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“元”海事関係者です。 素晴らしい内容の動画です。河村瑞賢、伊勢出身だったんですね😊現在も日本各地の地名に“津”が入る地名がありますが、津は元々“港”を意味する語です。我が三重県の津なんてのは、昔は規模的に見てデカイ港がありましたが、ある地震で港全体が崩壊し、今はその痕跡すらありません。地名にその痕跡が残るのみです。また三重県の的矢湾内のかつての“風俗島”W島なんかも、あれは元々、これらの船の“風待ち港”として誕生した、後の姿なのです。
津々浦々ってことですか
高校の日本史でどうしてもイメージできなかった東廻り航路・西廻り航路・樽廻船などがやっと理解できました。何十年間の盲が開かれた思いです。
西廻り航路と北前船のおかげで昆布だしをペーストした関西の食文化が花開いたと思うので、河村瑞軒には感謝しかない。
妙な脚色、演出が無く資料に基づいた内容をシンプルに説明していくスタイルがとても分かりやすく、大変勉強になりました。
脳内で単語で覚えていた事柄に、肉付けがされ、理由付けがされて、別の用語と繋がっていく感じがとても愉しいです😊
もう江戸時代には、船舶を利用した全国ネットの物流網が発達していたのはスゴイですね🐈確かにあの当時何トンも一度に輸送出来るのは船舶🚢北前船始め、航路を切り開いて行った先人達の航海技術も素晴らしいですね🦔今や遥か遠い世界中から日本に物資が運ばれ、また世界中に日本の産物が運ばれる🌐日本、そして世界中と繋がっていると思うとロマンが有りますね🕊️
相も変わらずなんと素晴らしい内容なんでしょう!最高です
河村瑞賢は海運・治水の功労者ですよね。こういう人もTVドラマで描いてほしいなあと思います🌈
淀川水系下流の治水もこのかたの成果ですね。安治川開削もありましたし。その後治水はオランダ人お雇い技師のデレーケとエッセルに引き継がれることになりました。
日本橋の下を商船が行き交う光景は素晴らしいものだったでしょうね。新潟から下関を回って大阪までいくルートを開発するという着眼点はすごいですね。地図だけで見たら、陸路使った方が俄然早そうですが、積荷の載せ替え、陸路での移動の負担がかなり大きいものだったんですね。各地を回って商売をしながら移動していく形に変化していくことで、さらに意義あるルートに変わっていったなど。変化していく様が非常に興味深く面白かったです。
現代はトラックや列車など陸路での国内輸送がメインですが、江戸時代の船を使った水上交通網の発達には驚かされました。米や酒、木綿など各地の特産品を消費地に送るまで、航路開拓や廻船の様子が伝わってきて面白かったです。
13:31 この動画に多数ある様な、絵でしか見た事のない船を写真で見られるとは感慨深い。19:53 小型の船なのに、かまどが付いてるんですね!
13:31石川県加賀市橋立町の北前船の里資料館に同じような北前船の写真が展示されていました。19:53は京都の伏見から大坂の八軒家までの三十石船の絵ですね。今丁度八軒家に到着したところです。かまどは乗船客へ給茶サービスがあったとか、船頭さん用だったとか読んだことがありますがどちらなのかはっきりしません。
長期休館していた函館の高田屋嘉兵衛資料館が再開したのでぜひ行きたいと思ってます。
そんな資料館があるのですね。幕末の雄、ロシアに拿捕された商人ですね。ロシア人もその豪胆さに敬服したそうです。無事帰国されてロシアとの交易を始めたとか。時代は少し遡りますが隣の三重県で大黒屋光太夫の記念館を偶然見つけて、見学したことがあります。稀有な経験とその生命力に敬服するばかりです。
嘉兵衛の「辰越丸」が復元されています。
海運が主要な輸送手段だったために港が重要な場所だったのですね。江戸の米不足を解消するために各航路が開発されたお話は勉強になりました。
着眼点がいつも面白くて楽しんでます!
琵琶湖運河を作りたくなる気持ちがわかる・・・
毎回とても丁寧で史実に基づき歴史を解説して下さる動画の提供をありがとうございます!楽しく勉強になります。
明治となって最初に鉄道が敷かれたのは新橋-横浜とされていますが、次に注目されたのは敦賀から琵琶湖に至るルートだそうです。(ブラタモリより)そして琵琶湖を経由して京都、大阪へ。これは西廻り航路のショートカットを目指したと考えられ、この航路がいかに重要視されていたかを知ることとなりました。
河村瑞賢は海運・治水の功労者ですよね。こういう人もTVドラマで描いてほしいです🌈
聞き易く、とても良くまとめられて分かり易く、今まで読んだり見聞きしたりした江戸時代海運の説明の中では最良の解説でした。良い江戸見聞録をありがとうございます。これからも視聴させていただきます。
物凄くわかりやすかったです!コンパクトにまとめられてるしテキストとしても最高でした!ありがとうございます。
海上輸送のことは全く知らなかったけど、凄くわかりやすかったです日本列島が縦に長く、産出する商品が違っていたことが活発な取引に繋がったんでしょうね
とても分かりやすかったです!おもしろい!
