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はぁ…今視聴しました。岡崎体育さんの強右衛門がホントに良かったです。泣きました。
もっとフィーチャーされるべき鳥居強右衛門。大河ぬ扱われてとても嬉しく思います。
岡崎体育さんの鳥居強右衛門、素晴らしくて何度も観ては泣いてしまいます。
鳥居強右衛門、知りませんでした。先生のお話聞いてての昨日の「どうする」😳‼️なーるほど、です。鳥居強右衛門、覚えました😊亀ちゃんとあわせて。
いつも丁寧な解説、非常に勉強になります。ありがとうございます。ところで、市橋先生もご存知の話だと思いますが、鳥居強右衛門の逸話と似て、全く結果の異なる逸話が九州にあります。それは立花山城の戦いにおける、内田鎮家という武将の逸話です。立花家の重臣である内田鎮家は敵方島津家の陣に、降伏の使者として訪れました。そして、降伏の手続きとして時間を稼いでいるうちに、立花城救出の為に豊臣軍が来援。豊臣軍の到着が島津の陣にも知らされた時点で、内田鎮家は自分が偽りの使者であると島津方に明かし、潔く斬られようとします。しかし、島津方の大将の島津忠長は、激昂する家臣を押し留め、内田鎮家の忠義と勇気を褒め称え、立花山城に丁重に送り返しました。その後の立花宗茂の活躍は有名ですが、この島津忠長も朝鮮の役で神懸かり的な戦功を挙げ、その勇名を天下に轟かせています。また、時の天下人に屈服しながらも、その存在感を強烈に示した島津家が幕末まで続き、維新の原動力ともなったことは周知の事実です。一方で、人質や勇士を簡単に殺してしまう時点で、その後の武田家の末路は決まっていた様に思われます。鳥居強右衛門の話だけでなく、この内田鎮家と島津家の話も世に広まって、真の勇気や人を許すことの大切さが子々孫々にまで伝わることを希います。
長篠の合戦と設楽原の合戦の違いが良く判りました。
お疲れ様です。長篠城史跡保存館には血染めの陣太鼓が残っています。先生が持っていらっしゃる本も昔は史跡保存館に置いてありました。また、豊川、新城から岡崎へは峠を超えて行くとと今の国道1号線と比べるとうんと近いです。山歩きをしていると昔の街道のムダの無さを強く感じ理解事がよくありました。
長篠城跡から宇連川に降りて、豊川との合流地点から鳥居強右衛門の磔跡側を見たことがありますが、こんなに近くで磔になったんだと感じました。私の知っている、於フウの処刑の地は、鳳来寺小学校の近くにあるのですが、お墓は岡崎にあるのですね。
今回も興味深ったです。それにしても勝頼は長篠設楽原合戦の決定、人質の使い方、鳥居強衛門の扱いと言い、大事なところで直情に駆られて決定をしてるように思います。家康が三方ヶ原後、自身が直情的であることを悟り完全に制御仕切って、太閤に「家康ほど律儀で温厚な人はいない」と言わしめたのとは対照的です。話は変わりますが、この秋に北野武監督作品の「首」が封切られます。本能寺の変・中国大返しをテーマに30年構想して実現した作品とのこと。完成記者会見での監督の話やプロモーション映像から、「本能寺の変・秀吉陰謀説」を主軸に以前市橋先生が触れられた信長による家康暗殺計画も出てくるようです。ちなみに家康役はベテラン有名俳優の小林薫さんです。飄々として森繁さんの「家康」を彷彿とさせます。
鳥居強右衛門は三河人の代表ですね🙂今の岡崎市の人々の誇りですよね😊 タイプは違いますが滋賀県長浜市では石田三成公の生誕地で有る事を誇りに思う方々も多いですよ😊
一説では勝頼は強右衛門の忠義の心に感動して助命しようとしたけど、強右衛門が助命を断ったとか、勝頼の叔父で信玄の弟・信廉の家臣が勝頼の助命せよという命令が来る前に既に強右衛門を殺していたとかいう話もあるらしいです。
本当の長篠の戦いが分かりました今まで全く違って理解していたと 知りました
鳥居強右衛門は岡崎体育ですね。ぴったりの配役です。勝頼は信玄の血を継いでるだけあって残酷です。おふうと仙千代も残酷な最期です。アラモの碑は明治になっても顕彰される強右衛門なんですね。勉強になります。市橋先生は心底歴史が好きなんですね。本当にいつも素晴らしい歴史解説ありがとうございます。
や
アラモの碑をちゃんと見ましたよ!地元ガイドの方にきちんと説明して頂きました。
先生がご自身で撮った写真も入ると、地図も交えての解説が戦国時代の戦いをライブ感を交えてより実感できました。
さっそく、その本を買っちゃったよ。
鳥居公を殺した勝頼は、武田の旗印にしている孫子の本質を全く理解していなかったと世に宣言したようなもの。孫武は、対楚戦を考える闔閭に献上するため孫子を書いた。楚を強国に導いたのが荘王。著作物は、書かれた背景を理解していないと本質を理解できない。孫子を学ぶには春秋左氏伝等を参考文献として読む必要があるが、そこに楚荘王と解楊のエピソードがある。よって勝頼は、春秋左氏伝すら読んでいなかった事になる。
鳥居強右衛門を家臣に持った奥平氏は家康公より厚く信頼を得ることになったのですよね。後に吉宗公から西の守りと頼まれ豊前中津城に入り幕末まで当地を守ったそうです。自分は大分県出身なのに中津城を初めて訪れたのは50を越えた数年前のことでした。展示の中に逆さ磔の図の掛け軸があり、あっ!ここは奥平氏の城だった!…と非常に頭の悪い気付きを得ました(苦笑)。歴史は大好きで特に戦国時代前後の小説など若い時分散々読んできたはずなのに、中津城は官兵衛でしょ~なんて。学習成果皆無の自分にガッカリした思い出でした。
豊田章男なんて人は知らなくても、鳥居強右衛門の事は三河人全員が知っている
右上の泥まみれのプレデターみたいな人は誰なんだい?
