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こんばんは!今回も素敵な動画ありがとうございます😌TH-cam高校さんの動画を見始めてから模試の偏差値が10、校内では20ほどあがりました!!感謝してもしきれないくらいです😭😭私は日本史と英語の2教科受験なので本当にありがたいです!!これからも頼りにさせていただきます😌😌
これはすごい。。背景の説明が丁寧。単なる知識ではない理解する解説ですね。。
とても勉強になります❗️続けて見ています。授業では、出来事を切り取って説明されるので、意味が繋がって無かったのですが歴史は続いていますもんね。ありがとうございます。
やはり元軍を追い返したのは武士の実力だったのか
分かりやすすぎて涙出てきます
この後の元側の資料で武士の死を恐れない姿勢と、今まで見た事無い刃物の切れ味に苦慮してた様子が書かれてる。
勇猛果敢なご先祖様に合掌!
入試用なんでいいんですが、台風は元軍が退去した後来ます。高麗軍が、戦争を炊きつけたくせに、やたらと弱かったことが敗因んのようです。二回目は完全い高麗主導だったので、元軍はやる気が無く宋の残党任せだった。日本軍は初戦から、二戦でもものすごく強かったようです。元軍は中心が当時周辺の一番の弱者半島軍だったので、最初から勝利はなかったという事でしょう。教科書は日本を貶めるために台風を教え込みましたが、全く関係なく、鎌倉政府を中心とした日本武士が鬼のように強かったことが勝因のようです。
使者の首をはねるとかすごいね。北条時宗は日本を守ったね。勝ったけど、壱岐など犠牲者はかなり出たんだよね。冥福を祈ります。
ちな、それが実験というヤバイ事実。
外交を知らないバカヤローだったようにも思いますな。当時の国際情勢を知っていれば、当初は元は日本を征服する意図はなかったことはわかるんで…まあ情報が無かったから仕方ないのかな?それにしても余計な戦争だよ。
因みに捕虜の南宋兵は殺さずに祖国に返し、モンゴル兵と高麗兵は打首にしたとか 日本に避難し情報もくれた南宋からの避難してた僧の進言もあったかららしいが、日本側も主敵が誰なのか認識してたんだね
元の使者は日本を偵察に来たスパイの意味がある、再度の上陸偵察や日本軍事力の調査、それらを持って帰国させるわけにいない、だから処刑なのだ。
待ってました!
ゴースト オブ ツシマで興味をもって見に来たが中々面白かった。
この元寇の侵略に我が家の先祖も参加当時少弐家、武藤家、竹崎家とは血縁だった関係で、(当時対馬守護代宗家とは江戸時代に親族姻族)我が家は少弐家(総大将少弐景資西方奉行一門手数500騎余名)の配下、元・南宋・漢民族(今の習主席の先祖)・高麗軍の連合軍でこの戦いの主力は高麗軍⇔元の奴隷国家高麗(今の韓国)軍。絵巻は最初は竹崎季長が記録として残していたが後に加筆元軍の攻撃図はなかったと思います。文永の役は今でいう10月の季節だから台風シーズンではない神風はない。弘安の役は季節的に6~8月 台風と言っても元軍が撤退するときに吹き荒れただけのようで敵の混乱に乗じて攻撃開始して敵側の沈没多数などあった由。神風は今でいう台風、神風を風吹したのは日蓮と朝廷。両役戦後武士団に対する報償がなかったのは財政的に困難であったと推定。武士団の中にも不平不満があったことは確かでもほとんどがあきらめ(笑)神風が吹いたから日本が勝ったと?!あれは後世の逸話の一端(日蓮と朝廷)戦いのときは殆ど吹いていなかったようで。最初の戦いの時には日本武士団にも戦傷者が多数出たようだが、相手の弱点を早くから関知して遠方寄りの長弓に因る作戦に変えた事と夜襲をかけて混乱に陥れた事、当時敵側には夜襲戦に対する防護経験が殆どなかった由。遠方寄りの長弓に対しては接近戦だと相手の短弓に毒が塗ってあり、刺さると弓死するからです。長弓での決戦後乗馬と歩兵で攻撃。博多地域の防塁壁は役立ったようで後世に絶対に残すべき。戦いに日本側が有利というのは土地地域を熟知しているのと元側は平坦な戦いにはめっぽう強いが山間や海岸・海上戦にはめっぽう弱い。元側の兵士のほとんどが高麗族、漢民族、南宋軍(貿易していたのかあまり戦いに乗り気がなかったよう)、元は主に将校、兵はあまり多くなかった由。捕慮が殆ど高麗人の驚き。元側高麗・漢民族は元同様きわめて残虐。対馬は殆どの町村落は全滅に近い。日本の捕虜は殆どが老弱男女幼児赤子。捕虜の手に穴を開けて縄を通して強引に連れ去り、退却するときは捕虜を海に突き落として逃げたのでそれを見た日本側武士団の怒りは相当なもの。だから元側資料の如く当時の鎌倉武士の命知らずの士気の高さと日本を外夷から守ろうとする武士団の士気です。それと上陸したのは対馬だけではありません。福岡博多など福岡にある島々のほとんどは上陸しています。鎌倉武士団の外夷から守ろうとする士気と北条時宗の25歳の若者の心意気を今のアホ政治屋共の媚中韓派に訊かせてやりたい。
詳しい解説ありがとうございます🎵☺
いや鎌倉武士こわw夜、気が付いたら船の上に鎌倉武士が刀構えておるんでしょ?こわw死ぬこと恐れず、弓は当時の元軍以上の火力で鎧も硬く刀の切れ味も抜群で気が付いたら船の上にいて、喜々として首を持ち帰る。そりゃ色々と疲れますわw
流鏑馬を見学してきました。あまりの迫力に驚き、鎌倉武士は強かったと実感しました。
北条時宗は若くして亡くなったとか、元寇で命を削ってしまったのでしょうか?。鎌倉時代にも日本を守る命知らずの武士がいた事を覚えておきたいものです。
そのとおりです!元軍撃退後に精魂尽き果て逝去されました!日本国と日本人を護った大恩人です!この方が在られなかったなら、今頃日本はシナの一部に為ってしまっていたでしょう!