河村瑞賢のように貧農→豪商→旗本になる人がいれば、近松門左衛門のように武士の身分を捨てて町人になる人もいたらしい。江戸時代の士農工商の身分制は、教科書に記載されているような厳しいものではなく、武家の名家を除いて、実際には職業分類程度の緩いものだったのだろう。
大阪が天下の台所として栄えたのも江戸の需要を支えるためだったのか
江戸時代に物流の革命がなんども起きていておもしろい
7:59 昔開港した中に何故辺鄙な場所の下田?と調べましたが、江戸〜大阪の航路に加え東北方面からの折り返し地点で重要な場所だということを知りました
10:28 > 以前、旅先で見たことのある風景だと思ったら、広重作ですね。現存する灯籠が見えます。奥には、塩飽諸島の島々、いまは瀬戸大橋がかかってる
新綿番船ってティークリッパーみたいなことを日本でもやってたんだな今でも内航船は国内長距離輸送で活躍してるけど、帆船の時代に外洋に面した日本の周囲をきれいに廻るルートを開拓するのは大変だっただろう・・・
この時代の日本の海運は、 上方の酒を1秒でも早く江戸に運ぶって目的でボートレースみたいね事をやってたから凄く高性能化したのよね。酒はみんな好きだし、お金にもなる、でも樽に入れて運ぶもんだから最大戦速で運ばないとアルコールが抜けちゃうからね。陸は飛脚組合の妨害でほとんど進歩しなかった。
江戸に入る船は海の関所、海関が「浦賀」に置かれ浦賀奉行所が荷役改めを行なっていた。また畑に蒔く肥料の干鰯が多く運ばれ干鰯問屋が多く集まっていた。
ペリーが浦賀に来航した理由は、狭い浦賀水道を軍艦で封鎖してしまえば江戸への物資搬入を遮断でき、陸戦隊などを送り込まなくても江戸は降伏せざる負えないことを知っていたからだと言われてます。実際幕府は交渉のテーブルに付かざるを得なかった。
ちょっとの間江戸湾を海上封鎖するだけで食料や生活物資が枯渇するからね。特に日本は明治に入るまで馬車自体が存在せず馬に直接乗せるか人が直接運ぶかしかなかったから陸運が弱すぎたのよ。
隣の朝鮮もそうだった。
15人の乗員で150tonの積荷を1週間掛からず、大阪↔︎東京の行き来してたのですから凄まじい経済性ですね。日本で陸上輸送が発展しなかった理由が判りました。
同程度の大きさの洋帆船だと、必要な乗員は40名前後になります。弁才船が如何にコスト面で優れていたかということです。
逆だよ日本では地形の面で古来よりずっと馬車が使えず、更に徳川幕府により禁止もされたりで陸運にハンデがあり過ぎたのよ。だから海運に頼らざるを得なかった。
幕府による鎖国政策により、日本の船は沿岸航海がメインでした。それに日本の船は西洋の船と違って、キールが無かった為、遠洋航海に向いておらず、しょっちゅう嵐で難破していました。
丹後に3件、北前船で財を成した与謝野町の尾藤家、宮津市の三上家、京丹後市久美浜の稲葉家があります。
丹後にもあったんですね。風待ちの湊だったんでしょうか。
配信感謝申し上げます。勉強させて、頂きました。素晴らしい。
船の構造について補足すると、なぜ弁財船が内航向けかというと構造は幅広重厚な木材を曲げて貼り合わせて船体を構成しているモノコックのような構造をしていて水密壁を持たなかったから。内部にはモノコックを補強する梁が何本か渡されているが水密構造ではなく、船の上の甲板も板を乗せているだけで簡単に取り外せる構造になっていて、取り外したまま運用することもあり、中国のジャンクのような垂直隔壁も西洋船のような水平の水密甲板もなく、波を被るとそのまま中に溜まっていく構造だった。(他国のも海水が侵入しないわけではないが、ほとんどが弾かれ海に戻り船内に残るのは掬って排水できる量)別にこれは技術的にできなかったわけではなく、取り外せない甲板によって荷物の大きさに制限ができたり、詰み込むのに手間がかかったりしてコスト的に見合わなかったためである(実際、室町時代の遣明船は隔壁構造を持っていたとされている)他にもなぜ一本帆かというと、当初帆は筵帆であったり改良前の木綿帆で柔軟性と強度が足らず風上に向かう能力が弱かったことやそれに伴って櫓走も行っていて人員が必要であったが(横の張り出しは櫓を取り付ける台の名残)、高性能な木綿帆ができたことで風をはらみ風上に進む能力が向上し軽量で少人数で運用できるようになったため人員を削減できるようになり、コストに優れたから耐候性を犠牲にして大容量と少人数で運用できるようにしたのが弁財船で、それゆえに内航専用なっている
