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仏教に説かれている本当の幸福とはどんなものか、20日間の無料メール講座で話しをしています。peraichi.com/landing_pages/view/reiwamail
人に生まれたおかげで教えを頂けることを忘れていました。人としてを喜ぶより恨んだほうが多かった、納得のいくお話をありがとうございます。
菊谷先生私は菊谷先生の仏教のお話が大好きです。心から元気を頂いております。有難うございます💖
菊谷先生、今回も大切なお話と有り難い説法に心より深く感謝申し上げます。本当にありがとうございます。今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。三戸拝
無碍の一道(煩悩あるままの幸せ、煩悩がじゃまにならない幸せ)はすごい世界ですね。この世界に出れたらどんなにか幸せなことでしょう。そういえば日本の哲学者西田幾多郎は人間が本当の幸せになるためには、絶対矛盾的自己同一の存在であらねばならないと聞いたことがあります。私たちの苦しみ・悩みがそのまま相反する幸せに変わらなければ本当の幸せにはなれないということです。しかし、どうすればそんな身になれるかは西田自身もわかりませんでした。今日のお話を聞きながらふと思い出しました。
分かりやすくて、とても ありがたいです!😊🙏
良く分かりましたありがとうございます
自分の欲に囚われるのではなく、周りも同じような欲があると気がつくことですね。自分の欲を追い求めるのではなく、他人の欲を理解してあげる行為は幸せになる要素だとは思います。
解説分かりやすく、聴聞できました。ありがとうございます。
とても、大変、すごく、勉強に、なりました。誠に、ありがとうございました。
ありがとうございます!
菊谷さんいつもありがとうございます。🙇感謝しています。南無阿弥陀仏🙏
今日も、ステキな解説を、ありがとうございます。🇲🇱🤱🇨🇳🤱
「煩悩具足」のままで「信心決定」出来ると言うことですね😂😂
自性なのでしょうか、無欲恬澹な感じな人を回りに結構見かけます。悟ってるという訳じゃないし、怒ったりもするんでしょうが、一緒にいるだけでも穏やかな気持ちになります。
無碍の一道、無上の幸福。これを生きながらに得ていくのがお釈迦様の教えであり、親鸞聖人が正しく伝え、菊谷さんが我々まで届けて下さいました。ありがとうございます◎本動画で私の頭も随分と整理されました。個人が目指すビジョンはクッキリはっきりとしました。これを踏まえて、生きる上での問題のほとんどは社会の中における関係性であります。社会の中で生きる事をお釈迦様はどう説かれ、親鸞聖人はどう導いてくださっているのでしょうか。またお教え頂けたら幸いです。
何のために生きてるのかが分からない。ずっとそんなです。
それは周りも同じだと思いますよ。結局、わかってるようでわからないそれが生きるということだと思います。敢えていうと苦しんで生きるのが良いか愉しんで生きるのが良いかそういう選択肢だと思います。梁塵秘抄の「遊びをせんとや生まれけん」というのはある意味核心をついた言葉だと思います。
何のために生きているのか?それは、「幸せになるため」です。不幸になるために生まれて来た人はいません。自分の幸せばかりを、追い求めていると虚しくなります。周りの人の幸せを願うと自分も幸せになれます。自分だけが輝くのではなく、周りの人を輝かせて、その輝きで自分も照らしてもらって輝けば、誰も不幸になりません。そのことに気付いた時、体中が震えるほど感動しました。あくまでも私の感想ですが、参考になれば幸いです。🙂
th-cam.com/video/Rm7wiHbBdUQ/w-d-xo.html信楽の身になることが人生の目的だと仏教では説かれています。
선생님항상감사드림니다건강하세요~
太陽が出ている日中は曇天でも、確かに明るいと思います。しかし、雲が晴れた空はより明るいです。雲(怒りと愚痴と貪欲という煩悩)を少しでも減らし雲を薄くして太陽の光をより明るくする事が大事だと思っています。蓮の花が泥田でしかきれいな花を咲かさないように、この世に生を受けるということは、煩悩という泥田があるから心(魂)を磨くチャンスがあると私は思っています。
