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北条を敵に回した時点で勝頼はいわば詰んでたんでないかな。
いや、北条氏政を抑える為佐竹義重に頭下げて(父信玄がしょうもない理由で揉めた騒動を武田家的には諏訪勝頼として解決した)同盟結んだまでは良かったんだが、信長はそれを見越した上で上杉謙信を越後へ撤退させる為に伊達輝宗と同盟して信長包囲網包囲網作ってたからね。これが誤算
一応佐竹義重と父信玄以来のくだらない揉め事を和睦して北条氏政を牽制している(但しこれが御盾の乱以上に北条氏政を怒らせる原因になったのだが。北条氏政が武田と同盟結んだのは佐竹義重を攻める際に背後を固めると共に「分家が本家に逆らうのでその討伐を武田信玄から依頼された」と言う大義名分を得る為で上杉謙信にも「これは単なる討伐戦であり関東管領としてお墨付き出して欲しい」と抜け目なく申し入れている)が、この佐竹義重との連携も佐竹義重が伊達輝宗経由で蘆名氏と和睦、更に伊達輝宗が織田信長と同盟しているので上杉家は援軍もへったくれもなく、北条氏政と佐竹義重も冷戦状態なので景虎援護も出来ず、と詰んでいた
あくまで「結果論」ではあるのだが。父親である信玄が滅ぼした一族の娘に子供を産ませその子供が武田家の家督を継いで武田家が滅びる訳だから壮大な復讐だなあって思う。本当に結果論だけど。
信玄が勝頼を「正当な後継者」と指名していれば、勝頼も武田家の掌握で苦労をする必要が無かったのもある。武田家の破滅の最初の一歩は信玄が原因なんだよね・・・
もう一つは佐竹義重としょうもない理由で揉めた事
イメージとして語られやすい家臣団との対立だが、勝頼は戦国大名としてはそこまで苦労した様には思えない。北条が例外なだけで、信長(骨肉の争い)や家康(一揆)や景勝(戦国時代でも最悪クラスの状況)なんてもっと酷かった訳だし。
それは難しいでしょうね勝頼は典厩信繁亡き後に反発するようになった信濃衆から代表みたいに祀り上げられてました信玄からすればその勝頼を正式に当主にするのはあまりにも危険すぎると判断したのでしょう
佐竹と揉めた事なんて、武田の滅亡とは直接の因果関係はない。そもそも佐竹が武田に味方したからと言って、武田が対織田・徳川で西に兵力を向けざるを得ない状況では、独力で北条に対抗できる程の勢力はなく、北条に圧迫されるだけ。
じゃあどうやったら信長に勝てたのか、って言われれば…ねぇ。織田家に降伏するしか未来が見えないよ…。
そうなんだけど、北条と揉めずに後ろ楯として機能していれば、あんなに早くパワーバランスが崩れることはなかった。二正面作戦は基本的には上手く行かない。
信長が大軍を率いて出てきたところで一旦長篠城から引いてさえすれば、史実じゃ全滅する予定だった旧臣は皆生きてるから、軍事力も支配地域も全て温存ってこと。これだけでも雲泥の差。後は、復活した甲相同盟を維持ではなく「堅持(!)」し、御館の乱では当然影虎を支援して、後背地を盤石にする。長篠の大敗北の後でもすぐには信長は攻めていない。滅びるまで七年かかってる。基本的に信長は勝算の薄い喧嘩はしない。例外は桶狭間と姉川くらい。上に書いた二つを勝頼が実行するだけで、日本史は変わった筈。特に武田領国は日本一山がちで、守備側が圧倒的優位。だから信長は内部亀裂を第一にして、力攻めは最後の瞬間までやらなかった。そもそも信玄は遺言で、死後三年間は外征をやめろと言ってるのに、勝頼はあっさり破ってる。勝頼はスペック的には織豊、家康に見劣りしない。同じ条件なら互角にやり合い、負けることはないだろう。でも残念なのは、功名心だけで合戦をやったり、直江兼続の金に目が眩んだりと、思慮が足りなかったことの一言でしかない。
逆に考えると、長篠で勝つぐらいしか勝頼が生き延びる道はなかったんだよ。だから多少不利だと思っても迎撃するために設楽原に布陣した。そのまま戦闘をしてたら十分武田に勝ち目があったよ。信長は長篠救援のために自分から攻めなきゃいけない状況だったから、川を挟んで守る武田は有利な布陣だった。しかし信長は攻めてこず、別動隊を迂回させて武田の退路を遮断した。この信長の戦術が見事であり、それを許してしまった勝頼が迂闊だった。もしこの別動隊の迎撃に成功していたら(小牧長久手の家康のように)、進退窮まった信長が講和を言い出す結果になっていたと思われる。退路遮断された時点で勝頼の選択肢は、一か八かの突撃か、逃げ出して信長から追撃されて壊滅するか、この二択しかなかった。
俺もこれに賛成、長篠の戦いはやり方次第で勝ちはないまでもお互いに痛み分けには持ち込めたんじゃないだろうかよく言われている通り戦わずに撤退するのは長篠の敗戦より悪手だと思う
@@らすぼす-d5i私も戦わずに撤退は絶対にダメだったと思います。撤退したら「武田は織田・徳川の後詰めが来ただけで恐れをなし、戦いもせずに尻尾を巻いて逃げ出した腰抜け」と信長や家康に喧伝され、三河や遠江、東美濃の国衆達に「武田に味方しても自分達が織田や徳川に攻められたら尻尾を巻いて逃げる。 一方で徳川は奥平の後詰めに織田と一緒に来てくれた。 しかも奥平は武田の城攻めに耐えた。 武田は頼りにならない上に弱い。 ならば自分達も奥平と同様に織田や徳川に味方した方が得になりそうだ」と思われて離反されるでしょうし、甲斐や信濃の家臣や国衆達も信玄や信虎、それ以前からの重税(「お金の流れで見る戦国時代」という現代の本や、「妙法寺記」という古文書に書かれている)で困窮する中わざわざ遠征したのに、戦果無しに撤退したのでは恩賞が貰えませんし。戦の費用や兵糧は家臣や国衆達の自己負担であり、その出費を取り返す為に城下町や村で乱取りをしたり、人を攫って売り飛ばすのにそれができなくなる。 しかも武田領の金山は当時の技術ではほとんど金が取れなくなるほど掘り尽くしていたらしいから、家臣や国衆達の出費を補填できない。山県昌景や馬場信春、内藤昌豊らも、武田信廉や穴山梅雪らも陪臣(家臣の家臣)や兵として動員する領地の民に恩賞を出さなければならない立場であり、自分達が恩賞を貰えなかったり、乱取りを許可する事ができなければ、陪臣や民達に恩賞を与える事ができない。 そうなったら陪臣や民達から武田家に対する不満が出ていたと思います。「重税で生活が苦しい中わざわざ遠征したのに何の恩賞も無しか。 これじゃあ俺は陪臣や兵として動員する民達に恩賞を出す事ができなくなってしまったし、領内の食い物も多くを兵糧として徴収してしまったしこれからどうやって食べていけばいいんだ。 戦っていれば勝って乱取りできたのに」という風にお金の無駄遣い、骨折り損のくたびれもうけに終わった家臣や国衆達は不満を抱くでしょうし、仮に家臣や国衆達が不満を抱かなかったとしても、陪臣や民達が不満を抱いたらその声は無視できないから、家臣達は何をしでかすか分からない。今後出兵に応じなくなるかもしれない、反乱を起こすかもしれない、別の武田家の人間を担ぎ出して勝頼を追放するか殺そうとするかもしれない、史実より早く織田や徳川に寝返る者が出てくるかもしれない。そうして武田領に混乱が生じたらその隙をついて織田や徳川、更には上杉や北条に侵攻されて武田家が史実より早く滅亡する事になったかもしれない。仮に撤退して家臣や国衆達の離反が加速しなかったとしても、武田と織田の国力差は更に開いて大きくなり、時間が経てば経つほど武田が不利になる一方。 仕切り直した時には今以上に領土を広げて国力を上げた織田が今以上の兵を率いて徳川の後詰めに来るかもしれない、それどころか織田の方から武田領に侵攻してくるかもしれない。 そうなったら徳川も呼応して侵攻してくるからもう打つ手はないです。一度撤退して織田が畿内に戻った後すぐに徳川を攻め直すという人がいましたけど、それは無理だろうと私は思いました。 行軍するだけでも消費する兵糧を貯めるのにも時間がかかるし、長篠城攻めで消費した武器弾薬だって補充しないといけないのにそんなすぐには補充できない。同様に長期戦も無理です。 武田は遠江を完全に領土化していないから、長篠城を攻めている武田軍の兵糧や武器弾薬の補給は信濃から険しい山道を越えないとできないしそれ程多くは運べない。 一方で徳川は自軍の本領であり、しかも織田の本領の尾張にも近い。 どちらが兵糧や武器弾薬の補給が楽かと言われたら圧倒的に防衛戦側の織田・徳川ですから、長期戦になれば遠征軍の武田の方が先に兵糧切れして撤退するか全滅するしかなくなるでしょう。しかも当時の武田家は、信玄が信長に謙信との和睦仲介を頼んでおきながら家康を攻めた為に信長を謙信への手紙に「武田とは金輪際手を結ばない」と書く程に激怒させたらしいから、外交での織田との関係修復は無理。その為、織田から鉄砲や鉄砲の弾を作る為の鉛、鉄砲を使う為に必要な火薬の原料、硝石が手に入りにくくなる経済封鎖を受けている。徳川との関係修復も三方ヶ原の戦いや信玄と家康が共同で今川を攻めた際からの遺恨(信玄と家康のどちらが不義理をしたのかは分からないが、家康は上杉や北条と結んで武田包囲網を作ろうとし、信長に武田と手を切るように何度も求め、自身が仲介役となって信長と謙信に手を結ばせようとした)で無理。浅井家、朝倉家が滅ぼされ、伊勢長島の一向一揆が鎮圧されて武田と対織田で連携できる相手がいなくなっている。 本願寺顕如がまだ畿内で織田と争っているようだが、敗れるのは時間の問題という状況ですから、まだ織田が畿内で本願寺勢力と戦っていて、武田相手に全軍を向ける事はない中、わざわざ出てきた信長や家康をここで討ち取る、討ち取れなくても織田・徳川軍に痛手を与え、「織田など恐れる程の相手ではない」と喧伝しなければならない、そしてそれができるのは今しかないと判断するのは当然だろうし、私が勝頼でもそう判断すると思います。
長篠城を落として裏切りに対する報復戦の完遂をした上での撤退なら形の上では小勝利で終わったかな。でもそれでも抜本的な勝利とはならない。
身も蓋も無い言い方をすれば、そもそも勝頼は武田家のトップになるべきでは無かった。 信玄が嫡子義信を排除した時から、勝頼の悲劇は始まったと思う。 織田信長や徳川家康も、勝頼の軍事的才能は認めてたし、義信の家臣として侍大将的なポジションになっていれば、高い評価を得られたのではないか。 むしろ信玄の勝頼に対する扱いによる強烈なデバフを受けながらも、最後まで足掻いた悲劇的な人物が勝頼だと思う。
甲相越三国和睦構想、御館の乱、高天神城攻防戦での対応
甲斐越後相模三国同盟自体、織田信長ー伊達輝宗ー佐竹義重ラインで後ろから抑えられていたし。
伊達輝宗-佐竹義重ラインが弱すぎる。全然上杉と北条の抑えとしては機能しないと思う。
勝頼の生母 諏訪姫は強奪された様なものだ 武田家滅べと 呪っていた
彼に責任を負わせるのはどうだろうか?確かに信玄は犠牲を払い苦労しながらもしないできたがそれには理由もあるし話せば長いしかし勝頼はそれ以前に父に先立たれ孤立し離反者が続出する中で悪戦苦闘していた空中分解し続ける飛行機を操縦するパイロット二似ている信玄の時より難しい状況でコントロール不能のまま歳後を迎える事となった
でも武田の領土は信玄時代よりも拡大していたし、信玄が落とせなかった高天神城を落としている。鉄砲の数も信玄時代よりも多かった。だが、織田・徳川連合軍よりも物量で劣っていた事は事実だ。現に「長篠の合戦」では、武田軍は鉄砲の数が少なく、しかも銃弾が鐚銭を溶かして造った物だった(銅の銃弾)。
長篠の戦いに臨まざるをえない状況に陥った時点で詰んでいたと言えなくもない。勝頼が信長の力を正しく認識していたなら、北条と上杉含め3国同盟を主導するくらいの思い切った策を取らなければ無理だったと思う。二正面作戦は基本的には絶対に上手く行かない。
武田家を裏切った家臣の中でも大身の家臣だった木曽、穴山、小山田の三氏は、元々武田とは敵対していた独立勢力で、信玄の父の信虎の時に甲斐を統一したことで、木曽、穴山、小山田は武田の圧力に屈することとなり、武田家から嫁を迎えることでかろうじて一門衆としての扱いで武田家の家臣団に組み込まれたという背景がある上、それぞれの領地が木曽は織田、穴山は徳川、小山田は北条との最前線となる位置にあることから、武田家が弱体化すればすぐに武田を裏切るという下地はあった。そのような状況で高天神城を見捨てたという情報が入れば、明日は我が身、敵対して滅亡する前にそれぞれが誼を通じて家を守るという判断に至ったのはやむを得ないことだったでしょう。
故に真田昌幸はまだ本気で軍備が整っていない東へ逃げて自国領の名胡桃に籠り、そこで上杉や佐竹義重の援軍を頼る算段を立ててはいたが、上杉は弱体化してるし上杉も佐竹も織田信長ー伊達輝宗ラインに攻められて動けない、からね。ちなみに佐竹義重は本能寺の変直前織田信長に戦勝祝いと共に北条氏政に謀反の意思あり、と告げ口している。
真田昌幸は小山田離反を読んでいて上杉と佐竹義重を頼って上野に籠る(現にその障害である北条氏政は武田滅亡後信長と敵対している)策を献じたのですが佐竹義重も上杉も蘆名ー伊達輝宗ー織田信長の連合軍と戦っていて佐竹義重に至っては蘆名氏との和睦を織田信長や伊達輝宗に仲介して貰っている(佐竹義重の子を男子の居ない蘆名氏に養子縁組させる事で解決)状況では無理だったので却下されてます。
信さんも家康もこの程度の失敗はよくしている。
なんで毛利の画像が元就なの?この時は輝元でしょ
諏訪勝頼として本家を支える形を信玄がつくっていたら。
信玄が今川氏真を援けて織田徳川と戦う外交方針を取るべきだったのでは?
