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戦時中を生き抜き、原爆にも遭ったのに今の世の中は「平和過ぎる」重い言葉だなぁ…
貴重なお話をこうやってインターネットを通して聞けることのありがたさどうかお元気に過ごしてください。
「何でも過ぎちゃいけない」この言葉は物質的な豊かさへの戒めのようにも、物質的な豊かさを得て見失った心の揺れ動きや感情や健全に耐えた先に得られる何か、目に見えないものを懐かしんでる様にも聞こえました。ありがとうございます。
こういう生き証人の方々が減りつつある現在、動画として後世に残せるのは非常に価値のあることだと思う。92歳とは思えないほど、しっかりされているのでまだまだ長生きして頂きたい😊
90歳こえてるとおもえない程しっかりされてるのにビックリです❗いつまでもお元気でいてください。
平和すぎるかあ悲惨な後継を目の当たりにしながら戦中からの広島を愛した人の重い言葉です
「平和すぎて今の日本人は生き方を疎かにしているのでは」と感じたのでしょう。1972年まで戦い、帰国した「最後の日本兵」小野田陸軍少尉も、同じ意見でしたね。
「平和過ぎる!何でも過ぎちゃいけん!」本当に重いお言葉だと思います。今の日本社会に投げかけられた大切なお言葉だと思います。きっと、このお言葉は犠牲になられた多くの先人の方々も同じ事を仰られるのでしょうね。今の日本は1度振り返る時期なのではないでしょうかね。
明治維新から約70年ぐらい戦争の連続だった時代なのに、それほど気にしなかった事に驚いた
平和が過ぎると格差が酷くなる 時代のダイナミズムが無くなり、格差が固定される。成り上がる人や逆に転落する人も少なくなる 面白くないよね そんな世の中
広島ホームテレビさんがTH-camに投稿してくれたから、広島民でない(東京都民の)自分もこの話を聴くことが出来ました。TH-camに貴重な放送映像を投稿してくれてありがとうございます。
平和過ぎてもいけない 被爆経験者が語るこの言葉の重さ、込められた真意を理解できる人が今の世代にどれだけいるだろうか
このお話を聞かせて頂けて本当によかった。体験者から感覚的な話を聞けるのは本当に大事だと思う。
14歳の女子中学生が車掌!?凄い時代だ
再開初日の運転士さんも女子中学生がいたんだよ😇
なんせ男はほとんど戦争の戦地に行ってるか、工場で兵器作ってるって恐ろしい時代だもうめちゃくちゃ。だから成人女性はおろか女学生もいろんな仕事してた。弾作ったりしてた。こそこそ隠れて生きられたのは大金持ちの御曹司くらい
日本は最悪の事態に備えて、女性だけでもインフラを維持できるように教育してたっぴゃよ。だからこそ出来たことだっぴゃ。
当時のことを思い出してお話しするのは辛かったと思います。そんな中で貴重なお話しをありがとうございました。
被爆後の1番列車って下手したら教科書や資料集にも記述があるくらい有名なエピソートなのにその当事者がまだご存命だったなんて…!すごい貴重な証言ですね!
原爆投下後3日で動いたのも凄いけど、動かそうとした人達がいたのも凄いと思う。
運転や車掌のような業務を少女に任せることが出来る教育を施していたからこそ、男達は復旧作業に専念できました。
戦争を経験し原爆という地獄を味わって、それでも今の日本を“平和過ぎる”と評し気が張っているくらいの生活が丁度良いと言えるのは素晴らしい。並大抵の人ではない。
意外やったねやはり今は異常なんやろな
本当にその通りだと思う。平和なことは大事だけど、平和を維持するには平和ボケしてはいけないという事だと思う
「最後の日本兵」の小野田さんも1972年に日本に復員してから、「平和なのは確かに良いことだ。しかし、平和のなかで日本人は生き方を疎かにしていないだろうか」という言葉を残している。
日本是個好戰國家· 麻生太郎還想讓台灣變成戰場~這次風災就是為它而來·一定死傷慘重!佛言:「 過去心不可得、現在心不可得、未來心不可得,是名三心不可得。」
