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私は秦氏です。先祖は法隆寺に勤めていました。韓国では、ちんと呼ばれました。
26:40私は「はだ」氏って読んでしまいました……大阪に来て2回目の引っ越し先が寝屋川市で市役所から東側170号線渡った向こう側の地名に秦町(はだちょう)や太秦~(うづまさ~)って地名が複数あって道路でも池田秦線(18号線の170号線交差した西側延線、13号線と丁字交差するまで)って道があるしそのせいで自然と1文字だと「はだ」太が頭についたら「まさ」って読んでました
紀元前2世紀の徐福の子孫も「秦氏」とか、、応神天皇の時代に来た「弓月君」も「秦氏」とか、期間が長すぎな気がするんですよね。何度も「秦氏」が渡来してる。つまり、「はた」ってのはもともと「渡来人」という意味なんじゃね?弥生時代の渡来人の作った「機織」も「はたおり」だし、「八幡」も「やはた」。隋書倭国伝にでてくる「秦王国」も「はた王国」なのかもしれん。「秦」を「はた」と読んでるからこそ、遡って「秦」がルーツと言い始めたんだろうなぁ。太秦の「うずまさ」はこれこそ「弓月」のウズかと。「後秦」の末裔も日本に来て、同じように「秦」を名乗ったんじゃね。まぁ、、予想というか妄想の類ですけれどね。面白かったです。
大陸の名族名乗ると都合が良いから騙ってた連中が大半だと思うよ。
弓月君本宗(秦氏)以外は秦人と呼ぶべきでは。何世紀にも亘り渡来した人々は全部秦人に統一、彼等と弓月君とは地縁も血縁もなく誤解を招かない為にも区別するのが秦氏を語る上で重要かと思います。
@@辻雄大-d8x朝廷や豪族に重用されるには、やっぱそれが一番効いてくるよなぁ
弓月君の一団がチベット人だったとはいっても、共通の先祖から日本に来た一派とチベットに行った一派に分かれたと考えたほうが自然かなあ。と想像する次第です。
伏見稲荷といえば氏子町が神社の周りではなく、河原町松原や京都駅周辺で、伏見稲荷周辺は藤森神社の氏子町だったりします。かなり特殊な町割りに、色々説が説かれていますが未だはっきりしていません。
遅くとも奈良時代にはペルシャ人が日本で役人をしているし、戦国時代の山東省にはコーカソイド集団も住んでいたので、弓月国のユダヤ系民族が端から来た秦氏集団の一角であっても不思議では無いのでしょうね。「うず」を「はた」と読むようになるのは養蚕や機織りで重要な地位を占めた結果、秦氏から機氏、幡氏になったのかも知れません。卑弥呼の時代には既に養蚕が盛んなので、それを伝えたとなれば後漢の間に日本でトライしていたのでしょうか。
ハタ=海 についてですが、朝鮮半島南部の倭人が日本海のことを「ワタリ=watari 」と呼んでいて、韓語にwが無かったため「patar」になり、後に日本で渡来人がそれを名乗った、あるいは倭人達からそう呼ばれるうちに定着したという説があります。
まあ間違いとわかっても日本書紀をそのまま由緒にしてる神社が多い中、ちゃんと学術調査に基づいて新羅由来とHPにのせてる伏見稲荷は誠実だよね
不思議なことに、平安京建設の最大の出資者の秦氏は、平安時代に入った途端、煙のように忽然と日本史の表舞台から姿を消してしまうんですよね(笑)。以前、私の敬愛する著述家・佐治芳彦――徳間書店『謎の~~』シリーズの著者――が、文献的には立証できないと断りつつ、❝ おそらく藤原種継の死後、秦氏と藤原氏とがスリ替わったのではないか ❞(『日本史の謎と素顔』日本文芸社 1988年)、という仮説を提示していました。藤原不比等の三子の病死後、藤原広嗣・同仲麻呂が謀反の末に誅殺されて、挙句の果てに藤原種継が暗殺された時点で、藤原氏のビッグネームは全滅・・・・・・。このような状況下で、秦氏は――。秦氏の出自・起源もさることながら、その「行方」も、ミステリーやSFのネタにもなりそうな面白い謎ですね。
秦氏って土着豪族と比べて、大体が官位低くなかったっけ それで最大出資者になれる財力あったの凄くね
雅楽の家のいくつかは、秦氏の末裔だと聞いてます。 東儀家は、その一つだそうです。
京都太秦に蚕の社という神社がありますね。元糺の池に三柱鳥居がある不思議な神社です。