それにキールが無かった。
大河ドラマにして欲しい
大西洋航路最速賞をブルーリボンと言うけど、日本でも似たようなイベントがあったんですね
オイラのご先祖は京都の高瀬川の船の渡しをやってたんですが、多分???元は福井の北前船が冬の間に出航出来ないので大阪付近で碇を下ろして船を休めていたのを内陸の河川の運送に進出した方々って思ってます。福井の嶺北に同じ姓名の人が多いんで?そんな仮説を思ってたら、江戸時代の詳しい情報投稿なので、ある程度は間違ってなかったて思います。明治維新以降に内陸交通の発展で海上輸送は減って行きますが、大正の初め頃までは海上輸送は行われていた様ですね。
この華やかな富を生み出した航路の利便に伴った松前とアイヌ交易の裏側の歴史もお願い致します。
廻船の速度どのくらいかぐぐったら平均6.5ノット(時速12km/h)ぐらいだそうです
今も海運が栄えていたら、なーと思いを馳せます。
浮力って凄いなぁ。
日本版コンテナ物語みたい😀
食品の流通に伴い食文化も流通していたのでしょうね
僕の地元静岡県の遠州掛塚は大阪と江戸を結ぶ湊町として栄えて伊豆石の蔵や廻船問屋が何軒もあって遠州の小江戸と呼ばれてましたが掛塚の湊は菱垣廻船で物資を運んでたのかな?
江戸が百万都市になった理由、大阪が天下の台所となった理由がよく分かる動画でした。
凄くためになりました。私のために創られたチャンネルかと思う程です‼️江戸時代の回船問屋で今も残っているのはドコでしょうか❓️西濃運輸とか鴻池などは生き残りでしょうか❓️
富山市東岩瀬の馬場家のように廻船業から統廃合を繰り返しながら後の日本郵船、大阪商船などの海運業へ移行したところもありましたが、福井県敦賀の大和田銀行、福井県三国の森田銀行など金融業に移行したケースもあったように思います。日本遺産「荒波を越えた男たちの夢が紡いだ異空間~北前船寄港地・船主集落~」での検索をお勧めします。
子供の頃、廻船問屋の事を海鮮問屋と思ってて、お魚を扱ってる問屋は代官と悪い事してたのか…って思ってた!
干鰯や昆布なんかも商品として扱ってたから当たらずとも遠からず?
高価な輸出用の俵物を扱っていた海鮮問屋なら悪どいことをやっていたかも
この1枚の帆でやれたよなもし鎖国してなかったら、朱印船から西洋の帆船みたいなデザインに発展したのだろうか…?
田沼意次の時代に「三国丸(さんごくまる)」が造られました。
黒船が来航した時は江戸ではこの海運が全てストップしてたのかもしれないと考えるとんでもない
18:50 この思考の延長上にあるのが「コンテナ革命」ですね。もうちょっとでした。
徳川の世に入って反乱防止の目的で外洋に出てる複数の帆がある大型船を作るのが禁止され小型化し帆が一本だけになり嵐でそれが折れて難破や遭難が多発したとあるんで儲けが多いも同時にリスクがある印象です。
八丈島へ行くにも「命懸け」でした。
4:07 18:33なるべく多くの荷を積むため甲板は無かった。この結果として弁才船が難破し易くなったのではないですか。
統計から見える破船の原因は過積載によるものと判明しています。積載量をきっちり守る必要のある御用船の破船率は、そうでないものよりはるかに低くなっています。甲板が無い故に無茶な過積載が可能だったので、甲板のせいだとも言えるのではありますが…。どちらかというと、巨大な舵の方がネックだという見解の研究者もおられます。
それにキールが御座いませんでした。それ故、「日本の船は「船」というより「桶」だ」と言われていました。
なのでペリー来航時に品川沖に黒船が居座わられると物流が止まるという軍艦の隣をすり抜けトライするのは無謀(敵対行為と解釈される恐れあり)
戦争は兵站で決まる、戦わずして勝つだよね。ペリーがその気なら日本は物流の停滞で内部崩壊してた。だから開国せざるを得なかったと。
