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昭和51年太平洋は、当時は弱く投手陣も *東尾修* に続くのが新人 *古賀正明* で新人ながら11勝し両輪として活躍した記憶がある。しかしその後に続くのが大ベテラン +石井茂雄* 。そして *加藤初* 放出で獲得の玉井信博・関本四十四が二人で4勝は誤算だったと言えるのでは。動画を見て選手やチームの感想や思い出などのコメントいただけるとうれしいです^^ただ、建設的な討論コメントはいいんですが、自分の主義主張を無理やり押し付けたりとか人を不快にさせるようなコメントはお断りしています。
僕もファンでした。太平洋クラブのとき、たまたま首位になったら、ピッチャーいないから、連続して先発してくるのはびっくりした。それで、僕も、そのとき徳島にすんでいたんだけど、西宮球場まで見に言ったら、やはり先発して投げた。何日連続して先発したのか驚きました。懐かしい40年以上前の話です。
まさに東尾・東尾・雨・東尾状態だったのに権藤さんみたいに肩を壊さず名球会入りするなんてすごい人。その肩、ひじを壊さない投球法を是非とも若い投手に伝授して欲しいものです。
自分は怪我せず対戦打者に怪我をさせる男
太平洋やクラウンはテレビ中継はおろかラジオ中継すら珍しかったから、放送された日はラジオにかじりついて聞いてました。
昔子どもの頃なぜか太平洋の赤紫の帽子が家にありました。今思うとかなり貴重だったと思います。
このチームが、まさか数年後に黄金時代を築くとは、夢にも思いませんでした。
昔、爺さんが中洲の馴染みのホステスに頼んでもらった『クラウンライター ライオンズ 東尾 修 21』のサイン色紙がオレの宝物の一つやったなぁ~😊
初めて見に行った試合が、太平洋クラブライオンズvs日拓ホームフライヤーズでした。特に太平洋は大好きでした!数年前に再販されたユニフォーム買いましたよ(笑)懐かしいです、ありがとうございます!
日拓はレアですねー
日拓のカラフルなユニフォーム🎽
加藤初が巨人に移籍してしまってトンビさんに負担がかかってしまった?
太平洋クラブライオンズは何と言ってもユニフォームがイカしてた。「とにかく目立つ」事を主目的にした究極の形が、木原投手の写真の胸番号ユニwただ当時、東京の小学生だった僕にはなかなか届かなかった。ユニフォームパジャマも白帽の時のホームユニだったし。
太平洋懐かしい❗当時は阪急、近鉄、南海がありました❗
関東だと78年にラジオ関東でクラウンライター時代の中継はありました。左が永射しかおらず外野手の長谷川がリリーフの準備をしてたのを聴いた記憶があります。
多分だと思うが日ハム戦で登板しているはず。ロックレア選手との対戦で…打たれてしまった…
@@雅夫大場しかもサヨナラ負け。
長嶋監督が熱望した東尾投手。
太平洋、クラウンライターの時代チーム成績は良くなかったけど東尾、加藤初、古賀、永射、山下律石井、柳田と良い投手が揃っていたと思います
木原義隆の前年10勝9敗、防御率2.76(リーグ7位)はまったく記憶にありませんでした。😅永射が77年に活躍した時に福岡のタニマチに連れ回されて肝炎を患い一時低迷しましたが、同じようなことがあったのかどうかの福岡の土地柄でした(永射は復活して後も活躍しました)。😢前年は江藤慎一新監督が他チームを整理された選手やトレード獲得選手を集めて山賊野球を標榜し、土井正博が本塁打王、白仁天が首位打者を獲得したシーズンでした(東尾修が最多勝で、タイトルホルダー三人を抱えてリーグ3位でした)。😊
東尾は体は大きくなく、特別に速い球を投げるわけではなかったのですが、打者にフルスイングさせない配球の妙で勝負するタイプでしたね。えぐいとも言える内角攻めが特徴で、打者をのけぞらせた後にスライダーで泳がせて打ち取るパターンが得意でしたね。与死球が非常に多く、打者とのトラブルも多かったですね。近鉄のデービスが死球に怒って東尾に殴りかかった事案は有名です。いかつい黒人選手でしたが、鼻っ柱の強い東尾は逃げずに応戦していました。
関本さんは1年間でありそれから山下さんとトレードでDeNAに行かれた‼️
確か前年の317.2回投球が、現在最後の年間300イニングだった気が
現在の埼玉西武もまるっきり76年の太平洋みたいな状況に陥っていますね…………。😅😅😅😅😅
クラウンライター時代の永射投手はピンクレディーのサウスポーのモデル
バッターが王さんでピッチャーが永射さんなのでしょうか?