@@許碧玥-j2xそれは中国の話でしょ
貴重なお話をありがとうございますいつまでもお元気で
紙屋町の路面電車内で大叔父は被爆して、3日後の今日亡くなりました。享年30歳でした。
戦中のほっこりエピソードとても好きなので、嬉しいです!体験談もとても貴重で、話して頂いてありがとうございます。「今は平和すぎる」とても重たい言葉です。慢心は破滅を招く、そんな意味に聞こえました。
平和すぎてあまり好きではない。この言葉、凄くおもいです。
“平和過ぎる”、”気が張っているくらいの生活がいい”その通りだとおもった。平和が大切なのは大前提として、それでも気を張る日々を知らなければ平穏の意味も大切さも霞んでしまう
投下から3日でだったらまだまだたくさんの放射能汚染があっただろうに、、こうやって健康で長生きされてるのはもはや奇跡だと思う。
平和過ぎてあんまり好きじゃないって言う戦争体験者は初めて聞いたなこれはまた目新しいものが見れた。
荒野になった廣島を走った車掌さんを見れるとは・・。
今は平和すぎる…この言葉の意味をしっかり考えたい。
広島出身、63才です。今は広島を離れていますが、広島では己斐に住んでいました。感動しました。幼い頃から原爆について教育され、見聞きしていましたが、親戚にも被爆した叔母もおり、原爆を判ってるつもりでいましたが、こんな事実が在るとは・・・・・広電さんにも、ありがとうと心から感謝致します。ただ、叔母からはその当時の話はほとんど聞いてません。実際に原爆に遭われた方にとって思い出すこと事態が大変な負担であることを改めて感じました。ありがとうございました。
平和過ぎてあまり好きじゃないなんでも過ぎちゃいけませんよ…凄く重い、深い言葉。被爆者インタビューで1番頭に残った、コレからも残り続けそうな言葉でした。
貴重なお話しが聞けました。凄くお洒落でステキな方です。いつまでもお元気でいてください。
笹口さんがこれからもずっと元気でいられることを願います。語り続けて頂いている功績は偉大です。実はこの動画で初めて福屋が被曝建物であることを知りました。広電の被曝電車共に保全は大変だと思いますが、忘れてはいけない歴史を引き継ぐ、語り継ぐと共に、現役で保つ企業精神および努力に感服します。
最後の、今の時代は平和過ぎるという言葉が心に響きました。当たり前と思ってはいけませんね。気を張って生きているくらい方が良いとおっしゃっていたのは、今は平和ボケして何も考えていない人が多いという事の象徴ですね。国力は国民一人一人の意識で高められると思います。
インタビュアーの方の人柄が優しそうで安心します。
原爆が投下されてから たった3日で電気を通して、電車を動く様にする昔の方のバイタリティに、頭が下がります 簡単なものでは無かったと思います今は平和に感謝の気持ちを持ちながら 精一杯自分が出来る事を頑張りたい と思います
リアルな言葉ですね。平和過ぎるかー。
笹口さん若い時かわいい。
カットしないで聞かせてくれてありがとうございます🙏ただ平和願うだけ口だけじゃ平和は護れんと感じました
貴重なお話ありがとうございました
過ぎちゃいけない、時代だなんだで沢山考えて出た言葉なんだろうな。遠慮なく自由に話すの見たかった。
まずは貴重な、あまりにも貴重な証言に接する機会を得たことに、心より感謝申し上げます。あの地獄よりもむごたらしい惨状を体験してもなお「いまは平和過ぎてあまり好きじゃない、気が張っているくらいが丁度いい」とおっしゃる芯の強さに、ただただ脱帽するばかりです。どうか末永くお元気でいてくださいますように。
平和すぎて好きじゃない、現代の若者にとっては耳が痛い言葉だな。無気力で適当に生きていても流れで高校大学と進めるのが当たり前な時代、戦時中はモノも不足して生活するには辛かったろうけど半ば義務とはいえ14歳で大都市にやってきて車掌の仕事を務めるっていうのはこの方にとってそれはもう輝かしい日々だったんだろうな。
この方にとってとか言わなくてよくないか?