嫡男の武田義信はそう考えて、信玄と対立。結果謀殺されてしまった。今川から駿河を奪っても北条や徳川を敵にした武田は無駄に軍事行動をする羽目になったから義信は間違っていなかった。更に長男を死なせた信玄は弱気になり、孫を生まれ変わりと信じて勝頼を正式な跡取りと認めなかった。武田滅亡の責任の大半は信玄にあると推察します。
信玄は海に出たかったので、駿河を見過ごす選択肢はなかったでしょうね。北条との同盟をご破算にしてまでも、手に入れたかったのだから。
御館の乱は、重要拠点の春日山城をいち早く占拠し、多くの家臣の支持も得ている景勝側の方が元々優勢でしたよ。だから、勝頼が引き上げた途端にあっさり景虎が滅ぼされた訳ですし。大体、武田は北条の従属国ではなく、あくまでも同盟の援軍という立場なので、本来なら北条軍が主力で戦わなければいけない。ところが、北条軍は、もう川越まで来てるよ(嘘)とか勝頼に知らせを送ってくるけど、一向に現れず、結局、氏政の本隊は動かずに東上野衆に坂戸城を攻撃させただけで、氏政自身は雪が降る時期になったら、さっさと引き上げてしまっている。勝頼としては、いつやって来るか分からない氏政に対して、景勝と景虎の和平の仲介をすれば義理は果たせると考えたのですが、和平交渉が長引く間に、家康が武田領に攻め込んできて、荒らしまわり、折角成立した和平も直ぐに破綻してしまって、勝頼も和平の仲介を諦めて引き上げてしまったという流れです。これで勝頼が氏政を裏切ったというのは酷かなと思いますね。実際、和平の交渉役は、勝頼に批判的だったと言われる春日虎綱(高坂弾正)担当していて、他の重臣や一門衆にも、景勝が和平成立に対するお礼の進物を贈っている事から、武田家中の多くは、北条への不信感もあり、景勝との和平に賛成だった事が窺えます。
信玄が信長を裏切って敵対した時点で武田は終わってる信玄が長生きしようと義信が生きていて後を継ごうと結果は同じ
同意見。信玄の寿命や誰が跡継ぎになったかで多少の期間の違いあれど、vs織田では武田単独では苦しく結局は滅亡か従属は避けられなかったように思う
私もそう思います。 信玄が信長に謙信との和睦仲介を頼んでおきながら家康を攻めた為に信長を謙信への手紙に「武田とは金輪際手を結ばない」と書く程に激怒させて鉄砲や鉄砲の弾を作る為の鉛、鉄砲を使う為に必要な火薬の原料、硝石が手に入りにくくなる経済封鎖をされた時点で遅かれ早かれ武田家は滅亡する運命であり、信玄であってもその状況を打開する事は不可能だったと思っています。
信玄が長生きしていれば織田と長対陣して有利な和睦を取れた可能性がある、位かなあ当時から織田が国力は倍以上だけど、四面楚歌で一点集中出来ない上に、信玄と決戦というハイリスクは信長もやりたくないはずその後は攻め込むにも徳川領通るか、山深い木曽路飛騨路信濃路の敵地経由しないといけないから信長もやりたくないハズ
父信玄が佐竹義重と揉めたのが全てのしくじりに繋がるフラグ武田と佐竹はそもそも同じ源義光が租なので連携して北条氏政を挟み撃ちにして亡し、それを関東管領上杉謙信に罪をなすりつけて居れば助かったのだが。
佐竹には大大名の戦局を左右する程の影響力はないよ。できる役割といえば北条を牽制するくらい。
次は御館の乱についてです。謙信死後の上杉家の家督争いとされる御館の乱ですが、そもそも謙信死後の上杉家は景勝が継ぐ事でまとまっていたらしいです。根拠は景勝が謙信から弾正少弼の官位を譲られている事と、謙信死後に景勝の元に諸大名からの使者が多く来ていたかららしいです。しかし謙信時代の吏僚だった神余親綱という家臣が景勝に無断で領内の有力者から人質を集めているのを景勝が神余は会津の蘆名と通じて謀反を企んでいるのではと疑いを抱いたらしい。神余は自分の行動は蘆名の侵攻に備える為だと弁明し、上杉憲政や山本寺定長らが景勝と神余の間の調停に動いた。その後本当に蘆名が侵攻してきて神余が撃退した。 この事で景勝の器量に疑問を持つ家臣が多くなったらしい。しかし景勝は神余に対して自分に忠誠を誓う内容の誓紙を血判を入れて提出するように求めるなど強硬姿勢だった。この事に憤慨した神余が景勝派の家臣の城を攻撃、上杉憲政や山本寺定長、本庄秀綱らも神余に同調して反景勝派を形成、自分達の行動を正当化する為の御輿として景虎を担ぎ出したのが御館の乱の実像だと思います。勝頼は北条氏政からの景虎支援の要請を受けて出兵したが、長く領国を留守にしたら家康の蠢動を許す危険性がある。北条の動きが少し前まで佐竹と対峙していたとはいえ遅かったのは、自分達だけに景勝と戦わせ、弱ったところを両方とも滅ぼす気ではないかと不信感を抱くのも当然だと思います。そもそも北条が本気で景虎を支援したければ北条家自体が大軍を率いて越後に侵攻すればいいだけなのに、わざわざ武田にやらせた事に北条は自分達を同盟相手ではなく属国のように見ているのではと疑った家臣達もいたのかもしれない。北条家出身の景虎が上杉家当主になったら、武田領が東と北を北条の勢力に挟まれてしまう。 そうなったら北条氏政は武田との同盟を破棄して弟の景虎を操り、武田を東と北から挟み撃ちにしてくるかもしれない。 そうならなかったとしても、武田と北条の力関係が崩れ、武田家が北条の属国のような扱いになるかもしれない。 真田などの上野や北信濃に領地を持つ家臣達が離反してしまうかもしれない。しかし北条との同盟関係があるから北条からの景虎支援要請を断る訳にはいかない。そこで景勝と景虎の和睦仲介という手を打ち、一度は和睦を成立させたがすぐに破綻。更に勝頼の懸念が的中して家康が駿河辺りに侵攻してきた。 勝頼が家康の対処の為に越後を離れたのがちょうど北条氏邦だか氏照の軍勢が景勝派の家臣の城を攻めるところだった為に北条に「武田は景虎を見捨てて逃げた」という印象を与えたらしいですが、そもそも氏政が本気で景虎を支援する気があったとは氏政が最後まで越後に討ち入らなかった事を考えるとそう思えません。氏政は景虎が勝利すれば上杉家を乗っ取る算段がつく、景勝が勝利して景虎が死んだとしても、内乱が長引けば長引くほど上杉家の力は弱まり、関東に侵攻される事はなくなるからどちらに転んでも構わないと考えていたと見る方が自然だと思います。勝頼を無能だとか凡庸だとか言う人に、じゃああなたが勝頼の立場や状況だとしてどう行動するのか、その行動をすればどうなっていたと考えるのか、その行動の結果起こった事に対しての責任を取れるのか、責任を取ろうとする覚悟があるのか聞いてみたいです。
同感です!!勝頼が北条を敵にしたのが武田滅亡の最大の原因だとする意見は北条が武田を絶対に裏切らないという事を前提にしてますがそんな保証あるわけないです!!だからこそ勝頼は北条への義理を果たしつつ最悪北条に裏切られた時に備えて越後に景勝の影響力を残して置きたかったのでしょう!!現代人の後知恵で批判するのは簡単ですが現代人だって5年先10年先を簡単に見通せないのですから先の見通しに失敗した勝頼を凡将と決めつけるのは間違いだと思います!!
北条氏政もうっかりとは動けないですよ。既に蘆名氏とも戦おうとしている上に蘆名氏の背後にいる伊達輝宗が織田信長と同盟して蘆名ー伊達ー織田、の信長包囲網包囲網が出来ている状況では北条氏政が上杉援軍に向かったら佐竹義重がこれ幸いと蘆名伊達両氏と連携して攻めてくるからね。まあもし本気で上杉を助けるなら佐竹義重や蘆名氏と和睦して蘆名ー北条連合軍で攻め入る方法もあるが
勝頼が領土と黄金に目が眩んだのは事実だと思う。そして景勝側についたことで北条が同盟まで破棄するとは予想してなかったのではないか。織田・徳川に圧迫を受けている状況で北条まで進んで敵に回そうなんて考えないでしょうからね。長期的な視野に欠けていたのは、あるかも
滅亡しないためにはどうすればよかったか…どこかのタイミングで信長に降伏していれば甲斐一国でも安堵されて存続出来ただろうか?
