、まさによろこび、せめてお念仏にて御恩に報いたいと思う次第です。ずっと地獄が一定であった私が往生一定へと乗せて渡してくださる阿弥陀仏の大船によりお浄土へ。
まずはその喜びとかたじけなさを味わいましょうよ。そうしたらお寺のお坊さんのことばや態度の良し悪しなんかよりもずっと大切な真の宗がそこにあるかと思います。
御同行の懸命な聞法生活に敬意をいたします。
南無阿弥陀仏。 南無阿弥陀仏。