”過ぎちゃいけない”という言葉が突き刺さりました。普通の生活が一瞬で破壊された経験を持つ笹口里子さんの言葉だからです。
いつまでもお元気で。貴重なお話でした。
身が引き締りますね〜戦争体験者だけあってこの一言に重みを感じる。
実際に体験された方の生の声を聞いている、今生きている私たちが誰もいなくなった時が、一番危険だと思います。
被曝後宇品から井口まで歩いて移動した事に驚きでした。爆心地から離れていたとはいえ、大変な経路だったと思います。そうですよね。広島周辺はあっちこっちに遺体を集めて焼いてる場所がありますよね。私も 祖母に焼いた場所を聞いた事があります。広島出身ですが、当時の話しを思い出したくないのか?大人はあまりしてくれませんでした。貴重な話しをありがとうございました。
すごく貴重な話被爆してあれほど悲惨なことになりながら、3日で復興するなんてすごい
広島県人でありながら、恥ずかしいことに女性が戦火の中市内電車を走らせて頑張っていらしたこと初めて知りました。貴重なお話ありがとうございました😢このような体験談をしれたこと、私の財産になります。
16:01 ここすごくわかる
実際に原爆投下を経験された方のお話はやはり重みが違う。
日本の報道は、戦争は愚かで辛い、繰り返してはならないと過去を単純に反省するようなものが多いですが、“なんでも過ぎちゃいけない”という当時を生きた人の言葉はまた違っていてとても考えさせられました。
交通インフラの拡充がいかに大事か。非常時の備えを国家はするべき。
ほんとに当時って悲惨な状態だったろうな、、想像もつかない、、
空襲やら機銃掃射が日常でしたからね。叔父は海軍パイロットで特攻志願で叔母は機銃掃射に遭って脚が不自由でした。戦闘機が田んぼに爆弾落として逃げ回る叔母を追いかけて、家に逃げ込むも家を撃って家を貫通した弾が叔母に当たる。逃げ回る若い女を撃つ米パイロットも相当なアレだと叔父は言ってました。取り壊す前の屋敷には銃弾の跡があちこちありました。明治生まれの祖父母や大正生まれの親族が言うには戦時中より敗戦後の方が遥かにキツかったとは聞いてますね。
3日後ってすごいな。線路も瓦礫で埋もれてたはずなのに
そもそも架線、電柱は無事だったのか?通電できたのか?まさかディーゼル?疑問は多い。
資材も人員も不足してるだろうにどうやって迅速に確保して届けたんだろう軍事都市だったから復旧工事に強いエンジニアが多かったのかな?
広島市南端沿岸部にいた陸軍船舶部隊(暁部隊)はほとんど被害がなかったので、所属の工兵隊を動員&電鉄の人などを動員して復旧させたとの事。 電気は広島市郊外の変電所がすぐ使えたので復旧も早かった。
何年も前に中電の社員が自ら傷付きながらあるいは家族が被爆していながら出勤して電力復旧する半ドキュメント半ドラマの番組があった。道路が片付いたのは膨大な人数の人たちが郡部や県外から救援隊として入市して復旧作業に勤しんだため。それによって入市被曝という悲劇を生んだ。
本当にいい話。平和すぎる、この言葉の重みを今を生きる日本人にもっと深い意味で届いてほしいと切に願う
ドラマで知りましたが確か主人公は黒島結菜さんが出演してましたが女性が運転をしてた事彼女が強い方だった事が分かりあんな惨劇にあっても故郷島根よりも広島が大好きと言ってた事も凄いです。
アナウンサーずっとニコニコしてて違和感しかない。
会話してる時はニコニコだけど、原爆関係の話になるとニコニコしてなくない?
色々なお話してくださりありがとうございました。
平和すぎてはいけない。いまはなんでもあって当たり前してもらって当たり前になってるから、感謝の気持ちを忘れている。
若い時美人やな
自分もそう思った。集合写真の中で一番だよ。
@@hko7271 己の好みなぞどうでもええわ
@@吉村卓-f8s 🤣🤣🤣まあ、同じ事、思ったってことで多めに見てくれやw
珍しくテレビ局が喜ばない意見ではあるけど、いい取材してくれたね
まつ毛まで真っ白綺麗な白髪
14で車掌ってすげぇな
物質的に豊か「すぎる」ってのはほんとうに戦争と同じくらい不幸ですよね。技術、権利etc……、ちょっとたりないけど、工夫して支え合って生きていくくらいがハッピーなのかもな
投下から3日で電車が走った…凄すぎる。
お姉さんは何歳まで生きれたんだろうか…被曝直後は平気そうでも放射線によって亡くなることも多かったからちょっと気になる…長生きしてくれてたらいいな
57歳の時に後遺症で胃がんで亡くなったそうです。
その時生き延びても、数ヶ月後、数年後、数十年後に後遺症で亡くなることがあるから被爆というのは本当に恐ろしい
去年の増野さんもそうだったけど周囲と比較してかなり美人だった人なんだよねやっぱり当時の集合写真を見てこの綺麗な人を探そうってやっているんだろうな
