ขนาดวิดีโอ: 1280 X 720853 X 480640 X 360
แสดงแผงควบคุมโปรแกรมเล่น
เล่นอัตโนมัติ
เล่นใหม่
(新)古今和歌集には天皇のゴマすり歌が一杯で、君が代はその中の一つです。
竹田さん大好き😆💕お話ずっと聞いてられます
中学で習った朝鮮半島の主食は穀類、主にコーリャンだったのが、同時に米は朝鮮半島から伝わったという不思議。遣唐使・遣隋使が近い朝鮮半島を経由せず、直接海路で東支那海から大陸南部へ渡航していた不思議。なんでかなぁ?
岡山県、朝寝鼻貝塚でプラントオパールがみつかったのだから陸稲栽培やってたで良いと思うけど。神話でもスサノオに殺されたオオゲツヒメの目からも稲がもたらされているともあるわけだし。国譲りでタケミナカタが諏訪に稲作をもたらせたエピソードもある。諏訪は最後(東北よりあと)に稲作を受け入れたところ。竹田さんは神話に合わせたくてあくまでも天孫降臨で稲作がもたらされたことにしたいのだと思う。
今はまだ海を隔てて居られてるけどはるか未来にはまた大陸とくっつくらしいのがショック
TNFUNC2008 さん でも、頃には人類自体の存在が無いかも知れませんよ。
日本列島は南東方向に拡大しているらしいですね❤︎.* 大島から南の島々が繋がるっぽい❤︎.* 繋がる頃には生きてないけどI'm very excited.ワクワクしています。 日本列島は龍(龍の落とし子)からどんな形に変化するんでしょうね❤︎.*
稲作はスサノオが伝えたのかと思ってた。古史古伝には大陸から侵略者がやってきて九州連合を編成して撃退したという記録があるらしいがこれはカムイワレヒコ以降になるのかな?
倭国大乱はあったという事ですが・・・首の無い埋葬人骨やら環濠集落やら出土してます。
そうですね、昔読んだ本の中に出土骨のうち1割ほどが殺された人骨であった、ってのがあったように記憶します。戦国時代並みの争乱の時期があったのでしょう。弥生時代の後半かな? その辺の頃の竹田氏の授業が楽しみです。プラントオパールが1万年前頃からあったみたいなので、日本でも畑作が先行していたのではないでしょうか? 水田栽培よりどう考えても簡単だし、縄文期からクルミやドングリなどの栽培をしていたみたいですし。
中国古代に殷と夏があったという事ですが南米のインカ文明と関係ないですか?
ご先祖様、よくぞ日本にとどまった。
^^ ♥♥
弥生人「俺たちが教えたのに、教えられた側なっとって草」
沖縄ではリクトウ(陸稲)と呼んでます。
普通は水稲(すいとう)と対比してなので『りくとう』でいいと思います。今は一般には『りくとう』と読む方が標準かと。
私が入手した情報では、弥生時代の出雲地方に村ごと(女・子供を含め)皆殺しにされた遺跡が出土していると聞いています。この情報について、竹田先生は如何お考えでしょうか?