ゆづきと聞くと戦国好きからすると伊予松山の湯築城が思いつく。付近の伊佐爾波神社の別称が湯月八幡。朝鮮と関連しそうな事柄は白村江の前、道後に日本・百済連合軍を集結させた。河野氏の祖先の越智氏が白村江で捕虜になったこと
湯築城は城の中に温泉があるからでしょ。そもそも道後温泉にある城だし
@@domwoo309 それが道後温泉があるからってだけじゃないんだよな。現地に行って自分の目と足で調べてみるといい
能の大成者・世阿弥の『風姿花伝』に秦河勝は秦の始皇帝の「子孫」ではなく「転生」だとあります秦氏は、氏族というよりは同族経営の会社、職業集団(土木、服飾、芸能なんでもこなす)のようなもので、その守護神として秦の始皇帝を祀った、ということかと江戸時代の蘭方医は古代ギリシャのヒポクラテスを祀ったりしてますしはじめは渡来人が社長でも、在来の大和人に代替わりしたので、神社建立にも熱心になった、とかかも
後秦の末裔、というのは、秦氏が、自分らは秦の始皇帝の末裔、と奇妙な自称をしていたのを考えると、実際そこらの地域に何らかのルーツは一応あったのかもしれない。春秋の秦国は西方の異民族犬戎と戦って彼らを吸収しているので、漢族だけでなくチベット系の集団も住んでいた。後秦の遺民はそういう漠然とした記憶があって、流浪しながらも伝承していたのかも。縄文系日本人とチベット民族はアジアの中では孤立したハプログループDに属するので、秦氏が日本に来たがったのは偶然だろうけどもしチベット系というのが事実なら、そういう奇縁を感じないでもない
1県につき10人だったら120県×10人=1200人ですね😅
まあまあ現実的な数ですね
古代中国では古代ローマの事を大秦と記述している。何らかの繋がりは有りそうな気がする。
県は都市のことで人数じゃなく地域を示してるのでは?めっちゃ広域から民を連れてきますよって感じで。
福井県の敦賀市に秦さんと言う家が、有りますが、秦の始皇帝からの系図があると言う話しを聞いた事が有ります。
嘘か真か秦氏が大陸や半島系じゃなくて実はユダヤ系の人だったみたいに書いてある漫画見た事あるなあ🙄
秦が陝西省の旧名で位置的にシルクロードに近く中東系の文化に触れることが出来たからみたいな根拠らしいです
正体が知れると外交上面倒くさい場合があるから「全部海から来た人=秦さん」にする慣習だったとすると時代がズレても問題なくなるかな。
古代日本って以外と国際色強いっぽいね
神道の原型、根源は日本にあったけど、秦氏の文化と接触して体系化された説。
子どもの頃に秦(しん)を知る前に秦(はた)さんで知ったね
万里の長城の柵の外の人たちのことを秦と言っていたんですかね。たしか田中英道さんの本には。
日本書紀の百済120県は結構あやしい。三国史記に出てくる百済の郡県数は143。恐らく百済滅亡時の数字だろうけど、その部分を割引いても百済全土の人民つれて逃げてきたって話になるな
秦氏=徳島=土木工事が得意らしいので、治水が難しい徳島の地を与えられた?という話を聞いた事がある
秦氏はでも、京都盆地の東西に有名神社≒盆地の全体を一族で開拓経営してたのだろうし、播磨の方も秦の国みたいな事書いてる=使節が見てきた中国の歴史書もあるようだし、、大規模に入ってきてたのは間違いないとして、果たして飛鳥・藤原京の時代・平城京の時代と進む中でどうなっちゃったのか、、京都盆地への遷都まで長岡まで含む盆地一帯を抑えてはいてもなんやかんや藤原氏に上前をはねられる体制になって弱体化させられていってたのか、、
秦氏とユダヤの話、してほしい
10人x120県=1200人だと思う。
秦さんて中学の同級生にいた、秦川勝開基のお寺の息子だった。
すみません 個人情報の観点からそのコメントはちょっとまずいのではと思います
@@NomokkunDaisuki少なくとも個人情報保護法には抵触しません(対象外の方です)このプロファイルでたどり着ければなかなかの物です
@@4l329l すみません
バイト先に「秦」さんおったけど韓国出身の「ジン」さんでガッカリ(?)した
田淵幸一さんの奥さんもいたな。アレはジャネット秦にしとこ。😂