アナウンサーニコニコしながらインタビューするのなんか……
比較的笑顔が大きい方だから笑顔が印象に残るのかもしれないけど、お姉さんとの話や初めて広島に出てきた時、家政女学校に入った頃の話を聞く時は笑顔でも、ハチマキを巻くようになったのは戦況が厳しくなったということかと聞く時や原爆後の話を聞く時は笑顔じゃないよ。
楽しかった頃の思い出話を深刻な顔して聞く方がおかしかろう。
貴重な生き証人ですね。1人、1人の方たちの原爆を経験され本当に怖い思いをされましたね。しっかり聞かせて頂きます。
代わりを作ってはいけないし、なくしてもいけない車両や記憶。
ヒロシマに一番電車が走った The first train ran in Hiroshima 1945今TH-camでこのアニメを見で関連動画でこちらにきましたこの方が このアニメの主人公のモデルになってたんですね そっくりです日本の被災復興は世界一 なによりも平和を一番に願います。
以前この番組で取材をしていた、同じく広島電鉄家政女学校で運転士をしていた増野幸子さんにも、会っていたんですかね。
貴重な映像ありがとうございます
昔の人は強いねぇ
平和過ぎるが重い.....やっぱり程々がいいんやね....[]
暖かい動画をありがとうございました。
広島電鉄家政女学校、昭和18年開校で昭和20年9月閉校ってことは、卒業生を一人も出さないまま歴史の海に消えたのね……
電車の乗客が無言でさえない顔をしているのは今も同じだね
端的な言葉になってしまうけど、教科書に「日本は戦争に負けた」って書くのも事実として載せるべきだけど「必死に戦い続けた」というの言葉をひとつふたつ、いやもっと書いてほしい。戦禍を命がけで生き抜いた人たちがいるのだから。私達には今の日本が「平和すぎ」て当事者に聞かないと分からないことがたくさんある
日本は負けたけど、この人達の戦争は死ぬまで続くんだろうと思います。
昭和末期ごろはずっと書かれてたよ、明治大正生まれもまだたくさんいたしね。若い人たちは知らないんだな。そういう呑気なところが平和過ぎって感じ。
広島ええところ😊幸せな気持ちになりました。
平和ボケすぎるんだろうな。
仕方ないことだけどこれから証人がますます減っていくのは残念です。やはり実際に体験した方の言葉の威力は力強く重みが心に染み込んで行きます。
笹口さんいつまでもお元気で!
不謹慎かもですが原爆落ちても3日で復旧する凄さ。
僕も本当に凄いと思います。
被爆電車までシングルアーム化されてしまったのか....
笹口さんの一言一言が力強い。パワーがある。
この動画の16:30に映っていた慰霊碑はどこにあるのでしょうか?できればお参りに行きたいです。私が広島で暮らしていた1980年代には、まだ無かった慰霊碑かもしれませんので。
岸田しっかり聞いてるか?
広島を心から愛してくれる人がいる。今の広島にワクワクしない平和過ぎて適度の緊張感が必要、破壊と創造が居て人間は進歩する。
良い話だよね。今は平和過ぎて好きじゃない。自分もそう思います。多少なりとも危機感あるとなんか活き活きして生活出来る気がする。不思議ですよね。多分それは、日本人全員が一つにまとまってたからだと思います。
インタビューの女の人の笑顔が作りすぎて怖い
そこじゃないでしょ
わかります!そして「平和すぎて好きじゃない」の後、すぐさま「でも戦争は嫌ですよね!」って入ってくるのがいかにもマスコミって感じで怖い
高齢者に怖い顔してインタビューしたんじゃ話が引き出せんよ
若いときめっちゃ美人だな
労働人口に活力があって、経済成長が可能なのですが、戦後の高度経済成長時代、1950-1980、の日本人は、原爆が投下されたときには、10代後半から30代前半の年齢でした。この青春を終戦前後に過ごした世代には、活力があったようですね。このおばあさんの元気さからも、推察できます。偏差値教育で疲弊した若者が多い現代日本が、なぜ、経済成長力を喪失したのか、その原因がわかったような気がします。
なんでもやりすぎは良くない。確かにその通りだな
平和すぎるか・・・考えさせられるわ・・・むむむ・・・
勉強になりました。ありがとうございますm(_ _)m
当時から広島は都会だったんだな
戦前は日本で9番目の大都会?でした。10番目が呉でした。
12:29 一番電車が運行開始した8月9日の裏に長崎に原爆が落とされ長崎の人々も被害に遭ってしまいましたね。
昔の写真が群を抜いて美人。平和な時代に生まれてたらアイドルの道もあったんじゃないかと思う。
鹿児島市の路面電車に初の女性運転士というニュースは平成だったけど、広島は違った。
聞いてる女性アナウンサー?ずっと笑顔意識してばかりで笹口さんのお話ちゃんと聞いてるか…?