鎌倉時代から続く甲斐源氏の名門守護大名の武田家が元は守護代の家臣筋の織田という武田から見たら素性が怪しく身分も低い格下の家柄の相手に臣従するというのは、勝頼にも家臣達にも受け入れ難いでしょうし、仮に勝頼が臣従を受け入れたとしても、家臣達は自分達の領地や城を失う事になるかもしれないから、それを嫌って「自分達の領地や城を守ろうとせずに平気で他者に差し出す大名など不要だ」という理屈でかつて信玄を担ぎ出して信虎を追放した時のように、別の誰かを担ぎ出して勝頼を追放するか殺そうとすると思います。
臣従するには、甲州征伐の軍令が下る前でなければダメだったでしょうね、信長の性格からして。
レアものコレクターの信長公、御旗・楯無を差し出せば勝頼は出家で済んだ気がする、、、
長篠敗戦の時点で、甲江和与などという半端にプライド保った施策でなく、勝頼が剃髪して安土に出仕し、織田への臣従を申し出るぐらいの徹底的で一貫した外交をできれば命脈を保てたかもしれないが・・・君主というよりも、甲信土豪衆の盟主 という性質上、内輪の利害調整が優先されて、思い切った外交方針を採りづらかったのだろうか。
後の歴史を知ってる我々からすれば、簡単な答えと思うが、当時の価値観からすれば簡単には敵の軍門に下れないでしょ。
@@のぶのぶ-h4z そのとおりなのですが、れっきとした独立勢力なのに、嬉々として織田家臣のように活動した武将がいるんすよ筒井順慶ていうんですけども。 勝頼(無位無官)「再同盟しようよ」 信長(正二位右大臣)「ナニ言ってんの」信玄ー信長 は同盟期間の方が敵対期間より圧倒的に長かったせいで「そのうち再同盟できるだろー」と勘違いしたままズルズルいってしまったのかもですね
そんな事したら家臣や国衆達に「自分達の領地や城を守ろうとせず、簡単に他人に差し出そうとする大名など不要だ」という理屈で勝頼は追放されるか殺される事になると思います。当時の武士達は面子や血筋を重んじる者が多かったらしい。 鎌倉時代から続く甲斐源氏の名門の武田家に対し信長の織田家は元は守護代の家臣筋、徳川も三河の土豪出身。 武田から見たら織田や徳川は素性の怪しく身分の低い格下の家柄の相手。しかも武田家家臣達も名門意識や独立心、領土欲が強かった者の集まりだったらしいですから、織田などという格下の家柄の相手に臣従しようとする勝頼を追放したり殺して、別の武田家の人間を担ぎ出すのを躊躇いはしないでしょう。 かつて信玄を担ぎ出して信虎を追放した前科がありますから。
私は勝頼のミスと言えるものは高天神城を救援できなかった事と、新府城築城のタイミング(私は信玄時代から作っておくべきだったと思っている)であり、長篠の戦いと御館の乱での判断は間違ってはいなかった、仮に間違いだとしても勝頼の立場や状況で考えたら仕方なかったと思ってます。まずは長篠の戦いについての私の考えを述べます。勝頼の長篠城攻めの理由がなんであれ、撤退したら「武田は織田・徳川の後詰めが来ただけで恐れをなし、戦いもせずに尻尾を巻いて逃げ出した腰抜け」と信長や家康に喧伝され、三河や遠江、東美濃の国衆達に「武田に味方しても自分達が織田や徳川に攻められたら尻尾を巻いて逃げる。 一方で徳川は奥平の後詰めに織田と一緒に来てくれた。 しかも奥平は武田の城攻めに耐えた。 武田は頼りにならない上に弱い。 ならば自分達も奥平と同様に織田や徳川に味方した方が得になりそうだ」と思われて次々と離反されていたと思います。甲斐や信濃の家臣や国衆達も信玄や信虎、それ以前からの重税(「お金の流れで見る戦国時代」という現代の本や、「妙法寺記」という古文書に書かれている)で困窮する中わざわざ遠征したのに、戦果無しに撤退したのでは恩賞が貰えない。戦の費用や兵糧は家臣や国衆達の自己負担であり、その出費を取り返す為に城下町や村で乱取りをしたり、人を攫って売り飛ばすのにそれができなくなる。 しかも武田領の金山は当時の技術ではほとんど金が取れなくなるほど掘り尽くしていたらしいから、家臣や国衆達の出費を補填できない。山県昌景や馬場信春、内藤昌豊らも、武田信廉や穴山梅雪らも陪臣(家臣の家臣)や兵として動員する領地の民に恩賞を出さなければならない立場であり、自分達が恩賞を貰えなかったり、乱取りを許可する事ができなければ、陪臣や民達に恩賞を与える事ができない。 そうなったら陪臣や民達から武田家に対する不満が出る。撤退していたら、「重税で生活が苦しい中わざわざ遠征したのに何の恩賞も無しか。 これじゃあ俺は陪臣や兵として動員する民達に恩賞を出す事ができなくなってしまったし、領内の食い物も多くを兵糧として徴収してしまったしこれからどうやって食べていけばいいんだ。 戦っていれば勝って乱取りできたのに」という風にお金や兵糧の無駄遣い、骨折り損のくたびれもうけに終わった家臣や国衆達は不満を抱くでしょう。仮に家臣や国衆達が不満を抱かなかったとしても、陪臣や民達が不満を抱いたらその声は無視できないから、家臣達は今後出兵に応じなくなるかもしれない、反乱を起こすかもしれない、別の武田家の人間を担ぎ出して勝頼を追放するか殺そうとするかもしれない、史実より早く織田や徳川に寝返る者が出てくるかもしれない。そうして武田領に混乱が生じたらその隙をついて織田や徳川、更には上杉や北条に侵攻されて武田家が史実より早く滅亡する事になったかもしれない。仮に撤退して家臣や国衆達の離反が加速しなかったとしても、武田と織田の国力差は更に開いて大きくなり、時間が経てば経つほど武田が不利になる一方。 仕切り直した時には今以上に領土を広げて国力を上げた織田が今以上の兵を率いて徳川の後詰めに来るかもしれない、それどころか織田の方から武田領に侵攻してくるかもしれない。 そうなったら徳川も呼応して侵攻してくるからもう打つ手はない。勝頼が武田家を継いだ時の武田家の状況信玄が信長に謙信との和睦仲介を頼んでおきながら家康を攻めた為に信長を謙信への手紙に「武田とは金輪際手を結ばない」と書く程に激怒させたらしいから、外交での織田との関係修復は無理。その為、織田から鉄砲や鉄砲の弾を作る為の鉛、鉄砲を使う為に必要な火薬の原料、硝石が手に入りにくくなる経済封鎖を受けている。徳川との関係修復も三方ヶ原の戦いや信玄と家康が共同で今川を攻めた際からの遺恨(信玄と家康のどちらが不義理をしたのかは分からないが、家康は上杉や北条と結んで武田包囲網を作ろうとし、信長に武田と手を切るように何度も求め、自身が仲介役となって信長と謙信に手を結ばせようとした)で無理。浅井家、朝倉家が滅ぼされ、伊勢長島の一向一揆が鎮圧されて武田と対織田で連携できる相手がいなくなっている。 本願寺顕如がまだ畿内で織田と争っているようだが、敗れるのは時間の問題。この状況を打開するには、まだ織田が畿内で本願寺勢力と戦っていて、武田相手に全軍を向ける事はない中、わざわざ出てきた信長や家康をここで討ち取る、討ち取れなくても織田・徳川軍に痛手を与え、「織田など恐れる程の相手ではない」と喧伝しなければならない、そしてそれができるのは今しかないと判断したのかもしれないし、私が勝頼でもそう判断すると思います。撤退したら次に織田と戦う時は信長は出てこないかもしれないし、調略したところで熱田や津島、大津や堺などの商業が発達した街や濃尾平野という穀倉地帯を押さえ、税が安く豊かな織田を離反し、山に囲まれていて耕作に向いた地も少なく、税が重く貧乏な武田に味方する者は出てこないでしょう。一度撤退して織田が畿内に戻った後すぐに徳川を攻め直すという人がいましたけど、それは無理だろうと私は思いました。 行軍するだけでも消費する兵糧を貯めるのにも時間がかかるし、長篠城攻めで消費した武器弾薬だって補充しないといけないのにそんなすぐには補充できないと思います。同様に長期戦も無理です。 武田は遠江を完全に領土化していないから、長篠城を攻めている武田軍の兵糧や武器弾薬の補給は信濃から険しい山道を越えないとできないしそれ程多くは運べない。 一方で徳川は自軍の本領であり、しかも織田の本領の尾張にも近い。 どちらが補給が楽かと言われたら圧倒的に防衛戦側の織田・徳川ですから、長期戦になれば遠征軍の武田の方が先に兵糧切れして撤退するか全滅するかしかない状態になったと思います。設楽ヶ原に出ないで全軍で長篠城を攻め落とそうとして落とせたとしても、そうなったら設楽ヶ原に布陣している織田・徳川軍が武田軍が長篠城を攻めている間、もしくは落とした直後に攻め込んでくるかもしれない。そうなったら長篠城を落とせていたとしても守りを固める時間がありません。長篠城を攻める為の軍勢を多くして、設楽ヶ原の織田・徳川軍に目を向ける軍勢を少数にしたら、絶好の各個撃破の対象になってしまう。それならばと三河に出陣にしなければ、遠くない内に信長や家康は「武田は織田や徳川を恐れて自分を裏切った奥平家の討伐もできない臆病者揃い」とかと喧伝してきて、奥平と同様に織田や徳川に味方した方が得になりそうだと思う国衆達が次々と武田から離反すると思います。
奥州藤原氏もそうだったが、甲斐武田氏も経済政策と外交政策の失敗が原因で滅んだ。
どの政権も中央地方問わずに、滅亡の原因はザックリ言えば外交と経済政策の失敗と言えなくはない。
武田信玄公と言えば … " 風林火山 " のイメージが個人的に しっくりくる💡
政治・外交力が無かった事が滅亡の原因だと思いました。
外交力はあったよ。現に父信玄が「義光流源氏本家争い」と言うしょうもない理由で揉めた佐竹義重とは佐竹義重には武田勝頼として和睦申入れ武田家臣団にはあれは諏訪勝頼が私の知らないところで和睦したと言って和睦して北条氏政との手切れに対しても手を打って入るが織田信長がそれさえ読んで佐竹義重の背後に領国がある伊達輝宗と同盟して上杉と佐竹を同時に封じ込めてたからね。
あらゆる事象は玉突きなので、じゃあどこでどうすりゃ良かったの?って話なんだよね少なくとも最低限、徳川くらいは信玄の代で潰しておくべきだったし外交関係無茶苦茶にした挙句、遠征始めてあっさりしんだ親父が迷惑過ぎるんだけど徳川単体ならどうにでもなるけど、ノッブが本腰入れて来たらどうにもならんし浅井朝倉が消え、毛利も本願寺も押し込められてる状況でどうやったら延命出来たんでしょうねぇ…特別そこまでやらかしたとも思えんし、北条の防波堤にされても結果は一緒じゃん
少なくとも北条を敵に回さなければ、対織田・対徳川に全面的に注力はできた。加えて北条の援軍があれば、滅亡する時期を10年くらいは伸ばせたかもしれない。
@@のぶのぶ-h4z 北条がどんだけ出してくれるんですかね、景虎ですらあの体たらくなのに甲州落ちた後はあっさり織田に頭を垂れる氏政だしね10年とか夢想もいいとこ、単純に織田があまりにも強大になり過ぎてて、織田徳川のみでも詰んでる
@@omurago4673確かに北条は御館の乱での景虎支援にも積極的ではなかったですからね。私は御館の乱の時の氏政は、景虎が勝利すれば上杉家を乗っ取る算段がつく、景勝が勝利して景虎が死んだとしても、内乱が長引けば長引くほど上杉家の力は弱まり、関東に侵攻される事はなくなるからどちらに転んでも構わなかったと考えていたのだと見ています。
勝頼さんはそもそもの出自がいわくつきでしたからね。お母さんが諏訪姫で、信玄公は姫を自分のものにしようと思い、父親である頼重さんを騙して自害に追いやったとか。それで諏訪大明神が怒り、武田をたたる、諏訪姫の子である勝頼によって武田に禍が降りかかる、と噂したそうな。だから信玄公もこういう噂を無視できなかったのか、勝頼さんには代々武田の人間が受け継ぐべき「信」の字がない。諏訪の名跡を継がせるつもりだったんでしょうが。勝頼さんもそういうのを知らないわけはないんだから、子である信勝さんが元服して当主になるまで大人しく治世に努めておればよかったのに、それが出来ず結局、噂通りになってしまった。南無。
最初は諏訪の名跡を継がせ、当主義信を支えさせるつもりだったのが廃嫡した結果、勝頼を当主にした。但し100%間違いではなく、諏訪勝頼と武田勝頼を使い分けて父信玄がしょうもない理由で揉めた佐竹義重との和睦に成功する成果を挙げてはいる。もっともこれにより北条氏政が武田勝頼に不信感を持った事と北条氏政を切ってまで佐竹義重と和睦したものの、佐竹義重自身が伊達輝宗と戦争を起こして動けない上に上杉謙信も織田信長と同盟した伊達輝宗に攻められて手取川の戦いの勝利を無にさせられているからね。
そもそも勝頼は諏訪勝頼で諏訪を収めるための旗頭にする予定でした毛利の両先のようにねそれが信玄の変心で跡継ぎとなり信玄の裏切りによって武田は信用をなくした御館の乱だって信玄が三国同盟を破って駿河に攻めていなければ北条型につくという選択肢もあり得たはずつまり、勝頼が当主になった時点で外交手段はほぼなかったそれでも勝つことで求心力が必要なので武田史上、最大の領土を一時は持つことができましたここでコメントしてる人たちが勝頼に転生しても信長に降伏して甲斐一刻安堵なら上出来ちゃうかな?武田は守護大名から完全には戦国大名に脱却できず重臣の力が強かったからねそもそも信玄と手痛い敗北してたけど常勝のイメージがついた武田が負けたのは痛かったのかもね?