小学生の頃は時代劇の廻船問屋を海鮮問屋と勘違いしてた。
ほんと、沿岸航路大国だったのね。土佐藩も、最大限利用してたのね。三郎って呼ばれてた、とある川を、利用して、蜂須賀君の城下町の湊川に、特産の木材を、流してて、迷惑をかけてたみたい
今も物量の99%は船で運ばれている
河岸ってそういう意味だったのね
🌾米河岸 🐟魚河岸, 大根河岸❣️、、🌊塩河岸 🎋竹河岸 🗿石木河岸⁉️(^。^)オモロ名 だすネ〜❣️ 大変, 有難う御座いました⛵️
帆一枚で、船を操っていたのですね。外洋に出れないよう、補助の帆をつけれなかったのですね。
弥帆って補助の帆はありました。1
時期にもよるでしょう。幕末あたりだと、二枚帆や三枚帆の和船が存在したことが資料からわかっています。
開国後の和船は、西洋型船と折衷しました(合の子船)。
こんだけ海運が確立した状態でのペリー来航の衝撃はものすごかったろうに数隻の軍艦で国家存亡を脅かせるんだからそりゃお台場作るのも分かる
海運がこれだけ発達してたのにTVの時代劇で海運モノを見たことがないのはやっぱり製作費の問題なんだろうか
昔、竹中直人さん主演で「菜の花の沖」をやった事がありますね。特に民放でやらないのは、制作費が大変だからかもしれません
江戸に人口が集中したから街道(道路)が整備されてないから大量に速く物資が運べる海運業が流行った
道路だって車が使える様な状態では御座いませんでしたから。
五街道は整備されましたが、効率から言うと断然海運なんでしょうね。
海運で参勤交代すれば良かったのに
やってた藩が御座いました。
これだけ海運が発達していたのに、旅客船はなかったんですかね?江戸から大坂まで徒歩で約15日、船ならもっと早いだろうけど。やっぱり、安全性とか関所を通らないとダメとかだったんですかね。出女に入り鉄砲とか、、、
幕府が江戸湾に直接戦力を送り込まれるのを恐れて海運や船の構造に色々制限を付けていたそうです。
旅客船は瀬戸内海を通るものならありましたよ。東海道の宿場の経営を守るために太平洋を渡る旅客船は禁止されていましたが。
西日本の大名参勤交代は播磨の室津まで海路、そこから陸路ということが多かったみたいです
結局は江戸時代の庶民は貧乏。だから、陸路やろ。新選組オタクなんで時代劇見てたら土方歳三が『コレから伏見まで行く、馬を借りてくる』なんてセリフがあったけど、昔はリース料金も高かったと私は想像してますけどね。
陽だまりの樹で東京大阪間を船で移動するシーンがあるんですけど、あれは手塚治虫の創作だったんですかね?
日本を縦断する中央運河を作ればよかったのでは
琵琶湖を中継して、日本海岸そして、伊勢湾を運河でつながれば、…❤
@@公一-k7s 母なる運河
いやいや中央運河を作るより線路敷いて新幹線を走らせればよかったのでは?
@@ぴんくろ-i1x 素晴らしいですが夢がないですね
@@yasai366 th-cam.com/video/d3vpx4SbOyE/w-d-xo.htmlsi=4_wT1N3-kUHKUt50
江戸時代の海運業と云うか船なんか大したことないだろ。残念だがこの時代は欧米の船の方が遥かに進んでいる。北前船なんか大したことないと思うが。
何に悔しがってるのか知らないが、この動画の中で外洋船の話なんか一度も出てきて無いよ…
何を以て「進んでいる」とするかに拠るんじゃないかな?確かに、耐久性の点では洋帆船が強いのは間違いないんだけど、輸送船としての性能では和船に大きく劣るよ。喫水の深い洋帆船は湾の奥まで入れない上に、出し入れもハッチからなので余計な手間がかかる、強度を出すための構造のせいで積載量も減ってしまったり輸送船としては難点が多い。動力が風力頼みなので、構造が簡単で軽い和船の方が速度の点でも有利だったりします。洋帆船は、風の弱い瀬戸内海では弁才船に手も足も出ないことでしょう。江戸期、日本近海で荷物を最大効率で運ぶための船として弁才船以上のものは存在しません。結論としては用途が違うということになるかと思います。
船は大した事ないって言うときながら、欧州の船は優れてるって何が優れてるの?船は船だろ?