過労死って日記に書かれてる
てつはう今までは 驚かすためだと考えてきましたが てつはうが実際に現物が出てきて調べてみると 殺傷能力が高い 武器だったということがわかりました。 てつはうが爆発し その破片(鉄などのかたまり)が飛ぶ。回回砲(投石機)これも モンゴル軍 武器として有名ですね。 長い距離を飛ばして攻撃ができる。モンゴルは3回目も日本を攻めこもうとしましたが、その前に クビライは亡くなりました。今回テーマずれますが、オスマントルコも 元々はモンゴル人です。彼らも騎馬民族であり ヨーロッパを支配しました。私の記憶では、モンゴル人が 鐙(あぶみ)を本格的に作り始めた。馬を乗って相手を倒すときには 踏ん張る力がいります。 そうしないと落馬する可能性があるからです。モンゴル人が 戦うために 鐙を作り 当時最先端 騎馬戦で どんどん領土拡大広げました。
鎌倉武士「モンゴル軍から蛮族扱いされてこわがれてるんだけど」
文永の役元軍「対馬壱岐で取った捕虜人質にしたろアイツ等攻撃できんだろう」人質「助けてー」鎌倉武士団「関係ない殺れ(人質ごと矢を撃ちまくる)」元軍「ちょっアイツ等人質ごと攻撃してきたしてつはうにビビらずに切り込んでくるわ弓の射程と威力狂ってるわ···撤退ー」その夜暴風雨襲来元軍「暴風雨まで合ってグタグタだし帰る」その後なんやかんやあって弘安の役鎌倉武士団「アイツ等また攻めて来やがったうん?そういえば前のとき捕虜にした奴らが居たな」鎌倉武士団「アイツ等人質使ってたしその捕虜をこうしてこうじゃ(元軍捕虜を石塁に貼り付ける)」元軍「人質作戦だとアイツ等人の心がねえ」なんやかんやあって元軍壊滅後鎌倉武士団「この中に南宋人は居るか」南宋人「はい私達ですが」鎌倉武士団「よしお前らはこっちに来い」モンゴル人「あのー」女真族「私達は」高麗人「どうすれば」鎌倉武士団「首だけ置いてタヒね」結論どっちもどっち
鎌倉武士はよく武装され訓練された「首狩り族」ですからねぇ。
@@橘健-s4j 論功行賞の為、敵兵の馘を持ち帰るのが当時の常識でも有り、礼儀でもあった。馘を持ち帰り幕府の役人に報告したのだ。その後は、丁寧に葬っている。日本人は、敵兵に対しても非常に気高かかったのだよ!!秀吉公が、朝鮮兵の耳や鼻を送らせ検分したのも同じ作法からじゃよ!
@@scp-444-jp2 「対馬壱岐で取った捕虜」というのは建治元年の日蓮の書状にある、対馬壱岐の捕虜が手を通して(穴を開けて?)船に結び付けられていたという話でしょうか?その続きには「或いは生取にされ、一人も助かる者なかった」とはありますが、「武士が人質ごと射殺した」などとはありません。また元軍捕虜を石塁に貼り付けたという話は初耳なのですが、どこからの話でしょうか?
つまんでの解説が心地よく何本か拝見させて頂きましたなんか急に職場の自己愛の先輩の相手の感じを急に思い出しました あんまり知らないヤツは良かったです
北条時宗のストレス凄かったんだろうね。
モンゴルを追い返したのは日本だけではなく、エジプトのマムルーク朝やジャワのシンガサリ朝もそうです。特にエジプトはシリアパレスチナでの会戦で、陸続きで食い止めたのは素晴らしい。
やりますねえ! シュアな出力!無責任な応援を送る立場ながらやはり信頼します!