天正10年2月12日織田信忠甲州征伐出立からの、2月14日浅間山の噴火が不運過ぎる。この天災が無ければ、甲斐信濃駿河西上野東美濃、飛騨越後伊豆の一部を領する巨大領国の当主が、ひと月足らずで3月11日の自害にまで追い込まれる事態にはならなかった。
長篠大敗で武将達の信頼を失ったのが敗因である。有力武将が次々に信長方に寝返り、たいした合戦もすることなく滅亡した。
長篠の戦い以降、どの武将も返り討ちを恐れて武田との決戦は避けてたそうだ。
ふ~ん、でも、武田信玄って田舎の貧乏大名でしょ。金山なんて掘り尽くしてしまえば終わりの継続性の乏しい事業だし、甲斐も信濃も土地が広くても決して生産性の良くない土地柄ですし。とても豊かだったとは思えませんね。
周囲すべてと同盟結んで平和主義で引きこもるって政策は不可能だったのかなあ?
それは無理だと思います。 家臣達は領土欲とかが強かったとされてますし、そもそも甲斐が貧しい(山に囲まれていて交易に不利、平野が少なく土壌も火山灰で耕作に向いた土地が少ない、河川は度々氾濫し、日本住血吸虫という風土病もある、金山は信玄時代には当時の技術ではほとんど金が取れなくなるほど掘り尽くしている、戦国時代の固定資産税というべき「棟別銭」が他国の倍近い)から他所に侵攻してその土地の食糧やお金とかを奪う事でしか生きていく道がありませんから、引きこもるなんてしたら家臣達が「自分達に利益を与えようとしない大名など不要だ」という理屈でかつて信虎を信玄を担ぎ出して追放したように、別の誰かを担ぎ出して勝頼を追放するか殺そうとすると思います。そうでなくても信玄が信長に謙信との和睦仲介を頼んでおきながら家康を攻めた為に信長を謙信への手紙に「武田とは金輪際手を結ばない」と書く程に激怒させたらしいから、外交での織田との関係修復は無理。その為、織田から鉄砲や鉄砲の弾を作る為の鉛、鉄砲を使う為に必要な火薬の原料、硝石が手に入りにくくなる経済封鎖を受けている。徳川との関係修復も三方ヶ原の戦いや信玄と家康が共同で今川を攻めた際からの遺恨(信玄と家康のどちらが不義理をしたのかは分からないが、家康は上杉や北条と結んで武田包囲網を作ろうとし、信長に武田と手を切るように何度も求め、自身が仲介役となって信長と謙信に手を結ばせようとした)で無理。北条も一度甲相駿三国同盟を信玄が破った前科がある事、家康の武田包囲網に加担した事から互いに信用できない。上杉も第五次川中島の戦い以降の軍事衝突は確認できないが、越中の一向一揆を信玄が扇動している事から、互いに信用していないという状況です。
近江の「江」でなのですか・・・
勝頼なりに才はあったが、父親である信玄があかんかった。だって元は諏訪家の人間である筈だった勝頼を無理やり臨時当主にしてさ。家臣達も従う気があまりなかった様だし。勝頼なりに頑張ったけど、致命的に外交で失敗したのも痛かった。
景勝の味方をしたのが失敗だよな。景勝を見捨ててれば背後は安全だから家康とも互角くらいには戦えていただろう。そうして延命し子供の信勝の代で織田に降伏していれば生き残りは可能だったと思う。
最後の悪手だよね、上杉は弱まっていたので、同盟しても、助けにならないし、敵対したとしても、攻め込んで来たりは出来ないだろうし(織田とも揉めてたし)、北条と敵対した事で、粗四方が敵になってしまった。
親父と同じく長い目で時勢を見るのが下手だったんでしょうね
どうだろう、上杉家の勢力の大部分は景勝に付いていたから武田が味方しても簡単に景勝を討てるとは限らない景勝が提示した金や領地も得られないから史実以上に懐が厳しくなるその後は実質上杉領に影響力を持つ肥大化した北条に逆らえなくなるだろうし形勢不利となれば場合によっては景勝が織田にすり寄る可能性もあるし結局謙信が生きているうちに和睦するほか生き筋は無かったように思える
私はそうは思えません。そもそも謙信死後の上杉家は景勝が継ぐ事でまとまっていたらしいし、景虎はあくまでも反景勝派が担ぎ出した御輿に過ぎない上に北条も積極的に景虎を支援しようとは思えない行動をとっている事から、景虎が勝とうが負けて死のうが内乱が長引いて上杉家が弱まればどちらに転んでも構わなかったと考えていたと見る方が自然です。私は景勝と景虎の和睦仲介という生ぬるい事しないで、最初から積極的に正統後継者の景勝を支援して反景勝派の御輿である景虎は捕らえて北条に引き渡し、その後は甲斐に戻って家康に備え、家臣達に景勝に協力して反景勝派の粛清をさせて上杉家の弱体化を防ぎ北条の思惑を空振りにさせたいです。
そもそも勝頼は積極的に景勝に味方したわけじゃないからね。どちらにも手を出さないで様子を見ただけ。もし景虎を勝たせるつもりなら全力で上杉軍と交戦する必要があり、勝てたかどうかもわからん。北条お前が矢面に立てよって勝頼の気持ちは痛いほどわかるし、北条が積極的に動かなかった時点で、武田との同盟はダメになってもいいと北条が考えていた可能性が高い。
武田勝頼はいなか大名じゃ
信玄の遺言通り3年間死は隠しきれなかったと思いますが、家臣団との関係含め国内の安泰に努めていればよかったんじゃないのって思う。長篠の戦いは回避できたと思いますし宿老達との関係も違ったかも知れない。
根本的には武田信玄が悪いわよ
負債を残しすぎ
長篠の戦い回避、御館の乱の選択ミスらない、高天神城に援軍送る。こうしてたら本能寺の変までは武田滅亡してなかったと思う。
武田を無理に滅ぼさなければ本能寺の変は起きなかったという見方もできるんですけどね。
@@CX-EURO400 しかし信長にとって武田を討つ機会はあの時だけだったかも。信長が懸念していたのは、家康が独力で武田を滅ぼしてしまう事。信長は桶狭間で勝っても三河や遠江には侵攻せず、逆に家康と同盟を結び、対武田の防波堤にする事で上洛を果たした。信長はあくまで家康は武田への楯として利用価値があったというだけで、武田さえ消えれば家康も滅ぼす事も念頭にはあったはず。そのためには弱体化した武田を家康が自分に先んじて討ってしまう事態だけは何としても避けたかっただろうから。
長篠の戦いと御館の乱での勝頼の判断は私は間違ってはなかったと思います。戦わずに撤退したら「武田は織田・徳川の後詰めが来ただけで恐れをなし、戦いもせずに尻尾を巻いて逃げ出した腰抜け」と信長や家康に喧伝され、三河や遠江、東美濃の国衆達に「武田に味方しても自分達が織田や徳川に攻められたら尻尾を巻いて逃げる。 一方で徳川は奥平の後詰めに織田と一緒に来てくれた。 しかも奥平は武田の城攻めに耐えた。 武田は頼りにならない上に弱い。 ならば自分達も奥平と同様に織田や徳川に味方した方が得になりそうだ」と思われて離反されるだろうし、甲斐や信濃の家臣や国衆達も信玄や信虎、それ以前からの重税(「お金の流れで見る戦国時代」という現代の本や、「妙法寺記」という古文書に書かれている)で困窮する中わざわざ遠征したのに、戦果無しに撤退して恩賞が貰えなくなる事で遠征の為に負担した戦費や兵糧の無駄遣いに終わった事と陪臣(家臣の家臣)や兵として動員する領地の民に恩賞を与える事ができなくなる事に不満を抱く可能性が高い。そうならなかったとしても、武田と織田の国力差は更に開いて大きくなり、時間が経てば経つほど武田が不利になる一方だからまだ織田が畿内で本願寺勢力と戦っていて、武田相手に全軍を向ける事はない中、わざわざ出てきた信長や家康をここで討ち取る、討ち取れなくても織田・徳川軍に痛手を与え、「織田など恐れる程の相手ではない」と喧伝しなければならない、そしてそれができるのは今しかないと判断するのは当然です。御館の乱はそもそも謙信死後の上杉家は景勝が継ぐ事でまとまっていたらしいが、景勝とある家臣が会津の蘆名絡みで対立した事で景勝とその家臣の間を仲裁していた上杉憲政らが対立した家臣と共に反景勝派を形成し、自分達の行動を正当化する為に景虎を担ぎ出した。長く領国を留守にしたら家康の蠢動を許す危険性がある。北条の動きが少し前まで佐竹と対峙していたとはいえ遅かったのは、自分達だけに景勝と戦わせ、弱ったところを両方とも滅ぼす気ではないかと不信感を抱いても不思議ではない。北条家出身の景虎が上杉家当主になったら、武田領が東と北を北条の勢力に挟まれてしまう。 そうなったら北条氏政は武田との同盟を破棄して弟の景虎を操り、武田を東と北から挟み撃ちにしてくるかもしれない。 そうならなかったとしても、武田と北条の力関係が崩れ、武田家が北条の属国のような扱いになるかもしれない。 真田などの上野や北信濃に領地を持つ家臣達が離反してしまうかもしれない。そこで景勝と景虎の和睦仲介という手を打ち、一度は和睦を成立させたがすぐに破綻。更に勝頼の懸念が的中して家康が駿河辺りに侵攻してきた。 勝頼が家康の対処の為に越後を離れたのがちょうど北条氏邦だか氏照の軍勢が景勝派の家臣の城を攻めるところだった為に北条に「武田は景虎を見捨てて逃げた」という印象を与えたらしいですが、そもそも氏政が本気で景虎を支援する気があったとは氏政が最後まで越後に討ち入らなかった事を考えるとそう思えません。氏政は景虎が勝利すれば上杉家を乗っ取る算段がつく、景勝が勝利して景虎が死んだとしても、内乱が長引けば長引くほど上杉家の力は弱まり、関東に侵攻される事はないとどちらに転んでも良かったと考えていたのだと見る方が自然だと思います。
ーコメです
北条を敵に回した時点で勝頼はいわば詰んでたんでないかな。
いや、北条氏政を抑える為佐竹義重に頭下げて(父信玄がしょうもない理由で揉めた騒動を武田家的には諏訪勝頼として解決した)同盟結んだまでは良かったんだが、信長はそれを見越した上で上杉謙信を越後へ撤退させる為に伊達輝宗と同盟して信長包囲網包囲網作ってたからね。
これが誤算
一応佐竹義重と父信玄以来のくだらない揉め事を和睦して北条氏政を牽制している(但しこれが御盾の乱以上に北条氏政を怒らせる原因になったのだが。北条氏政が武田と同盟結んだのは佐竹義重を攻める際に背後を固めると共に「分家が本家に逆らうのでその討伐を武田信玄から依頼された」と言う大義名分を得る為で上杉謙信にも「これは単なる討伐戦であり関東管領としてお墨付き出して欲しい」と抜け目なく申し入れている)が、この佐竹義重との連携も佐竹義重が伊達輝宗経由で蘆名氏と和睦、更に伊達輝宗が織田信長と同盟しているので上杉家は援軍もへったくれもなく、北条氏政と佐竹義重も冷戦状態なので景虎援護も出来ず、と詰んでいた
あくまで「結果論」ではあるのだが。
父親である信玄が滅ぼした一族の娘に子供を産ませその子供が武田家の家督を継いで武田家が滅びる訳だから壮大な復讐だなあって思う。
本当に結果論だけど。
信玄が勝頼を「正当な後継者」と指名していれば、勝頼も武田家の掌握で苦労をする必要が無かったのもある。
武田家の破滅の最初の一歩は信玄が原因なんだよね・・・
もう一つは佐竹義重としょうもない理由で揉めた事
イメージとして語られやすい家臣団との対立だが、勝頼は戦国大名としてはそこまで苦労した様には思えない。北条が例外なだけで、信長(骨肉の争い)や家康(一揆)や景勝(戦国時代でも最悪クラスの状況)なんてもっと酷かった訳だし。
それは難しいでしょうね
勝頼は典厩信繁亡き後に反発するようになった信濃衆から代表みたいに祀り上げられてました
信玄からすればその勝頼を正式に当主にするのはあまりにも危険すぎると判断したのでしょう
