005 S 豊見城第二野戦病院壕・ふじ学徒隊(積徳女学校):名城文子(沖縄市)

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  • เผยแพร่เมื่อ 26 มี.ค. 2019
  • 戦時中、17歳の名城文子さん
    積徳高等女学校の時に、女子学徒隊として
    豊見城グスク第二野戦病院壕へ配属。
    傷病兵の看護にあたります。
    そこでみた戦場の悲惨な光景とは…
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    「語り継ぐ受け継ぐ豊見城の戦争記憶」のアンケートを行っております。感想や活用方法のアイディア等をお教えてください。
    ・アンケートリンク<docs.google.co...
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    ショートバージョン
    沖縄県豊見城市教育委員会文化課 所蔵
    H29・30年度 戦争体験等映像化事業
    沖縄振興特別推進市町村交付金事業(一括交付金)
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    全文書き起こし
    出身地
    私が生まれた所は越来村(沖縄市)。字上地というところで
    母の思い出
    私の母は、とってもあれこれ一生懸命やる人で
    家は 屋敷が広かったんです。農業は 野菜ばかり作っていなくて
    後ろには桑畑があって、おばあちゃんが蚕(かいこ)を養って
    母はそれで糸を紡いで、染めさせて、ちゃんと織ったり、自分でやっていました
    桑畑は後ろで、芭蕉もいっぱいあるんです。それを紡いでやるんです。
    だから、芭蕉も絹糸も一生懸命、
    あんなに農業も一生懸命やって、機織りもやって、母の思い出は
    大変考えさせられます。ご苦労さんだったと。
    女学校受験
    姉も妹も、一高女だったんです。第一高等女学校、合格したんです
    私は、(一高女に)受験の時に、筆記試験はやったけど、風邪気味になって熱出して
    途中から帰ってしまったんです。だから私は一高女には行けなかったんです
    それで積徳(高等女学校)に行きました
    セーラー服を希望して、「入ったらセーラー服着けられるね」って喜んで待っていましたけど
    私たちの時からは戦時体制で、ヘチマ襟の白い襟で、スカートもタイトスカートになって
    (セーラー服が着れなくて)がっかりしています、もう望みがかなえられなくて
    今でもセーラー服を見たら思い出します、あの時の辛さ
    看護教育
     東風平国民学校です。はじめは第二高等女学校と一緒に、衛生学、看護学の勉強をして
    軍服を着ない初年兵
    「君たちは、軍の飯を食った以上は、軍服を着ない初年兵だよ」といわれたんです
    だから、覚悟していました。ああ大変だと、そこで頑張るのかと
    看護教育 点呼
    一番辛かったのは、朝、起床といったら、点呼がありますでしょ、ちゃんと履物をそろえているか
    寝具をきれいにたたんで置かないと、班長部屋まで来いと書かれているんです
    とってもやかましいというか厳しいですから
    班長の飯ごう
    (班長部屋に行って)飯ごうをとりに行くんです。その時に緊張して
    「第3班、座間味ふみ、班長殿の飯ごうをとりに参りました」というのを
    「飯ごうの班長」を取りにきましたと言って
    自分のいった言葉で、どんな仕打ちを受けるかなというような
    しかし、すぐ返されたから
    帰ったらみんな、私がコロコロしているのを見て、「どうしたの」って、こういうことがありましたと
    とっても緊張して、朝からずっと
    テスト点呼がすんだら、今度は衛生学の勉強に行く。休み時間はありません
    我慢してやっていました。終わってもホッとはしなかったです。というのは、すぐテスト
    すぐテストやるんです。そしてその場で平均点を出して、報告される。だからとっても厳しかったです
    調 書 従軍か除隊
    家に帰りたいなという気持ちでした。
    (豊見城に)行ったらすぐに念書を書かされたんです。
    家に帰るか、残ってやるかという調書なんです
    母は、「戦争が厳しくなったら、上陸するかもしれないから」
    「すぐ帰っておいで」といったんです、別れの時に
    「私はどこまでも従軍します」と書いたんです
    25名は(野戦病院に)残ります、その他は帰りますって書いたんです
    だからあの時に母のことを考えないで、あの言葉も思い出さないで
    よくもこんなにやったなと、いまだに私は心が痛いです、母の言葉を思い出して
    母のところに一応は行ってみようという気持ちが持てなかったのが残念だなと、今でもそれを感じます。
    伝染病担当へ
    (野戦病院では)私は内科の看病係でした。15名の中から二人、伝染病に移されたんです
    伝染病(係)は、みんなとの時間のやりとりが違うんです
    熱が高くて暴れる人がいるし、食事をあげたら
    食べたあとでお椀を投げるんです