永射はオフシーズンに バイトの為、自衛隊に入隊した事で有名でした。
S49年巨人の開幕シリーズで活躍した玉井 太平洋に移ってもっとやってくれると思ったけど😂巨人ファンとしては元巨人の選手が移籍先で活躍するのを期待して見てました
この頃のライオンズキャンプでよく見る、ピッチャーの投げ込み風景のバックに映るお城の石垣のような背景は、何処なのでしょうね?長年の謎です。どなたか存じ上げませんか?
島原市営球場の外壁ですね。
ありがとうございます!もやもやが晴れました
島原は西鉄時代からキャンプ地だった様ですね。
交流戦がない時代はセパ2球団ずつに在籍しないと全球団勝利はできなかったから野村、古賀、武田一浩の3人は他の達成者とは違う至難の業である。
武田はFA移籍があるから野村・古賀は更に凄かった。
チームの顔触れ以上に「腹番号ユニフォーム」が目立った…
ドローチャーが当初の予定通り監督になっていたら、東尾の使われ方をみてクレイジーと言っただろうな。それはともかく、東尾、古賀、関本、玉井、石井、永射に木原、松林、五月女、安木、浜浦とバラエティーに富み意外と粒ぞろいの投手陣なので、ドローチャーならもう少しうまくやったかも。江田コーチもまだご健在でしたし。
東尾の23勝は確か、最後に22勝の鈴木啓示をうっちゃっての最多勝だったんじゃないかな❓️古賀は割に歳を取ってのプロ入りでしたね。石井は目にした時には南海の佐々木同様もうベテラン。あまり馴染みがなかったけど阪急のヨネカジ時代の投手陣の一角でしたかね❓️
そうですね。米田投手 梶本投手 足立投手と並んで石井投手が四天王と呼ばれていましたね。山田久志投手が台頭して石井投手が余剰戦力気味となって西鉄が太平洋となったタイミングで移籍してきました。
石井茂雄さんは、バッティングも非凡でしたよね…✌️もっとも、こんな事は、プロ野球通だったら、誰でも知っている事ですが…‼️
東尾修さんは石井茂雄さんの投球をどのように見られていたのか?
大洋対太平洋の日本シリーズを見てみたかった。
石井さんは最後巨人に1年で引退しました‼️
東尾村田巨人へのトレードのウワサありましたね。
この時代のライオンズは、遠征の際の交通費が国鉄の普通運賃しか出なかったそうですね。特急や急行或いは航空機に乗るには自腹で乗れと😢加藤初、玉井ー関本、伊原のトレードはライオンズには痛かったですねー。
この時代の投手は使いべりしなくて長命なんだよね半面、高卒ドラフト1位投手とか全然出てこない
あ、言われてみれば…。特にこの当時のパリーグの上位球団系は、固定メンツな感。
加藤初と玉井、関本のトレードは完全に失敗でしたね。2年目古賀の肘痛も誤算でした。でも試合は面白かった福岡時代ですね⚾️
石井のおじいちゃんも巨人に行きました🎵160くらい勝ってたよな🎉
たしか189勝ぐらい。
@@白いカラス-c7w 足立もそのくらい⁉️米田 梶本 凄い顔ぶれですねー
ルーキー古賀といっても東尾よりも年は一つ上やけどね。
たしか、負けも、15敗か、?
1/3は.1回・2/3は.2回になるの?
その投手の責任で1アウトをとった時、3アウトで1回(イニング)なので、投球回数が1/3回と記録されます。それで、1シーズンの投球回数は、例えば150 1/3回と記録されます。MLBではそれを同じ意味で、150.1回と表示することが多いですが、それは表記上の便宜性のためだと思います。投球回数が投手にとっての本当の意味での稼働の指標とも言えます。
@@kagonaka ありがとうございます。結論を言うと表記はどちらでも良いと言うことですか?