@@あんこ-l2q2y 鳥取・青谷上寺地遺跡に関する資料(現在、発掘調査中)『鳥取県埋蔵文化財センター(鳥取市)や国立科学博物館(東京都)などが連携し、鳥取市青谷町の青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡から出土した弥生時代後期(2世紀後半~3世紀)の人骨のDNAを分析する研究を始めた。』で検索すれば、現在の調査段階で発見された資料を見る事が出来ます。以上
@@あんこ-l2q2y 出雲地方ではありませんが、弥生時代の戦争遺跡として、神戸市の新方遺跡の墓地・奈良市の四分遺跡などがあります。参考までに「松木武彦『人はなぜ戦うのか--考古学からみた戦争』中公文庫」
@@あんこ-l2q2y 縄文時代にも殺戮はありました。「受傷人骨からみた縄文の争い 内野那奈」調べると色々資料が出てきます。もちろん弥生時代もです。
世界最強のモンゴルができなかった事を朝鮮ができたとは思えない。
半島経由の稲作は、ないです。
本来は亜熱帯の植物である稲が寒冷な満洲や朝鮮半島北部から南下して日本に伝わったというのは不自然なので、日本の稲作の起源が半島より古いというのは納得なのですが、それでは揚子江流域からどのように日本列島に伝わったのか興味があります。
人と共に文化も伝来する為、東シナ海を経て大陸から列島へ移住した人々が広めたと言う考え方が自然。
@本質家 石器時代の日本産の黒曜石の矢尻が極東ロシア・中国国内から、縄文土器が南アメリカのチリで、それぞれ発掘されているという話もあります。何万年も前から私達が思う以上に高域な海運航路があったのではないでしょうか?ほんの200年前の江戸時代でさえ堀が江戸中に整備され水運が盛んでした。
長江文明の中心とされる浙江省の河姆渡文化(7000~5500年前)から縄文土器が出ているのと、それを引き継ぐ馬橋文化(4000~2700年前)からも縄文土器が大量に出ていて、日本の縄文人と交易があったことが伺われます。日本最古の陸稲とみられるプラントパールは6000年前の岡山県から上記のほか朝寝鼻貝塚からも出てきますし、弥生時代が始まる3000年前に馬橋文化と北九州の日本最古の水田の菜畑遺跡が交易していて、現地で水田の様子を見て見様見真似で帰ってから水田をはじめた可能性も考えられます。交易は人が住んでいて物々交換が基本ですから、相手がそこそこいないとうまみがありません。4500年前の日本の人口は縄文時代最大の26万人いたとみられています。それ以前の半島にはまだ人口が少なく日本のように漆や翡翠などの貴重なものが少なく、日本としか交易が成立しなかったのではないかと推測します。また竹田学校の別の授業で無文土器が日本では4000年前、半島では3500年前に出ていることを説明していましたが、この無文土器は長江文明を担ったO1b2の江南人の文化で特に女性が移動したことを示しています。江南人は稲作と漁労(船が得意)文化ですので、それらが移動した結果とも符合すると思います。
キングダムや朱蒙、大王の夢いろんなアニメや大河ドラマを見たけど日本に生まれて良かったと思った…
(新)古今和歌集には天皇のゴマすり歌が一杯で、君が代はその中の一つです。
竹田さん大好き😆💕
お話ずっと聞いてられます
中学で習った朝鮮半島の主食は穀類、主にコーリャンだったのが、同時に米は朝鮮半島から伝わったという不思議。
遣唐使・遣隋使が近い朝鮮半島を経由せず、直接海路で東支那海から大陸南部へ渡航していた不思議。
なんでかなぁ?
岡山県、朝寝鼻貝塚でプラントオパールがみつかったのだから陸稲栽培やってたで良いと思うけど。神話でもスサノオに殺されたオオゲツヒメの目からも稲がもたらされているともあるわけだし。国譲りでタケミナカタが諏訪に稲作をもたらせたエピソードもある。諏訪は最後(東北よりあと)に稲作を受け入れたところ。竹田さんは神話に合わせたくてあくまでも天孫降臨で稲作がもたらされたことにしたいのだと思う。
今はまだ海を隔てて居られてるけどはるか未来にはまた大陸とくっつくらしいのがショック
TNFUNC2008 さん でも、頃には人類自体の存在が無いかも知れませんよ。
日本列島は南東方向に拡大しているらしいですね❤︎.*
大島から南の島々が繋がるっぽい❤︎.* 繋がる頃には生きてないけどI'm very excited.ワクワクしています。
日本列島は龍(龍の落とし子)からどんな形に変化するんでしょうね❤︎.*
稲作はスサノオが伝えたのかと思ってた。古史古伝には大陸から侵略者がやってきて九州連合を編成して撃退したという記録があるらしいがこれはカムイワレヒコ以降になるのかな?