佐竹と揉めた事なんて、武田の滅亡とは直接の因果関係はない。そもそも佐竹が武田に味方したからと言って、武田が対織田・徳川で西に兵力を向けざるを得ない状況では、独力で北条に対抗できる程の勢力はなく、北条に圧迫されるだけ。
じゃあどうやったら信長に勝てたのか、って言われれば…ねぇ。
織田家に降伏するしか未来が見えないよ…。
そうなんだけど、北条と揉めずに後ろ楯として機能していれば、あんなに早くパワーバランスが崩れることはなかった。二正面作戦は基本的には上手く行かない。
信長が大軍を率いて出てきたところで一旦長篠城から引いてさえすれば、史実じゃ全滅する予定だった旧臣は皆生きてるから、軍事力も支配地域も全て温存ってこと。これだけでも雲泥の差。
後は、復活した甲相同盟を維持ではなく「堅持(!)」し、御館の乱では当然影虎を支援して、後背地を盤石にする。
長篠の大敗北の後でもすぐには信長は攻めていない。滅びるまで七年かかってる。
基本的に信長は勝算の薄い喧嘩はしない。例外は桶狭間と姉川くらい。
上に書いた二つを勝頼が実行するだけで、日本史は変わった筈。
特に武田領国は日本一山がちで、守備側が圧倒的優位。だから信長は内部亀裂を第一にして、力攻めは最後の瞬間までやらなかった。
そもそも信玄は遺言で、死後三年間は外征をやめろと言ってるのに、勝頼はあっさり破ってる。
勝頼はスペック的には織豊、家康に見劣りしない。同じ条件なら互角にやり合い、負けることはないだろう。
でも残念なのは、功名心だけで合戦をやったり、直江兼続の金に目が眩んだりと、思慮が足りなかったことの一言でしかない。
逆に考えると、長篠で勝つぐらいしか勝頼が生き延びる道はなかったんだよ。だから多少不利だと思っても迎撃するために設楽原に布陣した。
そのまま戦闘をしてたら十分武田に勝ち目があったよ。信長は長篠救援のために自分から攻めなきゃいけない状況だったから、川を挟んで守る武田は有利な布陣だった。しかし信長は攻めてこず、別動隊を迂回させて武田の退路を遮断した。この信長の戦術が見事であり、それを許してしまった勝頼が迂闊だった。もしこの別動隊の迎撃に成功していたら(小牧長久手の家康のように)、進退窮まった信長が講和を言い出す結果になっていたと思われる。退路遮断された時点で勝頼の選択肢は、一か八かの突撃か、逃げ出して信長から追撃されて壊滅するか、この二択しかなかった。
俺もこれに賛成、長篠の戦いはやり方次第で勝ちはないまでもお互いに痛み分けには持ち込めたんじゃないだろうか
よく言われている通り戦わずに撤退するのは長篠の敗戦より悪手だと思う
@@らすぼす-d5i
私も戦わずに撤退は絶対にダメだったと思います。
撤退したら「武田は織田・徳川の後詰めが来ただけで恐れをなし、戦いもせずに尻尾を巻いて逃げ出した腰抜け」と信長や家康に喧伝され、三河や遠江、東美濃の国衆達に「武田に味方しても自分達が織田や徳川に攻められたら尻尾を巻いて逃げる。 一方で徳川は奥平の後詰めに織田と一緒に来てくれた。 しかも奥平は武田の城攻めに耐えた。 武田は頼りにならない上に弱い。 ならば自分達も奥平と同様に織田や徳川に味方した方が得になりそうだ」と思われて離反されるでしょうし、甲斐や信濃の家臣や国衆達も信玄や信虎、それ以前からの重税(「お金の流れで見る戦国時代」という現代の本や、「妙法寺記」という古文書に書かれている)で困窮する中わざわざ遠征したのに、戦果無しに撤退したのでは恩賞が貰えませんし。
戦の費用や兵糧は家臣や国衆達の自己負担であり、その出費を取り返す為に城下町や村で乱取りをしたり、人を攫って売り飛ばすのにそれができなくなる。 しかも武田領の金山は当時の技術ではほとんど金が取れなくなるほど掘り尽くしていたらしいから、家臣や国衆達の出費を補填できない。
山県昌景や馬場信春、内藤昌豊らも、武田信廉や穴山梅雪らも陪臣(家臣の家臣)や兵として動員する領地の民に恩賞を出さなければならない立場であり、自分達が恩賞を貰えなかったり、乱取りを許可する事ができなければ、陪臣や民達に恩賞を与える事ができない。 そうなったら陪臣や民達から武田家に対する不満が出ていたと思います。
「重税で生活が苦しい中わざわざ遠征したのに何の恩賞も無しか。 これじゃあ俺は陪臣や兵として動員する民達に恩賞を出す事ができなくなってしまったし、領内の食い物も多くを兵糧として徴収してしまったしこれからどうやって食べていけばいいんだ。 戦っていれば勝って乱取りできたのに」という風にお金の無駄遣い、骨折り損のくたびれもうけに終わった家臣や国衆達は不満を抱くでしょうし、仮に家臣や国衆達が不満を抱かなかったとしても、陪臣や民達が不満を抱いたらその声は無視できないから、家臣達は何をしでかすか分からない。
今後出兵に応じなくなるかもしれない、反乱を起こすかもしれない、別の武田家の人間を担ぎ出して勝頼を追放するか殺そうとするかもしれない、史実より早く織田や徳川に寝返る者が出てくるかもしれない。
そうして武田領に混乱が生じたらその隙をついて織田や徳川、更には上杉や北条に侵攻されて武田家が史実より早く滅亡する事になったかもしれない。
仮に撤退して家臣や国衆達の離反が加速しなかったとしても、武田と織田の国力差は更に開いて大きくなり、時間が経てば経つほど武田が不利になる一方。 仕切り直した時には今以上に領土を広げて国力を上げた織田が今以上の兵を率いて徳川の後詰めに来るかもしれない、それどころか織田の方から武田領に侵攻してくるかもしれない。 そうなったら徳川も呼応して侵攻してくるからもう打つ手はないです。
一度撤退して織田が畿内に戻った後すぐに徳川を攻め直すという人がいましたけど、それは無理だろうと私は思いました。 行軍するだけでも消費する兵糧を貯めるのにも時間がかかるし、長篠城攻めで消費した武器弾薬だって補充しないといけないのにそんなすぐには補充できない。
同様に長期戦も無理です。 武田は遠江を完全に領土化していないから、長篠城を攻めている武田軍の兵糧や武器弾薬の補給は信濃から険しい山道を越えないとできないしそれ程多くは運べない。
一方で徳川は自軍の本領であり、しかも織田の本領の尾張にも近い。 どちらが兵糧や武器弾薬の補給が楽かと言われたら圧倒的に防衛戦側の織田・徳川ですから、長期戦になれば遠征軍の武田の方が先に兵糧切れして撤退するか全滅するしかなくなるでしょう。
しかも当時の武田家は、信玄が信長に謙信との和睦仲介を頼んでおきながら家康を攻めた為に信長を謙信への手紙に「武田とは金輪際手を結ばない」と書く程に激怒させたらしいから、外交での織田との関係修復は無理。
その為、織田から鉄砲や鉄砲の弾を作る為の鉛、鉄砲を使う為に必要な火薬の原料、硝石が手に入りにくくなる経済封鎖を受けている。
徳川との関係修復も三方ヶ原の戦いや信玄と家康が共同で今川を攻めた際からの遺恨(信玄と家康のどちらが不義理をしたのかは分からないが、家康は上杉や北条と結んで武田包囲網を作ろうとし、信長に武田と手を切るように何度も求め、自身が仲介役となって信長と謙信に手を結ばせようとした)で無理。
浅井家、朝倉家が滅ぼされ、伊勢長島の一向一揆が鎮圧されて武田と対織田で連携できる相手がいなくなっている。 本願寺顕如がまだ畿内で織田と争っているようだが、敗れるのは時間の問題という状況ですから、まだ織田が畿内で本願寺勢力と戦っていて、武田相手に全軍を向ける事はない中、わざわざ出てきた信長や家康をここで討ち取る、討ち取れなくても織田・徳川軍に痛手を与え、「織田など恐れる程の相手ではない」と喧伝しなければならない、そしてそれができるのは今しかないと判断するのは当然だろうし、私が勝頼でもそう判断すると思います。
長篠城を落として裏切りに対する報復戦の完遂をした上での撤退なら形の上では小勝利で終わったかな。でもそれでも抜本的な勝利とはならない。
身も蓋も無い言い方をすれば、そもそも勝頼は武田家のトップになるべきでは無かった。
信玄が嫡子義信を排除した時から、勝頼の悲劇は始まったと思う。
織田信長や徳川家康も、勝頼の軍事的才能は認めてたし、義信の家臣として侍大将的なポジションになっていれば、高い評価を得られたのではないか。
むしろ信玄の勝頼に対する扱いによる強烈なデバフを受けながらも、最後まで足掻いた悲劇的な人物が勝頼だと思う。
甲相越三国和睦構想、御館の乱、高天神城攻防戦での対応
甲斐越後相模三国同盟自体、織田信長ー伊達輝宗ー佐竹義重ラインで後ろから抑えられていたし。
伊達輝宗-佐竹義重ラインが弱すぎる。全然上杉と北条の抑えとしては機能しないと思う。
勝頼の生母 諏訪姫は強奪された様なものだ 武田家滅べと 呪っていた
彼に責任を負わせるのはどうだろうか?確かに信玄は犠牲を払い苦労しながらもしないできたがそれには理由もあるし話せば長い
しかし勝頼はそれ以前に父に先立たれ孤立し離反者が続出する中で悪戦苦闘していた
空中分解し続ける飛行機を操縦するパイロット二似ている
信玄の時より難しい状況でコントロール不能のまま歳後を迎える事となった
でも武田の領土は信玄時代よりも拡大していたし、信玄が落とせなかった高天神城を落としている。
鉄砲の数も信玄時代よりも多かった。
だが、織田・徳川連合軍よりも物量で劣っていた事は事実だ。
現に「長篠の合戦」では、武田軍は鉄砲の数が少なく、しかも銃弾が鐚銭を溶かして造った物だった(銅の銃弾)。
長篠の戦いに臨まざるをえない状況に陥った時点で詰んでいたと言えなくもない。
勝頼が信長の力を正しく認識していたなら、北条と上杉含め3国同盟を主導するくらいの思い切った策を取らなければ無理だったと思う。二正面作戦は基本的には絶対に上手く行かない。
武田家を裏切った家臣の中でも大身の家臣だった木曽、穴山、小山田の三氏は、元々武田とは敵対していた独立勢力で、信玄の父の信虎の時に甲斐を統一したことで、木曽、穴山、小山田は武田の圧力に屈することとなり、武田家から嫁を迎えることでかろうじて一門衆としての扱いで武田家の家臣団に組み込まれたという背景がある上、それぞれの領地が木曽は織田、穴山は徳川、小山田は北条との最前線となる位置にあることから、武田家が弱体化すればすぐに武田を裏切るという下地はあった。
そのような状況で高天神城を見捨てたという情報が入れば、明日は我が身、敵対して滅亡する前にそれぞれが誼を通じて家を守るという判断に至ったのはやむを得ないことだったでしょう。
故に真田昌幸はまだ本気で軍備が整っていない東へ逃げて自国領の名胡桃に籠り、そこで上杉や佐竹義重の援軍を頼る算段を立ててはいたが、上杉は弱体化してるし上杉も佐竹も織田信長ー伊達輝宗ラインに攻められて動けない、からね。
ちなみに佐竹義重は本能寺の変直前織田信長に戦勝祝いと共に北条氏政に謀反の意思あり、と告げ口している。
真田昌幸は小山田離反を読んでいて
上杉と佐竹義重を頼って上野に籠る(現にその障害である北条氏政は武田滅亡後信長と敵対している)策を献じたのですが
佐竹義重も上杉も蘆名ー伊達輝宗ー織田信長の連合軍と戦っていて佐竹義重に至っては蘆名氏との和睦を織田信長や伊達輝宗に仲介して貰っている(佐竹義重の子を男子の居ない蘆名氏に養子縁組させる事で解決)状況では無理だったので却下されてます。
信さんも家康もこの程度の失敗はよくしている。
なんで毛利の画像が元就なの?