応神朝や秦氏については、そもそも新羅と辰韓を区別しないから混乱するんだと思います辰韓は秦の韓で、秦の滅亡後に韓半島へ逃げてきた流民が建てた国その元となった秦が、そもそも中央アジアから黄河流域に来た遊牧民が建てた国なので、辰韓に弓月国と同民族がいても何ら不思議はないわけですその後に辰韓には高句麗から扶余族もかなり移住してきて、4世紀に辰王朝の血が途絶えた際に扶余族の臣官が代わって王位についたのが新羅ですここで、辰韓王朝の弓月系の部族は新羅王朝から迫害されたと見られ、それが弓月君の民が新羅に囚われたと言う表現になるわけですその辰韓王族の血を引くのが天日矛の子孫の神功皇后で、だからこそ辰韓の地を奪った新羅へ出兵して新羅王朝を服属させ、その子の応神天皇が新羅から弓月系の民を受け入れたわけです。それが秦氏でしょう考古学者が新羅系と言ってるのは辰韓の文化なので、中央アジアの弓月系の民である秦氏が新羅系に見えるんだと思います日本書紀で弓月君が百済から来たことになっているのは、当時の倭は新羅とは強い敵対関係にあったので、弓月君は新羅系ではない韓人だとして、「百済から来た」と言う記載になったのではないかと思います
120世帯十人で千二百人 、間違えて10倍の12,000人の想定でやってたら当時の日本社会に与える影響全然違うから考察動画なら全編再うpレベルでは?これ笑
日本神話とギリシャ神話に類似点が多いのは秦氏の渡来も原因て思ってます。ペガサス=アメノフシコマメデューサ=八岐大蛇なんかが酷似してますね。
その界隈ではそこそこ有名なのだけれどオシリスとオオクニヌシの話なんかそう。主な共通点は兄弟に謀殺された後女神によって復活する。謀殺したセトのシンボルは猪であり、オオクニヌシも猪を模した岩で圧殺される。オシリスもオオクニヌシも最終的に死後の世界を支配するまた因幡の白兎では何故か鮫をワニと読むが、日本にワニはいないのて鮫を鰐という事にしたのではないか?という説もある。
隋書倭国伝には608年に来日した中国の使者が日本で見た様子が書いてあり、秦王國があってそこの人は中国人だと書いてあります。
僕は秦氏はユダヤ人であったと思っている。ユダヤ人の総称だったと考えている。
秦氏の正体は果たして……
ワイが知ってる秦さんはマルチ商法やってる。
秦 秦□ 羽田 羽田□ 畑 畑□ 畠□ 八田の有名人くっきりした顔立ち高身長 手足長い人がかなり多いのでエキゾチックな系統と思いますねガラスの権威の由水常雄氏の著作「ローマ文化国ー新羅」でも6世紀前半以前の新羅出土のガラス器にローマ系統の技法の物が極端に多いとか、ローマ設計でエジプト製作の調度品が新羅のみ出土とかで西方文明人が来てたと思われます倭人も建国期から王とか大臣でいてたと高句麗の書いた歴史書にあったりもしますがその後は中国化されたようです
そもそも何故日本を目指す?来たかった?のかな。秦氏にしろ弓月君にしろ。
新たなエルサレムを求めて来た…平安京がそれ。
1県10人なら1200人じゃん
全国にある〇〇高田は秦氏の都
いずれにせよ、皇室に仕えた伝道師みたいな感じだから、近代で言うと伊藤博文のような存在なのでは
八幡は応神天皇のことだよ。
縄文日本→シュメール →ヘブライ人→エジプト→イスラエル→ユダ王国→バビロン→ユダ属州という流れの中で考えた方が良さそうです。
なんか、遅れている。
あ、そのあと2万人説語ってた、それならおK!^_^
1
秦は漢族ではなく西方のモンゴル系といわれます。
Yuda、hada。hata。usa。
スサノウの刀を 造ったとなると??時代がおかしくなる古事記。さて国譲りは、いつの時代だったのか???😊😊
私は秦氏です。
先祖は法隆寺に勤めていました。韓国では、ちんと呼ばれました。
26:40
私は
「はだ」氏って読んでしまいました
……
大阪に来て2回目の引っ越し先が
寝屋川市で
市役所から東側
170号線渡った向こう側の地名に
秦町(はだちょう)や
太秦~(うづまさ~)って地名が複数あって
道路でも
池田秦線(18号線の170号線交差した西側延線、13号線と丁字交差するまで)って道があるし
そのせいで
自然と
1文字だと「はだ」
太が頭についたら「まさ」
って読んでました
紀元前2世紀の徐福の子孫も「秦氏」とか、、応神天皇の時代に来た「弓月君」も「秦氏」とか、期間が長すぎな気がするんですよね。
何度も「秦氏」が渡来してる。
つまり、「はた」ってのはもともと「渡来人」という意味なんじゃね?