綺麗な白髪ですね👩🦳眉毛も睫毛も白い‼️かえって綺麗です✨
いや、かえってきれいどころか、若い時、無茶苦茶可愛いじゃん。集合写真の中で一番だよ。
戦時中を生き抜き、原爆にも遭ったのに今の世の中は「平和過ぎる」
重い言葉だなぁ…
貴重なお話をこうやってインターネットを通して聞けることのありがたさ
どうかお元気に過ごしてください。
「何でも過ぎちゃいけない」この言葉は物質的な豊かさへの戒めのようにも、物質的な豊かさを得て見失った心の揺れ動きや感情や健全に耐えた先に得られる何か、目に見えないものを懐かしんでる様にも聞こえました。
ありがとうございます。
こういう生き証人の方々が減りつつある現在、動画として後世に残せるのは非常に価値のあることだと思う。
92歳とは思えないほど、しっかりされているのでまだまだ長生きして頂きたい😊
90歳こえてるとおもえない程しっかりされてるのにビックリです❗いつまでもお元気でいてください。
平和すぎるかあ
悲惨な後継を目の当たりにしながら戦中からの広島を愛した人の重い言葉です
「平和すぎて今の日本人は生き方を疎かにしているのでは」と感じたのでしょう。1972年まで戦い、帰国した「最後の日本兵」小野田陸軍少尉も、同じ意見でしたね。
「平和過ぎる!何でも過ぎちゃいけん!」本当に重いお言葉だと思います。今の日本社会に投げかけられた大切なお言葉だと思います。きっと、このお言葉は犠牲になられた多くの先人の方々も同じ事を仰られるのでしょうね。今の日本は1度振り返る時期なのではないでしょうかね。
明治維新から約70年ぐらい戦争の連続だった時代なのに、それほど気にしなかった事に驚いた
平和が過ぎると格差が酷くなる 時代のダイナミズムが無くなり、格差が固定される。成り上がる人や逆に転落する人も少なくなる 面白くないよね そんな世の中
広島ホームテレビさんがTH-camに投稿してくれたから、広島民でない(東京都民の)自分もこの話を聴くことが出来ました。TH-camに貴重な放送映像を投稿してくれてありがとうございます。
平和過ぎてもいけない 被爆経験者が語るこの言葉の重さ、込められた真意を理解できる人が今の世代にどれだけいるだろうか
このお話を聞かせて頂けて本当によかった。
体験者から感覚的な話を聞けるのは本当に大事だと思う。
14歳の女子中学生が車掌!?
凄い時代だ
再開初日の運転士さんも女子中学生がいたんだよ😇
なんせ男はほとんど戦争の戦地に行ってるか、工場で兵器作ってるって恐ろしい時代だ
もうめちゃくちゃ。だから成人女性はおろか女学生もいろんな仕事してた。弾作ったりしてた。こそこそ隠れて生きられたのは大金持ちの御曹司くらい
日本は最悪の事態に備えて、女性だけでもインフラを維持できるように教育してたっぴゃよ。
だからこそ出来たことだっぴゃ。
当時のことを思い出してお話しするのは辛かったと思います。
そんな中で貴重なお話しをありがとうございました。
被爆後の1番列車って下手したら教科書や資料集にも記述があるくらい有名なエピソートなのにその当事者がまだご存命だったなんて…!
すごい貴重な証言ですね!
原爆投下後3日で動いたのも凄いけど、動かそうとした人達がいたのも凄いと思う。
運転や車掌のような業務を少女に任せることが出来る教育を施していたからこそ、男達は復旧作業に専念できました。
戦争を経験し原爆という地獄を味わって、それでも今の日本を“平和過ぎる”と評し気が張っているくらいの生活が丁度良いと言えるのは素晴らしい。並大抵の人ではない。
意外やったね
やはり今は異常なんやろな
本当にその通りだと思う。
平和なことは大事だけど、平和を維持するには平和ボケしてはいけないという事だと思う
「最後の日本兵」の小野田さんも1972年に日本に復員してから、「平和なのは確かに良いことだ。しかし、平和のなかで日本人は生き方を疎かにしていないだろうか」という言葉を残している。
日本是個好戰國家· 麻生太郎還想讓台灣變成戰場~這次風災就是為它而來·一定死傷慘重!
佛言:「 過去心不可得、現在心不可得、未來心不可得,是名三心不可得。」
@@許碧玥-j2xそれは中国の話でしょ
貴重なお話をありがとうございます
いつまでもお元気で
紙屋町の路面電車内で大叔父は被爆して、3日後の今日亡くなりました。享年30歳でした。
戦中のほっこりエピソードとても好きなので、嬉しいです!
