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秋が深まるなかでのおふたりのしっとりとした対談たのしめました。ありがとうございます。
お二人の先生の対談を嬉しく拝聴させて頂きました。ありがとうございました。自由という言葉に今まで何となく不自由を感じながら生きてきたように思います『自由』の仏教の捉え方を聴かせて頂いて、持っていた違和感が腑に落ちる感じが致しました。『相手を慮って、自分に由る。』こころが喜んでいます。有り難うございました💓
ハダカデバネズミは初めて識りました!オモシロイですね職分をわきまえるネズミ!人間もかくありたく思います。
私が三十代に入った頃、和田稠(わだしげし 1916~2006 真宗大谷派僧侶)先生のお話をよく聴かせていただいていました。個人的な悩みを自分ではどうすることもできず、先生が九州に来られると聞くと、会場に足を運んでいました。 そんなある日、先生の法話が終わった後、控室にうかがった時のことです。いつもはこちらからお尋ねをすることが多かったのですが、その時は先生から「君は苦しみ悩みがあって、それをなくしたいと思ってここへ来とるんだろう」と問われました。そのとおりだったのですが、あまりにも唐突だったこともあり、私は何も言えずにいました。さらに先生は「あのなあ、苦悩する者を人間というんや」と言われ、私は(だから、その苦悩を取り除くことを求めて、ここに聞きに来てるんだ)と思いながらも、先生の言われようとされていることが飲み込めず困惑し、ずっと沈黙していました。そんな私を見て、先生はダメを押すようにこう言われたのです。「じゃあ、もういっぺん聞くが、君は隣で泣いとる人がおっても、苦しんでいる人がおっても、自分だけは悩みもせず苦しみもせず、そんなロボットみたいな人間になりたいんか」と。 驚きのあまり、私は言葉が出ませんでした。自分が意識して求めていたことが、この身が本当に求めていることとは全く違っていたんだ、という驚き。何かが自分の中でひっくり返ったような、もっと言えば自分そのものがひっくり返されたような不思議な感覚でした。 私たちは、日頃、聴聞(ちょうもん=法話・説教等を聴くこと)をする時に、「ためになるお話を聞きたい」「今日の話は参考になった」というように、仏法を利用するような聞き方をしていることがあります。さらに、念仏することで、迷いをなくしていこう、悩みを解決しようという思いで聞いているのではないでしょうか。(参考資料:法話 生活の中で 念仏するのでなく 念仏の上に 生活がいとなまれる 和田 稠 同朋選書16『信の回復』)保々眞量(ほぼしんりょう)1964年生まれ。熊本県在住。熊本教区光行寺候補衆徒。
(19:27)「玄侑宗久チャンネル・運があまりにも悪い」の中に、動物の話しが出てきます。また玄侑禅僧の「自由観」を語っています。この動画サイトで述べている「自由観」とは少し変化しているかな?と思います。
おはようございます。動画配信ありがとうございます。昔小学校の低学年の頃に、理科の実験で「カエルの解剖」があったのですが、カラダの構造を知る実験だったと思います。僕は泣かなかったのですが、一人の同級生(女性)は泣いていましたね。彼女のナミダを思い出しました。彼女は、カエルの命と自分の命を同じレベルで見ていたのかなと思います。そのナミダは、人間に「所有」されたカエルの命に対する不条理さではないかと思います。もしカエルが「不条理」という言葉を理解していたら、人間に抵抗しただろうか?
みんなが何かをよくしようとしてあらたな時代をゆったけど何から何をあらたな時代と言いだしたのかわすれたんだろうな。だから時代にふりまわされるだけになってる。
(18:00)参考資料:玄侑宗久チャンネル 同期する命もし人間に「恐怖」を与えるとしたら、「核兵器」ではなく、気候変動による「災害」かも知れません。「災害」は間違いなく起こります。ただいつかはわからないだけです。核兵器使用は人間の意志で止めることができますが、天変地異は人間の意志では止めることができません。天変地異は、ゲームではありません。基本的に、いつ起こるかは予測できません。明日の雨を予測できても、明日地震が起こることを予測できない。ある程度の確からしさは、予測できるけれど、いつ、どこで、とは予測できない。つまりゲームにならない。「祈るしかない。」科学は観測するけれども、対処方法は知らない。雨も地震も止められない。隕石衝突もその一つ。
(44:25)技術について、「玄侑宗久チャンネル・足るを知る」が面白いです。心の技術を説明しています。「玄侑宗久チャンネル・自分には何かが欠落しているのではないか」
国家の義務は、国民の生活経済(特に食と住)をまず守ってほしいと思います。それが大前提としてあります。また働く被雇用労働者を守ってほしいです。そして国民の健康を守ってほしいです。戦争はこれらすべてを破壊してしまうと思います。ですから、「戦争をしないことも国家の義務」です。
戦争しないと平和がわからないから。
アルコール類は別として、日本人は、プライベートな相手から出されたものは、感謝していただきますね。相手もコーヒー?緑茶?とか聞く場合があります。選択の余地を残してくれることもありますね。また喫茶店やレストランでは、メニューを見て選択し注文します。対価としてお金を払うので、飲みたいものを注文します。個性ですね。軍隊や、仏教修行寺、刑務所などは、こうした個性はないと思います。介護施設では、選択できないけれど、栄養バランスを考えて、日替わりで食事が提供されますし、前もって言えば、肉が嫌いな方は、魚とかに変更することが可能な施設があります。服装も自由です。(47:30)
伝道の書は、すごく仏教的な空(くう)という言葉があって、面白いなと思います。空海さんは、伝道の書の存在を知っているかな?
