【ゆっくり解説 】上宮王家滅亡の謎...!!!
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- เผยแพร่เมื่อ 11 มิ.ย. 2024
- 「やばい古代史」では、古代史に焦点を当てて歴史を紐解いていく番組です。
我々はどこから来たのか。その鍵を古代史から読み解きます。
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最近、叡福寺、磯長墓(しながのはか)に お参りに行って来ました。
ちょうど昨日、法隆寺に行ってきたのでタイミング良かった。
17条憲法その一、「和をもって尊しとなし」←これは神道マインドを凝縮した一節ですよ。
蘇我氏が和を乱していたとみるべきです。
当時は蘇我馬子が大王で用明天皇であり、馬子が626年に亡くなったあと記紀には629年に舒明天皇が天皇に即位したとありますが、舒明は影が薄く架空天皇説があり、629年は九州年号では聖徳元年ですから聖徳太子説がある蘇我入鹿が摂政皇太子になったと思われます。と言うのは旧唐書には632年に唐から来た使者高表仁が王子と礼を争ったとありますから、当時は王子が最高権力者だったと思われますから聖徳太子だった蘇我入鹿が摂政だったと思われるからです。
世間虚仮の言葉が太子の心情かな。広隆寺も梅津港の直線距離。深草も伏見港、水運の要衝。太子の呼称は今でも中国で太子党言うね。この人だけ中国風な呼び名。画像も唐風、隋風?
新紙幣で話題になっていますが聖徳太子の紙幣を復活させるべきです。そうすればもっと日本が良くなる事間違いないです😊。
えっと。聖徳太子のことを扱うなら三経義疏について話さないと。
この当時の大和川は現在と違い北の淀川と合流してたと思うのですが。今の様に直接大阪湾に流れるようになったのは江戸時代のはずですよ。
そんなものが存在した事はないです。
捏造するな。
舒明天皇は存在しない捏造された天皇。