この時は輝元でしょ
諏訪勝頼として本家を支える形を信玄がつくっていたら。
信玄が今川氏真を援けて織田徳川と戦う外交方針を取るべきだったのでは?
嫡男の武田義信はそう考えて、信玄と対立。結果謀殺されてしまった。今川から駿河を奪っても北条や徳川を敵にした武田は無駄に軍事行動をする羽目になったから義信は間違っていなかった。
更に長男を死なせた信玄は弱気になり、孫を生まれ変わりと信じて勝頼を正式な跡取りと認めなかった。武田滅亡の責任の大半は信玄にあると推察します。
信玄は海に出たかったので、駿河を見過ごす選択肢はなかったでしょうね。北条との同盟をご破算にしてまでも、手に入れたかったのだから。
御館の乱は、重要拠点の春日山城をいち早く占拠し、多くの家臣の支持も得ている景勝側の方が元々優勢でしたよ。
だから、勝頼が引き上げた途端にあっさり景虎が滅ぼされた訳ですし。
大体、武田は北条の従属国ではなく、あくまでも同盟の援軍という立場なので、本来なら北条軍が主力で戦わなければいけない。
ところが、北条軍は、もう川越まで来てるよ(嘘)とか勝頼に知らせを送ってくるけど、一向に現れず、結局、氏政の本隊は動かずに東上野衆に坂戸城を攻撃させただけで、氏政自身は雪が降る時期になったら、さっさと引き上げてしまっている。
勝頼としては、いつやって来るか分からない氏政に対して、景勝と景虎の和平の仲介をすれば義理は果たせると考えたのですが、和平交渉が長引く間に、家康が武田領に攻め込んできて、荒らしまわり、折角成立した和平も直ぐに破綻してしまって、勝頼も和平の仲介を諦めて引き上げてしまったという流れです。
これで勝頼が氏政を裏切ったというのは酷かなと思いますね。
実際、和平の交渉役は、勝頼に批判的だったと言われる春日虎綱(高坂弾正)担当していて、他の重臣や一門衆にも、景勝が和平成立に対するお礼の進物を贈っている事から、武田家中の多くは、北条への不信感もあり、景勝との和平に賛成だった事が窺えます。
信玄が信長を裏切って敵対した時点で武田は終わってる
信玄が長生きしようと義信が生きていて後を継ごうと結果は同じ
同意見。
信玄の寿命や誰が跡継ぎになったかで多少の期間の違いあれど、vs織田では武田単独では苦しく結局は滅亡か従属は避けられなかったように思う
私もそう思います。 信玄が信長に謙信との和睦仲介を頼んでおきながら家康を攻めた為に信長を謙信への手紙に「武田とは金輪際手を結ばない」と書く程に激怒させて鉄砲や鉄砲の弾を作る為の鉛、鉄砲を使う為に必要な火薬の原料、硝石が手に入りにくくなる経済封鎖をされた時点で遅かれ早かれ武田家は滅亡する運命であり、信玄であってもその状況を打開する事は不可能だったと思っています。
信玄が長生きしていれば織田と長対陣して有利な和睦を取れた可能性がある、位かなあ
当時から織田が国力は倍以上だけど、四面楚歌で一点集中出来ない上に、信玄と決戦というハイリスクは信長もやりたくないはず
その後は攻め込むにも徳川領通るか、山深い木曽路飛騨路信濃路の敵地経由しないといけないから信長もやりたくないハズ
父信玄が佐竹義重と揉めたのが全てのしくじりに繋がるフラグ
武田と佐竹はそもそも同じ源義光が租なので連携して北条氏政を挟み撃ちにして亡し、それを関東管領上杉謙信に罪をなすりつけて居れば助かったのだが。
佐竹には大大名の戦局を左右する程の影響力はないよ。できる役割といえば北条を牽制するくらい。
次は御館の乱についてです。
謙信死後の上杉家の家督争いとされる御館の乱ですが、そもそも謙信死後の上杉家は景勝が継ぐ事でまとまっていたらしいです。
根拠は景勝が謙信から弾正少弼の官位を譲られている事と、謙信死後に景勝の元に諸大名からの使者が多く来ていたかららしいです。
しかし謙信時代の吏僚だった神余親綱という家臣が景勝に無断で領内の有力者から人質を集めているのを景勝が神余は会津の蘆名と通じて謀反を企んでいるのではと疑いを抱いたらしい。
神余は自分の行動は蘆名の侵攻に備える為だと弁明し、上杉憲政や山本寺定長らが景勝と神余の間の調停に動いた。
その後本当に蘆名が侵攻してきて神余が撃退した。 この事で景勝の器量に疑問を持つ家臣が多くなったらしい。
しかし景勝は神余に対して自分に忠誠を誓う内容の誓紙を血判を入れて提出するように求めるなど強硬姿勢だった。
この事に憤慨した神余が景勝派の家臣の城を攻撃、上杉憲政や山本寺定長、本庄秀綱らも神余に同調して反景勝派を形成、自分達の行動を正当化する為の御輿として景虎を担ぎ出したのが御館の乱の実像だと思います。
勝頼は北条氏政からの景虎支援の要請を受けて出兵したが、長く領国を留守にしたら家康の蠢動を許す危険性がある。
北条の動きが少し前まで佐竹と対峙していたとはいえ遅かったのは、自分達だけに景勝と戦わせ、弱ったところを両方とも滅ぼす気ではないかと不信感を抱くのも当然だと思います。
そもそも北条が本気で景虎を支援したければ北条家自体が大軍を率いて越後に侵攻すればいいだけなのに、わざわざ武田にやらせた事に北条は自分達を同盟相手ではなく属国のように見ているのではと疑った家臣達もいたのかもしれない。
北条家出身の景虎が上杉家当主になったら、武田領が東と北を北条の勢力に挟まれてしまう。 そうなったら北条氏政は武田との同盟を破棄して弟の景虎を操り、武田を東と北から挟み撃ちにしてくるかもしれない。 そうならなかったとしても、武田と北条の力関係が崩れ、武田家が北条の属国のような扱いになるかもしれない。 真田などの上野や北信濃に領地を持つ家臣達が離反してしまうかもしれない。
しかし北条との同盟関係があるから北条からの景虎支援要請を断る訳にはいかない。
そこで景勝と景虎の和睦仲介という手を打ち、一度は和睦を成立させたがすぐに破綻。
更に勝頼の懸念が的中して家康が駿河辺りに侵攻してきた。 勝頼が家康の対処の為に越後を離れたのがちょうど北条氏邦だか氏照の軍勢が景勝派の家臣の城を攻めるところだった為に北条に「武田は景虎を見捨てて逃げた」という印象を与えたらしいですが、そもそも氏政が本気で景虎を支援する気があったとは氏政が最後まで越後に討ち入らなかった事を考えるとそう思えません。
氏政は景虎が勝利すれば上杉家を乗っ取る算段がつく、景勝が勝利して景虎が死んだとしても、内乱が長引けば長引くほど上杉家の力は弱まり、関東に侵攻される事はなくなるからどちらに転んでも構わないと考えていたと見る方が自然だと思います。
勝頼を無能だとか凡庸だとか言う人に、じゃああなたが勝頼の立場や状況だとしてどう行動するのか、その行動をすればどうなっていたと考えるのか、その行動の結果起こった事に対しての責任を取れるのか、責任を取ろうとする覚悟があるのか聞いてみたいです。
同感です!!勝頼が北条を敵にしたのが武田滅亡の最大の原因だとする意見は北条が武田を絶対に裏切らないという事を前提にしてますがそんな保証あるわけないです!!だからこそ勝頼は北条への義理を果たしつつ最悪北条に裏切られた時に備えて越後に景勝の影響力を残して置きたかったのでしょう!!現代人の後知恵で批判するのは簡単ですが現代人だって5年先10年先を簡単に見通せないのですから先の見通しに失敗した勝頼を凡将と決めつけるのは間違いだと思います!!
北条氏政もうっかりとは動けないですよ。
既に蘆名氏とも戦おうとしている上に蘆名氏の背後にいる伊達輝宗が織田信長と同盟して蘆名ー伊達ー織田、の信長包囲網包囲網が出来ている状況では北条氏政が上杉援軍に向かったら佐竹義重がこれ幸いと蘆名伊達両氏と連携して攻めてくるからね。
まあもし本気で上杉を助けるなら佐竹義重や蘆名氏と和睦して蘆名ー北条連合軍で攻め入る方法もあるが
勝頼が領土と黄金に目が眩んだのは事実だと思う。
そして景勝側についたことで北条が同盟まで破棄するとは予想してなかったのではないか。織田・徳川に圧迫を受けている状況で北条まで進んで敵に回そうなんて考えないでしょうからね。長期的な視野に欠けていたのは、あるかも
滅亡しないためにはどうすればよかったか…どこかのタイミングで信長に降伏していれば甲斐一国でも安堵されて存続出来ただろうか?