続きです、本郷四郎実照などいます、この西郷三郎隆政こそ明治維新の西郷隆盛の数十代前の先祖です、この西郷三郎隆政は文永の役で蒙古兵を十六人斬って落としたと伝えられてます。
文永の役でも幕府側が圧勝だったんじゃ?
なんで?
@@ぼくだれ-p6y 普通に、圧勝だったらしいぞ。だって、元軍百人かかっても一人にやられるし。こいつらの身体能力異常だし。普通にボルト並みの足の早さだし。こいつらヤバイ。
@@居合あん ボルト並みですか。( ゚□゚)!!💨
@@私は元のら猫 まぁ、盛ってる部分はあるけど、全員身体能力おかひーー
そうだね。幕府は京都に6万人もの主力部隊を集結させていて、それを九州へ出陣させたところだった。つまり、日本側は前衛部隊だけで元軍を追い返しちまったってわけだ。そもそも二ケ月も元軍が上陸できなかったのはなぜだ?武士が強くて歯が立たなかったからだろw
長門の国に侵攻した東路軍はどうなったのですか?
時宗は、長門にも兵を配備しており、それらの兵により撃退され引き返しました。
Sad🍊d🧭🎣関門司国分寺流罪
遥か東北の地に泣き止まぬ子供に「蒙古来るぞ!」という言葉がある、、、当時は未開の蝦夷の地に、、、それも何故に不思議ですね。
北の元寇
「 遥か東北の地 」何様のつもりですか?
確か、北部九州や山口では少し前まで、子供が泣き止まないと【コクリ、モクリが来るよ】と言ってたと聞いたことがある 北海道なら廃藩置県で蝦夷開拓のために移住した西日本の武士家族の子孫が多いからでは
石塁というより、防塁というほうが一般的です。
石塁で習いました
チーダ防塁だね。
弘安の役 1281年夷狄(1)来る再び(2)敗れて(8)意気(1)無くす
この動画シリーズで使用しているグーグルアース動画や建築物を撮影したものは収益化動画で使用するのが可能だと確認がとれているものですか?
台風というのは、事実でしょうか?
事実ではある。けど…あくまでも軍船に大打撃を与えるもので実際は武士達の奮戦でほぼ乗りきってる。
この動画では元寇における高麗の役割が軽く書かれすぎている。むしろ高麗の国王がフビライへ呼びかけて元寇を起こし、元・高麗寇と呼ばれている。
だって属国だから。属国に意思決定権はない。
長門に行った軍勢どうなった?
勇ましいですね。
ゴールドオブツシマが100倍面白くなる動画
こーた シルバーオブツシマじゃない?
@@jishaku38 ユウレイオブツシマじゃない?
いや、トーゴーオブツシマ、つまり連合艦隊
こーた ゴールドオブツシマは草
ghost of tushima ですよー。
クビライ(フビライ)は皇帝なのでカン(ハン、王)ではなく、カアン(ハーン、皇帝)です。これは「どっちでもええやん」ではなく、天皇と将軍、あるいは将軍と執権を間違えるようなものです。×フビライ・ハン(王)〇フビライ・ハーン(皇帝)
日王 ×天皇 ○のようなものですね。
モーが出る、と言う類の子どもを脅かす言葉が各地にあるが語源が、蒙古が来る、だと知ってから歴史のつながりを感じた。
この生の松原を守備していたのは菊池武房以下菊池六集団が画かれてます。竹崎季長が菊池武房の前で立ち止まり口上を述べています。その他その集団の長には西郷三郎隆政、ほ
日本史上初の「敵に勝っても恩賞が貰えない」、「国の防衛」のはじめて物語。🐴
いくつかの説がある中で自分がこうだったら良いな、こうだったのか、これが本当の真実だ!となってる人のコメントが多い。
元寇は高麗王の子(後の忠烈王)が1272年、自ら進んでフビライ・ハンに日本を攻めるべきと上奏したのが始まりです。高麗史の元宗十三年に記述されている。宇山卓栄さんが現代ビジネスに関連記事を上げてます、がグーグル検索してもなかなか見つからないです(笑)
👍👍👍
情報を並べただけで予想がつくだろう?志賀島は守るには理想的な地形だよ。絵巻にあるように日本の小舟はせいぜい10人位の搭乗であんな小さな島に数万の元軍が居たら簡単には上陸できない。陸地の接触点としては現在より海の中道は狭くせいぜい100mの幅しかない。ここで維持できないという事は個々の戦闘力=白兵戦に大きな差がある事を意味してる。バイキングがイギリスを襲うが個々の戦力が逆の場合は蹂躙できノルマンコンクエストとして歴史に残る。またイギリスの場合は逆襲するか?デンマークやノルウエーをサクソンが襲ったという話は聞いた事がない。日本の場合こんな体たらくのモンゴル軍なら当然やり返そうとなる、また江南人、高麗人の捕虜も沢山いて地の利もできる。後世に倭寇として逆襲の大陸への富の略奪行為に及んだ韓国人風に無慈悲なチョッパリとなる。wこれだけ大規模モンゴル遠征なら大量の家族もついてきてる。古代の航海で江南、呉からは済州島が黄海と日本海の分岐点でありここで航路選択をする。家族の後方待機場としては理想。飛び地的に済州島がモンゴル直轄地はこの過程で必然なんだろう。但し倭寇にとって略奪対象になるので長くは住めないだろう。
せっかく興味深い話ナンだが改行 されてないから 読みにくい(>.