北前船一回の航海で今の貨幣価値換算で一億円儲けた(または売り上げた)という話も有りますし、決して大したことは無いとは言えないですね。
コロンブスの「サンタマリア」は「千石船」程度の大きさでした。「大航海時代」の頃の船はその程度でした。
“元”海事関係者です。
素晴らしい内容の動画です。
河村瑞賢、伊勢出身だったんですね😊
現在も日本各地の地名に“津”が入る地名がありますが、津は元々“港”を意味する語です。
我が三重県の津なんてのは、昔は規模的に見てデカイ港がありましたが、ある地震で港全体が崩壊し、今はその痕跡すらありません。
地名にその痕跡が残るのみです。
また三重県の的矢湾内のかつての“風俗島”W島なんかも、
あれは元々、これらの船の“風待ち港”として誕生した、後の姿なのです。
津々浦々ってことですか
高校の日本史でどうしてもイメージできなかった東廻り航路・西廻り航路・樽廻船などが
やっと理解できました。何十年間の盲が開かれた思いです。
西廻り航路と北前船のおかげで昆布だしをペーストした関西の食文化が花開いたと思うので、河村瑞軒には感謝しかない。
妙な脚色、演出が無く資料に基づいた内容をシンプルに説明していくスタイルがとても
分かりやすく、大変勉強になりました。
脳内で単語で覚えていた事柄に、肉付けがされ、理由付けがされて、別の用語と繋がっていく感じがとても愉しいです😊
もう江戸時代には、船舶を利用した全国ネットの物流網が発達していたのはスゴイですね🐈
確かにあの当時何トンも一度に輸送出来るのは船舶🚢
北前船始め、航路を切り開いて行った先人達の航海技術も素晴らしいですね🦔
今や遥か遠い世界中から日本に物資が運ばれ、また世界中に日本の産物が運ばれる🌐
日本、そして世界中と繋がっていると思うとロマンが有りますね🕊️
相も変わらずなんと素晴らしい内容なんでしょう!最高です
河村瑞賢は海運・治水の功労者ですよね。こういう人もTVドラマで描いてほしいなあと思います🌈
淀川水系下流の治水もこのかたの成果ですね。安治川開削もありましたし。
その後治水はオランダ人お雇い技師のデレーケとエッセルに
引き継がれることになりました。
日本橋の下を商船が行き交う光景は素晴らしいものだったでしょうね。
新潟から下関を回って大阪までいくルートを開発するという着眼点はすごいですね。地図だけで見たら、陸路使った方が俄然早そうですが、積荷の載せ替え、陸路での移動の負担がかなり大きいものだったんですね。
各地を回って商売をしながら移動していく形に変化していくことで、さらに意義あるルートに変わっていったなど。変化していく様が非常に興味深く面白かったです。
現代はトラックや列車など陸路での国内輸送がメインですが、江戸時代の船を使った水上交通網の発達には驚かされました。
米や酒、木綿など各地の特産品を消費地に送るまで、航路開拓や廻船の様子が伝わってきて面白かったです。
13:31 この動画に多数ある様な、絵でしか見た事のない船を写真で見られるとは感慨深い。
19:53 小型の船なのに、かまどが付いてるんですね!
13:31石川県加賀市橋立町の北前船の里資料館に同じような
北前船の写真が展示されていました。
19:53は京都の伏見から大坂の八軒家までの三十石船の絵ですね。
今丁度八軒家に到着したところです。
かまどは乗船客へ給茶サービスがあったとか、船頭さん用だったとか
読んだことがありますがどちらなのかはっきりしません。
長期休館していた函館の高田屋嘉兵衛資料館が再開したのでぜひ行きたいと思ってます。
そんな資料館があるのですね。幕末の雄、ロシアに拿捕された商人ですね。
ロシア人もその豪胆さに敬服したそうです。無事帰国されてロシアとの交易を
始めたとか。時代は少し遡りますが隣の三重県で大黒屋光太夫の記念館を
偶然見つけて、見学したことがあります。稀有な経験とその生命力に敬服する
ばかりです。
嘉兵衛の「辰越丸」が復元されています。
海運が主要な輸送手段だったために港が重要な場所だったのですね。
江戸の米不足を解消するために各航路が開発されたお話は勉強になりました。
着眼点がいつも面白くて楽しんでます!
琵琶湖運河を作りたくなる気持ちがわかる・・・
毎回とても丁寧で史実に基づき歴史を解説して下さる動画の提供をありがとうございます!楽しく勉強になります。
明治となって最初に鉄道が敷かれたのは新橋-横浜とされていますが、次に注目されたのは敦賀から琵琶湖に至るルートだそうです。(ブラタモリより)
そして琵琶湖を経由して京都、大阪へ。これは西廻り航路のショートカットを目指したと考えられ、この航路がいかに重要視されていたかを知ることとなりました。
河村瑞賢は海運・治水の功労者ですよね。こういう人もTVドラマで描いてほしいです🌈
聞き易く、とても良くまとめられて分かり易く、今まで読んだり見聞きしたりした江戸時代海運の説明の中では最良の解説でした。
良い江戸見聞録をありがとうございます。これからも視聴させていただきます。
物凄くわかりやすかったです!
