20240811礼拝メッセージ「主の喜ばれること」1テモテ2:1-4

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  • เผยแพร่เมื่อ 19 ธ.ค. 2024
  • 1テモテ2:1そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。:2それは、私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです。:3そうすることは、私たちの救い主である神の御前において良いことであり、喜ばれることなのです。:4神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。
    テモテへの手紙の宛先はテモテです。テモテは教役者でした。神学校では、「牧師という教職を得た者は、テモテ書をしっかり読みなさい。」と言われました。でも、これは牧師だけが読む手紙ではありません。みなさん、全てが読むべき書です。1テモテ書は2章から本文になります。パウロがテモテにまず勧めたことは
    1・全ての人のために祈ること
    1そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。
    まず、全ての人のために、願い、祈り、とりなし感謝することでした。ここには
    また王とすべての高い地位にある人たちのために
    という言葉があり、この箇所は、王や高い地位にある人たちのために祈ることが中心メッセージのようなイメージを持たれるかもしれませんが、全ての人のために祈ること、これが中心メッセージです。ただ、王や地位のある人はある程度権威、力を持っているので、その人たちのためには祈る必要はないかな?と思いがちです。また、天皇陛下のために祈るとなれば畏れ多いという感情も出てくるでしょう。でも、全ての人とは、そういう人も含めて全てということです。
    私はこのことを考えた時、ある程度力があり、バリバリやっている一人の牧師先生のためには祈るということを考えもしていませんでした。でも、全ての人のために祈るということは、その方も含めて全てなのです。
    私たちは、この人のために祈るとということは考えもしていないという、盲点のような方いませんか?しかし、そういう人のためにも祈るのです。
    Παρακαλῶ  ποιεῖσθαι
    I exhort to do oneself
    私は ・・・をあなた自身がすることを懇願ずる・・・
    と言って、テモテが自覚的に、願い、祈り、とりなし、感謝することを懇願するのです。
    2・祈りの多様性
    すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。

    こには、「願い」「祈り」「とりなし」「感謝」という四つのことがば出ていますが。:3節になると、それらの祈りについて、パウロは「これ」τοῦτοトゥートと単数形で引用しています。ということは、パウロはテモテに4つのことを命じたのではなく、一つのことを言ったのです。つまり、全ての人のために祈ることです。祈りには、主に願う、主と交わる、主にとりなす、主に感謝するという面があるのです。そして、全ての人のために、主に祈るなら、また、愛の実践を全ての人にするのです。
    もう10年以上「金曜会」は教会で続いています。以前は、金曜日の夜、同窓生を中心として、ただカレーを食べ、喋っていました。聖書の学びをしたこともありました。すると同窓生で来なくなる人も出ました。聖書の学びを止めると、それをしたかったクリスチャンの方が来なくなりました。茶葉茶葉で昼食を食べるという会にもなりました。先月は、老人ホームに音楽のボランティアをし、認知症カフェもする事にしました。
    そんな中で、一人の同窓生が体調を壊しました。親族、家族が近くにいないので、買い物に連れて行ったり、食事を届けたりしました。金曜会の中には、民生委員をしたり、市役所に勤めていた人もいて、いろいろ話し合う中で、同情心から面倒を見るのは、お互い仕事があってできなくなる。また、逆効果だったりする。とも話し合いました。では、体調の悪い同窓生を真に助けるにはどうしたら良いか、いろいろ話し合い、実際には市の相談員に依頼し、私たちは手をひき、遠くの親族の方が関わっていただき、病院に入院する事になりました。相談員の方が言っておられましたが、同窓生がここまで関わったのを見たのは初めてだったそうです。そんなことも金曜会はできたのだと思います。同窓生の命が助かるという願いの一点で行動できたのです。
    一人のために、祈る時、その人のために愛の実践をするのです。
    また、四つの言葉の最後が、「感謝する」なのは、私としては想定外でした。でも、最後は、全ての人のために感謝するのです。
    3・愛の実践の祝福
    :2それは、私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです。:3そうすることは、私たちの救い主である神の御前において良いことであり、喜ばれることなのです。:4神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。
    愛の実践の祝福を語る前に、4節について語らせてください。
    :4神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。
    ここで一つわかることは、救われることと、真理を知るようになることは、同じではないにしても同列だと言うことです。私は、イエス様を信じ、「自分は生まれなかった方が良かった。」と言う偽りから解放され、自分は生まれて良かったと言う真理を知り、そこに立つことができました。以前は、偽りの上で生きていたので、生きることが嫌でした。することなすことが嫌でした。この前、子供キャンプをした時、こうやってキャンプができるのって幸せだなと思いました。こう言う感覚は初めてです。これが私の救いだと分かりました。
    主題に戻りまして、そのように愛の実践をするなら
    ①平安で静かな人生が送れます。
    :2それは、私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです。
    「平安」ἤρεμοςエレーモスも「静か」ἡσύχιοςヘスキオスも「静か」という意味ですが、織田昭氏によると「平安」ἤρεμος エレーモスは、外部からの乱されないこと、「静か」ἡσύχιος ヘスキオスは内部から来る静けさとなるそうです、いずれにせよ、全ての人のために祈りを実践する人は、その敬虔さによって、外部から乱すことが来ても乱されない。うちから湧き出る平安な人生を送ることができるのです。
    ②人が救われ、真理に至る
    :3そうすることは、私たちの救い主である神の御前において良いことであり、喜ばれることなのです。:4神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。
    3
    、4節はワンセンテンスで「(全ての人のために祈る)このことは、全ての人が救われ、真理を知るようになることを望んでおられる、私たちの救い主である神のみ前に良いことであり、喜ばれることです。」と言う訳になります。
    この愛の実践を、全ての人が救われ、真理に至ることを望んでおられる救い主なる神が、良いとされ、喜ばれると言うことは、私たちが関わる人のために祈り、愛の実践をする事によって、私たちが関わる人々を、救い主は救われるように導かれると言う事です。
    娘は救われているが、そのご主人とお子さんが救われるか心配しておられるお母さんがおられましたので、解放の祈りをする事にしました。母さんが、その心配を捨てた時、イエス様が「大丈夫だよ、救うことははわたしのすることだよ。あなたは娘のご主人や子供に愛を表していきなさい。」と言われたそうです。まさに、3、4節のみ言葉ですね。
    「(全ての人のために祈る)このことは、全ての人が救われ、真理を知るようになることを望んでおられる、私たちの救い主である神のみ前に良いことであり、喜ばれることだから、私たちが祈っている人たちを、救い主は救いに導いてくださる。」

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