長篠城址史跡保存館に展示されている、「援軍は来るぞ!」と叫んでいるところを再現した焼き物とのことです。
やはりどうする家康はお遊戯のレベルを超えないですね。
折角秀吉役をムロツヨシさんにしてサイコパス的な演出したのに小牧長久手の戦での榊原康政の檄文を補足スルーしそうな雰囲気ですからね。あの檄文こそ秀吉が自身を戒めて天下統一の礎になったのですが。
ハッキリと記録に残って間違いないと確定している事に関しては割と正確に描写してるって、何処かのTH-camチャンネルで言ってたのを観たような。
市橋先生が史実に一番近いって、おっしゃってましたよ。小沢さんの脚本は伏線がいっぱいだから、嗚呼あれかあと楽しんで見てます。その当時に生きている人は今は一人もいない。石川数正の二秒間、カメラぬいたの気づいてますか?勝頼はまだまだ家康を攻めてるでしょう。さすがに強いですね。来週はとうとう長篠の合戦です。
歴史家先生たちの話を聞くと今年の大河の出来にはがっかりするところがあります。フィクションを入れるにしてももう少し格好が付く演出をして頂きたいですよ。これまでの家康像がどんどん崩れていって、信長もあんな魔王風に描くのも時代遅れな気がするんですけどね。
@@shi-ryu8yiさん返信を変えて申し訳ないです。歴史家先生達の家康公の何にがっかりするのか、もし良ければ、歴史家先生のお名前を教えてください。
はぁ…今視聴しました。岡崎体育さんの強右衛門がホントに良かったです。泣きました。
もっとフィーチャーされるべき鳥居強右衛門。大河ぬ扱われてとても嬉しく思います。
岡崎体育さんの鳥居強右衛門、素晴らしくて何度も観ては泣いてしまいます。
鳥居強右衛門、知りませんでした。先生のお話聞いてての昨日の「どうする」😳‼️なーるほど、です。鳥居強右衛門、覚えました😊亀ちゃんとあわせて。
いつも丁寧な解説、非常に勉強になります。
ありがとうございます。
ところで、市橋先生もご存知の話だと思いますが、鳥居強右衛門の逸話と似て、全く結果の異なる逸話が九州にあります。
それは立花山城の戦いにおける、内田鎮家という武将の逸話です。
立花家の重臣である内田鎮家は敵方島津家の陣に、降伏の使者として訪れました。
そして、降伏の手続きとして時間を稼いでいるうちに、立花城救出の為に豊臣軍が来援。
豊臣軍の到着が島津の陣にも知らされた時点で、内田鎮家は自分が偽りの使者であると島津方に明かし、潔く斬られようとします。
しかし、島津方の大将の島津忠長は、激昂する家臣を押し留め、内田鎮家の忠義と勇気を褒め称え、立花山城に丁重に送り返しました。
その後の立花宗茂の活躍は有名ですが、この島津忠長も朝鮮の役で神懸かり的な戦功を挙げ、その勇名を天下に轟かせています。
また、時の天下人に屈服しながらも、その存在感を強烈に示した島津家が幕末まで続き、維新の原動力ともなったことは周知の事実です。
一方で、人質や勇士を簡単に殺してしまう時点で、その後の武田家の末路は決まっていた様に思われます。
鳥居強右衛門の話だけでなく、この内田鎮家と島津家の話も世に広まって、真の勇気や人を許すことの大切さが子々孫々にまで伝わることを希います。
長篠の合戦と設楽原の合戦の違いが良く判りました。
お疲れ様です。
長篠城史跡保存館には血染めの陣太鼓が残っています。先生が持っていらっしゃる本も昔は史跡保存館に置いてありました。
また、豊川、新城から岡崎へは峠を超えて行くとと今の国道1号線と比べるとうんと近いです。山歩きをしていると昔の街道のムダの無さを強く感じ理解事がよくありました。
長篠城跡から宇連川に降りて、豊川との合流地点から鳥居強右衛門の磔跡側を見たことがありますが、こんなに近くで磔になったんだと感じました。私の知っている、於フウの処刑の地は、鳳来寺小学校の近くにあるのですが、お墓は岡崎にあるのですね。
今回も興味深ったです。
それにしても勝頼は長篠設楽原合戦の決定、人質の使い方、鳥居強衛門の扱いと言い、大事なところで直情に駆られて決定をしてるように思います。
家康が三方ヶ原後、自身が直情的であることを悟り完全に制御仕切って、太閤に「家康ほど律儀で温厚な人はいない」と言わしめたのとは対照的です。