    「僕のメニューは、これじゃなかったでしょう」
    「なんでこれを持ってきたか、食べたくない」
    怒るんです、私たちに
    伝染病の患者は、大変でしたね、危ないから
    (軍医の)島尾中尉から「気をつけなさい」とか、必ずいろんな励ましがありました
    壕入口に爆弾
    交代で、二人、不寝番をするんです。入口は、ずっと上のほうの集落から
    戸板を持ってきて、ちゃんとふさいであるんです。その戸板のすぐここに私の
    半畳の(仕事場)係が仕事ができるようになっている
    斜め上に、パーンって爆弾が落ちてきたんです。私は1メートルぐらい飛ばされて
    不寝番二人の中の一人が「 危ない」と呼びに来たら 返事がなかったそうです
    自分は気づかない、だけど同僚が
    「あんた、危なかったね、大丈夫で良かったね」といったんです。そうしたら「えっ」て
    自分の、係の、畳の上に帰っていったら、その戸板の後ろに置かれている兵隊の飯ごう
    50個ぐらい並べてあったんです、洗って。これが全部ペシャンコ。
    その飯ごうの戸1枚後ろに私がいるんです。だから
    飛ばされただけで、命拾いをしました。だから忘れられません。
    看 護
    豊見城(第二野戦病院)といえば、大変な手当する人もいるけど、私の場合は
    腸チフスの患者とか、そういう患者を直接みなければいけないから大変つらかった
    患者が多くなって、傷の手当を手伝いしたり、「看護婦さーん」って呼ばれて行ったら
    「足のケガが痛いから」って言うんです。そして行ったら、ウジ虫が出てるんですね
    (二段ベッドの)二階の人もいますから、(下の患者の)頭のところにポタンポタン落ちたり
    これを手当てして、下にいる患者さんも大変でした
    一番びっくりしたのは、「看護婦さーん、しっこ」って患者が呼ぶ時です
    缶詰のカラをそこに置いて、これを持って、患者がやるんです
    大変でしたね、これをやる時は
    近くに井戸もありません、何もないですから
    豊見城の壕の上を行ったら、那覇港が見えるんです。そこにまた穴があったから
    こぼしに行って、手も洗えません。その時の気持ちは、なんともいえないです
    尿を捨てたところ、あれは今の慰霊塔を建てた後ろ側にこんな大きい穴をつくってあった
    それは覚えています。
    南部へ
    (南部・島尻に)夕方移動しますから、移動する時に
    警戒の飛行機が来ますでしょ、パラパラパラパラやられて
    やられたら大変なんです
    (道で)「助けてください」 いわれても、自分のことがあるから助けてやれなかった
    それを思い出したら 辛くて大変です
    上は畑で…こういう…ガマ(自然壕)で…(野戦病院は糸満の)糸洲の壕に移ったんです
    中橋兵長・遺言
    石川県の中橋兵長が「君たちはいいな。遠い異郷の土になるかと思えば、つらいよ」
    「君たちは、女だから、生き残るかもしれない」
    「もし生き残ったら、線香の1本ぐらい焚いてくれ」と言っていた
    石川県
    (戦後)当時はパスポートもって、昭和45年、同僚と二人で行きました
    腰の曲がったお母さんが、畑から帰ってきて、娘が
    「沖縄から お父さんの遺品を 届けにきましたよ」 って
    「そうか…」といって、お母さん、私と握手したり…
    (実は)写真も、腕時計も、預金通帳も、私、預けられたんです
    だけど、捕虜になる時に、なくしてしまったから
    仏壇はないんです。似顔絵を描いて、お供えしている。それを見た時の辛さ
    「あんなにきれいに預けてもらったのに、届けてもやれないで、申し訳ない」
    そして帰ったんです
    妹と百合の花
    妹は一高女で亡くなりました。戦争で。5月になったら百合の花がいっぱい咲くんですよ
    一高女の方が、宜野湾で教員をしてらしたんです
    ひめゆりの先生に、百合の花を飾ってちょうだいと持たせた時に
    その時にこの方が「フミさん、あのね、私の展示会に、ひめゆりの壕の写真が飾ってあるよ」
    「見にこないか」と言ったんです
    私は、「ああ、よかった」といって、百合の花を持って行って、その写真の前に飾ったんです
    そのぐらい百合の花と、いろんな関係がありました
    戦争体験を語ること
    ひめゆり以外の学徒隊(語り部)としてずっとがんばってきましたが
    大阪の中学生とか東京、それから千葉県の高校生とか
    全部行って(戦争体験の)話をしていました。
    だけど今はもう、年齢的に、無理だなと思っています
    広島経済大学の生徒が、朝からずっと
    お腹も空かせて、がんばって、ちゃんとやっているんです
    あれにはまた参加しています
    私の場合は、壕を案内して、また荒崎海岸の見える海辺で話をするんですよ
    これはもう二度とこんなことがあってはいけないと
    だから若い人にはちゃんとお伝えしておかないといけないので
    収録日:2017年(平成29年)11月14日

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