前回のキーワード「本気」を覚えてる?ついに日本軍は本気を出したね。一方の蒙古軍は本気を出せなかった。南宋軍は総大将が死んだから出発が遅れたとか言ってるけど、実はワザとに遅れたんじゃないのかなと。南宋の人たちも蒙古に手を貸すくらいなら日本に手を貸せば、独立へのきっかけが生まれるんじゃね?とか考えたやろうからね★蒙古は3度目の決戦を計画していたみたいやね。もしも実現していたら博多湾以外の港を狙って上陸していたかもしれないね。うちの住んでる町も港町なので戦場になっていたかもしれないな★北条時宗は惜しいよ。蒙古襲来への対処だけで終わってほしくなかったね。もう少し長生きしてほしかった。せめて14世紀の序盤から中盤にかけてね。文永の大敗の後に、多くの御家人や武士からは「時宗自ら甲冑を身にまとい馬に乗り武器を持って戦え!」と迫られたと聞く。おそらく時宗もその覚悟で弘安を迎えたんだと思うけどね。本当に惜しいな。時宗がもう少し長生きしていれば鎌倉幕府は…★次のお題は霜月騒動?それとも永仁の徳政令?どっちが来ても幕府崩壊の序曲。楽しみにしてるよ。
僕の先祖の河野氏も頑張ってる
台風で勝利したのではありません。鎌倉武士団の活躍です。
その時の日本は今のイスラエルみたい
根本的におかしい。文永の役では鎌倉武士が大活躍で、元軍は撤退途上で嵐に遭った、のはずだが。
文永の役は前回の動画で今回は弘安の役なんですがそれは…
@@ygold132 文永の役のコメントが何度も出てきてましたのでね。
辞退の意味があるので。。会計頑張ります❤️
日本も軍事政権でよかったよね。鎌倉幕府なんていってみれば強化型暴力団みたいなもんだしw
これは史実とは違います。実際には上陸戦に失敗して退却した後に台風が来たのです。
昔の教科書が元だからしょうがないけど10万以上の兵士が神風で壊滅するわけが無いでしょ?軍勢の半数以上は上陸したけど討ち取られたのが史実嵐が来て避難しないほど元軍も馬鹿じゃ無い
私もそう思う。指揮官クラスは損傷が少ない船で逃げたが、元軍の大半は鷹島周辺に残され、そこに遅れてやってきた幕府軍に一方的に掃討されたのが真実のようです。元軍の死亡原因の7割は日本人による殺害で、残りは台風による溺死か病死だったと思います。
0:09 元軍の圧倒的な強さを思い知った日本軍 などなど君の歴史認識ってかなり古くないか? その他の動画も情報が古いんじゃない?
蛮族の所業に触れてないから低評価ですね()
4万の東軍の壊滅までの経緯は分かったが、本チャンの江南軍10万はどうしたwあと少しで平戸に着くぞーって頃に運悪く台風で全滅??だとしたら日本はとんでもない幸運やなこの頃も前もモンゴル帝国にユーラシア大陸諸国はメッタメタにやられとるのに日本は少しの小競り合いだけで済んだんか。
編集で、日本武士の実力を省略して過小評価してるよね。元南宋の高官は"日本軍は白村江の頃よりも10倍強い"とか記録を残してるし、3回目の日本侵略軍の編成では兵が集まらずに、2回目の軍が本気の主力軍だった事が判明。その後、明国皇帝は日本南朝側に服属要求してるけど、「来るなら掛かってこい」と挑発されて激怒。日本侵略しようと数回計画してるけど、元寇のトラウマで断念してる。
内容が薄い、二番煎じだ
元寇って台風が2度も来て勝手に自滅してくれたんだよね。
昔の教科書は何か意図があってのことと思うが、真実を伝えていない。この意図が問題。実際は侵略者は皆殺しの力の戦いがあったわけです。
こんばんは!今回も素敵な動画ありがとうございます😌
TH-cam高校さんの動画を見始めてから模試の偏差値が10、校内では20ほどあがりました!!感謝してもしきれないくらいです😭😭
私は日本史と英語の2教科受験なので本当にありがたいです!!