コンパクトにまとめられてるしテキストとしても最高でした!
ありがとうございます。
海上輸送のことは全く知らなかったけど、凄くわかりやすかったです
日本列島が縦に長く、産出する商品が違っていたことが活発な取引に繋がったんでしょうね
とても分かりやすかったです!おもしろい!
河村瑞賢のように貧農→豪商→旗本になる人がいれば、近松門左衛門のように武士の身分を捨てて町人になる人もいたらしい。江戸時代の士農工商の身分制は、教科書に記載されているような厳しいものではなく、武家の名家を除いて、実際には職業分類程度の緩いものだったのだろう。
大阪が天下の台所として栄えたのも江戸の需要を支えるためだったのか
江戸時代に物流の革命がなんども起きていておもしろい
7:59 昔開港した中に何故辺鄙な場所の下田?と調べましたが、江戸〜大阪の航路に加え東北方面からの折り返し地点で重要な場所だということを知りました
10:28 > 以前、旅先で見たことのある風景だと思ったら、広重作ですね。現存する灯籠が見えます。奥には、塩飽諸島の島々、いまは瀬戸大橋がかかってる
新綿番船ってティークリッパーみたいなことを日本でもやってたんだな
今でも内航船は国内長距離輸送で活躍してるけど、帆船の時代に外洋に面した日本の周囲をきれいに廻るルートを開拓するのは大変だっただろう・・・
この時代の日本の海運は、 上方の酒を1秒でも早く江戸に運ぶって目的でボートレースみたいね事をやってたから凄く高性能化したのよね。
酒はみんな好きだし、お金にもなる、でも樽に入れて運ぶもんだから最大戦速で運ばないとアルコールが抜けちゃうからね。
陸は飛脚組合の妨害でほとんど進歩しなかった。
江戸に入る船は海の関所、海関が「浦賀」に置かれ浦賀奉行所が荷役改めを行なっていた。また畑に蒔く肥料の干鰯が多く運ばれ干鰯問屋が多く集まっていた。
ペリーが浦賀に来航した理由は、狭い浦賀水道を軍艦で封鎖してしまえば江戸への物資搬入を遮断でき、陸戦隊などを送り込まなくても江戸は降伏せざる負えないことを知っていたからだと言われてます。実際幕府は交渉のテーブルに付かざるを得なかった。
ちょっとの間江戸湾を海上封鎖するだけで食料や生活物資が枯渇するからね。特に日本は明治に入るまで馬車自体が存在せず馬に直接乗せるか人が直接運ぶかしかなかったから陸運が弱すぎたのよ。
隣の朝鮮もそうだった。
15人の乗員で150tonの積荷を1週間掛からず、大阪↔︎東京の行き来してたのですから凄まじい経済性ですね。
日本で陸上輸送が発展しなかった理由が判りました。
同程度の大きさの洋帆船だと、必要な乗員は40名前後になります。
弁才船が如何にコスト面で優れていたかということです。
逆だよ日本では地形の面で古来よりずっと馬車が使えず、更に徳川幕府により禁止もされたりで陸運にハンデがあり過ぎたのよ。だから海運に頼らざるを得なかった。
幕府による鎖国政策により、日本の船は沿岸航海がメインでした。
それに日本の船は西洋の船と違って、キールが無かった為、遠洋航海に向いておらず、しょっちゅう嵐で難破していました。
丹後に3件、北前船で財を成した与謝野町の尾藤家、宮津市の三上家、京丹後市久美浜の稲葉家があります。
丹後にもあったんですね。風待ちの湊だったんでしょうか。
配信感謝申し上げます。勉強させて、頂きました。素晴らしい。
船の構造について補足すると、なぜ弁財船が内航向けかというと構造は幅広重厚な木材を曲げて貼り合わせて船体を構成しているモノコックのような構造をしていて水密壁を持たなかったから。
内部にはモノコックを補強する梁が何本か渡されているが水密構造ではなく、船の上の甲板も板を乗せているだけで簡単に取り外せる構造になっていて、取り外したまま運用することもあり、中国のジャンクのような垂直隔壁も西洋船のような水平の水密甲板もなく、波を被るとそのまま中に溜まっていく構造だった。(他国のも海水が侵入しないわけではないが、ほとんどが弾かれ海に戻り船内に残るのは掬って排水できる量)
別にこれは技術的にできなかったわけではなく、取り外せない甲板によって荷物の大きさに制限ができたり、詰み込むのに手間がかかったりしてコスト的に見合わなかったためである(実際、室町時代の遣明船は隔壁構造を持っていたとされている)
他にもなぜ一本帆かというと、当初帆は筵帆であったり改良前の木綿帆で柔軟性と強度が足らず風上に向かう能力が弱かったことやそれに伴って櫓走も行っていて人員が必要であったが(横の張り出しは櫓を取り付ける台の名残)、高性能な木綿帆ができたことで風をはらみ風上に進む能力が向上し軽量で少人数で運用できるようになったため人員を削減できるようになり、コストに優れたから
耐候性を犠牲にして大容量と少人数で運用できるようにしたのが弁財船で、それゆえに内航専用なっている
それにキールが無かった。
大河ドラマにして欲しい
大西洋航路最速賞をブルーリボンと言うけど、日本でも似たようなイベントがあったんですね
オイラのご先祖は京都の高瀬川の船の渡しをやってたんですが、多分???元は福井の北前船が冬の間に出航出来ないので大阪付近で碇を下ろして船を休めていたのを内陸の河川の運送に進出した方々って思ってます。
福井の嶺北に同じ姓名の人が多いんで?