話は変わりますが、この秋に北野武監督作品の「首」が封切られます。本能寺の変・中国大返しをテーマに30年構想して実現した作品とのこと。完成記者会見での監督の話やプロモーション映像から、「本能寺の変・秀吉陰謀説」を主軸に以前市橋先生が触れられた信長による家康暗殺計画も出てくるようです。
ちなみに家康役はベテラン有名俳優の小林薫さんです。飄々として森繁さんの「家康」を彷彿とさせます。
鳥居強右衛門は三河人の代表ですね🙂
今の岡崎市の人々の誇りですよね😊
タイプは違いますが滋賀県長浜市では
石田三成公の生誕地で有る事を誇りに思う方々も多いですよ😊
一説では勝頼は強右衛門の忠義の心に感動して助命しようとしたけど、強右衛門が助命を断ったとか、勝頼の叔父で信玄の弟・信廉の家臣が勝頼の助命せよという命令が来る前に既に強右衛門を殺していたとかいう話もあるらしいです。
本当の長篠の戦いが分かりました
今まで全く違って理解していたと 知りました
鳥居強右衛門は岡崎体育ですね。ぴったりの配役です。勝頼は信玄の血を継いでるだけあって残酷です。おふうと仙千代も残酷な最期です。アラモの碑は明治になっても顕彰される強右衛門なんですね。勉強になります。市橋先生は心底歴史が好きなんですね。本当にいつも素晴らしい歴史解説ありがとうございます。
や
アラモの碑をちゃんと見ましたよ!
地元ガイドの方にきちんと説明して頂きました。
先生がご自身で撮った写真も入ると、地図も交えての解説が戦国時代の戦いをライブ感を交えてより実感できました。
さっそく、その本を買っちゃったよ。
鳥居公を殺した勝頼は、武田の旗印にしている孫子の本質を全く理解していなかったと世に宣言したようなもの。
孫武は、対楚戦を考える闔閭に献上するため孫子を書いた。
楚を強国に導いたのが荘王。
著作物は、書かれた背景を理解していないと本質を理解できない。
孫子を学ぶには春秋左氏伝等を参考文献として読む必要があるが、そこに楚荘王と解楊のエピソードがある。
よって勝頼は、春秋左氏伝すら読んでいなかった事になる。
鳥居強右衛門を家臣に持った奥平氏は家康公より厚く信頼を得ることになったのですよね。後に吉宗公から西の守りと頼まれ豊前中津城に入り幕末まで当地を守ったそうです。自分は大分県出身なのに中津城を初めて訪れたのは50を越えた数年前のことでした。展示の中に逆さ磔の図の掛け軸があり、あっ!ここは奥平氏の城だった!…と非常に頭の悪い気付きを得ました(苦笑)。歴史は大好きで特に戦国時代前後の小説など若い時分散々読んできたはずなのに、中津城は官兵衛でしょ~なんて。学習成果皆無の自分にガッカリした思い出でした。
豊田章男なんて人は知らなくても、鳥居強右衛門の事は三河人全員が知っている
右上の泥まみれのプレデターみたいな人は誰なんだい?
長篠城址史跡保存館に展示されている、「援軍は来るぞ!」と叫んでいるところを再現した焼き物とのことです。
やはりどうする家康は
お遊戯のレベルを超えないですね。
折角秀吉役をムロツヨシさんにしてサイコパス的な演出したのに小牧長久手の戦での榊原康政の檄文を補足スルーしそうな雰囲気ですからね。あの檄文こそ秀吉が自身を戒めて天下統一の礎になったのですが。
ハッキリと記録に残って間違いないと確定している事に関しては割と正確に描写してるって、何処かのTH-camチャンネルで言ってたのを観たような。
市橋先生が史実に一番近いって、おっしゃってましたよ。
小沢さんの脚本は伏線がいっぱいだから、嗚呼あれかあと楽しんで見てます。その当時に生きている人は今は一人もいない。石川数正の二秒間、カメラぬいたの気づいてますか?
勝頼はまだまだ家康を攻めてるでしょう。さすがに強いですね。来週はとうとう長篠の合戦です。
歴史家先生たちの話を聞くと今年の大河の出来にはがっかりするところがあります。
フィクションを入れるにしてももう少し格好が付く演出をして頂きたいですよ。
これまでの家康像がどんどん崩れていって、信長もあんな魔王風に描くのも時代遅れな気がするんですけどね。
@@shi-ryu8yiさん
返信を変えて申し訳ないです。歴史家先生達の家康公の何にがっかりするのか、もし良ければ、歴史家先生のお名前を教えてください。