弥生時代の渡来人の作った「機織」も「はたおり」だし、「八幡」も「やはた」。
隋書倭国伝にでてくる「秦王国」も「はた王国」なのかもしれん。
「秦」を「はた」と読んでるからこそ、遡って「秦」がルーツと言い始めたんだろうなぁ。
太秦の「うずまさ」はこれこそ「弓月」のウズかと。
「後秦」の末裔も日本に来て、同じように「秦」を名乗ったんじゃね。
まぁ、、予想というか妄想の類ですけれどね。
面白かったです。
大陸の名族名乗ると都合が良いから騙ってた連中が大半だと思うよ。
弓月君本宗(秦氏)以外は秦人と呼ぶべきでは。何世紀にも亘り渡来した人々は全部秦人に統一、彼等と弓月君とは地縁も血縁もなく誤解を招かない為にも区別するのが秦氏を語る上で重要かと思います。
@@辻雄大-d8x
朝廷や豪族に重用されるには、やっぱそれが一番効いてくるよなぁ
弓月君の一団がチベット人だったとはいっても、共通の先祖から日本に来た一派とチベットに行った一派に分かれたと考えたほうが自然かなあ。
と想像する次第です。
伏見稲荷といえば氏子町が神社の周りではなく、河原町松原や京都駅周辺で、伏見稲荷周辺は藤森神社の氏子町だったりします。
かなり特殊な町割りに、色々説が説かれていますが未だはっきりしていません。
遅くとも奈良時代にはペルシャ人が日本で役人をしているし、戦国時代の山東省にはコーカソイド集団も住んでいたので、弓月国のユダヤ系民族が端から来た秦氏集団の一角であっても不思議では無いのでしょうね。
「うず」を「はた」と読むようになるのは養蚕や機織りで重要な地位を占めた結果、秦氏から機氏、幡氏になったのかも知れません。
卑弥呼の時代には既に養蚕が盛んなので、それを伝えたとなれば後漢の間に日本でトライしていたのでしょうか。
ハタ=海 についてですが、朝鮮半島南部の倭人が日本海のことを「ワタリ=watari 」と呼んでいて、韓語にwが無かったため「patar」になり、後に日本で渡来人がそれを名乗った、あるいは倭人達からそう呼ばれるうちに定着したという説があります。
まあ間違いとわかっても日本書紀をそのまま由緒にしてる神社が多い中、ちゃんと学術調査に基づいて新羅由来とHPにのせてる伏見稲荷は誠実だよね
不思議なことに、平安京建設の最大の出資者の秦氏は、平安時代に入った途端、煙のように忽然と日本史の表舞台から姿を消してしまうんですよね(笑)。
以前、私の敬愛する著述家・佐治芳彦――徳間書店『謎の~~』シリーズの著者――が、文献的には立証できないと断りつつ、❝ おそらく藤原種継の死後、秦氏と藤原氏とがスリ替わったのではないか ❞(『日本史の謎と素顔』日本文芸社 1988年)、という仮説を提示していました。藤原不比等の三子の病死後、藤原広嗣・同仲麻呂が謀反の末に誅殺されて、挙句の果てに藤原種継が暗殺された時点で、藤原氏のビッグネームは全滅・・・・・・。このような状況下で、秦氏は――。
秦氏の出自・起源もさることながら、その「行方」も、ミステリーやSFのネタにもなりそうな面白い謎ですね。
秦氏って土着豪族と比べて、大体が官位低くなかったっけ それで最大出資者になれる財力あったの凄くね
雅楽の家のいくつかは、秦氏の末裔だと聞いてます。
東儀家は、その一つだそうです。
京都太秦に蚕の社という神社がありますね。元糺の池に三柱鳥居がある不思議な神社です。
ゆづきと聞くと戦国好きからすると伊予松山の湯築城が思いつく。付近の伊佐爾波神社の別称が湯月八幡。
朝鮮と関連しそうな事柄は白村江の前、道後に日本・百済連合軍を集結させた。河野氏の祖先の越智氏が白村江で捕虜になったこと
湯築城は城の中に温泉があるからでしょ。そもそも道後温泉にある城だし
@@domwoo309 それが道後温泉があるからってだけじゃないんだよな。