鎌倉時代から続く甲斐源氏の名門守護大名の武田家が元は守護代の家臣筋の織田という武田から見たら素性が怪しく身分も低い格下の家柄の相手に臣従するというのは、勝頼にも家臣達にも受け入れ難いでしょうし、仮に勝頼が臣従を受け入れたとしても、家臣達は自分達の領地や城を失う事になるかもしれないから、それを嫌って「自分達の領地や城を守ろうとせずに平気で他者に差し出す大名など不要だ」という理屈でかつて信玄を担ぎ出して信虎を追放した時のように、別の誰かを担ぎ出して勝頼を追放するか殺そうとすると思います。
臣従するには、甲州征伐の軍令が下る前でなければダメだったでしょうね、信長の性格からして。
レアものコレクターの信長公、御旗・楯無を差し出せば勝頼は出家で済んだ気がする、、、
長篠敗戦の時点で、甲江和与などという半端にプライド保った施策でなく、勝頼が剃髪して安土に出仕し、織田への臣従を申し出るぐらいの徹底的で一貫した外交をできれば命脈を保てたかもしれないが・・・
君主というよりも、甲信土豪衆の盟主 という性質上、内輪の利害調整が優先されて、思い切った外交方針を採りづらかったのだろうか。
後の歴史を知ってる我々からすれば、簡単な答えと思うが、当時の価値観からすれば簡単には敵の軍門に下れないでしょ。
@@のぶのぶ-h4z
そのとおりなのですが、れっきとした独立勢力なのに、嬉々として織田家臣のように活動した武将がいるんすよ筒井順慶ていうんですけども。
勝頼(無位無官)「再同盟しようよ」
信長(正二位右大臣)「ナニ言ってんの」
信玄ー信長 は同盟期間の方が敵対期間より圧倒的に長かったせいで「そのうち再同盟できるだろー」と勘違いしたままズルズルいってしまったのかもですね
そんな事したら家臣や国衆達に「自分達の領地や城を守ろうとせず、簡単に他人に差し出そうとする大名など不要だ」という理屈で勝頼は追放されるか殺される事になると思います。
当時の武士達は面子や血筋を重んじる者が多かったらしい。 鎌倉時代から続く甲斐源氏の名門の武田家に対し信長の織田家は元は守護代の家臣筋、徳川も三河の土豪出身。 武田から見たら織田や徳川は素性の怪しく身分の低い格下の家柄の相手。
しかも武田家家臣達も名門意識や独立心、領土欲が強かった者の集まりだったらしいですから、織田などという格下の家柄の相手に臣従しようとする勝頼を追放したり殺して、別の武田家の人間を担ぎ出すのを躊躇いはしないでしょう。 かつて信玄を担ぎ出して信虎を追放した前科がありますから。
私は勝頼のミスと言えるものは高天神城を救援できなかった事と、新府城築城のタイミング(私は信玄時代から作っておくべきだったと思っている)であり、長篠の戦いと御館の乱での判断は間違ってはいなかった、仮に間違いだとしても勝頼の立場や状況で考えたら仕方なかったと思ってます。
まずは長篠の戦いについての私の考えを述べます。
勝頼の長篠城攻めの理由がなんであれ、撤退したら「武田は織田・徳川の後詰めが来ただけで恐れをなし、戦いもせずに尻尾を巻いて逃げ出した腰抜け」と信長や家康に喧伝され、三河や遠江、東美濃の国衆達に「武田に味方しても自分達が織田や徳川に攻められたら尻尾を巻いて逃げる。 一方で徳川は奥平の後詰めに織田と一緒に来てくれた。 しかも奥平は武田の城攻めに耐えた。 武田は頼りにならない上に弱い。 ならば自分達も奥平と同様に織田や徳川に味方した方が得になりそうだ」と思われて次々と離反されていたと思います。
甲斐や信濃の家臣や国衆達も信玄や信虎、それ以前からの重税(「お金の流れで見る戦国時代」という現代の本や、「妙法寺記」という古文書に書かれている)で困窮する中わざわざ遠征したのに、戦果無しに撤退したのでは恩賞が貰えない。
戦の費用や兵糧は家臣や国衆達の自己負担であり、その出費を取り返す為に城下町や村で乱取りをしたり、人を攫って売り飛ばすのにそれができなくなる。 しかも武田領の金山は当時の技術ではほとんど金が取れなくなるほど掘り尽くしていたらしいから、家臣や国衆達の出費を補填できない。
山県昌景や馬場信春、内藤昌豊らも、武田信廉や穴山梅雪らも陪臣(家臣の家臣)や兵として動員する領地の民に恩賞を出さなければならない立場であり、自分達が恩賞を貰えなかったり、乱取りを許可する事ができなければ、陪臣や民達に恩賞を与える事ができない。 そうなったら陪臣や民達から武田家に対する不満が出る。
撤退していたら、「重税で生活が苦しい中わざわざ遠征したのに何の恩賞も無しか。 これじゃあ俺は陪臣や兵として動員する民達に恩賞を出す事ができなくなってしまったし、領内の食い物も多くを兵糧として徴収してしまったしこれからどうやって食べていけばいいんだ。 戦っていれば勝って乱取りできたのに」という風にお金や兵糧の無駄遣い、骨折り損のくたびれもうけに終わった家臣や国衆達は不満を抱くでしょう。
仮に家臣や国衆達が不満を抱かなかったとしても、陪臣や民達が不満を抱いたらその声は無視できないから、家臣達は今後出兵に応じなくなるかもしれない、反乱を起こすかもしれない、別の武田家の人間を担ぎ出して勝頼を追放するか殺そうとするかもしれない、史実より早く織田や徳川に寝返る者が出てくるかもしれない。
そうして武田領に混乱が生じたらその隙をついて織田や徳川、更には上杉や北条に侵攻されて武田家が史実より早く滅亡する事になったかもしれない。
仮に撤退して家臣や国衆達の離反が加速しなかったとしても、武田と織田の国力差は更に開いて大きくなり、時間が経てば経つほど武田が不利になる一方。 仕切り直した時には今以上に領土を広げて国力を上げた織田が今以上の兵を率いて徳川の後詰めに来るかもしれない、それどころか織田の方から武田領に侵攻してくるかもしれない。 そうなったら徳川も呼応して侵攻してくるからもう打つ手はない。
勝頼が武田家を継いだ時の武田家の状況
信玄が信長に謙信との和睦仲介を頼んでおきながら家康を攻めた為に信長を謙信への手紙に「武田とは金輪際手を結ばない」と書く程に激怒させたらしいから、外交での織田との関係修復は無理。
その為、織田から鉄砲や鉄砲の弾を作る為の鉛、鉄砲を使う為に必要な火薬の原料、硝石が手に入りにくくなる経済封鎖を受けている。
徳川との関係修復も三方ヶ原の戦いや信玄と家康が共同で今川を攻めた際からの遺恨(信玄と家康のどちらが不義理をしたのかは分からないが、家康は上杉や北条と結んで武田包囲網を作ろうとし、信長に武田と手を切るように何度も求め、自身が仲介役となって信長と謙信に手を結ばせようとした)で無理。
浅井家、朝倉家が滅ぼされ、伊勢長島の一向一揆が鎮圧されて武田と対織田で連携できる相手がいなくなっている。 本願寺顕如がまだ畿内で織田と争っているようだが、敗れるのは時間の問題。
この状況を打開するには、まだ織田が畿内で本願寺勢力と戦っていて、武田相手に全軍を向ける事はない中、わざわざ出てきた信長や家康をここで討ち取る、討ち取れなくても織田・徳川軍に痛手を与え、「織田など恐れる程の相手ではない」と喧伝しなければならない、そしてそれができるのは今しかないと判断したのかもしれないし、私が勝頼でもそう判断すると思います。
撤退したら次に織田と戦う時は信長は出てこないかもしれないし、調略したところで熱田や津島、大津や堺などの商業が発達した街や濃尾平野という穀倉地帯を押さえ、税が安く豊かな織田を離反し、山に囲まれていて耕作に向いた地も少なく、税が重く貧乏な武田に味方する者は出てこないでしょう。
一度撤退して織田が畿内に戻った後すぐに徳川を攻め直すという人がいましたけど、それは無理だろうと私は思いました。 行軍するだけでも消費する兵糧を貯めるのにも時間がかかるし、長篠城攻めで消費した武器弾薬だって補充しないといけないのにそんなすぐには補充できないと思います。
同様に長期戦も無理です。 武田は遠江を完全に領土化していないから、長篠城を攻めている武田軍の兵糧や武器弾薬の補給は信濃から険しい山道を越えないとできないしそれ程多くは運べない。 一方で徳川は自軍の本領であり、しかも織田の本領の尾張にも近い。 どちらが補給が楽かと言われたら圧倒的に防衛戦側の織田・徳川ですから、長期戦になれば遠征軍の武田の方が先に兵糧切れして撤退するか全滅するかしかない状態になったと思います。
設楽ヶ原に出ないで全軍で長篠城を攻め落とそうとして落とせたとしても、そうなったら設楽ヶ原に布陣している織田・徳川軍が武田軍が長篠城を攻めている間、もしくは落とした直後に攻め込んでくるかもしれない。
そうなったら長篠城を落とせていたとしても守りを固める時間がありません。
長篠城を攻める為の軍勢を多くして、設楽ヶ原の織田・徳川軍に目を向ける軍勢を少数にしたら、絶好の各個撃破の対象になってしまう。
それならばと三河に出陣にしなければ、遠くない内に信長や家康は「武田は織田や徳川を恐れて自分を裏切った奥平家の討伐もできない臆病者揃い」とかと喧伝してきて、奥平と同様に織田や徳川に味方した方が得になりそうだと思う国衆達が次々と武田から離反すると思います。
奥州藤原氏もそうだったが、甲斐武田氏も経済政策と外交政策の失敗が原因で滅んだ。
どの政権も中央地方問わずに、滅亡の原因はザックリ言えば外交と経済政策の失敗と言えなくはない。
武田信玄公と言えば … " 風林火山 " のイメージが個人的に しっくりくる💡
政治・外交力が無かった事が滅亡の原因だと思いました。
外交力はあったよ。
現に父信玄が「義光流源氏本家争い」と言うしょうもない理由で揉めた佐竹義重とは
佐竹義重には武田勝頼として和睦申入れ
武田家臣団には
あれは諏訪勝頼が私の知らないところで和睦した
と言って和睦して北条氏政との手切れに対しても手を打って入るが
織田信長がそれさえ読んで佐竹義重の背後に領国がある伊達輝宗と同盟して上杉と佐竹を同時に封じ込めてたからね。
あらゆる事象は玉突きなので、じゃあどこでどうすりゃ良かったの?って話なんだよね
少なくとも最低限、徳川くらいは信玄の代で潰しておくべきだったし
外交関係無茶苦茶にした挙句、遠征始めてあっさりしんだ親父が迷惑過ぎるんだけど
徳川単体ならどうにでもなるけど、ノッブが本腰入れて来たらどうにもならんし
浅井朝倉が消え、毛利も本願寺も押し込められてる状況でどうやったら延命出来たんでしょうねぇ…
特別そこまでやらかしたとも思えんし、北条の防波堤にされても結果は一緒じゃん
少なくとも北条を敵に回さなければ、対織田・対徳川に全面的に注力はできた。
加えて北条の援軍があれば、滅亡する時期を10年くらいは伸ばせたかもしれない。
@@のぶのぶ-h4z 北条がどんだけ出してくれるんですかね、景虎ですらあの体たらくなのに
甲州落ちた後はあっさり織田に頭を垂れる氏政だしね
10年とか夢想もいいとこ、単純に織田があまりにも強大になり過ぎてて、織田徳川のみでも詰んでる
@@omurago4673
確かに北条は御館の乱での景虎支援にも積極的ではなかったですからね。
私は御館の乱の時の氏政は、景虎が勝利すれば上杉家を乗っ取る算段がつく、景勝が勝利して景虎が死んだとしても、内乱が長引けば長引くほど上杉家の力は弱まり、関東に侵攻される事はなくなるからどちらに転んでも構わなかったと考えていたのだと見ています。
勝頼さんはそもそもの出自がいわくつきでしたからね。お母さんが諏訪姫で、信玄公は姫を自分のものにしようと思い、父親である頼重さんを騙して自害に追いやったとか。それで諏訪大明神が怒り、武田をたたる、諏訪姫の子である勝頼によって武田に禍が降りかかる、と噂したそうな。だから信玄公もこういう噂を無視できなかったのか、勝頼さんには代々武田の人間が受け継ぐべき「信」の字がない。諏訪の名跡を継がせるつもりだったんでしょうが。
勝頼さんもそういうのを知らないわけはないんだから、子である信勝さんが元服して当主になるまで大人しく治世に努めておればよかったのに、それが出来ず結局、噂通りになってしまった。南無。
最初は諏訪の名跡を継がせ、当主義信を支えさせるつもりだったのが廃嫡した結果、勝頼を当主にした。
但し100%間違いではなく、諏訪勝頼と武田勝頼を使い分けて父信玄がしょうもない理由で揉めた佐竹義重との和睦に成功する成果を挙げてはいる。
もっともこれにより北条氏政が武田勝頼に不信感を持った事と北条氏政を切ってまで佐竹義重と和睦したものの、佐竹義重自身が伊達輝宗と戦争を起こして動けない上に上杉謙信も織田信長と同盟した伊達輝宗に攻められて手取川の戦いの勝利を無にさせられているからね。
そもそも勝頼は
諏訪勝頼で
諏訪を収めるための旗頭にする予定でした
毛利の両先のようにね
それが信玄の変心で跡継ぎとなり
信玄の裏切りによって
武田は信用をなくした
御館の乱だって
信玄が三国同盟を破って
駿河に攻めていなければ
北条型につくという選択肢もあり得たはず
つまり、勝頼が当主になった時点で外交手段はほぼなかった
それでも勝つことで求心力が必要なので
武田史上、最大の領土を一時は持つことができました
ここでコメントしてる人たちが
勝頼に転生しても
信長に降伏して甲斐一刻安堵なら上出来ちゃうかな?