倭国大乱はあったという事ですが・・・首の無い埋葬人骨やら環濠集落やら出土してます。
そうですね、昔読んだ本の中に出土骨のうち1割ほどが殺された人骨であった、ってのがあったように記憶します。戦国時代並みの争乱の時期があったのでしょう。弥生時代の後半かな? その辺の頃の竹田氏の授業が楽しみです。プラントオパールが1万年前頃からあったみたいなので、日本でも畑作が先行していたのではないでしょうか? 水田栽培よりどう考えても簡単だし、縄文期からクルミやドングリなどの栽培をしていたみたいですし。
中国古代に殷と夏があったという事ですが南米のインカ文明と
関係ないですか?
ご先祖様、よくぞ日本にとどまった。
^^ ♥♥
弥生人「俺たちが教えたのに、教えられた側なっとって草」
沖縄ではリクトウ(陸稲)と呼んでます。
普通は水稲(すいとう)と対比してなので『りくとう』でいいと思います。今は一般には『りくとう』と読む方が標準かと。
私が入手した情報では、弥生時代の出雲地方に村ごと(女・子供を含め)皆殺しにされた遺跡が出土していると聞いています。この情報について、竹田先生は如何お考えでしょうか?
@@あんこ-l2q2y
鳥取・青谷上寺地遺跡に関する資料(現在、発掘調査中)
『鳥取県埋蔵文化財センター(鳥取市)や国立科学博物館(東京都)などが連携し、鳥取市青谷町の青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡から出土した弥生時代後期(2世紀後半~3世紀)の人骨のDNAを分析する研究を始めた。』で検索すれば、現在の調査段階で発見された資料を見る事が出来ます。以上
@@あんこ-l2q2y
出雲地方ではありませんが、弥生時代の戦争遺跡として、神戸市の新方遺跡の墓地・奈良市の四分遺跡などがあります。
参考までに「松木武彦『人はなぜ戦うのか--考古学からみた戦争』中公文庫」
@@あんこ-l2q2y
縄文時代にも殺戮はありました。
「受傷人骨からみた縄文の争い 内野那奈」
調べると色々資料が出てきます。
もちろん弥生時代もです。
世界最強のモンゴルができなかった事を朝鮮ができたとは思えない。
半島経由の稲作は、ないです。
本来は亜熱帯の植物である稲が寒冷な満洲や朝鮮半島北部から南下して日本に伝わったというのは不自然なので、日本の稲作の起源が半島より古いというのは納得なのですが、それでは揚子江流域からどのように日本列島に伝わったのか興味があります。
人と共に文化も伝来する為、東シナ海を経て大陸から列島へ移住した人々が広めたと言う考え方が自然。
@本質家 石器時代の日本産の黒曜石の矢尻が極東ロシア・中国国内から、縄文土器が南アメリカのチリで、それぞれ発掘されているという話もあります。何万年も前から私達が思う以上に高域な海運航路があったのではないでしょうか?ほんの200年前の江戸時代でさえ堀が江戸中に整備され水運が盛んでした。
長江文明の中心とされる浙江省の河姆渡文化(7000~5500年前)から縄文土器が出ているのと、それを引き継ぐ馬橋文化(4000~2700年前)からも縄文土器が大量に出ていて、日本の縄文人と交易があったことが伺われます。
日本最古の陸稲とみられるプラントパールは6000年前の岡山県から上記のほか朝寝鼻貝塚からも出てきますし、弥生時代が始まる3000年前に馬橋文化と北九州の日本最古の水田の菜畑遺跡が交易していて、現地で水田の様子を見て見様見真似で帰ってから水田をはじめた可能性も考えられます。
交易は人が住んでいて物々交換が基本ですから、相手がそこそこいないとうまみがありません。4500年前の日本の人口は縄文時代最大の26万人いたとみられています。それ以前の半島にはまだ人口が少なく日本のように漆や翡翠などの貴重なものが少なく、日本としか交易が成立しなかったのではないかと推測します。
また竹田学校の別の授業で無文土器が日本では4000年前、半島では3500年前に出ていることを説明していましたが、この無文土器は長江文明を担ったO1b2の江南人の文化で特に女性が移動したことを示しています。江南人は稲作と漁労(船が得意)文化ですので、それらが移動した結果とも符合すると思います。
キングダムや朱蒙、大王の夢いろんなアニメや大河ドラマを見たけど日本に生まれて良かったと思った…