体験談もとても貴重で、話して頂いてありがとうございます。
「今は平和すぎる」とても重たい言葉です。慢心は破滅を招く、そんな意味に聞こえました。
平和すぎてあまり好きではない。この言葉、凄くおもいです。
“平和過ぎる”、”気が張っているくらいの生活がいい”
その通りだとおもった。平和が大切なのは大前提として、それでも気を張る日々を知らなければ平穏の意味も大切さも霞んでしまう
投下から3日でだったらまだまだたくさんの放射能汚染があっただろうに、、
こうやって健康で長生きされてるのはもはや奇跡だと思う。
平和過ぎてあんまり好きじゃないって言う戦争体験者は初めて聞いたな
これはまた目新しいものが見れた。
荒野になった廣島を走った車掌さんを見れるとは・・。
今は平和すぎる…この言葉の意味をしっかり考えたい。
広島出身、63才です。
今は広島を離れていますが、広島では己斐に住んでいました。
感動しました。
幼い頃から原爆について教育され、見聞きしていましたが、
親戚にも被爆した叔母もおり、原爆を判ってるつもりでいましたが、
こんな事実が在るとは・・・・・
広電さんにも、ありがとうと心から感謝致します。
ただ、叔母からはその当時の話はほとんど聞いてません。実際に原爆に遭われた方にとって思い出すこと事態が大変な負担であることを改めて感じました。
ありがとうございました。
平和過ぎてあまり好きじゃない
なんでも過ぎちゃいけませんよ
…凄く重い、深い言葉。
被爆者インタビューで1番頭に残った、コレからも残り続けそうな言葉でした。
貴重なお話しが聞けました。凄くお洒落でステキな方です。いつまでもお元気でいてください。
笹口さんがこれからもずっと元気でいられることを願います。語り続けて頂いている功績は偉大です。実はこの動画で初めて福屋が被曝建物であることを知りました。広電の被曝電車共に保全は大変だと思いますが、忘れてはいけない歴史を引き継ぐ、語り継ぐと共に、現役で保つ企業精神および努力に感服します。
最後の、今の時代は平和過ぎるという言葉が心に響きました。当たり前と思ってはいけませんね。気を張って生きているくらい方が良いとおっしゃっていたのは、今は平和ボケして何も考えていない人が多いという事の象徴ですね。国力は国民一人一人の意識で高められると思います。
インタビュアーの方の人柄が優しそうで安心します。
原爆が投下されてから たった3日で電気を通して、電車を動く様にする
昔の方のバイタリティに、頭が下がります 簡単なものでは無かったと思います
今は平和に感謝の気持ちを持ちながら 精一杯自分が出来る事を頑張りたい と思います
リアルな言葉ですね。
平和過ぎるかー。
笹口さん若い時かわいい。
カットしないで聞かせてくれてありがとうございます🙏ただ平和願うだけ口だけじゃ平和は護れんと感じました
貴重なお話ありがとうございました
過ぎちゃいけない、時代だなんだで沢山考えて出た言葉なんだろうな。遠慮なく自由に話すの見たかった。
まずは貴重な、あまりにも貴重な証言に接する機会を得たことに、心より感謝申し上げます。
あの地獄よりもむごたらしい惨状を体験してもなお「いまは平和過ぎてあまり好きじゃない、気が張っているくらいが丁度いい」とおっしゃる芯の強さに、ただただ脱帽するばかりです。
どうか末永くお元気でいてくださいますように。
平和すぎて好きじゃない、現代の若者にとっては耳が痛い言葉だな。
無気力で適当に生きていても流れで高校大学と進めるのが当たり前な時代、戦時中はモノも不足して生活するには辛かったろうけど
半ば義務とはいえ14歳で大都市にやってきて車掌の仕事を務めるっていうのはこの方にとってそれはもう輝かしい日々だったんだろうな。
この方にとってとか言わなくてよくないか?
”過ぎちゃいけない”という言葉が突き刺さりました。普通の生活が一瞬で破壊された経験を持つ笹口里子さんの言葉だからです。
いつまでも
お元気で。
貴重なお話でした。
身が引き締りますね〜
戦争体験者だけあって
この一言に重みを感じる。
実際に体験された方の生の声を聞いている、今生きている私たちが誰もいなくなった時が、一番危険だと思います。
被曝後宇品から井口まで歩いて移動した事に驚きでした。爆心地から離れていたとはいえ、
大変な経路だったと思います。
そうですよね。
広島周辺はあっちこっちに遺体を集めて焼いてる場所がありますよね。
私も 祖母に焼いた場所を聞いた事があります。広島出身ですが、
当時の話しを思い出したくないのか?