そんな仮説を思ってたら、江戸時代の詳しい情報投稿なので、ある程度は間違ってなかったて思います。
明治維新以降に内陸交通の発展で海上輸送は減って行きますが、大正の初め頃までは海上輸送は行われていた様ですね。
この華やかな富を生み出した航路の利便に伴った松前とアイヌ交易の裏側の歴史もお願い致します。
廻船の速度どのくらいかぐぐったら平均6.5ノット(時速12km/h)ぐらいだそうです
今も海運が栄えていたら、なーと思いを馳せます。
浮力って凄いなぁ。
日本版コンテナ物語みたい😀
食品の流通に伴い食文化も流通していたのでしょうね
僕の地元静岡県の遠州掛塚は大阪と江戸を結ぶ湊町として栄えて伊豆石の蔵や廻船問屋が何軒もあって遠州の小江戸と呼ばれてましたが掛塚の湊は菱垣廻船で物資を運んでたのかな?
江戸が百万都市になった理由、大阪が天下の台所となった理由がよく分かる動画でした。
凄くためになりました。私のために創られたチャンネルかと思う程です‼️江戸時代の回船問屋で今も残っているのはドコでしょうか❓️西濃運輸とか鴻池などは生き残りでしょうか❓️
富山市東岩瀬の馬場家のように廻船業から統廃合を繰り返しながら後の日本郵船、大阪商船などの
海運業へ移行したところもありましたが、福井県敦賀の大和田銀行、福井県三国の森田銀行など
金融業に移行したケースもあったように思います。
日本遺産「荒波を越えた男たちの夢が紡いだ異空間~北前船寄港地・船主集落~」での検索をお勧めします。
子供の頃、廻船問屋の事を海鮮問屋と思ってて、お魚を扱ってる問屋は代官と悪い事してたのか…って思ってた!
干鰯や昆布なんかも商品として扱ってたから当たらずとも遠からず?
高価な輸出用の俵物を扱っていた海鮮問屋なら悪どいことをやっていたかも
この1枚の帆でやれたよな
もし鎖国してなかったら、朱印船から西洋の帆船みたいなデザインに発展したのだろうか…?
田沼意次の時代に「三国丸(さんごくまる)」が造られました。
黒船が来航した時は江戸ではこの海運が全てストップしてたのかもしれないと考えるとんでもない
18:50 この思考の延長上にあるのが「コンテナ革命」ですね。もうちょっとでした。
徳川の世に入って反乱防止の目的で外洋に出てる複数の帆がある大型船を作るのが禁止され
小型化し帆が一本だけになり嵐でそれが折れて難破や遭難が多発したとあるんで
儲けが多いも同時にリスクがある印象です。
八丈島へ行くにも「命懸け」でした。
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統計から見える破船の原因は過積載によるものと判明しています。
積載量をきっちり守る必要のある御用船の破船率は、そうでないものよりはるかに低くなっています。
甲板が無い故に無茶な過積載が可能だったので、甲板のせいだとも言えるのではありますが…。
どちらかというと、巨大な舵の方がネックだという見解の研究者もおられます。
それにキールが御座いませんでした。
それ故、「日本の船は「船」というより「桶」だ」と言われていました。
なのでペリー来航時に品川沖に黒船が居座わられると物流が止まるという
軍艦の隣をすり抜けトライするのは無謀(敵対行為と解釈される恐れあり)
戦争は兵站で決まる、戦わずして勝つだよね。ペリーがその気なら日本は物流の停滞で内部崩壊してた。だから開国せざるを得なかったと。
小学生の頃は時代劇の廻船問屋を海鮮問屋と勘違いしてた。
ほんと、沿岸航路大国だったのね。土佐藩も、最大限利用してたのね。三郎って呼ばれてた、とある川を、利用して、蜂須賀君の城下町の湊川に、特産の木材を、流してて、迷惑をかけてたみたい
今も物量の99%は船で運ばれている
河岸ってそういう意味だったのね
🌾米河岸 🐟魚河岸, 大根河岸❣️、、🌊塩河岸 🎋竹河岸 🗿石木河岸⁉️(^。^)オモロ名 だすネ〜❣️ 大変, 有難う御座いました⛵️