今日、妻と山歩きをしました。その山で、2匹のマムシと遭遇しました。彼らは、ただ、日向ぼっこしていただけです。私は、蛇が苦手で目に入った瞬間恐怖を感じました。ただ、変な気分でした。彼らは彼等らしく生きているだけなのですから。結局、彼も私を怖れたので藪の中に去っていました。お互い怖かったのです。お互いを傷つけずに別れました(蛇の事です)。輪廻転生としてはお互い様だと思いました。しかし、やっぱり怖かったです。
ありがとうございます😊✨
煩悩を雲と霧に例えたお話、すごく分かりやすかったです。自分にとってまだまだ無碍の一道の世界は遠いと思いますが、今回のたとえ話が理解できたということは少しは近づくことができたのでしょうか。これからも聴聞を続けたいと思います。ありがとうございました。
今回もお疲れ様です。👨🍼👩🍼🤱
闇の心を客観的に捉えることができるようになる、ということでしょうか?菊谷さんは意図的なのか一番重要な部分の解説が抜けてるように思います。
煩悩を無くそうとする努力はしなければならないと思いますその上で、諦めなければ救われるということだというのが蓮如さまのいうことだと思うのです何でも救われるというのは、そこが違うのです
私はその煩悩のあるままで救われるという教えが、気に入りません。たとえ、本人はよくても社会の悪人が減らないからです。釈尊だけは煩悩具足の凡夫ではなかったという高森氏の説教を聞いたことがあります。私も聖徳で煩悩に克ちたいと思います❗諦めません。私は聖道自力の諸仏仏教に従いたい。自尊尊他しないと社会は善くならないからでもあります。社会を善くする、それこそ宗教だと言いたい。
いつも見よるけどようわからん
それでも見てらっしゃる貴方は素晴らしい!
「無碍の一道」というのは仏の悟りでいうところの何段階目あたりになるのでしょうか?
要するに、「死が怖くなくなること=絶対の幸福」でしょうか?’往生浄土間違いなし’とは死んだ後の話なのに何故それが平生業成なのか?何度聞いても理解できないのです。
往生浄土間違いなし、と平生ただ今、はっきりするのです。
釈尊無常の教え 有無 問わざれば、 是非無。 人類………かなぁ⁉️
仏教に説かれている本当の幸福とはどんなものか、20日間の無料メール講座で話しをしています。
peraichi.com/landing_pages/view/reiwamail
人に生まれたおかげで教えを頂けることを忘れていました。
人としてを喜ぶより恨んだほうが多かった、納得のいくお話をありがとうございます。
菊谷先生
私は菊谷先生の仏教のお話が大好きです。
心から元気を頂いております。
有難うございます💖
菊谷先生、今回も大切なお話と有り難い説法に心より深く感謝申し上げます。本当にありがとうございます。今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。三戸拝
無碍の一道(煩悩あるままの幸せ、煩悩がじゃまにならない幸せ)はすごい世界ですね。この世界に出れたらどんなにか幸せなことでしょう。そういえば日本の哲学者西田幾多郎は人間が本当の幸せになるためには、絶対矛盾的自己同一の存在であらねばならないと聞いたことがあります。私たちの苦しみ・悩みがそのまま相反する幸せに変わらなければ本当の幸せにはなれないということです。しかし、どうすればそんな身になれるかは西田自身もわかりませんでした。今日のお話を聞きながらふと思い出しました。
分かりやすくて、とても ありがたいです!😊🙏
良く分かりました
ありがとうございます
自分の欲に囚われるのではなく、
周りも同じような欲があると気がつくことですね。
自分の欲を追い求めるのではなく、
他人の欲を理解してあげる行為は
幸せになる要素だとは思います。
解説分かりやすく、聴聞できました。ありがとうございます。
とても、大変、すごく、勉強に、なりました。誠に、ありがとうございました。
ありがとうございます!