@@しまなみ-t6b 投球回150 1/3回(今でも日本では主流の表記)と、150.1回(米国のMLBの英文記事はだいたいこれ)は同じ意味ですが、どちらを使うかは状況によりますね。日本人だけが相手の時は前者の方が無難でしょう。
昭和51年太平洋は、当時は弱く投手陣も *東尾修* に続くのが新人 *古賀正明* で新人ながら11勝し両輪として活躍した記憶がある。しかしその後に続くのが大ベテラン +石井茂雄* 。そして *加藤初* 放出で獲得の玉井信博・関本四十四が二人で4勝は誤算だったと言えるのでは。動画を見て選手やチームの感想や思い出などのコメントいただけるとうれしいです^^ただ、建設的な討論コメントはいいんですが、自分の主義主張を無理やり押し付けたりとか人を不快にさせるようなコメントはお断りしています。
僕もファンでした。太平洋クラブのとき、たまたま首位になったら、ピッチャーいないから、連続して先発してくるのはびっくりした。それで、僕も、そのとき徳島にすんでいたんだけど、西宮球場まで見に言ったら、やはり先発して投げた。何日連続して先発したのか驚きました。懐かしい40年以上前の話です。
まさに東尾・東尾・雨・東尾状態だったのに
権藤さんみたいに肩を壊さず名球会入りするなんてすごい人。
その肩、ひじを壊さない投球法を
是非とも若い投手に伝授して欲しいものです。
自分は怪我せず対戦打者に怪我をさせる男
太平洋やクラウンはテレビ中継はおろかラジオ中継すら珍しかったから、放送された日はラジオにかじりついて聞いてました。
昔子どもの頃なぜか太平洋の赤紫の帽子が家にありました。
今思うとかなり貴重だったと思います。
このチームが、まさか数年後に黄金時代を築くとは、夢にも思いませんでした。
昔、爺さんが中洲の馴染みのホステスに頼んでもらった『クラウンライター ライオンズ 東尾 修 21』のサイン色紙がオレの宝物の一つやったなぁ~😊
初めて見に行った試合が、太平洋クラブライオンズvs日拓ホームフライヤーズでした。
特に太平洋は大好きでした!
数年前に再販されたユニフォーム買いましたよ(笑)
懐かしいです、ありがとうございます!
日拓はレアですねー
日拓のカラフルなユニフォーム🎽
加藤初が巨人に移籍してしまってトンビさんに負担がかかってしまった?
太平洋クラブライオンズは何と言ってもユニフォームがイカしてた。
「とにかく目立つ」事を主目的にした究極の形が、木原投手の写真の胸番号ユニw
ただ当時、東京の小学生だった僕にはなかなか届かなかった。ユニフォームパジャマも白帽の時のホームユニだったし。
太平洋懐かしい❗当時は阪急、近鉄、南海がありました❗
関東だと78年にラジオ関東でクラウンライター時代の中継はありました。左が永射しかおらず外野手の長谷川がリリーフの準備をしてたのを聴いた記憶があります。
多分だと思うが日ハム戦で登板しているはず。
ロックレア選手との対戦で…
打たれてしまった…
@@雅夫大場
しかもサヨナラ負け。
長嶋監督が熱望した東尾投手。
太平洋、クラウンライターの時代チーム成績は良くなかったけど東尾、加藤初、古賀、永射、山下律石井、柳田と良い投手が揃っていたと思います
木原義隆の前年10勝9敗、防御率2.76(リーグ7位)はまったく記憶にありませんでした。😅
永射が77年に活躍した時に福岡のタニマチに連れ回されて肝炎を患い一時低迷しましたが、同じようなことがあったのかどうかの福岡の土地柄でした(永射は復活して後も活躍しました)。😢
前年は江藤慎一新監督が他チームを整理された選手やトレード獲得選手を集めて山賊野球を標榜し、土井正博が本塁打王、白仁天が首位打者を獲得したシーズンでした(東尾修が最多勝で、タイトルホルダー三人を抱えてリーグ3位でした)。😊
東尾は体は大きくなく、特別に速い球を投げるわけではなかったのですが、打者にフルスイングさせない配球の妙で勝負するタイプでしたね。えぐいとも言える内角攻めが特徴で、打者をのけぞらせた後にスライダーで泳がせて打ち取るパターンが得意でしたね。与死球が非常に多く、打者とのトラブルも多かったですね。近鉄のデービスが死球に怒って東尾に殴りかかった事案は有名です。いかつい黒人選手でしたが、鼻っ柱の強い東尾は逃げずに応戦していました。
関本さんは1年間でありそれから山下さんとトレードでDeNAに行かれた‼️
確か前年の317.2回投球が、現在最後の年間300イニングだった気が
現在の埼玉西武もまるっきり76年の太平洋みたいな状況に陥っていますね…………。😅😅😅😅😅
クラウンライター時代の永射投手はピンクレディーの
サウスポーのモデル
バッターが王さんでピッチャーが永射さんなのでしょうか?
