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旧山伏トンネルは、自転車とクルマで何度か通ったことがあります。中は素掘りで狭く、小型車とバスがなんとかすれ違える程度でした。峠道の御多分に漏れず山中湖側にHホテルがありましたね。10年くらい前に道志側の入り口を見に行った時には、入り口に半分くらい土が盛られていましたが、完全に埋もれていたとは知りませんでした。リアル峠の道が現存しているのは、登山者のおかげなんでしょうね。
やはり昭和初期のトンネルともなるとそのような感じだったのですか。それでも現存する山中湖側の抗口は立派な装飾が施されており当時としてはかなりの期待を持って開通したのでしょう。抗口自体は特に塞がれていないようなので掘り返したらもしかしたら通れるのでしょうか。峠というのは稜線の低く窪んだ鞍部に設けられるものですが今までのパターンからそこから稜線を伝って周りの山々に行くことができる登山道が延びているようです。峠というのは山を越えるポイントであると同時に山頂と麓を結ぶジャンクション的な存在でそれが現在における峠の存在意義なのでしょうね。
こんにちは。ただただ素晴らしいです。私が山中湖方面にオフロードバイクで駆け抜けていたころはすでに今のトンネルでした。旧道の山中湖側にはレストラン?様の建物がありました。そして山側への登山道があり少し上がれば富士山の撮影スポットでした。この探索シリーズは私にも大変興味深いものです。しかし何せ単独行、くれぐれもお気をつけてお願いいたします。👍😊🍁🙋♂
私も免許を取ったのは平成になってからなのでやはり旧道の記憶はありません。ただそれ以降もあちこち改良されているはずなのですがやはりかなりの記憶がありません。旧トンネルの脇にはかつてはドライブインやホテルがあったそうですがそれも既に過去のものとなってしまったのでしょう。旧甲州街道のトレースの一環で旧笹子峠を越えた事で旧峠に関心を持ち、そこから始めた旧峠の探索ですが徒歩で越えていた峠というものに大きなロマンを感じてしまいます。例えば今TH-camで「峠」と検索したら本来の峠とは全く違うものが出てきますしかつては私もそんな認識でした。このシリーズはそれらに対するアンチテーゼでもあります。
「トンネル峠には旧峠あり」とは名言ですね。まさにその通りです。最近は道志みちなどを走っていても、トンネルに差し掛かると歩いているかもしれない人の姿と、旧道への入り口を探してしまいます。道志みちはそんなところがたくさんありますね。また暖かくなったら探索を再開してください。
今まで何の疑問も持たずに通過していたトンネル峠ですが本当の笹子峠を越えて以来気になってしょうが無くなってしまいました。新しいトンネルに旧道は付き物ですが峠というのは盲点だったので毎回驚きの連続です。最近はだんだん寒くなってきましたし日が落ちるのも早くなったので山歩きにはちょっと厳しい季節になってきました。また暖かくなってきたら再開しようと思います。
山伏峠の名の由来は昔道志村に来て悪さをした山伏を埋めたところと何かで読んだ記憶があります 元々道志の人が何かを山伏に頼んだのが始まりだったと思いますが、話の前半は忘れてしまいました
初めてどうし道(当時はそんな名前は付いてませんでしたが)を通り抜けたのは昭和51年頃なので、旧山伏トンネルを抜けたことは間違い無いですが、雰囲気等記憶には全く残っていません。残っているのは大半が狭く未舗装部分が多かったことだけです。
やはり道志みちもかつては道路状況もあまり良くなかったのですか。相模原市内にあるトンネルは比較的近年にできたので旧道を通った記憶があるはずなのですがそれもあまり覚えてませんよね。現在も大規模な改良工事が進んでいるので今度こそは旧道になるであろう区間をしっかりと記憶に留めておきたいと思います。
廃トンネルに土砂を盛って隠してしまう・・・というのは有り得ると思います。以前、廃道探検家の人のサイトを見ていたら、「まだアスファルトの残る廃道に、土と種の混ざったものを撒いて原野にしてしまう」という手法があるんだそうで、まぁ、人が勝手に入り込んでしまったら危ないので、物理的に入り込めないようにしているのでしょうか?それにしても、旧道探検はロマンがあります。動画を観ていてゾクゾクしました。
山梨県の場合廃トンネルはコンクリートで抗口を埋めてしまう傾向があると某廃道探検家の人が述べていたような気がします。それでもここは現存する山中湖側は特に塞がれてないように見えます。同じ道志村内の道坂トンネルもやはり旧道と旧トンネルがありますが旧トンネルはどちらの抗口も見事にコンクリートで塞がれていました。興味深いのはその旧道で現道と繋がっている道志側はそのままだったのに対して繋がっていない都留側は完全な廃道となっていました。道の跡は残るもののアスファルトは完全に剥がされたものと思っていましたがもしかしたら土を盛っただけなのかもしれませんね。