これからも頼りにさせていただきます😌😌
これはすごい。。背景の説明が丁寧。単なる知識ではない理解する解説ですね。。
とても勉強になります❗️続けて見ています。授業では、出来事を切り取って説明されるので、意味が繋がって無かったのですが歴史は続いていますもんね。ありがとうございます。
やはり元軍を追い返したのは武士の実力だったのか
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この後の元側の資料で武士の死を恐れない姿勢と、今まで見た事無い刃物の切れ味に苦慮してた様子が書かれてる。
勇猛果敢なご先祖様に合掌!
入試用なんでいいんですが、台風は元軍が退去した後来ます。高麗軍が、戦争を炊きつけたくせに、やたらと弱かったことが敗因んのようです。二回目は完全い高麗主導だったので、元軍はやる気が無く宋の残党任せだった。日本軍は初戦から、二戦でもものすごく強かったようです。元軍は中心が当時周辺の一番の弱者半島軍だったので、最初から勝利はなかったという事でしょう。教科書は日本を貶めるために台風を教え込みましたが、全く関係なく、鎌倉政府を中心とした日本武士が鬼のように強かったことが勝因のようです。
使者の首をはねるとかすごいね。北条時宗は日本を守ったね。勝ったけど、壱岐など犠牲者はかなり出たんだよね。冥福を祈ります。
ちな、それが実験というヤバイ事実。
外交を知らないバカヤローだったようにも思いますな。
当時の国際情勢を知っていれば、当初は元は日本を征服する意図はなかったことはわかるんで…
まあ情報が無かったから仕方ないのかな?
それにしても余計な戦争だよ。
因みに捕虜の南宋兵は殺さずに祖国に返し、モンゴル兵と高麗兵は打首にしたとか 日本に避難し情報もくれた南宋からの避難してた僧の進言もあったかららしいが、日本側も主敵が誰なのか認識してたんだね
元の使者は日本を偵察に来たスパイの意味がある、再度の上陸偵察や日本軍事力の調査、それらを持って帰国させるわけにいない、だから処刑なのだ。
待ってました!
ゴースト オブ ツシマで興味をもって見に来たが中々面白かった。
この元寇の侵略に我が家の先祖も参加当時少弐家、武藤家、竹崎家とは血縁だった関係で、(当時対馬守護代宗家とは江戸時代に親族姻族)我が家は少弐家(総大将少弐景資西方奉行一門手数500騎余名)の配下、元・南宋・漢民族(今の習主席の先祖)・高麗軍の連合軍でこの戦いの主力は高麗軍⇔元の奴隷国家高麗(今の韓国)軍。絵巻は最初は竹崎季長が記録として残していたが後に加筆元軍の攻撃図はなかったと思います。文永の役は今でいう10月の季節だから台風シーズンではない神風はない。弘安の役は季節的に6~8月 台風と言っても元軍が撤退するときに吹き荒れただけのようで敵の混乱に乗じて攻撃開始して敵側の沈没多数などあった由。神風は今でいう台風、神風を風吹したのは日蓮と朝廷。両役戦後武士団に対する報償がなかったのは財政的に困難であったと推定。武士団の中にも不平不満があったことは確かでもほとんどがあきらめ(笑)神風が吹いたから日本が勝ったと?!あれは後世の逸話の一端(日蓮と朝廷)戦いのときは殆ど吹いていなかったようで。最初の戦いの時には日本武士団にも戦傷者が多数出たようだが、相手の弱点を早くから関知して遠方寄りの長弓に因る作戦に変えた事と夜襲をかけて混乱に陥れた事、当時敵側には夜襲戦に対する防護経験が殆どなかった由。遠方寄りの長弓に対しては接近戦だと相手の短弓に毒が塗ってあり、刺さると弓死するからです。長弓での決戦後乗馬と歩兵で攻撃。博多地域の防塁壁は役立ったようで後世に絶対に残すべき。戦いに日本側が有利というのは土地地域を熟知しているのと元側は平坦な戦いにはめっぽう強いが山間や海岸・海上戦にはめっぽう弱い。元側の兵士のほとんどが高麗族、漢民族、南宋軍(貿易していたのかあまり戦いに乗り気がなかったよう)、元は主に将校、兵はあまり多くなかった由。捕慮が殆ど高麗人の驚き。元側高麗・漢民族は元同様きわめて残虐。対馬は殆どの町村落は全滅に近い。日本の捕虜は殆どが老弱男女幼児赤子。捕虜の手に穴を開けて縄を通して強引に連れ去り、退却するときは捕虜を海に突き落として逃げたのでそれを見た日本側武士団の怒りは相当なもの。だから元側資料の如く当時の鎌倉武士の命知らずの士気の高さと日本を外夷から守ろうとする武士団の士気です。それと上陸したのは対馬だけではありません。福岡博多など福岡にある島々のほとんどは上陸しています。鎌倉武士団の外夷から守ろうとする士気と北条時宗の25歳の若者の心意気を今のアホ政治屋共の媚中韓派に訊かせてやりたい。
詳しい解説ありがとうございます🎵☺
いや鎌倉武士こわw
夜、気が付いたら船の上に鎌倉武士が刀構えておるんでしょ?