武田は守護大名から
完全には戦国大名に脱却できず
重臣の力が強かったからね
そもそも信玄と手痛い敗北してたけど
常勝のイメージがついた武田が負けたのは痛かったのかもね?
天正10年2月12日織田信忠甲州征伐出立からの、2月14日浅間山の噴火が不運過ぎる。
この天災が無ければ、甲斐信濃駿河西上野東美濃、飛騨越後伊豆の一部を領する巨大領国の当主が、ひと月足らずで3月11日の自害にまで追い込まれる事態にはならなかった。
長篠大敗で武将達の信頼を失ったのが敗因である。
有力武将が次々に信長方に寝返り、たいした合戦もすることなく滅亡した。
長篠の戦い以降、どの武将も返り討ちを恐れて武田との決戦は避けてたそうだ。
ふ~ん、でも、武田信玄って田舎の貧乏大名でしょ。金山なんて掘り尽くしてしまえば終わりの継続性の乏しい事業だし、甲斐も信濃も土地が広くても決して生産性の良くない土地柄ですし。とても豊かだったとは思えませんね。
周囲すべてと同盟結んで平和主義で引きこもるって政策は不可能だったのかなあ?
それは無理だと思います。 家臣達は領土欲とかが強かったとされてますし、そもそも甲斐が貧しい(山に囲まれていて交易に不利、平野が少なく土壌も火山灰で耕作に向いた土地が少ない、河川は度々氾濫し、日本住血吸虫という風土病もある、金山は信玄時代には当時の技術ではほとんど金が取れなくなるほど掘り尽くしている、戦国時代の固定資産税というべき「棟別銭」が他国の倍近い)から他所に侵攻してその土地の食糧やお金とかを奪う事でしか生きていく道がありませんから、引きこもるなんてしたら家臣達が「自分達に利益を与えようとしない大名など不要だ」という理屈でかつて信虎を信玄を担ぎ出して追放したように、別の誰かを担ぎ出して勝頼を追放するか殺そうとすると思います。
そうでなくても信玄が信長に謙信との和睦仲介を頼んでおきながら家康を攻めた為に信長を謙信への手紙に「武田とは金輪際手を結ばない」と書く程に激怒させたらしいから、外交での織田との関係修復は無理。
その為、織田から鉄砲や鉄砲の弾を作る為の鉛、鉄砲を使う為に必要な火薬の原料、硝石が手に入りにくくなる経済封鎖を受けている。
徳川との関係修復も三方ヶ原の戦いや信玄と家康が共同で今川を攻めた際からの遺恨(信玄と家康のどちらが不義理をしたのかは分からないが、家康は上杉や北条と結んで武田包囲網を作ろうとし、信長に武田と手を切るように何度も求め、自身が仲介役となって信長と謙信に手を結ばせようとした)で無理。
北条も一度甲相駿三国同盟を信玄が破った前科がある事、家康の武田包囲網に加担した事から互いに信用できない。
上杉も第五次川中島の戦い以降の軍事衝突は確認できないが、越中の一向一揆を信玄が扇動している事から、互いに信用していないという状況です。
近江の「江」でなのですか・・・
勝頼なりに才はあったが、父親である信玄があかんかった。だって元は諏訪家の人間である筈だった勝頼を無理やり臨時当主にしてさ。家臣達も従う気があまりなかった様だし。勝頼なりに頑張ったけど、致命的に外交で失敗したのも痛かった。
景勝の味方をしたのが失敗だよな。景勝を見捨ててれば背後は安全だから家康とも互角くらいには戦えていただろう。そうして延命し子供の信勝の代で織田に降伏していれば生き残りは可能だったと思う。
最後の悪手だよね、上杉は弱まっていたので、同盟しても、助けにならないし、敵対したとしても、攻め込んで来たりは出来ないだろうし(織田とも揉めてたし)、北条と敵対した事で、粗四方が敵になってしまった。
親父と同じく長い目で時勢を見るのが下手だったんでしょうね
どうだろう、上杉家の勢力の大部分は景勝に付いていたから武田が味方しても簡単に景勝を討てるとは限らない
景勝が提示した金や領地も得られないから史実以上に懐が厳しくなる
その後は実質上杉領に影響力を持つ肥大化した北条に逆らえなくなるだろうし形勢不利となれば場合によっては景勝が織田にすり寄る可能性もあるし結局謙信が生きているうちに和睦するほか生き筋は無かったように思える
私はそうは思えません。
そもそも謙信死後の上杉家は景勝が継ぐ事でまとまっていたらしいし、景虎はあくまでも反景勝派が担ぎ出した御輿に過ぎない上に北条も積極的に景虎を支援しようとは思えない行動をとっている事から、景虎が勝とうが負けて死のうが内乱が長引いて上杉家が弱まればどちらに転んでも構わなかったと考えていたと見る方が自然です。
私は景勝と景虎の和睦仲介という生ぬるい事しないで、最初から積極的に正統後継者の景勝を支援して反景勝派の御輿である景虎は捕らえて北条に引き渡し、その後は甲斐に戻って家康に備え、家臣達に景勝に協力して反景勝派の粛清をさせて上杉家の弱体化を防ぎ北条の思惑を空振りにさせたいです。
そもそも勝頼は積極的に景勝に味方したわけじゃないからね。どちらにも手を出さないで様子を見ただけ。もし景虎を勝たせるつもりなら全力で上杉軍と交戦する必要があり、勝てたかどうかもわからん。北条お前が矢面に立てよって勝頼の気持ちは痛いほどわかるし、北条が積極的に動かなかった時点で、武田との同盟はダメになってもいいと北条が考えていた可能性が高い。
武田勝頼はいなか大名じゃ
信玄の遺言通り3年間死は隠しきれなかったと思いますが、家臣団との関係含め国内の安泰に努めていればよかったんじゃないのって思う。長篠の戦いは回避できたと思いますし宿老達との関係も違ったかも知れない。
根本的には武田信玄が悪いわよ
負債を残しすぎ
長篠の戦い回避、御館の乱の選択ミスらない、高天神城に援軍送る。
こうしてたら本能寺の変までは武田滅亡してなかったと思う。
武田を無理に滅ぼさなければ本能寺の変は起きなかったという見方もできるんですけどね。
@@CX-EURO400 しかし信長にとって武田を討つ機会はあの時だけだったかも。
信長が懸念していたのは、家康が独力で武田を滅ぼしてしまう事。
信長は桶狭間で勝っても三河や遠江には侵攻せず、逆に家康と同盟を結び、
対武田の防波堤にする事で上洛を果たした。
信長はあくまで家康は武田への楯として利用価値があったというだけで、
武田さえ消えれば家康も滅ぼす事も念頭にはあったはず。
そのためには弱体化した武田を家康が自分に先んじて討ってしまう事態だけは
何としても避けたかっただろうから。
長篠の戦いと御館の乱での勝頼の判断は私は間違ってはなかったと思います。
戦わずに撤退したら「武田は織田・徳川の後詰めが来ただけで恐れをなし、戦いもせずに尻尾を巻いて逃げ出した腰抜け」と信長や家康に喧伝され、三河や遠江、東美濃の国衆達に「武田に味方しても自分達が織田や徳川に攻められたら尻尾を巻いて逃げる。 一方で徳川は奥平の後詰めに織田と一緒に来てくれた。 しかも奥平は武田の城攻めに耐えた。 武田は頼りにならない上に弱い。 ならば自分達も奥平と同様に織田や徳川に味方した方が得になりそうだ」と思われて離反されるだろうし、甲斐や信濃の家臣や国衆達も信玄や信虎、それ以前からの重税(「お金の流れで見る戦国時代」という現代の本や、「妙法寺記」という古文書に書かれている)で困窮する中わざわざ遠征したのに、戦果無しに撤退して恩賞が貰えなくなる事で遠征の為に負担した戦費や兵糧の無駄遣いに終わった事と陪臣(家臣の家臣)や兵として動員する領地の民に恩賞を与える事ができなくなる事に不満を抱く可能性が高い。
そうならなかったとしても、武田と織田の国力差は更に開いて大きくなり、時間が経てば経つほど武田が不利になる一方だからまだ織田が畿内で本願寺勢力と戦っていて、武田相手に全軍を向ける事はない中、わざわざ出てきた信長や家康をここで討ち取る、討ち取れなくても織田・徳川軍に痛手を与え、「織田など恐れる程の相手ではない」と喧伝しなければならない、そしてそれができるのは今しかないと判断するのは当然です。
御館の乱はそもそも謙信死後の上杉家は景勝が継ぐ事でまとまっていたらしいが、景勝とある家臣が会津の蘆名絡みで対立した事で景勝とその家臣の間を仲裁していた上杉憲政らが対立した家臣と共に反景勝派を形成し、自分達の行動を正当化する為に景虎を担ぎ出した。
長く領国を留守にしたら家康の蠢動を許す危険性がある。
北条の動きが少し前まで佐竹と対峙していたとはいえ遅かったのは、自分達だけに景勝と戦わせ、弱ったところを両方とも滅ぼす気ではないかと不信感を抱いても不思議ではない。
北条家出身の景虎が上杉家当主になったら、武田領が東と北を北条の勢力に挟まれてしまう。 そうなったら北条氏政は武田との同盟を破棄して弟の景虎を操り、武田を東と北から挟み撃ちにしてくるかもしれない。 そうならなかったとしても、武田と北条の力関係が崩れ、武田家が北条の属国のような扱いになるかもしれない。 真田などの上野や北信濃に領地を持つ家臣達が離反してしまうかもしれない。
そこで景勝と景虎の和睦仲介という手を打ち、一度は和睦を成立させたがすぐに破綻。
更に勝頼の懸念が的中して家康が駿河辺りに侵攻してきた。 勝頼が家康の対処の為に越後を離れたのがちょうど北条氏邦だか氏照の軍勢が景勝派の家臣の城を攻めるところだった為に北条に「武田は景虎を見捨てて逃げた」という印象を与えたらしいですが、そもそも氏政が本気で景虎を支援する気があったとは氏政が最後まで越後に討ち入らなかった事を考えるとそう思えません。
氏政は景虎が勝利すれば上杉家を乗っ取る算段がつく、景勝が勝利して景虎が死んだとしても、内乱が長引けば長引くほど上杉家の力は弱まり、関東に侵攻される事はないとどちらに転んでも良かったと考えていたのだと見る方が自然だと思います。
ーコメです