旧山伏トンネルは、自転車とクルマで何度か通ったことがあります。
中は素掘りで狭く、小型車とバスがなんとかすれ違える程度でした。
峠道の御多分に漏れず山中湖側にHホテルがありましたね。
10年くらい前に道志側の入り口を見に行った時には、入り口に半分くらい土が盛られていましたが、完全に埋もれていたとは知りませんでした。
リアル峠の道が現存しているのは、登山者のおかげなんでしょうね。
やはり昭和初期のトンネルともなるとそのような感じだったのですか。
それでも現存する山中湖側の抗口は立派な装飾が施されており当時としてはかなりの期待を持って開通したのでしょう。
抗口自体は特に塞がれていないようなので掘り返したらもしかしたら通れるのでしょうか。
峠というのは稜線の低く窪んだ鞍部に設けられるものですが今までのパターンからそこから稜線を伝って周りの山々に行くことができる登山道が延びているようです。
峠というのは山を越えるポイントであると同時に山頂と麓を結ぶジャンクション的な存在でそれが現在における峠の存在意義なのでしょうね。
こんにちは。ただただ素晴らしいです。私が山中湖方面にオフロードバイクで駆け抜けていたころはすでに今のトンネルでした。
旧道の山中湖側にはレストラン?様の建物がありました。そして山側への登山道があり少し上がれば富士山の撮影スポットでした。
この探索シリーズは私にも大変興味深いものです。
しかし何せ単独行、くれぐれもお気をつけてお願いいたします。👍😊🍁🙋♂
私も免許を取ったのは平成になってからなのでやはり旧道の記憶はありません。
ただそれ以降もあちこち改良されているはずなのですがやはりかなりの記憶がありません。
旧トンネルの脇にはかつてはドライブインやホテルがあったそうですがそれも既に過去のものとなってしまったのでしょう。
旧甲州街道のトレースの一環で旧笹子峠を越えた事で旧峠に関心を持ち、そこから始めた旧峠の探索ですが徒歩で越えていた峠というものに大きなロマンを感じてしまいます。
例えば今TH-camで「峠」と検索したら本来の峠とは全く違うものが出てきますしかつては私もそんな認識でした。
このシリーズはそれらに対するアンチテーゼでもあります。
「トンネル峠には旧峠あり」とは名言ですね。まさにその通りです。最近は道志みちなどを走っていても、トンネルに差し掛かると歩いているかもしれない人の姿と、旧道への入り口を探してしまいます。道志みちはそんなところがたくさんありますね。
また暖かくなったら探索を再開してください。
今まで何の疑問も持たずに通過していたトンネル峠ですが本当の笹子峠を越えて以来気になってしょうが無くなってしまいました。
新しいトンネルに旧道は付き物ですが峠というのは盲点だったので毎回驚きの連続です。
最近はだんだん寒くなってきましたし日が落ちるのも早くなったので山歩きにはちょっと厳しい季節になってきました。
また暖かくなってきたら再開しようと思います。
山伏峠の名の由来は昔道志村に来て悪さをした山伏を埋めたところと何かで読んだ記憶があります 元々道志の人が何かを山伏に頼んだのが始まりだったと思いますが、話の前半は忘れてしまいました
初めてどうし道(当時はそんな名前は付いてませんでしたが)を通り抜けたのは昭和51年頃なので、旧山伏トンネルを抜けたことは間違い無いですが、雰囲気等記憶には全く残っていません。
残っているのは大半が狭く未舗装部分が多かったことだけです。
やはり道志みちもかつては道路状況もあまり良くなかったのですか。
相模原市内にあるトンネルは比較的近年にできたので旧道を通った記憶があるはずなのですがそれもあまり覚えてませんよね。
現在も大規模な改良工事が進んでいるので今度こそは旧道になるであろう区間をしっかりと記憶に留めておきたいと思います。
廃トンネルに土砂を盛って隠してしまう・・・というのは有り得ると思います。以前、廃道探検家の人のサイトを見ていたら、「まだアスファルトの残る廃道に、土と種の混ざったものを撒いて原野にしてしまう」という手法があるんだそうで、まぁ、人が勝手に入り込んでしまったら危ないので、物理的に入り込めないようにしているのでしょうか?
それにしても、旧道探検はロマンがあります。動画を観ていてゾクゾクしました。
山梨県の場合廃トンネルはコンクリートで抗口を埋めてしまう傾向があると某廃道探検家の人が述べていたような気がします。
それでもここは現存する山中湖側は特に塞がれてないように見えます。
同じ道志村内の道坂トンネルもやはり旧道と旧トンネルがありますが旧トンネルはどちらの抗口も見事にコンクリートで塞がれていました。
興味深いのはその旧道で現道と繋がっている道志側はそのままだったのに対して繋がっていない都留側は完全な廃道となっていました。
道の跡は残るもののアスファルトは完全に剥がされたものと思っていましたがもしかしたら土を盛っただけなのかもしれませんね。