こわw
死ぬこと恐れず、弓は当時の元軍以上の火力で鎧も硬く
刀の切れ味も抜群で
気が付いたら船の上にいて、喜々として首を持ち帰る。
そりゃ色々と疲れますわw
流鏑馬を見学してきました。
あまりの迫力に驚き、鎌倉武士は強かったと実感しました。
北条時宗は若くして亡くなったとか、元寇で命を削ってしまったのでしょうか?。鎌倉時代にも日本を守る命知らずの武士がいた事を覚えておきたいものです。
そのとおりです!
元軍撃退後に精魂尽き果て逝去されました!
日本国と日本人を護った大恩人です!
この方が在られなかったなら、今頃日本はシナの一部に為ってしまっていたでしょう!
過労死って日記に書かれてる
てつはう
今までは 驚かすためだと考えてきましたが てつはうが実際に現物が出てきて調べてみると 殺傷能力が高い 武器だったという
ことがわかりました。 てつはうが爆発し その破片(鉄などのかたまり)が飛ぶ。
回回砲(投石機)
これも モンゴル軍 武器として有名ですね。 長い距離を飛ばして攻撃ができる。
モンゴルは3回目も日本を攻めこもうとしましたが、その前に クビライは亡くなりました。
今回テーマずれますが、オスマントルコも 元々はモンゴル人です。彼らも騎馬民族であり ヨーロッパを支配しました。
私の記憶では、モンゴル人が 鐙(あぶみ)を本格的に作り始めた。
馬を乗って相手を倒すときには 踏ん張る力がいります。 そうしないと落馬する可能性があるからです。
モンゴル人が 戦うために 鐙を作り 当時最先端 騎馬戦で どんどん領土拡大広げました。
鎌倉武士「モンゴル軍から蛮族扱いされてこわがれてるんだけど」
文永の役
元軍「対馬壱岐で取った捕虜人質にしたろアイツ等攻撃できんだろう」
人質「助けてー」
鎌倉武士団「関係ない殺れ(人質ごと矢を撃ちまくる)」
元軍「ちょっアイツ等人質ごと攻撃してきたしてつはうにビビらずに切り込んでくるわ弓の射程と威力狂ってるわ···撤退ー」
その夜暴風雨襲来
元軍「暴風雨まで合ってグタグタだし帰る」
その後なんやかんやあって弘安の役
鎌倉武士団「アイツ等また攻めて来やがったうん?そういえば前のとき捕虜にした奴らが居たな」
鎌倉武士団「アイツ等人質使ってたしその捕虜をこうしてこうじゃ(元軍捕虜を石塁に貼り付ける)」
元軍「人質作戦だとアイツ等人の心がねえ」
なんやかんやあって元軍壊滅後
鎌倉武士団「この中に南宋人は居るか」
南宋人「はい私達ですが」
鎌倉武士団「よしお前らはこっちに来い」
モンゴル人「あのー」
女真族「私達は」
高麗人「どうすれば」
鎌倉武士団「首だけ置いてタヒね」
結論どっちもどっち
鎌倉武士はよく武装され訓練された「首狩り族」ですからねぇ。
@@橘健-s4j
論功行賞の為、敵兵の馘を持ち帰るのが当時の常識でも有り、礼儀でもあった。
馘を持ち帰り幕府の役人に報告したのだ。
その後は、丁寧に葬っている。
日本人は、敵兵に対しても非常に気高かかったのだよ!!
秀吉公が、朝鮮兵の耳や鼻を送らせ検分したのも同じ作法からじゃよ!
@@scp-444-jp2 「対馬壱岐で取った捕虜」というのは建治元年の日蓮の書状にある、対馬壱岐の捕虜が手を通して(穴を開けて?)船に結び付けられていたという話でしょうか?
その続きには「或いは生取にされ、一人も助かる者なかった」とはありますが、「武士が人質ごと射殺した」などとはありません。
また元軍捕虜を石塁に貼り付けたという話は初耳なのですが、どこからの話でしょうか?
つまんでの解説が心地よく何本か拝見させて頂きました
なんか急に職場の自己愛の先輩の相手の感じを急に思い出しました あんまり知らないヤツは良かったです
北条時宗のストレス凄かったんだろうね。
モンゴルを追い返したのは日本だけではなく、エジプトのマムルーク朝やジャワのシンガサリ朝もそうです。特にエジプトはシリアパレスチナでの会戦で、陸続きで食い止めたのは素晴らしい。
やりますねえ! シュアな出力!