永射はオフシーズンに バイトの為、自衛隊に入隊した事で有名でした。
S49年巨人の開幕シリーズで活躍した玉井 太平洋に移ってもっとやってくれると思ったけど😂巨人ファンとしては元巨人の選手が移籍先で活躍するのを期待して見てました
この頃のライオンズキャンプでよく見る、ピッチャーの投げ込み風景のバックに映るお城の石垣のような背景は、何処なのでしょうね?長年の謎です。どなたか存じ上げませんか?
島原市営球場の外壁ですね。
ありがとうございます!もやもやが晴れました
島原は西鉄時代からキャンプ地だった様ですね。
交流戦がない時代はセパ2球団ずつに在籍しないと全球団勝利はできなかったから野村、古賀、武田一浩の3人は他の達成者とは違う至難の業である。
武田はFA移籍があるから野村・古賀は更に凄かった。
チームの顔触れ以上に「腹番号ユニフォーム」が目立った…
ドローチャーが当初の予定通り監督になっていたら、東尾の使われ方をみてクレイジーと言っただろうな。
それはともかく、東尾、古賀、関本、玉井、石井、永射に木原、松林、五月女、安木、浜浦とバラエティーに富み意外と粒ぞろいの投手陣なので、ドローチャーならもう少しうまくやったかも。江田コーチもまだご健在でしたし。
東尾の23勝は確か、最後に22勝の鈴木啓示をうっちゃっての最多勝だったんじゃないかな❓️古賀は割に歳を取ってのプロ入りでしたね。石井は目にした時には南海の佐々木同様もうベテラン。あまり馴染みがなかったけど阪急のヨネカジ時代の投手陣の一角でしたかね❓️
そうですね。米田投手 梶本投手 足立投手と並んで石井投手が四天王と呼ばれていましたね。山田久志投手が台頭して石井投手が余剰戦力気味となって西鉄が太平洋となったタイミングで移籍してきました。
石井茂雄さんは、バッティングも非凡でしたよね…✌️
もっとも、こんな事は、プロ野球通だったら、誰でも知っている事ですが…‼️
東尾修さんは石井茂雄さんの投球をどのように見られていたのか?
大洋対太平洋の日本シリーズを見てみたかった。
石井さんは最後巨人に1年で引退しました‼️
東尾村田巨人へのトレードのウワサありましたね。
この時代のライオンズは、遠征の際の交通費が国鉄の普通運賃しか出なかったそうですね。特急や急行或いは航空機に乗るには自腹で乗れと😢
加藤初、玉井ー関本、伊原のトレードはライオンズには痛かったですねー。
この時代の投手は使いべりしなくて長命なんだよね
半面、高卒ドラフト1位投手とか全然出てこない
あ、言われてみれば…。特にこの当時のパリーグの上位球団系は、固定メンツな感。
加藤初と玉井、関本のトレードは完全に失敗でしたね。2年目古賀の肘痛も誤算でした。でも試合は面白かった福岡時代ですね⚾️
石井のおじいちゃんも巨人に行きました🎵160くらい勝ってたよな🎉
たしか189勝ぐらい。
@@白いカラス-c7w 足立もそのくらい⁉️米田 梶本 凄い顔ぶれですねー
ルーキー古賀といっても東尾よりも年は一つ上やけどね。
たしか、負けも、15敗か、?
1/3は.1回・2/3は.2回になるの?
その投手の責任で1アウトをとった時、3アウトで1回(イニング)なので、投球回数が1/3回と記録されます。それで、1シーズンの投球回数は、例えば150 1/3回と記録されます。MLBではそれを同じ意味で、150.1回と表示することが多いですが、それは表記上の便宜性のためだと思います。
投球回数が投手にとっての本当の意味での稼働の指標とも言えます。
@@kagonaka
ありがとうございます。
結論を言うと表記はどちらでも良いと言うことですか?
@@しまなみ-t6b 投球回150 1/3回(今でも日本では主流の表記)と、150.1回(米国のMLBの英文記事はだいたいこれ)は同じ意味ですが、どちらを使うかは状況によりますね。日本人だけが相手の時は前者の方が無難でしょう。