時がたつほどふるさはあたらしくなるから。個性をたいせつにしてもしなくても戦争するよな。しないと答えでないからな。たいせつにしすぎないをつかわないようにつかった言葉がおたがいさま様だからな。排除しあうしかない多様じゃなく他者を許す心のスペースをくれるおたがいさま様なら戦争をなくなるかもな。
軍隊は、非個性的ですね。指揮命令系統によって、兵隊は動きます。それぞれの個性は出せないです。軍事パレードを見ると、よくわかります。服も一緒、歩き方も一緒です。等間隔になって行進します。修行している雲水の生活、刑務所で暮らしている人々も、規律をもって、個性なく生活しています。考える余地はないと思います。共通していることは、集団的で、統制された人間集団であることです。
😢
エッ 東大名誉教授?誰が?まさか?
人間が日常的に言語を使うようになってから、おかしくなってきたのではないか?また「所有」と「言語の発達」は密接に関係しているのではないか?(7:00)最近ふと、「念仏する」ということを考えるのですが、「南無阿弥陀仏」や「南無妙法蓮華経」は、現代の人間が使う日常言語の理解からすれば、よくわからない抽象的な言語です。繰り返しの「音」としての機能性を考えると、合理的な言語化を避けているようにも見えます。繰り返すことで、良く眠れることがあるとも思います。そうしたこれらの言語が今でも脈々と残っていることに不思議さを感じます。人間以外の動物は、人間のような合理的な言語を持たないでいるように感じます。もちろん彼らには彼らなりの言語?サインを持ち合わせていると思いますが、少なくとも、「南無阿弥陀仏」や「南無妙法蓮華経」を唱える動物を見たことはない。また人間と動物との共通言語をほとんど持ち合わせていないと思います。人間同士の間でも、共通言語というものが、日常レベルの中でありません。国家あるいは民族の枠組みのなかで、固有の言語が話されている状態です。聖書にもありますように、神さまは言語を分散させたというバベルの塔の話は有名です。
唯織、マナ織にヒントがある。
秋が深まるなかでのおふたりのしっとりとした対談たのしめました。ありがとうございます。
お二人の先生の対談を嬉しく拝聴させて頂きました。ありがとうございました。
自由という言葉に今まで何となく不自由を感じながら生きてきたように思います『自由』の仏教の捉え方を聴かせて頂いて、持っていた違和感が腑に落ちる感じが致しました。『相手を慮って、自分に由る。』
こころが喜んでいます。
有り難うございました💓
ハダカデバネズミは初めて識りました!オモシロイですね職分をわきまえるネズミ!人間もかくありたく思います。
私が三十代に入った頃、和田稠(わだしげし 1916~2006 真宗大谷派僧侶)先生のお話をよく聴かせていただいていました。個人的な悩みを自分ではどうすることもできず、先生が九州に来られると聞くと、会場に足を運んでいました。
そんなある日、先生の法話が終わった後、控室にうかがった時のことです。いつもはこちらからお尋ねをすることが多かったのですが、その時は先生から「君は苦しみ悩みがあって、それをなくしたいと思ってここへ来とるんだろう」と問われました。そのとおりだったのですが、あまりにも唐突だったこともあり、私は何も言えずにいました。さらに先生は「あのなあ、苦悩する者を人間というんや」と言われ、私は(だから、その苦悩を取り除くことを求めて、ここに聞きに来てるんだ)と思いながらも、先生の言われようとされていることが飲み込めず困惑し、ずっと沈黙していました。そんな私を見て、先生はダメを押すようにこう言われたのです。「じゃあ、もういっぺん聞くが、君は隣で泣いとる人がおっても、苦しんでいる人がおっても、自分だけは悩みもせず苦しみもせず、そんなロボットみたいな人間になりたいんか」と。
驚きのあまり、私は言葉が出ませんでした。自分が意識して求めていたことが、この身が本当に求めていることとは全く違っていたんだ、という驚き。何かが自分の中でひっくり返ったような、もっと言えば自分そのものがひっくり返されたような不思議な感覚でした。
私たちは、日頃、聴聞(ちょうもん=法話・説教等を聴くこと)をする時に、「ためになるお話を聞きたい」「今日の話は参考になった」というように、仏法を利用するような聞き方をしていることがあります。さらに、念仏することで、迷いをなくしていこう、悩みを解決しようという思いで聞いているのではないでしょうか。
(参考資料:法話 生活の中で 念仏するのでなく 念仏の上に 生活がいとなまれる 和田 稠 同朋選書16『信の回復』)
保々眞量(ほぼしんりょう)
1964年生まれ。熊本県在住。熊本教区光行寺候補衆徒。
(19:27)「玄侑宗久チャンネル・運があまりにも悪い」の中に、動物の話しが出てきます。また玄侑禅僧の「自由観」を語っています。この動画サイトで述べている「自由観」とは少し変化しているかな?と思います。
おはようございます。動画配信ありがとうございます。
昔小学校の低学年の頃に、理科の実験で「カエルの解剖」があったのですが、カラダの構造を知る実験だったと思います。僕は泣かなかったのですが、一人の同級生(女性)は泣いていましたね。彼女のナミダを思い出しました。彼女は、カエルの命と自分の命を同じレベルで見ていたのかなと思います。
そのナミダは、人間に「所有」されたカエルの命に対する不条理さではないかと思います。もしカエルが「不条理」という言葉を理解していたら、人間に抵抗しただろうか?