現地に行って自分の目と足で調べてみるといい
能の大成者・世阿弥の『風姿花伝』に秦河勝は秦の始皇帝の「子孫」ではなく「転生」だとあります
秦氏は、氏族というよりは同族経営の会社、職業集団(土木、服飾、芸能なんでもこなす)のようなもので、その守護神として秦の始皇帝を祀った、ということかと
江戸時代の蘭方医は古代ギリシャのヒポクラテスを祀ったりしてますし
はじめは渡来人が社長でも、在来の大和人に代替わりしたので、神社建立にも熱心になった、とかかも
後秦の末裔、というのは、秦氏が、自分らは秦の始皇帝の末裔、と奇妙な自称をしていたのを考えると、実際そこらの地域に何らかのルーツは一応あったのかもしれない。
春秋の秦国は西方の異民族犬戎と戦って彼らを吸収しているので、漢族だけでなくチベット系の集団も住んでいた。
後秦の遺民はそういう漠然とした記憶があって、流浪しながらも伝承していたのかも。
縄文系日本人とチベット民族はアジアの中では孤立したハプログループDに属するので、秦氏が日本に来たがったのは偶然だろうけどもしチベット系というのが事実なら、そういう奇縁を感じないでもない
1県につき10人だったら120県×10人=1200人ですね😅
まあまあ現実的な数ですね
古代中国では古代ローマの事を大秦と記述している。
何らかの繋がりは有りそうな気がする。
県は都市のことで人数じゃなく地域を示してるのでは?
めっちゃ広域から民を連れてきますよって感じで。
福井県の敦賀市に秦さんと言う家が、有りますが、秦の始皇帝からの系図があると言う話しを聞いた事が有ります。
嘘か真か秦氏が大陸や半島系じゃなくて実はユダヤ系の人だったみたいに書いてある漫画見た事あるなあ🙄
秦が陝西省の旧名で位置的にシルクロードに近く中東系の文化に触れることが出来たからみたいな根拠らしいです
正体が知れると外交上面倒くさい場合があるから「全部海から来た人=秦さん」にする慣習だったとすると時代がズレても問題なくなるかな。
古代日本って以外と国際色強いっぽいね
神道の原型、根源は日本にあったけど、秦氏の文化と接触して体系化された説。
子どもの頃に秦(しん)を知る前に秦(はた)さんで知ったね
万里の長城の柵の外の人たちのことを秦と言っていたんですかね。たしか田中英道さんの本には。
日本書紀の百済120県は結構あやしい。三国史記に出てくる百済の郡県数は143。恐らく百済滅亡時の数字だろうけど、
その部分を割引いても百済全土の人民つれて逃げてきたって話になるな
秦氏=徳島=土木工事が得意らしいので、治水が難しい徳島の地を与えられた?という話を聞いた事がある
秦氏はでも、京都盆地の東西に有名神社≒盆地の全体を一族で開拓経営してたのだろうし、播磨の方も秦の国みたいな事書いてる=使節が見てきた中国の歴史書もあるようだし、、大規模に入ってきてたのは間違いないとして、果たして飛鳥・藤原京の時代・平城京の時代と進む中でどうなっちゃったのか、、京都盆地への遷都まで長岡まで含む盆地一帯を抑えてはいてもなんやかんや藤原氏に上前をはねられる体制になって弱体化させられていってたのか、、
秦氏とユダヤの話、してほしい
10人x120県=1200人だと思う。
秦さんて中学の同級生にいた、秦川勝開基のお寺の息子だった。
すみません 個人情報の観点からそのコメントはちょっとまずいのではと思います
@@NomokkunDaisuki少なくとも個人情報保護法には抵触しません(対象外の方です)このプロファイルでたどり着ければなかなかの物です
@@4l329l すみません
バイト先に「秦」さんおったけど韓国出身の「ジン」さんでガッカリ(?)した
田淵幸一さんの奥さんもいたな。