帆一枚で、船を操っていたのですね。外洋に出れないよう、補助の帆をつけれなかったのですね。
弥帆って補助の帆はありました。1
時期にもよるでしょう。
幕末あたりだと、二枚帆や三枚帆の和船が存在したことが資料からわかっています。
開国後の和船は、西洋型船と折衷しました(合の子船)。
こんだけ海運が確立した状態でのペリー来航の衝撃はものすごかったろうに
数隻の軍艦で国家存亡を脅かせるんだからそりゃお台場作るのも分かる
海運がこれだけ発達してたのにTVの時代劇で海運モノを見たことがないのはやっぱり製作費の問題なんだろうか
昔、竹中直人さん主演で「菜の花の沖」をやった事がありますね。
特に民放でやらないのは、制作費が大変だからかもしれません
江戸に人口が集中したから街道(道路)が整備されてないから大量に速く物資が運べる海運業が流行った
道路だって車が使える様な状態では御座いませんでしたから。
五街道は整備されましたが、効率から言うと
断然海運なんでしょうね。
海運で参勤交代すれば良かったのに
やってた藩が御座いました。
これだけ海運が発達していたのに、旅客船はなかったんですかね?
江戸から大坂まで徒歩で約15日、船ならもっと早いだろうけど。
やっぱり、安全性とか関所を通らないとダメとかだったんですかね。
出女に入り鉄砲とか、、、
幕府が江戸湾に直接戦力を送り込まれるのを恐れて海運や船の構造に色々制限を付けていたそうです。
旅客船は瀬戸内海を通るものならありましたよ。
東海道の宿場の経営を守るために太平洋を渡る旅客船は禁止されていましたが。
西日本の大名参勤交代は播磨の室津まで海路、そこから陸路ということが多かったみたいです
結局は江戸時代の庶民は貧乏。
だから、陸路やろ。
新選組オタクなんで時代劇見てたら土方歳三が『コレから伏見まで行く、馬を借りてくる』なんてセリフがあったけど、昔はリース料金も高かったと私は想像してますけどね。
陽だまりの樹で東京大阪間を船で移動するシーンがあるんですけど、あれは手塚治虫の創作だったんですかね?
日本を縦断する中央運河を作ればよかったのでは
琵琶湖を中継して、日本海岸そして、伊勢湾を運河でつながれば、…❤
@@公一-k7s 母なる運河
いやいや中央運河を作るより線路敷いて新幹線を走らせればよかったのでは?
@@ぴんくろ-i1x 素晴らしいですが夢がないですね
@@yasai366
th-cam.com/video/d3vpx4SbOyE/w-d-xo.htmlsi=4_wT1N3-kUHKUt50
江戸時代の海運業と云うか船なんか大したことないだろ。残念だがこの時代は欧米の船の方が遥かに進んでいる。北前船なんか大したことないと思うが。
何に悔しがってるのか知らないが、この動画の中で外洋船の話なんか一度も出てきて無いよ…
何を以て「進んでいる」とするかに拠るんじゃないかな?
確かに、耐久性の点では洋帆船が強いのは間違いないんだけど、輸送船としての性能では和船に大きく劣るよ。
喫水の深い洋帆船は湾の奥まで入れない上に、出し入れもハッチからなので余計な手間がかかる、強度を出すための構造のせいで積載量も減ってしまったり輸送船としては難点が多い。
動力が風力頼みなので、構造が簡単で軽い和船の方が速度の点でも有利だったりします。
洋帆船は、風の弱い瀬戸内海では弁才船に手も足も出ないことでしょう。
江戸期、日本近海で荷物を最大効率で運ぶための船として弁才船以上のものは存在しません。
結論としては用途が違うということになるかと思います。
船は大した事ないって言うときながら、欧州の船は優れてるって何が優れてるの?
船は船だろ?
北前船一回の航海で今の貨幣価値換算で一億円儲けた(または売り上げた)
という話も有りますし、決して大したことは無いとは言えないですね。
コロンブスの「サンタマリア」は「千石船」程度の大きさでした。
「大航海時代」の頃の船はその程度でした。