菊谷さんいつもありがとうございます。🙇感謝しています。南無阿弥陀仏🙏
今日も、ステキな解説を、ありがとうございます。🇲🇱🤱🇨🇳🤱
「煩悩具足」のままで「信心決定」出来ると言うことですね😂😂
自性なのでしょうか、無欲恬澹な感じな人を回りに結構見かけます。悟ってるという訳じゃ
ないし、怒ったりもするんでしょうが、一緒にいるだけでも穏やかな気持ちになります。
無碍の一道、無上の幸福。
これを生きながらに得ていくのがお釈迦様の教えであり、親鸞聖人が正しく伝え、菊谷さんが我々まで届けて下さいました。
ありがとうございます◎
本動画で私の頭も随分と整理されました。
個人が目指すビジョンはクッキリはっきりとしました。これを踏まえて、生きる上での問題のほとんどは社会の中における関係性であります。社会の中で生きる事をお釈迦様はどう説かれ、親鸞聖人はどう導いてくださっているのでしょうか。
またお教え頂けたら幸いです。
何のために生きてるのかが分からない。ずっとそんなです。
それは周りも同じだと思いますよ。
結局、わかってるようでわからない
それが生きるということだと思います。
敢えていうと
苦しんで生きるのが良いか
愉しんで生きるのが良いか
そういう選択肢だと思います。
梁塵秘抄の
「遊びをせんとや生まれけん」
というのはある意味核心をついた言葉だと思います。
何のために生きているのか?
それは、「幸せになるため」です。
不幸になるために生まれて来た人はいません。
自分の幸せばかりを、追い求めていると虚しくなります。
周りの人の幸せを願うと自分も幸せになれます。
自分だけが輝くのではなく、周りの人を輝かせて、その輝きで自分も照らしてもらって輝けば、誰も不幸になりません。
そのことに気付いた時、体中が震えるほど感動しました。
あくまでも私の感想ですが、参考になれば幸いです。🙂
th-cam.com/video/Rm7wiHbBdUQ/w-d-xo.html
信楽の身になることが人生の目的だと仏教では説かれています。
선생님
항상
감사드림니다
건강하세요~
太陽が出ている日中は曇天でも、確かに明るいと思います。しかし、雲が晴れた空は
より明るいです。雲(怒りと愚痴と貪欲という煩悩)を少しでも減らし雲を薄くして太陽
の光をより明るくする事が大事だと思っています。蓮の花が泥田でしかきれいな花を
咲かさないように、この世に生を受けるということは、煩悩という泥田があるから心(魂)
を磨くチャンスがあると私は思っています。
今日、妻と山歩きをしました。その山で、2匹のマムシと遭遇しました。彼らは、ただ、日向ぼっこしていただけです。
私は、蛇が苦手で目に入った瞬間恐怖を感じました。ただ、変な気分でした。彼らは彼等らしく生きているだけなのですから。
結局、彼も私を怖れたので藪の中に去っていました。お互い怖かったのです。お互いを傷つけずに別れました(蛇の事です)。
輪廻転生としてはお互い様だと思いました。しかし、やっぱり怖かったです。
ありがとうございます😊✨
煩悩を雲と霧に例えたお話、すごく分かりやすかったです。自分にとってまだまだ無碍の一道の世界は遠いと思いますが、今回のたとえ話が理解できたということは少しは近づくことができたのでしょうか。これからも聴聞を続けたいと思います。ありがとうございました。
今回もお疲れ様です。👨🍼👩🍼🤱
闇の心を客観的に捉えることができるようになる、ということでしょうか?
菊谷さんは意図的なのか一番重要な部分の解説が抜けてるように思います。
煩悩を無くそうとする努力はしなければならないと思います
その上で、諦めなければ救われるということだというのが蓮如さまのいうことだと思うのです
何でも救われるというのは、そこが違うのです
私はその煩悩のあるままで救われるという教えが、気に入りません。たとえ、本人はよくても社会の悪人が減らないからです。釈尊だけは煩悩具足の凡夫ではなかったという高森氏の説教を聞いたことがあります。私も聖徳で煩悩に克ちたいと思います❗諦めません。私は聖道自力の諸仏仏教に従いたい。自尊尊他しないと社会は善くならないからでもあります。社会を善くする、それこそ宗教だと言いたい。
いつも見よるけどようわからん
それでも見てらっしゃる貴方は素晴らしい!
「無碍の一道」というのは仏の悟りでいうところの何段階目あたりになるのでしょうか?
要するに、
「死が怖くなくなること
=絶対の幸福」
でしょうか?
’往生浄土間違いなし’とは死んだ後の話なのに何故それが平生業成なのか?
何度聞いても理解できないのです。
往生浄土間違いなし、と平生ただ今、はっきりするのです。
釈尊無常の教え 有無 問わざれば、 是非無。 人類………かなぁ⁉️