第1469回「埋れ木」2025/1/14【毎日の管長日記と呼吸瞑想】| 臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺老師

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  • เผยแพร่เมื่อ 13 ม.ค. 2025
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    ■管長日記「埋れ木」
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    最後に一日のはじまりを整える、呼吸瞑想がございます。
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    知人から彦根のお土産といってお菓子をいただきました。
    「埋れ木」という名のお菓子であります。
    なんとも奥ゆかしい名前であります。
    「埋れ木」とは『広辞苑』で調べてみると、
    「①久しく埋もれていて半ば炭化した木。亜炭の一種で、宮城県名取川流域のものが著名。
    ②世間から見捨てられて顧みるものもない境遇をたとえていう。」
    という二つの意味が書かれています。
    このお菓子の場合は、二番目の意味の埋れ木であります。
    お菓子の中に説明を書いた紙片が入っていました。
    そこには、井伊直弼の和歌が書かれています。
    世の中をよそに見つつも埋れ木の
    埋れておらむ心なき身は
    その和歌のあとに埋れ木の由来が書かれていました。
    「抑々彦根三十五万石のお大名 天下の大老井伊直弼公が御修養時代の侘び住居に埋れ木の舎と名をつけて世の中をよそに見つつも文武両道は更なり茶の湯活花和歌俳句仏道修行に至るまでひたすらここにいそしまれしがわきて中にも朝な夕な澍露軒の茶室に籠り和歌情寂の奥義を究め茶道の極意一會集を編み出された御心を偲びまつりて今ここにこがましくも埋れ木の名の埋もれずに思ひ出の花を咲かせむ願ひより茶の湯の友にと世の中に名乗り出でたる名菓埋れ木」
    と解説されています。
    井伊直弼は『広辞苑』には
    「幕末の大老。彦根藩主。掃部頭。徳川家茂(いえもち」を将軍の継嗣とし、また勅許を待たずに諸外国と条約を結び、反対派を弾圧(安政の大獄)。水戸・薩摩浪士らに桜田門外で殺された。(1815~1860)」
    と解説されています。
    「安政の大獄」は
    「安政5年(1858)から翌年にかけて大老井伊直弼が政争の反対派らに下した弾圧事件。将軍継嗣問題で、井伊が紀州の徳川慶福(家茂)を擁立し、また勅許を得ずに安政五カ国条約に調印したことを、一橋慶喜を推す一橋派が批判、これに対し井伊が同派の公卿・諸大名らを罰し、梅田雲浜・吉田松陰・頼三樹三郎・橋本左内ら多数の尊王攘夷派人士を投獄・処刑。」
    したものです。
    「桜田門外の変」で亡くなりますが、桜田門外の変とは、
    「安政7年(1860)3月3日の雪の朝、大老井伊直弼の安政の大獄などの弾圧政策を憎んだ水戸・薩摩の浪士ら18人が、桜田門外で直弼を暗殺した事件」
    といずれも『広辞苑』に解説されています。
    井伊直弼は彦根藩第十四代藩主直中の子であります。
    ご側室お富の方の子でなんと直中の十四男でありました。
    直中の五十歳の時の子であります。
    直弼五歳の時に、母が三十五歳で亡くなり、更に十七歳の時に父が亡くなります。
    直中の嫡男直亮(なおあき)が家督を継ぎました。
    三百俵の扶持を与えられて城外の小さな屋敷に住んでいたのでした。
    その屋敷が埋木舎と呼ばれるようになります。
    そこで直弼は、修養に心がけていたのでした。
    和歌や鼓、茶道に居合いなどを学びました。
    佐和山の清涼寺で禅の修行もなさっているのです。
    後に『茶湯一会集』という書物を著しています。
    弘化三年(一八四六年)、直弼三十一歳の時に、第一五代藩主・井伊直亮(直中三男)の養嗣子となっていた直元が亡くなります。
    そのために直亮の養子として彦根藩の後継者に決まりました。
    更に嘉永三年(一八五〇年)直亮が亡くなり家督を継いで藩主となったのでした。
    三十五歳の時であります。
    安政五年一八五八年大老に就任します。
    そして安政の大獄となります。
    しかし、安政七年桜田門外で水戸薩摩の浪士に討たれてしまいました。
    四十五歳の生涯です。
    埋れ木だったのが、幕府の大老になったのですから素晴らしいことであります。
    しかし、その為に桜田門外で討たれてしまうとは考えさせられます。
    埋れ木のまま茶の湯をたしなみ、剣や禅を修めていた生涯の方がよかったのか、どうか誰にも分かりません。
    まさに「人生万事塞翁が馬」と思います。
    塞翁が馬は『淮南子』にある話です。
    講談社学術文庫『淮南子』にある現代語訳を引用します。
    北方の辺境の塞一帯に住む者に、占いの術に巧みな人がいた。
    ある時、その人の馬が原因不明のまま逃げ出して、胡(北方の異民族)の地に行ってしまった。人々はみな彼を見舞った。
    その人(父)が言うには、「何の、この禍い、いずれ福にならんとも限らんぞ。」
    数個月の後、その馬が胡地の駿馬を連れて帰って来た。
    人々はみなお祝いに駆けつけた。その人(父)が言った。
    「いや、この福、いずれ禍いにならんとも限らんね。」
    こうして、一家は金持ちになり良馬にも恵まれたのである。
    息子は馬を乗り回すのが好きだったが、ある時、落馬して牌の骨を折ってしまった。
    人々はみな見舞いに来た。
    その人(父)、「何の何の、この禍い、また福にならんとも限らんぞ。」
    やがて、一年が経つ頃、胡の軍隊が大挙して塞に攻めこんで来た。
    若い男たちはこぞって弓弦を張り続けて防戦に努めたけれども、塞一帯の人々は、十分の九までが戦死して果てた。
    そんな中、この息子だけは脚が不自由だという理由で、戦闘にも加わらず、父子ともども生命を全うできたのであった。
    こういうわけで、福は転じて禍いとなり、禍いは転じて福となるものであるが、その変化の様相は窮めることができないし、その深遠な道理は把えることができないのである」
    というのです。
    よく知られた話でありますが、埋れ木のお菓子をいただきながら、まさに禍福は糾える縄の若しだと思っていました。
    おいしいお菓子でありました。
     
     
    横田南嶺
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