アレはジャネット秦にしとこ。😂
応神朝や秦氏については、そもそも新羅と辰韓を区別しないから混乱するんだと思います
辰韓は秦の韓で、秦の滅亡後に韓半島へ逃げてきた流民が建てた国
その元となった秦が、そもそも中央アジアから黄河流域に来た遊牧民が建てた国なので、辰韓に弓月国と同民族がいても何ら不思議はないわけです
その後に辰韓には高句麗から扶余族もかなり移住してきて、4世紀に辰王朝の血が途絶えた際に扶余族の臣官が代わって王位についたのが新羅です
ここで、辰韓王朝の弓月系の部族は新羅王朝から迫害されたと見られ、それが弓月君の民が新羅に囚われたと言う表現になるわけです
その辰韓王族の血を引くのが天日矛の子孫の神功皇后で、だからこそ辰韓の地を奪った新羅へ出兵して新羅王朝を服属させ、その子の応神天皇が新羅から弓月系の民を受け入れたわけです。それが秦氏でしょう
考古学者が新羅系と言ってるのは辰韓の文化なので、中央アジアの弓月系の民である秦氏が新羅系に見えるんだと思います
日本書紀で弓月君が百済から来たことになっているのは、当時の倭は新羅とは強い敵対関係にあったので、弓月君は新羅系ではない韓人だとして、「百済から来た」と言う記載になったのではないかと思います
120世帯十人で千二百人 、間違えて10倍の12,000人の想定でやってたら当時の日本社会に与える影響全然違うから考察動画なら全編再うpレベルでは?これ笑
日本神話とギリシャ神話に類似点が多いのは秦氏の渡来も原因て思ってます。
ペガサス=アメノフシコマ
メデューサ=八岐大蛇
なんかが酷似してますね。
その界隈ではそこそこ有名なのだけれどオシリスとオオクニヌシの話なんかそう。
主な共通点は
兄弟に謀殺された後女神によって復活する。
謀殺したセトのシンボルは猪であり、オオクニヌシも猪を模した岩で圧殺される。
オシリスもオオクニヌシも最終的に死後の世界を支配する
また因幡の白兎では何故か鮫をワニと読むが、日本にワニはいないのて鮫を鰐という事にしたのではないか?という説もある。
隋書倭国伝には608年に来日した中国の使者が日本で見た様子が書いてあり、秦王國があってそこの人は中国人だと書いてあります。
僕は秦氏はユダヤ人であったと思っている。
ユダヤ人の総称だったと考えている。
秦氏の正体は果たして……
ワイが知ってる秦さんはマルチ商法やってる。
秦 秦□ 羽田 羽田□ 畑
畑□ 畠□ 八田
の有名人
くっきりした顔立ち
高身長 手足長い
人がかなり多いので
エキゾチックな系統と思いますね
ガラスの権威の由水常雄氏の著作「ローマ文化国ー新羅」でも6世紀前半以前の新羅出土のガラス器にローマ系統の技法の物が極端に多いとか、ローマ設計でエジプト製作の調度品が新羅のみ出土とかで西方文明人が来てたと思われます
倭人も建国期から王とか大臣でいてたと高句麗の書いた歴史書にあったりもしますが
その後は中国化されたようです
そもそも何故日本を目指す?来たかった?のかな。秦氏にしろ弓月君にしろ。
新たなエルサレムを求めて来た…平安京がそれ。
1県10人なら1200人じゃん
全国にある〇〇高田は秦氏の都
いずれにせよ、皇室に仕えた伝道師みたいな感じだから、近代で言うと伊藤博文のような存在なのでは
八幡は応神天皇のことだよ。
縄文日本→シュメール →ヘブライ人→エジプト→イスラエル→ユダ王国→バビロン→ユダ属州
という流れの中で考えた方が良さそうです。
なんか、遅れている。
あ、そのあと2万人説語ってた、それならおK!^_^
1
秦は漢族ではなく西方のモンゴル系といわれます。
Yuda、hada。hata。usa。
スサノウの刀を 造ったとなると??
時代がおかしくなる古事記。
さて国譲りは、いつの時代だったのか???😊😊