無責任な応援を送る立場ながら
やはり信頼します!
続きです、本郷四郎実照などいます、この西郷三郎隆政こそ明治維新の西郷隆盛の数十代前の先祖です、この西郷三郎隆政は文永の役で蒙古兵を十六人斬って落としたと伝えられてます。
文永の役でも幕府側が圧勝だったんじゃ?
なんで?
@@ぼくだれ-p6y
普通に、圧勝だったらしいぞ。
だって、元軍百人かかっても一人にやられるし。
こいつらの身体能力異常だし。
普通にボルト並みの足の早さだし。こいつらヤバイ。
@@居合あん ボルト並みですか。( ゚□゚)!!💨
@@私は元のら猫
まぁ、盛ってる部分はあるけど、全員身体能力おかひーー
そうだね。幕府は京都に6万人もの主力部隊を集結させていて、それを九州へ出陣させたところだった。つまり、日本側は前衛部隊だけで元軍を追い返しちまったってわけだ。そもそも二ケ月も元軍が上陸できなかったのはなぜだ?武士が強くて歯が立たなかったからだろw
長門の国に侵攻した東路軍はどうなったのですか?
時宗は、長門にも兵を配備しており、それらの兵により撃退され引き返しました。
Sad🍊d🧭🎣関門司国分寺流罪
遥か東北の地に泣き止まぬ子供に「蒙古来るぞ!」という言葉がある、、、当時は未開の蝦夷の地に、、、それも何故に不思議ですね。
北の元寇
「 遥か東北の地 」
何様のつもりですか?
確か、北部九州や山口では少し前まで、子供が泣き止まないと【コクリ、モクリが来るよ】と言ってたと聞いたことがある 北海道なら廃藩置県で蝦夷開拓のために移住した西日本の武士家族の子孫が多いからでは
石塁というより、防塁というほうが一般的です。
石塁で習いました
チーダ
防塁だね。
弘安の役 1281年
夷狄(1)来る
再び(2)敗れて(8)
意気(1)無くす
この動画シリーズで使用しているグーグルアース動画や建築物を撮影したものは収益化動画で使用するのが可能だと確認がとれているものですか?
台風というのは、事実でしょうか?
事実ではある。
けど…あくまでも軍船に大打撃を与えるもので実際は武士達の奮戦でほぼ乗りきってる。
この動画では元寇における高麗の役割が軽く書かれすぎている。むしろ高麗の国王がフビライへ呼びかけて元寇を起こし、元・高麗寇と呼ばれている。
だって属国だから。属国に意思決定権はない。
長門に行った軍勢どうなった?
勇ましいですね。
ゴールドオブツシマが100倍面白くなる動画
こーた シルバーオブツシマじゃない?
@@jishaku38 ユウレイオブツシマ
じゃない?
いや、トーゴーオブツシマ、つまり連合艦隊
こーた ゴールドオブツシマは草
ghost of tushima ですよー。
クビライ(フビライ)は皇帝なのでカン(ハン、王)ではなく、カアン(ハーン、皇帝)です。これは「どっちでもええやん」ではなく、天皇と将軍、あるいは将軍と執権を間違えるようなものです。
×フビライ・ハン(王)
〇フビライ・ハーン(皇帝)
日王 ×
天皇 ○
のようなものですね。
モーが出る、と言う類の子どもを脅かす言葉が各地にあるが語源が、蒙古が来る、だと知ってから歴史のつながりを感じた。
この生の松原を守備していたのは菊池武房以下菊池六集団が画かれてます。竹崎季長が菊池武房の前で立ち止まり口上を述べています。その他その集団の長には西郷三郎隆政、ほ
日本史上初の「敵に勝っても恩賞が貰えない」、「国の防衛」のはじめて物語。🐴
いくつかの説がある中で自分がこうだったら良いな、こうだったのか、これが本当の真実だ!となってる人のコメントが多い。
元寇は高麗王の子(後の忠烈王)が1272年、自ら進んでフビライ・ハンに日本を攻めるべきと上奏したのが始まりです。
高麗史の元宗十三年に記述されている。宇山卓栄さんが現代ビジネスに関連記事を上げてます、がグーグル検索してもなかなか見つからないです(笑)
👍👍👍
情報を並べただけで予想がつくだろう?志賀島は守るには理想的な地形だよ。絵巻にあるように日本の小舟はせいぜい10人位の搭乗であんな小さな島に数万の元軍が居たら簡単には上陸できない。陸地の接触点としては現在より海の中道は狭くせいぜい100mの幅しかない。ここで維持できないという事は個々の戦闘力=白兵戦に大きな差がある事を意味してる。バイキングがイギリスを襲うが個々の戦力が逆の場合は蹂躙できノルマンコンクエストとして歴史に残る。またイギリスの場合は逆襲するか?デンマークやノルウエーをサクソンが襲ったという話は聞いた事がない。日本の場合こんな体たらくのモンゴル軍なら当然やり返そうとなる、また江南人、高麗人の捕虜も沢山いて地の利もできる。後世に倭寇として逆襲の大陸への富の略奪行為に及んだ韓国人風に無慈悲なチョッパリとなる。wこれだけ大規模モンゴル遠征なら大量の家族もついてきてる。古代の航海で江南、呉からは済州島が黄海と日本海の分岐点でありここで航路選択をする。家族の後方待機場としては理想。飛び地的に済州島がモンゴル直轄地はこの過程で必然なんだろう。但し倭寇にとって略奪対象になるので長くは住めないだろう。
せっかく興味深い話ナンだが
改行 されてないから 読みにくい(>.