みんなが何かをよくしようとしてあらたな時代をゆったけど何から何をあらたな時代と言いだしたのかわすれたんだろうな。だから時代にふりまわされるだけになってる。
(18:00)参考資料:玄侑宗久チャンネル 同期する命
もし人間に「恐怖」を与えるとしたら、「核兵器」ではなく、気候変動による「災害」かも知れません。「災害」は間違いなく起こります。ただいつかはわからないだけです。核兵器使用は人間の意志で止めることができますが、天変地異は人間の意志では止めることができません。天変地異は、ゲームではありません。基本的に、いつ起こるかは予測できません。明日の雨を予測できても、明日地震が起こることを予測できない。ある程度の確からしさは、予測できるけれど、いつ、どこで、とは予測できない。つまりゲームにならない。「祈るしかない。」科学は観測するけれども、対処方法は知らない。雨も地震も止められない。隕石衝突もその一つ。
(44:25)技術について、「玄侑宗久チャンネル・足るを知る」が面白いです。心の技術を説明しています。「玄侑宗久チャンネル・自分には何かが欠落しているのではないか」
国家の義務は、国民の生活経済(特に食と住)をまず守ってほしいと思います。それが大前提としてあります。また働く被雇用労働者を守ってほしいです。そして国民の健康を守ってほしいです。戦争はこれらすべてを破壊してしまうと思います。ですから、「戦争をしないことも国家の義務」です。
戦争しないと平和がわからないから。
アルコール類は別として、日本人は、プライベートな相手から出されたものは、感謝していただきますね。相手もコーヒー?緑茶?とか聞く場合があります。選択の余地を残してくれることもありますね。また喫茶店やレストランでは、メニューを見て選択し注文します。対価としてお金を払うので、飲みたいものを注文します。個性ですね。
軍隊や、仏教修行寺、刑務所などは、こうした個性はないと思います。介護施設では、選択できないけれど、栄養バランスを考えて、日替わりで食事が提供されますし、前もって言えば、肉が嫌いな方は、魚とかに変更することが可能な施設があります。服装も自由です。(47:30)
伝道の書は、すごく仏教的な空(くう)という言葉があって、面白いなと思います。空海さんは、伝道の書の存在を知っているかな?
時がたつほどふるさはあたらしくなるから。個性をたいせつにしてもしなくても戦争するよな。しないと答えでないからな。たいせつにしすぎないをつかわないようにつかった言葉がおたがいさま様だからな。排除しあうしかない多様じゃなく他者を許す心のスペースをくれるおたがいさま様なら戦争をなくなるかもな。
軍隊は、非個性的ですね。指揮命令系統によって、兵隊は動きます。それぞれの個性は出せないです。軍事パレードを見ると、よくわかります。服も一緒、歩き方も一緒です。等間隔になって行進します。修行している雲水の生活、刑務所で暮らしている人々も、規律をもって、個性なく生活しています。考える余地はないと思います。共通していることは、集団的で、統制された人間集団であることです。
😢
エッ 東大名誉教授?誰が?まさか?
人間が日常的に言語を使うようになってから、おかしくなってきたのではないか?また「所有」と「言語の発達」は密接に関係しているのではないか?(7:00)
最近ふと、「念仏する」ということを考えるのですが、「南無阿弥陀仏」や「南無妙法蓮華経」は、現代の人間が使う日常言語の理解からすれば、よくわからない抽象的な言語です。繰り返しの「音」としての機能性を考えると、合理的な言語化を避けているようにも見えます。繰り返すことで、良く眠れることがあるとも思います。そうしたこれらの言語が今でも脈々と残っていることに不思議さを感じます。人間以外の動物は、人間のような合理的な言語を持たないでいるように感じます。もちろん彼らには彼らなりの言語?サインを持ち合わせていると思いますが、少なくとも、「南無阿弥陀仏」や「南無妙法蓮華経」を唱える動物を見たことはない。
また人間と動物との共通言語をほとんど持ち合わせていないと思います。人間同士の間でも、共通言語というものが、日常レベルの中でありません。国家あるいは民族の枠組みのなかで、固有の言語が話されている状態です。聖書にもありますように、神さまは言語を分散させたというバベルの塔の話は有名です。
唯織、マナ織にヒントがある。