大人はあまりしてくれませんでした。
貴重な話しをありがとうございました。
すごく貴重な話
被爆してあれほど悲惨なことになりながら、3日で復興するなんてすごい
広島県人でありながら、恥ずかしいことに女性が戦火の中市内電車を走らせて頑張っていらしたこと初めて知りました。
貴重なお話ありがとうございました😢このような体験談をしれたこと、私の財産になります。
16:01 ここすごくわかる
実際に原爆投下を経験された方のお話はやはり重みが違う。
日本の報道は、戦争は愚かで辛い、繰り返してはならないと過去を単純に反省するようなものが多いですが、“なんでも過ぎちゃいけない”という当時を生きた人の言葉はまた違っていてとても考えさせられました。
交通インフラの拡充がいかに大事か。非常時の備えを国家はするべき。
ほんとに当時って悲惨な状態だったろうな、、想像もつかない、、
空襲やら機銃掃射が日常でしたからね。叔父は海軍パイロットで特攻志願で叔母は機銃掃射に遭って脚が不自由でした。戦闘機が田んぼに爆弾落として逃げ回る叔母を追いかけて、家に逃げ込むも家を撃って家を貫通した弾が叔母に当たる。逃げ回る若い女を撃つ米パイロットも相当なアレだと叔父は言ってました。取り壊す前の屋敷には銃弾の跡があちこちありました。明治生まれの祖父母や大正生まれの親族が言うには戦時中より敗戦後の方が遥かにキツかったとは聞いてますね。
3日後ってすごいな。線路も瓦礫で埋もれてたはずなのに
そもそも架線、電柱は無事だったのか?通電できたのか?まさかディーゼル?疑問は多い。
資材も人員も不足してるだろうにどうやって迅速に確保して届けたんだろう
軍事都市だったから復旧工事に強いエンジニアが多かったのかな?
広島市南端沿岸部にいた陸軍船舶部隊(暁部隊)はほとんど被害がなかったので、所属の工兵隊を動員&電鉄の人などを動員して復旧させたとの事。 電気は広島市郊外の変電所がすぐ使えたので復旧も早かった。
何年も前に中電の社員が自ら傷付きながらあるいは家族が被爆していながら出勤して電力復旧する半ドキュメント半ドラマの番組があった。道路が片付いたのは膨大な人数の人たちが郡部や県外から救援隊として入市して復旧作業に勤しんだため。それによって入市被曝という悲劇を生んだ。
本当にいい話。
平和すぎる、この言葉の重みを今を生きる日本人にもっと深い意味で届いてほしいと切に願う
ドラマで知りましたが確か主人公は黒島結菜さんが出演してましたが女性が運転をしてた事彼女が強い方だった事が分かりあんな惨劇にあっても故郷島根よりも広島が大好きと言ってた事も凄いです。
アナウンサーずっとニコニコしてて違和感しかない。
会話してる時はニコニコだけど、原爆関係の話になるとニコニコしてなくない?
色々なお話してくださりありがとうございました。
平和すぎてはいけない。
いまはなんでもあって当たり前してもらって当たり前になってるから、感謝の気持ちを忘れている。
若い時美人やな
自分もそう思った。集合写真の中で一番だよ。
@@hko7271 己の好みなぞどうでもええわ
@@吉村卓-f8s
🤣🤣🤣
まあ、同じ事、思ったってことで多めに見てくれやw
珍しくテレビ局が喜ばない意見ではあるけど、いい取材してくれたね
まつ毛まで真っ白綺麗な白髪
14で車掌ってすげぇな
物質的に豊か「すぎる」ってのはほんとうに戦争と同じくらい不幸ですよね。
技術、権利etc……、ちょっとたりないけど、工夫して支え合って生きていくくらいがハッピーなのかもな
投下から3日で電車が走った…凄すぎる。
お姉さんは何歳まで生きれたんだろうか…被曝直後は平気そうでも
放射線によって亡くなることも多かったからちょっと気になる…
長生きしてくれてたらいいな
57歳の時に後遺症で胃がんで亡くなったそうです。
その時生き延びても、数ヶ月後、数年後、数十年後に後遺症で亡くなることがあるから被爆というのは本当に恐ろしい
去年の増野さんもそうだったけど周囲と比較してかなり美人だった人なんだよね
やっぱり当時の集合写真を見てこの綺麗な人を探そうってやっているんだろうな
アナウンサーニコニコしながらインタビューするのなんか……
比較的笑顔が大きい方だから笑顔が印象に残るのかもしれないけど、お姉さんとの話や初めて広島に出てきた時、家政女学校に入った頃の話を聞く時は笑顔でも、ハチマキを巻くようになったのは戦況が厳しくなったということかと聞く時や原爆後の話を聞く時は笑顔じゃないよ。
楽しかった頃の思い出話を深刻な顔して聞く方がおかしかろう。