前回のキーワード「本気」を覚えてる?ついに日本軍は本気を出したね。一方の蒙古軍は本気を出せなかった。南宋軍は総大将が死んだから出発が遅れたとか言ってるけど、実はワザとに遅れたんじゃないのかなと。南宋の人たちも蒙古に手を貸すくらいなら日本に手を貸せば、独立へのきっかけが生まれるんじゃね?とか考えたやろうからね★蒙古は3度目の決戦を計画していたみたいやね。もしも実現していたら博多湾以外の港を狙って上陸していたかもしれないね。うちの住んでる町も港町なので戦場になっていたかもしれないな★北条時宗は惜しいよ。蒙古襲来への対処だけで終わってほしくなかったね。もう少し長生きしてほしかった。せめて14世紀の序盤から中盤にかけてね。文永の大敗の後に、多くの御家人や武士からは「時宗自ら甲冑を身にまとい馬に乗り武器を持って戦え!」と迫られたと聞く。おそらく時宗もその覚悟で弘安を迎えたんだと思うけどね。本当に惜しいな。時宗がもう少し長生きしていれば鎌倉幕府は…★次のお題は霜月騒動?それとも永仁の徳政令?どっちが来ても幕府崩壊の序曲。楽しみにしてるよ。
僕の先祖の河野氏も頑張ってる
台風で勝利したのではありません。鎌倉武士団の活躍です。
その時の日本は今のイスラエルみたい
根本的におかしい。文永の役では鎌倉武士が大活躍で、元軍は撤退途上で嵐に遭った、のはずだが。
文永の役は前回の動画で今回は弘安の役なんですがそれは…
@@ygold132 文永の役のコメントが何度も出てきてましたのでね。
辞退の意味があるので。。
会計頑張ります❤️
日本も軍事政権でよかったよね。鎌倉幕府なんていってみれば強化型暴力団みたいなもんだしw
これは史実とは違います。実際には上陸戦に失敗して退却した後に台風が来たのです。
昔の教科書が元だからしょうがないけど
10万以上の兵士が神風で壊滅するわけが無いでしょ?
軍勢の半数以上は上陸したけど討ち取られたのが史実
嵐が来て避難しないほど元軍も馬鹿じゃ無い
私もそう思う。指揮官クラスは損傷が少ない船で逃げたが、元軍の大半は鷹島周辺に残され、そこに遅れてやってきた幕府軍に一方的に掃討されたのが真実のようです。元軍の死亡原因の7割は日本人による殺害で、残りは台風による溺死か病死だったと思います。
0:09 元軍の圧倒的な強さを思い知った日本軍 などなど
君の歴史認識ってかなり古くないか? その他の動画も情報が古いんじゃない?
蛮族の所業に触れてないから低評価ですね()
4万の東軍の壊滅までの経緯は分かったが、本チャンの江南軍10万はどうしたw
あと少しで平戸に着くぞーって頃に運悪く台風で全滅??
だとしたら日本はとんでもない幸運やな
この頃も前もモンゴル帝国にユーラシア大陸諸国はメッタメタにやられとるのに
日本は少しの小競り合いだけで済んだんか。
編集で、日本武士の実力を省略して過小評価してるよね。
元南宋の高官は"日本軍は白村江の頃よりも10倍強い"とか記録を残してるし、
3回目の日本侵略軍の編成では兵が集まらずに、2回目の軍が本気の主力軍だった事が判明。
その後、明国皇帝は日本南朝側に服属要求してるけど、「来るなら掛かってこい」と挑発されて激怒。日本侵略しようと数回計画してるけど、元寇のトラウマで断念してる。
内容が薄い、二番煎じだ
元寇って台風が2度も来て勝手に自滅してくれたんだよね。
昔の教科書は何か意図があってのことと思うが、真実を伝えていない。この意図が問題。実際は侵略者は皆殺しの力の戦いがあったわけです。