貴重な生き証人ですね。1人、1人の方たちの原爆を経験され本当に怖い思いをされましたね。しっかり聞かせて頂きます。
代わりを作ってはいけないし、
なくしてもいけない車両や記憶。
ヒロシマに一番電車が走った The first train ran in Hiroshima 1945
今TH-camでこのアニメを見で関連動画でこちらにきました
この方が このアニメの主人公のモデルになってたんですね そっくりです
日本の被災復興は世界一 なによりも平和を一番に願います。
以前この番組で取材をしていた、同じく広島電鉄家政女学校で運転士をしていた増野幸子さんにも、会っていたんですかね。
貴重な映像ありがとうございます
昔の人は強いねぇ
平和過ぎるが重い.....やっぱり程々がいいんやね....[]
暖かい動画をありがとうございました。
広島電鉄家政女学校、昭和18年開校で昭和20年9月閉校ってことは、卒業生を一人も出さないまま歴史の海に消えたのね……
電車の乗客が無言でさえない顔をしているのは今も同じだね
端的な言葉になってしまうけど、教科書に「日本は戦争に負けた」って書くのも事実として載せるべきだけど「必死に戦い続けた」というの言葉をひとつふたつ、いやもっと書いてほしい。戦禍を命がけで生き抜いた人たちがいるのだから。
私達には今の日本が「平和すぎ」て当事者に聞かないと分からないことがたくさんある
日本は負けたけど、この人達の戦争は死ぬまで続くんだろうと思います。
昭和末期ごろはずっと書かれてたよ、明治大正生まれもまだたくさんいたしね。若い人たちは知らないんだな。そういう呑気なところが平和過ぎって感じ。
広島ええところ😊幸せな気持ちになりました。
平和ボケすぎるんだろうな。
仕方ないことだけどこれから証人がますます減っていくのは残念です。やはり実際に体験した方の言葉の威力は力強く重みが心に染み込んで行きます。
笹口さんいつまでもお元気で!
不謹慎かもですが原爆落ちても3日で復旧する凄さ。
僕も本当に凄いと思います。
被爆電車までシングルアーム化されてしまったのか....
笹口さんの一言一言が力強い。パワーがある。
この動画の16:30に映っていた慰霊碑はどこにあるのでしょうか?
できればお参りに行きたいです。
私が広島で暮らしていた1980年代には、まだ無かった慰霊碑かもしれませんので。
岸田しっかり聞いてるか?
広島を心から愛してくれる人がいる。今の広島にワクワクしない平和過ぎて適度の緊張感が必要、破壊と創造が居て人間は進歩する。
良い話だよね。
今は平和過ぎて好きじゃない。
自分もそう思います。
多少なりとも危機感あると
なんか活き活きして生活出来る気が
する。不思議ですよね。
多分それは、日本人全員が一つにまとまってたからだと思います。
インタビューの女の人の笑顔が作りすぎて怖い
そこじゃないでしょ
わかります!
そして「平和すぎて好きじゃない」の後、すぐさま「でも戦争は嫌ですよね!」って入ってくるのがいかにもマスコミって感じで怖い
高齢者に怖い顔してインタビューしたんじゃ話が引き出せんよ
若いときめっちゃ美人だな
労働人口に活力があって、経済成長が可能なのですが、戦後の高度経済成長時代、1950-1980、の日本人は、原爆が投下されたときには、10代後半から30代前半の年齢でした。この青春を終戦前後に過ごした世代には、活力があったようですね。このおばあさんの元気さからも、推察できます。偏差値教育で疲弊した若者が多い現代日本が、なぜ、経済成長力を喪失したのか、その原因がわかったような気がします。
なんでもやりすぎは良くない。確かにその通りだな
平和すぎるか・・・
考えさせられるわ・・・
むむむ・・・
勉強になりました。ありがとうございますm(_ _)m
当時から広島は都会だったんだな
戦前は日本で9番目の大都会?でした。10番目が呉でした。
12:29 一番電車が運行開始した8月9日の裏に長崎に原爆が落とされ長崎の人々も被害に遭ってしまいましたね。
昔の写真が群を抜いて美人。
平和な時代に生まれてたらアイドルの道もあったんじゃないかと思う。
鹿児島市の路面電車に初の女性運転士というニュースは平成だったけど、広島は違った。
聞いてる女性アナウンサー?ずっと笑顔意識してばかりで笹口さんのお話ちゃんと聞いてるか…?
綺麗な白髪ですね👩🦳
眉毛も睫毛も白い‼️かえって綺麗です✨
いや、かえってきれいどころか、若い時、無茶苦茶可愛いじゃん。集合写真の中で一番だよ。